無職転生×異伝   作:からし明太子

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第十二話 ルーデウス・グレイラット

 

 

 ボレアス家の屋敷に、家庭教師が来る。

 

 そう聞かされた時、エリスは露骨に嫌な顔をした。

 

「家庭教師?」

 

 朝の庭。

 

 いつものように木剣を持っていたエリスは、フィリップの言葉に眉を吊り上げた。

 

「勉強の先生ってこと?」

 

「そうだ」

 

 フィリップは穏やかに頷く。

 

「読み書き、算術、歴史、礼儀。そして魔術も教えられる子だ」

 

「子?」

 

 エリスが顔をしかめる。

 

「大人じゃないの?」

 

「君たちと歳は近い」

 

「そんなのに教わるの?」

 

「実力はあると聞いている」

 

「嫌よ」

 

 即答だった。

 

 フィリップは慣れているのか、表情を変えない。

 

「嫌でも必要だよ」

 

「私は剣の稽古をするわ」

 

「剣だけでは貴族として困る」

 

「困らないわ。強ければいいもの」

 

「強いだけでは済まないこともある」

 

「じゃあ、ギレーヌに教えてもらう」

 

「ギレーヌは剣の先生だ」

 

 エリスは不満そうに頬を膨らませた。

 

 レンは少し離れた場所で木刀を持ったまま、そのやり取りを聞いていた。

 

 家庭教師。

 

 勉強。

 

 その単語に、前世の記憶が少しだけ疼く。

 

 学校の教室。

 

 黒板。

 

 ノート。

 

 先生の声。

 

 剣道部の稽古。

 

 通り魔。

 

 雨。

 

 レンはすぐにその記憶を奥へ押し込んだ。

 

 今はここだ。

 

 フィットア領ロア。

 

 ボレアス家の庭。

 

 自分はレン・クロガネで、大亀流の見習いだ。

 

 エリスはまだ文句を言っている。

 

「だいたい、歳が近いなら私より強いの?」

 

「魔術では強いだろうね」

 

「剣は?」

 

「剣は専門ではないだろうし」

 

「じゃあ駄目じゃない」

 

「なぜだい」

 

「私より弱い相手の言うことなんて聞きたくないわ」

 

 あまりにもエリスらしい理屈だった。

 

 フィリップは小さく息を吐く。

 

 ギレーヌは腕を組んで黙っている。

 

 レンは少しだけ苦笑した。

 

 エリスの基準は分かりやすい。

 

 強いか。

 

 弱いか。

 

 前に出るか。

 

 逃げるか。

 

 それだけで人を見る。

 

 悪いところでもあり、真っ直ぐなところでもある。

 

 フィリップがレンを見た。

 

「レン君」

 

「はい」

 

「君はどう思うかな?」

 

「俺ですか」

 

「エリスと歳が近い者としてね」

 

 急に話を振られ、レンは少し考えた。

 

 エリスがじろりと見る。

 

「変なこと言ったら殴るわよ」

 

「それ、聞く態度じゃないと思う」

 

「うるさい!」

 

 レンは木刀を腰に戻し、正直に答えた。

 

「強いかどうかは、会ってみないと分かりません。でも、魔術を教えられるなら、エリスは見た方がいいと思います」

 

「何でよ!」

 

「知らない強さだから」

 

 エリスが黙る。

 

「剣とは違う強さがあるなら、見ないと分からない。俺も魔術はよく分からないから、見たいです」

 

 これは本音だった。

 

 この世界に魔術があることは、孤児院にいた頃から知っている。

 

 道中でも、何度か魔術師を見たことがある。

 

 だが、ちゃんと学んだことはない。

 

 大亀流道場では、剣と身体操作が中心だった。

 

 魔術は遠いものだった。

 

 だが、この世界で生きるなら、知らないままではいられない。

 

 剣士が魔術を知らなければ、魔術師を相手にした時に死ぬ。

 

 エリスは不満そうにしながらも、レンの言葉には少し反応していた。

 

「知らない強さ……」

 

