ボレアス家での日々は、静かとは程遠かった。
朝、目を覚ます。
床に足をつける。
立つ。
呼吸を通す。
木刀を握る。
そこまでは道場と同じだった。
だが、次の瞬間には扉が勢いよく開く。
「レン! 庭!」
エリスである。
初日は驚いた。
二日目も驚いた。
三日目には、足音で分かるようになった。
廊下の向こうから、どたどたと遠慮のない足音が近づいてくる。
使用人たちが慌てて道を空ける。
扉の前で止まる気配がない。
来る。
そう思った瞬間、扉が開く。
だから四日目には、レンは扉が開く前に荷物を避けておいた。
「準備できてる!?」
エリスが仁王立ちで言った。
赤い髪は朝から跳ね、目はぎらぎらしている。
寝起きとは思えない気迫だった。
「朝食は?」
「後!」
「昨日もそう言った」
「昨日は昨日よ!」
「毎日同じこと言ってる」
「いいから来なさい!」
エリスは人の都合を待たない。
レンは木刀を腰に差し、ため息をつきながら立ち上がる。
だが、嫌ではなかった。
むしろ、少しだけ楽しみにしている自分がいる。
それが分かって、レンは苦笑した。
ボレアス家での滞在は、フィリップの許可を得て正式に決まった。
食事と部屋を与えられ、その代わりに屋敷の雑用を手伝い、エリスの稽古相手を務める。
雑用は苦ではない。
道場では、掃除も水汲みも薪割りも稽古の一部だった。
むしろ、使用人に任せきりの屋敷の暮らしの方が落ち着かなかった。
問題は、エリスだった。
彼女は朝から晩まで、隙あらば木剣を持ち出してくる。
昨日負けたからもう一回。
今の動きが気に食わないからもう一回。
ギレーヌに止められたから、見ていないところでもう一回。
理由は何でもいいらしい。
とにかく、戦いたい。
勝ちたい。
昨日の自分より前へ出たい。
その気持ちだけで動いている。
屋敷の使用人たちは、そんなエリスを半ば諦めたような顔で見ていた。
誰かが小さく呟いたのを、レンは一度だけ聞いた。
狂犬。
なるほどと思った。
確かに、エリスは狂犬じみている。
噛みつく。
吠える。
逃げない。
負けても、すぐ立つ。
ただし、言えば怒るだろうから、本人には言わないことにした。
◇
庭に出ると、ギレーヌがすでに立っていた。
訓練用の木剣を持ち、朝の光の中で静かに待っている。
エリスはすぐに木剣を取った。
「今日は勝つわ!」
「昨日も聞いた」
「今日は本当に勝つの!」
「昨日も本気だったよね」
「今日はもっと本気!」
そう言って、エリスは構える。
レンも木刀を構えた。
ギレーヌが二人を見比べる。
「三本。顔と急所は禁止。熱くなりすぎないように」
「分かってるわよ」
エリスは即答した。
だが、その握りはもう力んでいる。
ギレーヌがそれを見る。
「エリス様」
「何よ」
「握りすぎです」
「握らなきゃ飛ぶでしょ」
「握りすぎるから、剣が遅れます」
レンは少しだけ身に覚えがあり、黙って聞いていた。
水龍型の稽古で、玄斎に何度も同じことを言われた。
握るのではない。
刀を逃がさぬだけ。
それは木剣でも同じだ。
エリスは不満そうに手を緩めた。
だが、数呼吸もしないうちにまた力が戻る。
ギレーヌはため息をついた。
「始め」
その声と同時に、エリスが踏み込んだ。
速い。
初めて戦った時よりも、確実に速くなっている。
ただの勢いだけではない。
昨日、レンに外されたことを覚えているのか、踏み込みの角度が少しだけ変わっていた。
真正面ではなく、斜めから入る。
レンは受けなかった。
木剣の軌道を見て、半歩外へずれる。
だが、エリスは読んでいた。
振り下ろしが途中で止まり、横薙ぎへ変わる。
荒い。
しかし、速い。
レンは木刀を斜めに置いて、その力を流した。
正面から受ければ押される。
エリスは体格以上に重い剣を振る。
木剣の芯に力が乗っている。
腕力だけではない。
怒りと勢いと負けん気が、そのまま剣に乗っている。
レンは流した力を殺さず、木刀を返す。
狙いは手首。
深くは打たない。
触れるだけでいい。
