無職転生×異伝   作:からし明太子

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第十話 狂犬と亀の子

 

 

 ボレアス家での日々は、静かとは程遠かった。

 

 朝、目を覚ます。

 

 床に足をつける。

 

 立つ。

 

 呼吸を通す。

 

 木刀を握る。

 

 そこまでは道場と同じだった。

 

 だが、次の瞬間には扉が勢いよく開く。

 

「レン! 庭!」

 

 エリスである。

 

 初日は驚いた。

 

 二日目も驚いた。

 

 三日目には、足音で分かるようになった。

 

 廊下の向こうから、どたどたと遠慮のない足音が近づいてくる。

 

 使用人たちが慌てて道を空ける。

 

 扉の前で止まる気配がない。

 

 来る。

 

 そう思った瞬間、扉が開く。

 

 だから四日目には、レンは扉が開く前に荷物を避けておいた。

 

「準備できてる!?」

 

 エリスが仁王立ちで言った。

 

 赤い髪は朝から跳ね、目はぎらぎらしている。

 

 寝起きとは思えない気迫だった。

 

「朝食は?」

 

「後!」

 

「昨日もそう言った」

 

「昨日は昨日よ!」

 

「毎日同じこと言ってる」

 

「いいから来なさい!」

 

 エリスは人の都合を待たない。

 

 レンは木刀を腰に差し、ため息をつきながら立ち上がる。

 

 だが、嫌ではなかった。

 

 むしろ、少しだけ楽しみにしている自分がいる。

 

 それが分かって、レンは苦笑した。

 

 ボレアス家での滞在は、フィリップの許可を得て正式に決まった。

 

 食事と部屋を与えられ、その代わりに屋敷の雑用を手伝い、エリスの稽古相手を務める。

 

 雑用は苦ではない。

 

 道場では、掃除も水汲みも薪割りも稽古の一部だった。

 

 むしろ、使用人に任せきりの屋敷の暮らしの方が落ち着かなかった。

 

 問題は、エリスだった。

 

 彼女は朝から晩まで、隙あらば木剣を持ち出してくる。

 

 昨日負けたからもう一回。

 

 今の動きが気に食わないからもう一回。

 

 ギレーヌに止められたから、見ていないところでもう一回。

 

 理由は何でもいいらしい。

 

 とにかく、戦いたい。

 

 勝ちたい。

 

 昨日の自分より前へ出たい。

 

 その気持ちだけで動いている。

 

 屋敷の使用人たちは、そんなエリスを半ば諦めたような顔で見ていた。

 

 誰かが小さく呟いたのを、レンは一度だけ聞いた。

 

 狂犬。

 

 なるほどと思った。

 

 確かに、エリスは狂犬じみている。

 

 噛みつく。

 

 吠える。

 

 逃げない。

 

 負けても、すぐ立つ。

 

 ただし、言えば怒るだろうから、本人には言わないことにした。

 

 ◇

 

 庭に出ると、ギレーヌがすでに立っていた。

 

 訓練用の木剣を持ち、朝の光の中で静かに待っている。

 

 エリスはすぐに木剣を取った。

 

「今日は勝つわ!」

 

「昨日も聞いた」

 

「今日は本当に勝つの!」

 

「昨日も本気だったよね」

 

「今日はもっと本気!」

 

 そう言って、エリスは構える。

 

 レンも木刀を構えた。

 

 ギレーヌが二人を見比べる。

 

「三本。顔と急所は禁止。熱くなりすぎないように」

 

「分かってるわよ」

 

 エリスは即答した。

 

 だが、その握りはもう力んでいる。

 

 ギレーヌがそれを見る。

 

「エリス様」

 

「何よ」

 

「握りすぎです」

 

「握らなきゃ飛ぶでしょ」

 

「握りすぎるから、剣が遅れます」

 

 レンは少しだけ身に覚えがあり、黙って聞いていた。

 

 水龍型の稽古で、玄斎に何度も同じことを言われた。

 

 握るのではない。

 

 刀を逃がさぬだけ。

 

 それは木剣でも同じだ。

 

 エリスは不満そうに手を緩めた。

 

 だが、数呼吸もしないうちにまた力が戻る。

 

 ギレーヌはため息をついた。

 

「始め」

 

 その声と同時に、エリスが踏み込んだ。

 

