夏の名残を思わせる快晴の下、北宇治高校の外壁には色とりどりの垂れ幕が掛かり、校舎の中も廊下の端までポスターで彩られていた。
文化祭当日。吹奏楽部のステージを迎えた体育館は、並べられた席がすべて人で埋まっている。
秀一先輩の指揮に合わせて、軽快なリズムが走り出す。俺たちユーフォを含むいくつかの楽器が一斉にベルを掲げ、その周りでは他のパートの人たちが、軽いスイングやメリハリの効いたステップを刻んでいく。ベルの陰から覗く客席では、リズムに合わせて小さく体を揺らす人や、隣と顔を見合わせて笑う人の姿が、そこかしこに見える。
演奏が終わると、俺たちの前に立つ秀一先輩は客席へ向き直り、マイクを手に話し始めた。
「楽しい時間だったのですが、ついに最後の曲となってしまいました。次の曲を紹介する前に、皆さんに報告があります。今年度、北宇治高校吹奏楽部は無事全国大会出場を決めました。それもこれも、皆さんの応援のおかげです。ありがとうございました」
「「「「ありがとうございました!」」」」
秀一先輩に合わせて頭を下げると、会場のあちこちから祝福と激励の声が飛んでくる。演奏への拍手なら何度も浴びてきたが、結果を喜ぶ声をこれほど大勢から、目の前で受け取ることは、これまでほとんどなかった。
そんなことを考えていると、曲の紹介を終えた秀一先輩が俺たちの方に向き直り、手を掲げた。
奏先輩の隣に並び、五人でユーフォを吹いていると、自然と笑みがこぼれてしまう。ちらりと横を窺えば、どうやらみんなも同じらしい。
その列から黄前先輩が離れて最前列のさらに前へ進むと、その隣に、違う楽器を構えた三人が並んだ。最初に鳴ったのは、高橋先輩のフルート。関西の舞台で自由曲を一人で締めくくったあの音が、体育館の隅々まで澄んで届き、そこへ、初めて会った頃とは見違えるほど伸びやかになった牧先輩のサックスが重なっていく。
二人の旋律に乗って、黄前先輩と高坂先輩が音を重ねる。並んだ背中からは笑顔まで見えるようで、弾む音がそのまま客席へと広がっていく。
揃って頭を下げる四人を見ながら、再び楽器に息を吹き込む。全員の音が一つに戻っていく中で、ずっとこうできたらいいのに、なんて幻想を抱きながら、秀一先輩の手が下りるのを見届けた。
耳の奥に残る余韻に浸り、どこかふわふわとした心地のまま、俺は中庭へと向かっていた。
「はーい、じゃあ片付けの後は解散になります!重い楽器は男子の手を借りて運んでください!えっと、あとは…」
黄前先輩が隣に立つ高坂先輩の顔をちらりと窺うと、部員の集団の中から声が上がる。
「部長ー!ドラムメジャー!カッコ良かったぞー!」
ちかお先輩の大きな声が、中庭中に響き渡り、それに続くように思い思いの言葉や笑い声が広がる。ちかお先輩の隣に立っている牧先輩は笑みを浮かべながら自分の顔を指していた。そりゃそうだ。牧先輩だってソリを吹いていたし高橋先輩もそう。ちかお先輩は彼女がいると聞いたことがあるが、あれで上手くやっているのだろうか。
いや、少なくとも俺よりは上手くやっているのだろう。関西大会前からは考えられない空気の中で、撤収作業は早々に片付いた。
義井と共にクラスに帰ると、席はちらほらと埋まっている。文化祭としてはまずまずの客入りだと思う。
「おつかれー。演奏良かったって評判だよ。幸人君目当ての子なんて、もう来てるし」
「マジで!早っ!じゃあ早速着替えてくるわ」
「よろしくねー」
クラスメイトに見送られて更衣室へ行くと、同じ時間に担当する奴が着替え始めていた。
「おつかれ。良かったよ演奏」
「あんがと」
前置きのような褒め言葉に生返事を返しながら制服のボタンを外していると、躊躇うような声が聞こえてきた。
「あのさ幸人」
「何?」
「幸人って義井さんと付き合ってるの?」
