部活を終えて家に帰ると、店の窓にはまだ明かりが灯っていた。Blue Lanternの閉店は20時。仕事帰りに一息つきに来る人や、近所に一人で暮らす常連さんが、この時間によく残っている。
ドアを開けると、低く流れるレコードのベースに、聞き慣れた笑い声が混ざっていた。それは、カウンターでカップを片手にマスターと話す目当ての人物のもの。
「ただいま」
「幸ちゃんおかえり」
「本間のじいちゃん。いらっしゃいませ」
「ああ今日も楽しませてもらってるよ。ところで、最近楽器の調子はどうだい。あんまりメンテナンスに持って来てないけど調子が悪くなったりしてないかい?」
「はい。特に大きな異常はないです。本間のじいちゃんに教えてもらった調整で何とかなってます。後はまぁ最近コンクールとか出てないんでちょっとサボっちゃってました」
「わしが教えた通りにやってるんなら大丈夫だろうけど、たまにはちゃんと持っておいで」
「そうですね。今度またお邪魔させてもらいます。話は変わるんですけど、ちょっと相談がありまして、いま時間ありますか?」
「いいよ。どうしたんだい?」
「本間のじいちゃんの店って今ユーフォ置いてますか?高校吹奏楽で使う60万位の値段感のやつなんですけど」
「もちろん置いてるよ。ただ幸ちゃんはあれだろ、ケースは前と同じでしっかりしてるやつがいいんだろ?」
俺が毎朝楽器を背負って走れているのは、この人が取り寄せてくれたケースのおかげだ。あのケースがなければ、とっくに楽器の方が傷だらけになっていただろう。
「そうですね」
「ケースは取り寄せないといけないから、ちょっと待ってもらうことになるよ。お古のケースで良かったら貸してあげるから今から来るかい?」
「いいんですか?営業時間は終了してるんじゃ」
「いいんだよ。すぐに使いたいんだろ」
「ありがとうございます」
まさか今日手に入るなんて思ってもいなかったが、そうと分かった途端、明日の練習が急に待ち遠しくなる。本来ならもっと時間をかけて選ぶべきものなのかもしれないけれど、本間のじいちゃんの店に並ぶ楽器なら間違いはないだろう。
「そういえば幸ちゃん、バイクに興味ないかい?」
「バイク?急にどうしたんですか」
「いやぁわしももう歳だから免許を返納しようと思ってるんだけどさ、うちの子達はバイクに興味を示さんし、わざわざ取りに来ても割に合わんだとか、金のことしか見とらん。だから幸ちゃんが興味があるなら譲ろうかと思ってなぁ」
そう言いながら、じいちゃんは冷めかけたカップを両手で包み直した。
バイクか。
本間のじいちゃんが跨っている姿なら何度も見てきた。あのバイクに俺が乗るのか?…それは少し面白そうだ。
基本的には部活優先だが、たまの休みに自動車学校に通うのもいいかもしれない。今まで趣味らしい趣味が無かったからこそ、何でもやってみたかった。とはいえ、人が大事にしていた物を頂くというのは気が引ける。
「興味はありますけど流石にあんなに大事にしていた物頂けませんよ」
「いいんだよ。ここに置いてくれるならいつだって見にこれるし、幸ちゃんなら大切に乗ってくれるだろ?」
「それはもちろんそうしますけど、でも免許だって持ってないですし」
「本当にそのつもりがあるならもちろん免許取った後でいいよ。その時まではわしがピカピカに磨いておいてあげるから」
「そこまで言って頂けるなら、遠慮なく受け取らせて貰います。絶対に大事にしますから」
「ゆっくりでいいからね。ユーフォの練習だってしないとだろ」
「そうですね。その頃にはユーフォでの演奏のリクエストをもらえるくらい練習しておきますよ」
「ははっゆっくりでいいとは言ったが、じじいをあんまり待たせんでくれよ」
