ボレアス家の屋敷に、家庭教師が来る。
そう聞かされた時、エリスは露骨に嫌な顔をした。
「家庭教師?」
朝の庭。
いつものように木剣を持っていたエリスは、フィリップの言葉に眉を吊り上げた。
「勉強の先生ってこと?」
「そうだ」
フィリップは穏やかに頷く。
「読み書き、算術、歴史、礼儀。そして魔術も教えられる子だ」
「子?」
エリスが顔をしかめる。
「大人じゃないの?」
「君たちと歳は近い」
「そんなのに教わるの?」
「実力はあると聞いている」
「嫌よ」
即答だった。
フィリップは慣れているのか、表情を変えない。
「嫌でも必要だよ」
「私は剣の稽古をするわ」
「剣だけでは貴族として困る」
「困らないわ。強ければいいもの」
「強いだけでは済まないこともある」
「じゃあ、ギレーヌに教えてもらう」
「ギレーヌは剣の先生だ」
エリスは不満そうに頬を膨らませた。
レンは少し離れた場所で木刀を持ったまま、そのやり取りを聞いていた。
家庭教師。
勉強。
その単語に、前世の記憶が少しだけ疼く。
学校の教室。
黒板。
ノート。
先生の声。
剣道部の稽古。
通り魔。
雨。
レンはすぐにその記憶を奥へ押し込んだ。
今はここだ。
フィットア領ロア。
ボレアス家の庭。
自分はレン・クロガネで、大亀流の見習いだ。
エリスはまだ文句を言っている。
「だいたい、歳が近いなら私より強いの?」
「魔術では強いだろうね」
「剣は?」
「剣は専門ではないだろうし」
「じゃあ駄目じゃない」
「なぜだい」
「私より弱い相手の言うことなんて聞きたくないわ」
あまりにもエリスらしい理屈だった。
フィリップは小さく息を吐く。
ギレーヌは腕を組んで黙っている。
レンは少しだけ苦笑した。
エリスの基準は分かりやすい。
強いか。
弱いか。
前に出るか。
逃げるか。
それだけで人を見る。
悪いところでもあり、真っ直ぐなところでもある。
フィリップがレンを見た。
「レン君」
「はい」
「君はどう思うかな?」
「俺ですか」
「エリスと歳が近い者としてね」
急に話を振られ、レンは少し考えた。
エリスがじろりと見る。
「変なこと言ったら殴るわよ」
「それ、聞く態度じゃないと思う」
「うるさい!」
レンは木刀を腰に戻し、正直に答えた。
「強いかどうかは、会ってみないと分かりません。でも、魔術を教えられるなら、エリスは見た方がいいと思います」
「何でよ!」
「知らない強さだから」
エリスが黙る。
「剣とは違う強さがあるなら、見ないと分からない。俺も魔術はよく分からないから、見たいです」
これは本音だった。
この世界に魔術があることは、孤児院にいた頃から知っている。
道中でも、何度か魔術師を見たことがある。
だが、ちゃんと学んだことはない。
大亀流道場では、剣と身体操作が中心だった。
魔術は遠いものだった。
だが、この世界で生きるなら、知らないままではいられない。
剣士が魔術を知らなければ、魔術師を相手にした時に死ぬ。
エリスは不満そうにしながらも、レンの言葉には少し反応していた。
「知らない強さ……」
「うん」
「そいつ、本当に強いの?」
フィリップは微笑んだ。
「それは、本人に会えば分かるだろうね」
◇
家庭教師が屋敷に来たのは、その日の昼過ぎだった。
広い応接室。
フィリップ、ギレーヌ、エリス、そしてレンが待っていた。
本来ならレンが同席する必要はなかったのかもしれない。
だが、エリスが「レンも見る」と言い張った。
フィリップは少し考えた後、許した。
ギレーヌは何も言わなかった。
扉が開く。
入ってきたのは、少年だった。
茶色の髪。
整った顔立ち。
年はレンたちとそう変わらない。
だが、目が妙に落ち着いている。
子供らしい顔をしているのに、視線の奥だけが少し違う。
レンはその瞬間、言葉にしにくい違和感を覚えた。
何かが変だ。
強い剣士を見た時の感覚とは違う。
