ボレアス家での滞在が数日を過ぎると、レンの一日はだいたい決まってきた。
朝は庭で立つ。
足裏で芝を感じる。
道場の土とは違う柔らかさ。
山道の石とは違う滑り。
屋敷の床とは違う沈み。
場所が変われば、立ち方も変わる。
玄斎に教えられたことは、山奥の道場だけで終わるものではなかった。
ボレアス家の庭でも、石畳の廊下でも、薪置き場でも、井戸端でも、同じだった。
まず立つ。
そこから歩く。
そこから斬る。
レンは毎朝、それを確かめる。
その後、ギレーヌに見られながら木刀を振る。
大亀流の五剣。
雷電型。
焔燃型。
虚空型。
水龍型。
土公型。
すべての一式を通し、時に繋ぎ、時に途中で崩される。
ギレーヌは玄斎ほど口数は多くない。
だが、見る場所は鋭かった。
「今の火柱は腕だけだ」
「はい」
「逆鱗の前に、握り替える気配が出ている」
「はい」
「影縫は、外れる前に目が逃げた」
「はい」
「荒神は力で押そうとしている。お前の体では押せない」
「はい」
短い言葉。
だが、どれも痛いところを突いてくる。
レンはそのたびに頷き、身体に刻んだ。
ギレーヌの指摘は、玄斎のそれとは違う。
玄斎は身体の根から崩してくる。
ギレーヌは、剣士としての実戦の穴を突いてくる。
どちらも必要だった。
そして、その横では必ずエリスが騒いでいた。
「次、私!」
「まだだ」
「何でよ!」
「レンの稽古中です」
「私も稽古する!」
「待つ稽古をしてください」
「嫌よ!」
朝から声が大きい。
使用人たちはもう慣れたらしく、遠くで苦笑している。
レンも慣れてきた。
エリスは本当にじっとしていられない。
木剣を持てば斬りかかりたがる。
負ければすぐもう一本と言う。
勝てば勝てばで、さらにもう一本と言う。
結局、いつでももう一本なのだ。
だが、その分だけ伸びる。
昨日できなかった踏み込みを、今日少し直してくる。
昨日引っかかった外しを、今日見ようとしてくる。
怒りながら、悔しがりながら、それでも学んでいる。
狂犬。
屋敷の誰かがそう呼んだのも分かる。
だが、レンは最近、それだけではないと思い始めていた。
エリスは噛みつく。
吠える。
前へ出る。
だが、ただ暴れているだけではない。
強くなりたいという気持ちが、全身から溢れている。
それは、レンにもよく分かるものだった。
◇
その日の稽古は、いつもより早く切り上げられた。
ギレーヌが木剣を下ろし、レンとエリスを見る。
「今日は町へ出る」
エリスの目が輝いた。
「町!?」
「遊びではありません」
「分かってるわよ!」
絶対に分かっていない顔だった。
ギレーヌはそれを見ても、表情を変えない。
「フィリップ様の使いです。商会へ届け物をする。エリス様も同行します」
「私が?」
「はい。礼儀と町歩きの勉強も兼ねています」
「面倒ね!」
「必要です」
エリスは不満そうに腕を組んだ。
だが、町へ出られること自体は嬉しいらしい。
そわそわしている。
ギレーヌは次にレンを見た。
「レンも来い」
「俺もですか」
「お前はエリス様の近くにいろ」
レンは少し意外だった。
「護衛ですか」
「半分はな」
「もう半分は?」
「町での立ち回りを見る」
ギレーヌは淡々と言った。
「庭の稽古と町中は違う。人がいる。馬車がある。壁がある。逃げ道も、死角もある。そこでどう立つかを見る」
レンは頷いた。
道場では一対一の稽古が多かった。
庭では広い場所で動ける。
だが、町中では違う。
周囲に人がいる。
不用意に木刀を振れば、守るべき相手を巻き込む。
突っ込めば、背後が空く。
追えば、誘い込まれる。
戦うだけではない。
守る。
見る。
避ける。
通す。
そういうことも必要になる。
玄斎にも言われた。
剣は、斬るだけではない。
レンは木刀を腰に差した。
「分かりました」
エリスがにやりと笑う。
「私を守るの?」
「必要なら」
「私の方が強いわよ!」
