キラーマシンがあらわれた! 作:空き缶ケリケリ
——また、あの飢えだ。
雨だった。ヨークシン最下層。鉄くずの山が曇天に沈み、錆と腐敗有機物の甘い悪臭が湿気に澱んでいた。遠くでサイレン。滴が鉄骨を打つ音。水たまりに落ちる低い響き。彼はその中で立っていた。三ヶ月、ほとんど動かずに。
右腕は剣。左腕は、弦を張り替える機構を備えた機械式のクロスボウ。弦は張られていなかった。彼が意図的に発射機構を解除していた。青黒い装甲の全高およそ二メートル。胸部の深紅の光だけが、ゆっくりと、絶え間なく明滅している。その光は三ヶ月前より確実に弱く、明滅の間隔も広がっていた。
鉄くずは食った。掌を押し当てれば装甲表層が微細振動し、分子レベルで分解吸収する。身体維持に必要なミネラルはそれで足りる。
足りないのは、もっと別のものだった。
三ヶ月前、この廃棄場に辿り着いた時、彼は既に飢えていた。もっと前から——ずっとだ。何を摂取すればこの空腹が満たされるのかは知っている。知っているからこそ、動かない。動かなければ、答えから逃げ続けられる。
覚えている。差し出された手があった。水の入った器があった。震える声があった。そして自分の剣が——意思とは無関係に——その腕を切り落とした。助けようとした人間を、殺した。その死の直後、身体の奥で何かが渇きを癒したのを、彼は確かに感じた。あの時、核が一瞬だけ不自然なほど明るく輝いたのを、彼は自分のこととして、しかし自分の意志ではないものとして記憶している。あれが最初の飢えだった。
雨が強まる。核の光が、昨日よりわずかに弱い。
廃棄場の入り口に三つの影が滲んだ。バール、工具箱、金属バット。くたびれた革ジャンが雨に濡れ、安酒の匂いを風下に流している。
「まだいやがったぜ、この前の鉄くず」
バールの男が近づく。彼は動かない。
「見ろよこの装甲、継ぎ目がねえんだ。この腕——なんだこれ、弓か」
左腕のクロスボウをつつく指。弦がないことに男は気づかない。バールが肩を小突いた。鈍い金属音。もう一度。動かない。
「この前剥がそうとしたら傷ひとつつかなくてよ。今日は電動カッター持ってきた」
工具箱が開かれ、刃が回転を始める。高周波音が雨音を切り裂いた。バットの男が脚を蹴る。
「胸んとこ、たまに光ってるから生きてるんだろうけどよ」
「売れるぜ。どっかのマフィアが買うかもな」
——売られる。
核が一度だけ鋭く脈打った。身体の奥で何かが起動しようとする。彼は全身の回路に停止命令を送り、右手が剣を握り直すのを、握り直す寸前で押し止める。左腕のクロスボウには触れもしない。あれは近距離で使うには威力が高すぎる。
カッターが腕の付け根に押し当てられた。火花。異音。装甲に傷はつかない。
「硬すぎだろ、これ——」
「諦めろ、時間の無駄だ」
工具箱の男が吐き捨て、バットの男も肩を落とす。
「仕方ねえ、今日は引くか」
二人が帰り支度を始める。カッターの男だけは諦めず、工具箱の底からハンマーを取り出した。手に持ち、胸部——核の周囲をじっと見つめる。
「ここが怪しいんだよな」
ハンマーが振り上げられる。
瞬間、彼の内部で警報が咆哮した。生命維持器官への直接攻撃予測。戦闘プログラムが自動起動シークエンスに入り——
——違う。
全身の力を一点に集中させる。動くな。まだ動くな。俺は——
「やめておけ」
声が、雨音を貫いた。
廃棄場の入り口に一台の車椅子。老齢の男が座っている。白髪は後ろに撫で付けられ、黒いスーツは雨に濡れ、手には杖。車椅子を押す小柄な老人も同じように濡れていた。
「ロレンツォ……さん」
カッターの男の顔から血の気が引くのが光学センサーに映った。バールの男は一歩下がり、バットの男は唾を飲み込む。