魔力の圧でもない。
立ち方が達人というわけでもない。
だが、目が合った瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。
少年も、レンを見て一瞬だけ動きを止めた。
本当に一瞬。
すぐに礼儀正しく頭を下げる。
「ルーデウス・グレイラットです。本日より、エリス様の家庭教師を務めさせていただきます」
丁寧な挨拶だった。
子供のものとは思えないほど整っている。
エリスは最初から腕を組み、不機嫌そうに睨んでいた。
「ふうん。あんたが先生?」
「はい。よろしくお願いします」
「私より小さいじゃない!」
「年齢は近いと思います」
「強いの?」
いきなりだった。
ルーデウスは少しだけ目を瞬かせる。
だが、すぐに柔らかく笑った。
「剣では、たぶん弱いです」
「じゃあ駄目ね!」
「魔術なら、少しはお役に立てるかと」
「少し?」
「それなりに」
その控えめな言い方に、エリスはますます眉を寄せた。
「はっきりしないわね!」
「すみません」
「謝ればいいってものじゃないわ!」
初対面から噛みついている。
レンは内心で、やっぱりと思った。
フィリップは穏やかに場を整える。
「エリス。まずは話を聞きなさい」
「だって弱そうなんだもの!」
「魔術の腕を見る場を用意してある」
「本当?」
「ああ。庭へ行こう」
エリスの目が少しだけ輝いた。
結局、力を見せれば話が早い。
ボレアス家では、それが一番通じるらしい。
◇
庭に出ると、使用人たちが少し離れた場所に的を用意していた。
木の板を重ねた簡単な的。
その向こうには土を盛った場所がある。
魔術を試すための場所らしい。
ルーデウスは庭の中央へ進んだ。
歩き方は剣士のものではない。
足運びも普通。
少なくとも、レンにはそう見えた。
だが、落ち着いている。
子供が大貴族の屋敷で、初対面の相手に囲まれ、実力を見せろと言われている。
普通ならもっと緊張する。
ルーデウスは緊張していないわけではない。
だが、慣れているようにも見えた。
レンはそれを妙に感じた。
エリスが横で小声を出す。
「魔術って、何ができるの?」
「知らない」
「知らないの?」
「俺は剣ばかりだったから」
「じゃあ、あんたも見たいのね!」
「うん」
「ふん。私の方が先に見抜くわ!」
「何を?」
「すごいかどうかよ!」
エリスは本気だった。
レンは少し笑った。
ギレーヌは黙ってルーデウスを見ている。
剣士としてではなく、護衛として。
魔術師が何をするかを見ている目だった。
ルーデウスは的の前に立ち、片手を軽く上げた。
詠唱はなかった。
少なくとも、レンには何も聞こえなかった。
次の瞬間、水の塊が生まれた。
空中に。
手の先に。
それは拳ほどの大きさから、瞬く間に人の頭ほどになり、回転しながら形を変えた。
水。
だが、ただの水ではない。
ぎゅっと固められた、重さを持った水。
ルーデウスが手を動かす。
水弾が的へ飛んだ。
破裂音。
木の板が弾けた。
エリスが目を見開いた。
レンも息を呑んだ。
速い。
そして、何より予備動作が少ない。
剣で言えば、構えから打ち込みまでが異様に短い。
しかも間合いが遠い。
こちらの木刀が届かない距離から、あの威力を撃てる。
ルーデウスは続けた。
今度は土が盛り上がる。
的の足元が沈む。
次に、風が走った。
割れた木片が空中で弾かれる。
最後に、炎が小さく灯った。
それは大きな火球ではなかった。
だが、指先に生まれた炎は安定していた。
ルーデウスはそれをすぐに消す。
「この程度でよろしいでしょうか」
静かな声だった。
エリスは黙っていた。
珍しい。
レンも黙っていた。
魔術。
話には聞いていた。
見たこともある。
だが、こうして目の前で、これほど滑らかに操られると、別物だった。
剣と違う。
踏み込みがない。
刃筋もない。
間合いの考え方も違う。
