無職転生×異伝   作:からし明太子

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第十一話 ボレアス家の用心棒

 

 ボレアス家での滞在が数日を過ぎると、レンの一日はだいたい決まってきた。

 

 朝は庭で立つ。

 

 足裏で芝を感じる。

 

 道場の土とは違う柔らかさ。

 

 山道の石とは違う滑り。

 

 屋敷の床とは違う沈み。

 

 場所が変われば、立ち方も変わる。

 

 玄斎に教えられたことは、山奥の道場だけで終わるものではなかった。

 

 ボレアス家の庭でも、石畳の廊下でも、薪置き場でも、井戸端でも、同じだった。

 

 まず立つ。

 

 そこから歩く。

 

 そこから斬る。

 

 レンは毎朝、それを確かめる。

 

 その後、ギレーヌに見られながら木刀を振る。

 

 大亀流の五剣。

 

 雷電型。

 

 焔燃型。

 

 虚空型。

 

 水龍型。

 

 土公型。

 

 すべての一式を通し、時に繋ぎ、時に途中で崩される。

 

 ギレーヌは玄斎ほど口数は多くない。

 

 だが、見る場所は鋭かった。

 

「今の火柱は腕だけだ」

 

「はい」

 

「逆鱗の前に、握り替える気配が出ている」

 

「はい」

 

「影縫は、外れる前に目が逃げた」

 

「はい」

 

「荒神は力で押そうとしている。お前の体では押せない」

 

「はい」

 

 短い言葉。

 

 だが、どれも痛いところを突いてくる。

 

 レンはそのたびに頷き、身体に刻んだ。

 

 ギレーヌの指摘は、玄斎のそれとは違う。

 

 玄斎は身体の根から崩してくる。

 

 ギレーヌは、剣士としての実戦の穴を突いてくる。

 

 どちらも必要だった。

 

 そして、その横では必ずエリスが騒いでいた。

 

「次、私!」

 

「まだだ」

 

「何でよ!」

 

「レンの稽古中です」

 

「私も稽古する!」

 

「待つ稽古をしてください」

 

「嫌よ!」

 

 朝から声が大きい。

 

 使用人たちはもう慣れたらしく、遠くで苦笑している。

 

 レンも慣れてきた。

 

 エリスは本当にじっとしていられない。

 

 木剣を持てば斬りかかりたがる。

 

 負ければすぐもう一本と言う。

 

 勝てば勝てばで、さらにもう一本と言う。

 

 結局、いつでももう一本なのだ。

 

 だが、その分だけ伸びる。

 

 昨日できなかった踏み込みを、今日少し直してくる。

 

 昨日引っかかった外しを、今日見ようとしてくる。

 

 怒りながら、悔しがりながら、それでも学んでいる。

 

 狂犬。

 

 屋敷の誰かがそう呼んだのも分かる。

 

 だが、レンは最近、それだけではないと思い始めていた。

 

 エリスは噛みつく。

 

 吠える。

 

 前へ出る。

 

 だが、ただ暴れているだけではない。

 

 強くなりたいという気持ちが、全身から溢れている。

 

 それは、レンにもよく分かるものだった。

 

 ◇

 

 その日の稽古は、いつもより早く切り上げられた。

 

 ギレーヌが木剣を下ろし、レンとエリスを見る。

 

「今日は町へ出る」

 

 エリスの目が輝いた。

 

「町!?」

 

「遊びではありません」

 

「分かってるわよ!」

 

 絶対に分かっていない顔だった。

 

 ギレーヌはそれを見ても、表情を変えない。

 

「フィリップ様の使いです。商会へ届け物をする。エリス様も同行します」

 

「私が?」

 

「はい。礼儀と町歩きの勉強も兼ねています」

 

「面倒ね!」

 

「必要です」

 

 エリスは不満そうに腕を組んだ。

 

 だが、町へ出られること自体は嬉しいらしい。

 

 そわそわしている。

 

 ギレーヌは次にレンを見た。

 

「レンも来い」

 

「俺もですか」

 

「お前はエリス様の近くにいろ」

 

 レンは少し意外だった。

 

「護衛ですか」

 

「半分はな」

 

「もう半分は?」

 

「町での立ち回りを見る」

 

