キラーマシンがあらわれた! 作:空き缶ケリケリ
空腹が、彼を殺そうとしていた。
雨の季節が終わろうとしていた。ヨークシンシティの空は相変わらず曇天に覆われ、晴れ間は一日に一度あるかないか。それでも、あの廃棄場で彼を打っていた冷たい雨は、ここ数日ですっかり影を潜めていた。
門の横に立つ彼の姿は、屋敷の風景の一部になりつつあった。
朝、ジーノが門を開け、新聞を取りに出る。午前中はロレンツォのもとへ訪れる来客が数人。いずれも彼の姿を見て一度足を止め、それから覚悟を決めたように門をくぐっていく。午後になると人通りは減り、夕方にはマルコが学校から帰ってくる。
彼は動かなかった。右腕の剣も、左腕のクロスボウも、ただ黙って門の横に立つためにだけ存在していた。
ある時、二人組の男が訪ねてきた。一人はスーツ、もう一人は作業着姿。貸した金の取り立てに来たのだろう。スーツの男が門の前で彼を見上げ、作業着の男に耳打ちした。
「なあ、あれ、本物か」
「動かねえよ。置物だろ」
「おい、ロレンツォに取り次いでくれ」
彼は動かない。
「おい、聞こえてるのか」
作業着の男が彼の装甲を拳で叩いた。乾いた金属音が鳴る。それでも動かない。
「やめとけ」
スーツの男が作業着の腕を掴んだ。
「なんだよ」
「こいつ、この前ガントツの連中が手を出して、指を三本へし折られたって噂だ。動いてねえのにだ。どういう仕組みか知らねえが、関わらねえ方がいい」
作業着の男は彼を一瞥し、拳を引っ込めた。
「……わかった。また出直す」
彼らは門をくぐらずに去っていった。噂は誇張され、尾ひれがついていたが、それは彼にとって好都合だった。実際、彼は動かなかった。ただ立っているだけだった。それだけで人が去るなら、それ以上のことは必要なかった。
ジーノが屋敷の中から顔を出し、去っていく二人組の背中を見送った。
「ガントツの連中が指をへし折られた、か」
彼は小さく笑った。
「あんた、いつの間にそんな噂を作ったんだ。まあ、噂は作るもんじゃなくて立つもんだからな」
核が一度だけ、かすかに震えた。ジーノはそれを見て、また笑った。
「そういうことにしとくか」
◆◆◆
空腹は、日増しに強くなっていた。
鉄くずは毎日食べていた。門の横に立ちながら、あるいは夜中に、掌を地面の鉄片に押し当てる。装甲が微細振動し、接触面の金属が分解吸収されていく。身体維持に必要なミネラルはそれで足りていた。
しかし、あの飢えは、鉄くずでは癒せなかった。
核の光は、廃棄場にいた時よりもさらに弱まっていた。明滅の間隔は広がり、光そのものも深紅から暗赤色へと沈みつつある。彼は自分の身体の異変を感じていた。右腕が、命令よりほんのわずかに遅れて応答する。致命的ではない。しかしその「わずか」が、いつか命取りになる。戦闘プログラムの起動準備が、彼の意志より先に整おうとしている。
先日、屋敷の裏手で猫が喧嘩を始めた時、左腕のクロスボウが一瞬だけ自動で弦を張ろうとした。彼は即座に停止命令を送り、事なきを得た。猫たちはそのまま走り去り、彼は動かなかった。動かなかったが——彼はゆっくりと、震える左腕を右手で押さえつけていた。剣の腹で、クロスボウの機構を上から覆い、力を込めて。
——まだだ。
——まだ、動くな。
ジーノがその様子を屋敷の窓から見ていたことに、彼は気づいていた。気づいていたが、ジーノは何も言わなかった。ただ、その日の夕方、彼のもとに来て言った。
「ロレンツォが呼んでる。ついてこい」
◆◆◆
彼は門の横を離れ、ジーノのあとについて屋敷の中へ入った。廊下の灯りが揺れ、古い床板が軋む。ジーノは無言で歩き、時折、肩越しに彼を振り返った。何かを言いたげだったが、結局、口を開かなかった。
案内されたのは、いつもの執務室ではなかった。屋敷の最奥、ロレンツォの私室だ。
部屋の中は驚くほど簡素だった。壁には一枚の写真。若い頃のロレンツォと、その隣に立つ数人の男たち。机の上には読みかけの本と、飲みかけのコーヒーカップ。そして、あの蓄音機。
ロレンツォは窓辺に車椅子を置き、外の暗がりを見つめていた。
ジーノは無言で部屋を出ていこうとした。その背中に、ロレンツォが声をかける。
