秀一先輩と別れ、帰宅した俺を出迎えたのは見知らぬ人だった。
「ただ」「いらっしゃいませー」
長めの髪を後ろで纏めてポニーテールにし、久しぶりに見たうちの女性用の制服を着ている人。おそらくこの前言っていたバイトの人だろう。
「ああ、夏紀ちゃん違うんだ。そいつがさっき言った幸人だよ」
「そうなんですね。今日からバイトすることになりました、中川夏紀です。よろしくお願いします」
「真島幸人です。こちらこそ、これからよろしくお願いします」
「ところでその制服……北宇治の在校生?」
「はい。北宇治高校一年二組、吹奏楽部所属です」
「おお吹部! 私の後輩じゃん。私も吹部だったんだよね。楽器は?」
「えっ、そうなんですね! 俺はユーフォです! 元々はサックス吹いてましたけど」
「ユーフォ! 楽器まで同じじゃん! えー、低音のみんな元気にしてる?」
「はい! みんな元気にやってますよ。先輩たちも頼りになりますし!」
「おーそっかそっか、それは良かった。大丈夫だとは思ってたけど、黄前ちゃんを部長に指名したのあたし……というか、あたし達だからさ。心配は……別にしてないけど、気になっちゃって。あっ、というかつい敬語外れちゃったけどよかった?」
「へー、そうだったんですね。敬語の方は全然大丈夫ですよ。中川さんの方が年上ですし、OGじゃないですか」
「いやー、そうなんだけどさ。やっぱバ先の人だから」
「まあそうですけど。厳密に言うと俺バイトじゃないんで、気にしなくていいですよ」
「そう? じゃあこのまま行こうかな」
黄前先輩を部長に指名したということは、去年卒業した先輩なのだろう。偶然とはいえ、世の中狭いものだ。
そんなことを考えてると、中川さんが何かを思い出したかのように「あっ」と呟く声が聞こえた。
「そういえばさ、求くんとどういう感じ?」
「どういうと言われても、特に仲が良くも悪くもないって感じですかね。それがどうかしたんですか?」
「いやさ、求くんって緑ちゃん以外にどこか冷めてるっていうか、興味なさそうな感じっていうかじゃん? でも同級生の男子だと仲良い人とかいるらしいって聞いたことがあってさ。後輩の男の子だとどうなのかなって思ったんだけど、やっぱそんな感じか」
「……卒業後も後輩のこと、そこまで気にしてるなんて優しいんですね」
「いやー、優しいっていうか、ふと思い出したらなんか気になっちゃってさ。結局私たちの代ではなにも起きなかったから、あんまり深く関わることもなかったけど、何事もなくあのままってのも求くんにとって良いことなのかなー……とかって思ったこともあったんだよね」
「……俺、間違えてたみたいです。優しくて、頼りになる人だったんですね」
「あははっ、そんな煽てても何も出ないよ」
カランカラン
「いらっしゃいませー」
来客を告げる鈴が鳴り、中川さんは仕事へと戻った。俺は見知らぬお客様に一礼し、自室へ戻り着替えを行う。
それにしても求先輩に仲良くしている人がいるのは意外だ。とは言っても、意外に思うほど求先輩のことは知らない。やはり低音パートで唯一の男子部員同士として仲良くはしたいが、とっかかりが掴めていなかった。
そして、とっかかりが掴めないままその日が来るとは、俺も思っていなかった。
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それはサンフェスを来週に控えた練習中、いつものように高坂先輩の熱い指導がグラウンド中に響き渡っていたある日のことだった。
「トロンボーンの吉澤さん、腕が下がっています。地面と平行になるのを意識して」
「はい!」
「サックスの甲元さん、足が上がってません」
「はい」
メガホンを通したグラウンド中に響き渡るほどの高坂先輩の声が、止まることなくマーチングの行進を続ける俺たちの耳に届く。
そんな最中、高坂先輩による俺たちの足を止める声が響いた。