「そういう時もある」
「何よ、その言い方!」
「全部じゃないから」
「生意気!」
エリスが拳を握る。
だが、ギレーヌの視線を受けて、しぶしぶ下ろした。
「町では勝手に暴れないでください」
「暴れないわよ!」
ギレーヌとレンは同時にエリスを見た。
「何よ!」
◇
ロアの町は、前に来た時と同じように騒がしかった。
馬車が通る。
商人が声を張る。
荷運びの男たちが大きな箱を担ぐ。
子供たちが路地を走る。
香辛料、焼き肉、馬、革、汗。
いくつもの匂いが混ざっている。
だが、最初に来た時とは見え方が違った。
あの時は、ただ大きな町だと思った。
今は、道の流れが見える。
人がどちらへ避けるか。
馬車がどの角度で曲がるか。
武器を持つ者がどれくらいいるか。
酔った男がどこに立っているか。
露店の箱が邪魔になる場所。
逃げるなら通れる路地。
逆に、入ると詰まる狭い道。
ギレーヌは前を歩く。
その少し後ろをエリス。
レンはエリスの斜め後ろについた。
真正面ではない。
すぐ横でもない。
エリスの動きが見えて、前も後ろも確認できる位置。
エリスは不満そうに言う。
「何で後ろなのよ!」
「前はギレーヌさんがいる」
「横に来なさいよ!」
「横だと後ろが見えない」
「ふうん」
分かったのか分かっていないのか、エリスはそれ以上言わなかった。
ただ、歩くたびに店先へ目を奪われている。
菓子。
布。
装飾品。
武器。
特に武器屋の前では足が止まりかけた。
ギレーヌが即座に言う。
「寄りません」
「まだ何も言ってないわよ!」
「顔に出ています」
「むう」
エリスは唇を尖らせる。
レンは少し笑いそうになったが、我慢した。
町では油断できない。
そう思った矢先だった。
前方の人混みが、わずかに乱れた。
誰かがぶつかった。
小さな悲鳴。
次いで、露店の主人が声を上げる。
「おい、待て!」
一人の少年が人混みの間をすり抜けて走っていた。
歳はレンたちより少し上。
手には小さな袋。
財布か、商品か。
盗みだ。
エリスが反射的に動いた。
「捕まえるわ!」
レンはその腕を掴んだ。
「待って」
「何でよ!」
「人が多い」
「逃げられるじゃない!」
「追うとぶつかる」
エリスは振りほどこうとした。
だが、レンは腕を強く掴むのではなく、身体ごと前へ出られない位置へずらした。
力で止めると暴れる。
動きたい方向を塞げば、一瞬止まる。
その間に、ギレーヌが動いた。
走らない。
歩くように見えた。
だが、速い。
人と人の隙間を縫い、少年の逃げ道へ先回りする。
少年は路地へ入ろうとした。
その入口に、ギレーヌが立っていた。
少年がぎょっとして止まる。
逃げようと振り返る。
そこへ、露店の主人と衛兵が追いついた。
あっという間だった。
エリスはぽかんとしていた。
「走ってないのに」
「逃げ道を見てたんだと思う」
レンが言うと、エリスは眉を寄せる。
「何で分かるのよ」
「俺も追うならあの路地だと思った」
「じゃあ追えばよかったじゃない」
「エリスが走ったら、あの荷車にぶつかってた」
レンが示すと、ちょうど近くを荷車が通っていた。
大きな木箱を積んでいる。
エリスが全力で飛び出していれば、確かに危なかった。
エリスは少しだけ黙った。
「……でも、捕まえられたかもしれないわ」
「捕まえた後、周りを巻き込むかもしれない」
「む」
「ギレーヌさんは、追う前に道を見てた」
エリスは悔しそうにギレーヌの背を見る。
盗んだ少年は衛兵に引き渡され、袋は露店の主人へ戻された。
ギレーヌは何事もなかったように帰ってくる。
「今のを見たか」
「見たわ」
エリスが不満そうに答える。
「なぜ止められた」
「……人が多いから」
「それだけではありません」
ギレーヌはレンを見る。
「レン」
「逃げ道ですか」
「そうだ」
ギレーヌは頷いた。
