【白狼の巣】へ足を踏み入れた瞬間、胸の奥に引っ掛かっていた違和感が、確信へと変わった。
(……やっぱり、ルーダ達と来た時より広い気がするな)
以前ここへ来た時の景色は、今でもぼんやりと覚えている。
もっと通路は狭く、圧迫感のある洞窟だったはずだ。
横幅は一回り以上広がり、天井も高い。壁面には見覚えのない亀裂が無数に走り、まるで内側から何かに押し広げられたような不自然さがあった。
自然に形が変わった、という程度では説明がつかない。
(宝物殿そのものが成長する。なんてことがあるのだろうか?)
洞窟の奥から吹き抜けてくる風は冷たく、湿っていた。
どこか獣の匂いにも似た生臭さが鼻を掠める。その中を、僕たちは慎重に進んでいた。
先頭を歩くスヴェンが周囲を見渡し、小さく鼻を鳴らす。
「拍子抜けするくらい何も起きねえな」
その隣を歩くプルート君も、周囲へ視線を巡らせたまま静かに頷いた。
「はい……異常が起きていることは間違いありません。ですが、その原因が見当たりません」
視界の先には、ただ長く続く洞窟。
幻影の気配は感じられない。静かだった。
聞こえてくるのは、靴底が岩を踏む音と、誰かの鎧が微かに擦れる音だけ。
普通の宝物殿なら、ここまで進めば最低でも数体は幻影と遭遇する。
スヴェンは肩を竦める。
「クライ、お前の神眼も曇ったか? ……まあ、戦わずに済むなら、それに越したことはねぇが」
(神眼って何さ)
そんな大層なもの、僕は持っていないんだけど。でもまあ、せっかくだからそれっぽく頷いておく。
「油断はしないようにね」
僕は少しだけ勿体をつけて言ってみる。
「油断している時に襲ってくるのが、宝物殿だからさ」
「ああ、分かってる」
スヴェンは軽く頷くだけで、それ以上は何も言わなかった。
だが、その視線だけは一度も洞窟の奥から外れない。
すると、その後ろから興奮したような声が上がった。
「そうか、これが噂に名高い『千の試練』ですか」
「これが……」
「ワクワクしてきたぜ!」
「そうだねぇ」
《小さな惑星》の面々が、それぞれ期待に満ちた表情を浮かべる。
(……やめておくれよ)
思わず心の中で頭を抱えた。
クランメンバーが僕のその場しのぎの指示を勝手に『千の試練』なんて呼んでいることは知っていたが、まさか他のクランにまで広まっているとは思わなかった。
恥ずかしさで思わず顔が引きつく。穴があったら入りたいとは、きっとこういう気分を言うのだろう。
そんな僕にはお構いなしに、一行は慎重な足取りで洞窟の奥へ進んでいく。
その時だった。
「クライ君、クライ君」
「え?」
突然名前を呼ばれ、反射的に振り返る。
少し離れた横道の入口で、ハウメアがこちらへ向かって手招きをしていた。
「ちょっと来て」
ハウメアは軽く手招きをする。
「あ、はい」
何をするつもりなのか分からないまま、僕は素直に返事をした。でも、呼ばれたらついて行ってしまうのが僕という男だ。
僕はハウメアの待つ細い横道へ足を向けた。その事に誰も気が付かないまま一行は先へ進んでいった。
—————
1時間ほどが経過した。
それでも状況は何一つ変わらない。
幻影は一体も姿を現さず、罠らしい罠も見当たらない。
洞窟内には靴音だけが乾いた音を立て、静寂だけが延々と続いていた。
これほど長時間、何も起きない宝物殿など聞いたことがない。その静けさが、かえって不気味だった。
本来なら、この規模の宝物殿であれば何度も戦闘が発生していておかしくない。
異常なのは間違いないが、その異常がどこにあるのかだけは誰にも分からなかった。
やがて緊張にも慣れ始めたのか、一行の空気は少しずつ和らいでいく。武器を構え続けていた者もそう長くは続かない。肩の力を抜き小声で言葉を交わし始める。
そんな中、プルートは前を歩くスヴェンへ声を掛けた。
「スヴェンさん」
「ん?」
「以前、僕達のクランから勧誘されたことがあったそうですね」
突然の話題だった。スヴェンは一瞬だけ目を丸くし、それから苦笑する。
「……なんだ急に」
「クアンさんから聞きました」
「ああ、あいつか」
懐かしそうに笑みを浮かべる。