 ギレーヌは淡々と言った。

 

「庭の稽古と町中は違う。人がいる。馬車がある。壁がある。逃げ道も、死角もある。そこでどう立つかを見る」

 

 レンは頷いた。

 

 道場では一対一の稽古が多かった。

 

 庭では広い場所で動ける。

 

 だが、町中では違う。

 

 周囲に人がいる。

 

 不用意に木刀を振れば、守るべき相手を巻き込む。

 

 突っ込めば、背後が空く。

 

 追えば、誘い込まれる。

 

 戦うだけではない。

 

 守る。

 

 見る。

 

 避ける。

 

 通す。

 

 そういうことも必要になる。

 

 玄斎にも言われた。

 

 剣は、斬るだけではない。

 

 レンは木刀を腰に差した。

 

「分かりました」

 

 エリスがにやりと笑う。

 

「私を守るの?」

 

「必要なら」

 

「私の方が強いわよ!」

 

「そういう時もある」

 

「何よ、その言い方!」

 

「全部じゃないから」

 

「生意気!」

 

 エリスが拳を握る。

 

 だが、ギレーヌの視線を受けて、しぶしぶ下ろした。

 

「町では勝手に暴れないでください」

 

「暴れないわよ!」

 

 ギレーヌとレンは同時にエリスを見た。

 

「何よ!」

 

 ◇

 

 ロアの町は、前に来た時と同じように騒がしかった。

 

 馬車が通る。

 

 商人が声を張る。

 

 荷運びの男たちが大きな箱を担ぐ。

 

 子供たちが路地を走る。

 

 香辛料、焼き肉、馬、革、汗。

 

 いくつもの匂いが混ざっている。

 

 だが、最初に来た時とは見え方が違った。

 

 あの時は、ただ大きな町だと思った。

 

 今は、道の流れが見える。

 

 人がどちらへ避けるか。

 

 馬車がどの角度で曲がるか。

 

 武器を持つ者がどれくらいいるか。

 

 酔った男がどこに立っているか。

 

 露店の箱が邪魔になる場所。

 

 逃げるなら通れる路地。

 

 逆に、入ると詰まる狭い道。

 

 ギレーヌは前を歩く。

 

 その少し後ろをエリス。

 

 レンはエリスの斜め後ろについた。

 

 真正面ではない。

 

 すぐ横でもない。

 

 エリスの動きが見えて、前も後ろも確認できる位置。

 

 エリスは不満そうに言う。

 

「何で後ろなのよ!」

 

「前はギレーヌさんがいる」

 

「横に来なさいよ!」

 

「横だと後ろが見えない」

 

「ふうん」

 

 分かったのか分かっていないのか、エリスはそれ以上言わなかった。

 

 ただ、歩くたびに店先へ目を奪われている。

 

 菓子。

 

 布。

 

 装飾品。

 

 武器。

 

 特に武器屋の前では足が止まりかけた。

 

 ギレーヌが即座に言う。

 

「寄りません」

 

「まだ何も言ってないわよ!」

 

「顔に出ています」

 

「むう」

 

 エリスは唇を尖らせる。

 

 レンは少し笑いそうになったが、我慢した。

 

 町では油断できない。

 

 そう思った矢先だった。

 

 前方の人混みが、わずかに乱れた。

 

 誰かがぶつかった。

 

 小さな悲鳴。

 

 次いで、露店の主人が声を上げる。

 

「おい、待て!」

 

 一人の少年が人混みの間をすり抜けて走っていた。

 

 歳はレンたちより少し上。

 

 手には小さな袋。

 

 財布か、商品か。

 

 盗みだ。

 

 エリスが反射的に動いた。

 

「捕まえるわ!」

 

 レンはその腕を掴んだ。

 

「待って」

 

「何でよ!」

 

「人が多い」

 

「逃げられるじゃない!」

 

「追うとぶつかる」

 

 エリスは振りほどこうとした。

 

 だが、レンは腕を強く掴むのではなく、身体ごと前へ出られない位置へずらした。

 

 力で止めると暴れる。

 

 動きたい方向を塞げば、一瞬止まる。

 

 その間に、ギレーヌが動いた。

 

 走らない。

 