だが、戦いだ。
あれが自分へ向けられれば、どうする。
避ける。
間合いを詰める。
詠唱や予備動作を読む。
いや、今のルーデウスには詠唱がなかった。
なら、手の動きか。
視線か。
呼吸か。
魔力の流れは読めるのか。
分からない。
分からないことが多すぎる。
レンの胸が少し熱くなった。
知らない強さ。
その言葉の通りだった。
エリスがようやく口を開く。
「もう一回よ!」
ルーデウスは少し困った顔をした。
「何をでしょう」
「今の水のやつ、もう一回やりなさい!」
「水弾ですか」
「そうよ!」
ルーデウスはフィリップを見る。
フィリップが頷く。
もう一度、水弾が放たれた。
今度はエリスが目を凝らしている。
レンも見る。
手。
目。
肩。
足。
呼吸。
剣士を見る時と同じように見る。
だが、剣士とは違う。
力の起こりが分からない。
ただ、水が生まれ、飛ぶ。
それだけに見える。
ギレーヌが低く言った。
「無詠唱か」
「はい」
ルーデウスは頷く。
「まだ未熟ですが」
未熟。
その言葉に、レンは少し違和感を覚えた。
今の魔術が未熟なら、熟練者は何をするのか。
エリスは唇を尖らせた。
「ずるいわね!」
「ずるい、ですか」
「遠くから攻撃できるじゃない!」
「剣も近づけば強いと思います」
「近づく前に撃たれるじゃない!」
「近づかれたら困ります」
「じゃあ、近づけばいいのね!」
エリスは単純に結論を出した。
そして、木剣を取りに行こうとした。
ギレーヌが即座に止める。
「エリス様」
「何よ!」
「今は手合わせの時間ではありません」
「でも、近づけるか試さないと!」
「後でです」
「後でっていつ?」
「まず授業の説明が先です」
エリスは不満そうに唸った。
ルーデウスは少し苦笑している。
その顔は、年相応にも見える。
だが、時折見える目の奥がやはり変だった。
レンは黙ってルーデウスを見ていた。
その視線に気づいたのか、ルーデウスがこちらを見る。
「君が、レン・クロガネ君?」
「はい」
「エリス様を助けたと聞きました」
「結果的にです」
「謙遜?」
「本当に結果的に」
ルーデウスは少し笑った。
「大亀流……、でしたっけ」
その呼び方は正しかった。
さっきフィリップやギレーヌが言っていたのを聞いたのだろう。
だが、レンは別のところに引っかかった。
ルーデウスは「クロガネ」という姓を聞いた時、一瞬だけ反応した。
そして今、オオガメリュウという響きを、妙に丁寧に口にした。
まるで、知らないはずの何かを確かめるように。
「そうです」
レンは答えた。
「山奥の流派です」
「へえ。どんな剣なんですか」
「身体操作を重視します。五つの型があって、俺はまだ入口です」
「五つの型……」
ルーデウスは何かを考えたようだった。
その目が、また妙に大人びる。
レンは胸の奥がざわつくのを感じた。
この少年は、どこか自分と似ている。
いや、似ていると決めるには早い。
だが、同じような違和感がある。
子供の身体に、子供ではない何かが混ざっている。
そう感じた。
ルーデウスも、レンを見て何かを探っているようだった。
エリスが二人の間に割り込んだ。
「何見つめ合ってるのよ!」
「見つめ合ってない」
レンが答える。
ルーデウスも慌てて笑った。
「そうですね。初対面なので、少し気になっただけです」
「ふうん」
エリスは不満そうにルーデウスを見る。
「それより、あんた本当に先生なの?」
「一応、その予定です」
「剣は弱いのに?」
「魔術と勉強の先生ですから」
「勉強はイヤよ!」
「そうですか」
「そうよ!」
「でも、できるようになると便利ですよ」
「何が?」
「騙されにくくなります」
エリスが止まった。
レンも少し驚いた。
ルーデウスは穏やかな顔で続ける。
「字が読めれば、何が書いてあるか分かります。数が分かれば、損をしたかどうか分かります。歴史を知れば、相手が何を大事にしているか分かります。礼儀を知れば、怒らせてはいけない相手を怒らせずに済みます」
