水の女神アクアにとって、この世の事象はさながら盆に入れられた水。
水は透明な顔をしてそこに確かにあるのに、どれだけ両手を広げても、その全てを零さず掴み切ることはできない。同じく、彼女の叡智を以てしても真相を量りかねることが、この世には星の数ほどあった。
一つ、カズマが女神たる私を崇めないのは何故なのか。
一つ、心無いエリス教徒が誠実なアクシズ教徒の悪評を流すのは何故なのか。
一つ、アンデッドの王たるリッチーが街で堂々と暮らせるのは何故なのか。
一つ、シュワシュワが神をも惹き付けるほど美味なのは何故なのか。
一つ、
「あんたってさ、何でそんなにメンドーなの?」
「……あ?」
目の前の少年キルアがいつまでも晴れない顔をしているのは何故なのか。
「ダクネスがあのデュラハンにかけられた呪いは、もう私が解いたじゃないのよ。なのにキルアはいつまで辛気臭い顔してるわけ?」
「……………。」
「ま、いいけど」
ここはギルドの酒場。
ダクネスの呪いが解けた祝いで、カズマの奢りによりアクアは高級シュワシュワを飲んでいた。これで一体何本目だろうか?
「つーか今はカズマを気にかけた方がいいんじゃねーの?……オレなんかのことよりさ」
「ああ、あっちは別にいいのよ」
最初は上機嫌で奢りを申し出たのに、今やアクアの底無しシュワシュワバキューマーぶりに青い顔をしている哀れな犠牲者が一人。
「まあカズマ、私だってアクアに救われた身だ。ここは私も払うから…」
「おお!神様、仏様、ダクネス様〜…」
見かねたダクネスの救いの言葉で、カズマの顔に血の気が戻った。財源が増えたことでアクアも益々ギアを上げる。
「お前吐くまで飲むなよ…?幾ら吐瀉物も浄化出来るからって」
「何でよ?吐いて胃の中空っぽにしたらまた飲めてオトクじゃない」
「じゃあ、口から吐いたシュワシュワをまた飲んでろっ!」
「(カズマも苦労してんだな…)」
キルアはため息をつく。ダクネスも苦笑しつつ、幾らか真剣味を帯びた顔で彼に声をかけた。
「キルア…」
「ん?」
「先程のこと感謝する。お前の忠言が無ければ、私は仲間の悲痛な想いを蔑ろにしてあのデュラハンと戯れ続けていたことだろう。本来あんなことをしている場合ではなかった…」
「……別に礼言われるようなことじゃねーよ。もし奴の機嫌を損ねるようなことがあったら、オレまでヤバいかもって思ったから、さっさと帰ってもらおうとしただけさ。要するに保身だよ、保身」
「ふふふっ…まったく素直ではないな。それにしても………ああやって鉄火場で戒められるというのも、人生において実に有意義な快感をっ!…いや、知見を得られるものなのだな」
「あんたは自分の欲望に素直過ぎだっての………(もしかしてダクネスは、自責の念に駆られるめぐみんを気遣ってたからこそ、敢えて道化を演じてたという可能性は…さすがに無いか?)」
押し黙ったキルアは、めぐみんにも目を向ける。
「くかー…くかー…。今日のばくれつまほーは…何点ですかぁカズマ……」
緊張の糸が切れたからだろうか。先程はまた爆裂魔法を撃ちに行けるとはしゃいでいた(なおカズマにガッツリ叱られた)彼女は今、安心したような顔で居眠りしている。
テーブルに突っ伏してヨダレを垂らす、その口から溢れた寝言にキルア以外の一同はクスリと笑う。
「もう、めぐみんったら。さっきはこの世の終わりみたいな顔してたのに現金なんだから」
「まあ良かったじゃないか。こいつのあんな顔、二度と見たくないよ俺」
「別に私にそんな趣味は無いのだが、今のめぐみんには何だか猛烈に庇護欲をそそられるぞ…」
「…………。」
己が死んでしまうことよりも、めぐみんの悲壮な姿に対して辛そうな顔を見せていたダクネスはどんな精神構造をしているのか。カズマとめぐみんも、弱っちいのに何で仲間を救うためにあんな化け物と戦いに行けるのか。
