春の陽光が穏やかに差す一室。ねずみ色のデスクとパイプ椅子、蛇口とポット、各種資料が入ったダンボール。必要最低限のものしかない、四ツ星学園内にある設備や部屋の中で唯一質素と言えるこの用務員室にて。
午前中に清掃や備品点検を済ませてしまえば、午後は生徒からの依頼を待つのみとなり、来客がなければ丸々一休みに……なんてこともある。誰か来ないかな、と待ち続ける時間。その間に流れる平和なひととき。るいにとっては、何もない日でも楽しく感じられる。言ってしまえば暇な時間さえも、彼からすれば愛おしいのだ。
掛け時計は午後の1時を指しており、今のところ誰も来る気配はない。ふと温かいお茶を飲みたいと思い、ポットに水を入れようと椅子から立ち上がったその時。部屋の引き戸が開く音がした。入口に立っている、微笑を湛えた少女とるいの目が合う。
背中まで伸びたピンクブラウンの長髪、よく手入れされた肌は白くきめ細やかな絹を思わせる。アメジストのような鮮やかな紫色の双眸を持ち、ひめやツバサと同様に赤色の特別制服を身に纏っている。そうして、目が合ったるいに柔らかく笑いかけた。
「こんにちは。るい。今いいかな?」
「あっ!
香澄
S4のメンバーは全員、るいが用務員としてもう1度働けるよう、リハビリに付き合っていた経緯があり、例に漏れず夜空も彼の社会復帰に尽力した人物である為、るいは夜空にも感謝と強い恩義を感じており、彼女がこうして依頼をくれるのが嬉しいようであった。
「お疲れ様。急にごめんね、何かの途中だった?」
「いえ、特に何かしてたわけじゃないので大丈夫です! 作業のご依頼ですか?」
「そうなの。
『いつもの』。夜空の言葉にるいはすぐにピンと来て、強く頷く。
「もちろんです! お手伝いします!」
「うふふっ。ありがとう。それじゃあ、行きましょうか」
夜空は相変わらず明るい彼に笑みを溢し、2人は用務員室を出る。
隣で歩幅を合わせて歩くるいの作業着に、夜空が目をやる。いつも彼が着ている、水色のつなぎ。所々に汚れが残っていたり、何度も洗って使いまわされている形跡も見受けられる。それは、るいが用務員として日々四ツ星学園の為に努力してきた証左だ。
「香澄さん? どうかしました?」
「……ううん。なんでもないの!」
視線に気付いたるいが夜空に話しかけると、彼女はなんでもない、と口元に笑みを作る。小首を傾げた後、また前を向いて歩き出したるいをちらりと見やり、夜空は何も言わずに目を細めるのだった。
「いつも通り、このペットボトルたちにお水を入れて……入れ終わったら、この台車を使って美組のレッスン室まで運んでほしいの。お願いできる?」
屋外の蛇口がある場所へ移動した2人。そこには既にいくつかのダンボール箱と、そこに空のペットボトルが大量に入れられている。側には水を入れ終えたペットボトルを運ぶ台車も用意されていた。
夜空は毎回、るいに依頼をする前にこのように準備をしてくれる。水入りペットボトルは美組のレッスンで使うもののようで、これを頭に乗せてウォーキングを行うとるいは聞いている。箱の中には2Lのペットボトルも何本かあり、水が満杯に入った2Lボトルを頭に乗せたら首の負担がえげつないことになるのではないかとるいは当時思ったが、数人の生徒は平然と乗せられるらしく、四ツ星所属アイドルのたくましさを実感する。
「承知しました! いつもながら、なかなかの本数ですよね……」
「そうなのよねぇ……1年生が入って、その分も増えてるからね。今日は私も手伝うから、2人でパパッと終わらせましょう?」
「香澄さんも? 量はありますけど、このくらいならぼく1人でも充分だと思いますが……」
夜空自身も水入れを手伝うと言い、るいは小首を傾げる。いつもなら自分に一任してくれる筈なのに、どうしたのだろうかとるいは少し不安になる。まさか、自分の作業が遅いからかと考えて冷や汗が流れるが、夜空はそんなるいに対しウインクをしてみせた。
「るいとおしゃべりしたいなぁと思って。ダメ?」
そう言って上目遣いをする夜空に、るいの頬が赤く染まる。理由はいたって単純で、ただ自分と話がしたいというだけみたいだが、彼にとっては光栄極まる理由である。
「い、いえっ! 光栄です……! では、ぼく達2人でやっていきましょう!」
「ふふっ、ええ。頼もしいわ」
美組のレッスンまでに終わらせる為に、夜空とるいはそれぞれダンボールから何本かのペットボトルを取り出すのだった。
