——やっぱり、強いわね。
拳を軽く握り直しながら、エリス・シャドウは口元をわずかに吊り上げた。
胸の奥では心臓が高鳴っている。
恐怖ではない。高揚だった。目の前に立つ少女を見据える《絶影》リィズ・スマート。
探協でも知らぬ者はいないほどの二つ名を持つ女。
その異名は、決して誇張ではない。互いに動かない。視線だけが静かに交錯する。
張り詰めた空気が訓練場を包み込み、肌を刺すような緊張だけがゆっくりと濃くなってい
く。
――来る。その瞬間、リィズの姿が消えた。
「――っ!」
考えるより先に身体が沈む。本能が警鐘を鳴らしていた。頭上を鋭い風圧が駆け抜ける。髪が揺れ、空気を裂く蹴りが鼻先を掠めていった。
ほんの一瞬でも反応が遅れていれば、まともに食らっていただろう。
(相変わらず……速い!)
だが、そこで止まる理由にはならない。
両手を床へ突き、指先で石床を掴む。
腕と脚へ一斉に力を込めると、身体は弾かれたように飛び出した。
一歩ではない。四肢すべてを使って床を蹴る。人らしい体裁など最初から捨てていた。それがレベル6ハンター、《紅狼》エリス・シャドウの戦い方だ。
獲物へ喰らいつく狼のように、一気に間合いを潰す。
「はぁっ!」
腰を捻り、右拳を突き出す。
だが、拳が貫いたのは空気だけだった。
「エリスちゃん、さっすがー!」
声は背後。
振り返るより速く、回し蹴りが飛んでくる。
咄嗟に両腕を交差させる。
次の瞬間、骨まで響くような衝撃が全身を揺らした。
「くっ……!」
靴底が床を擦る。
一歩。
二歩。
三歩。
ようやく勢いを殺したところで、エリスは息を吐いた。
(重い……!)
速いだけじゃない。
一撃一撃が信じられないほど重い。
まともに受け続ければ、先に身体が悲鳴を上げる。
「このっ!」
蹴りを受け流すと同時に姿勢を落とす。
低く。
さらに低く。
床を舐めるほど身体を沈め、そのまま飛び掛かった。狼が獲物へ襲い掛かるように。
右拳。
躱される。
左肘。
それも空を切る。
止まらない。
肘を引く勢いで膝を跳ね上げ、そのまま肩をぶつけにいく。
拳。
肘。
膝。
肩。
呼吸を許さない連撃を繋ぎ続ける。
一瞬でも止まれば、この相手には逃げられる。
だから止まらない。
止まれない。
拳が風を裂き、肘が空を叩き、膝が虚空を蹴る。
あと少し。
拳一つ分。
指一本分。
それなのに届かない。
(見えてる……! 見えてるのに!)
リィズは大きく避けているわけではない。
肩をわずかに傾ける。
半歩だけ重心をずらす。
それだけでエリスの猛攻を紙一重でかわしていく。
「わっ、速い速い!」
当の本人だけは楽しそうに笑っていた。
「もうちょっとで当たるところだったよ!」
「あんた、本当にそう思ってる?」
息を切らしながら笑い返す。
悔しい。それ以上に楽しい。
これほど全力で挑んでも届かない相手など、そうはいない。だから燃える。
エリスは再び床を蹴った。今度は拳ではない。両手を床へ突き、大きく身体を反転させる。地を薙ぐような低い蹴り。
リィズは軽やかに跳び越えた。
――予想通り。
(そこっ!)
蹴りは囮。
四足の姿勢のまま一気に身体を跳ね上げ、そのまま懐へ飛び込む。
勢いを殺さず肩からぶつかった。
「がっ!」
鈍い衝撃が返ってくる。
今度は確かな手応えだった。
リィズの身体がぐらりと揺れ、数歩後ろへ下がる。
初めて崩れた体勢。
エリスの口元が自然と緩んだ。
(捕まえた。)
リィズは目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「やるねぇ、エリスちゃん!」
「……でしょ?」
肩で息をしながら笑い返す。
ようやく一発。
それでも、《絶影》へ届いたという事実が胸を熱くした。
肩に残る衝撃が、まだじんと痺れている。
それでも笑みは消えない。
たった一撃。
されど一撃。
この一発には十分な価値があった。
「えへへ、びっくりした」
肩を回しながら、リィズが楽しそうに笑う。
「まさかあそこで突っ込んでくるとは思わなかったよ」
「真正面からじゃ捕まえられないもの」
正面から速度勝負を挑めば負ける。
だから裏をかく。
逃げ道を塞ぎ、逃げる先へ牙を立てる。
それがエリスの戦い方だった。
「でも、まだまだ!」
リィズの姿が再び霞む。
「またっ!?」
左。
違う。
右。
――後ろ!