「相手がどこへ逃げるか。自分が走れば誰にぶつかるか。守る相手がどこにいるか。町中で剣を抜く前に、見るものは多い」
レンは深く頷いた。
エリスは不満そうだったが、黙って聞いていた。
それだけでも成長なのだろう。
◇
商会での用事は、レンにはよく分からなかった。
ギレーヌが持っていた書状を渡し、商人がそれを読み、何かを書きつける。
エリスは途中で飽きていた。
椅子に座り、足を揺らし、壁に飾られた絵を睨んでいる。
レンは部屋の隅に立っていた。
ここでも、足元を感じる。
床は石。
硬い。
声がよく響く。
窓は二つ。
扉は一つ。
商人の後ろに帳簿棚。
護衛らしき男が一人。
武器は腰の短剣。
商人の手元には羽ペン。
戦う場所ではない。
だが、何かあれば机が邪魔になる。
窓からは出にくい。
扉を塞がれれば詰まる。
そんなことを考えていたら、エリスが小声で言った。
「あんた、何見てるの」
「部屋」
「部屋?」
「出入り口とか、邪魔な物とか」
「何で?」
「ギレーヌさんが、町での立ち回りを見るって言ったから」
「真面目ね」
「エリスも見た方がいい」
「私は退屈」
「退屈でも見る」
「イヤ」
「じゃあ、敵が来たらどうするの」
「斬る」
「机が邪魔だったら?」
「蹴飛ばす」
「人がいたら?」
「どかす」
「どかす前に斬られたら?」
エリスは黙った。
そして、むっとした顔で部屋を見る。
「……扉は一つね」
「うん」
「窓は二つ。でも、あれは小さいから出にくい」
「うん」
「あの男、短剣持ってる」
「見えてるね」
「当然よ」
エリスは少し得意げだった。
だが、すぐに小声で付け加える。
「……こういうのも稽古なの?」
「たぶん」
「また、たぶん」
「でも、役に立つと思う」
エリスは不満そうにしながらも、それからは部屋を少し観察していた。
商談の内容には興味がないらしい。
しかし、どこに誰がいるかは見ようとしている。
レンはそれを見て、少しだけ嬉しくなった。
エリスは本当に、強くなることに関しては素直だ。
◇
商会を出る頃には、昼を過ぎていた。
通りはさらに混んでいる。
ギレーヌは帰り道を少し変えた。
大通りではなく、一本外れた道を通る。
人通りはあるが、先ほどより少ない。
エリスは文句を言う。
「何でこっちなのよ。あっちに菓子の店があったのに」
「寄りません」
「一つだけ!」
「駄目です」
「けち!」
このやり取りにも、レンは慣れてきた。
だが、次の角を曲がった瞬間、空気が少し変わった。
狭い道。
左右には倉庫のような建物。
人通りは少ない。
前方に男が三人。
後ろにも二人。
偶然にしては、位置が悪かった。
ギレーヌは足を止めた。
レンも止まる。
エリスは一歩遅れて気づいた。
「何?」
「下がらないで」
レンは小さく言った。
「でも、前に」
「前も後ろもいる」
エリスの目が鋭くなる。
騒がない。
それは意外だった。
彼女なりに、さっきの町歩きで学んだのかもしれない。
前方の男の一人が、にやにや笑った。
「お嬢様方、迷子かい?」
安っぽい声だった。
腰に短剣。
手には棍棒。
後ろの二人も、布に包んだ何かを持っている。
ただの酔っ払いではない。
最初から囲むつもりで立っている。
ギレーヌは低く言った。
「エリス様を下げろ」
「はい」
レンはエリスの斜め前に出た。
ただし、彼女の視界を塞ぎきらない。
エリスは小声で言う。
「私も戦えるわ」
「知ってる」
「じゃあ」
「でも、今は守られる位置にいて」
エリスが何か言い返そうとした。
だが、レンは続けた。
「俺が前を見る。エリスは後ろを見て」
その言葉に、エリスの表情が変わった。
ただ下がれではない。
役割を渡された。
そう理解したらしい。
彼女は木剣を持っていない。
町中なので、今日は護身用の短い棒だけを持っていた。
それを握り、後ろの二人を見る。
「分かったわ」
ギレーヌは前の三人へ向かって歩き出した。