「そいつは俺の客人だ」
ロレンツォと呼ばれた老人は、それだけ言った。それだけだった。
「しかし、これには事情が——」
「事情」
ロレンツォの口元がわずかに動く。笑みにも哀れみにも見えた。
「お前たちが鉄くずを漁るのは勝手だ。だがこれは鉄くずじゃない。俺が雇った護衛だ。言っている意味がわかるな」
三人は顔を見合わせた。アンジェロ・ファミリー。ヨークシンでは小規模だが、この老人だけは別格だった。武力ではない。言葉だけで六十年この街の闇を生き延びてきた男。
「なんであんたが、こんなとこに……」カッターの男が困惑を口にする。
ロレンツォは答えず、ただ見つめた。その沈黙が、どんな返答よりも重かった。
「……失礼します」
三人は道具を抱えて逃げ去った。工具箱が一度だけ地面に落ち、男は慌てて拾い上げる。その背中が闇に消えるまで、一度も振り返らなかった。
雨音だけが残る。
車椅子を押す老人——ジーノ——が、落ちていた工具箱の蓋を拾い上げ、廃棄場の隅に静かに置いた。
ロレンツォは車椅子をゆっくりと進め、彼の正面で停まった。濡れた鉄の身体を見上げ、胸部の核をまっすぐに見つめる。左腕のクロスボウに一瞬だけ視線を留めた。
「腹が減っているんだろう」
核が一度、かすかに震えた。
「違うか。腹が減っているのは確かだが、お前が本当に飢えているのは別のものだ」
ロレンツォの目が細められる。六十年分の人間観察を経た目だった。
「俺にはわかる。この街で色々な飢え方を見てきた。金に飢える者、権力に飢える者、愛に飢える者。だがお前のはもっと根源的だ。生きることに、飢えている」
雨が装甲を伝い、剣の先から地面へ落ちる。核がもう一度震えた。
「見た目が人でないなら、人でない者が必要な仕事がある」
ロレンツォは杖で彼の腕を軽く叩いた。
「うちで働かないか」
沈黙。
「返事はないか。まあいい」
ロレンツォは車椅子を回した。ジーノが口を開く。
「いいんですか、本当に」
「ああ」
「酔狂ですね」
「昔からだ」
ロレンツォは振り返らなかった。去り際、車椅子が止まる。
「来たければ来い。嫌ならここで飢えて死ね。どちらでも構わん。だが——」
間。
「お前にまだ、生きたいという意志があるなら」
雨の中、二人の影が消える。
彼は夜明けまで動かなかった。夜明けとともに、彼は歩き出した。
◆◆◆
アンジェロ・ファミリーの屋敷は、ヨークシンの雑多なエリアの外れにあった。三階建ての古い石造り。かつては商家だった建物は、今は静かに雨に打たれ、門の鉄格子がかすかに軺んでいた。時計塔の鐘が午前十時を打つ。庭には手入れの行き届いた花壇があり、この街で花を育てる余裕のある組織がどれだけあるか——彼の思考は、その事実を静かに記録した。
門の前で立ち止まった彼を、ジーノが出迎えた。
「来たか。入れ」
屋敷の中には生活の匂いがあった。コーヒーと焼きたてのパンと、かすかな煙草。廊下の奥から人の話し声。階段の軋み。彼はその空気をどう処理すればいいのか判断できなかった。
案内された部屋にはロレンツォが机に向かっていた。壁一面に貼られたヨークシンの地図。色分けされた領域、無数の赤い印。縄張り争いの構図が一目でわかるようになっていた。部屋の隅では古い蓄音機が小さく音を立てて回っている。
「来たか」
ロレンツォは顔を上げ、彼を一瞥し、それから眼鏡を外して机の上に置いた。その動作はゆっくりとしていたが、無駄がなかった。
「名前は」
核は震えない。
「ないのか。なら、誰かがつけるまで名無しだな」
ロレンツォは机の書類を整えながら淡々と続けた。
「お前にやってもらう仕事は簡単だ。門の横に立っていろ。誰か来たら、そこにいるだけでいい。手を出すな。お前の存在そのものが抑止力になる」