「うん」

 

「そいつ、本当に強いの?」

 

 フィリップは微笑んだ。

 

「それは、本人に会えば分かるだろうね」

 

 ◇

 

 家庭教師が屋敷に来たのは、その日の昼過ぎだった。

 

 広い応接室。

 

 フィリップ、ギレーヌ、エリス、そしてレンが待っていた。

 

 本来ならレンが同席する必要はなかったのかもしれない。

 

 だが、エリスが「レンも見る」と言い張った。

 

 フィリップは少し考えた後、許した。

 

 ギレーヌは何も言わなかった。

 

 扉が開く。

 

 入ってきたのは、少年だった。

 

 茶色の髪。

 

 整った顔立ち。

 

 年はレンたちとそう変わらない。

 

 だが、目が妙に落ち着いている。

 

 子供らしい顔をしているのに、視線の奥だけが少し違う。

 

 レンはその瞬間、言葉にしにくい違和感を覚えた。

 

 何かが変だ。

 

 強い剣士を見た時の感覚とは違う。

 

 魔力の圧でもない。

 

 立ち方が達人というわけでもない。

 

 だが、目が合った瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。

 

 少年も、レンを見て一瞬だけ動きを止めた。

 

 本当に一瞬。

 

 すぐに礼儀正しく頭を下げる。

 

「ルーデウス・グレイラットです。本日より、エリス様の家庭教師を務めさせていただきます」

 

 丁寧な挨拶だった。

 

 子供のものとは思えないほど整っている。

 

 エリスは最初から腕を組み、不機嫌そうに睨んでいた。

 

「ふうん。あんたが先生?」

 

「はい。よろしくお願いします」

 

「私より小さいじゃない!」

 

「年齢は近いと思います」

 

「強いの?」

 

 いきなりだった。

 

 ルーデウスは少しだけ目を瞬かせる。

 

 だが、すぐに柔らかく笑った。

 

「剣では、たぶん弱いです」

 

「じゃあ駄目ね!」

 

「魔術なら、少しはお役に立てるかと」

 

「少し?」

 

「それなりに」

 

 その控えめな言い方に、エリスはますます眉を寄せた。

 

「はっきりしないわね!」

 

「すみません」

 

「謝ればいいってものじゃないわ!」

 

 初対面から噛みついている。

 

 レンは内心で、やっぱりと思った。

 

 フィリップは穏やかに場を整える。

 

「エリス。まずは話を聞きなさい」

 

「だって弱そうなんだもの!」

 

「魔術の腕を見る場を用意してある」

 

「本当?」

 

「ああ。庭へ行こう」

 

 エリスの目が少しだけ輝いた。

 

 結局、力を見せれば話が早い。

 

 ボレアス家では、それが一番通じるらしい。

 

 ◇

 

 庭に出ると、使用人たちが少し離れた場所に的を用意していた。

 

 木の板を重ねた簡単な的。

 

 その向こうには土を盛った場所がある。

 

 魔術を試すための場所らしい。

 

 ルーデウスは庭の中央へ進んだ。

 

 歩き方は剣士のものではない。

 

 足運びも普通。

 

 少なくとも、レンにはそう見えた。

 

 だが、落ち着いている。

 

 子供が大貴族の屋敷で、初対面の相手に囲まれ、実力を見せろと言われている。

 

 普通ならもっと緊張する。

 

 ルーデウスは緊張していないわけではない。

 

 だが、慣れているようにも見えた。

 

 レンはそれを妙に感じた。

 

 エリスが横で小声を出す。

 

「魔術って、何ができるの?」

 

「知らない」

 

「知らないの?」

 

「俺は剣ばかりだったから」

 

「じゃあ、あんたも見たいのね!」

 

「うん」

 

「ふん。私の方が先に見抜くわ!」

 

「何を?」

 

「すごいかどうかよ!」

 

 エリスは本気だった。

 

 レンは少し笑った。

 

 ギレーヌは黙ってルーデウスを見ている。

 

 剣士としてではなく、護衛として。

 