振り向きざまに肘を振るう。
空を切る。
その直後、背中へ軽く掌が触れた。
「ざんねーん」
「くっ……!」
反射的に振り返る。
しかし、そこにはもう誰もいなかった。
足音すら聞こえない。
(速い……!)
これが《絶影》。
視線だけでは追えない。
気配を読む。
呼吸を感じる。
勘を信じる。
それでもなお、一歩届かない。
「まだまだ行くよー!」
「望むところ!」
エリスは低く身構えた。
腕を広げ、指先が床へ触れる。
その姿は、もはや人というより一匹の獣だった。
呼吸が変わる。
耳に届く音が変わる。
靴底が床を蹴る音。
風を裂く気配。
衣擦れ。
視界だけに頼らない。
全身で獲物を追う。
(そこっ!)
左手で床を押し込み、身体を滑らせる。
リィズの蹴りが鼻先を掠めた。
紙一重。
だが、それでいい。
右手が床を掴む。
勢いのまま身体を一回転。
足払い。
避けられる。
なら、そのまま前転しながら拳を叩き込む。
拳が空を切る。
それでも止まらない。
左拳。
膝。
踵。
肘。
肩。
全身すべてが武器だった。
まるで獲物へ喰らいついた狼のように、一度懐へ潜り込めば決して離さない。
リィズが感心したように笑う。
「ほんとに休ませてくれないねぇ!」
「休ませる気なんてない!」
エリスは短く言い放ち、再び床を蹴った。
逃がせば終わる。
だから追う。
どこまでも。
何度でも。
獲物が倒れる、その瞬間まで。
———
「これで――一本!」
首筋へ寸止めされた掌。
勝負ありだった。
「……参った」
エリスは苦笑しながら両手を上げる。
リィズはにこりと笑って、一歩下がった。
「ありがとっ!」
一本目はリィズ。
休む間もなく二本目が始まり、今度こそと食らいついたエリスは、さっき以上にリィズを追い詰めた。
何度も懐へ飛び込み、肩で押し込み、拳を振るう。
それでも、あと一歩届かない。
最後は紙一重で躱され、そのまま背後を取られてしまった。
「はい、二本目!」
「……完敗ね」
息を切らしながら笑う。
悔しいが、不思議と嫌な気分ではなかった。
今日の勝負は、リィズの二勝。
実力差はまだ大きい。
それでも、以前より確実に差は縮まっている。
そんな手応えだけは感じられた。
「あー、面白かったぁ!」
リィズは床へ大の字になって寝転がる。
まるで本気の模擬戦を終えたばかりとは思えない気楽さだった。
「やっぱりエリスちゃんと戦うと楽しいなぁ」
「私は毎回、命が縮む思いなんだけど」
「えー? そんなことないよぉ」
「あるわよ」
思わず吹き出す。
身体中が痛い。
腕も脚も重い。
それでも、この疲労は嫌いじゃない。
全力を出し切った者だけが味わえる充実感だった。
リィズは身体を起こし、にっと笑う。
「でも、ほんとに強くなったよね。」
「慰めならいらないわ。」
「違う違う。本気で言ってる。」
その言葉に嘘はなかった。
だからこそ、エリスも素直に笑う。
「……ありがと。」
「またやろうね!」
「その時は一本くらい取らせてもらうわ。」
「一本? 二本じゃなくて?」
「欲張ると逃げられそうだから。」
「あはは!」
訓練場へ笑い声が響く。
ついさっきまで殺気が満ちていた空間とは思えないほど穏やかな時間だった。
静寂が戻る。
熱気だけが、まだ訓練場に残っている。
その時だった。
――バンッ!!
