異変に気付いたのは、朝のことだった。自分の席について隣を見ると、義井の目の下にはうっすらと隈が浮かび、口元ではあくびを噛み殺している。
「はよーっす」
「あ、うん。おはよう」
「義井、なんかあった?あんま寝てない?」
「大丈夫。なんでもないから」
そう言う義井の視線は、机の木目に落ちたまま戻ってこない。
「何でもないって言われてもなぁ。なんか眠そうだし、理由なく夜更かしするタイプじゃないと思うんだけど。まあなんかあったにしても、こんな所で話すことでもないんだよな」
「……そうだね」
…この反応は当たりという事でいいのだろう。
「そっか。じゃあ昼休み時間くれよ。どっか誰にも聞かれないとこで話聞かせて」
「……」
「先生きたから、続きは昼休みにってことで」
「あっ、ちょっと」
我ながら少し強引だったとは思うが、義井の顔に浮かんでいたのは、嫌がる色ではなく迷いの方に見えた。それでも本当に嫌がるようなら、無理に聞き出すのはやめておこう。
どう話を聞くべきか、そもそも聞かない方がいいのかを、授業の合間に考えているうちに、午前の授業は終わっていた。
昼休みのチャイムが鳴ると、義井は弁当を鞄から取り出したまま、ちらりとこちらを窺った。ついてきてくれる、ということらしい。
二人きりになれる場所は、校内にもいくつかある。屋上へ続く階段の踊り場に並んで腰を下ろすと、昼休みのざわめきは一つ下の階で遠くなり、弁当をつつきながら交わす雑談の声だけがよく響く。
弁当箱の蓋を閉じた義井は、膝の上で包みを結び直しながら、しばらく黙っていた。
「……私の悩み、聞いてくれるんだよね」
「もちろん。同じクラスで同じ部活の仲間だからな」
「……真島くんは、高坂先輩の事どう思う?」
「高坂先輩?まあ厳しいけど、上手くなるためには必要な厳しさだと思うよ。まあ、一年からの評判は良くなかったりするかもだけど」
「そう…だよね。私も大体同じ。憎いとか嫌いって訳じゃないの。でも、必要なのってコンクールメンバーだよね。初心者までそんなに頑張る必要あるかなって」
「んー、まあ言ってることは分かる」
「初心者の子たちさ、ついていけなくて辞めようかなって言ってる子もいたの。私、それでも辞めないでって止めてたの。頑張って結果出せば楽しくなるからって。でも……どんどん練習厳しくなるし、泣いてる子もいて……それを見たら、私、悪いことしたのかなって」
結び直したはずの包みの端を握る手に、ぽつりと雫が落ちた。
「義井は悪くない……と、俺は思う」
「えっ」
「俺はさ、正直辞める人がいるのは仕方ないのかなって思ってる。人間なんて100人いれば100人違うわけだし、その人がどう考えるかは、その人次第だから」
「……」
「俺さ…昔、音楽のこと、別に好きじゃなかったんだよね。ただ必要だからやってて、でもそれだけだと楽しくなかった。それがちょっとしたきっかけで音楽が楽しくなったんだ」
必死になって、ただ練習を続けていたあの頃。きっとあのまま音楽から離れていたら、自分の人生はまた違ったものだっただろう。
それは多分、悪い方向に。
「今辞めようとしている人たちは、音楽の楽しさを知る前に、嫌な気持ちを抱えたまま終わろうとしているんじゃないかなって。でもそれは…なんて言うか…もったいないと思う」
言い方として合ってるかなんてわからない。ただ、思ったことが口から出ていた。
「やっぱり音楽の楽しさに気付けたから、今の自分がいると思う。だからこそ、辞めるにしても、それだけは知ってほしい」
「そうだね」
「だからさ、それを知ってもらおうとした義井は、間違ってないよ」
「でも!…何も変わらない。私のやってたことが、もし間違いじゃなかったとしても、初心者の子たちが辛い思いをしてることは…何も変わらない」
「まあそうなんだけどさ」
「そうでしょ……じゃあ、どうすればよかったの……」
「どうすればか…とりあえずみんなに音楽の楽しさを知ってもらうとか?」
「どうやって?」
「初心者だけ集めて演奏会する、とか?」
