雨が降っていた。
細く、冷たい雨だった。
夜の街灯が、濡れたアスファルトに白く滲んでいる。赤信号の光が路面に揺れ、車のヘッドライトが通り過ぎるたび、雨粒が一瞬だけ銀色に光った。
神代蓮は、その歩道に膝をついていた。
腹が熱い。
最初にそう思った。
けれど、その熱はすぐに鈍くなった。代わりに、指先から少しずつ感覚が消えていく。
押さえた腹の下から、ぬるりとしたものが溢れていた。
血だ。
自分の血だった。
目の前には、一本の包丁が転がっている。
家庭にあるような、どこにでもある包丁。
その刃についた赤が、雨に洗われ、黒い路面の上を細く流れていく。
「誰か! 救急車!」
「血が止まらない!」
「警察! 早く!」
周囲の叫び声が聞こえる。
けれど、どこか遠かった。
蓮は視線だけを動かした。
少し離れたところで、小さな男の子が泣いている。
小学生くらいの子供だった。
母親らしき女性に抱き締められながら、こちらを見て泣いていた。膝は擦りむいているが、それ以外に大きな怪我はなさそうだった。
よかった。
蓮は、そう思った。
少なくとも、あの子は助かった。
包丁を持った男が突然走り出した時、蓮はその場にいた。
男の向かう先には、転んだ子供がいた。
逃げられない。
そう分かった。
分かったのに、蓮の身体はすぐには動かなかった。
足が竦んだ。
喉が詰まった。
頭の中が白くなった。
怖い。
ただ、それだけだった。
蓮は剣道をやっていた。
小学生の頃から竹刀を握り、中学でも、高校でも、毎日のように道場に通っていた。
相手の目だけを見るな。
肩を見ろ。
腰を見ろ。
足を見ろ。
相手が打とうとする、その起こりを読め。
何度も教わった。
何度も繰り返した。
身体に染み込ませたつもりだった。
けれど、本物の刃物を前にした瞬間、蓮の剣は動かなかった。
竹刀とは違う。
試合とは違う。
防具もない。
審判もいない。
礼もない。
そこにあったのは、ただの殺意だった。
男が子供へ近づく。
包丁が振り上げられる。
その瞬間、ようやく蓮の身体は動いた。
技ではなかった。
踏み込みでもなかった。
面でも、小手でも、胴でもなかった。
ただ、身体を投げ出しただけだった。
子供と男の間に割り込んだ。
そして、腹に刃が入った。
熱い、と思った。
次に、膝が崩れた。
子供は助かった。
通り魔の男は、駆けつけた警察官に取り押さえられている。
なら、それでいいはずだった。
それなのに、蓮の胸には誇らしさなどなかった。
誰かを守ったという満足感もなかった。
ただ、悔しかった。
もっと早く動けていれば。
恐怖に足を止めていなければ。
最初から踏み込めていれば。
剣を学んできた自分が、あの一瞬に動けていれば。
あの子は、あんなふうに泣かずに済んだかもしれない。
自分も、雨の中で血を流していなかったかもしれない。
「兄ちゃん……!」
男の子の声が聞こえた。
泣くな。
大丈夫だ。
そう言いたかった。
けれど、口から漏れたのは、かすれた息だけだった。
視界の端が暗くなっていく。
雨音が遠ざかる。
身体が冷たくなっていく。
蓮は震える指で、濡れたアスファルトを掻いた。
立たなければ。
そう思った。
立って、あの子に大丈夫だと言わなければ。
けれど、身体はもう動かなかった。
足に力が入らない。
腕も上がらない。
竹刀どころか、落ちている傘すら握れない。
ああ。
自分は死ぬのだ。
十七年の人生が、ここで終わる。
恐怖で足を止めたまま。
最後に、身体を投げ出すことしかできなかったまま。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
蓮は消えかける意識の中で、ただ一つだけ願った。
次があるなら。
もし本当に、次があるのなら。
今度こそ。
恐怖で足を止めない。
誰かを守る前に、動ける自分になる。
何もできないまま、終わらない。
その願いが、誰に届いたのか。
神か。
悪魔か。
それとも、何者でもない何かか。
蓮には分からない。
ただ、雨の音だけが聞こえていた。
細く、冷たい雨だった。
やがて、その音すら遠ざかる。
神代蓮の人生は、そこで終わった。
◇
次に意識を取り戻した時、蓮は泣いていた。
いや、泣いていたというより、泣かされていた。
肺が勝手に空気を求め、喉が勝手に甲高い声を上げている。
目はぼやけていて、ほとんど見えない。
手足は思うように動かない。
首も持ち上がらない。
身体は小さく、弱く、どうしようもなく頼りなかった。
誰かに抱き上げられている。
聞いたことのない言葉が、耳元で飛び交っていた。
日本語ではない。
英語でもない。
けれど、そこには確かに人の感情があった。
焦り。
悲しみ。
安堵。
諦め。
そして、生まれたばかりの命を抱く手の温かさ。
蓮は泣きながら、ぼんやりと思った。
自分は、死んだはずだ。
雨の中で。
包丁に刺されて。
何もできなかった悔しさを抱えたまま。
それなのに、今、自分は生きている。
小さな身体で。
知らない場所で。
知らない言葉に囲まれて。
やがて、誰かが赤子を抱き直した。
その声は優しかった。
その声が何を言っているのか、まだ分からない。
けれど、一つの響きだけが、耳に残った。
レン。
そう呼ばれた気がした。
前世と同じ音。
偶然なのか、誰かの気まぐれなのかは分からない。
ただ、その名を聞いた瞬間、蓮の中に最後の記憶が蘇った。
雨。
包丁。
泣いていた子供。
動けなかった足。
そして、死の間際に願ったこと。
今度こそ。
恐怖で足を止めない。
赤子の小さな手が、空を掴むように震えた。
まだ剣など握れない。
立つこともできない。
歩くこともできない。
だが、その胸の奥に、消えない悔しさだけは残っていた。
神代蓮は死んだ。
そして六面世界に、レンとして生まれた。
剣と魔術と、魔物が存在する世界に。
この時のレンはまだ知らない。
やがて和装の男に拾われることを。
山奥の道場で、大亀流という異端の剣を学ぶことを。
赤髪の少女と出会うことを。
泥沼と呼ばれる少年と並び立つことを。
龍神の前で敗れ、それでも立ち上がることを。
そしていつか、天下無双に最も近い男と呼ばれることを。
けれど、たった一つだけは決まっていた。
もう二度と、足を止めない。
そのために、彼はこの世界で剣を握る。