低音パートの教室に戻ってきた時、中からはまだ音は聞こえてこなかった。どうやら練習の開始には間に合ったようだ。
「おつかれー。遅くなってごめんね」
「すみません。ちょっと俺の用事に付き合ってもらってました」
「さっき揃ったところなので大丈夫ですよ」
川島先輩の言葉は嘘ではないようで、楽器の準備をしている人たちがまだいた。ただどちらにしろ出遅れていることには変わらず、手早く準備を進める。
そして練習が始まる。演奏会のことばかり考えてしまい、いつもほど練習に集中できている気はしないが、それでも少しはマシになったと思えるくらいには吹けるようになってきていた。それは他の一年生たちも同様のようで、基礎がしっかりし始めてきたのが音から感じられる。
成長としては微々たるものだが、日々の練習とはそういうもので、そんな練習は今日も終わりを告げた。
「すみません。今日お先に失礼します」
「おつかれー」
「おつかれさまー」
「おつかれー。今日もサックスパートに行くの?」
「今日はちょっと別の用事がありまして、居残りはやめときます」
「そうなんだ。おつかれー」
先輩たちからの挨拶に返事をしつつ、荷物を片付け教室を後にする。そして職員室へと向かっていたが、その足を呼び止める声がした。
「真島くん」
「釜谷? どうしたの」
「サリーから連絡がきたんだけど、演奏会私たちも参加するね」
「ああ。まあ義井が来るならみんな参加するとは思ってたけど、わざわざ言いにきてくれたんだ。ありがとう」
「まあ、それだけじゃないんだけどね」
「どういうこと?」
「お礼を言いたかったの、サリーのこと」
「義井の?」
「サリーここ最近ずっと悩んでたから、どうしようかなっていろいろ考えてたんだよね。私たち4人で休んで、大事にしてみたりとか」
「それは確かに先輩たちすっ飛んでくるだろうな」
「うん。でもそれをしようとしたら色々タイミング見たりしないといけなかったから、どうしようかなって思ってて。だからありがと」
「義井は黄前先輩と加藤先輩が元気づけてくれたから。2人にお礼を言うといいよ」
「それはもちろん言うよ。でも早く気づいて、なんとかしようとしてくれて、ありがとうってこと。こっちは感謝してるんだから、ちゃんと受け取ってよね。じゃあまた明日!」
「えーっと、どういたしまして?」
そう呟いた俺の声は、嵐のように去っていく釜谷には届かない。また感謝されてしまったが、俺一人で解決した訳じゃない。それでも誰かの役に立てたのなら、それは素直に受け取ってもいいのかもしれない。
そんなどこか達成感があまりない、むず痒くなる感情を抱えながら、留めていた足をまた動かした。
「一年二組、真島幸人です。滝先生はいらっしゃいますか」
「はい。こちらにどうぞ」
職員室のドアを開き声を上げると、目的の人物はすぐに返事をしてくれた。そこに向かって足を進めると、物が多い割に整頓された机に向かう滝先生がこちらを向いていた。
「わざわざ職員室にくるなんて、どんな用ですか?」
「ちょっと相談がありまして、今度部活が休みの日に、初心者を集めて演奏会をしたいんですけど、音楽室を使わせてもらえないかなと思いまして」
「演奏会? それはまた何故ですか」
「初心者のみんなが経験者の人たちに気兼ねなく合奏を楽しめれば、モチベーションがさらに上がるかなと」
「……なるほど。そういうことでしたら次の日曜日、学校は空いているので音楽室は使えますよ」
「ありがとうございます! じゃあ10時ぐらいから使わせてもらっていいですか」
「もちろん構いませんよ。私もその時間までには来る様にするので、鍵を取りに来てください」
滝先生はそこで一度言葉を切り、少しだけ微笑んだ。
「真島くん」
「はい」
「いい演奏というのは、楽しさの上に成り立ちます」
「……はい」
「その日は、あなたもいい演奏をしてきてくださいね」
「……もちろんです!」
俺の返事に満足したのか、滝先生は再び机の上の書類へと視線を戻した。とりあえず場所を確保できたことに一安心し、職員室を後にする。
次にやるべきことは参加者に声をかけることだろう。となるとまずは馴染みのあるサックスパートに顔を出すとするか。まだ残っているかはわからないが、いなければ仕方がない。今日は月曜日だ。明日でも十分間に合う。