「そんなに待たせるつもりはありませんよ。俺面白そうな事にはすぐ飛びつきますけど、やるからには本気なんで」
本間のじいちゃんの店からの帰り道、思いがけない話を思い返しては、あのバイクを走らせる自分を想像して、自然と頬が緩む。それは、手に提げた角の擦り切れたお古のケースの、その中身のせいでもあった。
自室に入るなり留め金を外すと、埃っぽい古い匂いの奥から、新品特有の金属の匂いが立ちのぼる。何本もじいちゃんに吹き比べてもらってようやく選んだ一本が、照明を映し込んでベルを光らせていた。その輝きは妙に新鮮で、意味がないと分かっていながら、何度も布で磨いてしまう。
その手が止まったのは、パソコンの電源を入れるためだった。
「どうもこんばんはLogです。今日からは新企画やっていきたいと思います。新企画はユーフォニアム0から始めてみたです‼︎はい拍手」
元々は、自分の練習を後で聞き返すための録音だった。動画サイトに上げれば小遣いくらいにはなるかと、作業用BGMとして投稿してみたら、思いのほか再生数が伸び、コメントまで付いていた。そのおかげか、去年の夏頃始めた配信も、評判はぼちぼちだ。
「本当に0からやっていくんで吹き方すら分からないんで指導のコメントどんどんお待ちしてまーす」
勢いで始めてはみたものの、どう吹けばいいのかは分からない。とりあえず聞き齧りの知識を頼りに、マウスピースに唇を当てて息を吹き込む。
…鳴らなかった。まあ当然か。
アドバイスを求めてコメント欄を見てみると、それはまあ酷いものだった。
(音なってないしw)
(下手くそじゃんw)
「おいおい初心者だって言ってんだろ。そのコメント別のとこではすんなよ。あとお前らは俺の先生になれるんだから、もっといいコメントしてくれよ」
(口固めかも)
「口固めって具体的にはどんな感じなん?こんな感じ?って出来たわ」
(飲み込み早っ)
(何で今の文字見ただけで出来んだよ)
(そんな感じでアンブシュアをもっと安定させる事が基本かな)
「うーん鳴る時は鳴るんだけどなぁ全然安定しねぇなぁ。むっずいなぁけど楽しいねユーフォ」
配信を終える頃には、多少は音が出るようになっていたが、それでも安定した演奏とは程遠い。鏡を覗くと、唇にはマウスピースの丸い跡がくっきりと残っている。明日の朝は走らずにユーフォを持って大吉山を登ろうか、なんて考えていると、指が勝手にその跡をなぞっていた。
次の日の朝、俺は結局大吉山の頂上でユーフォを構えていた。シャンプーの香りが薄く残る髪のまま、いつものテーブル席に着いた今も、パンをかじるたびに、まだ慣れない唇の感触が顔を出す。
「今日の帰りも遅くなるのか」
「そうだね。多分ずっと昨日くらいの時間に帰ってくることになると思う」
「そうか。うちも久々にバイト雇うかな」
「バイト?そっか俺が中学上がる頃が最後だっけ?」
「ああ。たしか、大学卒業して東京で就職したって言ってたかな」
「あ〜なんか言ってたような…まあいいや。やっぱ1人だと大変?」
「…いやまあ大変って程忙しいわけじゃねぇよ。ただ、いてもらって困るわけじゃねぇからな」
「そっか…ごめん」
「いいんだよ。大体お前いらねぇって言ってんのに生活費押し付けてきてるし、ごめんなんて言わなくていいんだよ。お前はお前のやりたいことをやっていいんだ」
「ありがとうマスター」
マスターはそれ以上何も言わず、空いた皿を手にカウンターの奥へ歩いていく。その背中は、昔から変わらない俺の憧れだ。
いつかこの店に来る誰かを待つ楽しみが増えた。けれど、新しい出会いは、それより一足先にやってきた。
「今日から転校してきました。3年の黒江真由です。ユーフォ吹いてました。よろしくね」