ゴールドシップが圧倒的な強さで宝塚記念を制し、激動の二〇一三年上半期が終わりを告げた。
緑深まる北海道の夏。競馬界は夏競馬の熱気とともにもう一つの、そしてある意味では競馬の根幹を揺るがすほどのビッグイベントを迎える。
競走馬のセリ市。
その頂点に君臨するのが、動く資金が何百億円にも上り、世界中のホースマンが固唾をのんで見つめる「セレクトセール」である。
近代競馬の結晶たる名馬たちが、その血統のロマンと無限の可能性を値札に変えてステージに上がる。
後にGⅠの盾を掲げ、あるいはウマ娘として多くのファンに愛されることになる名馬たちも、かつてはこの壇上で億単位のコールを受けて馬主に渡っていったのだ。
古くは、初のGⅠ馬となったマンハッタンカフェの一億三千六百五十万円(税込)。
稀代の名牝エアグルーヴの初仔として注目を浴びた、アドマイヤグルーヴの二億四千百五十万円(税込)。
遅咲きの盾男、トーセンジョーダンの一億七千八百五十万円(税込)。
世界を揺るがしたラヴズオンリーユーの一億七千二百八十万円(税込)。
他にもビリーブ、ナカヤマフェスタ、カレンチャン、デアリングタクト、タイトルホルダー……。
時代を彩るスターホースたちが、このセレクトセールから自らの走りでその落札額以上の伝説を築き上げてきた。
そしてまさに今年、二〇一三年の当歳セリ。
のちに世代の頂点に立つサトノダイヤモンドが二億四千百五十万円(税込)という破格の金額で落札され、会場が割れんばかりの拍手と熱気に包まれる中、ついに「彼女」の弟がその姿を現した。
上場番号を背負い、誇らしげに胸を張って壇上に進み出たのは、シャペウの半弟にあたる当歳馬。
父は世界を制したヴィクトワールピサ。その初年度産駒にして、青光りするような美しい黒鹿毛の肌を見せる仔馬の登場に、会場のバイヤーたちの目が一斉に鋭くなる。
姉は、あの東京優駿を制したダービー牝馬シャペウ。
日本競馬界を牽引するトップサイヤーの血と、現役最高峰の実績を残した姉の威光。
「――さあ、注目の上場馬です。一声、いかがでしょうか!」
鑑定士の張り詰めた声が、億を動かす戦いのゴングを鳴らした。
世界中のホースマンが熱い視線を注ぐ中、この美しい黒鹿毛の仔馬は一体、どれほどの値をつけてターフへの第一歩を踏み出すのだろうか。
「え~九千万円……。九千万円はございませんか!」
最初は日高の個人牧場出身ということもあり、大手のバイヤーたちは様子見の構えを見せていた。
だが、会場の空気を一変させる男がスッと手を挙げた。
競馬ファンの間で「未来人」「リアルダビスタ」の異名を持つカリスマ個人馬主、。
キングカメハメハやクロフネといった歴史的名馬を所有し、かつて当歳セリにおいて小柄ゆえに注目されていなかったディープインパクトを、わずか七千三百五十万円(税込)で一本釣りした伝説を持つ男だ。
「――九千万円入りました!」
あの「相馬眼の神様」が目をつけたとあっては、大人しく引き下がれるはずがない。会場の富豪たちが色めき立ち、価格は一気に跳ね上がっていく。
億の大台を軽々と突破し、競り合いは意地と意地がぶつかり合う完全なデッドヒートへ突入した。
「一億三千万円!」
凄まじいコールが響き渡り、ついにハンマーが壇上を叩いた。
最後に競り落としたのは、「マルペンサの2013(のちのサトノダイヤモンド)」を二億四千百五十万円(税込)で落札し、さらに同年の一歳セールでも、未来のGⅠホースであるサトノクラウンを買い求めた「サトノ」の冠名で知られオーナーであった。
こうして、ダービー牝馬シャペウの弟は、日本競馬界を代表する大馬主の手に渡り、新たなる伝説の始まりを告げたのだった。
そして、始まりがあれば終わりもあるのが競馬だ。
「脚元の腫れは引いた。調教を開始したが……」
死神と呼ばれた不治の病・屈腱炎を奇跡的に乗り越え、シャペウは住み慣れた栗東・須海厩舎の馬房へと戻ってきた。
隣の馬房では、相変わらず相棒のゴールドシップが、逆立ちでもせんばかりの勢いで暴れて彼女の帰還を歓迎し、さらにその奥からはジャスタウェイが、穏やかな瞳で静かにシャペウを見つめていた。
厩舎のスターたちが揃って女王を迎えたが、それを見つめる須海調教師の顔は、かつてないほど険しかった。