しかし、エリスは腕を引いた。
昨日より早い。
レンの木刀は空を切る。
「見えたわ!」
エリスが叫ぶ。
「言わなくていい」
「うるさい!」
エリスはさらに踏み込んだ。
今度は上段。
レンは足を引くと見せた。
エリスの目がそこを追う。
その瞬間、レンは前へ半歩入った。
近い間合い。
エリスの木剣はまだ振り切れていない。
木刀の柄で、エリスの肘の内側を軽く押す。
エリスの腕が詰まる。
レンはそのまま肩口へ木刀を添えた。
「一本。レン」
ギレーヌの声。
エリスは目を見開いた。
「今の何よ!」
「近づいた」
「見れば分かるわよ!」
「腕が伸びる前に止めた」
「ずるい!」
「剣でずるいはないと思う」
「あるわよ!」
エリスは顔を赤くして怒った。
だが、すぐ構え直す。
怒りながらも、目はレンの足元を見ていた。
今の半歩を見ようとしている。
そういうところが、エリスの恐ろしいところだった。
負けたことを、すぐ次の材料にする。
怒りも悔しさも、そのまま前へ進む力に変えている。
二本目。
エリスはすぐには来なかった。
珍しく、待った。
レンは少し驚いた。
いつもなら、自分から突っ込んでくる。
だが今は、レンの動きを見ようとしている。
ギレーヌがわずかに頷いた。
エリスはそれに気づかない。
レンは呼吸を整えた。
待たれると、こちらから崩さなければならない。
大きく行けば、エリスの反応に噛みつかれる。
小さく行きすぎれば、圧で押し返される。
レンは木刀の先をわずかに下げた。
肩を少し見せる。
虚空型第一式、影縫。
相手の目が追う場所を作り、そこから外れる。
エリスの目が木刀の先へ流れた。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
レンはその間に半歩ずれた。
エリスの正面から外れ、斜めへ入る。
そのまま木刀を一息で落とす。
袈裟。
だが、エリスも反応した。
木剣を振り上げ、強引に受ける。
力任せ。
木刀が押される。
レンはそれを嫌って、木刀を滑らせるように下へ逃がした。
そのまま膝へ。
寸止め。
「一本。レン」
ギレーヌの声が落ちる。
エリスは唇を噛んだ。
「今、見てたのに!」
「見てたから、外れた」
「むかつくわね!」
「ごめん」
「謝られるのもむかつくわ!」
理不尽だった。
だが、エリスらしい。
三本目。
エリスの空気が変わった。
怒っている。
だが、雑ではない。
さっきより静かだ。
木剣を握る手に力は入っているが、肩の上がり方が少しだけ減っている。
ギレーヌがそれを見て、何も言わなかった。
レンは構える。
エリスが来る。
真っ直ぐ。
速い。
レンは外れようとした。
その瞬間、エリスの足が止まった。
止まるはずのないところで止まった。
レンの半歩が、空を踏む。
読みが外れた。
次の瞬間、エリスが再び踏み込む。
二段目の踏み込み。
剣神流の正式な技かどうかは分からない。
だが、勢いで押すだけではない。
相手が外れる場所を読んで、そこへ入り直してきた。
木剣がレンの肩を打った。
軽くではない。
十分に痛い。
「一本。エリス様」
ギレーヌが言った。
エリスは息を切らしながら、勝ち誇ったように笑った。
「取った!」
「取られた」
レンは肩を押さえた。
痛い。
だが、嫌な痛みではなかった。
今の一本は、エリスが考えた。
怒りに任せて突っ込んだのではない。
レンが外れることを読んで、踏み込みを二つに分けた。
レンは素直に言った。
「今の、よかった」
エリスは一瞬だけ目を丸くした。
それから、ものすごく嬉しそうな顔をしそうになり、慌てて怒った顔に戻した。
「当然よ!」
「顔、嬉しそうだ」
「うるさい!」
木剣が飛んできそうだったので、レンは半歩下がった。
ギレーヌは二人を見て、静かに言う。
「今日はここまで」
「もう一回!」
「駄目です」
「まだできるわ!」
「できるから駄目です」
エリスは意味が分からないという顔をした。
レンには少し分かった。
まだ動ける。
だからこそ、熱くなって悪い癖が出る。