 歩くように見えた。

 

 だが、速い。

 

 人と人の隙間を縫い、少年の逃げ道へ先回りする。

 

 少年は路地へ入ろうとした。

 

 その入口に、ギレーヌが立っていた。

 

 少年がぎょっとして止まる。

 

 逃げようと振り返る。

 

 そこへ、露店の主人と衛兵が追いついた。

 

 あっという間だった。

 

 エリスはぽかんとしていた。

 

「走ってないのに」

 

「逃げ道を見てたんだと思う」

 

 レンが言うと、エリスは眉を寄せる。

 

「何で分かるのよ」

 

「俺も追うならあの路地だと思った」

 

「じゃあ追えばよかったじゃない」

 

「エリスが走ったら、あの荷車にぶつかってた」

 

 レンが示すと、ちょうど近くを荷車が通っていた。

 

 大きな木箱を積んでいる。

 

 エリスが全力で飛び出していれば、確かに危なかった。

 

 エリスは少しだけ黙った。

 

「……でも、捕まえられたかもしれないわ」

 

「捕まえた後、周りを巻き込むかもしれない」

 

「む」

 

「ギレーヌさんは、追う前に道を見てた」

 

 エリスは悔しそうにギレーヌの背を見る。

 

 盗んだ少年は衛兵に引き渡され、袋は露店の主人へ戻された。

 

 ギレーヌは何事もなかったように帰ってくる。

 

「今のを見たか」

 

「見たわ」

 

 エリスが不満そうに答える。

 

「なぜ止められた」

 

「……人が多いから」

 

「それだけではありません」

 

 ギレーヌはレンを見る。

 

「レン」

 

「逃げ道ですか」

 

「そうだ」

 

 ギレーヌは頷いた。

 

「相手がどこへ逃げるか。自分が走れば誰にぶつかるか。守る相手がどこにいるか。町中で剣を抜く前に、見るものは多い」

 

 レンは深く頷いた。

 

 エリスは不満そうだったが、黙って聞いていた。

 

 それだけでも成長なのだろう。

 

 ◇

 

 商会での用事は、レンにはよく分からなかった。

 

 ギレーヌが持っていた書状を渡し、商人がそれを読み、何かを書きつける。

 

 エリスは途中で飽きていた。

 

 椅子に座り、足を揺らし、壁に飾られた絵を睨んでいる。

 

 レンは部屋の隅に立っていた。

 

 ここでも、足元を感じる。

 

 床は石。

 

 硬い。

 

 声がよく響く。

 

 窓は二つ。

 

 扉は一つ。

 

 商人の後ろに帳簿棚。

 

 護衛らしき男が一人。

 

 武器は腰の短剣。

 

 商人の手元には羽ペン。

 

 戦う場所ではない。

 

 だが、何かあれば机が邪魔になる。

 

 窓からは出にくい。

 

 扉を塞がれれば詰まる。

 

 そんなことを考えていたら、エリスが小声で言った。

 

「あんた、何見てるの」

 

「部屋」

 

「部屋?」

 

「出入り口とか、邪魔な物とか」

 

「何で?」

 

「ギレーヌさんが、町での立ち回りを見るって言ったから」

 

「真面目ね」

 

「エリスも見た方がいい」

 

「私は退屈」

 

「退屈でも見る」

 

「イヤ」

 

「じゃあ、敵が来たらどうするの」

 

「斬る」

 

「机が邪魔だったら?」

 

「蹴飛ばす」

 

「人がいたら?」

 

「どかす」

 

「どかす前に斬られたら?」

 

 エリスは黙った。

 

 そして、むっとした顔で部屋を見る。

 

「……扉は一つね」

 

「うん」

 

「窓は二つ。でも、あれは小さいから出にくい」

 

「うん」

 

「あの男、短剣持ってる」

 

「見えてるね」

 

「当然よ」

 

 エリスは少し得意げだった。

 

 だが、すぐに小声で付け加える。

 

「……こういうのも稽古なの?」

 

「たぶん」

 

「また、たぶん」

 

「でも、役に立つと思う」

 

 エリスは不満そうにしながらも、それからは部屋を少し観察していた。

 

 商談の内容には興味がないらしい。

 

