白狼の巣を抜けたあたりから、道の空気ははっきりと変わっていた。
踏み固められ、定期的に整備された街道。魔物の気配は薄く、人の往来を前提とした道だと一目で分かる。
帝都北門は、すでに遠くない。
石造りの高い城壁が視界の先に見え始めていて、それだけで背中に張りついていた緊張が、じわじわと剥がれていくのを感じた。
……ああ、ちゃんと生きて帰れてる。
「いやー、ほんとに助かりました」
自分でも驚くほど、自然にそんな言葉が出た。
隣を歩く砂漠精霊人の女性は、ちらりとこちらを一瞥しただけで、歩調を変えない。
「気にしないで……私も任務で来ただけだから……クライ君のおかげで、探す手間も省けた」
……ん?
洞窟の中でも思ったけど、この人、なんで僕の名前を知ってるんだろう。
疑問に思っていると、隣を歩いていたルーダが、少し不思議そうな顔で尋ねてくる。
「クライ、知り合いなの?」
「いや、僕は初対面なんだけど……」
首をかしげながら答える僕の横で、ルーダは少し不思議そうに眉をひそめた。
そのやり取りを、少し前を歩いていたロドルフさんが、静かに、しかし確かな声で遮るように言った
「知らないのか!?……彼女は認定レベル9のハンター。ルーナ・ネロナさんだよ」
「ルーナ・ネロナって……あの《
ルーダの声は思わず震え、言葉と同時に瞳が大きく見開かれた。
その視線は、まるで遠くに見える伝説を目の当たりにしたかのように、ルーナの姿を隅々まで確かめるかのように彷徨った。
「……」
ルーナさんは何も言わず、正面を向いたまま、こくりと一度だけ頷いた。
……《
僕でも知っているビッグネームだ。
帝都に二人しかいないレベル9ハンターの一人。
「帝都の英雄」だとか、「帝都最強のハンター」だとか言われていて、帝都にいれば一度はその名を耳にする存在だ。
そして、僕の幼馴染の一人――リィズちゃんが「いつか追いつきたい」と語っていたハンターでもある。
……この人が、《無敗女帝》だったのか。
まさか、こんな場所で、こんな形で会うことになるとは思わなかった。
気づけば北門の城壁が目前まで迫る。
門の大きさに、思わず見上げた。ここまで来ればもう安心だ。
「本当に助かりました」
ルーダが深々と頭を下げると、それに続いてロドルフさんも、その部下たちも、ソルさんも次々と礼を述べた。
ルーナさんはしばらく無言で歩き続けていたが、やがて足を止め、こちらを一度だけ見て、小さく頷いた。
やがて、北門の巨大な石壁が視界いっぱいに広がった。
長い年月を経た重厚な扉は、まるで帝都そのものの威厳を背負っているかのようだ。
「ここまで来れば、あとは大丈夫?」
「はい、本当にありがとうございました」
ロドルフ一同が改めて頭を下げると、ルーナさんは軽く踵を返した。
「なら、ここでお別れ……私は探協に行く……クライ君も、また」
こちらに向かって、ひらひらと手を振り、彼女は地面を蹴った。
一瞬で距離が開き、次の瞬間にはもう視界の彼方だ。
僕は肩の力を抜き、深いため息をつくと、去っていくルーナさんに向かって手を振り返した。
ふと前方に目をやると、ロドルフさんたちが整列するように僕とルーダの前に立っていた。
皆の顔には疲労の色もあるが、どこか誇らしげな表情が漂っている。
長く険しい道を抜けてきたことを実感させるその姿勢から、彼らの礼儀正しさと確かな自信が伝わってきた。
やがて、ロドルフが軽く頭を下げ、仲間たちもそれに倣って改めてお礼の言葉を告げてくる。
「クライ殿、ルーダ殿。ソル殿。貴方達には助けられた。この恩は必ず返す」
「いやいや、僕は何もしてないよ」
本当に何もしていない。
強いて言えば、『
攻撃力はクソ雑魚な僕でも、『夜天の暗翼』で人間ミサイルになれば、一回死ぬけど、針は確実に打ち込める。
伊達に『
……ハードボイルドだろ?