疲れた身体で続ければ、力で誤魔化す。
それを玄斎も嫌った。
エリスは不満そうだったが、ギレーヌの目を見て渋々木剣を下ろした。
◇
稽古の後、レンは庭の端で木刀を拭いていた。
エリスは近くの芝に座り込んでいる。
貴族の娘らしからぬ座り方だった。
膝を立て、木剣を肩に乗せ、まだ不満そうにしている。
「あと一本やれば勝てたのに」
「分からないよ」
「勝てたわ!」
「そう思うなら、明日勝てばいい」
「明日まで待つのがイヤなのよ!」
「我慢も稽古じゃない?」
「イヤよ!」
「だろうね」
エリスが睨んでくる。
レンは木刀を拭く手を止めない。
そこへ、ギレーヌが歩いてきた。
「レン」
「はい」
「エリス様の剣をどう見た」
突然の問いだった。
エリスがぎょっとした顔でギレーヌを見る。
「ちょっと、何で本人の前で聞くのよ!」
「本人の前で言わせるためです」
「何それ!」
ギレーヌは動じない。
レンは少し考えた。
適当に褒めれば、エリスは怒るかもしれない。
適当に貶せば、もっと怒るだろう。
だから、見たまま言うしかない。
「強いですね」
エリスの顔が少し明るくなる。
だが、レンは続けた。
「でも、前に出すぎます」
エリスの眉が跳ねた。
「何ですって!?」
「踏み込みが強いから、正面から受けたら押されます。剣も重いです。でも、前に出る力が強すぎて、外された時に身体が流れる」
「……」
「ただ、反応は早いです。さっきみたいに、一度見た動きにすぐ対応してくる。だから、同じ外し方は何度も使えない」
エリスは怒るかと思った。
だが、黙って聞いていた。
顔は不満そうだが、耳はちゃんとこちらへ向いている。
「それと、怖がらない」
レンは言った。
エリスが少し目を丸くする。
「怖がるわけないでしょ!」
「うん。だから強い」
今度こそ、エリスは黙った。
褒められ慣れていないわけではないだろう。
貴族の娘だ。
周囲から褒められることもあるはずだ。
だが、剣について正面からそう言われることは、少なかったのかもしれない。
エリスは顔を赤くして、ぷいと横を向いた。
「当然よ」
声が少し小さかった。
ギレーヌは次にエリスを見る。
「エリス様。今の評価をどう聞きましたか」
「前に出すぎるって」
「はい」
「でも、前に出なきゃ斬れないじゃない!」
「前に出ることは悪くありません。問題は、戻れないことです」
ギレーヌは木剣を拾い、軽く構えた。
「斬る。外れる。次に動く。これができなければ、最初の一撃がどれだけ強くても危険です」
レンは黙って聞いていた。
自分にも刺さる言葉だった。
紫電閃の稽古で、玄斎に何度も言われた。
前へ出た後に生き残れ。
エリスは唇を尖らせる。
「じゃあ、どうすればいいのよ!」
「まず、相手を見ることです」
「見てるわよ!」
「見たいものだけ見ています」
エリスが詰まった。
ギレーヌはレンを示す。
「レンは外れる。なら、外れる先を見なければならない。剣だけを追えば、足に遅れます」
「足……」
エリスの視線がレンの足元へ落ちる。
レンは少しだけ居心地が悪くなった。
「何よ、その足」
「普通の足だけど」
「動きが普通じゃないのよ!」
「大亀流は足から教えられたから」
「オオガメリュウって、足の流派なの!?」
「剣の流派だと思う」
「思うって何よ!」
レンは少し考えた。
大亀流は剣術だ。
雷電型、焔燃型、虚空型、水龍型、土公型。
五剣がある。
しかし、玄斎に最初に叩き込まれたのは、斬り方ではなかった。
立つこと。
歩くこと。
崩れても目を逸らさないこと。
「剣だけじゃない」
レンは答えた。
「身体の使い方からやる」
「ふうん」
エリスは興味深そうにレンを見る。
「じゃあ、教えなさい!」
「勝手には教えられない」
「またそれ!」
「流派の技だから」
「けち!」
「けちじゃない」
同じやり取りだった。
ギレーヌが口を挟む。
「エリス様。流派の技を簡単に教えないのは当然です」
「ギレーヌまで」
「ただ、足を見ることはできます」
