奏先輩の隣で、ユーフォを鳴らす。照明の下、滝先生の腕が振れるたびに、音の一つ一つが身体の奥に熱を生んでいく。
ゴールド金賞。全国大会進出。
客席に固まって座る部員たちが、抱き合い、手を握り合う。その輪郭はぼんやりと歪んでいた。
見慣れた天井。まだはっきりとしない頭の中で、枕元のアラームが鳴る。顔を洗い、着替え終わるころには、ようやく目が覚めていた。
いつも通り山を走り、ユーフォを鳴らし、家に戻って朝飯を食べる。休みの間と何も変わらない朝も、制服に袖を通し、ユーフォを背負えば、それは登校日の朝。
夏休みは、もう終わっていた。
少し高い坂の上。葉桜の影が落ちる階段を登った先にようやく見える校舎の手前で、見慣れた三つの背中が目に入る。黄前先輩と加藤先輩、川島先輩だ。
「おはようございまーす」
「「「おはよう」」ございます」
「今日からまたしばらく低音パートに顔を出すことになるので、よろしくお願いしますね」
「ん?ああ、文化祭のステージはユーフォで吹くんだっけ」
「おお、久しぶりだねぇ。鈍ってない?って言っても、まだ2週間くらいだっけ?」
「確かに、そういえば2週間くらいですね。なんか、もっと長かった気がします」
あっという間に過ぎた夏。まだ暑さの残る日々の中、少し涼しくなる放課後に、背中のケースを開く時間を心待ちにしていた。
「ま、色々あったしね。関西大会も挟んだし」
「「「「おはよーございまーす」」」」
黄前先輩たちと話していると、背後から声が聞こえてくる。それは低音パートで聞いてきた3つの声と、クラスでよく聞く1つの声。
「おおっ凄っ」
「わぁ全国バージョン!」
校舎の壁には2枚目の垂れ幕。
祝 吹奏楽部 全日本吹奏楽コンクール出場
薄れかけていた夢の一部が、そこに掛かっていた。
「かっこいいだろぅ」
「はい!あっみんな言ってましたよ!今年は全国金かもって!」
「ほっ、本当に凄かったです!特にペットとユーフォのソリは震えるほど良かったって他の先輩も言ってました」
確かにあのソリは良いものだった。誰が吹いたかを比べるつもりはない。それでも、3つの音の重なりは、練習を重ねた分だけ府大会の時より良くなっている。ただ…
自然と、黄前先輩の横顔に目が向く。その表情は穏やかで何を考えているかわからない。気にしていないのだろうか。だが、後ろはそうもいかない様で、義井の声が聞こえてきた。
「かっ、佳穂っ」
「えっ…あっ、すみません」
「あぁ、ううん。全然」
「私!全力で頑張ります!黄前部長に金とって終わって欲しいですし」
「サリーちゃん…頑張ろうね」
「はい!」
「ではまた」
「俺もそろそろ行きますね」
「また放課後〜」
こちらに手を振りながら返事をしてくれる川島先輩たちの前を通り過ぎ、行き先が同じ義井たちと並んで歩く。最初に口を開いたのは、やっぱり釜谷だった。
「真島君は先輩たちと何話してたの?ずっと黙ってたけど」
「ん、俺?今日からまたお世話になりますって」
「なんか、行ったり来たり大変そうだね」
「まぁ、サックスに関してはどんな譜面でもある程度は吹けるし、思ってる程大変じゃないよ。ユーフォの練習時間が短くなるのが寂しいくらい」
「そうなんだ。全国大会までユーフォの練習するの?」
針谷の問いは当然のもの。俺としてもそうしたいのはやまやまだが、関西大会が終わった次の練習の時には、もう滝先生からサックスで受けて欲しいと頼まれていた。
「いや、とりあえず文化祭はユーフォを吹くからその期間はって感じ」
「文化祭!もうすぐだよね!高校の文化祭ってどんな感じなんだろう」
文化祭という言葉に、前を歩いていた釜谷が勢いよく振り返る。それを見て微笑みながら、義井が話を継いだ。
「そういえば二年前だっけ?佳穂って北宇治の文化祭行ったことあったよね」
「へぇ、なんか意外。いつも4人一緒なんだと思ってた」
「それは、みんなで行こうって話してたのに予定が合わなかったから」
「そういえば、私その時熱が出たんだよね。それがなかったらお姉ちゃんの出し物見れたのに」
「そうなんだ。で?どうだったのその時の文化祭?」
全員の視線を受けた針谷が、胸の前で両手を握る。
「えっとね、すごい演奏だったよ!」
「それは知ってるよ」
笑いながら靴を履き替え、それぞれの教室へと分かれていく。義井と2人になった廊下でも、会話が途切れることはなかった。
