鏡はずっと昔から人間のそばにありました。ある時は、身だしなみを整える時に使われ、ある時は、神事にも用いられてきました。一方で、鏡にまつわる怪談も多くあります。代表的なものは成人までその言葉を覚えていると呪われる「紫鏡」、悪魔が現れる「合わせ鏡」でしょうか。そんな怪談の中でも世界で共通しているのは鏡を挟んだ「あっち側」と「こっち側」の世界がある、ということです。今回の話はその二つの世界についてのお話です。
「
母さんの温かな声が聞こえる。時計を見ると七時ちょうど。休日にしては早い方だが、今日は友達と遊びに行くからこのくらいが丁度いい。布団から出て、ベットを飛び降り、階段を駆け下った。リビングの扉を開けると甘い香りが広がった。今日はフレンチトーストなのか。
「ありがとう、母さん。俺このフレンチトースト大好きなんだよね」
「わかってるわよ。さっさと食べて早くお友達と遊んできなさい」
「うん、いただきます」
フレンチトーストを手に取って頬張るとまたもや口の中に広がる甘い香り。ほっぺたが落ちるとはこういう時に言うのだろう。フレンチトーストも添えられていた野菜も食べ終えて、歯磨きをしに洗面所へ行った。歯磨きをして、顔を洗って、鏡を見ながら髪を整える。いくら今日は男友達だけとはいえ、身だしなみには気をつけようと思う。鏡を見ながらブラシで髪を整える。しかし、なかなか後ろの方の寝癖が治らない。何度やっても治るそぶりすら見えない。そうこうしているうちにかなり時間がかかってしまった。しょうがない。このままで行こう。
「じゃあ母さん行ってくるから」
「行ってらっしゃい。帰りはいつぐらいになる?」
「六時とかかな」
そう言って玄関の扉を開けると、まだ朝だというのに太陽がかんかんと照りつけていた。まあ、夏だしな。自転車の鍵を開けて道路に引っ張り出す。ヘルメットは被らないまま自転車を走らせて約束の場所へ向かう。道中、その辺の店のガラスを見てみたが、やっぱり寝癖は治っていなかった。
約束の場所に着くと環太と健太郎、そしてクラスの男子人気で一、二を争う争美人の
「どうなってんだよ! 女子が、しかも芒さんと凪瀬さんが来るなんて聞いてないぞ!」
すると、二人は声を合わせて
「「あれ? 言ってなかったっけ」」
と声を揃えて言ってきやがった。こいつらすっとぼけてやがる。ニヤニヤした顔が隠し切れてないんだよ。
「今日はお前らだけだって聞いてたから特にファッションも決めてきてないんだけど」
「いやでも、お前はどんな服でも似合うぜ、うん」
と環太。芒さんと凪瀬さんがいなければとっくにぶっとばしてるところだ。さて、こいつらはあとでどうにかするとしよう。まずは、芒さんと凪瀬さんに挨拶をしなくてはな。
「えーっと、二人はこいつらに誘われたの?」
「そうだよ。『今度の休み一緒に遊ばない?』って誘われたから茜と一緒に来たの。ねっ、茜」
「うん、ちょうど暇だったしテスト明けだからパーっと遊びたいと思ってたところだったんだよ」
まあ、無理やりこいつらが誘ってきたわけじゃないならいっか。それに、近々仲良くなりたいと思ってたところだったし、チャンスと捉えるべきかもな。もちろん、感謝はしていないが。
「圭介くんの髪、いつもより決まってるね」
「ねー、ほんと。髪が全体的に下がってるから大人っぽいのかな」
ん? 髪が全体的に下がってる? おかしい。鏡にもガラスにも、映った時には後ろの方の髪が跳ねていたはずだ。自転車で走っている間に治ったのか? まあ、治ってるならそれでいいや。
「じゃあそろそろ出発するか」
「そうだな圭介。じゃ、みんなでカラオケにしゅっぱーつ」
今日は集合場所からちょっと歩いたところにあるカラオケで遊ぶことにしていた。いつもなら環太と健太郎と三人だから他愛もないバカ話をしながら歩いているところだが、今日は女子二人がいるのでみんな大人しい。結局みんなで特に話すこともなく、女子は女子で話して、男子は男子で静かに歩いていた。そうこうするうちにカラオケに着いてしまった。コースはもちろんフリータイムコース。ドリンクバーにソフトクリーム食べ放題のついた欲張りパックだ。部屋に着くと凪瀬さんはジュースの入ったコップを掲げた。