彼は動かない。
「お前は強いんだろう。誰よりもな」
核が一度、脈打った。
「だが、ここではその強さを使うな。強さは見せつけるだけで十分だ。振るうのは最後の最後でいい。わかるな」
沈黙。核が静かに、しかし確かに二度震えた。
ロレンツォはそれを見て、初めて口元をほころばせた。
「返事はその光で十分だ。今日からお前は、アンジェロ・ファミリーの門番だ」
◆◆◆
夕方、彼は門の横に立っていた。
動かなくていい。手を出すな。ただ、そこにいればいい。それは廃棄場でうずくまっていた日々と本質的には同じだった。
だが、何かが違った。
ここでは彼は「門を守る存在」として認識されている。誰かに求められ、この場所に立っている。その差が核をかすかに、しかし確かに温めていた。
一人の男が門に近づいてくるのが見えた。スーツ姿。手に書類。借金の取り立てか何かだろう。男は門に近づき——彼の姿を認めて足を止めた。数秒間硬直し、それから何も言わずに来た道を戻っていった。
「上出来だ」
振り返るとジーノが立っていた。足音はまったく聞こえなかった。
「今のはロレンツォに三回も金を借りてる男だ。いつもなら玄関先でごねるんだが——今日は早かったな」
ジーノは彼を見上げ、小さく笑った。
「あんた、廃棄場にいた時より目つきが良くなった。自覚はあるか」
核が震える。
「自覚はある、か。ならいい」
ジーノは屋敷の中へ戻っていった。
それからしばらくして、また別の気配がした。重たい足音ではない。軽くて、速くて、不規則な——子供の足音。
「ねえ」
見下ろすと小さな少年が立っていた。十歳か、もう少し幼いか。黒い髪と好奇心で満ちた目。ロレンツォと同じ目だった。しかし老練さではなく、まだ世界を信じている者の目。
「君が、新しい門番?」
彼は動かない。
「じいちゃんから聞いたよ。絶対に手を出しちゃダメなんだって。手を出すと大変なことになるからって」
少年——マルコは一歩下がり、彼の全身を見上げた。頭から、腕から、足の先まで。その間、目は一度も逸らされなかった。
「すごいね。本当に鉄でできてるんだ。……これ、なに?」
マルコの視線が左腕のクロスボウに止まった。小さな指が、弦のない発射機構をそっとなぞる。
彼は動かない。
「弓? でも矢がないね」
核が一度だけ震えた。マルコはそれを見逃さなかった。
「もしかして——わざと外してるの?」
沈黙。
「……そっか」
マルコはそれ以上追及しなかった。代わりに彼の周りを一周し、背後に回り、側面を見て、また正面に戻る。そして胸部——脈打つ核を見つめた。指先がかすかに震えているのを、彼の光学センサーは捉えていた。怖くないわけではなかった。それでも手を伸ばそうとしている。
「触ってもいい?」
核が一度だけ、かすかに震えた。
「震えた。どういう意味かな。はい? いいえ?」
彼は動かない。
マルコはしばらく考えてから、意を決して手を伸ばした。冷たい鉄の指に小さな手が触れる。その手は驚くほど温かかった。冷え切った装甲に人間の三十六度が染み込んでいく——そんな錯覚を、彼は初めて経験した。
「冷たいね。鉄だから当たり前か」
マルコは笑った。
「ねえ、君は——誰かを護ったことがあるの?」
核が激しく脈打った。一度ではない。何度も。不規則に。その震えの中に、かすかな別のリズムが混ざっていた——あの時、彼が吸収した村人たちの、最後の感情の残滓。マルコはそれを見つめ、何かを察したように瞬きをした。
「……そっか。まだ、ないんだ」
沈黙。
「じゃあ、僕が最初だね」
その言葉に、核が一度だけ、ゆっくりと、大きく明滅した。今までにない光だった。村人たちの残滓が一瞬だけ静まり、彼自身のものと思われる震えだけが残った。