「ジーノ」
「……はい」
「お前にも、まだ話していなかったな。なぜ俺がこいつを拾ったか」
ジーノは答えなかった。ロレンツォは窓の外を見つめたまま、ぽつりと言った。
「昔、護れなかった者がいる」
ジーノの手が、一瞬だけ強張った。彼は何か言いかけ、しかし言葉を飲み込んだ。ロレンツォもまた、それ以上は語らなかった。
「下がっていい」
ジーノは無言で一礼し、部屋を出ていった。扉が閉まる音。蓄音機の針がレコードの終端に達し、かすかな摩擦音だけが部屋に響いている。ロレンツォは針を持ち上げ、レコードを裏返した。ゆっくりとした動作だった。無駄のない、正確な手つき。
「腹は、減っているか」
核が一度、かすかに震えた。
「そうか」
音楽が流れ始める。弦楽器の静かな旋律。
「お前は誰よりも強い」
沈黙。
「だからこそ、誰よりも殺さずに済む」
沈黙。
「それが護るということだ」
ロレンツォは杖を手に取り、彼の胸部——核を指した。
「マルコを頼む」
それだけだった。
核が深く、ゆっくりと明滅した。今までにない光だった。弱々しい光の中で、それでも確かに輝く光。彼は返事ができなかった。言葉を持たないからではない。返すべき言葉が、あまりに重すぎたからだ。
ロレンツォはそれを見て、初めて深く笑った。
「いい返事だ」
◆◆◆
部屋を出ると、廊下にジーノが立っていた。壁にもたれ、腕を組んでいる。彼が扉を閉めるのを見ると、小さく息を吐いた。
「旦那は多くを語らん。でも、あんたに賭けてる。それがわかれば十分だ」
ジーノは彼を見上げ、それから視線を床に落とした。
「俺はな、昔、旦那に拾われた身だ。あの人の言葉は、短ければ短いほど重い。今のは——相当、重かったぞ」
核が震える。
「自覚はある、か。ならいい」
ジーノは背を向け、廊下を歩き出した。その背中が角を曲がる直前、彼は立ち止まり、振り返らずに言った。
「あんた、そろそろ限界だろ。その空腹、いつまで保つ」
彼は動かない。
「……そうか」
ジーノはそれ以上、何も言わなかった。
◆◆◆
翌日、マルコが学校から帰ってくると、彼は門の横に立っていた。いつもと変わらず。
「ただいま」
マルコは彼の隣に立ち、ランドセルを下ろした。
「今日ね、学校で喧嘩があったんだ。僕じゃないよ、隣のクラスの子たち。すごく強そうな上級生がいてね、みんな逃げてた」
彼は動かない。
「僕も逃げた。だって、勝てない相手と戦っちゃダメだって、じいちゃんが言ってたから」
核が一度震えた。マルコはそれを見て笑った。
「君もそう思うでしょ。」
彼は動かない。マルコの笑顔が、ふと曇った。
「ねえ、今日はなんだか——疲れてるみたいだね」
核は震えなかった。
「……そっか。なんでもない」
マルコはそれを追及しなかった。代わりに、彼の指をそっと握った。冷たい鉄の指に小さな手が触れる。あの温度だ。三ヶ月の廃棄場で忘れかけていた、人間の温度。
「護身術、また教えてくれる? 前は逃げ方だったけど、今日は違うやつがいい」
マルコの手が、彼の指を握ったまま離れない。
「もしも逃げられない時、どうすればいいか。じいちゃんは『戦え』とは言わないんだ。『戦わずに済ませろ』って。でも、どうすればいいかわからない」
彼は動かなかった。しかし数秒後、ゆっくりと右腕を持ち上げた。剣の腹の部分——刃のない平らな面——を、マルコの前に差し出す。
「これ、どういう意味?」
彼は腕を動かした。剣を横に向け、相手の攻撃を受け流すような動き。もう一度。ゆっくりと、正確に。
「……そっか。攻撃を防ぐんだね」
核が一度震えた。
「でも、相手が強かったら」
彼は今度は左腕のクロスボウを持ち上げた。弦は張られていない。その状態で、発射機構をマルコに向け——そしてすぐに下ろした。
「……見せるだけでいいってこと?」
核が一度震えた。
「持ってるだけで、相手が怖がる。そういうことか」
マルコは真剣な目で彼を見上げた。
「君は、いつもそうしてるんだね。動かないで、立ってるだけで、みんなを怖がらせてる。それが君の護り方なんだ」
核が震える。マルコの手が、彼の指からそっと離れた。
「ねえ、君が動く時は——どんな時なの?」
