世界一幸せな男   作:トトロのとろろ

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第5話

黒江先輩と初めて言葉を交わしたのは、次の日の部活動、サンフェスについての説明が終わった直後のことだ。

 

「元々は福岡の清良女子にいたんだけど、親の仕事の都合でこっちに来ることになって」

 

「清良女子ですか。超強豪校じゃないですか」

 

「そうだね。みんな上手だったし、コンクールでも良い成績もらってたよ」

 

「おお‼︎ すごいです‼︎」

 

「まあまあ、自己紹介はその辺でいいんじゃない? それじゃあ一年生はこっち集まって」

 

みっちゃん先輩とさっちゃん先輩が黒江先輩と話し込む中、加藤先輩が俺たちを手招きする。さっちゃん先輩たちは練習に戻っていったが、奏先輩だけはその場に残り、黒江先輩へと歩み寄った。

 

「黒江先輩。じっくりお話ししたいんですけど、お時間もらえますか?」

 

「もちろんいいよ」

 

優しげな雰囲気の黒江先輩を、部員たちは皆好意的に受け入れていた。だが奏先輩だけは、その柔らかな笑顔の奥を探るような目をしていた。そして今、二人きりで話そうとしている。

 

その意図までは読み取れない。ただ、奏先輩には奏先輩なりの目的があるはずだ――まだ出会って間もない先輩の輪郭を、俺はもっと知りたいと思った。

 

とはいえ、今優先すべきは加藤先輩の基礎練習の指導だ。音を出す練習は昨日済ませたものの、実際に指導を受けるのは初めてだった。多少は鳴らせるようになったが、フォームが正しいかどうかまでは自分では判断がつかない。

 

「おおっ、幸人くんもうユーフォ買ってきたんだ。もしかして試しに吹いてみたりした?」

 

「一応音は鳴らせるようになりましたけど、基礎が合ってるかはわからないです」

 

「そうなんだ。じゃあちょっと吹いてみてよ」

 

「もちろんいいですよ」

 

その一言を合図にユーフォを構え、軽く息をつく。鳴らせるようになったとはいえ、安定にはほど遠い。だが、ここにいる誰もが俺を初心者だと知っている。格好をつけたい気持ちはあったが、無理をする必要はなかった。

 

肺いっぱいに息を吸い込み、震える唇をマウスピースに押し当てる。息を吹き込むと――音は、鳴った。安定とは程遠いが、初めてにしては上出来だろう。自分の耳にも分かるほど下手くそで、粗く濁った音だった。伸びしろしかない、と言えば聞こえはいいが、要するにまだ何も出来ていないということだ。それでも、悪くない気がした。

 

「おおいいね! まだまだ課題はあるけど、さすがの肺活量! ロングトーンと音量はピカイチだね」

 

「ありがとうございます!」

 

「とまあ今吹いてもらったけど、金管楽器っていうのは簡単に言うと、唇を震わせてその振動をマウスピースに伝えて、楽器から音を出す仕組みなんだ。リコーダーとは根本的に別物だからね」

 

「何とか音は出せるようになったけど……」

 

「それで、違う音を出すってできるんですか?」

 

上石と針谷の疑問はもっともだった。俺自身、練習中ずっと同じことを考えていたし、実際にできるようになるまでには時間がかかった。多少はマシになったものの、まだ安定とは呼べない。だからこそ、隣でマウスピースを鳴らしてみせる釜谷には驚くしかなかった。

 

「おお……あたし天才かも」

 

「すごっ」

 

「大丈夫、それくらいすぐできるようになるよ。それじゃあ次はもう一つの基礎練、腹筋の時間だぁ‼︎」

 

「今からですか!」

 

「あったりまえじゃん! 何のためにジャージに着替えたと思ってるの」

 

「確かにそれはそうですけどぉ」

 

「はーい、文句言わずに寝っ転がってー。体をVの字にして60秒ね」

 

「加藤先輩、それ俺も同じメニューでいいんですか?」

 

「んー、まあ確かに結構鍛えてるみたいだし、負荷足りないかなぁ? まあいいや、足りなかったら60秒の間でV字腹筋でもやっといて」

 

「ちょっ、加藤先輩なんか俺だけ雑じゃないですか‼︎」

 