 魔術師が何をするかを見ている目だった。

 

 ルーデウスは的の前に立ち、片手を軽く上げた。

 

 詠唱はなかった。

 

 少なくとも、レンには何も聞こえなかった。

 

 次の瞬間、水の塊が生まれた。

 

 空中に。

 

 手の先に。

 

 それは拳ほどの大きさから、瞬く間に人の頭ほどになり、回転しながら形を変えた。

 

 水。

 

 だが、ただの水ではない。

 

 ぎゅっと固められた、重さを持った水。

 

 ルーデウスが手を動かす。

 

 水弾が的へ飛んだ。

 

 破裂音。

 

 木の板が弾けた。

 

 エリスが目を見開いた。

 

 レンも息を呑んだ。

 

 速い。

 

 そして、何より予備動作が少ない。

 

 剣で言えば、構えから打ち込みまでが異様に短い。

 

 しかも間合いが遠い。

 

 こちらの木刀が届かない距離から、あの威力を撃てる。

 

 ルーデウスは続けた。

 

 今度は土が盛り上がる。

 

 的の足元が沈む。

 

 次に、風が走った。

 

 割れた木片が空中で弾かれる。

 

 最後に、炎が小さく灯った。

 

 それは大きな火球ではなかった。

 

 だが、指先に生まれた炎は安定していた。

 

 ルーデウスはそれをすぐに消す。

 

「この程度でよろしいでしょうか」

 

 静かな声だった。

 

 エリスは黙っていた。

 

 珍しい。

 

 レンも黙っていた。

 

 魔術。

 

 話には聞いていた。

 

 見たこともある。

 

 だが、こうして目の前で、これほど滑らかに操られると、別物だった。

 

 剣と違う。

 

 踏み込みがない。

 

 刃筋もない。

 

 間合いの考え方も違う。

 

 だが、戦いだ。

 

 あれが自分へ向けられれば、どうする。

 

 避ける。

 

 間合いを詰める。

 

 詠唱や予備動作を読む。

 

 いや、今のルーデウスには詠唱がなかった。

 

 なら、手の動きか。

 

 視線か。

 

 呼吸か。

 

 魔力の流れは読めるのか。

 

 分からない。

 

 分からないことが多すぎる。

 

 レンの胸が少し熱くなった。

 

 知らない強さ。

 

 その言葉の通りだった。

 

 エリスがようやく口を開く。

 

「もう一回よ!」

 

 ルーデウスは少し困った顔をした。

 

「何をでしょう」

 

「今の水のやつ、もう一回やりなさい!」

 

「水弾ですか」

 

「そうよ!」

 

 ルーデウスはフィリップを見る。

 

 フィリップが頷く。

 

 もう一度、水弾が放たれた。

 

 今度はエリスが目を凝らしている。

 

 レンも見る。

 

 手。

 

 目。

 

 肩。

 

 足。

 

 呼吸。

 

 剣士を見る時と同じように見る。

 

 だが、剣士とは違う。

 

 力の起こりが分からない。

 

 ただ、水が生まれ、飛ぶ。

 

 それだけに見える。

 

 ギレーヌが低く言った。

 

「無詠唱か」

 

「はい」

 

 ルーデウスは頷く。

 

「まだ未熟ですが」

 

 未熟。

 

 その言葉に、レンは少し違和感を覚えた。

 

 今の魔術が未熟なら、熟練者は何をするのか。

 

 エリスは唇を尖らせた。

 

「ずるいわね!」

 

「ずるい、ですか」

 

「遠くから攻撃できるじゃない!」

 

「剣も近づけば強いと思います」

 

「近づく前に撃たれるじゃない!」

 

「近づかれたら困ります」

 

「じゃあ、近づけばいいのね!」

 

 エリスは単純に結論を出した。

 

 そして、木剣を取りに行こうとした。

 

 ギレーヌが即座に止める。

 

「エリス様」

 

「何よ!」

 

「今は手合わせの時間ではありません」

 