 しかし、どこに誰がいるかは見ようとしている。

 

 レンはそれを見て、少しだけ嬉しくなった。

 

 エリスは本当に、強くなることに関しては素直だ。

 

 ◇

 

 商会を出る頃には、昼を過ぎていた。

 

 通りはさらに混んでいる。

 

 ギレーヌは帰り道を少し変えた。

 

 大通りではなく、一本外れた道を通る。

 

 人通りはあるが、先ほどより少ない。

 

 エリスは文句を言う。

 

「何でこっちなのよ。あっちに菓子の店があったのに」

 

「寄りません」

 

「一つだけ!」

 

「駄目です」

 

「けち!」

 

 このやり取りにも、レンは慣れてきた。

 

 だが、次の角を曲がった瞬間、空気が少し変わった。

 

 狭い道。

 

 左右には倉庫のような建物。

 

 人通りは少ない。

 

 前方に男が三人。

 

 後ろにも二人。

 

 偶然にしては、位置が悪かった。

 

 ギレーヌは足を止めた。

 

 レンも止まる。

 

 エリスは一歩遅れて気づいた。

 

「何?」

 

「下がらないで」

 

 レンは小さく言った。

 

「でも、前に」

 

「前も後ろもいる」

 

 エリスの目が鋭くなる。

 

 騒がない。

 

 それは意外だった。

 

 彼女なりに、さっきの町歩きで学んだのかもしれない。

 

 前方の男の一人が、にやにや笑った。

 

「お嬢様方、迷子かい?」

 

 安っぽい声だった。

 

 腰に短剣。

 

 手には棍棒。

 

 後ろの二人も、布に包んだ何かを持っている。

 

 ただの酔っ払いではない。

 

 最初から囲むつもりで立っている。

 

 ギレーヌは低く言った。

 

「エリス様を下げろ」

 

「はい」

 

 レンはエリスの斜め前に出た。

 

 ただし、彼女の視界を塞ぎきらない。

 

 エリスは小声で言う。

 

「私も戦えるわ」

 

「知ってる」

 

「じゃあ」

 

「でも、今は守られる位置にいて」

 

 エリスが何か言い返そうとした。

 

 だが、レンは続けた。

 

「俺が前を見る。エリスは後ろを見て」

 

 その言葉に、エリスの表情が変わった。

 

 ただ下がれではない。

 

 役割を渡された。

 

 そう理解したらしい。

 

 彼女は木剣を持っていない。

 

 町中なので、今日は護身用の短い棒だけを持っていた。

 

 それを握り、後ろの二人を見る。

 

「分かったわ」

 

 ギレーヌは前の三人へ向かって歩き出した。

 

 それだけで、男たちの笑みが少し引きつる。

 

 彼らも馬鹿ではない。

 

 ギレーヌの雰囲気が普通ではないと気づいたのだ。

 

 だが、引くには遅かった。

 

 前の一人が短剣を抜く。

 

「止まれ!」

 

 ギレーヌは止まらない。

 

 短剣の男が突っ込む。

 

 次の瞬間、男は地面に転がっていた。

 

 レンには、ほとんど見えなかった。

 

 ギレーヌの木剣が男の手首を打ち、足を払った。

 

 それだけに見えた。

 

 だが、速さも重さも桁が違う。

 

 残り二人が怯む。

 

 その一瞬で、後ろの二人が動いた。

 

 エリスを狙ってくる。

 

 レンは振り返らない。

 

 背中の気配と、エリスの足音で判断する。

 

 エリスが棒を振った。

 

 一人の腕を弾く。

 

 だが、もう一人が横から来る。

 

 レンは身体を回した。

 

 大きく振らない。

 

 狭い道だ。

 

 長く振れば壁に当たる。

 

 木刀を短く抜き、相手の膝へ打つ。

 

 男の足が止まる。

 

 そのまま肩口へ斜めに入れる。

 

 男が呻く。

 

 だが倒れない。

 

 レンは深追いしない。

 

 エリスの位置を確認する。

 

 彼女は一人目の男と向かい合っていた。

 

 棒の扱いは荒いが、目は死んでいない。

 

 相手の腕を打ち、距離を取っている。

 

 レンは自分の前の男へ戻る。

 