余談だが、『夜天の暗翼』は外套型の宝具だ。
その効果はその使用者に飛行能力という極めて強力な力を与えるというものだ。ただ、この宝具には幾つもの重大な欠陥があった。
安全性ゼロ。ブレーキもない。浮遊も制御もできない正真正銘の欠陥品だ。
前の持ち主が、凄まじい推進力で頭から天井につっこみ、そのまま天国に召された、『人間ミサイル事件』は宝具の有用性と危険性を皆に知らしめた。
そして、『結界指』は指輪型の宝具だ。
効果は、攻撃を受けた際に自動的に一定強度の結界を一定時間張ること。
端的に言えば……一度だけ攻撃を防ぐ宝具である。
その宝具を僕は、十七個も持っている。普通にクラン本部のビルが二つ三つ買えるお値段である。
ロドルフさんたちが北門をくぐり、城壁の向こうへと消えていくのを見送ったあと、胸の奥に、どうにも言葉にしづらい引っかかりが残った。
安堵とは少し違う。緊張の名残ともまた違う。
まるで、大事な事を忘れてしまったような、妙に落ち着かない感覚だ。
視界には整備された街道が広がり、穏やかな夕暮れの光が差し込んでいるのに、心の奥だけが少しざわつく。
……あれ、何だっけ?思い出せない何かが、自分の中に確かに残っている。
「……ねえ、クライ」
どうやら同じ違和感を抱えていたらしい。ルーダが、少し遠慮がちに、けれど確かめるような声でぽつりと口にした。
「私たちってさ、ルナちゃんを探すために『白狼の巣』に行ったんだよね?」
「……あ」
その言葉にハッとする。そうだった、最初の目的はルナちゃんを見つけることだった。
……って、あれ? そういえば、ソルさんはどこに行ったんだ?
さっきまでここにいたはずなのに、気がつけば視界からすっかり消えている。まさか、もう戻ったとか……いや、そんなわけあるか。
慌てて首をぐるりと回し、辺りを見渡す。整備された街道の先には北門が見えて、夕陽に照らされる石造りの壁が淡く輝いている。その向こうにソルさんがいないかと目を凝らすけど、見つからない。
すると、北門の入り口から、場違いなほど大きな声が響いた。
「ああ! るーちゃん!! もう大丈夫だったかい? どこに行っていたのだい?」
門の前に立つ二つの人影が、遅れて理解に追いつく。片方は見慣れたソルさん、そしてもう一人は、陽光を弾くような金髪の少女だった。
紙に書かれていた特徴と、記憶がぴたりと重なる。
間違いない。あの子がルナちゃんだ。
「心配したのだよ!? 突然いなくなるから」
その言葉に、少女は少しも悪びれず、にっこにこの笑顔で言った。
「急に消えたら、ソルが心配するかなーって」
「!?」
「泣かせたくなっちゃった!」
「ひどいよ、るーちゃん! でも可愛いから許す!!」
ルーダの顔が見る見るうちに引きつっていくのを見てつい笑いがこぼれる。
全くもって、人騒がせな話だ。だが、周囲を見渡せば、みんな無事で探していたルナちゃんもちゃんと見つかった。
思えば、あの騒動の渦中で僕はずっと心臓が跳ねていたけど、今はどこか肩の力が抜けている。
結局のところ、結果だけ見れば、悪くない結末だったのかもしれない。
「僕たちも帰ろうか」
そう告げると、ルーダは小さく肩の力を抜き柔らかく微笑んだ。
———
帝都地下。縦横無尽に奔る地下下水道。
鼻の曲がるような異臭と暗闇の中に、それはひっそりと存在していた。
地下とは思えないほど広く、明るいその空間に、男と女が並んで佇んでいる。
一人は中年の優男だ。
柔らかく穏やかな顔立ちに、黒いコートを羽織ったその姿は、表通りであれば高位の貴族と見間違えられるだろう。
もう一人は、長身で細身の砂漠精霊人の女性。裾の長い黒服に、黒のローブを纏い、口元は包帯のような布で覆われている。その青と赤のオッドアイだけが、周囲の闇を静かに射抜いていた。
