町外れの銭湯には、ちらほらと客の姿があった。それでもお互いの会話が届くほどの近さはなく、ゆっくりと落ち着ける空気が漂う。
夕焼けが差し込む露天風呂は、俺の話を感傷的な雰囲気で包み込み、自然と口を軽くなる。静寂が訪れる頃には、星が少しずつ瞬き始めていた。
周りの客がサウナへ移動し、辺りから人の気配が消えた頃、それを見計らったのか、それともたまたまか今まで静かに俺の話を聞いていた求先輩の口が開く。
「お前はさ、なんでまだ音楽やってるの? 久石だけが理由ってわけじゃないんだろ」
「まあそうですね。奏先輩はあくまで吹部に入ったきっかけなので。改めて何でかって聞かれたら、やっぱり楽しいから……ですかね」
「楽しいから……か」
「はい。別に高校で音楽やろうと思ってた訳じゃなかったんです。それでもサックスは続けてたでしょうし、高校卒業したら音楽の道に進むんだろうな、なんて漠然と思ったりしてました。でも、それはやっぱりただ流されてる、とかそれしかやってこなかったから、とかだけじゃ無くて、音楽をやってて楽しいって気持ちはあって、合奏の楽しさを知った今だからこそ改めてそう思ってます」
「そうか。自分が楽しいから。自分がやりたいからやってるんだな」
「はい」
夕暮れ空に輝き始めた星を見るように上を向いた求先輩の呟きは、周りの湯気に消えそうな程小さい。
「……僕もそんな風に思っていいのかな」
「どういう事ですか?」
求先輩は顔を見上げたまま、少し寂しそうな表情を浮かべ、ゆっくりと話し始めた。
「お前はさっき僕のこと似た者同士だって言ってたけど、やっぱりそんなことないんだ。だって僕は家族のことを……じいちゃんのこと、嫌いなわけじゃないから。今も、昔も」
そう呟く求先輩の顔はほんのりと赤くなっていたが、随分と穏やかだった。
「僕、姉ちゃんがいたんだけど、昔から2人でじいちゃんに楽器を教えてもらってて、じいちゃんとの仲だって良かったんだ。それで姉ちゃんはじいちゃんが指導してる学校に入学したんだけど、でも指導者の孫って事で妬みとか演奏と関係無いところで苦しんだみたいでさ……」
北宇治では今のところ、そういった話は聞いたことは無い。だが集団で活動している以上、切っては切り離せない話なのだろう。
「でもじいちゃんはそんなこと気にしないで実力を見てコンクールメンバーに選ぼうとした。そのせいでもっと揉めたみたいなんだ。姉ちゃん、吹奏楽の事あんなに好きだったのに病気になって、最後はその気持ちがなくなったまま……」
その先を、求先輩は言葉にしなかったがそれは必要ないし、言わせるのも酷だ。
「求先輩が北宇治を受験したのは、おじいさんのところで吹奏楽をやりたくなかったからって事ですか」
「……なんか姉ちゃんが想像していた楽しい吹奏楽をやらなきゃ、姉ちゃんに悪い気がしたんだ。でも、姉ちゃんをあんな風にしたじいちゃんの所ではそんなことできないって、多分そんなこと考えてた」
まるで水面に浮かぶ自分と見つめ合うように下を向く求の口は、小さく開閉を繰り返しながら、それでも言葉を紡いでいく。
「僕が姉ちゃんの代わりに弾き続ければ、姉ちゃんが失くしたものを取り戻せる気がしてた」
静寂が訪れたその場に、小さい水音が聞こえ、隣を見ると、求先輩は石縁に背を預け、空を見上げていた。
「でも違うんだよな……たぶん。じいちゃんは悪くないし、そもそも僕の知ってる姉ちゃんは、僕が誰かを責めることを望んだことなんてなかった。それに、姉ちゃんのためにって思うことも」
「だから僕もってことですか」
「……改めて考えたらさ、やっぱりこの場所でやる吹奏楽は楽しいなって、ここでやりたいなって、そう思った。じいちゃんがとか姉ちゃんがとか関係なく、僕が」
「そうですか」
求先輩のその言葉には否定も肯定もいらない、そんな気がした。だって他ならぬ彼が決めたことだから。
「そうですかって冷たいな」
「何言ってるんですか。こんなにあったかいじゃないですか」
「……そうだな」