 男は棍棒を振り上げた。

 

 狭い道で振り上げるには大きすぎる。

 

 壁に当たる。

 

 レンはそこを見た。

 

 棍棒が壁に掠め、軌道が少し乱れる。

 

 その瞬間、木刀を手元へ入れる。

 

 手首。

 

 肘。

 

 続けて肩。

 

 男の腕が落ちる。

 

 レンは柄で鳩尾を突いた。

 

 男が膝をつく。

 

 後ろでエリスが叫んだ。

 

「こっちは大丈夫!」

 

 その声が聞こえた直後、鈍い音がした。

 

 振り返ると、エリスの棒が男の脛を打ち、男が片膝をついていた。

 

 エリスは得意げに笑う。

 

「見た!?」

 

「見た」

 

 だが、まだ終わっていない。

 

 前方の残り二人は、ギレーヌにあっという間に倒されていた。

 

 一人は腕を押さえている。

 

 一人は地面に転がってうめいている。

 

 ギレーヌは息一つ乱していない。

 

「そこまでだ」

 

 低い声。

 

 道に静けさが戻る。

 

 男たちは完全に戦意を失っていた。

 

 すぐに近くの通りから人が集まり、衛兵が呼ばれた。

 

 ギレーヌは淡々と事情を説明する。

 

 レンは木刀を下ろし、エリスの様子を見た。

 

「怪我は?」

 

「ないわ」

 

「本当?」

 

「ないって言ってるでしょ」

 

 エリスは怒ったように言った。

 

 だが、その手は少し震えていた。

 

 レンは何も言わなかった。

 

 怖かったのだ。

 

 それは当然だ。

 

 武器を持った大人に囲まれた。

 

 自分も怖かった。

 

 怖くない方がおかしい。

 

 エリスは震える手を握りしめる。

 

「……でも、下がらなかったわ」

 

「うん」

 

「後ろ、見たわ」

 

「見てた」

 

「一人、倒した」

 

「うん」

 

 レンが頷くと、エリスは少しだけ息を吐いた。

 

 誇らしさと悔しさと怖さが混ざった顔だった。

 

 ギレーヌが戻ってくる。

 

「二人とも、悪くありませんでした」

 

 エリスの顔がぱっと明るくなる。

 

「本当!?」

 

「はい。ただし、エリス様は一歩前に出すぎです。レンはエリス様を気にして、自分の相手への止めが甘い」

 

「はい」

 

 レンは頷く。

 

 確かに、男を倒しきるより、エリスの位置を気にしていた。

 

 守るなら必要なことだ。

 

 だが、そのせいで自分の前の相手を残すのは危険でもある。

 

「守る時は、相手を倒すだけでは足りない」

 

 ギレーヌは言った。

 

「守る相手を見すぎても駄目だ。敵を見なさすぎても駄目だ。両方見る」

 

「難しいですね」

 

「だから稽古する」

 

 その言葉は、玄斎にも通じるものだった。

 

 簡単なら稽古などしない。

 

 レンは深く頷いた。

 

 ◇

 

 屋敷に戻ると、フィリップは静かに話を聞いた。

 

 エリスは自分が一人倒したことを強調した。

 

 レンは余計なことを言わず、ギレーヌが状況を説明するのを聞いていた。

 

 フィリップはしばらく考え、最後にレンを見た。

 

「レン。今日はよくやってくれた」

 

「俺は、まだ甘かったです」

 

「それを分かっているならいい」

 

 フィリップは微笑む。

 

「だが、エリスを守ろうとした。それは事実だ」

 

 レンは少し黙った。

 

 守ろうとした。

 

 その言葉は、胸に残った。

 

 前世で、自分は守ろうとして遅れた。

 

 今はどうだったのか。

 

 足は止まらなかった。

 

 だが、完璧ではない。

 

 敵を倒しきれず、エリスの手も震えていた。

 

 まだ足りない。

 

 何もかも足りない。

 

 それでも、前とは違う。

 

 レンは頭を下げた。

 

「もっと上手くやれるようになります」

 

「期待しているよ」

 

 その日の夕方、エリスはいつものように庭へ出ようとした。

 

 ギレーヌに止められた。

 

「今日は休みです」

 

