「やっぱり二冠馬は強いゴールドシップ!! 古馬相手にも堂々の勝利!」
この年の有馬記念は、前年の三冠馬にしてファン投票一位のオルフェーヴルが回避したものの、同年の三歳二冠馬ゴールドシップ、天皇賞(秋)を制したエイシンフラッシュ、実力馬ルーラーシップなど、GⅠ馬七頭を含む超豪華メンバー十六頭が顔を揃えた。
ゲートが開いた瞬間、場内が悲鳴に揺れた。実力馬ルーラーシップが立ち上がるようにして大きく出遅れ、完全に置いていかれる。
レースは人気の先行馬たちが前を形成し、淡々と進んでいった。
そして迎えた最後の直線。
内からロスなく抜け出しを図るエイシンフラッシュと、中団から鋭く伸びたオーシャンブルーが激しい先頭争いを繰り広げる。
そこへ、さらにその大外から、まるで戦艦が突進してくるかのような地鳴り鳴り響かせ、ゴールドシップが襲いかかった。
異次元の伸び脚を見せたゴールドシップは、自慢のスタミナで先行勢を一気にねじ伏せ、最後は二着に一馬身半の差をつけて見事な完勝を果たした。
スタートで絶望的な出遅れを喫したルーラーシップも、道中最後方から次元の違う末脚を繰り出し、勝ち馬の後を追うように大外から突っ込んで三着を確保。
――出遅れさせなければ、この馬が勝っていたのではないか。
誰もがそんなタラレバを抱かずにはいられない、怪物たちの競演だった。
ゴールドシップとオーシャンブルーによる、「ステイゴールド産駒」のワンツーフィニッシュ。
それは、オルフェーヴルに続く「黄金配合」の圧倒的な証明でもあった。
三歳芦毛馬としてはあのオグリキャップ以来となるグランプリ制覇などの偉業を達成し、波乱に満ちた2012年の競馬界は幕を閉じた。
「おめでとうございます、須海先生」
熱狂が冷めやらぬ中山競馬場の関係者席。
出遅れに泣き、三着に敗れたルーラーシップの管理調教師である角井が、勝者となった須海調教師に歩み寄り、すがすがしい笑みを浮かべて祝いの言葉をかけた。
「――ああ、角井調教師。軽くありがとうございます」
須海が短く感謝を返すと、角井は少し表情を曇らせ、声を潜めて本題を切り出してきた。
「……シャペウ。屈腱炎だそうですね」
その単語が響いた瞬間、須海の周りの空気が凍りついた。
不治の病、屈腱炎。
一度傷ついた腱の隙間は、元通りのしなやかで強いコラーゲン線維ではなく、柔軟性の低い「硬いかさぶたのような組織(肉芽・結合組織)」で埋まって修復される。そのため再発率が極めて高く、競走馬にとっては死神そのものと言える病。
ダービーを制覇した後、秋には秋華賞でジェンティルドンナ、ヴィルシーナの牝馬二強と死闘を繰り広げ、さらにはマイルチャンピオンシップをも制する偉業を成し遂げたシャペウ。
だが、その華々しい勲章の裏で、彼女の細い脚にかかっていた負担は、すでに限界を超えていたのだ。
「復帰の目途は?」
角井の問いに、須海は冬の冷たい空気を深く吸い込み、電光掲示板を見つめたまま、絞り出すように答えた。
「……最悪、引退も考えなきゃいけないかもしれませんね」
京都競馬場が大きな悲鳴と歓声に揺れた。
シャペウの同期である青鹿毛の刺客・フェノーメノが、圧倒的一番人気に支持されていたゴールドシップをねじ伏せ、春の天皇賞を制した。
ライバルたちが劇的な死闘を繰り広げているその頃。
緑が芽吹き始めた日高地方の水戸生産牧場では、うららかな春の陽気の中、療養中のシャペウが静かにリハビリに励んでいた。
「シャペウがダービー馬になってくれたおかげで、うちの牧場への問い合わせが本当に増えましたよ。おかげさまで、去年のサマーセールではシャペウの弟を良い値段で買ってもらえました」
牧場主が嬉しそうに語りかける。
「そうか。今年の方はどうなんだ」
知り合いの牧場主がシャペウの脚元を優しく確かめながら尋ねると、牧場主は相好を崩した。
「メイアルアが、ヴィクトワールピサとの元気な男の子を産んでくれましたよ」
ヴィクトワールピサ。
日本馬として初めて皐月賞を制し、3歳で有馬記念を勝ち、さらにはドバイワールドカップを制覇して世界を震撼させた不世出の名馬だ。
実は母メイアルアは、ヴィクトワールピサの父ネオユニヴァースと現役時代の同期であり、同じ六平厩舎に所属していた間柄。
現役時代の馬房も近く、ネオユニヴァースが、メイアルアの側にいる時だけは不思議と穏やかだったという、古き良き縁があった。
そんな懐かしい血の巡り合わせから生まれた仔馬は、種牡馬となったヴィクトワールピサの、記念すべき初年度産駒にあたる。
「実はこの仔、今年のセリに出そうと思っているんです」
「セレクトセールか」
セレクトセール――。「セレクト」の名が示す通り、上場される馬は血統や馬体などを基準に主催者側で厳しく選抜される。
数あるセリ市の中でも圧倒的に高いクオリティの馬たちが集まり、過去にはディープインパクトやキングカメハメハなど、競馬史に名を残す数々の超一流馬がこの市から羽ばたいていった。
「あのネオユニヴァースの孫で、ピサの初年度産駒、さらにダービー馬シャペウの弟だ。間違いなく注目される。……よし、それなら二年後のデビュー、そして三年後のダービーが今から楽しみだな」
スタッフがそう言って微笑むと、遠くのパドックから、幼い当歳馬の元気ないななきが風に乗って聞こえてきた。
「――それよりもオーナー、シャペウの今後はどうなんだ」
「……正直なところ、引退させるなら早い方が良いというアドバイスは、各方面から受けている。それに『その時はぜひ、繁殖牝馬としてうちへ話をくれ』と、すでに複数の大手から打診をされているんだ」
「分かるけどさ。できれば耳に入ってほしくない、切ない話だな」
大手のメガファームであれば、国内最高峰の種牡馬たちを多数所有している。
それだけではない。彼らの持つ豊富な資金力と世界的なコネクションがあれば、海外の一流種牡馬と交配させることすら容易だ。
名牝ウオッカがアイルランドへ渡って繁殖生活を送っている今、もしシャペウが引退すれば、彼女は日本国内に留まる、唯一のダービー牝馬の繁殖牝馬という、文字通り唯一無二の極めて高いブランド価値を持つことになる。
牡馬をねじ伏せたダービーのスピード。大手の生産者が大枚をはたいてでも手に入れたいと渇望するのは、至極当然のことだった。
「でもさ、。俺はまだ見たいんだ。あの美しい金色のタテガミが、もう一度ターフに舞うのをさ」
「そんなの……ここにいる全員が、同じように思っているよ」
牧場主は静かに手綱を握りしめ、自分に言い聞かせるように呟いた。
無事に繁殖へ上げて次の世代へ血を繋ぐのが競馬の現実か、それとも、奇跡を信じて再びあの熱狂の舞台を目指すのがロマンか。
決断の時は、刻一刻と近づいていた。