「でも、近づけるか試さないと!」

 

「後でです」

 

「後でっていつ?」

 

「まず授業の説明が先です」

 

 エリスは不満そうに唸った。

 

 ルーデウスは少し苦笑している。

 

 その顔は、年相応にも見える。

 

 だが、時折見える目の奥がやはり変だった。

 

 レンは黙ってルーデウスを見ていた。

 

 その視線に気づいたのか、ルーデウスがこちらを見る。

 

「君が、レン・クロガネ君?」

 

「はい」

 

「エリス様を助けたと聞きました」

 

「結果的にです」

 

「謙遜?」

 

「本当に結果的に」

 

 ルーデウスは少し笑った。

 

「大亀流……、でしたっけ」

 

 その呼び方は正しかった。

 

 さっきフィリップやギレーヌが言っていたのを聞いたのだろう。

 

 だが、レンは別のところに引っかかった。

 

 ルーデウスは「クロガネ」という姓を聞いた時、一瞬だけ反応した。

 

 そして今、オオガメリュウという響きを、妙に丁寧に口にした。

 

 まるで、知らないはずの何かを確かめるように。

 

「そうです」

 

 レンは答えた。

 

「山奥の流派です」

 

「へえ。どんな剣なんですか」

 

「身体操作を重視します。五つの型があって、俺はまだ入口です」

 

「五つの型……」

 

 ルーデウスは何かを考えたようだった。

 

 その目が、また妙に大人びる。

 

 レンは胸の奥がざわつくのを感じた。

 

 この少年は、どこか自分と似ている。

 

 いや、似ていると決めるには早い。

 

 だが、同じような違和感がある。

 

 子供の身体に、子供ではない何かが混ざっている。

 

 そう感じた。

 

 ルーデウスも、レンを見て何かを探っているようだった。

 

 エリスが二人の間に割り込んだ。

 

「何見つめ合ってるのよ!」

 

「見つめ合ってない」

 

 レンが答える。

 

 ルーデウスも慌てて笑った。

 

「そうですね。初対面なので、少し気になっただけです」

 

「ふうん」

 

 エリスは不満そうにルーデウスを見る。

 

「それより、あんた本当に先生なの?」

 

「一応、その予定です」

 

「剣は弱いのに?」

 

「魔術と勉強の先生ですから」

 

「勉強はイヤよ!」

 

「そうですか」

 

「そうよ!」

 

「でも、できるようになると便利ですよ」

 

「何が?」

 

「騙されにくくなります」

 

 エリスが止まった。

 

 レンも少し驚いた。

 

 ルーデウスは穏やかな顔で続ける。

 

「字が読めれば、何が書いてあるか分かります。数が分かれば、損をしたかどうか分かります。歴史を知れば、相手が何を大事にしているか分かります。礼儀を知れば、怒らせてはいけない相手を怒らせずに済みます」

 

 エリスは眉を寄せる。

 

「つまり、勉強すれば喧嘩で有利ってこと?」

 

「喧嘩に限らず、ですけど……まあ、そういう場面もあるかもしれません」

 

「なら、少し聞くわ!」

 

 フィリップが満足そうに微笑んだ。

 

 ギレーヌも少しだけ感心したように見える。

 

 レンはルーデウスを見た。

 

 上手い。

 

 エリス相手に、勉強しろと正面から言っても通じない。

 

 だが「騙されない」「有利になる」と言えば、彼女は聞く。

 

 ルーデウスはそれを初対面で見抜いた。

 

 ただ魔術ができるだけではない。

 

 人を見るのも上手い。

 

 それも、子供らしくない。

 

 ◇

 

 最初の授業は、屋敷の一室で行われた。

 

 本来なら、エリスだけが受けるはずだった。

 

 だが、フィリップの提案で、レンも一緒に座ることになった。

 

「君も読み書きや算術を学んでおいて損はないだろう」

 

 その言葉に、レンは断れなかった。

 

 実際、必要だった。

 

 この世界の文字は読める。

 

 道場でも最低限は教わった。

 