ギレーヌはレンへ言った。
「ゆっくり歩いて見せろ」
「歩く?」
「技ではなく、歩きだ」
それなら問題ない。
レンは立ち上がった。
庭の芝の上に立つ。
足裏で地面を感じる。
膝を固めない。
腰を浮かせない。
肩を落とす。
呼吸を通す。
ただ歩く。
一歩。
半歩。
重心を運ぶ。
足で地面を蹴るのではなく、身体の重さを移す。
玄斎に何度も叩かれた歩き方。
まだ完璧には遠い。
だが、道場へ来た頃よりはずっとましになっている。
エリスはじっと見ていた。
眉間に皺が寄っている。
「遅い!」
「ゆっくりやってるから」
「でも、変ね!」
「どう変?」
「足を出してるのに、足で行ってない感じよ!」
レンは少し驚いた。
言葉は乱暴だが、見えている。
ギレーヌもわずかに目を細めた。
「よく見ています」
エリスは得意げになった。
「当然よ!」
「では、真似してください」
「できるわよ!」
エリスはすぐに立ち上がり、レンの真似をした。
一歩。
どん、と音がした。
地面を強く踏んでいる。
レンは思わず言った。
「強い」
「何が!」
「足音」
「歩いてるんだから音くらいするでしょ!」
「もう少し静かに」
エリスはむっとした顔で、もう一度歩いた。
今度は音を消そうとした。
だが、音を消そうとするあまり、身体が固くなる。
肩が上がり、膝が硬くなり、歩き方がぎこちなくなった。
レンは言った。
「今度は固い」
「うるさいわね!」
「俺も最初はずっと言われた」
「誰に」
「師匠」
「その師匠、いちいちうるさそうね!」
「うん」
レンが素直に頷くと、エリスは少し笑った。
ギレーヌも見ていた。
「エリス様。これは役に立ちます」
「本当に?」
「はい。剣神流の踏み込みとは違いますが、身体を知るにはいい」
「じゃあ、やるわ!」
エリスは単純だった。
強くなると分かれば、すぐ食いつく。
レンは少しだけ、道場で玄斎に同じことをさせられていた自分を思い出した。
足で歩くな。
身体を運べ。
その言葉を、今度は自分がエリスに言うことになるとは思わなかった。
エリスは庭を歩く。
どん。
ぎくしゃく。
どん。
ぎくしゃく。
うまくいかない。
顔がだんだん赤くなる。
「何よこれ! 剣より難しいじゃない!」
「俺もそう思った」
「こんなの意味あるの!?」
「あると思う」
「思うじゃなくて、あるって言いなさいよ!」
「ある」
「いいわ!」
理屈ではなく、勢いで納得したらしい。
ギレーヌは静かに見守っていた。
その表情は、少しだけ柔らかかった。
◇
その日の午後、レンは屋敷の雑用を手伝った。
薪を運び、水を汲み、庭の隅の掃除をする。
使用人たちは最初、戸惑っていた。
客人扱いで置かれている少年が、自分から雑用をするのだから無理もない。
だが、レンにとっては自然なことだった。
身体を使うことは稽古になる。
荷を持つ時、腕だけで持たない。
腰を落とし、背中に通す。
水桶を運ぶ時、片側に重さを寄せすぎない。
掃除をする時、肩だけで動かさない。
道場で叩き込まれたことは、屋敷でも使えた。
ただ、エリスが時々現れて邪魔をする。
「それも稽古なの?」
「たぶん」
「じゃあ私もやるわ!」
「汚れるよ」
「平気よ!」
そう言って、エリスは薪を持とうとした。
重い薪束を一気に持ち上げようとして、体勢を崩す。
レンは慌てて支えた。
「腕だけで持つから」
「持てるわよ!」
「持ててない」
「持てる!」
エリスは意地になった。
結局、ギレーヌに見つかり、ほどほどにしなさいと止められた。
使用人たちは遠巻きにそれを見ていた。
最初は困惑していたが、だんだん慣れてきたらしい。
誰かが小さく笑っていた。
ボレアス家の庭に、少しだけ別の空気が混じり始めていた。
◇
夜。
レンは部屋で木刀の手入れをしていた。
肩はまだ少し痛い。
腹にもギレーヌの一撃の重さが残っている。
腕も疲れていた。
だが、心は妙に静かだった。
今日一日で、いくつも見えた。
ギレーヌには届かない。