 速い。

 

 初めて戦った時よりも、確実に速くなっている。

 

 ただの勢いだけではない。

 

 昨日、レンに外されたことを覚えているのか、踏み込みの角度が少しだけ変わっていた。

 

 真正面ではなく、斜めから入る。

 

 レンは受けなかった。

 

 木剣の軌道を見て、半歩外へずれる。

 

 だが、エリスは読んでいた。

 

 振り下ろしが途中で止まり、横薙ぎへ変わる。

 

 荒い。

 

 しかし、速い。

 

 レンは木刀を斜めに置いて、その力を流した。

 

 正面から受ければ押される。

 

 エリスは体格以上に重い剣を振る。

 

 木剣の芯に力が乗っている。

 

 腕力だけではない。

 

 怒りと勢いと負けん気が、そのまま剣に乗っている。

 

 レンは流した力を殺さず、木刀を返す。

 

 狙いは手首。

 

 深くは打たない。

 

 触れるだけでいい。

 

 しかし、エリスは腕を引いた。

 

 昨日より早い。

 

 レンの木刀は空を切る。

 

「見えたわ!」

 

 エリスが叫ぶ。

 

「言わなくていい」

 

「うるさい!」

 

 エリスはさらに踏み込んだ。

 

 今度は上段。

 

 レンは足を引くと見せた。

 

 エリスの目がそこを追う。

 

 その瞬間、レンは前へ半歩入った。

 

 近い間合い。

 

 エリスの木剣はまだ振り切れていない。

 

 木刀の柄で、エリスの肘の内側を軽く押す。

 

 エリスの腕が詰まる。

 

 レンはそのまま肩口へ木刀を添えた。

 

「一本。レン」

 

 ギレーヌの声。

 

 エリスは目を見開いた。

 

「今の何よ!」

 

「近づいた」

 

「見れば分かるわよ!」

 

「腕が伸びる前に止めた」

 

「ずるい!」

 

「剣でずるいはないと思う」

 

「あるわよ!」

 

 エリスは顔を赤くして怒った。

 

 だが、すぐ構え直す。

 

 怒りながらも、目はレンの足元を見ていた。

 

 今の半歩を見ようとしている。

 

 そういうところが、エリスの恐ろしいところだった。

 

 負けたことを、すぐ次の材料にする。

 

 怒りも悔しさも、そのまま前へ進む力に変えている。

 

 二本目。

 

 エリスはすぐには来なかった。

 

 珍しく、待った。

 

 レンは少し驚いた。

 

 いつもなら、自分から突っ込んでくる。

 

 だが今は、レンの動きを見ようとしている。

 

 ギレーヌがわずかに頷いた。

 

 エリスはそれに気づかない。

 

 レンは呼吸を整えた。

 

 待たれると、こちらから崩さなければならない。

 

 大きく行けば、エリスの反応に噛みつかれる。

 

 小さく行きすぎれば、圧で押し返される。

 

 レンは木刀の先をわずかに下げた。

 

 肩を少し見せる。

 

 虚空型第一式、影縫。

 

 相手の目が追う場所を作り、そこから外れる。

 

 エリスの目が木刀の先へ流れた。

 

 一瞬。

 

 本当に一瞬だけ。

 

 レンはその間に半歩ずれた。

 

 エリスの正面から外れ、斜めへ入る。

 

 そのまま木刀を一息で落とす。

 

 袈裟。

 

 だが、エリスも反応した。

 

 木剣を振り上げ、強引に受ける。

 

 力任せ。

 

 木刀が押される。

 

 レンはそれを嫌って、木刀を滑らせるように下へ逃がした。

 

 そのまま膝へ。

 

 寸止め。

 

「一本。レン」

 

 ギレーヌの声が落ちる。

 

 エリスは唇を噛んだ。

 

「今、見てたのに!」

 

「見てたから、外れた」

 

「むかつくわね!」

 

「ごめん」

 

「謝られるのもむかつくわ!」

 

 理不尽だった。

 

 だが、エリスらしい。

 

 三本目。

 

 エリスの空気が変わった。

 

 怒っている。

 

 だが、雑ではない。

 

 さっきより静かだ。

 

 木剣を握る手に力は入っているが、肩の上がり方が少しだけ減っている。

 

 ギレーヌがそれを見て、何も言わなかった。

 