訓練場の扉が乱暴な音を立てて開かれた。
二人は同時に振り返る。
「エリス!」
飛び込んできたのは、ケレスだった。
肩で荒く息をつき、額には玉のような汗が浮かんでいる。
普段はどんな状況でも明るい男だ。
そんな彼が、ここまで取り乱している。
その時点で嫌な予感しかしなかった。
「ケレス?」
エリスは立ち上がる。
さっきまでの笑みは、もう消えていた。
「どうしたの」
ケレスは答えない。
何度も息を吸い込み、震える拳を握り締める。
その顔は青ざめていた。
いや。
青ざめているというより、何かを恐れているように見えた。
「悪い……!」
ようやく絞り出したのは、謝罪だった。
エリスの鼓動が、嫌な音を立てる。
「……ケレス」
静かに名前を呼ぶ。
ケレスは震える声で続けた。そして——
それを聞いたエリスの思考は、真っ白になった。
———
探索者協会支部長室には、重苦しい沈黙が満ちていた。誰もが言葉を失い、その空気だけが部屋を支配している中、私はゆっくりと口を開いた。
「……まさか、プルートがやられるなんてね」
対面に座るケレスが、疲れ切った顔のまま苦く笑う。
「ああ。俺らを庇ってな」
その一言だけで十分だった。
思わず額を押さえる。
ティノから連絡を受けて駆けつけた私とリィズの他に、この場には《白狼の巣》の調査に参加した主要メンバーが集められていた。
《小さな惑星》はプルートを除く全員。《黒金十字》は戦闘不能となったスヴェンさんを除いた面々。そしてガーク支部長と、その補佐であるカイナさん。さらに帝国《遺物調査院》の調査員まで同席している。
誰の顔にも疲労が色濃く刻まれていた。それは長旅の疲れではない。命を拾った者だけが浮かべる、あの表情だった。
話を聞けば聞くほど、背筋が冷えていく。
《白狼の巣》で待ち受けていた幻影は、常識では測れないほどの強敵だったらしい。
最初に倒れたのは、《黒金十字》のリーダーであるスヴェンさん。
そして、《千変万化》のクライ・アンドリヒもどこかに行ってしまった。
その瞬間、戦線は崩壊した。
プルートは一人で幻影を引き受け、仲間たちへ撤退を命じたという。
結果、全員は辛うじて脱出した。
だが、プルート自身は重傷を負い、今は宿で療養している。
……信じられなかった。
5歳も年下の私たちのリーダー。
土魔法を極め、防御力だけなら帝都ゼブルディアでも五本の指に入ると私は本気で思っている。
そんな彼が、あそこまで傷つけられるなんて。
部屋に重い沈黙が落ちる。
やがて《遺物調査院》の調査員が静かに口を開いた。
「ガーク支部長。もはや【白狼の巣】はレベル3の宝物殿ではない。至急、レベルを再査定すべきだろう」
ガークさんは椅子にもたれたまま、腕を組む。そして、実際に現場でソレを目撃した者達へ視線を向けた。
「……お前らの見立てではどうだ?」
ケレスがゆっくり顔を上げた。
「リーダーが言ってた。あれは……レベル8以上だってッ」
「全く、前代未聞だ! 《千変万化》が絡むといつもそうだ!」
「だが、今回はしくじったようだな。策士、策に溺れるという奴か。あの男も人の子だったらしい」
「原因はこちらでも調査する。それまでは【白狼の巣】を封鎖させていただく」
封鎖。その言葉に胸がざわつく。
本当は私も現場へ向かいたかった。
けれど、この状況では到底許可されないだろう。
ガークさんが突然、机を拳で叩いた。
「……ッ、クソッ!」
部屋中が震える。
「クライめ……! 何かあるなら言えと、いつも言ってるだろうが!」
その怒号を遮るように、間延びした声が響く。
「はーい、そこまで」
全員の視線が入口へ向く。リィズだった。
大きく伸びをしながら部屋へ入り、そのまま気楽そうに歩いてくる。
細く長い手足には、無駄を削ぎ落とした獣のようなしなやかな筋肉が宿っていた。
この空気を前にしても、怯える様子はまるでない。
集まった全員を見回し、にこりと笑う。
「みんな、何も分かってないねー」
私は眉をひそめた。
「……リィズ?」
「クライちゃんが失敗するなんてこと、あるわけないでしょ?」
一瞬、部屋の空気が止まる。
「ちょっと待て、リィズ――」
ガークさんが口を開く。
しかしリィズは腕を組み、視線だけでそれを制した。
「なに? ガークちゃん。本気でクライちゃんが負けたと思ってるの?」
調査員たちは口を閉ざしたまま動かない。
彼女の気性を知っているからだ。
だが、私は違った。
理解できない。
「どういうこと? リィズ……あんた、何か知ってるの?」
リィズは胸を張り、自信満々に笑う。
「確かに相手はプルートちゃんたちを倒すくらい強かったかもしれない。それにクライちゃん自身の戦闘能力は高くない」
それは事実だ。《千変万化》のことはよく知らないがプルートの強さ誰よりも知ってる。
私たちはレベル8の宝物殿にも挑んできた。
そのたび最前線で戦っていたのはプルートだった。
誰よりも強く、誰よりも頼れる存在。
だからこそ、なおさら理解できない。
リィズはそんな私たちを見渡し、穏やかに笑った。
「でもね」
その笑みだけは、一切揺るがなかった。
「そんなことは関係ないの。クライちゃんは――敗北しない」
胸の奥で何かが弾けた。
「だから何なの!? ちゃんと説明してよ!」
叫ぶ私に、リィズは困ったように頭をかいた。
「んー……説明するの苦手なんだよねぇ」
少し考え込んでから、あっさりと言う。
「シトに聞けば? もうすぐ帰ってくると思うし」
それだけ言い残すと、「私これから用事あるから」と軽く手を振り、まるで嵐のように部屋を去っていった。
残された私たちは、誰一人として、その背中を引き止めることができなかった。