なに……あれ。
喉の奥がひくりと引きつり、声が裏返った。
気づいた時には、自分の身体が小刻みに震えている。
視界の奥、曲がり角の向こうから現れたそれは、あまりにも異質だった。
人の形をしているのに、人じゃない。
動いているだけで、空気そのものが重くなる。
「ク、クライ……どうする……?」
情けないほど、声が掠れた。
これは恐怖だ。はっきりとした、逃げ場のない絶望。
それなのに、クライは余裕そうな笑みを浮かべたまま、何も言わない。
剣を構えるでもなく、息を整える様子すらなく、ただ静かに前を見ている。
その沈黙を破ったのは、ロドルフだった。
「間違いない……奴だ!」
叫ぶように言い、槍を構える。
一瞬で、全員が戦闘態勢に入った。
「来る!」
誰かの声と同時に、幻影が一歩、こちらへ歩み寄る。
床を踏む音は軽いはずなのに、胸の奥まで響いてくる。
「……あんなの、勝てるわけない……」
自分でも驚くほど、弱々しい声だった。
今にも泣き出しそうな悲壮感を隠せず、私は思わず後ずさる。
後ずさった拍子に足元がふらつき、視線が床へ落ちかけた、その瞬間だった。
ぽん、と軽い衝撃が肩に伝わる。
驚いて身を強張らせるより先に、誰かの存在がすぐ後ろにいることを悟った。
「駄目だよ、ルーダ君。今は逃亡すべきではない」
振り返ると、そこに立っていたのはソルさんだった。
先程まで見せていた、どこか頼りなさげな表情はもうない。
口角をにやりと上げたその顔は、まるで別人のように落ち着き払っていて、この状況をすべて織り込み済みだと言わんばかりだった。
「ソル……さん……?」
「ロドルフ君達は疲れ切っている。今、やれるのは私とクライ君、そして――君だ、ルーダ君」
その声は、不思議と落ち着いていて、
まるで最初からこの状況を把握していたかのようだった。
「……戦うしかないんだよ」
「で、でも……あんなの、どうやって……?」
ソルさんは一瞬だけ目を伏せ、覚悟を決めたようにポケットへ手を伸ばす。
取り出したのは、細く鋭い、針のようなものだった。
「これは幻影を弱体化させる効果がある。これをあれに刺すことができれば、勝機はある。……あ、いや、その、ただのしがない錬金術師の言葉を信じてもらえるならばだが…..」
その瞬間、クライが一歩前に出た。
「なら、その仕事は僕の役割だね」
そう告げると、クライは軽く肩を回し、背後の私を一瞥した。視線の先で私の表情を確かめるように
一瞬の間の後、視線を前に戻し、足取りを整える。
「その代わり、あれの相手は頼んだよ、ルーダ」
その目は迷っていなかった。迷いはなく、どこか静かな自信に満ちている。
ルーダならやれると、最初から信じ切っているのが、瞳の奥からひしひしと伝わってきた。
胸の奥で、逃げたい気持ちと、踏み出さなければならないという覚悟が、激しくぶつかり合い、そして、深く息を吸った。
「…………わかったわ」
震えを押し殺し、私は一歩、前へ出た。
次の瞬間、クライは一切のためらいも見せず、地面を強く蹴った。
足元の石畳に衝撃が走り、砂埃が小さく舞い上がる。体全体をまるで弾丸のように前方へ押し出し、腕も足も力いっぱい振り抜く。目の前の幻影の巨体が、彼を迎え撃つかのように迫る。
そして、クライの身体が幻影の胸めがけて突っ込む。激しい衝撃とともに、幻影の重い体が空気を切る音を立てて吹き飛び、周囲の壁に叩きつけられる。瓦礫が散り、石のひび割れる音が連鎖する。
衝突の衝撃で、クライの体も反動で弾かれ、数歩滑るように後退する。それでも、全身に伝わる振動と風圧の中で、目には確かな達成感が宿っていた。
「今だよ、ルーダ!」
クライの張り詰めた声が、まるで体を突き抜けるように、はっきりと私の耳に届く。心臓の奥がギュッと締め付けられる感覚と同時に、全身に覚悟が走る。
幻影はすぐに体を起こし、再びこちらへ歩み寄ってくる。だが、その胸元には、クライが突き立てた一本の針が深く刺さっている。わずかに揺れるその巨体を見て、あれが幻影を弱体化させるためのものだと瞬時に理解した。
息を整え、短剣をぎゅっと握り直す。手のひらに伝わる冷たい金属の感触が、今の緊張と恐怖を引き締める。鼓動が高鳴る中、私は一歩、また一歩と踏み出す。足が地面を蹴るたび、心の奥に決意が刻まれていく。
そして、再び幻影に向かって走り出した。風が頬をかすめ、砂埃が舞う中、全ての視界はただ、敵と自分の短剣だけに集中していた。
———
「勝った……?」
猛威を振るった幻影は、何一つ生存の証を残さぬまま、空気に溶けるように、静かに消え去った。まるで最初から存在していなかったかのように――その場には、ただ戦いの痕跡だけが残されている。
