無職転生×異伝   作:からし明太子

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第九話 剣神流の壁

 

 

 ボレアス家で迎えた朝は、道場の朝とはまるで違っていた。

 

 まず、寒くない。

 

 山奥の大亀流道場では、朝になると床板が冷えきっていた。布団から出た瞬間、足裏に冷たさが刺さり、息が白くなる日もあった。

 

 だが、ボレアス家の部屋は暖かかった。

 

 寝台は柔らかく、布も上等で、窓から入る光さえ穏やかだった。

 

 落ち着かない。

 

 レンは寝台の上で目を開け、しばらく天井を見つめた。

 

 広い部屋。

 

 綺麗な壁。

 

 手入れされた家具。

 

 自分の荷物は、部屋の隅に小さくまとまっている。

 

 道場で使っていた布袋と木刀。

 

 それだけが、この部屋の中で浮いていた。

 

 レンは寝台から下りる。

 

 床に足をつける。

 

 足裏で床を感じる。

 

 木の床だ。

 

 磨かれていて、道場の床より滑る。

 

 力を入れすぎれば足が固まる。

 

 抜きすぎれば足が流れる。

 

 どこにいても、足元は違う。

 

 つまり、どこにいても稽古になる。

 

 レンは軽く膝を緩め、背筋を伸ばした。

 

 立つ。

 

 まず、それだけ。

 

 呼吸を通し、肩を落とす。

 

 身体の中心を確かめる。

 

 そこまでしてから、木刀を手に取った。

 

 素振りはしない。

 

 貴族の屋敷の部屋で木刀を振るほど、無神経ではない。

 

 ただ、握る。

 

 柄の感触を確かめる。

 

 昨日のギレーヌの剣を思い出す。

 

 速かった。

 

 重かった。

 

 そして、見えなかった。

 

 玄斎の剣は、こちらの身体そのものを崩してくる。

 

 ギレーヌの剣は、こちらが動いた瞬間に斬ってくる。

 

 どちらも遠い。

 

 今のレンでは、手も足も出ない。

 

 だが、だからこそ胸が騒いだ。

 

 外へ出た意味がある。

 

 この屋敷には、道場とは違う壁がある。

 

 その壁に触れるために、レンはここにいる。

 

 扉の外が騒がしくなったのは、その時だった。

 

 足音。

 

 勢いよく近づいてくる。

 

 そして、叩くより早く扉が開いた。

 

「レン!」

 

 エリスだった。

 

 朝から声が大きい。

 

 赤い髪を揺らし、昨日と同じように目をぎらつかせている。

 

 レンは木刀を持ったまま、少しだけ眉を下げた。

 

「入る前に声をかけて」

 

「かけたわよ!」

 

「開ける前に」

 

「細かいわね!」

 

「普通だと思う」

 

「いいから庭に来なさい!」

 

「朝食は?」

 

「後!」

 

「俺、昨日あまり食べてない」

 

「じゃあ早く終わらせて食べればいいでしょ!」

 

 何を終わらせるつもりなのか、聞くまでもなかった。

 

 稽古だ。

 

 昨日の三本勝負だけでは、エリスはまったく満足していない。

 

 むしろ火がついた顔をしている。

 

 レンは小さく息を吐いた。

 

「ギレーヌさんは?」

 

「庭にいるわ!」

 

「なら行く」

 

「最初からそう言いなさいよ!」

 

 エリスは勝手に頷き、さっさと歩き出した。

 

 レンは布袋を整え、木刀を持って後を追う。

 

 廊下に出ると、使用人たちが慌てて脇へ寄った。

 

 エリスは気にせず進む。

 

 レンはその後ろを歩きながら、小声で謝った。

 

「すみません」

 

 使用人の一人が少し驚いた顔をした。

 

 この家では、エリスの勢いに巻き込まれることは日常なのかもしれない。

 

 ◇

 

 庭には、すでにギレーヌが立っていた。

 

 朝の光の中で、彼女は訓練用の木剣を持っている。

 

 ただ立っているだけ。

 

 それなのに、庭の空気が引き締まっている。

 

