北海道の暗い夜の中、その小さな仔馬は生まれた。
――黄金色のたてがみを背負って。
「で、誰がお産を担当したんだ?」
「さあ、誰だっけ」
あまりにもスムーズだったお産と、誰も見たことがないほど美しい毛色の誕生。
その場にいた全員が集まり、誰がお産を担当したのか分からなくなるほど、厩舎の中はにわかに色めき立っていた。
「よくやったなぁ、メイアルア。お前そっくりの子供だぞ」
競走馬の生産を営む牧場の一つ、水戸生産牧場。
日高の小さな牧場だ。過去に目々しい成績を残した馬など、まだ一頭も生まれていない。
それでも地道に経営を続け、彼らは確かなノウハウを築き上げてきた。
「尾花か」
「それに栃栗毛……珍しい毛色同士の組み合わせだな」
栃栗毛(とちくりげ)――サラブレッド全体でも出現率は1%以下とされる、黒みがかった濃い茶色の被毛。
そして尾花(おばな)――前髪やたてがみ、尻尾などの長毛が、まるで陽の光を浴びたように美しく金色に染まる希少な特徴だ。
かつて「弾丸シュート」と呼ばれた快速馬であり、父サッカーボーイと同じ栃栗毛を持つ繁殖牝馬、メイアルアが生み落とした仔馬。
それは、黄金に輝くたてがみを持つ「尾花栃栗毛」の馬体だった。
まさに、祖父サッカーボーイや母メイアルアの面影を、色濃く受け継いだ姿であった。
「ほらほら仕事だ。この子が可愛いのは分かったが、仔馬はこいつだけじゃないぞ」
「は~い」
やれやれと手を叩いて一同を促す牧場長だが、その目は誰よりも優しく細められていた。
彼が見つめるその子は、普通の仔馬よりもひと回り小柄だった。
しかし、生後まもないというのに力強く立ち上がり、四肢で立った時のバランスも素晴らしい。
何より、尾花と栃栗毛。
その二つが重なる毛色は奇跡的に珍しく、息をのむほどに美しい。
名馬と呼ばれた祖父を彷彿とさせるその佇まいに、居合わせた誰もが、これから始まる大いなる運命を感じずにはいられなかった。
メイアルア09はその後蹴球組を馬主にし栗東トレセン須海厩舎に所属する。
馬名はメイアルアと同じくサッカーのドリブルテクニックからシャペウという名前になった。
オルフェーヴルが圧倒的な強さで二冠を達成し、宝塚記念ではスペシャルウィーク産駒の女王ブエナビスタをグラスワンダー産駒のアーネストリーが破る。
そんな激動の興奮が冷めやらぬ、夏シーズンの後半だった。
シャペウは、陽炎が揺れる新潟競馬場で新馬戦を迎えていた。
「綺麗な馬がいるぞ。ヤネは和多か」
「安定の和多騎手。馬券に絡んでくれるといいけどな」
パドックではシャペウの尾花栃栗毛が目立つ。
その鞍上には和多龍二郎騎手が蹴球組のオレンジの勝負服姿を見せる。
一方、掲示板では、シャペウはまったくの人気薄だった。
「見た目だけじゃあな」
珍しい毛色で目を引くものの、他の馬に比べると馬体はやや小柄であり、生産は日高の小規模な牧場。
社台ファームのような大手生産牧場の競走馬たちが猛威を振るっている最中、シャペウを送り出した生産牧場も育成牧場も、決して大手ではなかった。
そしてシャペウは牝馬だ。最近では牡馬に勝つことも増えてきたが、それでも彼女が勝つイメージはなかった。
「んで、どんな子なん? この子。本当は北原さんに走らせる予定やったんやろ」
手綱を引く厩務員に、和多がふと尋ねる。
和多がそう問いかけるのも無理はなかった。このコンビ結成の裏には、少し意外な乗り替わりのドラマがあったのだ。
本来であれば、笠松時代のオグリキャップの相棒であり、その後もビリーヴ、ダイワスカーレット、ブエナビスタといった名牝たちを次々と頂点へ導いた、あの北原騎手に鞍上を任せる予定だった。しかし、当時ウインバリアシオンなどの有力馬を担当していた北原騎手は、自身の引退を考え始めていることを理由に、シャペウのオファーを断っていた。
そこで白羽の矢が立ったのが、和多騎手だった。
かつてテイエムオペラオーとのコンビで年間無敗の重賞8冠(古馬中長距離GⅠ完全制覇)を含む数々のGⅠを制した名手だが、大手クラブの良血馬ばかりでなく、中小規模の馬主からの騎乗依頼も快く引き受け、泥臭く手堅い順位に持って行く職人肌の男でもあった。
今回の馬主である「蹴球組」は、いわゆる個人馬主に分類される。
何億もの大金を用意し、セレクトセールなどのオークションで良血統の馬を買い漁るような派手な馬主ではない。
何せ、蹴球組の会長はサッカーボーイをきっかけに競馬を知り、スペシャルウィークが制したジャパンカップを観て馬主になる決意をしたという、純粋な競馬愛に突き動かされた人物なのだ。
そんな会長にとって、母の父にサッカーボーイ、そして父にスペシャルウィークの血を引くシャペウを迎えることができたのは、まさに夢のような奇跡だった。
そして和多騎手は、そんな熱い想いを抱えた蹴球組からの騎乗依頼を、いつもと変わらぬ自然体で快く引き受けたのだった。
「ゲートを出るのが少し遅いんですけど、サンデーサイレンス系だけあって鋭い末脚とキレを持っています。……あと、ソラを使うことも度々」
(テンがつかんくて終い勝負。そのうえ、先頭に立ったらソラ使うって……乗る方としてはなかなかしんどい注文やな)
返し馬に入ると、スムーズな走りを見せるが、なぜか頭が低く下がっている。
(なんや? 怯えとる風でもないんやけどな)
シャペウは耳を絞っているわけでもなく、発汗が激しいわけでもない。
闘志を剥き出しにするでもなく、なぜか首をだらりと下げて、地を這うような独特のフォームでキャンターを行き駆けていく。
「まぁ、よろしくなシャペウ。お前の脚、信じるわ」
ゲート入りは驚くほどスムーズだった。
周囲には、目隠しをされたり、中に入った途端にガタガタと落ち着きをなくす馬もいるというのに、シャペウはまるで自分の庭にいるかのように、ドッシリと構えて前を凝視していた。
「今、ゲートが開きます」
実況の声と同時にゲートが開くと、周りが一斉に飛び出す中、シャペウはゆっくりと、まるで「どっこいせ」とでも言うように遅れて出てきた。
「なんでどっこいせって出てくんねん! ゲートの中でリラックスし過ぎやろ!」
最後方からのスタートとなったシャペウは、さらになぜか、斜めに走って内ラチ(内側の柵)の方へと突っ込んでいった。
出遅れた上に馬に振り回されている――スタンドの誰もが「この馬の勝ちはない」と判断したその時、鞍上の和多だけはあることに気づいていた。
和多の口元が不敵に吊り上がる。
(なら好きに走ったれ。エスコートは俺がしたる!)