大亀流の五剣を使っても、技の繋ぎを工夫しても、今のレンではまるで足りない。
だが、反応させることはできた。
ほんのわずかでも、ギレーヌの目を動かす瞬間はあった。
それは、道場の外で得た小さな手応えだった。
エリスには、勝てることもあれば取られることもある。
力は彼女の方が上。
踏み込みの圧も強い。
だが、間合いと崩しではレンに分がある。
互いに違う。
だから、互いに学べる。
レンは木刀を膝に置き、目を閉じた。
玄斎なら何と言うだろう。
調子に乗るな。
まだ軽い。
五剣を繋げ。
足を見ろ。
きっとそんなところだ。
宗一郎なら笑うだろう。
面白い女に捕まったな、と。
レンは小さく息を吐いた。
その時、扉の外で足音がした。
どたどた。
遠慮のない足音。
レンは目を開ける。
扉が開く前に言った。
「入る前に声」
足音が止まる。
少し沈黙。
それから、扉の向こうでエリスの声がした。
「入るわよ!」
「どうぞ」
扉が開く。
エリスが立っていた。
昨日よりはましだ。
少なくとも、声はかけた。
「何してるの」
「木刀の手入れ」
「毎日やるの?」
「使った日は」
「ふうん」
エリスは勝手に入ってきて、床に座った。
「今日の歩くやつ」
「うん」
「あれ、明日もやるわ!」
「いいと思う」
「あと、あんたの変な外れ方も見るわよ!」
「見るだけなら」
「いつか真似するわ!」
「勝手には難しいと思う」
「やる前から無理って言うのイヤよ!」
その言葉に、レンは少しだけ笑った。
エリスらしい。
エリスは木刀を見て言う。
「あんた、いつか真剣持つの?」
「持てるようになったら」
「持てるようになるって、誰が決めるのよ」
「師匠」
「遠いんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、今は?」
レンは少し考えた。
玄斎はここにはいない。
だが、だからといって勝手に真剣を持てばいいわけではない。
自分の剣がまだ軽いことは、今日も思い知らされた。
木刀でも危ういのだ。
真剣なら、もっと危ない。
「今はまだ木刀でいい」
「ふうん」
「エリスは?」
「私は早く真剣が欲しいわ!」
「危ないよ」
「危ないから剣でしょ!」
「昨日も言ってた」
「今日も言うわ!」
エリスは胸を張った。
レンは苦笑した。
「でも、ギレーヌさんが駄目って言うと思う」
「分かってるわよ!」
意外にも、エリスはそこで噛みつかなかった。
少しだけ悔しそうに木剣を見つめる。
「私も、まだ足りないんでしょ!」
レンは黙った。
エリスがそんなことを自分から言うとは思わなかった。
彼女は続ける。
「ギレーヌは強いわ。全然届かない。今日、あんたが全部使っても届かなかった」
「うん」
「でも、ちょっとだけ動かした」
レンはエリスを見た。
エリスは悔しそうに言った。
「私も、あれくらい動かしたい」
「できると思う」
「当然よ!」
「でも、すぐには無理」
「分かってるわよ!」
分かっているらしい。
怒鳴ってはいるが、本当に分かっている顔だった。
エリスは立ち上がる。
「明日もやるわよ!」
「うん」
「歩くやつも、剣も!」
「うん」
「それと、今度は三本勝負で勝つ!」
「俺も負けない」
「もちろんよ!」
エリスは満足そうに頷き、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
レンはしばらく、その扉を見ていた。
狂犬。
確かにそうかもしれない。
だが、ただ吠えているだけではない。
噛みつきながら、学んでいる。
転んでも、次の瞬間には前を見ている。
レンは木刀を置き、床に座り直した。
足裏は床についていない。
それでも、身体の中心を意識する。
ギレーヌの剣。
エリスの踏み込み。
自分の五剣。
今日見えたものを、一つずつ身体の中へ沈める。
考えたものを、身体に沈めろ。
玄斎の言葉を思い出す。
レンは目を閉じた。
ボレアス家での日々は、騒がしい。
だが、この騒がしさの中で、レンの剣は少しずつ形を変え始めていた。