「元気にしてるか?」
「はい。今でもスヴェンさんの話をしています」
「そうか」
短い返事だった。だが、その声音には昔の仲間を思い出すような柔らかさが滲んでいた。
「確かに誘われたよ。帝都最強クランだ。普通なら断る理由なんてねぇ」
「それなのに断った理由を聞いても?」
スヴェンは頭を掻きながら言う。
「俺は誰かの下で動くより、自分で好き勝手やってる方が性に合ってる。それだけだ」
実にスヴェンらしい答えだった。
そして、横を歩いていたマリエッタが肩をすくめる。
「『足跡』に入った理由だって、それくらい単純だものね」
「ガハハハハ!まあな」
豪快に笑うスヴェン。その笑いにつられ、周囲からも小さな笑みが零れる。先ほどまでの重苦しい空気は、いつの間にか少しだけ薄らいでいた。
誰もが心のどこかで思い始めていた。
――案外、このまま何事もなく終わるのではないか、と。
だが、その考えは一瞬で打ち砕かれることになる。
歩き続けていたスヴェンが、不意に足を止めた。
「……ん?」
スヴェンはゆっくりと足を止める。そして、違和感を覚えたように、後ろを振り返った。
「おい」
視線が隊列の後方を探す。
「クライはどこ行った?」
その一言で、場の空気が変わる。
プルートも反射的に後ろを見る。
そこにいるはずの人物が、いない。
ティノも慌てて辺りを見回す。
「ますたぁ……?」
返事はない。誰も答えなかった。
ほんの少し前まで、確かに最後尾を歩いていた。
誰一人として、姿を消した瞬間を見ていない。
「いや、さっきまで――」
その時だった。
洞窟全体を震わせるような低い声が響く。
『もういねぇよ』
場の空気が一変した。誰もが息を呑み、洞窟の静寂がさらに深くなる。
『喰っちまったからなぁ』
誰も動けなかった。
「なんだ今の!?」
「全員、武器を構えろ!!」
スヴェンの怒号が洞窟へ響く。
その叫びより早く、《黒金十字》も《
剣が抜かれ、槍が構えられ、魔力が一斉に練り上げられる。
「ちっ……どこだ!」
ケレスが周囲を睨みつける。
だが、何も見えない。
気配も。殺気も。
存在そのものが感じ取れなかった。
――次の瞬間。プルートの視界から、スヴェンが消えた。
理解が追いつくよりも早く、爆発にも似た轟音が洞窟中へ響き渡った。
反射的に振り返ったプルートの視界に飛び込んできたのは、岩壁へ叩き付けられたスヴェンの姿だった。
その体は岩盤へ深々とめり込み、衝撃で走った無数の亀裂が蜘蛛の巣のように周囲へ広がっている。
「スヴェンさん!」
思わず叫ぶが返事はない。
何が起きたのか、誰にも理解できなかった。
誰がスヴェンを吹き飛ばしたのか。いつ攻撃されたのか。どうやってあの一撃を放ったのか。
その瞬間を見ていた者は、一人としていない。
ただ、誰もが同時に気付く。
――そこに、“それ”が立っていることに。
いつ現れたのかすら分からない。
まるで最初からそこにいたかのように、洞窟の中央へ巨大な白狼が静かに佇んでいた。
あまりにも巨大だった。洞窟の天井へ届きそうなほどの巨躯、雪原よりなお白く輝く毛並み。黄金色に輝く双眸は、ただそこにいる全員を見下ろしているだけだというのに、視線を向けられた者の背筋を凍らせる。
頭部からは王冠を思わせる巨大な角が天へ向かって伸びている。
その姿は狼というより、一柱の神が獣の姿を借りて現れたかのようだった。
ゆっくりと前脚を踏み出すだけで大地が低く唸り、洞窟全体が微かに震える。
息をすることすら忘れるほどの威圧感だった。その場に立っているだけで、洞窟の空気そのものが塗り替えられていくように感じる。
誰一人、その存在から目を離すことができなかった。
そこに立っているだけでこの空間すべてが支配されていた。
プルートは知らず知らずのうちに息を呑んでいた。
目の前にいる”それ”を前にすると、身体が動かない。
戦わなければならない。頭ではそう理解している。それでも、身体は一歩も前へ出ようとしない。
理性を押し退けるように、本能が全力で警鐘を鳴らしていた。
――この存在は、自分たちが相手にしていいものではない。