 レンは足を止め、自然と背筋を正した。

 

 ギレーヌはレンを見る。

 

「眠れたか」

 

「はい。少し落ち着きませんでしたけど」

 

「柔らかい寝台は苦手か」

 

「床の方が慣れています」

 

「変わった子供だ」

 

 ギレーヌはそう言ったが、笑いはしなかった。

 

 エリスは訓練用の木剣を手に取っていた。

 

「さあ、やるわよ!」

 

「お待ちを」

 

 ギレーヌの声が飛ぶ。

 

 エリスは不満そうに振り返った。

 

「何よ!」

 

「まずは私が見ます」

 

「昨日も見たじゃない!」

 

「昨日は短い確認です。今日は少し長く見ます」

 

「私が先にやりたいのに!」

 

「エリス様は後です」

 

 エリスは頬を膨らませた。

 

 だが、ギレーヌにそう言われると強くは逆らえないらしい。

 

 渋々後ろへ下がった。

 

 ギレーヌはレンへ向き直る。

 

「今日は、お前の流派を見せろ」

 

 レンは木刀を握り直した。

 

「大亀流を、ですか」

 

「そうだ。オオガメリュウ。昨日の動きだけでは分からん」

 

 その呼び方に、レンは少しだけ背筋を伸ばした。

 

 オオガメリュウ。

 

 山奥の道場で、玄斎から受け取った名。

 

 外では誰も知らない流派。

 

 けれどレンにとっては、今の自分を形作るものだった。

 

「どこまで出していいですか」

 

 レンが尋ねると、ギレーヌは当然のように答えた。

 

「出せるものは全部出せ」

 

「怪我をさせるかもしれません」

 

 そう言った瞬間、エリスが目を丸くした。

 

 次に怒った。

 

「あんた、ギレーヌに怪我させるつもり!?」

 

「つもりはない。でも、本気でやるなら危ない技もある」

 

 エリスが何か言い返そうとしたが、ギレーヌが手で制した。

 

「構わん」

 

 低い声だった。

 

「私を殺すつもりで来い。それでようやく、少し分かる」

 

 レンは息を吸った。

 

 ギレーヌの目は静かだった。

 

 油断も慢心もない。

 

 子供だからといって侮っていない。

 

 そのうえで、絶対に届かせないという自信がある。

 

 ならば、遠慮は失礼だ。

 

 レンは木刀を構えた。

 

 足裏で芝を感じる。

 

 昨日より乾いている。

 

 滑りは少ない。

 

 だが、道場の土とは違う。

 

 踏み込みすぎれば身体が浮く。

 

 力を逃がしすぎれば剣が軽くなる。

 

 ギレーヌは木剣を下げたまま立っている。

 

 構えらしい構えではない。

 

 しかし、全身が構えだった。

 

 どこからでも斬れる。

 

 どこへ逃げても追える。

 

 そういう立ち方。

 

 レンは真正面から入らなかった。

 

 まず、歩く。

 

 一歩。

 

 半歩。

 

 間合いを測る。

 

 ギレーヌの目が動かない。

 

 誘いには乗らない。

 

 レンは木刀の先をわずかに下げた。

 

 正面を空ける。

 

 相手が打ってくるなら、そこに合わせる。

 

 しかし、ギレーヌは打ってこなかった。

 

 なら、こちらから行く。

 

 レンは重心を落とし、鋭く踏み込んだ。

 

 雷電型一式・雷

 

 相手の反応を引き出すための三段。

 

 壱。

 

 木刀を正面へ走らせる。

 

 ギレーヌの木剣がわずかに動く。

 

 受けではない。

 

 置かれた。

 

 その時点で、レンの一手目は死んだ。

 

 弐。

 

 角度を変えて肩口へ。

 

 ギレーヌは半歩も下がらず、木剣の腹で軌道をずらす。

 

 参。

 

 さらに下へ。

 

 膝ではなく、手元を狙う。

 

 だが、ギレーヌの手首が消えた。

 

 木刀は空を切る。

 