「(オレはあそこでこいつらを見殺しにしようとしてたのに………)」
何だか彼らと一緒にいるのが今は無性に辛かった。
「……なあアクア、飲むのはそろそろ止めにしてやろうぜ?カズマとダクネスが困るだろ?」
「えー、まだまだこれからなのに〜!」
「いやいや、本当に頼むぞアクア。俺の財布さんはもう限界って言ってるから!何年も断食したみたいにゲッソリしてるから!」
「本当に吐いてもいかんしな。アクア、今日はこの辺で手打ちにしてくれないか。一番気持ち良く寝れるのはちょうど今くらいの酔い加減の時だぞ?」
「すぴー…すぴー…」
結局アクアは渋々折れる。未だぐうぐう寝ているめぐみんはキルアが背負っていくことになり、一行は解散となった。
「じゃあ、カズマとダクネスの奢りで明日も飲むわよ!」
「奢るのは今日だけだぞ、駄女神!明日からは自腹な?」
「もう、カズマさんのケチマさん!」
そんな時だった。
「キャッ!」
ドンッと誰かがダクネスにぶつかって悲鳴をあげる。
「すみません!手を離した時にウチの子が…」
どうやら幼い女の子が夕暮れで視界の悪い中、母親を振り切って走った時ダクネスにぶつかってしまったらしい。
結構な勢いで転倒し、体のあちこちを思い切り擦りむいている。ダクネスに顔からぶつかったので、鼻血も出ていた。
「うっ……わああああああああああんっ!」
女の子は盛大に泣き出した。
母親は必死にダクネスに詫びつつも女の子を抱え起こし、ダクネスも女の子を放っておけず頭を抱えていた時のこと。
「……ほら、もう痛いとこはないでしょ?さあ、立ちなさい。可愛いのに泣いてたら台無しよ?」
回復魔法をかけてあげたアクアが、屈んで女の子の頭を撫でる。それでも女の子はぐずり続けていた。
「もう、しょうがないわね。いい?今からとっておきを見せてあげるわ。さあ、このハンカチの中から、なんと……」
まだ泣き止まない女の子に対し、アクアは芸を見せて泣き止ませるつもりのようだ。
「本当にありがとうございます!何とお礼を言ったらいいか…」
アクアに何度も頭を下げる母親をカズマが宥めている光景が、キルアには遠くから見えた。
"遠くから見えた"というのは、アクアが女の子を治した時点で、彼は足早にその場を立ち去ったからだ。まるで逃げ出すように。
「すー……すー……キルアー…今日も…しょーぶですぅー…」
背中に抱えるめぐみんの温もりすらも、今は早く手放したくてたまらなかった。
何もかも自分のわがままだと自覚していても、子供の癇癪に近いものだと頭では認めていても、それでもキルアは思う。足下の石ころを蹴飛ばしながら…。
「(何でオレがこんなにメンドーなのかって? ダクネスの呪いもあの女の子の怪我も………何でもかんでも救えちまう奴にオレのことが分かってたまるかってんだ)」
女神の手を取れず終いだった少年は、今やほぼ駆け足で歩みを進めていた。
そんな少年の行く道を、沈みゆく太陽が赤く染めている。誰かの傷口から溢れ出た鮮血のように、赤く赤く…。
「世の中にはな………お前らみたいにずっと前を向いてられない奴だっているんだよ」
その背に眠る少女に向けて、小さくぽつりと漏らした独り言は、夕闇に紛れ誰の耳にも届くことは無かった。
***
「兄…貴!!」
「奇遇だね。まさかキルがハンターになりたいと思ってたなんてね」
『ここはどこだ…!?………これはどうなってやがる!?』
「別になりたかった訳じゃないよ。ただなんとなく受けてみただけさ」
「…そうか、安心したよ。心おきなく忠告できる。お前はハンターに向かないよ。お前の天職は殺し屋なんだから」
無表情で淡々と事実を述べるかの如く。こちらを諭すのは、他ならぬゾルディック家の長男イルミ=ゾルディック。
『イルミがこの世界に……一体どうして?????』
キルアはイルミを視界に収めたまま、それとなく周囲の様子を伺う。ここはまさか……