 しかし、きちんと学んだわけではない。

 

 旅をするなら、依頼書や地図、値段、契約を読めなければ困る。

 

 剣だけでは生きていけない。

 

 エリスは不満そうだったが、レンが隣に座ると少しだけ機嫌を直した。

 

「勝負よ!」

 

「何の?」

 

「どっちが早く覚えるか!」

 

「勉強も勝負なんだ」

 

「当然でしょ!」

 

 ルーデウスは苦笑しながら、板に文字を書いた。

 

 まずは基本的な読み。

 

 次に簡単な計算。

 

 エリスは最初の十数分で飽きかけた。

 

 椅子の上で足を動かし、筆を回し、窓の外を見る。

 

 ルーデウスはそれを見て、すぐ問題の出し方を変えた。

 

「では、エリス様が街でリンゴを十個買うとします」

 

「十個もいらないわ!」

 

「では肉串を十本」

 

「それならいるわね!」

 

「一本が銅貨二枚なら、十本でいくらでしょう」

 

「二十枚よ!」

 

 即答だった。

 

「では、店主が二十五枚と言ったら?」

 

「殴る!」

 

「殴る前に、間違いを指摘しましょう」

 

「殴った方が早いわ!」

 

「相手が大人なら?」

 

「ギレーヌを呼ぶ!」

 

「ギレーヌさんがいなかったら?」

 

 エリスが詰まる。

 

 レンは横で少し笑いそうになった。

 

 ルーデウスは上手く、エリスが興味を持つ形に話を変えている。

 

 勉強というより、実戦の準備のようにしているのだ。

 

 レンも問題を解く。

 

 前世の記憶がある分、算術は苦ではない。

 

 だが、この世界の文字や単位には慣れが必要だった。

 

 ルーデウスはレンの答えを見て、少しだけ目を細めた。

 

「レン君、計算が早いですね」

 

「道場で少し習ったので」

 

「それだけですか?」

 

 軽い問い。

 

 だが、探るような響きがあった。

 

 レンは顔を上げる。

 

 ルーデウスと目が合った。

 

 一瞬、空気が静かになる。

 

 エリスが不満そうに言う。

 

「何よ。また二人で変な顔して」

 

「何でもない」

 

 レンは答えた。

 

 ルーデウスも笑う。

 

「そうですね。少し感心しただけです」

 

 その場は流れた。

 

 だが、レンの中の違和感は強くなった。

 

 ルーデウスは何かを隠している。

 

 そしてたぶん、自分も同じだと思われている。

 

 それが何なのか。

 

 今はまだ聞けない。

 

 聞けば、自分のことも話さなければならない。

 

 神代蓮。

 

 前世。

 

 雨の日。

 

 日本。

 

 その言葉を、レンはまだ誰にも話していない。

 

 玄斎や宗一郎には、剣道や日本という言葉が漏れたことがある。

 

 だが、詳しくは話していない。

 

 ここで話すには早い。

 

 ルーデウスも、たぶん同じように考えている。

 

 ◇

 

 授業の後、エリスはぐったりしていた。

 

「剣の方が楽」

 

「ずっと座ってるの苦手そうだね」

 

 レンが言うと、エリスは机に突っ伏したまま答えた。

 

「嫌い」

 

「でも、計算は早かった」

 

「肉串の話ならね」

 

「じゃあ、全部肉串で覚えればいい」

 

「それはいいわね」

 

 冗談のつもりだったが、エリスは少し本気で頷いていた。

 

 ルーデウスは教材を片付けながら笑っている。

 

「次回は、買い物の計算を多めにしましょうか」

 

「肉串で?」

 

「肉串で」

 

「ならやるわ」

 

 これでいいのだろうか。

 

 レンは少し疑問に思ったが、エリスがやる気になっているならいいのかもしれない。

 

 エリスは立ち上がる。

 

「じゃあ、次は庭!」

 

「まだやるんですか」

 

 ルーデウスが驚く。

 

「当たり前でしょ。勉強したら剣を振らないと身体が鈍るわ」

 