サックスパートの教室のドアを開けると、そこにはパートメンバーが全員集合していた。居残り練習の時間に全員残っているのは、このパートでは珍しくない。
「おっ、幸人くん今日も来てくれたんだ」
「お疲れ様です、牧先輩」
「じゃあ今日も指導お願いします」
「ちょっと別件があるんで、それはまた後で」
冗談めかしながらそんなことを言う牧先輩をよそに、俺は目的の人物へと声をかけた。
「甲元、ちょっといい?」
「えっ、私? どうしたの」
「今度の日曜日、初心者集めて演奏会しようかなって思ってるんだけど、よかったら参加しない?」
「演奏会? 日曜日は予定ないしいいけど」
「マジで。じゃあ決まりってことで」
「ねえ、それって私も参加しちゃダメかな」
「梶原?」
梶原は経験者。本来なら誘うつもりはなかった。だが、サックスは俺、ダブルリードは剣崎先輩、低音は加藤先輩が見るとして、それ以外のパートは手が足りているか怪しい。
元々難しい曲をやるつもりはなかったが、参加したいという一年生がいるとしたら、先輩が来るよりも気兼ねはないだろうし、まあ、有りか? どちらにせよ義井が来るのだから断る理由もないだろう。
「いいよ。10時に音楽室の予定だからよろしく」
「それ私も参加する」
「じゃあ私も参加したい……かな」
「2人とも来るの? じゃあサックス一年は全員参加か。でも今回の目的は楽器の上達じゃなくて音楽を楽しむことだから、そのつもりできてくれよ」
「それでもいい」
「私も」
「面白そうなこと計画してるね。それ私も参加しちゃダメなの?」
思いがけず経験者も参加することになったが、それでも3年生がくるのは気を遣わせることになるだろう。それに牧先輩は今回の趣旨を知らないし、あまり広める必要もない。
「いやー、今回は一年生で仲良くやろうぜって会なんで、遠慮してもらえると助かります」
「そっか、じゃあやめとく。で、この後は他のパートの子誘いに行くの?」
「んー、流石にもう遅いんでそれは明日にしときます」
「よし! じゃあ練習見ていってよ」
「はい! もちろんいいですよ」
サックスパートの人たちは、初めて見た頃よりもずっと上達していた。毎日のように居残って練習しているのだから、当然と言えば当然だろう。
元々残り時間が少なかったこともあり、今日の練習の終わりはすぐにきた。全員で手早く荷物をまとめ、それぞれの帰路に着く。そんな日ももう何度になるかは数えていない。
後日、それぞれのパートを回って声をかけてみると、予想以上に反応は良かった。
「行く」
「面白そう」
そんな反応ばかりだったことは意外で、経験者も初心者も関係なく、一年生は全員参加すると言ってくれた。
楽譜は家にあるものから初心者用を適当に見繕うことにした。コンクール用でもない、お遊びみたいなものだ。流石にコピーでいいだろう。
そうやって少しずつ準備を進めていくと、すぐに日曜日になっていた。音楽室には、加藤先輩や剣崎先輩を含め28人。いつもの人数より少ないとはいえ、それでも多い。
とりあえず今回の発起人として、挨拶くらいはしておいた方がいいだろう。俺は普段立つことのない場所に立ち、みんなを見る。大勢の人に見られることは慣れているが、いつもと違う意味合いを持つこの場所は、やはり緊張した。
「みんな今日は集まってくれてありがとう。今日の目的は、みんなで仲良く楽しく合奏しようって感じなんで、気負わず音楽を楽しんでいこう‼︎」
まばらな返事は、今の部活の空気感のせいか、号令をかけたのが俺だからか、分からない。だが、みんな参加してくれたのは、それでもみんなやりたいと思ってくれたということでいいのだろう。
楽譜を配り、早速練習を始めようとすると音楽室のドアが開いた。
「おー、やってるみたいだな」
「塚本先輩? どうしたんですか」
「いやちょっと今日のことを聞いてな。人手足りるかなって思って、ほら俺ホルンとトロンボーン吹けるし、他の楽器も初心者にちょっと教えるくらいならできるし」