 レンは構える。

 

 エリスが来る。

 

 真っ直ぐ。

 

 速い。

 

 レンは外れようとした。

 

 その瞬間、エリスの足が止まった。

 

 止まるはずのないところで止まった。

 

 レンの半歩が、空を踏む。

 

 読みが外れた。

 

 次の瞬間、エリスが再び踏み込む。

 

 二段目の踏み込み。

 

 剣神流の正式な技かどうかは分からない。

 

 だが、勢いで押すだけではない。

 

 相手が外れる場所を読んで、そこへ入り直してきた。

 

 木剣がレンの肩を打った。

 

 軽くではない。

 

 十分に痛い。

 

「一本。エリス様」

 

 ギレーヌが言った。

 

 エリスは息を切らしながら、勝ち誇ったように笑った。

 

「取った!」

 

「取られた」

 

 レンは肩を押さえた。

 

 痛い。

 

 だが、嫌な痛みではなかった。

 

 今の一本は、エリスが考えた。

 

 怒りに任せて突っ込んだのではない。

 

 レンが外れることを読んで、踏み込みを二つに分けた。

 

 レンは素直に言った。

 

「今の、よかった」

 

 エリスは一瞬だけ目を丸くした。

 

 それから、ものすごく嬉しそうな顔をしそうになり、慌てて怒った顔に戻した。

 

「当然よ!」

 

「顔、嬉しそうだ」

 

「うるさい!」

 

 木剣が飛んできそうだったので、レンは半歩下がった。

 

 ギレーヌは二人を見て、静かに言う。

 

「今日はここまで」

 

「もう一回!」

 

「駄目です」

 

「まだできるわ!」

 

「できるから駄目です」

 

 エリスは意味が分からないという顔をした。

 

 レンには少し分かった。

 

 まだ動ける。

 

 だからこそ、熱くなって悪い癖が出る。

 

 疲れた身体で続ければ、力で誤魔化す。

 

 それを玄斎も嫌った。

 

 エリスは不満そうだったが、ギレーヌの目を見て渋々木剣を下ろした。

 

 ◇

 

 稽古の後、レンは庭の端で木刀を拭いていた。

 

 エリスは近くの芝に座り込んでいる。

 

 貴族の娘らしからぬ座り方だった。

 

 膝を立て、木剣を肩に乗せ、まだ不満そうにしている。

 

「あと一本やれば勝てたのに」

 

「分からないよ」

 

「勝てたわ!」

 

「そう思うなら、明日勝てばいい」

 

「明日まで待つのがイヤなのよ!」

 

「我慢も稽古じゃない?」

 

「イヤよ!」

 

「だろうね」

 

 エリスが睨んでくる。

 

 レンは木刀を拭く手を止めない。

 

 そこへ、ギレーヌが歩いてきた。

 

「レン」

 

「はい」

 

「エリス様の剣をどう見た」

 

 突然の問いだった。

 

 エリスがぎょっとした顔でギレーヌを見る。

 

「ちょっと、何で本人の前で聞くのよ!」

 

「本人の前で言わせるためです」

 

「何それ!」

 

 ギレーヌは動じない。

 

 レンは少し考えた。

 

 適当に褒めれば、エリスは怒るかもしれない。

 

 適当に貶せば、もっと怒るだろう。

 

 だから、見たまま言うしかない。

 

「強いですね」

 

 エリスの顔が少し明るくなる。

 

 だが、レンは続けた。

 

「でも、前に出すぎます」

 

 エリスの眉が跳ねた。

 

「何ですって!?」

 

「踏み込みが強いから、正面から受けたら押されます。剣も重いです。でも、前に出る力が強すぎて、外された時に身体が流れる」

 

「……」

 

「ただ、反応は早いです。さっきみたいに、一度見た動きにすぐ対応してくる。だから、同じ外し方は何度も使えない」

 

 エリスは怒るかと思った。

 

 だが、黙って聞いていた。

 

 顔は不満そうだが、耳はちゃんとこちらへ向いている。

 

「それと、怖がらない」

 

 レンは言った。

 

 エリスが少し目を丸くする。

 

「怖がるわけないでしょ!」

 

「うん。だから強い」

 

 今度こそ、エリスは黙った。

 

 褒められ慣れていないわけではないだろう。

 

 貴族の娘だ。

 