「そんなことないよー。ほらさっさと準備する! じゃあ行くよ。いーち、にー」

 

抗議など聞く耳も持たず、加藤先輩は容赦なくカウントを刻んでいく。

 

――やっぱり、軽い。

 

V字腹筋に切り替え、腹筋がようやく悲鳴を上げ始めた頃、教室のドアが開いた。

 

「お待たせ〜」

 

「おおっ、久美子!」

 

「あー、腹筋かぁ」

 

「お腹で支えるのが基本だからね」

 

「そういえば奏ちゃんと真由ちゃんは?」

 

「奏先輩たちならじっくり話すって言って、隣の教室に行きましたよ」

 

「腹筋しながら普通に喋るなんてすごいね、幸人くんは。でもそっか、隣の教室か。ちょっと迎えに行ってこようかな」

 

そう言って教室を出ていく黄前先輩を横目に、腹筋を続ける。俺にはまだ余裕があったが、隣はそうもいかないらしく、限界を告げる悲鳴が聞こえてきた。

 

「もう一分経ってませんかぁ」

 

「まだまだ、57、58、59、59.1、59.2」

 

「やめてぇぇ」

 

「はい、60」

 

その号令と同時に、隣からドサッという音が三つ続いた。よほど限界だったのだろう。かくいう俺の腹筋も、正直かなり効いていた。

 

「もう厳しくしないでくださいよぉ。北宇治の清少納言と呼ばれる私からのお願いですぅ」

 

「えっ、誰から呼ばれてんの?」

 

「回鍋肉の肉いかならん」

 

「大層よく焼けてございます」

 

「ぶふぅ」

 

「何で今の速さで香炉峰が出るんだよ!」

 

「おぉ、よく気づいてくれたね」

 

「そのギャグあんまり面白くなーい」

 

「同じく〜」

 

「えぇ〜、少々和んだでしょ〜」

 

「うわ、やかまし」

 

思わず口をついて出た一言だった。それでも、上石の軽口ひとつで場の空気が少しほどけたのは確かだ。

 

隣の教室に行っていた三人が戻り、全体練習を終えたところで、今日の活動はお開きになった。それぞれ帰宅していく部員たちの中、俺は目当ての先輩の背中を追いかけていた。

 

「奏先輩」

 

「どうしたの、真島くん?」

 

「さっき黒江先輩と何話してたんですか?」

 

「んー、何ってほどのことじゃないよ。普通に黒江先輩のことを聞いてただけ」

 

「そうなんですか」

 

嘘は言っていないのだろう。それでも口調のどこかに、薄い壁のようなものを感じた。最初の印象が悪かったのだろうか。警戒されている――そんな気がしたし、その警戒は俺だけに向けられたものではない気もした。

 

奏先輩が黒江先輩に向ける笑顔は、他の誰に向けるものとも変わらない。なのに、その言葉には一本、はっきりとした線が引かれている。しかも隠す気配すらない。

 

黒江先輩を警戒する理由が、自分がコンクールに出られなくなるかもしれないという不安なのか、それとも――いつも隣にいる黄前先輩のためなのか。今の俺にはまだ、判断がつかなかった。

 

「それだけ?」

 

「あー……はい」

 

「じゃあまた明日」

 

「はい…さよなら」

 

「一緒に帰りませんか」――その一言は、喉の奥で止まったまま出てこなかった。今の奏先輩を誘っても断られるだけだろうし、断られればさらに壁が厚くなる気がして、踏み出せなかった。

 

恋愛なんて、これまでまともにしたことがない。どうすればいいのかも分からない。それでも、いつか奏先輩と並んで帰れる日が来たらいい――そんな叶うかも分からない夢を見ながら、小さくなっていく背中を見送った。

 

—————————————————————

 

「真島くん、一歩が大きい。もっと周りに合わせて」

 

メガホン越しの高坂先輩の声が、体育館いっぱいに響く。あいにくの雨で、今日は体育館練習だった。だが室内に漂うどんよりとした空気は、天気のせいばかりとも言い切れない。

 

「真島くん、またずれてる。集中して」

 

考え事をしていたのを見抜かれたらしく、また指摘が飛んできた。もう何度目かは数えていない。

 

行進の練習が終わり、体育館内はそれぞれのパート練習に切り替わっていく。俺だけは、まだ行進の練習を続けていた。

 