求先輩はゆっくりと顔をこちらに向ける。今まで見たことないほど優しい顔の背後には、明るさの残る空に、まだ薄い満月が輝いていた。
「ありがと。幸人」
「自語りしただけなんで、お礼なんていらないですよ。って、そんなことより今、幸人って呼びましたよね!」
「呼んだよ。幸人も求でいいから」
「いやいや俺は元々、求先輩って呼んでるじゃないですか」
「ここまで腹割っておいて野暮なこと言わせるなよ。敬語もいらない」
「わかったよ。これからもよろしく求!」
「ちょっ、裸で肩を組んでくるな! 離れろ幸人!」
未だに人が来ないのをいいことに、求と少しの間ふざけあう。やがて満足し、ゆっくり温泉に浸かり直すと、隣から小さな呟きが聞こえてくる。
「こんな綺麗な星空、久しぶりに見た気がする」
「星空って言うにはちょっと早いけどな」
「いいんだよ、それでも」
2人で見上げる夜空はまだ明るさを残し、目立つ星もまだ数えるほどしか見えない。それでも、空には雲一つなかった。
そんな風にゆっくりしていると、まだ分かっていない一つの疑問が、ふと頭をよぎる。
「そういえば、なんで最近荒れてたんだ?」
「ん? ああそれは、この間姉ちゃんのところに行ってきたんだ。その時、じいちゃんから龍聖に転校しないかって言われて」
「それで荒れてたのか」
「まあ、もう戻るつもりはないよ。僕の居場所は北宇治にあるって、そう思うから」
「そっか。それで、おじいさんにはその事伝えるんだろ?」
「……まあそうなるよな」
「そう嫌そうな声出すなよ。今から連絡しようぜ! 鉄は熱いうちに打て、体も熱いうちに連絡しろってことで」
「なんでそうなるんだよ」
「じゃあいつまでもこのままにしておくつもりなのか?」
「そうじゃないけどさ」
「じゃあいいじゃん! 行こうぜ!」
お互いに赤くなった顔や手の皺に時の流れを感じながら、手早く着替え銭湯を出る。
その場でキョロキョロと辺りを見回した求は、躊躇いつつもポケットからスマホを取り出した。
「もしもし、じいちゃん……うん、僕。あのさ、転校の件なんだけど……いや違うんだ。やっぱり僕は北宇治がいい。……うん、ここが僕の居場所だって、そう思うから。……うん。ありがとうじいちゃん、色々考えてくれて。でももう大丈夫だから。……うん、また今度顔出すよ。じゃあまたね……うん、おやすみ」
耳からスマホを離した求はどっと疲れたように肩を落とし、大きなため息をつく。多分緊張したのだろう。だがその顔は晴れやかだ。
「じいちゃん、分かってくれた。僕がそうしたいなら、そうすればいいって」
「良かったじゃん」
「うん。良かった……本当に……」
「今の表情、今まで見た中でいい表情してるよ」
「そう?」
「ああ。それなら後輩の女の子泣かせることもないだろうな」
「うっ、そういえば針谷にも謝らないとな」
「本当だよ、全く。これ以上後輩のことビビらせないでくださいね。先輩」
「わかってるよ。もう大丈夫」
そこで言葉を切り、こちらを見つめる求の表情は、真剣なものに変わっていた。
「あのさ、頼みがあるんだけど……」
「何?」
「僕が自分のこと誰かに話そうと思った時、もし逃げそうになってたら……また背中を押してほしい」
「いいよ。ただ、そん時は真っ赤なもみじ付けてやるから逃げようなんて思わない方がいいぞ」
「ははっ、それは逃げられないな」
求と初めて2人で帰るその道は明るく照らされている。そんな中を歩く俺達の会話は、分かれ道まで途切れることはなかった。
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次の日、授業が終わり日直の仕事を片付けてパート練の教室へ向かい、ドアを開け挨拶をする。
「針谷、ごめん。昨日は俺が悪かった」
「えっ、あっ、いやっ……えーっと……そのー……」
「おつかれさまでーす。すみません遅くなりましたー……って、すみません。なんかタイミング悪かったですか?」