「お前は熱をもたない闇人形だ。自身は何も欲しがらず、何も望まない。陰を糧に動くお前が唯一歓びを抱くのは、人の死に触れたとき。お前は親父とオレにそう
間違いない。これは異世界ではなく元の世界。
そして、目の前の光景は自分が初めてハンター試験を受けた時のこと。最終試験の真っ最中だ。
試合会場であるだだっ広いホールは、上部に取り付けられた足場から試合を見下ろせるようになっていた。そこに見知った顔が幾つも並んでいる。
『今となっては懐かしいもんだな…』
「確かに……ハンターにはなりたいと思ってるわけじゃない。だけど、俺にだって欲しいものくらいある」
「ないね」
「ある!今、望んでることだってある!」
「ふーん、言ってごらん。何が望みか」
イルミの発言に対して、【キルア】の口は勝手に動いて言葉を紡いでいるようだ。
「どうした?本当は望みなんてないんだろ?」
「違う!……ゴンと……友達になりたい」
あの時と全く同じ答え。
『ああ、なるほど。やっぱりこれは夢か…』
他人事のようにぼんやりとキルアは呟く。「今自分が見ているのは夢だ」と認識できる夢をたまに見ることがあるが、きっとこれもそうなのだろう。
「無理だね。お前に友達なんて出来っこないよ」
その後も【キルア】とイルミの間で、あの時と寸分違わず同じやりとりが繰り広げられた。
キルアには何一つ介入出来ない。もっとも介入出来た所で、何か運命を変えることは出来たかどうか…。
「ゴンと友達になりたいだと?寝ぼけんな!!とっくにお前ら
更に案の定レオリオもあの時と同じく【キルア】に力強い言葉をかけてくれた。
「オレと戦って勝たないとゴンを助けられない。友達のためにオレと戦えるかい?できないね。なぜならお前は友達なんかより、今この場でオレを倒せるか倒せないかの方が大事だから」
されど今もなお、この兄の言葉はキルアの心を蝕み続ける。
すると、ここで前回とは違うことが起きた。
「でも、そうだな…。今はゴンを殺すのはやめておこうか」
『な…!?』
キルアは絶句する。予期せぬイルミの言動に喜びや安堵より真っ先に、困惑の感情が浮かんだ。
「ゴンだけじゃない。今はレオリオやクラピカにも手出ししないと約束しよう」
『イルミの奴……一体何を企んでる?』
次の瞬間。突然、キルアを取り巻く世界がおかしくなった。
何が何やら訳が分からないキルアだけ取り残して、周囲の世界が突然歪み始めたのだ。視界の端から景色がどろどろと溶け出し、絵の具をごちゃ混ぜにしたように、世界の色彩が混ざり合っていく。
「今度は………ギルド?」
そこは今やお馴染みと言えるほど見慣れた冒険者ギルドだった。
冒険者達の賑やかな喧騒がキルアを包み込む。ボウガンの弦を張り替えるアーチャーの男がいれば、剣か槍かよく分からない武器をしげしげと眺める前衛職らしき女もいる。テーブルでは二人組の男女がジョッキを片手にルナと談笑していた。
そしてキルアはいつもの面々を見つける。
アクアから何か無茶を言われているらしいカズマ。
カズマから頬をつねられご機嫌斜めなアクア。
アクアの泣きっ面を見て羨ましそうにするダクネス。
こちらの存在に気付き声をかけてくるめぐみん。
彼らに駆け寄ろうとした時のこと…
「……キル、こいつらは殺していいよね?どうせ別の世界の連中なんだし」
「え………?」
キルアの隣に立つのはイルミだった。
手には四本の大きな針を携えている。たなびく長髪の向こうに見え隠れする無機質な目に、仄暗い喜色の光が宿っていた。
「ゴン達は殺さないさ、今はね。…でも、こいつらは死んでも構わないんだろう?」
そう言ってイルミは投擲の構えを取る。
めぐみんは変わらずキルアに呼びかけていて、他の三人も異常を察した様子はない。
「……ダメだ!やめろっ!やめてくれ!!」
口は動かせても、手足はほんの僅かも動かせなかった。止めなきゃいけないはずなのに!