運動神経が悪いわけではない。ただ、元々運指もできなかったくらい細かい動きが苦手な俺にとって、この「一歩62.5センチ」というのは想像以上の難物だった。

 

このままでは埒が明かない。アドバイスをもらおうと体育館を彷徨っていると、あまり聞きたくない会話が耳に入ってきた。

 

「私たち初心者なのに、高坂先輩ちょっと厳しすぎるよね」

 

「そうだよね。もっと楽器の練習もしたいのに、行進の練習ばっかりだし」

 

周りに人の気配がなかったせいか、小声だから聞こえないとでも思ったのだろう。どちらにせよ、俺にここで事を大きくするつもりはなかった。

 

同じ目標を掲げて頑張っているはずの仲間から、そんな言葉がこぼれるのを聞くのは、少し胸が痛んだ。何より、その気持ちが分かってしまう自分がいることに。

 

俺たちの目標は全国大会金賞だ。行進ばかりで怒られ続ければ、不満だって溜まる。今の会話にも、もっと楽器を吹きたい、上手くなりたいという本音がにじんでいた。

 

それでも、やるしかない。どうせやるなら上手くなった方が楽しいし、無様な姿を晒したくもない。

 

俺の姿に気づいた二人は、逃げるようにその場を離れてき入れ替わるように、その人は現れた。

 

「あっ、塚本先輩。ちょうどいいところに」

 

「俺のこと探してたのか?」

 

「実はそうなんですよ。行進のコツ、教えてほしくて」

 

「あー、そういえば高坂に集中砲火食らってたもんな」

 

「いやほんとですよ。可哀想な後輩に、少しくらいアドバイスくれてもいいんじゃないですか?」

 

「アドバイスなぁ。うーん……俺らみたいに体がデカいやつは一歩が大きくなりがちだから、小さめを意識するのと、あとは視線を前に向けたまま、横目で隣に合わせることかな」

 

「あー、なるほど」

 

「まあでも、結局は体で覚えるのが一番早いから。一緒に練習するか」

 

「おおっ、ありがとうございます!よろしくお願いします」

 

塚本先輩はパート練習が始まるまで付き合ってくれ、そのおかげで行進もいくらかマシになった。

 

それからというもの、高坂先輩からの指摘は目に見えて減っていった。そして、コンクール用の楽譜が配られたのは、そんなサンフェスの練習が続く日々の最中だった。

 

「サンフェスの翌日からは本格的にコンクールの練習に入ります。合奏できるレベルまで、各自練習しておいてください」

 

「「「「「はい!」」」」」

 

いよいよコンクールの練習が視野に入り、自然と気が引き締まる。今年から始めた俺が、コンクールメンバーに選ばれることはまずないだろう。それでも構わない。選ばれないとしても、選ばれるための努力はやめない。上を目指す理由がなければ、上手くはなれない――それだけは分かっていた。

 

そんなことを考えていると、まだ話は終わっていなかったらしく、高坂先輩が俺たちの前に立った。

 

「率直に言います。北宇治の演奏は上手い。だけど、上手いだけじゃ全国金は獲れません。上を目指す学校は、どこも上手いから。だから北宇治は、一番を目指しましょう。今の自分に満足するんじゃなくて、その先を行く未来の自分を追いかけましょう。全国金、獲りにいきます」

 

その言葉は、確かに俺たちの中に根を張ったのだと思う。誰に言われるでもなく、自然と拍手が湧き起こっていたから。

 

「さらに上をいく未来の自分を追いかける」

 

その終わりのない道を、俺は一度、歩いたことがある。

 

たった一つの目的だけを胸に、ただ前だけを見ていた頃。

 

だから、間違いにも気づけなかった。

 

でも今は違う。

 

上手くなりたい理由が、あの頃とはもう違うから。

 




思ったより多くの皆様に読んで頂き嬉しくて毎日投稿していましたが、今回の話で書き溜めがなくなってしまった為、今後不定期投稿になります。ただこの先の話もどういうことを書きたいかとかおおよその展開は考えていますし、最後のオーディションの話なんかも既に書き終わっていたりするので、そこを目指して頑張りたいと思います。今後もお付き合い頂けると幸いです。
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