 次の瞬間、レンの肩に木剣が軽く触れていた。

 

「死んだ」

 

 ギレーヌが言う。

 

 レンは距離を取った。

 

 息を乱さないように吐く。

 

 速さでは足りない。

 

 分かっていたことだ。

 

 だが、実際に潰されると重い。

 

 レンは次の形へ移った。

 

 真正面からでは駄目だ。

 

 なら、認識を外す。

 

 レンは肩をわずかに見せた。

 

 木刀の先も見せる。

 

 視線を誘い、身体を半身のままずらす。

 

 虚空型第一式、影縫。

 

 道場の弟子たちなら、一瞬だけ目が迷うこともあった。

 

 だが、ギレーヌの目は外れない。

 

 レンのずれた先へ、木剣の切っ先が向いていた。

 

 まるで、そこへ来ることを最初から知っていたように。

 

 レンは奥歯を噛む。

 

 無理に退かず、そこから斬る。

 

 普通の袈裟。

 

 肩口へ斜めに一息で落とす。

 

 技ではなく、最短の斬撃。

 

 ギレーヌはそれを木剣で受けた。

 

 軽い音。

 

 次の瞬間、レンの木刀が跳ね上がった。

 

 受けられたのではない。

 

 受けた瞬間に、力の向きを変えられた。

 

 手元が浮く。

 

 まずい。

 

 レンは木刀を手放さず、浮いた力をそのまま回した。

 

 焔燃型第一式、火柱。

 

 振り下ろしへ繋げる。

 

 肘裏を弾き、木刀を鞭のように落とす。

 

 小さな身体では重さが足りない。

 

 だが、勢いは乗った。

 

 ギレーヌは初めて一歩動いた。

 

 避けたのではない。

 

 踏み込んだ。

 

 火柱の落下点の内側へ入ってくる。

 

 木刀の威力が乗る前に、間合いを潰された。

 

 ギレーヌの肩がレンの視界に入る。

 

 近い。

 

 近すぎる。

 

 木剣の柄がレンの腹に入った。

 

「っ!」

 

 息が詰まる。

 

 だが、倒れない。

 

 倒れながらも、目は逸らさない。

 

 レンは後ろへ崩れる身体を利用し、木刀を横へ流した。

 

 水龍型第一式、逆鱗。

 

 振り下ろしに見せた軌道を、握り替えで変える。

 

 ギレーヌの脇へ刃筋を滑らせる。

 

 当たらない。

 

 しかし、ほんの少しだけギレーヌの木剣が動いた。

 

 反応した。

 

 レンはそこに縋った。

 

 踏みとどまり、木刀を相手の木剣へ合わせる。

 

 土公型第一式、荒神。

 

 狙うのは体ではない。

 

 武器。

 

 ギレーヌの木剣が次に動く前、その支点を叩く。

 

 刃と刃が触れる瞬間、木刀を小さく回す。

 

 相手の武器を弾くためではない。

 

 ほんのわずかでいい。

 

 軌道をずらす。

 

 勝ち筋を折る。

 

 木刀と木剣がぶつかった。

 

 重い。

 

 腕が痺れる。

 

 弾けない。

 

 逆に、レンの木刀が押し返される。

 

 ギレーヌの力が木剣を通して伝わってくる。

 

 ただの腕力ではない。

 

 足から腰、背中、肩、腕。

 

 全部が一本になっている。

 

 レンの荒神は、そこで止まった。

 

「悪くない」

 

 ギレーヌが言った。

 

 次の瞬間、木剣がレンの喉元で止まる。

 

「だが、足りない」

 

 レンは動けなかった。

 

 喉に木剣の先がある。

 

 あと少しで死ぬ位置。

 

 ギレーヌは木剣を下ろした。

 

「続けるか」

 

 レンは荒く息を吐いた。

 

 腹が痛い。

 

 腕が痺れている。

 

 肩も熱い。

 

 だが、まだ立てる。

 

「お願いします」

 

 ギレーヌの目が細くなる。

 

「次は何を見せる」

 

 レンは答えなかった。

 

 答えれば、それが気配になる。

 

