タイトルの読み方はそのまま『きおくがおもいでになったなら』、略称は『おもなら』です。よろしくお願いいたします。
アイドル養成学校、『四ツ星学園』に新入生がやって来て数日。
歩き方に緊張が乗せられている者、制服に着せられている感覚が拭えない者……まだ初々しさが溢れる大勢の生徒が、絶えず敷地内を行き交っている。ここ、四ツ星学園の用務員である少年、
1年生が入学しても、るいのやることは変わらない。敷地を綺麗にして、生徒達が過ごしやすい環境を整える。それが自分の役割であり、この四ツ星学園に居続ける為の最低条件だ。
大方芝生を整えられたところで芝刈り機を停止し、額から流れた汗を袖で拭っていたところに、遠くからこちらへ手を振りながら近付く人影が見えた。その人物が誰か分かったところでるいが手を振り返す。
「あっ……
るいの呼びかけに応じるようにその少年は小走りで一気に距離を詰め、嬉しそうにウインクをした。
「よっ。るい!」
白色のワイシャツにライトブラウンの髪、るいの持つ淡い水色の瞳よりも深い、コバルトブルーの瞳の少年。彼の名は結城すばる。四ツ星学園男子部所属の3年生で、1年程前に記憶を失ったるいが普通の生活に戻る為のリハビリに尽力してくれた、彼にとって恩人と言える人物の1人である。
「結城さん、どうしてここに?」
「たまたまここらへん歩いてたら、お前が遠くで芝刈りしてるの見えたからさ」
「えぇっ! 遠目でよくわかりましたね!?」
「そりゃわかるよ。るいの髪、けっこう目立つしな!」
「んっ……くすぐったいですよ結城さ〜ん!」
すばるはニカッと笑って、るいの檸檬色のくせ毛をわしゃわしゃと撫でる。ふわふわで触り心地の良い彼の髪を掌いっぱいに弄び、るいはくすぐったさに口元を緩めた。
「ははっ、相変わらず良いリアクションだ!」
「もう……結城さんったら……」
「あははっ! ごめんごめん!」
一頻りるいとじゃれ合った後、すばるは改めてるいに用件を伝える。
「っと、そうだ。るい、昼メシまだだろ? 良かったら一緒にどうかなと思ってさ」
すばるは親指を斜めに立てて、るいを昼食に誘った。すばるとるいは校内で顔を合わせるとお互いに近況を話したり、たまに昼食を共にする間柄で、良好な関係を築いている。すばるから食事に誘われたるいはぱぁっと表情を明るくする。
「良いんですか!? あ……結城さんも、今
一瞬明るくなったるいの顔が、すぐに不安気なものに変わる。
すばるは四ツ星学園男子部のトップアイドル4名で構成されているユニット、『M4』のリーダーを務めており、M4は学園長である
M4は近年結成されたばかりのグループ故に知名度は同学園女子部のトップユニット……『S4』よりも劣るのだが、それでもCM撮影やファッション雑誌のモデル、冠番組の収録など、彼等が受け持つ仕事は多岐に渡り、忙しない日々をおくっている。新学期が始まってすぐだというのに、M4のメンバー全員が多忙にしていると風の噂で耳にしたるいは、自分の為に時間を作ってもらって良いのかと不安になる。
心配そうな目で見つめるるいに対し、すばるは彼に「他人に気を遣いすぎるクセは変わらないな」、と思いつつ言葉を返す。
「今日は夕方にラジオの収録があるだけで、昼間はオフだよ。ってか、忙しいとか別に気にしなくていい。俺が一緒に行きたくて誘ってんだから」
るいがリハビリ中の頃は、無駄に気を遣わせないようにM4に所属していることを敢えて言わないようにしていたすばるだったが、るいが用務員としての仕事を再開し、他の生徒達から様々な情報を耳にする機会が増えたことで自分がM4のリーダーだと知られてしまい、その頃から以前よりもるいの態度がよそよそしくなった気がしていて、すばるはそれがなんだか気持ち良くない。