「演奏会?何で?」
「今ってさ、楽器の練習も基礎練ばっかりで、配られてる楽譜もコンクール用のやつだったり、サンフェス用のやつで難しいのしか無いじゃん」
「うん」
「それぞれのパートで簡単な曲を練習したりして楽器の楽しさは味わえてるかもしれないけど、合奏となると別だと思うんだよね。やっぱり合奏の時、参加したとしても下手で迷惑かけてるって気持ちはどうしてもあると思うし」
「多分……あると思う」
「俺さ、合奏したのは高校が初めてだったけど、やっぱり1人で吹くのとは楽しさが違う気がしたんだよね。初心者だけだったら迷惑なんて思わないだろうし、それで音が揃ったら気持ちいいんじゃないかなって」
「確かにそうかもしれないけど、本当にそれで何かが変わるのかな?」
「それはわからない。でも楽しいんじゃないかなとは思う」
「……そうだね」
「とりあえず、黄前先輩と加藤先輩に相談してみるよ。あの人たちなら、少なくとも怒りはしないと思うし」
「本当に、それで大丈夫かな?」
「多分ね」
「でも…あっ」
まだ何か言いかけていた義井の声を、昼休みの終わりを告げるチャイムが遮る。階段を下りながら盗み見た横顔には、まだ不安が残っていたけれど、上ってきた時よりは、視線が少しだけ前を向いている気がした。
一日を終えるチャイムが鳴る。普段なら部活の時間だが、今日は少し違う。隣では義井も、もう鞄を肩にかけていた。
「とりあえず、部活始まる前に黄前先輩に話通しに行くか」
「……うん」
返事までに少し間はあったが、低音パートの教室へ向かう俺の後ろを、義井は遅れずについてくる。
ドアを開けると、中には3年生の4人が揃っていて、挨拶をすればいつも通りの声が返ってくるが、廊下で待たせている義井のことを思えば、のんびりしてはいられなかった。
「黄前先輩、加藤先輩、ちょっと相談したいことがあるんですけど、今いいですか?」
「いいけど、葉月ちゃんは?」
「私も大丈夫だけど、この2人を呼ぶってことは、一年生絡みってこと?」
「まあそうですね。詳しい話は外に人待たせてるんで、場所を変えてもいいですか?」
「いいよ。緑ちゃん、遅くなったら先に始めておいてもらっててもいい?」
「はい。任せて下さい!」
「川島先輩、すみません。よろしくお願いします」
先輩たちを連れて廊下に出ると、待っていた義井を見て二人とも少し驚いた顔をしたが、場所を移すまでは何も聞かずにいてくれた。昼休みと同じ踊り場は、放課後になっても誰かが近づく気配はなく、内緒の話にはちょうどいい。
「話っていうのは、今度の部活が休みの日に予定を合わせて、初心者を集めて演奏会しようかなって思ってまして。黄前先輩には話を通しておきたかったのと、加藤先輩には指導役として参加してもらえないかなーって思ってるんですけど、どうですか?」
「どうですかって言われても、随分急だね。まあ休みの日にやるのは自由だし止めないけど」
「私もいいけど、何があったの?」
「あー…実は」
「あの!……それは……私から」
昼のことを話そうとした俺を遮ったのは、義井だった。尻すぼみになっていく声が心配ではあったけれど、自分の口で話そうとしている義井を、止める気にはなれない。
義井は一度、深く息を吸った。それでも最初の言葉は、小さく震えている。だがその後は、一つ一つの思いを確かめるように言葉にしていく。
高坂先輩のこと。
初心者のこと。
辞めたいと言っていた子のこと。
話を聞き終えた先輩たちは、すぐには言葉を返さなかった。時間にすれば、ほんの数秒。俯いた二人の顔はよく見えなかったが、その数秒の間に、きっといくつもの考えが行き来したのだろう。やがて顔を上げた黄前先輩は、真っ直ぐに義井を見ていた。
「ありがとう」
「えっ」
「サリーちゃんのおかげで、まだ1人も辞めてないよ。全員いる。一年生だって抜けてない」
義井の目を見つめたまま、黄前先輩はそこで言葉を切り、何度か口を開きかけては閉じて、小さく息を吐いた。