「どうしたの? 凪瀬さん」
「えっ、あの、とりあえずこういう時って乾杯するのかなって思って」
「ごめんね圭介くん。茜、大人数の友達と遊ぶってことに慣れてなくて。でも確かに乾杯はいいと思うわ。やりましょ。」
なんか芒さんって凪瀬さんの保護者みたいだな。すかさずフォローもいれてるし。まあ、でもカラオケで乾杯も悪くないな。
「じゃあ、健太郎。乾杯の音頭よろ」
「えっ、僕がやるの?まあいいけど」
少々戸惑い気味みたいだが、なんだかんだいって健太郎が一番盛り上げ上手だ。この前のクラス対抗の体育祭でも応援団長やってたし。あの白熱した戦いができたのもこいつのおかげといっても過言ではないように思える。カラオケのマイクを取り出し、俺は健太郎に渡す。
「え〜、それでは秋田犬大好きの健太郎が乾杯の音頭をとらせていただきます。今回は皆様お集まりいただきましてありがとうございます。芒さんと凪瀬さんに来ていただいたおかげでいつもなら暑苦しいこの部屋も何℃か下がった気がします。では今日は楽しんでいきましょう。KP〜」
「そこは乾杯にしとこうぜ」
しまった。つい、つっこんでしまった。いきなり、ホストみたいな省略形の乾杯が飛んできてつい。芒さんと凪瀬さんに変だと思われてなかっただろうか。
「ふふっ」
笑われてしまった。小さな声、しかし俺の心には大きな棘としてその笑い声が刺さった。それにしても……やっぱり可愛いな。大きな棘はキューピッドの矢でもあったのかな?
「ったく、いちいちうるさいなー。せっかくの音頭が途切れちまったじゃないか。はーい、じゃあ皆さん。圭介くんは『乾杯』の方がいいらしいので乾杯でいきまーす。じゃ、かんぱーい」
「「「「かんぱーい!」」」」
みんながジュースを飲む中、一人だけ烏龍茶の俺。なぜかって? これから歌を歌うのにジュースを飲むとなんかこう、歌いにくくなるだろ? だからカラオケに来た時にはジュースは飲まない。そして、元を取るためにたくさん飲む。さて、最初は誰が歌うのかな。
「では最初に、
やっぱり最初は環太か。ここぞとばかりに二人に良いところを見せようとしてるんだな。芒さんと健太郎がタンバリンを振って盛り上げてる。芒さんが一人で盛り上がってるからか、俺の隣の凪瀬さんは縮こまっている。ここは話しかけて親交を深めるべきだろう。思い切って話しかけることにした。
「あの、大丈夫ですか?」
「えっ?」
「いや、さっきから動いてなかったし、うるさいところ苦手なのかなって」
「いや、そういうわけじゃなくて。みんなとどういう風に話せば良いのかわかんなくて。あと、敬語はやめてよ圭介くん。それと、茜って呼んで」
なるほど、みんなとの接し方がわからないか。かなり深刻な悩みだし、経験がものを言うな。でも凪瀬さんなら普通に話しかければ少なくとも男子は優しく接してくれると思うが。そういうことじゃないのかな。ってか。えぇ、あ、え? 急になんかデレてきたのか? 敬語をやめる分には別に良いけど名前呼びはちょっとアレかもだよな。
「じゃあ敬語やめるわ。よろしく凪瀬」
「茜って呼んでってば」
「……茜」
「よろしい」
ほんとにこんなラブコメみたいな展開あったんだな。一悶着している間に三人とも歌い終えてしまったらしい。やべえ、全然聞いてなかった。次は凪瀬…茜の番らしい。さぁて、どんな歌声なのか。おー、ラブソングなのか。……めっちゃ上手い。透き通った歌声というか、人魚みたいに人を魅了する声だ。む、すぐに終わってしまった。ずっと聞いていたい声だった。さて、俺の番なわけだが、トイレに行ってくることにしよう。別に俺は下手ではないが、人前で歌うと特に女子の前で歌うと声が小さくなってしまうのだ。ゆえに、お腹を冷やしたと言ってトイレに行ってくる。いつも烏龍茶をがぶ飲みして腹を下しているので信ぴょう性は抜群だ。
「ちょっと腹痛いからトイレ行ってくるわ」
「おう、言葉を包み隠せよ。お大事にな」
心配したような環太の声を聞くと罪悪感に駆られる。別に悪意があるわけじゃないんだ。許してくれ。さて、トイレに来たはいいものの、別に用を足したくもない。手でも洗っとくか。そう思って鏡を見ると、口を大きく開けてニヤニヤした俺の顔が映った。