たとえ仕事が忙しかろうと、るいとの関係は変わらない筈だし、忙しいだろうからと気を遣われたり一線を引かれるなんてことはお断りだと、すばるはるいに何も気にする必要はないと伝える。そう言われたるいは、頷きながら上擦った声を出す。
「こ、光栄です! ありがとうございます! じゃあ、お昼ご一緒させていただきたいです!」
「ふっ、そうこなくっちゃな! 後で報告書出しに学園長室行くよな? そん時俺も着いてくよ」
「結城さんも? 学園長になにか用事ですか?」
首を傾げて問うるいに、すばるが首肯する。
「ああ、ちょっとな。芝刈り、まだかかりそうか?」
「キリの良いところまで終わったので、続きは明日にしようと思います! でも作業着が草まみれになっちゃって……1度着替えてから報告に行こうかなと……」
「相変わらず律儀だな。ま、そこがお前の良いところでもあるんだけどさ」
手で作業着に付着した草や土を払えばそれで良くないか、と内心で思うものの、るいの生真面目な性格を知っているからこそ口には出さず、彼の律儀さを美徳として肯定した。
「えへへ……諸々済ませてくるので、すみませんがちょっと待っててください!」
「おう。あんま急がなくて良いからなー」
るいは照れ臭そうに笑んだ後に芝刈り機の持ち手を掴み、後片付けの為にその場を去って行った。その背を見送ったすばるは、ズボンのポケットに両手を入れて一呼吸つき、青々と晴れ渡る空を見上げるのだった。
汚れてしまった作業着から黒ズボンと白いワイシャツに着替え、きちんとネクタイを締めたるいはすばると合流してから学園長室へ向かって報告を済ませ、すばるの諸星への用事も終えた後に2人は食堂へと足を運んだ。
時刻は既に13時を回っていたからか他の生徒はあまり居らず、各々注文した料理が載せられたトレイを受け取って、窓際のテーブルに向かい合わせに座った。
「結城さん、すみません……今日もご馳走になっちゃって……」
「良いって。俺がそうしたいってだけだかんな」
座って早々に頭を下げたるいのテーブルにはカレーとサラダが置かれており、その料金はすばるの懐から出されている。
すばるは毎度、るいと食事をする際は彼の分の料金もまとめて支払っていて、例の如くるいは今日もすばるにご馳走してもらった訳だが、当の彼は伝えられた礼をさも当たり前と言わんばかりに軽く流す。
「ありがとうございます……! ちょうど学食のカレー食べたいなぁと思ってたんですけど、1人だとちょっと行きづらくて……」
「お前も四ツ星の関係者なんだから、普通に入れば良くね? ……つっても、大っぴらには入りにくいか。なんとなくわかる」
るいもれっきとした学園の関係者であるが、生徒ではない故に堂々と入りづらいのだろうと一定の理解を示すすばる。しかし、彼が普段どのような食事をとっているかも知っているので、日頃から思っていることを言おうと口を動かす。
「それはそれとして、いつもインスタントばっかじゃ飽きるし体に悪いだろ。普段からここでメシ食えばいいのに、とも思う」
るいは普段、諸星や教師達が代わりに購入してくれるカップラーメンや冷凍食品を食べており、「それらばかりでは腹もそこまで満たされないし栄養も摂れないから、学食や寮内の食堂を使え」とすばるは以前からるいに言っているのだが、生徒を気遣ってか一向に改善の様子が見られない。別に本人がそれで良いなら強くは言わないが、その食生活を続けて体を壊してしまわないか、すばるからすれば心配にはなる。
「あはは……努力します……」
「ぜひそうしてくれ。ま、とりあえず食べようぜ。るい」
「はい! いただきます!」
2人は手を合わせてスプーンを手に取り、出来立ての料理に舌鼓を打つ。カレーを一口食べたるいは、頬を抑えて蕩けた表情を見せる。
「おいしい〜! やっぱり学食のカレー、最高ですっ!」
「ホント、うまそうに食べるよな。実際うまいけど」
「ひめちゃんのおかげで、ぼくもカレーが好きになりまして……結城さんのオムライスもおいしそうですね! 今度食べてみます!」
