スペースオペラの始まり 作:匿名の筆者
スペードエースという惑星が、そこにはあった。
人類にはとある慣例がある。
海洋惑星には、トランプの五十二枚にちなむ名前を付ける、という慣例だ。
望遠鏡の彼方で見つかった海洋惑星は、数十に及ぶが……トランプの名前すら使え切れぬほど、珍しかった。
惑星自体は見つかるし、恒星系も見つかる。
適切な恒星との距離、適切な衛星との距離、適切な惑星軌道……
海洋惑星はそれらのチェックを乗り越えた惑星である。
探査ロケットに乗る面々は、海洋惑星を前にして緊張していた。
スペードエースを既に五周ほどして、もはや飽き始めるほど夜も昼も惑星を見つめた。
着陸の準備のためにシートベルトを全身に巻き付けたし、ありとあらゆる物体は固定した。
着陸前の宇宙飛行士たちの表情は、緊張の中にあったが……同乗する研究者らと共に、和気藹々と議論を交わす最中。
「ようやく着陸軌道に入ったな。」
「ああ、全くだ。実に長かった……コールドスリープがなければ、こんなのヨボヨボの老人になっちゃうよな」
「もしも、と言ってもほぼ確実だが土のサンプルがホントにあったらどうする?」「そりゃ持ち帰るさ、人類の使命にかけて!」
研究者は、食い気味に言った。
彼は宇宙ロケットの中で唯一の妻帯者であり、また唯一の家庭を持つ男であった。
40半ばの年齢にして、このロケットの中では比較的若年層である。
「ハハ、そうだな。」
「ま、入植が始まるのはいつになるんだか知らないが、とにかくあの惑星の一歩が人類の一歩だよな!」
「一歩、か。言うのは簡単だがな」
船長は操縦席の固定ベルトに体を預けながら、小さく笑った。
正面にある頑丈な窓の向こうには、太陽の光を反射して青く沈むスペードエースの球体が広がっている。
「おいおい、船長。ここで弱気になられては困るよ。僕らは人類の歴史で、最も偉大な『記念碑』を打ち立てに来たんですからね!」
若い研究者が、台座に固定された端末の画面を叩きながら声を弾ませて笑う。
目線の先にある画面には、電波探査機が捉えた地表のデータが次々と更新されていた。彼の声には興奮が混じるが、その指先は正確に信号の確認を行っている。
「弱気じゃないさ。これほど条件の揃った『スペードエース』だ。何が起きてもおかしくないと思ってな。お前たちを無事に歩かせるのが、俺の仕事だからな」
船長は正面の気圧計を確認し、隣の研究者へ視線を向けた。
何らかの計器だらけのロケットの中では、そのどれもが見つめられている。
「確かに、事前のデータにない上空の空気の乱れは気になります。ですが、だからこそ直接土を回収する価値がある。地球に残してきた妻にも約束したんですよ。『お前が庭に植えたがっていたトマトが育つような、最高の土を必ず持ち帰る』ってね」
研究者はそう言って、防護服の内ポケットに収められた、保護加工済みの家族写真に触れた。
数十年に及ぶコールドスリープの間、ずっと彼を支え続けてきた大切な写真だ。
「トマトか、いいな」
「救荒植物の一種だろ?天然のケチャップソースに使うとかきいた事がある」
船長はふっと表情を緩め、自分の胸元に一度目を落とした。彼に家庭はないが、部下が背負ってきたものの重さはよく知っている。
「惚気は着陸船の扉が開いてから、いくらでも聞いてやる。だからお前も、その土を絶対に持って帰るんだぞ!」
「はい!」
研究者が力強く頷く。極限状態の任務において、船長のその一言は、全員の緊張を解きほぐす確かな支えになっていた。
降下準備……各員は固定装置のロックが正常であるか確認してください……繰り返します……
主警告灯の電子音が操縦室に響く。
軌道を外れて降下する最終段階への移行を示す合図だ。
「よし、お喋りはここまでだ。大気圏突入の手順を開始する。全員、ベルトの固定を確かめろ!もう一回だぞ!」