それだけで、男たちの笑みが少し引きつる。
彼らも馬鹿ではない。
ギレーヌの雰囲気が普通ではないと気づいたのだ。
だが、引くには遅かった。
前の一人が短剣を抜く。
「止まれ!」
ギレーヌは止まらない。
短剣の男が突っ込む。
次の瞬間、男は地面に転がっていた。
レンには、ほとんど見えなかった。
ギレーヌの木剣が男の手首を打ち、足を払った。
それだけに見えた。
だが、速さも重さも桁が違う。
残り二人が怯む。
その一瞬で、後ろの二人が動いた。
エリスを狙ってくる。
レンは振り返らない。
背中の気配と、エリスの足音で判断する。
エリスが棒を振った。
一人の腕を弾く。
だが、もう一人が横から来る。
レンは身体を回した。
大きく振らない。
狭い道だ。
長く振れば壁に当たる。
木刀を短く抜き、相手の膝へ打つ。
男の足が止まる。
そのまま肩口へ斜めに入れる。
男が呻く。
だが倒れない。
レンは深追いしない。
エリスの位置を確認する。
彼女は一人目の男と向かい合っていた。
棒の扱いは荒いが、目は死んでいない。
相手の腕を打ち、距離を取っている。
レンは自分の前の男へ戻る。
男は棍棒を振り上げた。
狭い道で振り上げるには大きすぎる。
壁に当たる。
レンはそこを見た。
棍棒が壁に掠め、軌道が少し乱れる。
その瞬間、木刀を手元へ入れる。
手首。
肘。
続けて肩。
男の腕が落ちる。
レンは柄で鳩尾を突いた。
男が膝をつく。
後ろでエリスが叫んだ。
「こっちは大丈夫!」
その声が聞こえた直後、鈍い音がした。
振り返ると、エリスの棒が男の脛を打ち、男が片膝をついていた。
エリスは得意げに笑う。
「見た!?」
「見た」
だが、まだ終わっていない。
前方の残り二人は、ギレーヌにあっという間に倒されていた。
一人は腕を押さえている。
一人は地面に転がってうめいている。
ギレーヌは息一つ乱していない。
「そこまでだ」
低い声。
道に静けさが戻る。
男たちは完全に戦意を失っていた。
すぐに近くの通りから人が集まり、衛兵が呼ばれた。
ギレーヌは淡々と事情を説明する。
レンは木刀を下ろし、エリスの様子を見た。
「怪我は?」
「ないわ」
「本当?」
「ないって言ってるでしょ」
エリスは怒ったように言った。
だが、その手は少し震えていた。
レンは何も言わなかった。
怖かったのだ。
それは当然だ。
武器を持った大人に囲まれた。
自分も怖かった。
怖くない方がおかしい。
エリスは震える手を握りしめる。
「……でも、下がらなかったわ」
「うん」
「後ろ、見たわ」
「見てた」
「一人、倒した」
「うん」
レンが頷くと、エリスは少しだけ息を吐いた。
誇らしさと悔しさと怖さが混ざった顔だった。
ギレーヌが戻ってくる。
「二人とも、悪くありませんでした」
エリスの顔がぱっと明るくなる。
「本当!?」
「はい。ただし、エリス様は一歩前に出すぎです。レンはエリス様を気にして、自分の相手への止めが甘い」
「はい」
レンは頷く。
確かに、男を倒しきるより、エリスの位置を気にしていた。
守るなら必要なことだ。
だが、そのせいで自分の前の相手を残すのは危険でもある。
「守る時は、相手を倒すだけでは足りない」
ギレーヌは言った。
「守る相手を見すぎても駄目だ。敵を見なさすぎても駄目だ。両方見る」
「難しいですね」
「だから稽古する」
その言葉は、玄斎にも通じるものだった。
簡単なら稽古などしない。
レンは深く頷いた。
◇
屋敷に戻ると、フィリップは静かに話を聞いた。
エリスは自分が一人倒したことを強調した。
レンは余計なことを言わず、ギレーヌが状況を説明するのを聞いていた。
フィリップはしばらく考え、最後にレンを見た。
「レン。今日はよくやってくれた」
「俺は、まだ甘かったです」
「それを分かっているならいい」
フィリップは微笑む。
「だが、エリスを守ろうとした。それは事実だ」
レンは少し黙った。