 玄斎にも言われた。

 

 技を出す前に、技を出す顔をするな。

 

 レンは木刀を中段に置く。

 

 正面。

 

 今度は動かない。

 

 ギレーヌも動かない。

 

 風が庭を撫でる。

 

 エリスの息遣いが聞こえる。

 

 使用人たちが遠くから見ている気配もある。

 

 レンは全部を一度遠くへ置いた。

 

 見るのは、ギレーヌだけ。

 

 肩。

 

 腰。

 

 足。

 

 目。

 

 剣。

 

 どこにも隙はない。

 

 ならば、隙を作る。

 

 レンは小さく前へ出た。

 

 木刀を軽く上げる。

 

 上段へ来ると見せる。

 

 ギレーヌの反応は薄い。

 

 誘いには乗らない。

 

 なら、さらに踏み込む。

 

 今度は本当に斬る。

 

 袈裟。

 

 大きくない。

 

 最短で落とす。

 

 ギレーヌの木剣が受けに来る。

 

 その瞬間、レンは握りを替えた。

 

 逆鱗。

 

 軌道を変え、木剣の受けをすり抜ける。

 

 ギレーヌの目が、ほんのわずかに動いた。

 

 届く。

 

 そう思った瞬間、ギレーヌの木剣がレンの木刀の根元を叩いた。

 

 軌道が死ぬ。

 

 手元が開く。

 

 レンはそのまま前に出ず、身を低くした。

 

 下から柄で突く。

 

 木刀ではなく、柄頭。

 

 相手の腹へ。

 

 ギレーヌは膝をわずかに上げ、レンの腕を止めた。

 

 膝で。

 

 剣ではなく、身体で止められた。

 

 次の瞬間、木剣がレンの頭上にあった。

 

「死んだ」

 

 レンは膝をついた。

 

 悔しい。

 

 だが、手応えもあった。

 

 今の逆鱗には、ギレーヌが反応した。

 

 通じたのではない。

 

 だが、無視はされなかった。

 

 レンは顔を上げる。

 

「もう一度」

 

「だめだ」

 

 ギレーヌは即答した。

 

「なぜですか」

 

「腕が痺れている。腹も効いている。これ以上やれば、悪い癖がつく」

 

 レンは自分の腕を見た。

 

 確かに震えている。

 

 力が入りきらない。

 

 無理に続ければ、力みで誤魔化すことになる。

 

 玄斎なら、同じことを言うだろう。

 

 レンは木刀を下ろした。

 

「ありがとうございました」

 

 頭を下げる。

 

 ギレーヌは木剣を肩に乗せた。

 

「技は面白い」

 

 レンは顔を上げた。

 

「だが、お前はまだ弱い」

 

 まっすぐな言葉だった。

 

 痛い。

 

 しかし、不思議と嫌ではなかった。

 

 玄斎にも似たことを言われた。

 

 外でも同じことを言われた。

 

 ならば、それが今の自分の位置だ。

 

「はい」

 

 レンは頷いた。

 

「強くなります」

 

「そうしろ」

 

 ギレーヌは短く言った。

 

 その時、黙って見ていたエリスが叫んだ。

 

「次、私!」

 

「エリス様」

 

 ギレーヌが低い声を出す。

 

「分かってるわよ! 短くでしょ!」

 

「レンは今、かなり打たれています」

 

「じゃあ私も加減するわ!」

 

 ギレーヌは無言でエリスを見た。

 

 エリスは少し目を逸らした。

 

「……少しだけ」

 

 レンは腹を押さえながら苦笑した。

 

「少しなら」

 

「ほら! レンはいいって言ったわ!」

 

「お前も無理をするな」

 

 ギレーヌの言葉に、レンは頷いた。

 

 エリスは木剣を構える。

 

 昨日と同じく、勢いのある構え。

 

 しかし、少しだけ違った。

 

 昨日より、目が真剣だ。

 

 ギレーヌとの手合わせを見たせいだろう。

 

 エリスはただ勝ちたいだけではない。

 

 何が起きたのかを見ようとしている。

 