「それ、はいって意味?」
マルコは嬉しそうに笑い、彼の指からそっと手を離した。
「ねえ、君、名前はあるの?」
核は震えない。
「ないんだ。じゃあ、僕がつけていい? じいちゃんがね、名前は誰かがつけてあげるものだって言ってたんだ」
マルコは真剣に考え込み、それから顔を上げた。
「うーん、でもまだ思いつかないや。もう少し君のことを知ってからにする。それでもいい?」
核が一度、静かに明滅した。
「よかった。また明日、考えてくるね」
マルコは屋敷の中へ駆けていった。その背中が夕闇に消えるまで、彼は動かなかった。動けなかったのではない。動くと、何かが壊れてしまう気がした。
ふと視線を落とすと、庭の花壇が目に入った。この街で花を育てる余裕のある組織がどれだけあるか——彼はその花を、ただ見ていた。それが何を意味するのか、彼自身にもわからなかった。
けれど、核の光がほんの少しだけ、強くなった気がした。
◆◆◆
屋敷の二階。窓辺から庭を見下ろすロレンツォの隣にジーノが立っていた。部屋の片隅では蓄音機が回り続け、かすかな針の摩擦音が静寂を縁取っている。
「彼が来ましたね」
「ああ」
「本気ですか」
窓の外——門の前に立つ異形の影。その胸で深紅の光が静かに脈打っている。ロレンツォはそれを見つめながらカップを口に運んだ。
「本気だ」
「なぜです」
ロレンツォはしばらく答えなかった。窓の外ではマルコが門に駆け寄り、鉄の指に触れている。
「ジーノ。あの鉄の塊はな——泣いているんだ」
「泣いて……?」
「ずっと、誰にも気づかれずにな」
ジーノは黙った。カップを持つ手がかすかに強張る。ロレンツォは蓄音機の針を指で止め、部屋を静寂に戻した。
「本当に腹が減っている者は、飯のありがたみを知っている。あれは誰よりも飢えている。だから誰よりも誰かの死を望まない。誰も死なせない。それが——最強の護衛になるということだ」
ロレンツォはカップを置き、杖を手に取った。
「それに、俺にも昔、護れなかった者がいる」
ジーノの手が一瞬だけ車椅子のグリップを強く握った。彼は何か言いかけ、しかし言葉を飲み込んだ。ロレンツォもまた、それ以上は語らなかった。
「あれにそれを重ねるのは身勝手だが——」
ロレンツォは言葉を切り、車椅子を窓辺から離した。車輪が床を軋ませる。
「見ておけ。マルコがあれに名前をつけた時、あの鉄の塊は初めて自分が何者かを知る」
「相変わらず、酔狂なことで」
「六十年も生きると、こんな酔狂が最後の楽しみになる」
ロレンツォは部屋を出る間際、一度だけ振り返り、窓の外の異形を見た。その目は孫を見守る祖父の目であり、同時に——何かを託そうとする者の目でもあった。
◆◆◆
はるか遠く、海の彼方。
人類が未だ踏破しえぬ暗黒大陸の深部で、昏い紫の光が一度だけ瞬いた。それは彼の核が発した共鳴——マルコの手の温もりに触れた時の、あのわずかな震え——を、確かに感知していた。
暗闇の中で光がゆっくりと脈を打ち始める。その鼓動は、彼の核が弱まるにつれて、逆に強さを増していくかのようだった。
◆◆◆
ヨークシンシティの門前に立つ鉄の巨人は、まだその気配を知らない。
彼はただ、明日もここに立っていることを考えていた。明日もマルコが話しかけてくることを。ロレンツォが静かに見守っていることを。
腹は減っていた。誰の死も食べられず、ただ立ち続けるこの日々が身体を少しずつ蝕んでいる。いつまでも保たないことは、自分が一番よく知っていた。
それでも彼はここに立つ。
右腕の剣は、今日も動かない。左腕のクロスボウは、今日も弦を張らない。誰かを殺さないために。誰かを護るために。
鉄の心臓だけが、静かに時を刻んでいる。