校舎の外壁から吹奏楽部のもの以外の垂れ幕が降ろされ、文化祭の賑わいが余韻だけを残して引いていくと、また厳しい練習が幕を開けた。
でも、そんな中でもめでたいものはめでたい。例えばそう――
「緑ちゃん」「緑」「川島さん」
「「「合格おめでとう‼︎」」」
「ありがとうございます!」
「いいなぁ、推薦かぁ。私なんて全国大会終わったらすぐ受験モードだよ」
「それ言ったら進路もまだ決まってないよぉ」
口をつけたドリンクを机に置き、項垂れる葉月ちゃんに手を合わせると、仲間扱いされたくなかったのか、大きくのけぞられる。別に、勉強を全くしていないというわけではないし、志望校の候補くらいはある。ただ、将来と言われるとまだぼんやりとしか見えなかった。
「そうなんですか?」
「だって…」
それ以上は言葉にならない。私にだってわかってはいるのだ。このままじゃダメだって。
「れ、麗奈ちゃんはアメリカでしたっけ?」
「えっ!アメリカぁ!」
「留学ってこと?」
向かいに座る葉月ちゃんも、目を丸くしている。それはそうだろう。ずっと一緒にいた麗奈が、卒業したら海外へ行くかもしれないなんて。あがた祭の時、麗奈が私に音楽という繋がりを求めたのは、そのせいだったのだろうか。ずっと隣にいたつもりだった。今だって、手を伸ばせば届く場所に座っているのに。
「まさか…言ってなかったんですか?」
「いや、まだ決まったわけじゃなくて…ってどこで聞いたの?」
「職員室で先生たちが話していたのが聞こえて…ごめんなさい」
「いや、いいけど」
「外国って一人で?不安じゃない?」
「緑は知らない場所に踏み出すのは楽しみですけど」
「おおっ、前向き」
「緑は思うんです。今の毎日は種蒔きみたいなもので、まだ知らない未来の楽しみを、いっぱい色んなところに埋めているようなものなんじゃないかって」
種蒔きか。私が今こうやって悩んで、ずっと足踏みしているこの時間も、意味があるのだろうか。四等分にした大きなピザと共にその思いを飲み込んだ。
至って普通の女子高生の私には、それだけでもうお腹いっぱいで、その満腹感を抱えたまま、麗奈と並んで帰りの電車に揺られていく。名前を呼ばれて隣を見ると、麗奈は俯いたまま口を開いた。
「決まったら、最初に言うつもりだった」
「ふーん。別にいいけど」
「それより久美子でしょ。本当にどうするつもりなの」
「え、別にいいよ話逸らさなくても」
「逸らしてない。もう9月だし、行ってみない?」
私の目の前に差し出された麗奈のスマホの画面には、鎧塚先輩が進学した音大のホームページが映っていた。
一番大きな文字で定期演奏会と書かれたそのページの日程には、全国大会に向けたオーディションの2週間前、つまり最後の全休日の日付が記されている。でも…
「来週あるって。先輩方もくるらしい」
「いいよ…行くだけなら」
「やっぱり音大は嫌なの?」
嫌、と言うわけではない…と思う。ただ、私がこれから先何をしているのか、何をしたいのか、何を目標とするのか、自分のことなのに何もわからない。その考えは言葉にさえならず、麗奈の問いに、私は返事をすることもできなかった。
揺れる車内で、つり革の軋む音だけが、やけに耳に残る。改札を出て階段を下り切ったところで、それまで何も言わずにいてくれた麗奈から不意に声がかかる。
「久美子。今更だけど、部長失格は言い過ぎた。それと、部長として何もしないのかって突き放した自分が恥ずかしくなった。ごめん」
「そうだよ〜部長だって頑張ってるんだから」
「うん…知ってる」
「でも今の私があるのは麗奈のその我儘のおかげだから」
あの時、麗奈から突き放されなかったらどうなっていただろう。ただ久美子は頑張ってるねと寄り添われて、そんな一時の安心感に酔いしれて。何も変わらず、何も変えられず。