「うわぁ!」
思わず後ろに飛び跳ねて壁に激突した。俺あんな顔でみんなと話してたのか。あんな不気味で怖い顔なら確かに心配したくもなるわ。心なしか目も虚だったし。もう一度鏡を見ると普通の顔に戻っていた。そんな怖い顔に見えるほど疲れてしまったのか。さて、時間も経っただろうし部屋に戻るか。部屋に戻ると、誰も歌ってなかった。
「あれ、早かったな圭介」
「お、おう。どうしたみんな。ここはカラオケだぞ? もっと歌えよ」
「そうしたいのは山々なんだけどさー。女子二人が圭介の歌聞きたいんだってさー」
なんだって! 結局俺は歌を歌う運命を避けられなかったのか。せっかくトイレに行って逃げてたのに。
「あと二、三分で帰ってこなかったら歌うの再開することにしてたんだけど。タイミング良かったね」
最悪だよ。あーあ。小さい声で歌って、幻滅されちまうよ。
「さっ、マイクを持って。歌ってくれ」
しょうがない。歌うか。この曲の前奏が幻滅までのカウントダウンかー。これで俺の準陽キャ人生も終わりかー。さあ、歌い始めるぞ。ん? おぉ? なんか上手く声が出てる。俺、歌えてる。女子の前で歌えてるぞ! 茜が隣にいると思うとすごい歌いやすい。仲良くなっちまえば歌いやすくなるのかな。とりあえずこれで歌い終えたな。さて、点数はっと。八十六点。過去最高点だ! 女子の前なのに! みんなの反応はどうだ?
「すごいね圭介くん。勉強だけじゃなくて歌も上手いなんて。ねぇ、茜?」
「うん、すごいよ圭介くん」
「すごいな圭介。苦手克服じゃねぇか」
「ねー。今までは女子の前で歌えなかったのにねー」
良好良好。みんな俺に大きな声援をありがとう。ん? 隣から手が伸びてきて俺の袖を引っ張っている。
「なに? 茜」
「上手かったし、かっこよかったよ」
小さな声で放たれた褒め言葉は俺の耳を通り、ハートがついた矢として俺の心に刺さった。今度はわかる。これはキューピッドの、恋の矢だ。俺は今凪瀬茜に恋している。三時間程度歌って、ファミレスに行くことになった。みんなでドリンクバーをたのみ、昼食を取ることにした。
「もう一回乾杯するー?」
健太郎が冗談混じりにそう言うと、茜の顔が赤くなった。
「ちょっと、健太郎くん。茜が恥ずかしがってんじゃん」
「ごめんごめん。じゃあ普通に食べ始めよー」
やっぱりここのハンバーグは絶品だな。デミグラスソースに肉汁が混ざって美味しい。ちなみに、ここではジュースを飲んでいる。別に害は無いしな。半分ほど食べ終えたところでみんなを見る。四人とも喋りながら食べている。なんだ、茜喋れてるじゃん。ていうか、俺の方が輪に混ざれてないじゃん。そう思って会話に参加する。
「でさー、今回のテストの大問二なんだけどー」
「あーそこ難しかったよな。俺半分も取れてない気がする」
「私も全然だわ。先生いじわるだよね」
「あ、あんな難しい問題ほぼ嫌がらせだよね」
勉強の話だった。やめておこう、飯が不味くなる。ハンバーグを食べ終えて、小一時間ダラダラした。
「さー次はなにするー?」
「ゲーセンとか良いんじゃね?」
「わ、私行ったことないから行ってみたい」
「よしっ。じゃあゲーセンに行くか」
そしてゲーセンに着いた俺たち一行。車を走らせるゲームで遊ぶことになった。みんな椅子に座る。そしてハンドルを握る。アクセルを踏み締めてゲームスタートだ。くっ、意外とみんな速くないか? ってか茜行ったことないって言ってる割には上手すぎんだろ。まっ、『北関東のスピードスター』と呼ばれた俺の速度には追いつけんだろうがな。この視力A判定の俺の目を持ってすれば勝つなんて余裕だぜ。さてさて、二周目になって勝負は加速するゥ。環太も、健太郎も、芒さんも追い抜いて俺が一位に躍り出たァ。さあ、三周目。おっとぉ、ここで茜が二位になって差を縮めてきたァ。まずい、追いつかれる。さてさて結果はァ……ギリギリで追い越されて二位だった。
「すごいじゃん、茜。初めてなのに一位だよ!」
「すごい楽しかった。友達とゲームセンターって楽しいんだね」