「そういうものなんですね」

 

「そういうものよ」

 

 エリスは断言した。

 

 レンは少しだけ頷いた。

 

 座りっぱなしの後に身体を動かしたくなる気持ちは分かる。

 

 庭に出ると、ギレーヌが待っていた。

 

 エリスは木剣を持つ。

 

 レンも木刀を持つ。

 

 ルーデウスは少し離れた場所で見学することになった。

 

 エリスはルーデウスに向かって言う。

 

「よく見てなさい。これが剣よ」

 

「はい。勉強させてもらいます」

 

「本当に分かるの?」

 

「たぶん」

 

 ルーデウスは穏やかに答えた。

 

 エリスはふんと鼻を鳴らし、レンへ向き直る。

 

「今日は三本」

 

「いつも三本」

 

「今日は先生も見てるから、負けないわ」

 

「先生が見てるの関係ある?」

 

「ある!」

 

 ギレーヌが開始を告げる。

 

 エリスが踏み込む。

 

 朝よりも勢いがある。

 

 勉強で溜まった鬱憤を剣に乗せている。

 

 レンは横へ外れる。

 

 だが、エリスはそこで止まらない。

 

 外れた先へ木剣を振る。

 

 昨日より読みが早い。

 

 レンは木刀で受けず、体を低くした。

 

 エリスの剣が頭上を通る。

 

 その下から、木刀を膝へ添える。

 

 寸止め。

 

「一本。レン」

 

 ギレーヌの声。

 

「今のずるい!」

 

「低くなっただけ」

 

「ずるい!」

 

 エリスはいつも通り怒る。

 

 ルーデウスは少し離れた場所で、真剣な目をしていた。

 

 ただ眺めているだけではない。

 

 レンの足。

 

 エリスの踏み込み。

 

 ギレーヌの判定。

 

 すべてを見ている。

 

 二本目。

 

 エリスは低く構えた。

 

 レンの真似ではない。

 

 低く動かれるのを嫌って、最初から低さを意識したのだ。

 

 勘がいい。

 

 レンは木刀を正面に置き、浅く踏み込む。

 

 エリスは受ける。

 

 力で押す。

 

 レンは押し合わない。

 

 木刀を滑らせ、手元を狙う。

 

 エリスは腕を引く。

 

 だが、引いた瞬間に前へ蹴り込んできた。

 

 木剣ではなく、肩からぶつかるような圧。

 

 レンは半歩遅れた。

 

 木剣の柄が胸に当たる。

 

「一本。エリス様」

 

 エリスが勝ち誇る。

 

「取った!」

 

「今の、剣じゃなくて体当たりに近かった」

 

「当たったからいいのよ!」

 

 レンは胸を押さえながら笑った。

 

 確かに、当たったなら一本だ。

 

 剣だけを見るな。

 

 身体も見る。

 

 そういう意味では、今のエリスは良かった。

 

 三本目。

 

 レンは少しだけ間合いを広く取った。

 

 エリスは前へ出たがっている。

 

 ルーデウスが見ているからか、いつもよりさらに気合が入っている。

 

 なら、その前へ出る力を使う。

 

 エリスが踏み込む。

 

 レンは逃げない。

 

 真正面に立つ。

 

 エリスの目が少し光る。

 

 受けると思ったのだろう。

 

 木剣が振り下ろされる。

 

 レンは木刀を合わせる。

 

 当たる直前、握りを替える。

 

 水龍型第一式、逆鱗。

 

 受けると思わせた線をずらし、エリスの木剣の外側を滑る。

 

 エリスの防御が空を受ける。

 

 その肩口へ、木刀が止まった。

 

「一本。レン」

 

 ギレーヌが言う。

 

 エリスは悔しそうに叫んだ。

 

「また曲げた!」

 

「さっきは低くなった。今度は曲げた」

 

「説明しなくていい!」

 

 レンは木刀を下ろした。

 

 ルーデウスが近づいてくる。

 

「今の、面白いですね」

 