最悪の想像かもしれない。なんだかんだ上手く行っていたのかもしれない。でも、もしそうなっていたらと考えると、それは少し恐ろしい。
そうはならない麗奈に感謝の気持ちを込めて、私は両腕を広げた。
「だーい好きのハグ!」
「はぁ?」
麗奈が驚くのも無理はない。大好きのハグは元々南中出身メンバーの間で行われていたもので、北中出身の私たちは見たことしかなかった。でも、相手の好きなところを言いながらハグをするというのは仲直りにはちょうどいい。
実際にやってみると、麗奈の好きなところはいくらでもあるのに、一つも言葉にならない。腕の中で一瞬だけ強張った麗奈の肩が、ゆっくりとほどけ、やがて私の背中にも腕が回る。それだけで、充分な気がした。
けれど、晴れたのは麗奈との間の空だけだった。次の日、私はそれを思い知らされる。
「私…やっぱり、ソリ辞退するね」
校舎の外。背中に階段、左側を廊下の壁に囲まれた、日差しが当たりにくい少し涼しい場所。それでも、周りの音に悩まされるし、雨が降れば使えない。そんな、一年生の頃から使っている人通りの少ない個人練習場所に、真由ちゃんが来るのも久々な気がする。
「どうして?」
「ずっと言ってるよ。その方が部にとっていいから」
「真由ちゃんがソリストに選ばれたのは、真由ちゃんが努力してきた証だよ。それを簡単に手放していいの?」
「いいよ。全然」
私の言葉は、真由ちゃんには届いていないようだった。何故そんなに簡単に手放せると言うのか、私にはわからなかった。
校舎のどこかから、トランペットの音が降ってくる。何度も隣で聴いてきた、聞き間違えようのない音。
上手くなりたい。そう思ってずっと吹いてきた。麗奈みたいに悔し涙を流せるくらいまで打ち込んでみよう。そう思って吹いてきた。麗奈は、今でも少しも変わらずあの時のままだ。何ひとつブレることなく真っ直ぐなあの時のままだ。そこに、並びたかったのに。真由ちゃんは、並んでいるのに。
「私は、誰かが嫌な思いをしたり、辛い目に遭ったりするのが嫌なんだよ」
「だから!私は嫌な思いなんか」
「久美子ちゃんの為にそうしたいの!」
「何度も言ってるでしょ。私は」
「最後に高坂さんと一緒にソリを吹きたい。それが久美子ちゃんの本心でしょ」
「私の本心は公平にオーディションで競い合いたい。それが正しいと思って三年間頑張ってきたから」
「それは本心じゃないよ…本心じゃない」
胸の前で片腕を抱いていた真由ちゃんが、その腕を解いて背を向ける直前、その表情がほんの一瞬だけ揺れた。けれど、背中越しに届いた声はひどく冷たくて、その二つが、どうにも噛み合わない気がする。
「無視した方がいいですよ」
建て付けの悪い窓を自然に開けながら片腕をつく奏ちゃんがそこにいた。
「はぁ…盗み聞きは良くないよ。奏ちゃん」
「相手にしていたらパンクしちゃいますよ。黒江先輩は久美子先輩を侮辱しています」
「えっ?」
「わからないんですか!」
「言い過ぎだよ」
「そんなことありません!」
「聞いてたんでしょ、真由ちゃんは悩んでるんだよ。自分でいいのか」
「本当にそう思ってるんですか」
「うん。気持ちはわかるし」
大きなため息をついた奏ちゃんには、私の言葉がよほど暢気に聞こえたのだろう。続く声には、一言ごとに怒気が混じっていく。
「じゃあ聞きますけど、同じ状況だったら久美子先輩は本人に相談しますか?わざわざ、何度も、何度も、同じ相手に言いにきますか!本当に辞退するつもりならそもそも話になんてきたりしませんよ!…私が…そうだったように」
「奏ちゃん」
苦虫を噛み潰したようなその表情を見れば、去年のことを思い出しているのだと分かる。夏紀先輩より上手くて、だからこそオーディションで手を抜こうとした、過去の自分のことを。
「黒江先輩はわざと言いにきてるんです。久美子先輩に辞退してほしい、ソリを譲ってほしい、そう言わせる為に」