そのままイルミの振り被った手から、矢の如く針が放たれ──
「やめろおおおおおおおおおおおおおっ……!!!!!!!!!」
「随分とうなされていたようですけれど、大丈夫ですか?キルア=ゾルディックさん…」
「!?」
どうやらいつの間にか、自分が見ているのが単なる夢に過ぎないことを忘れていたらしい。キルアは汗びっしょりで我に返る。
「安心してください。貴方がどんな夢を見ていたのかは私に分かりませんから」
「………あんたか。こっちもちょうど会いたいと思ってたよ」
目の前にいるのは女神エリス。
相変わらずその美貌に穏やかな微笑を湛えてはいるが、以前と異なり目に温かみの欠片も無かった。
また、前回と異なる点がもう一つ。
「で、今度はオレを雁字搦めに縛り付けたってわけね」
この不思議な空間において、現在キルアの全身は、座っている椅子ごと鎖で厳重に縛り上げられていた。
拘束は凄まじく固い。ゾルディック邸の拷問部屋の拘束具を容易く引きちぎれるような彼でさえ、幾らもがいても鎖をジャラジャラ鳴らすのが精一杯であった。
「あんたホントに女神なのかよ?酷いことしやがるぜ」
「これくらいはしても仕方がないでしょう?子供といえど、暗殺者一家の人間なのであれば」
「………へえ…」
キルアがとうに予想していた通り、既にエリスは彼の素性を掴んでいるらしい。
「まったく……貴方が何者なのか、どのような来歴の持ち主なのか、そちらの世界で調べる過程で私は天界規定を幾つも破りましたよ」
エリスは、動けないキルアの前をゆったり歩きながら語りかける。氷のように冷たい眼差しで彼を見下ろして。
「先輩のやんちゃな所が移っちゃったのかもしれませんね」
冗談めかして言う彼女の瞳に少しだけ温情が籠もったようにキルアには見えた。……もっともそれは一瞬で消えてしまったが。
「オレのことはいいからさ、さっさと本題に入ってくれない?オレと世間話がしたいわけじゃないんだろ?」
鎖を敢えてジャラジャラ鳴らしてエリスの気を引く。彼女は煩わしげにしつつも、それには言及しなかった。
「………キルアさんを再びここに招いたのは他でもありません。貴方が求めているであろう情報を入手したためです」
「おお、やったじゃん。どんな情報か教えて?」
「そうですね。それでは、まず貴方の世界を管轄する双子の女神の名前を教えましょう」
ここでエリスは立ち止まり、キルアとまっすぐ目を合わせる。
「彼女達の名は、イータとエレナです」
「……………は?」
キルアは彼女の言葉を呑み込むのに数秒を費やした。鼓膜は正常に震えても、脳が中々その言葉を思考の海に流そうとしなかったからだ。
「もしかしたら貴方なら会ったこともあるかもしれませんね…」
「お、おい待て…!そいつらの名前ゴンから聞いたことあるぞ!! 確か…………」
***
時同じくして、別の世界にて。
サイバーチックな円形の部屋を一人の少年が訪ねていた。
不思議な形の椅子に座る、ヘッドセットを装着した女性と向かい合っている。
「グリードアイランドへようこそ……ゴン=フリークス様」
少年────ゴン=フリークスの瞳には強い意思が見て取れた。
「一度プレイヤー…ゴン様によってゲームクリアが達成されたため一部指定ポケットカードの入手条件などに変更はありますが、基本的なゲームシステムに変更点はありません。ゲームの説明を再度お聞きになりますか?」
「あ〜いや…イータさん。オレ今日はゲームをプレイしに来たわけじゃないんです」
ゴンは頭を掻きながらおずおずと応える。イータと呼ばれた女性は小首を傾げた。
「ここをクリアした時に報酬でもらったカードを使ったらキルアがいなくなっちゃって…もう
「………あら、そうだったの」
事務的な対応から一変し親しみのある顔付きとなったイータ。彼女はしばらく考え込んだ後、楽しげに微笑んだ。
「エレナなら何か知っているかもしれないわ。貴方もこのゲームをクリアした時に会ったでしょう?」
ゴンはイータを指差して声を張り上げる。
「あ、エレナさん!そうそう、オレはまずエレナさんに話を聞きたいんだった!」
「それなら一度ゲームの世界に入ってもらえるかしら。エレナに会うにはどこに行けばいいかは忘れてないわよね?」
「もちろんだよ!ありがとう、イータさん!」
彼女に手を振って、ゴンは室内の階段を駆け降りる。
──全てはキルアと再会するために。
「………全くエレナには脱帽ね。あの子がここに来ることを三日前に予見していたんだから」
誰もいなくなった部屋でイータは愉快そうに呟く。
彼女達の真意は果たして…?
今話を読んだ後は、ゆずの『REASON』をお聴きになることを推奨します。