 周囲から褒められることもあるはずだ。

 

 だが、剣について正面からそう言われることは、少なかったのかもしれない。

 

 エリスは顔を赤くして、ぷいと横を向いた。

 

「当然よ」

 

 声が少し小さかった。

 

 ギレーヌは次にエリスを見る。

 

「エリス様。今の評価をどう聞きましたか」

 

「前に出すぎるって」

 

「はい」

 

「でも、前に出なきゃ斬れないじゃない!」

 

「前に出ることは悪くありません。問題は、戻れないことです」

 

 ギレーヌは木剣を拾い、軽く構えた。

 

「斬る。外れる。次に動く。これができなければ、最初の一撃がどれだけ強くても危険です」

 

 レンは黙って聞いていた。

 

 自分にも刺さる言葉だった。

 

 紫電閃の稽古で、玄斎に何度も言われた。

 

 前へ出た後に生き残れ。

 

 エリスは唇を尖らせる。

 

「じゃあ、どうすればいいのよ!」

 

「まず、相手を見ることです」

 

「見てるわよ!」

 

「見たいものだけ見ています」

 

 エリスが詰まった。

 

 ギレーヌはレンを示す。

 

「レンは外れる。なら、外れる先を見なければならない。剣だけを追えば、足に遅れます」

 

「足……」

 

 エリスの視線がレンの足元へ落ちる。

 

 レンは少しだけ居心地が悪くなった。

 

「何よ、その足」

 

「普通の足だけど」

 

「動きが普通じゃないのよ!」

 

「大亀流は足から教えられたから」

 

「オオガメリュウって、足の流派なの!?」

 

「剣の流派だと思う」

 

「思うって何よ!」

 

 レンは少し考えた。

 

 大亀流は剣術だ。

 

 雷電型、焔燃型、虚空型、水龍型、土公型。

 

 五剣がある。

 

 しかし、玄斎に最初に叩き込まれたのは、斬り方ではなかった。

 

 立つこと。

 

 歩くこと。

 

 崩れても目を逸らさないこと。

 

「剣だけじゃない」

 

 レンは答えた。

 

「身体の使い方からやる」

 

「ふうん」

 

 エリスは興味深そうにレンを見る。

 

「じゃあ、教えなさい!」

 

「勝手には教えられない」

 

「またそれ!」

 

「流派の技だから」

 

「けち!」

 

「けちじゃない」

 

 同じやり取りだった。

 

 ギレーヌが口を挟む。

 

「エリス様。流派の技を簡単に教えないのは当然です」

 

「ギレーヌまで」

 

「ただ、足を見ることはできます」

 

 ギレーヌはレンへ言った。

 

「ゆっくり歩いて見せろ」

 

「歩く?」

 

「技ではなく、歩きだ」

 

 それなら問題ない。

 

 レンは立ち上がった。

 

 庭の芝の上に立つ。

 

 足裏で地面を感じる。

 

 膝を固めない。

 

 腰を浮かせない。

 

 肩を落とす。

 

 呼吸を通す。

 

 ただ歩く。

 

 一歩。

 

 半歩。

 

 重心を運ぶ。

 

 足で地面を蹴るのではなく、身体の重さを移す。

 

 玄斎に何度も叩かれた歩き方。

 

 まだ完璧には遠い。

 

 だが、道場へ来た頃よりはずっとましになっている。

 

 エリスはじっと見ていた。

 

 眉間に皺が寄っている。

 

「遅い!」

 

「ゆっくりやってるから」

 

「でも、変ね!」

 

「どう変?」

 

「足を出してるのに、足で行ってない感じよ!」

 

 レンは少し驚いた。

 

 言葉は乱暴だが、見えている。

 

 ギレーヌもわずかに目を細めた。

 

「よく見ています」

 

 エリスは得意げになった。

 

「当然よ!」

 

「では、真似してください」

 

「できるわよ!」

 

 エリスはすぐに立ち上がり、レンの真似をした。

 

 一歩。

 

 どん、と音がした。

 

 地面を強く踏んでいる。

 

 レンは思わず言った。

 

「強い」

 

「何が!」

 

「足音」

 

「歩いてるんだから音くらいするでしょ!」

 

「もう少し静かに」

 

 エリスはむっとした顔で、もう一度歩いた。

 