そんなことを聞かれるとは思わなかった。そういえば、こいつは出し物を決める時にも、義井がどうとか言っていた気がする。
「いや、付き合ってないけど。なんでそうなった?」
「だって、義井さんとよく話してるし、さっきも一緒に帰ってきてただろ。ちょっと違う空気だなとは思ってたけど、気になって」
違う空気…か。俺と義井の空気が付き合っているものでないのは当然だ。だが、付き合っている二人の空気というのは、一体どんなものなのだろう。
「義井のこと、好きなんだ?」
「まあな」
「付き合いたいの?」
「そりゃそうだろ」
「なんで付き合いたいの?」
「なんでって、そりゃあ好きだからだろ」
どうして、そんな当たり前のことみたいに言えるのか、よくわからなかった。
「なんというか、付き合うってさ……結婚…とかさ、そういうの色々あるじゃん。何でその人と付き合いたいのかとか、将来のビジョンとか、そういうのってないの?」
「は?…なんか硬くね?うーん…まあ確かにそっちの方がいいんだろうし、これから歳取ったらそうなるかもしれないけど、俺らまだ高校生だぜ。もっとこう、あの人が可愛い!とか、一緒にどこか行きたい!とか、もっと単純に一緒にいて楽しい!とか、そんな感じでいいんじゃないの?その先なんて、上手くいってから考えればいいじゃん」
それでいいのか、と引っかかってしまうこと自体が、もう硬いのかもしれない。でも、そんなに柔らかく考えるのが普通のことなのかも、俺にはわからない。
「じゃ、俺先行くから。義井さんのこと、誰にもいうなよ!」
「わかってるって」
返事に満足したのか、そいつは笑いながら出ていく。家の奥から引っ張り出してきたタキシードに袖を通すあいだも、まとまらない考えが頭の中を転がり続けた。
教室に戻ると、小さな黄色い声が耳に届く。近くを通るたびに手が挙がり、注文を取って離れれば、背中越しにまた囁くような歓声が上がる。悪くない気分に浸っているうちに、時間はあっという間に過ぎていき、気づけばもう休憩の時間。
校内を歩きながらパンフレットを見ると、奏先輩のクラスはどうやら占いをやっているらしい。
「あの、すみません。奏先輩いますか」
「占い師の指名はできません」
「あっ、すみません」
受付の人のきっぱりとした物言いにたじろいでいると、教室の扉が開き、制服の上に帽子とマントをつけた人物がひょっこりと顔を覗かせた。
「あれ〜真島君じゃ〜ん。奏ならいないよ〜」
「剣崎先輩、お疲れ様です。どこ行ったかわかりますか?」
「聞いてないけど、まあ久美子先輩のとこだろうね〜。それよりも、似合ってるね〜その衣装」
「ありがとうございます。実はこれ自前なんで、そういってもらえると嬉しいです」
「へ〜そうなんだ〜。なんで自前なの?」
「女子のメイド服は倉庫にあったらしいんですけど、男子の分はそれっぽいのがなくて。コンクールの時に着てたタキシードを何着か引っ張り出してきたんです。とはいっても女子のメイド服が不思議の国アリスみたいな感じなんで、あんまり世界観合ってないですけどね」
教室の入り口で話していると、俺のことを少し邪魔に思ったのか、受付の人が口を開いた。
「梨々花、中入ってもらったら?」
「それもそうだね。真島君、かも〜ん」
「ちょ、剣崎先輩!俺占いは別に」
「まあまあ、いいからいいから」
教室の中は雰囲気を出すためか少し薄暗く、カーテンでいくつかの小さな区画に仕切られている。
その中の一つに連れて行かれ、大人しく椅子に座ると、正面の席に剣崎先輩がついた。
「…で、本当にやるんですか、占い」
「占いくらい楽しめないと、女の子にモテないよ〜」
別にモテる必要はないのだが、奏先輩も占いが好きなのだろうか。まあ、参考にするかどうかはこっち次第だから、聞くだけならいいか。
「じゃあまあ、とりあえず占って貰うとして、剣崎先輩って占いできるんですか?」