彼の幼馴染である
その為、すばるがぱくついているオムライスも気になり、るいに今度食べてみると言われたすばるははにかみを返す。
「おう、俺のお気に入りメニューだからな! っていうかるい、いつまで俺に敬語使うんだ? 覚えてないかもだけど……俺たちそこそこ付き合い長いんだぞ?」
拗ねたように口を尖らせるすばるを見て、るいは思わずスプーンを置いて両手を膝の上に乗せる。
用務員とアイドル。互いに立場は違えど、すばるが四ツ星学園の1年生だった頃から付き合いがあり、仲も良かったのだとるいは聞いているが、彼にはその頃の記憶がまったくなく、恐らくその時よりもすばるに対して他人行儀な接し方になってしまっているのだろうと思い、申し訳ないと思う反面、普通の喋り方よりも敬語の方が性に合っている感覚もある。記憶を失う以前も常に敬語で話していたからなのか、それとも別の理由なのか……いまだに分からないままだけれど。
「すみません……敬語の方が何故かしっくり来るんですよね。唯一敬語を使わずに話せるのは、幼馴染のひめちゃんくらいで……」
「あぁ、白鳥ね。仲良いもんなお前ら」
「はい! おかげさまで! いつもお世話になりっぱなしで、申し訳ないですけどね……」
スプーンを口から離し、すばるは眉をぴくりと上げる。彼はたまにひめと仕事の現場が被った際に少し言葉を交わすことがあるが、彼女は大抵S4のメンバーやるいに関しての話題が多く、側から聞いていてもひめはるいをとても大事にしているのだと分かる。だからこそすばるもるいの友人としてちょっとした対抗心が湧いたりもするのだが。
「それはお互い様だろ? 白鳥だってきっと、お前が居て励まされることあるだろーし」
「あ……この前、ひめちゃんが同じことを言ってました」
「だろ? 毎日やることきっちりこなして、白鳥や皆の力になれてるんだから……堂々と胸張っときゃいいんだよ。ちょっとくらい、自信持て」
自分で言って少し気恥ずかしくなったのか、大口を開けて再度オムライスを食べ始めるすばる。やはり、彼は優しい。すばるもいつも自分を気に掛けて、時に励ましてくれる。社会復帰を遂げる為のリハビリに付き合ってくれたのもあり、るいはもう彼に足を向けて寝られない面持ちであった。
「結城さん……ありがとうございます!」
「ん。カレー、早く食べないと冷めちまうぞ?」
「あぁっ! そうですねっ!」
「ふっ。騒がしいやつ」
慌ててスプーンを手に取るるいを見つめて、すばるは肩をすくめて優しく笑うのだった。
「そういえば、夢を見たんです。ぼくが病院で目が覚めた……あの日の夢を」
2人とも昼食を食べ終え、窓からの日差しを浴びてのんびりしていたところ、るいが先日見た夢のことをすばるに打ち明ける。
「またその夢か。前も見てたよな?」
冷水の入ったコップを手に取りながら、るいにそう問いかけるすばる。
「はい。多分……あの日のことが鮮明に焼き付いてるからだと思います。窓から差す夕日も、部屋の匂いも……昨日のことのように思い出せます。不思議ですよね、目を覚ます以前のことは……何をしてもちっとも思い出せないのに」
口に含んだ水を、すばるは喉を鳴らして飲み下す。静かにコップを置き、彼はるいの目を真っ直ぐ見つめ、軽く息を吐いてから口を開く。
「……なぁ、るい。記憶失くして『辛い』とか、『苦しい』って思うこと……あるか?」
「えっ? どうしたんですか?」
いつになく真剣な表情をしているすばるに、るいはきょとんとした顔で聞き返す。
「あーいや……ほら、俺は過去の記憶全部失くしたことないし、るいは普段どういう気持ちでいるのかなって。ちょっと気になったんだ」
何度かの目配せがあった後にそう言われ、そういうことでしたか、と納得した彼は、すばるからの問いを顎に人差し指を当てて考える。