ルーダはその消えた先を見つめたまま、力なく絞り出すように呟く。声に混じる安堵と興奮、そして少しの戸惑いが、言葉の端々から滲み出していた。
ロドルフも、散々振るった使い込まれた槍をゆっくりと下ろし、小さく頷く。彼の瞳の奥には、戦いを乗り越えた満足感と、仲間の無事を確かめる安堵が入り混じっている。
しかし、誰もすぐには動かなかった。勝利を確信しているはずなのに、洞窟の空気はなお張り詰め、耳鳴りのような静寂が支配していた。息をひそめ、互いの呼吸さえも大きく響くかのようだ。
私は短剣を握りしめたまま、ようやく自分の手が震えていることに気づく。戦いが終わったのに、体の奥に残る緊張が、まだ心臓をぎゅっと掴んで離さない。
「……終わった、のよね?」
自分に言い聞かせるように、声を絞り出す。体の奥に残る戦いの余韻が、まだ心をぎゅっと締め付ける。
背後から、気の抜けた声が返ってくる。
「……たぶん」
振り返ると、クライは肩の力を抜いたまま、いつも通りの余裕そうな顔をしていた。その顔には、戦いの疲れは微塵も見えず、まるで先ほどの出来事が夢だったかのように穏やかだった。
――たぶん、って何よ。
そう言いたかったのに、喉がひくりと鳴るだけで、言葉が出てこない。
ロドルフが深く息を吐き、震える声で言った。
「……生きてる。俺たち、まだ生きてるな」
その一言で、ようやく実感が追いついてきた。
足から力が抜け、私はその場に座り込む。
正直に言えば、怖かった。
背筋が凍るほどの恐怖だったが、それでも私は足を引かなかった。
「さすがルーダだね。ほら、もうすぐ出口だ。ボスも倒したことだし、さっさと出ようか」
クライは相変わらず、肩の力が抜けた声でそう言った。
……そういえば、この人、レベル8だったわよね。
だったら最初から自分でやれたんじゃないの?、なんて言葉が喉まで出かかる。
けれど、その言葉は口に出さず、私は胸の奥へと押し込めた。
今日の経験は、確かに私を変えた。
信じて前に出させたクライと、背中を押してくれたソルさんがいたからだ。
もう少し、この場で座っていたい気分だった。けれど、そんな余裕がないことは分かっている。
短剣を収め、ゆっくりと立ち上がった。
それにつられるように、ロドルフたちも次々と体を起こす。
「……ッ!?」
そのとき、不意にロドルフが何かを感じ取ったように顔を上げた。
「どうしたの?」
「……なにか、来る」
先ほどまで張り詰めていた緊張が一度ほどけ、疲労が一気に押し寄せる。
それでも、体を叱咤して意識を戦闘に引き戻した、その瞬間だった。
ヒュッ、と空を裂く音。
次の瞬間、鋭い音を立てて一本の矢が壁へと突き刺さった。
「……え?」
状況を理解するより早く、思わず間の抜けた声が漏れた。
通路の奥から現れたのは、黒いプレートアーマーに身を包んだ白銀の狼騎士。
ボス部屋で見た、あの個体だ。
しかも、一体ではない。
さらに奥から、四体。
並び立った五体の狼騎士が、血のように赤い目でこちらを睨みつけていた。
両手持ちの大剣に、天井近くまでありそうな巨大な棍棒。明らかに室内で使うものではない巨大な弓に――連射式なのだろう、地面に擦れるほど長い弾帯が落ちた黒鉄色の銃器。
部屋に入ってくるその動きに激しさはなく、どこか悠然としていた。まるで圧倒的優位を見せつけているかのように。
「……これは……さすがに、ね」
私は無意識に、負傷した左腕に触れる。
痛みは引ききっていない。さっきまでの立ち回りは無理だ。
そして、頼みの綱だった気配を消すポーションも、すでに使い切っていた。
ロドルフが長槍を構えるが、四体の巨大な狼騎士を前にその様子はいかにも頼りない。
煉獄剣を持ち上げ、その切っ先を突きつける他メンバーの顔からも血の気が引いている。
「……やるしか、ないの?」
腕の傷は深くはないが、逃げるのは無理だ。
相手には遠距離武器がいるし、鎧を纏ったその二体を即座に倒すことは奇跡が起きない限り不可能。
だが、諦めるわけにはいかない。生きるのを、戦うことを、諦めるわけにはいかない。
覚悟を決めかけた、その時だった。
眼前に並んでいた五体の狼騎士の姿が、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。
……逃げた? いや違う。これは逃げたのではない。一瞬のうちに、やられたのだ。
狼騎士たちは、何かに切り刻まれたかのように形を崩し、霧となって次々に消えていく。
最悪だと覚悟した状況のさらに上を行く、理解不能な光景だった。
あまりの急展開に呆然としていると、背後から不意に声がかかった。
「君たち、無事?………………クライ……君?」