文化祭。クラスの出し物とは別に行われる吹奏楽部の演奏は、A編成もB編成もなく、全員で吹く。その間、俺はユーフォに戻り、低音パートのパート練習に参加する。居残り練習に顔を出すのとは、わけが違う。
「はーい。じゃあ今からクラスの出し物を投票で決めていきまーす」
不意に聞こえてきた声で、ここが教室だったことを思い出す。黒板には、いくつかの候補が並んでいた。
執事喫茶。
王子様カフェ。
男女逆転カフェ。
幸人の部屋。
最後の一行だけ、読み間違いかと思って二度見して、俺は思わず隣の席の人物に声をかけていた。
「なあ、義井」
「どうしたの?真島君」
「執事喫茶と王子様カフェって何が違うんだ?」
「わからないよ」
「じゃあ男女逆転カフェって何?」
「なんか男装と女装をして接客するらしいよ」
「なるほどな。じゃあ、幸人の部屋って何?」
「真島君の写真を教室一面に飾るんだって。で、教室の真ん中にたまに真島君が座るらしいよ」
「…どこに需要あるの?それ」
「女子には少し需要があるんだって。関西大会の演奏とか顔がいいとかで、SNSでちょっとした話題らしいよ。で、男子は準備と当日が楽だって賛成意見があるみたい」
「あいつら…」
少し、という言葉に喜んでいいのか悔しがっていいのか分からないまま、黒板の最後の一行を睨む。このままでは、本当に選ばれかねない。
まともに参加する文化祭なんて、初めてみたいなものなのに、退屈な一日にする気はない。話が前に進む前に、考えが纏まるのを待たず手を挙げた。
「どうしたの真島君。何か他の案があるの?」
「えーっと…いや、執事喫茶、王子様カフェっていうのは、当日の男子の負担が大きくなりそうな気がするから、執事メイド喫茶と、王子様お姫様カフェに変えるべきだと思う。あと、幸人の部屋って言うのは、確かに準備が楽かもしれないけど、やる事が無さすぎてクラスの仲が良くなる機会がなくなって勿体無い気がするんだけど」
そこで一度言葉を切り、教室を見渡す。俺の言葉に興味の無さそうな男子達。狙い目はそこだった。
「逆に、ここで幸人の部屋以外の候補を選べば少しの忙しさと引き換えに、普段見ることのない格好の女子と、忙しくも楽しい青春を送る事が出来る。そうじゃないか!」
そう言いながら視線を巡らせると、それを追うように、男子たちが教室を見渡した。
「義井さんの、メイド!お姫様!男装!」
「いつもと違う空気で坂本さんとお近づきに…」
どこまで聞こえているか分からないほど小さな声が、近くの席から耳に届く。勝ったな。どうやら吹部の女子は、意外と人気があるらしい。
隣からは恨めしげな視線が向けられ、そのまま席に腰を下ろすと同時に、小さくも勢いのある声が飛んできた。
「ちょっと!期待されちゃったんだけど!私、全然無理だよ。恥ずかしいし」
「義井ならいけるって、大丈夫、大丈夫。それに俺たちは演奏だってあるから、クラスの方にはあまり参加しなくていいだろうし」
「それは良くないよ。ちゃんとしないと」
「じゃあメイドでも、お姫様でも、男装でも、ちゃんとしないといけないな」
「そうだけど、そうじゃなくって」
「じゃ、投票だから行ってくる」
「ちょっと!」
さて、俺は何に投票するか。最後はとりあえず論外として、他はどれも楽しめそうだ。この中なら、王子様は何すればいいかよくわからないし、女装はこのガタイだと全く似合わないだろう。それもまた面白いかもしれないが、執事ならとりあえず敬語を使えばいいだろうし、一旦無難か。
投票を終え、席へと戻ると少しして義井も戻ってくる。それを合図に箱から一枚ずつ紙が取り出され、チョークが黒板を叩く音が、一票ごとに教室に響く。俺の提案で書き換えられた趣味が丸出しな案たちに票は分散していったが、最終的には執事メイド喫茶が選ばれた。
ちなみに、どの案も得票数自体に大きな差はなく、幸人の部屋にもそこそこの票が入っている。選ばれていたら、全力で抗議していたところだ。
出し物が決まっても、放課後の準備に俺たちはほとんど顔を出せない。全国大会を決めた吹奏楽部が、文化祭で下手な演奏を聞かせるわけにはいかなかった。飾り付けもメニューも衣装も、クラスのみんなが放課後以外の時間を割り振ってくれた。そうして準備が進む中、俺に残された仕事は、当日の客寄せパンダくらいだ。
低音パートの練習教室は、普段黄前先輩たちが授業を受ける三年三組の教室。となると、その教室も文化祭の準備で使えず、久しぶりのパート練習も別の教室で行われる。でも、それは些細な問題だった。