守ろうとした。
その言葉は、胸に残った。
前世で、自分は守ろうとして遅れた。
今はどうだったのか。
足は止まらなかった。
だが、完璧ではない。
敵を倒しきれず、エリスの手も震えていた。
まだ足りない。
何もかも足りない。
それでも、前とは違う。
レンは頭を下げた。
「もっと上手くやれるようになります」
「期待しているよ」
その日の夕方、エリスはいつものように庭へ出ようとした。
ギレーヌに止められた。
「今日は休みです」
「でも!」
「実戦の後です。身体より、頭を整理してください」
「頭を整理って何よ」
「今日、何が見えたか考えることです」
エリスは不満そうだったが、反論できなかった。
レンも同じだった。
身体はまだ動ける。
だが、今日は考えることが多かった。
追うこと。
守ること。
見ること。
町の中で戦うこと。
エリスと役割を分けること。
ただ強く斬るだけでは足りない。
用心棒とは、敵を倒すだけではないのだ。
◇
夜。
レンは部屋で木刀を拭いていた。
昼の戦いで、木刀には小さな傷が増えていた。
棍棒とぶつかった跡。
壁に軽く当たった跡。
道場の庭でついた傷とは違う。
外で誰かを守ろうとした傷だった。
扉の外で足音がした。
今日は少し静かだった。
「レン」
エリスの声。
「入っていい?」
「どうぞ」
扉が開く。
エリスは昼間より少し大人しかった。
部屋に入り、いつものように勝手に座る。
だが、すぐには喋らなかった。
レンは木刀を拭きながら待った。
しばらくして、エリスが口を開く。
「今日、怖かった?」
「怖かった」
レンは正直に答えた。
エリスは少し驚いたように見る。
「あんたでも?」
「俺でも」
「ふうん」
エリスは膝を抱えた。
「私も、ちょっとだけ怖かった」
「うん」
「でも、下がらなかった」
「うん」
「手、震えたけど」
「俺も震えたよ」
「嘘」
「本当」
レンは手を見せた。
今はもう震えていない。
だが、あの時は確かに震えていた。
エリスはそれを見て、少しだけ安心したような顔をした。
「怖くても、動けたらいいんでしょ」
エリスが言った。
レンは手を止めた。
それは、レンがずっと胸の奥に置いている言葉に近かった。
怖くても、動く。
前世でできなかったこと。
今度こそできるようになりたいこと。
「うん」
レンは静かに答えた。
「怖くても、動けたらいい」
「じゃあ、今日はよかったのね」
「よかった。でも、足りない」
「それはそうね」
エリスはあっさり言った。
「次はもっと上手くやるわ」
「俺も」
「後ろを見るの、ちょっと面白かったわ」
「そう?」
「敵が来る場所を考えるの。ギレーヌがやってたやつ」
「エリスは前ばかり見てたから」
「うるさいわね。これから見るわよ」
エリスはそう言って立ち上がった。
扉へ向かい、途中で振り返る。
「レン」
「何?」
「今日は、少しだけ用心棒っぽかったわ」
「少しだけ?」
「少しだけよ。調子に乗らないで」
「乗らない」
「明日は稽古するわよ」
「うん」
「今日の後ろを見るやつもやる」
「分かった」
エリスは満足そうに頷き、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
レンは木刀を膝に置き、静かに息を吐いた。
用心棒。
その言葉が胸に残る。
ボレアス家の用心棒。
もちろん、正式なものではない。
レンはまだ子供で、見習いで、未熟だ。
ギレーヌの足元にも及ばない。
それでも今日、エリスの前に立った。
後ろを任せた。
一緒に生き残った。
それは、レンにとって小さくない一歩だった。
大亀流。
山奥で学んだ剣は、ロアの町で少しずつ役目を持ち始めていた。
斬るためだけではない。
守るために。
見るために。
生き残るために。
レン・クロガネの剣は、ボレアス家の騒がしい日々の中で、また少しだけ重さを増していった。