船長の声が、一瞬で切り替わる。
乗組員たちも無言で各自のベルトを引き締めた。
室内の棚にあるすべての機材は、すでにボルトで壁にしっかりと留められている。
有人着陸という偉大な事業を前にして、室内は換気装置の動く音だけになった。
これまで人類が搭乗したまま着陸した海洋惑星は存在せず、人類の有人飛行による最到達地点は冥王星に留まっていた。
照明が深い青色へと切り替わり、文字盤のデジタル数字が乗組員たちの目元を青白く照らす。
「スペードエースへの降下経路は予定通り。姿勢制御まで、5!4!3!2!1,」
船長の目線が警告文に流れると、直後、船体に重い振動が伝わり始めた。
上空の薄い空気が、凄まじい速度で突き進む船体と衝突し、体に加わる重力が確実に増していく。
「くっ……!」
研究者が短く息を漏らす。
人工冬眠明けの肉体に、自分の体重の数倍の圧力がのしかかる。
防護服がなければ、推力に押し潰されていたのではと疑うほどの圧力。
窓の外は、摩擦の熱によって発生した光の壁で満たされていく。
未知の地表へ高度が下がるにつれ、不規則な風による衝撃が、規則正しい重音へと変わっていく。
ロケットの制御をするコンピューターが推力を調整すれば揺れ、まるで振り子かのように規則的な揺れへと変わった。
計器の高度表示が、急速にゼロに向かっていく。
「電離層突破!高度60……いや56キロ!現在の速度は1.229!」
「まっずいコレ着陸予想地点からちょっとズレるぞ!ヤバい、衝撃に備えろ!」
言葉を取り繕う暇もなかった。
一秒一キロの速度の世界で角度がズレた……それが何を意味するのか。
コンピューターの自動音声が、通信機から流れる。
船長の声に耳を傾けた乗員らは、焦り出した。
「高度3600……3540!ようしここら辺だ逆噴射!……激しく揺れるぞ、根性で耐えろ!」
船長がレバーを引くと、足元から凄まじい逆噴射の衝撃が加わった。
神に祈りを捧げることしかやることが無い。両手両足を折り畳んだ姿勢で耐える研究者たちは、必死の形相で祈り続けた。
どれだけの時間が流れたか、もはや誰にも分からない。
時計は世界一の正確さで時間を示してくれるが、心の中ではとてつもなく長い時間を過ごした。
警告音は鳴り止まなかったが、着陸まであと二秒というところまで来た。
ゴゴゴゴゴという逆噴射の轟音は、毛羽立った心を逆撫でする
刃だ……もし着陸失敗すれば、というifが全員の頭に過ぎっていた。
パ───────
室内へと窓越しに閃光が迸る。消火開始の合図だ。
窓を覆っていた炎が消化されると、外部の視界がはっきりと開けた。
「これが……スペードエースの地表か」
研究者は必死に息を吸い込みながら、窓の外を凝視する。
そこに見える大陸は、赤褐色の岩と、丸くなった灰色の砂でできていた。
青く広がる大洋の境界線には、高い波によって削られた岩礁が連なっている。
生命を拒絶するような無機質さだが、同時に圧倒的な存在感を放っていた。
動きを止めた電子機器の音だけが残る、圧倒的な静寂の中で、命が救われたことよりも先に、誰もが窓の外を見つめていた。
「接地完了。推力停止済。各系統、待機状態へ移行」
船長が大きく息を吐き出し、目元の遮光板を跳ね上げた。
彼の額にはびっしょりと汗が浮かんでいる。
船長は肩の力を抜くと、隣の研究者を振り返ってニヤリと笑った。
「着いたぞ、科学者どの。」
「本来の着陸地点との誤差は29メートルとちょっとだ」
「いやあ、危なかった……」
全員が危機を思い出す。
命の危機にあったと言っても過言ではなかった。
警告文と共にハッチを開けると、船内は壁を隔てて見えなくなった。
船内組に選ばれた9名は手を振り、ロケットの中から飛び跳ねる背中を黙って見つめた。