誰から聞いたかはわからないが、「教える」という言葉が出てくるということは、今回の趣旨を理解しているのだろう。そこまで知っている人は少ないし、誰から聞いたかおおよそ見当はつきそうだが、そんなことは今はどうでもよかった。各パート1人は経験者がいるし、なんとかなるかもしれないが、人手がいて困ることはない。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「気にすんな」
気を取り直して演奏会を開始すると、やはりまだ合わせることはどうやら難しかった。
「あっ、ごめん……」
「いいよいいよ。俺たち全員まだ下手なんだから、今日は楽しんでいこう」
「うん」
最初はどこか重かった空気も、段々と軽くなっていく。みんなで失敗を笑い合う姿は決して悪い意味のものではなく、それを証明するように場の空気は少しずつ和らいでいった。
俺が用意した曲は簡単で短いものが多かったが、それでもみんなも手応えを感じることができているようで、一曲終わるたびに次第に笑顔が増えていった。
楽しく演奏をしていたら気がつけば、持ってきた楽譜はなくなっていて時間的にも、昼過ぎで終わるには少し早い気がしないでもないが、まあ区切りにはちょうどいいだろう。
「じゃあ今日はここまでにするか」
「あのさ、まだ時間早いし、コンクール曲やってみない?」
「コンクール曲か、難易度的に俺たちにはまだ早いと思うけど」
「でも今ならさ、上手くできなくても最後まで吹ける気がするっていうか……」
その言葉はおそらく、今の空気なら上手くできなくても気にせず楽しく合奏できる、そういう意味なのだろう。その言葉に反対する声が上がることもなく、みんなの表情も否定などないと言っているようだった。それはつまり、みんなこの会を楽しんでくれているということだと思えて、嬉しかった。
そうして不意に始まったコンクール曲の練習は俺たちにはまだ早く、お世辞にも出来ていると言えるものではなかった。
それでもみんなで音を合わせようと試行錯誤し、拙いながらも努力したその時間は、十分に楽しいと言えるもので、みんなの表情もそれを物語っていた。
楽しい時間は終わりが来るのも早く、窓から見える景色は赤く綺麗に染まっていた。結局コンクール曲の出来はあまり変わらないが、それは当たり前だ。ただ帰り支度をするみんなの表情に、来た時の硬さはもうなかった。
音楽室の鍵を滝先生に返却し、帰り道を歩いていると、背後から近付いてくる人がいた。
「今日はお疲れ」
「塚本先輩。お疲れ様です、今日は来てくれてありがとうございました」
「礼はいいよ。久美子に頼まれただけだし。まあ、頼まれなくても来たとは思うけど」
「じゃあお礼言ってもいいじゃないですか」
「いや礼を言うのはこっちだよ。今回の件、本来幹部がやるべき仕事を一年の幸人に押し付けたみたいになってしまったから。だからありがとう」
「でもそれは皆さんがいてくれたから出来たことです」
「お前なぁ、ちょっと謙遜がすぎるんじゃないか? 礼くらいもっと素直に受け取ってもいいんだぞ」
今回の件、あまり力になれたとは思っていなかったが、自分1人の力じゃないとはいえ、みんな楽しんでくれていたみたいだし、ここまで言ってくれるなら、もっと素直になってもいいのだろう。
「じゃあお礼に肉まん奢って下さいよ。塚本先輩♪」
「肉まん? まあいいよ。それよりもさ、なんで塚本先輩って呼ぶんだよ。幸人のキャラでそう呼ばれると、なんか違和感すごいんだけど」
「別に理由なんてないですよ。ただいきなり名前呼びはちょっとぐいぐい行きすぎかなって思ってるだけで」
「ぐいぐいって。今更じゃないか? まあ今度から秀一先輩でいいから」
「わかりました。じゃあ早速、肉まんパーティーと洒落込みますか、秀一先輩」
「そうだな……って、おい、パーティーってなんだよ。お前何個食う気なんだよ。ちょ、待てよ。おーい!」
文句を言いながらも秀一先輩はちゃんと追い掛けてくる。
そんな先輩と並んで見る夕陽はとても綺麗で、その手に持った一つの肉まんを食べ、今日のみんなの笑顔を思い出しながら語らう時間は、思い出に残ると言えるものだった。
一年生の初心者、経験者の判断については、公式のプロフィールや、オーディションの結果、アニメでの描写等をかみし判断させてもらいました。個人の解釈と違う方がいらいたら申し訳ありません。