ぐっ、楽しそうな顔しやがって。『北関東のスピードスター』の名を汚してしまったぜ。その後、UFOキャッチャーや音ゲーを堪能して解散になった。帰り際、茜と連絡先を交換した。一日でこんなに距離を縮められるなんて。なんて幸せなんだ。自転車を置いたカラオケまで戻って家へ帰る。帰り際、カラオケのガラスに映った俺の顔は、目が虚で肌には斑点があった。口角が上がっていて心なしかこちらに笑いかけているように見える。俺はそれを見て、自転車を置いて逃げた。幸い、家までそこまでの距離もなかったので完走はできた。走っている間は振り向かず前だけを見ていた。家に帰ってきて玄関の前で転がっていると、ドタバタと母さんが走ってきた。
「どうしたの、圭介?」
「ガ、ガラスの窓に、変な顔が映ってて、怖くて、走って帰ってきちゃった」
「大丈夫? とりあえず落ち着いて、お風呂に入っちゃいなさい」
落ち着くためにソファに座った。五分ぐらい経つと落ち着いてきたので、ちょっと前を見た。すると、暗い画面のテレビに今度は頬まで口が裂けた俺の姿があった。
「あああああああああああああああああああああああああ!」
怖くて怖くて、思いっきり叫ぶと、キッチンにいた母さんと書斎にいた父さんが来た。
「どうしたんだ圭介! 何があった!」
「何があったの圭介!」
「テ、テレビの画面に俺の顔が…く、口が裂けた俺の顔が映って…」
そう言った俺の顔を覗き込んだ父さんと母さん。その二人の瞳にも、目が虚で、口の裂けた俺の顔が映っていた。一刻も早くそこから逃げ出そうと俺の部屋へ逃げ込んだ。カーテンを全部閉め、布団にくるまって丸まった。その時「ピロリン」とスマホが鳴った。画面を見ると茜だった。
『どうしたの?』
『ちょっとお話ししたくて。今大丈夫?』
『大丈夫だよ。何?』
『今度二人でお出かけしませんか?』
『二人で? 別に良いけど』
『じゃあ今度一緒に行きましょう!』
恐怖で冷えっきた心が癒される。電源を消すと、暗くなった画面には大きな牙の生えた口を開けている俺の顔が映った。スマホをつい投げてしまった。もうだめだ。俺は一生あの化け物に付き纏われるんだ。ああ、茜と一緒に出かけるときも、環太や健太郎と遊ぶ時も一生あれが……。俺は絶望した。一生一緒にいるこの恐怖に。「コンコン」とドアが鳴った。
「圭介、入るぞ」
「来るな! 絶対入ってくるなよ」
「わかった。じゃあそのまま聞いてくれ。お前のそれは頭の病気かもしれない。だから明日お医者様を連れてくる。わかったな?」
「頭の病気じゃねえって! ほんとにいんだよ化け物が!」
あれ? 俺ってこんな口調だったっけ。俺ってこんな声出せたんだ。まあいいや。
「俺、もう寝るから。もうどっか行ってよ」
そうだよ。眠っちまえば。目を瞑ったらあいつは見えないよな。そう思って眠りについた。朝か夜か、起きると目の前に知らない男の人がいた。
「圭介、お医者様だ。診てもらえ」
「じゃあ圭介くん。まずは目を診せてくれる?」
冗談じゃない。俺の目を見るのは勝手にしてほしいが、あんたの目には俺が「映る」だろうが。医者の目に映った俺の目にはムカデが住んでいた。ムカデが俺の目を出入りしている。目からは決して出ないが、目を走り回っている。気持ち悪い。目に手を伸ばす。何もいない。
「お父様、ちょっと…」
医者が父さんに耳打ちしている。でも、医者の声が大きくて丸聞こえだ。
「多分圭介くんは幽霊に憑かれています」
「はぁ? 何を言っているんですか」
「お父様は婿入りされたのですか?」
「はあ、そうですけど」
「私、霊探偵もしているのですが、『田中家』って界隈では有名で。代々、霊が見える子、霊に憑かれる子、普通の子が生まれるそうです。この子はきっと憑かれる子だと思います」
「そんなの妻から聞いてない」
「でしょうね。奥さんは多分普通の子だったから教えられてない。教えられてない人から生まれた教えられるべき子には教えられることはないそうなので、この子は知らないまま生きていくかと」
「そんな…」
「ひとまず奥さんの親族にご連絡をした方がよいかと。何かあったら私にも連絡をどうぞ。すぐに駆けつけます」