「できないよ〜。私がっていうより、誰もできないから本見てそれっぽいこと言ってるだけ」
…それでいいのかこのクラスは。
「当てにならないじゃないですか」
「そもそも当てにしてないくせに〜。水晶とタロットどっちがいい?手相もあるけど」
「じゃあ、タロットで」
「おっけ〜。じゃあシャッフルするから好きなところでストップって言ってね〜」
テーブルの上で上下バラバラに混ぜられたカードを剣崎先輩がシャッフルしていく。適当なところで止めて出たカードは愚者の正位置。それを見た剣崎先輩は、本をペラペラとめくっていた。
「えっとね〜…ふ〜ん、おおっ、凄っ」
「剣崎先輩。1人で楽しんでないで俺にも教えてもらっていいですか?」
「ごめんごめん。正位置の愚者はね〜新しい始まり、冒険、自発性、純真だって。なんか真島君っぽい気がするね〜」
「そうですかね?というより結局どんな結果なんですか?」
「ん〜そうだね〜…勇気を持って一歩前進すればいいことがあるでしょう。かな?」
「本当にそれっぽいだけじゃないですか」
「書いてあるのがそんな感じだし、仕方ないね〜」
タロットならもう少し占いらしい答えが出るかと思っていたんだが。でもまあ、勇気か。それっぽい言葉の中では、背中を押してくれる良いカードを引いた気がする。
「まあ、参考にしてみます。ありがとうございました」
「頑張ってね〜」
剣崎先輩に見送られて校内を歩いていくと、普段は低音パートの練習に使っている三年三組の教室を、奏先輩が入口から覗き込んでいた。
「奏先輩。入らないんですか?」
俺の声に奏先輩の肩がびくりと跳ね、ゆっくりとこちらへ振り返る。
「なんだ真島君か、驚かさないでよ」
「すみません…って言うかなんですかその格好」
「何かおかしなとこでもある?」
腕を上げながら背中を見ようとする奏先輩の格好は、剣崎先輩と同じもの。制服の上にマントと帽子をつけただけの衣装。それなのに――
「めっちゃ可愛くないですか!なんでそんな簡単な衣装でそんなに可愛いんですか!マントと帽子だけですよね!あとは普通の制服ですよね!」
「なんでこれでいつもより反応大きいの…」
奏先輩の姿を目に焼き付けようとその周りをぐるりと回っていると、新たな声が聞こえてきた。
「何やってるの?」
「奏先輩をみてた。求はカレー売り?」
「まあね。緑先輩、素敵だな」
制服にエプロンだけをかけカレーの移動販売をしている求が、奏先輩の隣で教室を覗き込む。
「おっ、かなぴーと求君じゃん!後ろにいるのは幸人君か、その衣装似合ってて一瞬誰かわかんなかったや」
加藤先輩のその言葉に真っ先に反応したのは求だった。少し躊躇う奏先輩と違い、さも当然といった様子で入っていく。
昭和カフェという看板だけではどんな雰囲気かわからなかったが、スケバンみたいな衣装だったり、昔の雑誌に載っていそうな服装を見ていると、なるほどと思わされる。
「緑先輩!カレー持ってきました!」
「売りに来たの間違いでしょ」
「あっ、その衣装!あすか先輩が着てたやつ。懐かしいですね!」
奏先輩の衣装に川島先輩と加藤先輩が盛り上がる中、黄前先輩だけは、優しげな目をこちらに向けていた。
「奏ちゃん、一緒に撮ろ?ほら幸人君も」
「ですって。行きましょうよ奏先輩」
「あっ、うん」
カシャ、とシャッターが落ちる。並んで写った奏先輩の笑みは、最後までどこかぎこちない。その理由は、俺には分からなかった。
教室に戻って淡々と仕事をこなし、制服に着替えた後は、当てもなく校内をうろつく。本当は少しでも一緒に回れたらと思っていたのに、結局一歩も踏み出せないまま、時間だけが過ぎていた。これでは、あのそれっぽい占いが当たっているみたいだ。
俺の耳に聴き慣れない音が届いたのは、そんな時だった。いや、違う。聴き慣れてはいる。ただ、いつもは丸いはずのその音に、今日は角が立っている。