 レンは木刀を構えた。

 

 腕の痺れは残っている。

 

 腹も痛い。

 

 まともに長くは打ち合えない。

 

 だからこそ、無駄な動きはできない。

 

「始め」

 

 ギレーヌの声。

 

 エリスが踏み込む。

 

 速い。

 

 昨日と同じく、真正面から来る。

 

 だが、昨日より少しだけ間合いが遠い。

 

 ギレーヌに言われたことを意識している。

 

 突っ込みすぎないようにしているのだ。

 

 レンは横へ外れようとした。

 

 その瞬間、エリスの木剣が途中で止まった。

 

 いや、止めたのではない。

 

 振り下ろすと見せて、横薙ぎへ変えてきた。

 

 粗い。

 

 だが、勘がいい。

 

 レンは木刀で受けず、下がる。

 

 エリスは追う。

 

「逃げるな!」

 

「避けてるだけ」

 

「同じよ!」

 

 会話しながらも、エリスは止まらない。

 

 木剣が上から、横から、斜めから飛んでくる。

 

 型としては雑だ。

 

 だが、圧がある。

 

 打つたびに、身体ごと前へ来る。

 

 レンは腕の痺れを嫌って、正面から受けない。

 

 斜めに当てる。

 

 力を逃がす。

 

 足を使って線を外す。

 

 隙が見えた瞬間、木刀を手首へ伸ばす。

 

 エリスは腕を引いた。

 

 昨日より反応が早い。

 

 負けた動きを覚えている。

 

 レンは内心で感心した。

 

 この少女は、怒りながら学んでいる。

 

 エリスが大きく踏み込んだ。

 

 今度は本当に上段。

 

 重い一撃が来る。

 

 レンは木刀を合わせた。

 

 受けるのではなく、流す。

 

 だが、腕が痺れていた。

 

 少し遅れた。

 

 エリスの木剣がレンの肩をかすめる。

 

「一本!」

 

 エリスが叫ぶ。

 

 ギレーヌが頷いた。

 

「一本。エリス様」

 

 エリスは勝ち誇った顔をした。

 

「見た!? 今の!」

 

「見た」

 

 レンは肩を押さえた。

 

 痛い。

 

 だが、今のはエリスが良かった。

 

 昨日より明らかに間合いが合っている。

 

「強くなってる」

 

 レンが言うと、エリスは一瞬黙った。

 

 それから、胸を張った。

 

「当然よ!」

 

「もう一本?」

 

「もちろん!」

 

 エリスはすぐ構え直す。

 

 レンは苦笑しながらも、木刀を上げた。

 

 二本目。

 

 今度はレンから動いた。

 

 エリスは前に出る力が強い。

 

 ならば、こちらが先に動けばどう反応するか。

 

 レンは浅く踏み込んだ。

 

 木刀を正面へ。

 

 エリスは受けようとした。

 

 力で押し返すつもりだ。

 

 レンはぶつかる直前に、軌道を変えた。

 

 逆鱗ほど深くはない。

 

 ただ、受けの外側を滑らせる。

 

 エリスの木剣が空を受ける。

 

 その脇へ、レンの木刀が添えられた。

 

 寸止め。

 

 ギレーヌが言う。

 

「一本。レン」

 

 エリスの顔が真っ赤になる。

 

「今のずるい!」

 

「ずるくない」

 

「曲げたでしょ!」

 

「曲げた」

 

「ずるい!」

 

「剣だから」

 

「もう一回!」

 

「三本目だね」

 

 三本目。

 

 エリスは怒っていた。

 

 だが、怒りだけではない。

 

 木剣を握る手に、少しだけ慎重さがある。

 

 レンはそれを見た。

 

 怒りながら学ぶ。

 

 負けるとすぐに次を求める。

 

 単純だが、強い。

 

 エリスが踏み込んだ。

 

 今度は途中で止まらない。

 

 真正面から押し潰すつもりだ。

 

 レンは横へ外れる。

 

 だが、エリスは読んでいた。

 

 外れた先へ、木剣を振ってくる。

 