 今度は音を消そうとした。

 

 だが、音を消そうとするあまり、身体が固くなる。

 

 肩が上がり、膝が硬くなり、歩き方がぎこちなくなった。

 

 レンは言った。

 

「今度は固い」

 

「うるさいわね!」

 

「俺も最初はずっと言われた」

 

「誰に」

 

「師匠」

 

「その師匠、いちいちうるさそうね!」

 

「うん」

 

 レンが素直に頷くと、エリスは少し笑った。

 

 ギレーヌも見ていた。

 

「エリス様。これは役に立ちます」

 

「本当に?」

 

「はい。剣神流の踏み込みとは違いますが、身体を知るにはいい」

 

「じゃあ、やるわ!」

 

 エリスは単純だった。

 

 強くなると分かれば、すぐ食いつく。

 

 レンは少しだけ、道場で玄斎に同じことをさせられていた自分を思い出した。

 

 足で歩くな。

 

 身体を運べ。

 

 その言葉を、今度は自分がエリスに言うことになるとは思わなかった。

 

 エリスは庭を歩く。

 

 どん。

 

 ぎくしゃく。

 

 どん。

 

 ぎくしゃく。

 

 うまくいかない。

 

 顔がだんだん赤くなる。

 

「何よこれ! 剣より難しいじゃない!」

 

「俺もそう思った」

 

「こんなの意味あるの!?」

 

「あると思う」

 

「思うじゃなくて、あるって言いなさいよ!」

 

「ある」

 

「いいわ!」

 

 理屈ではなく、勢いで納得したらしい。

 

 ギレーヌは静かに見守っていた。

 

 その表情は、少しだけ柔らかかった。

 

 ◇

 

 その日の午後、レンは屋敷の雑用を手伝った。

 

 薪を運び、水を汲み、庭の隅の掃除をする。

 

 使用人たちは最初、戸惑っていた。

 

 客人扱いで置かれている少年が、自分から雑用をするのだから無理もない。

 

 だが、レンにとっては自然なことだった。

 

 身体を使うことは稽古になる。

 

 荷を持つ時、腕だけで持たない。

 

 腰を落とし、背中に通す。

 

 水桶を運ぶ時、片側に重さを寄せすぎない。

 

 掃除をする時、肩だけで動かさない。

 

 道場で叩き込まれたことは、屋敷でも使えた。

 

 ただ、エリスが時々現れて邪魔をする。

 

「それも稽古なの?」

 

「たぶん」

 

「じゃあ私もやるわ!」

 

「汚れるよ」

 

「平気よ!」

 

 そう言って、エリスは薪を持とうとした。

 

 重い薪束を一気に持ち上げようとして、体勢を崩す。

 

 レンは慌てて支えた。

 

「腕だけで持つから」

 

「持てるわよ!」

 

「持ててない」

 

「持てる!」

 

 エリスは意地になった。

 

 結局、ギレーヌに見つかり、ほどほどにしなさいと止められた。

 

 使用人たちは遠巻きにそれを見ていた。

 

 最初は困惑していたが、だんだん慣れてきたらしい。

 

 誰かが小さく笑っていた。

 

 ボレアス家の庭に、少しだけ別の空気が混じり始めていた。

 

 ◇

 

 夜。

 

 レンは部屋で木刀の手入れをしていた。

 

 肩はまだ少し痛い。

 

 腹にもギレーヌの一撃の重さが残っている。

 

 腕も疲れていた。

 

 だが、心は妙に静かだった。

 

 今日一日で、いくつも見えた。

 

 ギレーヌには届かない。

 

 大亀流の五剣を使っても、技の繋ぎを工夫しても、今のレンではまるで足りない。

 

 だが、反応させることはできた。

 

 ほんのわずかでも、ギレーヌの目を動かす瞬間はあった。

 

 それは、道場の外で得た小さな手応えだった。

 

 エリスには、勝てることもあれば取られることもある。

 

 力は彼女の方が上。

 

 踏み込みの圧も強い。

 

 だが、間合いと崩しではレンに分がある。

 

 互いに違う。

 

 だから、互いに学べる。

 

 レンは木刀を膝に置き、目を閉じた。

 

 玄斎なら何と言うだろう。

 

 調子に乗るな。

 

 まだ軽い。

 

 五剣を繋げ。

 