カタカタと乾いた蹄音を響かせ、調教終わりのシャペウが和多を背に乗せて戻ってくる。
馬から降りた和多に、須海が重い口を開いた。
「和多君。……どうだった」
和多はシャペウの濡れた首筋を優しく撫で、しばらく黙り込んだ後、消え入りそうな声で答えた。
「……ダメです。少なくとも、ダービーやマイルチャンピオンシップの時のあの走りは、もう見せてくれませんでした」
シャペウのかつての鋭い走りは、もう戻らない。
大怪我を負ったことによる精神的な恐怖心が枷となったのか、それとも、長い休養の間にシャペウの最大の武器であったあの「ディクタスの凶暴な闘争心」が消え去ってしまったのか。
あまりにも過酷だった三歳秋の激闘。そして長い沈黙は、シャペウの競走馬としてのピークを、残酷にも過ぎ去らせてしまっていた。
和多の言葉を聞き、須海は静かにシャペウの美しい額に手を当てた。
「……そうか。帰ろう、シャペウ」
それは、実質的な「現役引退」の決定を意味する言葉だった。
競馬に関わる者たちは、これまで何度も、愛する馬との別れを経験している。無事に引退できることこそが幸せなのだと、頭では嫌というほど分かっている。
それでも、胸を締め付けるこの寂しさにだけは、何度経験しても、決して慣れるはずがなかった。
後日、栗東近郊のホテルの一室にて、馬主である『蹴球組』の会長を交えての緊急会合が開かれた。
「まだ引退なんて早いだろう!」
会長がテーブルを叩くようにして声を荒らげる。
その言葉には、須海調教師とて本音では同意していた。
一口馬主クラブの牝馬であれば、規約上、六歳の春まで現役を続けるケースも珍しくない。だが、シャペウはまだ四歳の夏を越し、秋を迎えようとしている段階なのだ。若すぎる引退を惜しむのは、馬主として当然の心理だった。
「会長。シャペウはダービー馬であり、古馬の強豪をねじ伏せてマイル王にまで登り詰めた女王です。……だからこそ、これ以上無様に負け続けていい馬ではないんです」
須海の静かだが重い反論に、会長は言葉を詰まらせた。
「確かに、彼女の栄光に傷をつけたくないという先生の気持ちは分かる……。だが、だからといって、もうシャペウが勝てないと決めつけるのは……」
「今の競馬界の勢力図を見てください。中距離にはあのゴールドシップとジェンティルドンナが君臨し、マイルには完全復活したヴィルシーナがいる。彼女たちの同期であり、あの底知れない走りを見れば、これからの秋も『最強世代』の牙城は盤石です。……全盛期の走りができなくなった今のシャペウには、もう割り込める席がないんです」
「……本当に、これ以上良くなる可能性はないのか?」
すがるような会長の問いに、須海は首を横に振った。
「今の状態のまま無理に仕上げれば、良くなるどころか、最悪の事故に繋がる可能性が跳ね上がります。GⅠを獲った名牝が、道半ばで命を落とす。それだけは、我々ホースマンが最も避けなければならない悲劇です」
須海の脳裏に、競馬界の歴史が残した痛ましい傷跡が過った。
レース中に散ったライスシャワーやサイレンススズカ。
現役中に病魔に襲われ、突然この世を去ったラインクラフトやアストンマーチャン。
そして、引退して繁殖入りした直後に急逝した三冠牝馬スティルインラブ……。
「競馬とは、走らせるだけがすべてではありません。血を次代へと残す使命がある。名牝として日高に名を残したメイアルアの、最高の後継牝馬としての役目が、シャペウには残されています」
父スペシャルウィークのスタミナとスピード、そして母系に流れる優秀なサッシュ一族の血脈。
クラシックディスタンスである日本ダービーと、極限のスピードが要求されるマイルチャンピオンシップを制した歴史的名牝。
その血が持つ価値は、大手の生産牧場がこぞって最高峰の種牡馬との交配を熱望するほどに計り知れない。
「彼女を無事に牧場へ返すことこそが、競馬界全体の義務です。……ですから、会長。ここで引き際を、一戦限りのラストランを決めましょう」
須海の真っ直ぐな視線が、会長を射抜く。
「ダービーと同じ府中二十四〇〇の舞台、ジャパンカップ。あるいは、昨年女王に君臨したマイルチャンピオンシップ。このどちらかを最後の花道にするべきです」
部屋を支配する沈黙。
ついに、ダービー牝馬シャペウの、現役最後の戦いへのカウントダウンが始まろうとしていた。