「んー……たしかに、初めは辛かったかもしれません。目が覚めたら、自分の名前すら忘れてしまっていて。皆さんのこと、誰1人覚えていなくて。正直……怖かったです」
るいは自分が感じていたことを率直に伝える。目が覚めたら眼前には知らない天井が広がり、鏡に映ったのは頭に包帯が巻かれた自分の顔。何がなんだか分からなかったし、今までの記憶だけでなく自身の名も忘れてしまい、目を覚ますまでずっと側に居てくれたひめのことすら覚えていなかった。
目が覚めたら急に自分が何者かさえも分からない恐怖は、到底他人に推し量れるものではない。るいもその恐怖やストレスで一時は些細なことで取り乱し、夜泣きも酷く看護師の手を焼かせていたとすばるは耳にしたことがある。
辛い、苦しい、怖い。そんな思いをするるいを見たくなくて、力になりたくてすばるは自らるいのリハビリに付き合いたいと申し出た。自分や他の生徒達の助力のお陰で生活に支障のない程度まで回復を遂げられたものの、もしるいが今も心の奥底で苦しい気持ちがあるかもしれないと思うと、すばるも心穏やかにはいられない。
「怖かった」と、俯きがちに眉間に皺を寄せたるいの反応から、彼が心に負った傷は完全には消えていないと悟り、すばるはるいに頭を下げた。
「ごめん、嫌なこと思い出させちまって。俺、いっつもこうだな……相手の気持ちより先に、聞きたいって感情が先行しちまう……」
自己嫌悪に陥り、頬杖をついて溜息を落とすすばるに、るいはすぐに顔を上げて声を出す。
「いえっ! 良いんです! 去年の今頃は苦しかったですけど、今は充実してます! ほとんどのことを覚えていないので、どんなことも新鮮に感じられますし! 失くした記憶も、急いで思い出そうとは思ってないですからね」
「……! そう、なのか?」
すばるは驚いた顔で、目の前に居るるいに目線を戻す。
「はい! 用務員のお仕事に関することとか、過去の知り合いについて思い出せたら良いなぁって思うことはあるんですけど……そうするより先に、ぼくは皆さんの力になりたいんです!」
声を弾ませながら、るいは続ける。
「すぐに思い出せない記憶のことを考えるよりも、常に皆さんのことを考えていたいなぁって……そう思ってます!」
「るい、お前……」
心配そうな目ですばるに見つめられたるいだが、彼の表情はとても柔らかだった。
「ぼくにはアイドルの才能も、過去の記憶も……他の人に誇れるものは何もないけど……」
分かっている。自分にはアイドルの才能も、今までの記憶も、突出して秀でたものも……何ひとつない。そんな自分でもまったく嫌にならない、というのは嘘になるけれど。もしも、自分が四ツ星学園の生徒で、アイドルだったら。もしも、アイドルとしてひめやすばる達と同じステージに立てたら。叶う筈のない、奇跡めいた妄想をした回数は数え切れないけれど。
それでも、自分は。今ここに居る『星町るい』は。
「今、とっても幸せなんです。皆さんと形は違っても、四ツ星学園に居られる今が……楽しくって! このままの幸せが、いつまでも続けばいいなぁって……思うんです!」
満面の笑みで、るいはすばるにそう告げた。言われた彼の濃く、青い瞳が大きく開いた。
「るいにとっては……今、幸せか?」
「はいっ! ひめちゃんも、ぼくと同い年の生徒さんも、もちろん結城さんも居ますから! 誰がなんて言っても……ぼくは幸せです!」
るいの答えは、変わらなかった。誰がなんと言おうと、自分は幸せなのだと。彼の気持ちに呼応するように、窓から暖かな光が差してるいを照らす。その顔は、本当に嬉しそうで。目の前でにこやかに笑う彼が、とても眩しかった。
「……そっか」
目を閉じて、すばるは静かに微笑んだ。短い相槌だったが、なんだかそれ以外の感情も乗せられていたような気がして、るいはぱちぱちとまばたきをする。
「えっ?」