「正直に言うとね、私もサリーちゃんと同じこと思った。初心者の子は別にしたほうがいいんじゃないか、練習方法を別にしたほうがいいんじゃないかって」
「そうだったんですね」
「だけど部員全員、程度の差こそあれ上手くなりたいって気持ちはあると思うんだよね。たかが部活でって言う人もいるかもしれない。でも、始めた以上私たちは高校生活の大半を部活に費やすことになる。だったら後悔したくないし、して欲しくない。やってよかったって思ってほしい。その思いは全員一緒。水を差しちゃいけないと思うんだよね。だから…きっとサリーちゃんの気持ちで、みんな励まされてると思うよ」
黄前先輩の声が途切れると、階段の下から、どこかのパートのロングトーンが細く昇ってくる。
「それは……このままでいいと思ってるってことですか」
「もちろんそうは思わないよ。吹奏楽部ってさ、人多いし、初心者も経験者もいて、考え方も色々あって、どれか一つだけが正解って見つけるのは…すごく難しいなって。そうなんだよね。だから部長って、多分みんなのいろんな気持ちをまとめるためにいるんだと思う。…だから、全部私のところに持ってきて」
「先輩のところに?」
「うん。サリーちゃん個人の悩みでも、他の一年生の悩みでも、全部話してよ。きっと、みんなどこか似たような悩み抱えてると思うから。…ってこれじゃあ、何一つ解決になってないよね。でも、ちゃんと話せばなんとかなるんじゃないかなって、私は思ってる。だって、目指してる場所は同じだから」
「くーみーこー。1人でカッコつけないで」
「葉月ちゃん?」
「全部久美子が抱えなくていいんだよ。サリーちゃん、私もいるから!じゃんじゃん相談しにきてね」
「ありがとう……ございます」
そう呟いた義井の目の縁には、うっすらと涙が溜まっている。先輩というものに縁のなかった俺にとって、たった二つの年の差が、これほど大きく見えたのは初めてだった。
「ところで幸人くん。演奏会やるって言ってたけど、場所とか参加人数とか決まってるの?」
「なんも決まってないです」
「決まってないって…多分滝先生に言えば音楽室使わせてもらえると思うけど、早めに話しておいたほうがいいよ」
「じゃあ私は、りりりんに参加するか聞いておこうかな。同じ一年生指導係として仲間外れにはできないし」
「あっ、じゃあ私も」
「久美子はだいじょーぶ、私たちに任せてよ」
「…わかった。じゃあ葉月ちゃんに任せた」
「それでよし!じゃあ戻ろっか」
義井と別れ、低音パートの教室へ戻る途中、前を歩く黄前先輩が不意に振り返った。
「幸人くん、ありがとね」
「なんの話ですか?」
「サリーちゃんのこと。私、全然気付けなかったから」
「ああその話ですか。そりゃ俺は義井の隣の席なんで、毎日顔見てれば流石にわかりますよ。今回のことは本当にたまたまです。それに結局俺は、何も分かっていませんでした。人の気持ちとか、そういうこと。先輩たちにおんぶに抱っこです」
「人の気持ちなんて、本人が全部話してくれるわけじゃないからね。私だって気付けないことばっかりだよ。でも、幸人くんはちゃんと気付いて声をかけた。それだけでも十分意味があると思う」
「そーだぞ後輩。何かが起こる前に声をかけれるのは、それだけですごいんだから」
「そんなもんですかね」
「そんなもんだよ。きっと」
励まされているのだと、少し遅れて気が付いた。
今までは、何をするにも自分一人の問題で、前へ進むのも自分一人でよかった。けれどここでは、誰か一人の悩みが、隣の誰かへ、そのまた先の誰かへと繋がっていく。
今回俺は、異変には気付けた。でも、その先で義井が前を向けたのは、先輩たちがいたから。まだ俺にできることは少ない。
それでも今日みたいに、一歩ずつできることを増やしていけばいい。その先で、いつかあの人たちみたいに誰かを支えられる人になれたなら――きっとそれは悪くない。
廊下の先、低音パートの教室から、先に始めていた川島先輩たちの音が漏れてくる。少し前を歩く二つの背中を追って、俺はその音の中へ戻っていった。