「わかりました。妻に聞いてみます」
「それと、食事をさせてあげてください。ゼリーでもなんでもいいので」
「なるほど、ありがとうございます」
そんなことが俺の身には起こっていたのか……。でも、これで治る兆しが見えたな。まだ希望がある。
「圭介、今ゼリー持ってくるからな」
ゼリーを待つ間に寝っ転がっていると声が聞こえた。俺の名前を呼んでいる。窓の方からだ。俺はカーテンを開ける。夜でなければいいからだ。どうせ朝だろと、そう思っていた。実際は夜で、窓ガラスに映った化け物の顔の俺は俺を呼んでいた。カーテンを閉めてベッドに戻る。やっぱりだめだ。俺は現実に戻れないんだ。
「おーい圭介ー。ゼリー持ってきたぞ」
「……な」
「え? なんだって?」
「…るな…」
「なんて言ってる?」
「来るなよ! 来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな」
ドアの鍵を閉めて布団を被り、敷布団に顔を埋める。もう嫌だ。あんなに楽しかったのに。なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
「ごめんなぁ。父さんが不甲斐なくて。代わってやれればよかったのにな」
そうだよ。早く俺の代わりになってくれよ。怖くて怖くて仕方がないのに頭の病気だとか言った父さんが今は憎いよ。さっさと代わってくれよ。
「でももう安心しろ。今ネットで代わってやれる方法があったんだ。代わるか? 代わって欲しかったら『代わって』と言え」
「代わって」
ああ、これで楽になる。楽しい日常にまた戻れるんだ。ああよかった。
「代わってやるよ。お前の人生をさ」
突然父さんの声からあのとき、ガラスからした声に変わった。あの霊とか言うやつか。嫌だ嫌だ嫌だ。人生までとは言ってない。霊に苦しめられた気持ちを代わって欲しいって言ったんだ。嫌だ嫌だ嫌だ。茜と仲良くなって、健太郎や環太とたくさん遊んで、夢の陽キャ人生送るんだ。嫌だ嫌だ嫌だ。俺はこんなところで終わりたくない。
「圭介! 大丈夫か! ひどくうなされてたぞ」
「圭介、もう大丈夫よ。お母さん、家に連絡してもうそろそろで来るから」
◇◇◇
「叶子、もう大丈夫よ。あなたの子は回復してるわ。」
「ありがとうお母さん。圭介、もう大丈夫よ。母さんの顔を見て」
「ありがとうおばあちゃん、お母さん。もう見えないよ」
「良かった。ごめんね。もっと早くやってればよかったわ」
「父さんも、もっと気遣ってやれれば良かったな。ごめんな、圭介」
「二人とも大丈夫だよ。もう明日から学校行けそうだし」
「圭介ー、ご飯できたよ。下りてらっしゃ〜い」
母さんの温かな声が聞こえる。時計を見ると七時ちょうど。休日にしては早い方だが、今日は茜と出かけるからこのくらいが丁度いい。布団から出て、ベットを飛び降り、階段を駆け下った。リビングの扉を開けると甘い香りが広がった。今日はフレンチトーストなのか。
「ありがとう、母さん。俺このフレンチトースト大好きなんだよね」
「わかってるわよ。さっさと食べて早くお友達とでかけてきなさい」
「うん、いただきます」
フレンチトーストを手に取って頬張るとまたもや口の中に広がる甘い香り。ほっぺたが落ちるとはこういう時に言うのだろう。どれも初めての感覚だ。あっち側の世界にいた時には想像もつかなかった幸せ。温かい食べ物。新鮮な(?)野菜、優しい母親、可愛い友人。どれも最高だ。フレンチトーストも野菜も食べ終えて歯を磨きに洗面所へ。鏡を見ると、圭介の顔が映った。
「圭介くん。ありがとう代わってくれて。君をそっち側から苦しめた甲斐があったよ。こっちでは僕が、おっと俺か。俺が頑張っとくからそっち側で頑張ってね。ああ、でも聞こえてないか」
ハハハハハと笑うと俺は歯を磨いて髪を整えた。寝癖直しってめんどくさいんだよね。あっちにいた時も面倒だったし。ま、茜ともっと仲良くなるために頑張ってみるかー。あっ、そうだ。
「圭介くん。これから毎日君に話しかけてあげる。俺みたいに声を出せるようになったら返事してね」
鏡には涙を流してくしゃくしゃになった圭介の顔が映っていた。