「みっちゃん先輩、さっちゃん先輩、お疲れ様でーす」
「お疲れ」
「あっ幸人君、お疲れー!パート練習で会うのは久々だね」
「またよろしくお願いします」
「お疲れー」
「あっ、黒江先輩お疲れ様でーす」
挨拶をしながら席へ座る黒江先輩の周りに、みっちゃん先輩とさっちゃん先輩がスマホを手に集まっていく。
「真由先輩!見て下さいよこれ!」
「どれ?…これ、私のこと?」
「そうですよ!真由先輩と高坂先輩のことSNSで話題なんですよ!ほら、ここにも書き込みありますよ!あのペットとユーフォのソリ良かったもんって」
「私も見ました。一昨年の奇跡の演奏以上かもって」
「奇跡の演奏ってなんですか?」
「それはねぇ、あっ久美子先輩!」
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
「ほら、駄弁ってないで練習!」
俺の疑問に答えが返ってくる前に、扉の前には黄前先輩が立っていた。今の話が、聞こえていたのだろう。その隣から、加藤先輩の注意が飛んでくる。
朝と似た空気の中で、俺は加藤先輩の声に従い、黒江先輩の隣に座ってマウスピースに唇を当てることしかできなかった。
「じゃあ私たちも始めますか」
「久美子ちゃん…」
「ありがとね。真由ちゃんのお陰で全国行けた」
「本当に?」
「えっ?」
「本当にそう思ってる?」
「うん。もちろん」
その返事は、思いの外早かった。
どこか口を挟むのが憚られるその会話。近くに座っているのは俺1人で、確かにこの声量ならチューバ組には聞こえないだろう。だが、もしかして俺のことは忘れられているのだろうか。最近は顔を出していなかったが…まあどちらにせよ、その後誰も口を開かないままというのも居心地が悪い。
「あのー、俺も吹いてたんですけど。忘れてないですか?」
「えっ…ああ、うん。幸人君も良かったよ」
「そうだね。流石って感じの演奏だった。清良でも幸人君より上手い人いなかったし、北宇治の中で一番うまいんじゃない?」
「えっ、そこまで言ってもらえるんですか!嬉しいですね」
「実際上手いよね本当に」
「黄前先輩まで!ありがとうございます!」
「「「お疲れ様でーす」」」
一年生組が教室に入ってくると、軽く挨拶を交わし、自然とマウスピースに息を吹き込んでいく。空気はずいぶんマシになり、練習に集中するには充分だった。それにしても…
「針谷、上手くなったな。もうすっかり経験者って腕前じゃん。なんか置いてかれたな」
「そうかな?ありがとう。でも、真島君も、私より練習時間短いのに上手いよね」
「学校で吹いてる時間は、確かに針谷より短いかもな。でもほら、俺マイ楽器だから、朝も夜も吹いてるし」
「それって個人練習だよね。私はほら、いろんな人に教えてもらってるから。でも、いつでも練習出来るって、なんだか羨ましいな。私も、もっと上手くなりたい」
「大丈夫だよ。佳穂ちゃんはちゃんと上手くなってる」
「ママ先輩…」
「すみません。遅くなりました…ってなんですかこの空気?」
その姿を見た瞬間、俺は立ち上がっていた。
「奏先輩!お久しぶりです!」
「そんなに久しぶりでもないでしょ」
俺の言葉に軽く返事をしながら歩いてくる奏先輩が、隣に座る。ただ席が空いていただけだ。そこに意味はない。
そう自分に言い聞かせることすら。
「何言ってるんですか。最後に喋ったのだって、もう1週間くらい前じゃないですか」
「それは別に久しぶりとは言わないの。ほら練習」
「はーい」
奏先輩の隣で、ユーフォを鳴らす。照明も、客席もない、ありふれた教室で。
ふと、辺りを見渡していた。いつの間にか、川島先輩と求もコントラバスを構えている。二本の低音は、いつ加わったのか気付かないほど自然に混ざっていた。
全員が揃った教室。居残り練習に顔を出す時は既に帰っている人もいて、こうして揃っているのを見るのは本当に久々だ。
俺がいなかったということは、このメンバーが全員揃っていなかったということ。みんなはそれを寂しく思っていたのだろうか。それとも…
いや、そんなことを考えても仕方がないか。
少なくともあの人が寂しがってる姿は想像できない。
それは、少し寂しかった。
今回ちらっと名前の出た坂本さんは、新一年生組の中で個人的に針谷佳穂の次に可愛いと思ってるトランペットの坂本るかです。その為、同じクラスという設定の高橋雪深も同じクラスですが、今後登場するかは私にも分かりません。