核は震えなかった。その沈黙を、マルコはじっと見つめていた。
「……そっか。まだ、わからないんだ」
違う。彼は知っている。動く時があるとすれば、それは——。
マルコはそれ以上聞かずに、ランドセルを背負い直した。
「じゃあ、また明日。考えておいてね」
屋敷の中へ駆けていく背中を見つめながら、彼は動かなかった。動けなかったのではない。動くと、自分が何をしでかすか、もうわからなくなっていたからだ。
◆◆◆
その夜、一本の電話が鳴った。
ロレンツォの執務室。壁の地図に赤い印が一つ、また一つと増えていく。ここ数日、ヨークシンの地下組織の間で、不穏な情報が飛び交っていた。マフィアのコミュニティ全体が、何かに怯えている。
執務室にはロレンツォ、ジーノ、そして数人の構成員が集まっていた。彼もまた、部屋の隅に立っている。
電話のベルが、静寂を切り裂いた。
ロレンツォが受話器を取る。短い応答。相手の声を聞く彼の表情が、みるみるうちに強張っていくのがわかった。ジーノが一歩前に出る。他の構成員たちは息を潜めている。ロレンツォは無言で受話器を置いた。
「蜘蛛が、ヨークシンに集まっている」
誰かが息を呑んだ。ロレンツォの声は平静だったが、その手は杖を強く握りしめていた。
「すでに何人か、街に入り込んでいるらしい。目的はまだわからんが——おそらくオークションだ。いずれにせよ、これからヨークシンは戦場になる。俺たちのような小規模な組織は、ただ巻き込まれないようにするしかない」
ジーノが口を開いた。
「身を隠しますか」
「いや」
ロレンツォは首を振った。
「隠れても無駄だ。蜘蛛は嗅ぎつける。ならば——普段通りに振る舞う。それが一番安全だ」
彼は構成員たちを見渡し、それから部屋の隅に立つ彼に視線を留めた。
「お前は」
ロレンツォの声が、わずかに低くなる。
「門を頼む。誰が来ても、手を出すな。しかし——」
老人の目が、彼の核をまっすぐに見据える。
「マルコを頼む。いざという時は、迷うな」
核が一度、強く脈打った。
その瞬間、彼の身体の奥で、何かが起動した。戦闘プログラム——ではない。もっと深い場所。村人たちの残滓が眠る場所。そこで、かすかな振動が生まれている。
——護れ。
それは彼自身の意志なのか、それとも彼が吸収した者たちの遺志なのか。彼には区別がつかなかった。しかし、その言葉が、空腹さえも忘れさせるほどの熱を、核に与えた。
——護れ。
——今度こそ。
ジーノが、彼の核の輝きを見て、小さく息を呑んだ。弱っていたはずの光が、今、確かに強さを取り戻している。
「……旦那」
ジーノがロレンツォに耳打ちする。
「こいつ、さっきまであんなに弱ってたのに」
ロレンツォは答えず、ただ彼を見つめていた。その目は、孫を見守る祖父の目であり、同時に——何かを託そうとする者の目だった。
◆◆◆
はるか遠く、海の彼方。
人類が未だ踏破しえぬ暗黒大陸の深部で、昏い紫の光が一度だけ瞬いた。それは彼の核が発した共鳴——「護れ」という意志が呼び起こした、あの深紅の輝き——を、確かに感知していた。
暗闇の中で、光がゆっくりと脈を打ち始める。その鼓動は、彼の核が弱まるにつれて、逆に強さを増していく。まるで彼の衰弱を喰らって成長するかのように——あるいは、彼の覚醒を待ちわびていたかのように。
◆◆◆
ヨークシンシティの夜は、いつもより静かだった。
街全体が、何かの到来を予感して息を潜めているかのようだ。門の前に立つ彼は、その静寂の中で、遠くの物音を一つ一つ拾っていた。酔漢の叫び。遠くのサイレン。風に揺れる看板の軋み。
そして——街のどこかで、異質な気配が動き始めている。
彼の光学センサーはそれを捉えられない。聴覚も、嗅覚も、まだ何も感知していない。しかし核が——彼がこれまで吸収してきた死者たちの残滓が——ざわついている。あの時、村で感じたのと同じ予感。殺戮の予兆。死の匂い。
——蜘蛛。
彼は動かなかった。右腕の剣も、左腕のクロスボウも、まだ沈黙している。空腹は、いまだ彼を蝕み続けていた。
それでも、彼はここに立つ。
——護るために。
鉄の心臓だけが、静かに、しかし力強く時を刻んでいる。その音だけが、彼がまだ「生きている」ことの証明だった。