「逆鱗です」

 

「ミズチノカタ、でしたっけ?」

 

 レンは少し目を細めた。

 

「よく覚えてますね」

 

「五つあるって聞いたので」

 

「はい。今のは水龍型の一式です」

 

「斬撃の軌道を変えたんですか」

 

「そうです。真っ直ぐ来ると思わせて、握りと身体で線をずらします」

 

 ルーデウスは興味深そうに頷く。

 

「魔術で言うと、相手の防御の前提をずらす感じかな」

 

「魔術でもそういうのがありますか」

 

「あります。たとえば、水弾を真っ直ぐ撃つと見せて軌道を変えるとか、土で足場を崩してから別の方向へ撃つとか」

 

 レンはその言葉に反応した。

 

 魔術にも崩しがある。

 

 当然といえば当然だ。

 

 だが、剣とは違う形での崩し。

 

 それは新鮮だった。

 

 エリスが割り込む。

 

「何よ。魔術でもずるいことするの?」

 

「ずるいというか、戦術です」

 

「やっぱりずるいわ」

 

「エリスも今、体当たりした」

 

 レンが言うと、エリスは胸を張った。

 

「あれは正面からだからいいのよ」

 

「基準が分からない」

 

 ルーデウスが笑った。

 

 その笑い方が、少しだけ前世のクラスメイトを思い出させた。

 

 レンは胸の奥の違和感を、また押し込んだ。

 

 まだ聞かない。

 

 今はまだ。

 

 ◇

 

 その日の夕方、レンは庭の端で一人、木刀を振っていた。

 

 授業と稽古は終わった。

 

 エリスはギレーヌに連れていかれ、礼儀作法の話を聞かされている。

 

 ルーデウスもフィリップと何かを話している。

 

 庭には、珍しく静けさがあった。

 

 レンは木刀を構える。

 

 今日見た魔術を思い出す。

 

 水弾。

 

 土。

 

 風。

 

 炎。

 

 詠唱なし。

 

 起こりが見えない。

 

 剣士なら、肩や腰や足を見る。

 

 だが魔術師相手には、何を見る。

 

 手か。

 

 目か。

 

 呼吸か。

 

 魔力か。

 

 自分にはまだ分からない。

 

 なら、分かるようにならなければならない。

 

 レンは浅く踏み込む。

 

 木刀を振る。

 

 相手が魔術師なら、間合いを詰める必要がある。

 

 だが、一直線に詰めれば撃たれる。

 

 横へ外れる。

 

 死角へ入る。

 

 足場を崩されることも考える。

 

 剣士相手とは違う。

 

 頭の中で、ルーデウスの水弾を思い描く。

 

 飛んでくる。

 

 速い。

 

 避ける。

 

 間合いを詰める。

 

 だが次が来る。

 

 どうする。

 

 レンは動きながら考えた。

 

 考えながら動く。

 

 玄斎に言われた。

 

 考えたものを、身体に沈めろ。

 

 今はまだ、身体に沈む前の段階だ。

 

 ぎこちない。

 

 遅い。

 

 だが、考えなければ始まらない。

 

「熱心ですね」

 

 声がした。

 

 振り返ると、ルーデウスが庭の入り口に立っていた。

 

 レンは木刀を下ろす。

 

「ルーデウス先生」

 

「先生はやめてください。エリス様じゃないんですから」

 

「じゃあ、ルーデウス」

 

「はい。僕もレン君でいいですか」

 

「うん」

 

 ルーデウスは庭へ入ってきた。

 

 距離は自然。

 

 近すぎず、遠すぎず。

 

 やはり、人との間合いが上手い。

 

「魔術師相手の動きですか」

 

 ルーデウスが尋ねる。

 

 レンは少し驚いた。

 

「分かる?」

 

「僕の魔術を見てから、動きが少し変わっていたので」

 

「剣士じゃないのに、よく見てるね」

 

「臆病なので」

 

 ルーデウスは笑った。

 

「相手が何をしてくるか、考えておかないと怖いんです」

 