レースが後半に入ると、場内はどよめきに包まれた。
最後方にいたはずのシャペウが、内ラチ沿いのわずかな隙間をスルスルと押し上げ、3コーナーから4コーナーにかけて、馬群の内側から一気に上位へと進出してきたのだ。
「なんだあの走り! 内から一気に上がってくる!」
最後の直線。馬場の真ん中を狙って横一線に広がる各馬のさらに内側、ぽっかりと空いた最内(さいうち)の経済コースに、金色のたてがみが躍り出た。
「こっからが俺の出番や! 闘魂注入――ッ!!」
和多の手が激しく動く。彼が見せたのは、泥臭くも圧倒的な、馬の闘志を限界まで引き出す豪快な風車鞭だった。
鞭に応えてシャペウの重心がさらに低くなる。祖父サッカーボーイを彷彿とさせる地を這うようなフォームで、ゴール手前、粘る先頭の一頭を極上のキレ味で一瞬にして置き去りにした。
黄金のたてがみが、鮮烈に先頭でゴールを駆け抜ける。
「一着はシャペウ! 鮮やかな内強襲、デビュー戦を飾りました!」
シャペウから降りた和多騎手を、須海調教師と蹴球組の関係者が笑顔で迎える。
(相変わらず、蹴球組の人らは見た目が厳ついな……。一瞬ビビるけど、ガチガチにJRAの審査を通っとる立派な建設業の社長さんたちや。ヤーさんやない、ヤーさんやないぞ……)
心の中でそっと念じる和多に、蹴球組の会長が熱い握手を求めてきた。
「お疲れ和多騎手! シャペウを勝たせてくれて本当にありがとう!」
「いや、俺が勝たせたわけやないです。全部こいつの力。もしかしたらこいつ……」
その言葉は、「和多騎手、検量室へお願いします!」という係員の声によって遮られた。
その後、無事に検量を終え、ウイナーズサークルでの記念撮影(口取り)の準備中。
和多は興奮冷めやらぬ須海調教師と馬主に、確信を込めて先ほどの言葉の続きを語った。
「あのな、シャペウには……かつての相棒、テイエムオペラオーと同じか、それ以上の頭の良さがあるわ」
テイエムオペラオー。
普通のサラブレッドを遥かに凌駕する強靭な心臓と、どんなタフな展開でも状況に適応できる器用さを合わせ持っていた不世出の怪物。
そして何より、人を見る賢さを持っていた。周りの馬が暴れていると『自分も暴れてええんやな』と解釈して暴れたり、厩舎を脱走した後に自分で戻ってきたりと、その賢さにまつわるエピソードには事欠かない馬だった。
「出遅れんのも、自分でわざと最内の経済コースへ潜り込むんも、そうすれば一番楽に最短距離で走れるってことを理解しとるからや。……ただ、先頭に立ったらソラ使うのもオペラオーと同じやな。ハナ(先頭)に立った瞬間、『よし勝ったわ』って自分でレースを終わらせようとしよる。なかなかにニクい性格しとるわ、この子は」
和多のその言葉に、須海調教師は目を丸くし、蹴球組の面々は「やっぱり俺たちの馬は天才だ!」と厳つい顔をクシャクシャにして喜んだ。
「次も乗せてくださいよ。なんなら行けるんちゃいます?オークスいやダービーを」
口取り式を終え写真を見ると美しい尾花栃栗毛のサラブレットと、ガタイの良い黒いスーツとサングラスを付けた男たちの写真が出来上がった。
「やっぱ厳ついわ」
名前 シャペウ
毛色 尾花栃栗毛
性別 牝馬
父 スペシャルウィーク
母 メイアルア
母父 サッカーボーイ
厩舎 須海厩舎
生産 水戸牧場
馬主 蹴球組
トレセンでの日常 調教は真面目だが、葦毛が嫌いでゴルシに絡まれると不機嫌になり勝手に近くの厩舎に入っていく。
バナナ好きで黄色物を見るとバナナだと思って近づく。
相手の好き嫌いが激しい(好き:和多騎手、須海調教師 嫌い:葦毛、和多が他に乗った馬)