 足を見ろ。

 

 きっとそんなところだ。

 

 宗一郎なら笑うだろう。

 

 面白い女に捕まったな、と。

 

 レンは小さく息を吐いた。

 

 その時、扉の外で足音がした。

 

 どたどた。

 

 遠慮のない足音。

 

 レンは目を開ける。

 

 扉が開く前に言った。

 

「入る前に声」

 

 足音が止まる。

 

 少し沈黙。

 

 それから、扉の向こうでエリスの声がした。

 

「入るわよ!」

 

「どうぞ」

 

 扉が開く。

 

 エリスが立っていた。

 

 昨日よりはましだ。

 

 少なくとも、声はかけた。

 

「何してるの」

 

「木刀の手入れ」

 

「毎日やるの?」

 

「使った日は」

 

「ふうん」

 

 エリスは勝手に入ってきて、床に座った。

 

「今日の歩くやつ」

 

「うん」

 

「あれ、明日もやるわ!」

 

「いいと思う」

 

「あと、あんたの変な外れ方も見るわよ!」

 

「見るだけなら」

 

「いつか真似するわ!」

 

「勝手には難しいと思う」

 

「やる前から無理って言うのイヤよ!」

 

 その言葉に、レンは少しだけ笑った。

 

 エリスらしい。

 

 エリスは木刀を見て言う。

 

「あんた、いつか真剣持つの?」

 

「持てるようになったら」

 

「持てるようになるって、誰が決めるのよ」

 

「師匠」

 

「遠いんでしょ?」

 

「うん」

 

「じゃあ、今は?」

 

 レンは少し考えた。

 

 玄斎はここにはいない。

 

 だが、だからといって勝手に真剣を持てばいいわけではない。

 

 自分の剣がまだ軽いことは、今日も思い知らされた。

 

 木刀でも危ういのだ。

 

 真剣なら、もっと危ない。

 

「今はまだ木刀でいい」

 

「ふうん」

 

「エリスは?」

 

「私は早く真剣が欲しいわ!」

 

「危ないよ」

 

「危ないから剣でしょ!」

 

「昨日も言ってた」

 

「今日も言うわ!」

 

 エリスは胸を張った。

 

 レンは苦笑した。

 

「でも、ギレーヌさんが駄目って言うと思う」

 

「分かってるわよ!」

 

 意外にも、エリスはそこで噛みつかなかった。

 

 少しだけ悔しそうに木剣を見つめる。

 

「私も、まだ足りないんでしょ!」

 

 レンは黙った。

 

 エリスがそんなことを自分から言うとは思わなかった。

 

 彼女は続ける。

 

「ギレーヌは強いわ。全然届かない。今日、あんたが全部使っても届かなかった」

 

「うん」

 

「でも、ちょっとだけ動かした」

 

 レンはエリスを見た。

 

 エリスは悔しそうに言った。

 

「私も、あれくらい動かしたい」

 

「できると思う」

 

「当然よ!」

 

「でも、すぐには無理」

 

「分かってるわよ!」

 

 分かっているらしい。

 

 怒鳴ってはいるが、本当に分かっている顔だった。

 

 エリスは立ち上がる。

 

「明日もやるわよ!」

 

「うん」

 

「歩くやつも、剣も!」

 

「うん」

 

「それと、今度は三本勝負で勝つ!」

 

「俺も負けない」

 

「もちろんよ!」

 

 エリスは満足そうに頷き、部屋を出ていった。

 

 扉が閉まる。

 

 レンはしばらく、その扉を見ていた。

 

 狂犬。

 

 確かにそうかもしれない。

 

 だが、ただ吠えているだけではない。

 

 噛みつきながら、学んでいる。

 

 転んでも、次の瞬間には前を見ている。

 

 レンは木刀を置き、床に座り直した。

 

 足裏は床についていない。

 

 それでも、身体の中心を意識する。

 

 ギレーヌの剣。

 

 エリスの踏み込み。

 

 自分の五剣。

 

 今日見えたものを、一つずつ身体の中へ沈める。

 

 考えたものを、身体に沈めろ。

 

 玄斎の言葉を思い出す。

 

 レンは目を閉じた。

 

 ボレアス家での日々は、騒がしい。

 

 だが、この騒がしさの中で、レンの剣は少しずつ形を変え始めていた。

 

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