「ホルンの武川さん、また足が合ってない。ずれたら後ろの子が危ない。前にも言った」
「はい。すみません」
そう遠くない位置で高坂先輩の指摘を受ける武川は、高坂先輩を真っ直ぐ見返し、小さくも力強く返事をする。その揺れる瞳の中だけで反射する陽の光は、なんだか少し眩しく見えた。
今まで武川が指摘を受けることは何度かあった。ただ、その中でも一番力強い返事で、実際のところどうかは分からないが、少しでも力になれていたらと思うと嬉しかった。
「ユーフォの真島くん、歩幅が大きい。あなたにも何度も言ってる。足とか踏んだら前の子が危ない」
「はい! すみません!」
練習に一区切りつき、パート関係なくそれぞれ散っていく。早速、求先輩に声をかける口実に、ドリンクを2本持って近づく俺の耳に怒り混じりの声が届いた。
「だから、いちいち声に出して言わなくても良いだろ‼︎」
それは、俺が背後にいることにも気付かないほど興奮している求先輩の声。しかも、最早見慣れているはずの針谷に対して声を荒げていて、何かがあったことは一目瞭然だった。
「求せんぱーい。俺ら一年、そんな声出されたらビビっちゃいますよ。針谷、なんかあったの?」
「えっと、管理係の先輩に名簿に誤字がないかチェックをお願いされたんだけど……」
「あーね、なるほど」
求先輩の事は把握しつつも、突然の事に驚いている針谷が持つ名簿を覗き見る。
月永求
確かにそこに誤字は無い。とはいえ、針谷自身そんなことはわかっていたのだろうが。
「大丈夫、誤字は無いよ。ついでに俺のもね。だからここはもういいよ」
「あー……うん。ありがとね」
困ったような苦笑いを浮かべる針谷をそのままに振り返ると、そこにはすでに求先輩はいなかった。
「ありがとね、幸人くん」
「川島先輩。いえ、大したことはしてないです」
それにしても今まで、苗字を呼ばれて怒ることはあったが、今回のように少々理不尽なことは無かった気がする。
特に今回、針谷は同じパートで事情を知っているし、人の嫌がることをするタイプではない。今回の事もあくまで形式上だということは、求先輩も分かっているはず。それでも怒ったということは、それぐらいピリピリする程の何かがあったと言っているようなものだ。
「川島先輩、求先輩のことなんですけど、どうしてあんな感じなんですか?」
「……明確な理由はわからないんだけど……心当たりは……あるかな」
「それって教えてもらうことはできますか?」
「……いいけど……その前に場所、移そっか」
「そうですね」
川島先輩の後に続き、歩みを進めると、だんだん人の声の届かない場所へ辿り着く。そしてその場所では、1人声を発する川島先輩の声が、嫌によく届いた。
「求くん、中学までは中高一貫の龍聖学園に通ってたんだけど、高校から北宇治に来たの」
「えーっと、そのまま高校に入れたのに、わざわざ外部受験したってことですか」
「もちろんそういう人がいないわけじゃないんだけど、求くんあんな感じでしょ。しかもその年、龍聖の吹奏楽部の顧問になったのが月永源一郎先生だったから、同じ苗字だし、求くんと何かあるんじゃないかって……」
「なるほど。家族の問題かもしれないから触れづらい……と」
川島先輩は陰口を言うタイプではないのだろう。俯きながら話すその顔は、「ごめんね」とそう言っているようだった。
「そうなんです。私たちもどこまで踏み込んでいいか、わからなくて」
「まあ家族の話だとそうなりますよね」
家族の話。それも、あまり良くないことだと予想できる話は、特に難しい。俺にも似たような経験があったから、よく分かる。だが、もしかしたら……
「だから幸人くんも、あんまり言いふらさないでね」
「それはもう、もちろんですよ」
「さてと、これで緑に分かることは全部です。練習に戻りましょう」
「はい」
グラウンドへと戻る足取りは重い。当然だ、それだけの話をしたのだから。川島先輩の話から想像するに、求先輩は月永源一郎という人物の家族で、その人の事を恨んでいるのならば。もしかしたら、俺には彼を理解できるかもしれない。そんな予感が頭をよぎった。