作業を始めて十数分。夜空とるいは他愛ない話をしながらせっせとペットボトルに水を入れ、それをダンボールに詰めていた。
2人の声と、蛇口をひねる際の高い音が響くこの環境。単純な作業でも、誰かとやるとすごく楽しい。るいは改めて、手伝ってくれている夜空に感謝の気持ちが湧く。ペットボトルから溢れる水のように、とめどなく。
隣でしゃがみ、空のペットボトルを開けた夜空を、るいはなんとなく見つめる。自分よりもとても大人びた雰囲気で、立ち居振る舞いも美しい。おっとりした柔らかな言葉遣いで、後輩達にも優しく皆から慕われていると聞いているし、実際にそういう場面を彼は目にしたこともある。
そんな彼女も、自分が記憶を失う前は仲の良い友人であったと本人やひめ達から聞いている。どんな経緯で夜空と出会い、交流を深めたのかはまだ何も思い出せないが、彼女も昔の自分をよく知る人物であるのは周囲の者達の発言から確かだと思われる。
故に、るいは知りたくなった。夜空は、記憶を失う以前……かつての『星町るい』をどんな風に見ていたのか。どういう印象であったのか。満杯になったペットボトルに蓋をした後、るいは唇を震わせる。
「あの、香澄さん。ちょっと、聞いてもいいですか?」
「うん? なあに?」
隣のるいと、もうすぐ満杯になりそうなペットボトルを交互に見つつ、夜空は言葉を返す。
「昔のぼくって……どんな感じだったんですか?」
その問いを聞いた夜空は、何も言わずに蛇口を閉める。キュッ、という高めの音が短く響き、夜空はるいの顔を正面から見つめる。
「気になるの?」
「はい……やっぱり、自分だけじゃ過去のことは思い出せなくて……知ってる人に聞いた方がいいかなって。
「あぁ、そういうこと。んー、そうねぇ……」
合点がいったように頷き、夜空は顎に人差し指を当てる。かつてのるいが、どんな人物であったのか。彼女はるいの顔を数秒見てから、再度口を開いた。
「今のるいと、そんなに変わらないかなぁ。優しくて、いつも誰かのために一生懸命で。るいが笑うと、自然と周りも笑顔になるというか……人を惹きつける何かがあるって印象だったわ。素敵でしょう?」
そう言って、夜空は笑む。どうやら、現在の自分とそこまで乖離した性格ではなかったようで、るいはほっと胸を撫で下ろす。
「そう、だったんですね。今とそんなに変わらないなら……良かったです! もしひどい性格だったらどうしようって思ってたので……」
「ふふっ。そんなわけないじゃない。S4やM4……幹部生もるいとお友達。たくさんの生徒たちから、慕われてたからね。あ、それは今も変わらないかしらね?」
「そうだと思いたいです……皆さんが側に居てくださるなんて、本当にありがたい限りで……」
るいと幼馴染の
たくさんの生徒が自分の近くに居てくれている。支えられている。るいはそういう認識でいるが、何故皆が側に居てくれるのか、はっきりとはわからない。るいの口ぶりから、申し訳なさを感じ取った夜空は、安心させる為に言葉を紡ぐ。
「それは、るいの人柄がそうさせてるのよ。上手く言えないけど……なんだか世話を焼きたくなっちゃうのよね。るいって」
「えっと……危なっかしいとか、そういう……?」
「まぁ、そうねぇ。それもあるかも。優しさが強くて、自分のことは後回しにしがちだったから。見てるとそわそわしちゃう」
「す、すみません……ご心配をおかけして……」
夜空に言われた通り、自分よりも相手のことを考えがちな自覚はあり、るいはぺこりと頭を下げる。
「いいのよ。優しさは美徳だけど、自分のことも大事にしなくちゃね? 心も、体も。……お肌、少し荒れちゃってるわね」
「んっ……」
顔を上げたるいの両頬を、夜空がそっと触れる。白くて柔らかな、彼の肌。しかし、少しざらついた感触も掌に伝わる。見たところ、顔に肌荒れが起きているという彼女の予想が見事に的中し、夜空はるいの頬をマッサージの要領で軽く回し始める。
「私があげた化粧水と乳液、ちゃんと使ってる?」
「んん……先週あたりで、使い切っちゃいまして……今は洗顔料しか使ってないです……」
「やっぱり。切らしたら声かけてって、いつも言ってるじゃない。ちゃんとお手入れしないと、キレイなお肌が台無しよ?」
夜空はるいの頬を人差し指で軽くつつくと、るいがくすぐったそうに声を漏らす。彼女は定期的に化粧水や乳液等をるいに渡していて、スキンケアの方法を彼に伝授したのも夜空である。美容に力を入れるのは美組ゆえにこそではあるが、『綺麗な肌をしているのだから手入れしなくてはもったいない』という気持ちから、夜空はるいに美容に関するあれこれの世話を焼いているのだ。肌が綺麗だと言われたるいは、照れたように頬を赤く染める。