「るいが今幸せなら、良かったよ。お前の言う通り、無理に思い出す必要はないと思う。昔のことずっと覚えてるのが、必ずしも良いってわけでもないだろうさ。俺なんて、デビューしたての頃の失敗ややらかしは数え切れねーし……忘れたい時あるしな、普通に」
「そうなんですか!? 最初から、なんでもそつなくこなせてるのかと思ってました……」
「ばーか。ダサいから表に出してないだけで、ホントはいつだって必死だよ。他の奴らだって……皆そうさ」
「すごい……! 結城さん、かっこいいですっ!!」
「当然だろ? アイドルなんだから。……いや、俺の話は良いんだよ! その、なんだ。なんつーか……
「結城さん……」
『人は忘れる生き物』という言葉があるように、人間の脳は辛いことやストレスを感じる出来事などを忘却したままにしたり、思い出さないようにする『防衛規制』という働きがある。それにより、辛かった思い出に蓋をして、前を向いて生きていくこともできる。
思い出したい記憶を呼び起こせないことは勿論だが、忘れたくても忘れられない、というのも人間にとって酷なものだろう。だからその時々で必要な記憶と不要な記憶を脳が取捨選択し、心を守っている。「人は忘れるから生きていける」というすばるの言葉も、あながち間違ってはいないだろう。
「なーんて、それっぽいこと言ってみただけだ。そんな真剣に捉えなくていいよ」
「いえっ! ぼくも……その通りだと思います! 記憶が一切なくても、皆さんのおかげで今こうして生きられてる訳ですし!」
「そいつはなによりだ。これからも頼りにしてっからな! るい! 勝手にいなくなんなよ?」
「なりませんよぉっ! ぼく、勝手にいなくなるように見えるんですか!?」
勝手にどこかへ行くように見えているのかと聞かれたすばるは一瞬、るいから目を逸らす。
「昔の印象だけどな。お前、目を離すとどっかに消えちまいそうな雰囲気……あったから」
「え……山の奥深くに入って迷子になる、みたいな?」
「いや、そういうことじゃ……まぁ、似たようなもんかな。うん、そんなカンジ」
「1回否定しかけませんでした? さては……お茶濁しましたね! 結城さん、なんて言いかけたんですかっ!?」
「だーっもう蒸し返さなくていいって! ホラ、もう2時だぞ! るいは一応定時まで待機しなきゃだろ?」
「あ……もうそんな時間っ!? 用務員室に行かなくちゃ……」
食堂の掛け時計は14時10分を指しており、るいは焦って立ち上がる。他の生徒から何か依頼が来ないか待機しておく必要があり、昼休憩時間を10分過ぎていた為に急いで戻る必要があった。
「俺は台本読みに一旦寮に戻るから、ここらで解散だな。また一緒にメシ食おうぜ、るい」
「はいっ! ぜひ! 結城さん、今日はごちそうさまでした! 失礼しますっ!」
「おう。危ないから走んなよー」
「は〜い! 結城さんもお仕事頑張ってください! それじゃっ!」
るいはぺこりと頭を下げてからトレイを返却しに行き、早歩きで用務員室がある方角へ去っていった。すばるもトレイを戻し、食堂を出て廊下を歩く。微かにレッスン室から声が漏れ聞こえ、男女共に今日も生徒達は各自アイドル活動に励んでいる。自分も早く寮に戻らねばと、自然に早足になる。
歩いている途中でふと、るいの言葉がすばるの脳裏を過る。
『このままの幸せが、いつまでも続けばいいなぁって……思うんです!』
本心から出たであろう、るいの真っ直ぐな言葉。過去の記憶が何もなくても、本人にとっては今が1番幸せなのだ。用務員として、生徒達の力になれる
彼から今の幸せを奪うことは、決してあってはならない。そんなことは分かっている。とっくのとうに、分かりきっている。
「これで、良いんだよな。……これで」
誰も居ない廊下で、すばるは1人そう呟いた。ズボンのポケットに突っ込んでいる手を、ぎゅっと強く握り締めながら。
ぼくたち人間は、堂々としたふりをしていても
心の奥では戸惑いや、疑いや、苦しみを知っている。