音を辿って楽器室を覗くと、やっぱり奏先輩がいた。黙って椅子に座る剣崎先輩を前に、奏先輩は何も言わず、ひたすら楽器に息を吹き込む。出だしが鋭く、息の流れまで張り詰めたその音に耳を傾けるうちに、俺はいつしか、壁を背に座り込んでいた。
中に入ろうなんてつもりはない。今ここに踏み込んでいくのは勇気とは別物、そんな気がする。
廊下の向こうからは文化祭のざわめきが途切れずに聞こえていたが、壁一枚隔てただけのこの部屋で同じ数小節が何度も、何度も繰り返されるうちに、その賑わいの方が、少しずつ遠くなっていく。
フレーズの切れ目が来るたび、俺の胸も、同じところで小さく膨らむ。その音が止み、いつの間にか閉じていた瞼を開くと、窓の外の景色は、さっきとは少し違う色を帯びていた。
俺が慌てて立ち上がったのと、二人が中から出てきたのは、ほとんど同時だった。
「真島君…聴いてたの?」
「あっ、はい。すみません」
「別に謝る必要はないけど」
「奏、先に教室戻ってるね」
「ちょっと梨々花?」
振り返ることなく去っていく剣崎先輩にため息をつきながら、奏先輩が俺の方へ振り向いた。
「梨々花があんな露骨に気を遣ってきたことなんて今までなかったけど、何かあったの?」
「えっ、いや…何も…」
心当たりは、ある。
勇気を持って一歩前進すればいいことがあるでしょう。
剣崎先輩の背中は、俺の背を押しているように見えた。
「あの、奏先輩」
「何?」
「今日、一緒に帰りませんか?」
「いいけど、急にどうしたの?梨々花に唆された?」
それは違う。それだけは、はっきりと言えた。
「違います。そうじゃなくって…俺が、奏先輩と一緒にいたかったんです」
「…そうなんだ。じゃあ、帰る時にまた連絡するから」
奏先輩の背中を見送っているうちに、今さらになって鼓動が速くなる。どれくらいそうして立ち尽くしていたのかも分からないまま、ふとクラスの集合時間を思い出し、俺は慌てて教室へと走り出した。
クラスの片付けが終わり奏先輩から連絡が来る頃には日はすっかり傾いていて、二人で並んで歩く道も街灯で照らされている。どうやら、帰る方向は同じらしい。
これからまた一か月近く、別々のパートで練習する日々が続く。今こうして一緒にいられる時間を惜しむように、今日のステージのこと、写真のこと、カレーを売り歩いていた求のこと、大したことのない話ばかりが次から次へと口をついて出ていく。奏先輩は時々短く相槌を打つだけで、それでも、俺たちの距離は変わらなかった。
ふと見上げた先では、まだ早い時間だというのに、大きな満月が明るく輝いている。
「奏先輩見て下さいよあれ。月が綺麗ですよ」
「…え?」
「あれが中秋の名月ってやつですかね」
「はあ…それ、意味わかって言ってる?」
「…?この時期に見える大きな満月のことじゃないんですか?」
「…でしょうね」
「何がですか?ねぇ、ちょっと。奏先輩!」
月を見ていた目を奏先輩の方へ移すと、ため息をつきながら俯いていた奏先輩は顔を上げ、俺を置いて歩いていく。
満月の光の下で、ちらりと覗いたその頬は、少し赤く見えた。
原作では演奏が一番最初だったこともあり、文化祭の時系列を劇場版から所々、変えさせてもらいました。
梨々花に関しては、奏と同じクラスという明確な描写はなかったと思いますが、一緒のクラスでも違和感がなかったので一緒のクラスという事にさせてもらいました。あと、奏の衣装的にあすかと同じ占いをやっているでしょう、願望ですが。
ちなみに、この話でちらっとだけ触れましたが、幸人のクラスのメイド服は久美子達が一年生の時の文化祭で着ていた衣装という設定にしてみました。まあ、個人的にあの衣装の見た目はアリスっぽすぎてメイドとは感じませんが、アニメ版では看板にメイド喫茶と書いてあったのでそうなのでしょう。