「あ、ありがとうございます……香澄さん」
「あと呼び方も。ひめにしてるみたいに、そろそろ名前で呼んでもらいたいなぁ?」
人差し指を唇に持っていき、軽く首を傾げてみせる夜空。今も尚、るいから名前で呼ばれたことがない現状に夜空は些か不服に感じているのだが、るいは申し訳なさそうに眉を下げる。
「うぅ……香澄さんや皆さんを名前で呼ぶのはさすがに恐れ多くて……ひめちゃんは幼馴染なので、少し特別といいますか……ごめんなさい……」
「うふふっ。やっぱりひめみたいにはいかないかぁ。じゃあ、いつか……私のことも、名前で呼んでくれる?」
真っ直ぐに自分を見つめる夜空に、るいは思わず息を呑む。手入れの行き届いた肌、程良く艶のある唇、宝石のような紫の瞳。彼女の変わらない美しさに、少し見惚れてしまう。
月の美組のトップで、S4を務める彼女と自分が対等だなんて思わないし、到底思える筈もない。けれど、夜空が自分を友達として……四ツ星学園の仲間としての関係を望んでくれているのなら。その気持ちには、応えたい。るいは勇気と共に拳を握り、上擦った声を上げる。
「は……はいっ! 時間はかかるかもしれませんが、いつか……必ず!」
るいの言葉と、真剣な表情を受けた夜空は目を大きくして、嬉しそうにはにかんだ。
「ありがとう。その時が来るのを、楽しみにしてるわね?」
背丈まで伸びた長髪を触りながら柔らかに笑う夜空に、るいの心臓が速く脈打つ。
当たり前のように、先のことについて話してくれる。名前で呼ぶ日が来るのが楽しみだと、自分にそう言ってくれる。そんな夜空の為にるいはできることを精一杯しようと決め、残り少なくなったペットボトルを手に取るのだった。
「よいしょっ、と……これで、全部ですね」
台車を使い、何度かに分けて水入りペットボトルを運び終えたるい。想定より早く事前準備を終えられた夜空は満足げに両手の指と指を合わせた。
「助かったわ、るい。今日の準備もバッチリ! いつも本当に、ありがとうね」
「いえっ! ぼくにできることなら、なんでもしますから! いつでもお声がけください!」
夜空は頷いて、にこりと笑うるいに笑みを返す。やはり、彼は誰よりも頼りになると改めて実感する。作業の速さは勿論だが、他者に対する誠実さと、一生懸命さ。それらの美点を、夜空は高く評価している。四ツ星の生徒が心地良く過ごせる場所を作る能力の高さ、時には生徒と生徒を繋ぐ架け橋にもなれるるいのことを、彼女はいつも尊敬している。
「うん。頼りにしてるわ。あ、そうそう。今年から私の妹も四ツ星学園に居るから、もし会う機会があったら……その時はよろしくね?」
「妹……あっ! たまにかすみ……いえっ、
夜空の口から妹の話が出てきて、そういえば、とるいは気付く。四ツ星学園男子部に在籍している夜空の弟……朝陽と時々会う際に、彼から話題に上がることがある、と。
「そうそう。朝陽とも仲良くしてくれて嬉しいわ。
夜空と朝陽の妹の名は『真昼』というのだと知り、夜空から直々に頼まれたるいは胸の前で両の拳を握る。
「承知しましたっ! 任せてください! 香澄さんにとって、大切な妹さんなんですね?」
わざわざ自分に妹について話して、力になるようにお願いするということは、夜空にとって彼女は大事な存在なのだろうとるいは感じ、それを素直に聞いてみる。妹のことを話す夜空の声音が、とても優しかったから。
「ええ。とっても大切で、大好きな……私の自慢の妹よ」
その答えを受けたるいは、口元に三日月を作る。
「ぼく、少しでも妹さんの力になれるように……頑張ります! もちろん、これからも香澄さんのお役に立ちたいです! 四ツ星のなんでも屋として、精進しますっ!」
もっともっと、皆の役に立ちたい。皆の為に頑張りたい。その想いが、その心がるいの原動力だ。夜空のように、いつも彼を頼る生徒が居る限り、その気持ちが揺れることはないだろう。そう思えるからこそ、夜空も信頼してるいに頼み事ができる。頼り、頼られる関係。その実感が、両者の繋がりを強固にする。
「ふふっ。私もS4として、月の美組として……精進します♪」
暖かな春風が、周囲に咲く花と、にこやかに笑い合う2人の髪と頬をそっと柔らかに撫でるのだった。