「でも!」

 

「実戦の後です。身体より、頭を整理してください」

 

「頭を整理って何よ」

 

「今日、何が見えたか考えることです」

 

 エリスは不満そうだったが、反論できなかった。

 

 レンも同じだった。

 

 身体はまだ動ける。

 

 だが、今日は考えることが多かった。

 

 追うこと。

 

 守ること。

 

 見ること。

 

 町の中で戦うこと。

 

 エリスと役割を分けること。

 

 ただ強く斬るだけでは足りない。

 

 用心棒とは、敵を倒すだけではないのだ。

 

 ◇

 

 夜。

 

 レンは部屋で木刀を拭いていた。

 

 昼の戦いで、木刀には小さな傷が増えていた。

 

 棍棒とぶつかった跡。

 

 壁に軽く当たった跡。

 

 道場の庭でついた傷とは違う。

 

 外で誰かを守ろうとした傷だった。

 

 扉の外で足音がした。

 

 今日は少し静かだった。

 

「レン」

 

 エリスの声。

 

「入っていい?」

 

「どうぞ」

 

 扉が開く。

 

 エリスは昼間より少し大人しかった。

 

 部屋に入り、いつものように勝手に座る。

 

 だが、すぐには喋らなかった。

 

 レンは木刀を拭きながら待った。

 

 しばらくして、エリスが口を開く。

 

「今日、怖かった?」

 

「怖かった」

 

 レンは正直に答えた。

 

 エリスは少し驚いたように見る。

 

「あんたでも?」

 

「俺でも」

 

「ふうん」

 

 エリスは膝を抱えた。

 

「私も、ちょっとだけ怖かった」

 

「うん」

 

「でも、下がらなかった」

 

「うん」

 

「手、震えたけど」

 

「俺も震えたよ」

 

「嘘」

 

「本当」

 

 レンは手を見せた。

 

 今はもう震えていない。

 

 だが、あの時は確かに震えていた。

 

 エリスはそれを見て、少しだけ安心したような顔をした。

 

「怖くても、動けたらいいんでしょ」

 

 エリスが言った。

 

 レンは手を止めた。

 

 それは、レンがずっと胸の奥に置いている言葉に近かった。

 

 怖くても、動く。

 

 前世でできなかったこと。

 

 今度こそできるようになりたいこと。

 

「うん」

 

 レンは静かに答えた。

 

「怖くても、動けたらいい」

 

「じゃあ、今日はよかったのね」

 

「よかった。でも、足りない」

 

「それはそうね」

 

 エリスはあっさり言った。

 

「次はもっと上手くやるわ」

 

「俺も」

 

「後ろを見るの、ちょっと面白かったわ」

 

「そう?」

 

「敵が来る場所を考えるの。ギレーヌがやってたやつ」

 

「エリスは前ばかり見てたから」

 

「うるさいわね。これから見るわよ」

 

 エリスはそう言って立ち上がった。

 

 扉へ向かい、途中で振り返る。

 

「レン」

 

「何?」

 

「今日は、少しだけ用心棒っぽかったわ」

 

「少しだけ?」

 

「少しだけよ。調子に乗らないで」

 

「乗らない」

 

「明日は稽古するわよ」

 

「うん」

 

「今日の後ろを見るやつもやる」

 

「分かった」

 

 エリスは満足そうに頷き、部屋を出ていった。

 

 扉が閉まる。

 

 レンは木刀を膝に置き、静かに息を吐いた。

 

 用心棒。

 

 その言葉が胸に残る。

 

 ボレアス家の用心棒。

 

 もちろん、正式なものではない。

 

 レンはまだ子供で、見習いで、未熟だ。

 

 ギレーヌの足元にも及ばない。

 

 それでも今日、エリスの前に立った。

 

 後ろを任せた。

 

 一緒に生き残った。

 

 それは、レンにとって小さくない一歩だった。

 

 大亀流。

 

 山奥で学んだ剣は、ロアの町で少しずつ役目を持ち始めていた。

 

 斬るためだけではない。

 

 守るために。

 

 見るために。

 

 生き残るために。

 

 レン・クロガネの剣は、ボレアス家の騒がしい日々の中で、また少しだけ重さを増していった。

 

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