 勘がいい。

 

 レンは受け流す。

 

 腕が痛む。

 

 足が少し遅れる。

 

 エリスの勢いが乗る。

 

 このまま押されれば負ける。

 

 レンは一歩、逆に前へ入った。

 

 エリスの力が乗りきる前。

 

 木剣の根元へ木刀を当てる。

 

 荒神の理合。

 

 弾き飛ばすには足りない。

 

 だが、軌道をずらすには足りる。

 

 エリスの木剣が外へ流れた。

 

 レンはそのまま肩口へ木刀を止める。

 

 ギレーヌの声。

 

「一本。レン」

 

 エリスは数秒、動かなかった。

 

 そして叫んだ。

 

「もう一回!」

 

「三本まで」

 

 レンが言うと、エリスは悔しそうに歯を食いしばった。

 

「次は勝つわ!」

 

「うん」

 

「絶対よ!」

 

「俺も負けないようにする」

 

「生意気!」

 

 エリスは怒っている。

 

 だが、その目は楽しそうだった。

 

 レンも同じだった。

 

 身体は痛い。

 

 腕も痺れている。

 

 だが、不思議と気分は悪くない。

 

 ギレーヌ相手には、壁しか見えなかった。

 

 エリス相手には、ぶつかり合える熱がある。

 

 どちらも、今のレンに必要なものだった。

 

 ◇

 

 朝食の後、レンはフィリップに呼ばれた。

 

 広い部屋。

 

 上等な椅子。

 

 整った机。

 

 フィリップは穏やかな顔で、レンを見ていた。

 

「ギレーヌから聞いたよ。君はしばらくこの屋敷に置いても問題なさそうだ」

 

「ありがとうございます」

 

「礼を言うのはこちらだ。エリスを助けてくれたからね」

 

「結果的にです」

 

「それでも助かった」

 

 フィリップは微笑んだ。

 

 だが、その目は静かにレンを測っている。

 

「君には、しばらく屋敷の雑用と、エリスの稽古相手を頼みたい」

 

「俺でいいんですか」

 

「ギレーヌが、意味はあると言った」

 

「そうですか」

 

「それに、エリスが君を気に入っている」

 

 レンは少し困った顔をした。

 

「気に入っている、んでしょうか」

 

「少なくとも、興味は持っている」

 

「それは分かります」

 

 強い相手。

 

 知らない動き。

 

 自分に一本取った相手。

 

 エリスがそういうものに食いつくのは、もう分かった。

 

 フィリップは続ける。

 

「正式な雇用というより、しばらくの滞在だ。食事と部屋はこちらで用意する。必要なら小遣い程度の報酬も出そう」

 

「助かります」

 

「ただし、屋敷の中では勝手な行動は控えること。エリスに振り回されすぎないこと」

 

 それは難しい注文だと思った。

 

 レンが黙っていると、フィリップは苦笑した。

 

「難しいだろう?」

 

「はい」

 

「正直でいい」

 

 その時、部屋の外から大きな声がした。

 

「レン! どこ!?」

 

 フィリップは目を閉じて、軽くため息をついた。

 

「さっそくだね」

 

「……はい」

 

「頼んだよ」

 

 レンは頭を下げた。

 

 部屋を出ると、廊下の向こうからエリスが走ってくる。

 

「いた!」

 

「廊下は走らない方が」

 

「うるさい! 庭に行くわよ!」

 

「稽古なら朝やった」

 

「昼もやるのよ!」

 

「ギレーヌさんは?」

 

「呼んだ!」

 

 遠くから、ギレーヌの声が聞こえた。

 

「エリス様、勝手に決めないでください」

 

 レンは思わず笑いそうになった。

 

 ボレアス家での日々は、静かにはならない。

 

 だが、それでいいのかもしれない。

 

 ここには、ギレーヌという壁がある。

 

 エリスという熱がある。

 

 そして、自分の剣を試す場所がある。

 

 大亀流。

 

 山奥で学んだ異端の剣が、フィットア領ロアの貴族屋敷で新しい形に鍛えられようとしていた。

 

 

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