背筋が冷たくなるのを感じた。何処かで見て見ぬふりをしていたかもしれない。だからなのだろうか、ちゃんと見ろとでも言うかのように真由ちゃんの言葉が脳裏をよぎった。
久美子ちゃんは嫌じゃない?私やるならユーフォがいいんだけど。
みんなと楽しく演奏したいから。
みんなで吹ければいいって思ってるんだよ。
…私の我儘…真由ちゃんの我儘。
ああ、そうか…
「きっと、真由ちゃんも悩んでるんだよ。自分のやりたいことと、周りの意見が違って、それでも自分のやりたいことが間違ってるとも思えなくて。だから、そんな穿った見方しないであげて…なんて、私が言えることじゃないよね」
きっと奏ちゃんも、私のことがなければ、ここまで真由ちゃんを警戒することはなかったのかもしれない。二人が仲良くやれたかはわからないけど、少なくとも、自分より上手い真由ちゃんと奏ちゃんがぶつかる理由は、私という火種のほかにはないはずだ。
「ありがとね。奏ちゃん」
「別に、久美子先輩のためだけじゃないです。私だって全国では久美子先輩と吹いてみせますから」
少し頬を赤らめながらそっぽを向いた奏ちゃんは、そのまま歩いて去っていく。きっと練習に向かうのだろう。自分の言葉を現実のものにするために。
私だって、負けたくない。
息を吸うたびに耳の奥で交互に鳴る、真由ちゃんの声と奏ちゃんの声を意識の外に追いやりながら吹いていると、気付けば辺りは暗くなり始めていた。いつものように戸締りをし、滝先生に鍵を返す。普段なら一緒に鍵を返す麗奈も、レッスンの日は流石に先に帰っている。
靴を履き替えて校舎を出ると、少し先に大きな背中が見えた。
「おつかれー。幸人君も遅くまで練習してたみたいだね」
「黄前先輩、お疲れ様です。家でも練習できるとは言ってもやっぱりわからないところを聞ける人がいるのは貴重なんで」
「そうだね。私のところにも聞きにきていいんだよ」
「いやいや、流石に個人練を邪魔する気はないですよ。今日だって低音の教室で吹いてたらたまたま黒江先輩が戻ってきて、それで聞いてただけですし」
「そうなんだ」
「それにしても黄前先輩、こんな時間でも一人で帰ってるんですか?最近は日も短くなってきてますし、秀一先輩と一緒の方がいいんじゃないですか。同じマンションなんですよね?」
…幸人君が秀一とのことをからかってくるのはたまにあるけど、今回は純粋に心配しているようにも聞こえて、反応に困る。でも、私の方が普段から色んな人に言われている分、少しくらい反撃してもいいだろう。
「私は別に大丈夫だよ。大体、幸人君はどうなの?奏ちゃんとのこと」
「急ですね。……まあ、なんというか。少しずつ見えてきた気はします。自分がどうしたいのか」
街灯に照らされた幸人君の顔は、どこか大人びて見えた。自分のことをまだ決められず、フラフラしている私には、それがひどく眩しく映る。
「幸人君はすごいね。ちゃんと前に進んでて、将来やりたいこともはっきりしてる」
「?多分黄前先輩が言ってる将来やりたいことって職業的な意味ですよね?それなら全然決まってないですよ」
「そうなの?」
「はい。なんというか、今もちょっとした稼ぎがあるせいか、あまり心配してないというか。音楽をやってる限り、食うには困らないだろうな、みたいな?だから、本当になりたい自分がはっきりしてるだけで、俺も結構フラフラしてますよ」
本当になりたい自分。何気なく付け足されたその言葉に、少しだけ歩みが遅くなる。
「黄前先輩にはないんですか?これなら誰にも負けないとか、どんな人になりたいとか、あの人に憧れているとか」
答えは、すぐには出てこなかった。ふと振り返って見た校舎は、もうほとんどの窓が暗くて、さっき鍵を返したばかりの職員室だけが、まだ明るく灯っていた。