「……お疲れ様でした……お先に失礼します」
今日の練習が終わり、求先輩が俯きながら教室を出ていく。あんないざこざがあったのだ、居心地だって悪かったのだろう。小さくなっているその背中に挨拶を返すみんなも、どこかぎこちない。
「俺もお先に失礼しまーす。おつかれさまでしたー」
その空気を壊そうと、できるだけ明るく挨拶をしてみたが、あまり効果はないようで、その返事は明らかに空元気だった。
すっかり見えなくなった求先輩の背中を追いかけると、ちょうど校門を出て行く所の様で、その背中を見失わないよう走って追いつくのはいつも走っている俺にとって、そう時間はかからなかった。
「求せんぱーい」
「何」
求先輩が振り返りながら、ぶっきらぼうに応える。
その言葉には、明らかに拒絶が混ざっていた。
「いやー、求先輩と同じ低音パートの唯一の男同士として、腹割って話したいなーと思いまして」
「は? 僕はそんな気分じゃないんだけど」
この反応は予想通りだ。おそらく、いつ声をかけてもこんな反応だっただろう。そして今までの俺なら、ここで引いていた。
だがそれは今までの話。
「まあまあ、そんなこと言わずに。俺と求先輩、似た者同士だと思うんですよね。だからきっと、話も合うと思うんです」
「そんな訳ないだろ。僕とお前を一緒にするな」
「それが、実はそんなことないと思うんですよね。ただその前に一つ、謝らないといけないことがあります。求先輩の話、聞いちゃいました。月永源一郎さんと何か関係があるんじゃないかって」
「お前には関係ないだろ! これ以上僕を怒らせないでくれ!」
怒りのままに振り返った求先輩は、そのまま俺を置き去りにして去って行く。このまま行かせてしまえば、もう2度と求先輩が心を開いてくれることはないだろう。それだけは避けなければならない。
求先輩の足を止めるためには、まずこちらに興味を持ってもらう必要がある。少しずつ、でも確実に離れて行く姿を追いかけ、さらに言葉を続けた。
「勝手に話を聞いてしまったことは謝ります。でも、月永源一郎さんのこと、恨んでるんじゃないですか? しかも家族ですよね」
「何度も言わせるな!」
「俺もなんです」
「は?」
こちらへ振り返った求先輩の顔は驚きの表情に満ちていて、その場で固まっていた。
「俺も、家族のこと恨んでたんです。殺したいほどに」
「何を言って……」
俺は求先輩の目を見続けた。この言葉が真実であると信じてもらうために。今の求先輩に、これ以上言葉を重ねても無駄だと、そう感じたから。
そしてしばらく見つめ合うと、求先輩は何か言い返そうとして口を開き、すぐ閉じた。しばらく驚きに染まっていた顔は、何か考え込んだかと思うと、どこか諦めたような落ち着きを見せていた。
「その言葉が本当なら、やっぱり僕とお前は似た者同士じゃないよ」
「なんでですか?」
「教えない。まだお前の話を聞く気になっただけだから」
「そうですか。じゃあ求先輩、場所変えませんか?」
「なんで?」
「いや、湿っぽいと言うか、我ながら重たい話になるんで。サンフェスの練習で汗もかきましたし、銭湯なんてどうですか? 裸の付き合いなんて、こういう話の定番じゃないですか」
「……はぁ、いいよ。なんか毒気抜かれた。好きにしろよ」
「じゃあ早速行きますか!」
赤く染まる太陽を背に、2人並んで歩き出す。
自分のことを他人に話すのは初めてだ。今となっては気にしているわけではないが、どうしても重たい話にはなる。そこら辺は場の空気に任せるしかない。
求先輩が自分のことを話す気になったのかは、まだわからないが、さっきの様子を見るに少なくとも今の状況は脱したと思っていいだろう。
だとすれば、今の俺にできることは、求先輩と腹を割って話して、先輩が少しでも前を向けるようになることを願うことだけだ。