 その言葉に、レンは少しだけ胸を突かれた。

 

 怖い。

 

 ルーデウスも、そう言った。

 

 しかも、軽くではなく、本当にそう思っているような声だった。

 

「怖くても、動けるならいいと思う」

 

 レンが言うと、ルーデウスは一瞬だけ目を見開いた。

 

 そして、ゆっくり頷いた。

 

「いい言葉ですね」

 

「俺の目標みたいなもの」

 

「そうですか」

 

 二人の間に、少し沈黙が落ちた。

 

 庭の風が通る。

 

 レンは聞きたいことがあった。

 

 ルーデウスにもあるようだった。

 

 だが、どちらもすぐには口にしない。

 

 ルーデウスが先に言った。

 

「クロガネって、珍しい響きですね」

 

 レンの指が木刀の柄を軽く握った。

 

「道場でもらった姓」

 

「そうなんですか」

 

「ルーデウスは、グレイラットなんだよね」

 

「はい。アスラ王国の下級貴族の家です」

 

「そう」

 

 また沈黙。

 

 互いに、別の言葉を探っている。

 

 日本。

 

 転生。

 

 前世。

 

 そのどれかを口にすれば、何かが変わる。

 

 だが、まだ早い。

 

 レンはそう感じた。

 

 ルーデウスも、同じように踏み込まない。

 

 代わりに、彼は言った。

 

「今度、魔術相手の動きも一緒に考えてみませんか」

 

「いいの?」

 

「僕も、剣士に近づかれた時の対処を考えたいので」

 

「なら、お願いしたい」

 

「こちらこそ」

 

 ルーデウスは手を差し出した。

 

 握手。

 

 この世界でも普通にある挨拶なのかもしれない。

 

 だが、レンには前世の記憶がよぎる。

 

 彼は少しだけ迷ってから、その手を握った。

 

 子供の手。

 

 だが、妙に落ち着いた手だった。

 

 ルーデウスも、ほんの少しだけレンの手を見る。

 

 剣で固くなり始めた掌。

 

 豆の潰れた跡。

 

 その手から、何かを感じ取ったようだった。

 

「よろしく、レン君」

 

「よろしく、ルーデウス」

 

 二人は手を離した。

 

 その瞬間、屋敷の方からエリスの声が響いた。

 

「レン! ルーデウス! 何してるのよ!」

 

 静けさは一瞬で壊れた。

 

 レンとルーデウスは同時にそちらを見る。

 

 エリスが走ってくる。

 

 その後ろから、ギレーヌの声。

 

「エリス様、廊下は走らないでください」

 

「庭だからいいでしょ!」

 

「屋敷から庭へ出るまで走っています」

 

「細かい!」

 

 ルーデウスが苦笑した。

 

「賑やかですね」

 

「毎日こうだよ」

 

「大変そうです」

 

「慣れる」

 

「慣れるんですか」

 

「たぶん」

 

 エリスが二人の前に立つ。

 

「何話してたの?」

 

「魔術と剣の話」

 

 レンが答える。

 

「私も混ぜなさい!」

 

「もちろんです」

 

 ルーデウスが笑う。

 

「エリス様には、まず明日の授業で肉串の計算を」

 

「それはそれ! 今は剣と魔術!」

 

「忙しいですね」

 

「当然よ!」

 

 エリスは胸を張る。

 

 レンは木刀を握り直した。

 

 ルーデウスは魔術師。

 

 エリスは剣士。

 

 ギレーヌは壁。

 

 そして自分は、大亀流の見習い。

 

 ボレアス家の庭に、また新しい風が入ってきた。

 

 ルーデウス・グレイラット。

 

 彼が何者なのか、レンにはまだ分からない。

 

 だが、彼との出会いが、自分の剣に新しい問いを投げ込んだことだけは確かだった。

 

 剣で、魔術にどう届くのか。

 

 恐怖より先に動くためには、何を見なければならないのか。

 

 また一つ、知らない強さと向き合い始めていた。

 

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