「今日ね、香澄さんから新しい化粧水と乳液もらったんだ! 切らしたって言ったら、すぐに持ってきてくれて……」
月明かりが差す、今日の夜。るいは今日も幼馴染の白鳥ひめと通話を繋ぎ、今日あった出来事を楽しそうに話していた。夜空にスキンケア用品をもらったことを教えると、ひめの笑声が電波を介して耳に届く。
『ふふっ。良かったわね。夜空、いつもるいに会いたがってたから。ゆっくり話せて嬉しかったんでしょうね』
「そうなんだ……それなら、嬉しい。香澄さんにそう思ってもらえるなんて……」
『夜空だけじゃないわ。ツバサもるいのことをいつも気にかけてるし、ゆずも「今度一緒に虫とりをしたい」って話してたの。みんな、あなたを大切に思ってる。もちろん、私もね』
「ひめちゃん……」
ひめの言葉に、心がぽかぽかと暖かくなる。四ツ星学園のトップであるS4の4名に、そこまで思ってもらえているなんて光栄極まりない。普通の人なら、飛び上がって喜びを露わにすることだろう。勿論、るい自身凄く嬉しく思っている。それ故に、少し不安にもなる。過去の自分はどうだったかわからないが、今の自分にそこまでの価値はあるのか、と。
「どうして、皆さんはぼくを思ってくれてるのかな」
ぽつりと、るいがそう口に出す。
「結城さんも、如月さんも、香澄さんも。ぼくに色んなものをくれる。優しくて、あったかくて……心がぽかぽかする。でも……それに見合うものを、ぼくは皆さんにあげられてるのかな……」
数秒、ひめから返答が返ってこなかった。通話時に発される特有の環境音だけが耳に入っていた中、再度ひめの声が聞こえてきた。
『あのね、るい。みんなはきっと、るいから何かお礼が欲しいわけじゃないんだと思う。ただそうしたいから、そうしてるだけなんじゃないかしら?』
「そうしたい、から……」
そうしたいから。その言葉に、るいは覚えがあった。先日、友人から同じことを言われたのを思い出す。
『良いって。俺がそうしたいってだけだからな』
四ツ星学園男子部のトップグループ、M4の結城すばるとこの前昼食を共にした際、彼から言われた言葉だ。それと今のひめの発言が結び付き、るいはすとんと腑に落ちる。皆はただそうしたいから、一緒に居てくれているのだと。
『るいはちょっぴり自分を卑下しがちだけど……みんなるいに助けられてるし、たくさんのものをもらってる。目には見えなくても、大切なものをね。それに……』
ひめが1度言葉を止めて、また沈黙が流れる。その先に続く言葉は何か、るいは神妙な面持ちでじっと待っていると、ひめの吐息が微かな音となって聞こえた。そうしてるいは、少し強めにスマホを耳に当て直す。
『私にとってるいは、
ひめから紡がれたその一言が、るいの耳朶を打つ。「え……」と声を漏らし、彼は驚愕した様子で左手もスマホに添えて背中を丸めた。
「ひめちゃん、それって……」
『あら、もうこんな時間。明日も朝早くに収録があるし……そろそろ寝ようかしら』
るいの問いに被せるようにひめがそう言い、彼は口ごもる。ひめは明日も早朝から予定がぎっしり詰まっている。四ツ星学園の歌組トップとして最前線を走る彼女のコンディションに支障をきたす訳にはいかない。そんなこと、絶対にさせたくない。
「わ、わかった! お仕事あるのに遅くまでごめんね!」
慌てて謝るるいにひめは「ううん」と返し、思わずベッドの上に正座したるいの耳に落ち着いた声が届く。
『おやすみなさい、るい。また明日ね』
「うんっ……おやすみひめちゃん。また、明日!」
『ええ。また明日』
スマホの画面をタップし、ひめとの通話を切ったるいは、右手からするりとスマホを落とす。ベッド上に跳ねるそれを追わずに、彼は何度もまばたきをする。
「誰よりも、特別……特別って、どういう……」
ひめからの一言が、脳内で幾度もリフレインする。
『誰よりも特別』。いたってシンプルな言葉だ。意味だって、説明されずとも知っている。しかし、それを発した時のひめの声音や息遣い。普段の彼女とは少し異なる何かを乗せて発されたその一言が、るいの頭を埋め尽くす。同時に、彼の頬と身体が、夏の太陽に照らされたかの如く火照る。こんなことは記憶を失って以来初めてで、るいは自らの身体を腕で抱く。
「なに、これ……こんな……」
感じたことのない違和に己の身を捩り、未知の感情に呑まれたるいは、暫くその場から動けずにいたのだった。
ある偶然が、人の心に愛を目覚めさせる。
すると一切が、この愛を中心にして秩序立てられる。