そこには異様な雰囲気が漂っていて、中にいる人たちは皆目を丸くしている。その原因は針谷に頭を下げている求だろう。
「ああ、お疲れ幸人。針谷に謝ってただけだから大丈夫だよ」
「いや、求に言ったわけじゃなかったんだけど……まあいいか。それで針谷は許すの? 気に入らなかったら蹴りの一発でも入れていいけど」
「いやいやいや、そんな事しないよ。元々気にして無かったし」
針谷は驚いた顔をしながら体の前で大きく手を振っていて、本当に気にしていないのが一目でわかった。
「だってさ。針谷の心が広くて良かったな求」
「そうだな」
「いや、解決みたいな空気出してますけど、どうして月永くんはいきなり針谷さんに謝ったんですか? 真島くんとも仲良くなってるみたいですし」
「別に。ちょっと幸人と腹割って話しただけだよ。久石も話してみたら? いい奴だよ」
「……いえ、遠慮しておきます」
求の声色に苗字を呼ばれた事に対する嫌悪の色は無かった。それは奏先輩も感じたのだろう。そんな風に言い返されると思ってなかったのか、少し頬を赤くしながら求から顔をそらす。
目をつぶっている奏先輩は気付いてないようだが、その先には俺がいた。恥ずかしさの中に少しの不満が混ざったようなその顔も、次第に何かを考えているようなものへと変わっていく。
その表情は、俺には一度も見せたことがないもので、思わず目が離せなかった。やがてゆっくりと瞼が開き、その大きな瞳と見つめ合う。だが、真顔になった奏先輩が何を考えているかは分からなかった。
「あの、そんなに見ないでもらえます? 普通に恥ずかしいので」
そう言う奏先輩の声には、以前ほどの棘が無くなっている気がした。
「すみません、可愛かったのでつい」
「まあ私が可愛いのは事実なんでしょうがないですけど、我慢してください」
「前向きに努力する方向で善処します」
「やらないじゃないですか、それ」
「じょーだんに決まってるじゃないですか。嫌われたくないですし」
「ならいいです」
やっぱりだ。今までならここまでの軽口に付き合ってくれることはなかった。もちろんこれで全てが上手くいくとは思わないが、少なくとも嫌われているとは感じない。
何が奏先輩をそうさせたのかは分からないが、とりあえず一歩前進ということでいいのか? 何かをした覚えがない分、正直、実感は薄かった。
とりあえずいい方向に向かってはいるのだろうが、なぜそんなことになったか分からない分、今後どうすればいいか見当もつかない。だがまあ、なるようになるだろう。
今回の話は皆さんの中で特に解釈違いをおこす方が多いと思うので、この様な展開にした私なりの解釈を語らせて下さい。
この小説はアニメ版をベースにしていますが、求の展開として求が久美子を駅で待ち伏せしている時点で求の中で既に心の整理はほとんどついていると私は解釈しました。つまり、求に必要だったのは心の整理をつける為の時間と、きっかけだったんじゃないかという解釈です。そのきっかけが、龍聖への転校の話で、時間はサンフェス前の荒れていた時期からサンフェス後までの時間です。
そして今回この小説内では、きっかけはそのまま転校の話ですがアニメ版と違う時間という部分を主人公である幸人と話すことで1人で整理をつけるよりも早いタイミングで整理をつけるという展開にさせて貰いました。
今回幸人の過去の話を詳しくは書きませんでしたが、必要なのは求がどうしたいのか、どう思っているのかという所だと思い、今回は幸人の話をカットさせて貰いました。
緑との演奏シーンも好きなので是非入れたかったのですが、急に幸人が緑の話をふったり、求が緑の事を話し出すのに少し違和感を感じ、この小説内ではそのシーンに持っていく要素を入れられないと感じ泣く泣くカットする方向になりました。求緑ファンの方には大変申し訳ありません。
ここまで読んで頂きありがとうございます。これからも私なりの解釈が入ったりする事がありますが、お楽しみ頂ける事を願いますし、お楽しみ頂けるよう頑張らせて頂きます。