「楽しいひと時だったよ。私も久しぶりに童心に帰って、敵をバッサバサとやっつけたくなった」
「……無理」
「手厳しいなぁ……」
中年の優男は、肩を小さく落とし、目線を床に向けた。深いため息が胸の奥から漏れ、体全体の力が抜ける。
やがて口元はわずかに歪み、いつもの温和な笑顔も影を潜めていた。
「私はこれでも――」
言葉の続きを、足元に転がる光景が無言で遮った。
二人の前には、十数人の男が血まみれで倒れている。リーダーらしき老人の男は、命乞いをするように片手を伸ばし、地面に崩れ落ちていた。
「ま、待て……! き、貴様は…………何者じゃ……!」
中年の優男は、地に伏せた黒装束の男を見下ろし、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。
そこに浮かんだのは、嘲りでも憐れみでもない、妙に穏やかな笑みは、まるで期待していた答えを、ようやく確認できたと言わんばかりの表情。
地下下水道の濁った空気の中で、その笑顔だけが場違いなほど落ち着いている。
彼にとって、この光景は脅威でも修羅場でもなく、ただの結果にすぎなかった。
「これがアカシャの《
「……そう。それと、今はルーナだから……ソル」
「ルーナ・ネロナ!……《無敗女帝》が、なぜその男といる!?」
問いかけに、ルーナは一切答えなかった。
視線を向けることすらせず、ただ静かに立ち尽くしている。
その沈黙は肯定でも否定でもなく、説明そのものを拒む無言だった。
張り詰めた空気の中で、ゆっくりと前へ出たのは中年の男だった。
穏やかな口調のまま、場に溜まった緊張を押し流すように口を開く。
「私は彼女の上司だよ。一緒にいることくらい、何の不思議があるというのかね?」
黒装束の男は、目を見開いたまま固まっていた。耳に届いた言葉の意味が、頭の中で噛み砕けず、空回りしている。
彼の視線は、優男とルーナの間を彷徨い、答えを求めるように揺れていた。
「《無敗女帝》の……上司じゃと?………てことはまさか、貴様が……創――」
《大賢者》と呼ばれたその男が最後の言葉を吐き出そうとした、その瞬間、空気がわずかに歪む。身体から力が抜け、操り糸を断たれた人形のように崩れ落ちた。
悲鳴も抵抗もない、あまりにも静かな終わり。地面に伏したその影は、血と闇に溶け込み、最初から存在しなかったかのように消えていった。
帝都地下は、何事もなかったかのように沈黙を保っている。
中年の優男――ソル・バートンは、誰にも聞かせるつもりのない溜息を一つ零した。
それは安堵でも疲労でもなく、どこか期待外れを噛みしめるような響きだった。
彼にとって、この結末は想定の範囲内であり、驚くほどのものではない。
ルーナは、倒れ伏した者たちに一切の未練を残さず、視線を前へ戻した。
血の匂いも、呻き声も、彼女にとっては背景にすぎない。足取りは一定で、感情の揺らぎは見えなかった。
まるで散歩の途中で話題を変えるかのような自然さで、口を開く。その声音は冷静で、先ほどまでの殺気を微塵も感じさせないものだった。
「…………ソル。私、子供になる意味あった?」
「もちろんさ。るーちゃん凄く可愛かったよ……もう、ずっとあの姿でいてくれないかい?」
「……それは嫌だ。じゃなくて、あんな回りくどいやり方する必要あった?」
「……私の予想通りかどうか、見ておきたくてね」
「……クライ君が……そんなにすごいの?」
ソルの視線は、ゆっくりと帝都の灯りへ向いていた。
無数の人々の営みが折り重なるその向こうに、彼の興味は注がれている。
すでにその視線は、この場を離れ、一人の青年へと向いていた。
「……いずれ分かるさ。ルーナ君にもね」
彼は、微笑とも取れる沈黙のまま、次の一手を思案していた。