エリスは眉を寄せる。
「つまり、勉強すれば喧嘩で有利ってこと?」
「喧嘩に限らず、ですけど……まあ、そういう場面もあるかもしれません」
「なら、少し聞くわ!」
フィリップが満足そうに微笑んだ。
ギレーヌも少しだけ感心したように見える。
レンはルーデウスを見た。
上手い。
エリス相手に、勉強しろと正面から言っても通じない。
だが「騙されない」「有利になる」と言えば、彼女は聞く。
ルーデウスはそれを初対面で見抜いた。
ただ魔術ができるだけではない。
人を見るのも上手い。
それも、子供らしくない。
◇
最初の授業は、屋敷の一室で行われた。
本来なら、エリスだけが受けるはずだった。
だが、フィリップの提案で、レンも一緒に座ることになった。
「君も読み書きや算術を学んでおいて損はないだろう」
その言葉に、レンは断れなかった。
実際、必要だった。
この世界の文字は読める。
道場でも最低限は教わった。
しかし、きちんと学んだわけではない。
旅をするなら、依頼書や地図、値段、契約を読めなければ困る。
剣だけでは生きていけない。
エリスは不満そうだったが、レンが隣に座ると少しだけ機嫌を直した。
「勝負よ!」
「何の?」
「どっちが早く覚えるか!」
「勉強も勝負なんだ」
「当然でしょ!」
ルーデウスは苦笑しながら、板に文字を書いた。
まずは基本的な読み。
次に簡単な計算。
エリスは最初の十数分で飽きかけた。
椅子の上で足を動かし、筆を回し、窓の外を見る。
ルーデウスはそれを見て、すぐ問題の出し方を変えた。
「では、エリス様が街でリンゴを十個買うとします」
「十個もいらないわ!」
「では肉串を十本」
「それならいるわね!」
「一本が銅貨二枚なら、十本でいくらでしょう」
「二十枚よ!」
即答だった。
「では、店主が二十五枚と言ったら?」
「殴る!」
「殴る前に、間違いを指摘しましょう」
「殴った方が早いわ!」
「相手が大人なら?」
「ギレーヌを呼ぶ!」
「ギレーヌさんがいなかったら?」
エリスが詰まる。
レンは横で少し笑いそうになった。
ルーデウスは上手く、エリスが興味を持つ形に話を変えている。
勉強というより、実戦の準備のようにしているのだ。
レンも問題を解く。
前世の記憶がある分、算術は苦ではない。
だが、この世界の文字や単位には慣れが必要だった。
ルーデウスはレンの答えを見て、少しだけ目を細めた。
「レン君、計算が早いですね」
「道場で少し習ったので」
「それだけですか?」
軽い問い。
だが、探るような響きがあった。
レンは顔を上げる。
ルーデウスと目が合った。
一瞬、空気が静かになる。
エリスが不満そうに言う。
「何よ。また二人で変な顔して」
「何でもない」
レンは答えた。
ルーデウスも笑う。
「そうですね。少し感心しただけです」
その場は流れた。
だが、レンの中の違和感は強くなった。
ルーデウスは何かを隠している。
そしてたぶん、自分も同じだと思われている。
それが何なのか。
今はまだ聞けない。
聞けば、自分のことも話さなければならない。
神代蓮。
前世。
雨の日。
日本。
その言葉を、レンはまだ誰にも話していない。
玄斎や宗一郎には、剣道や日本という言葉が漏れたことがある。
だが、詳しくは話していない。
ここで話すには早い。
ルーデウスも、たぶん同じように考えている。
◇
授業の後、エリスはぐったりしていた。
「剣の方が楽」
「ずっと座ってるの苦手そうだね」
レンが言うと、エリスは机に突っ伏したまま答えた。
「嫌い」
「でも、計算は早かった」
「肉串の話ならね」
「じゃあ、全部肉串で覚えればいい」
「それはいいわね」
冗談のつもりだったが、エリスは少し本気で頷いていた。
ルーデウスは教材を片付けながら笑っている。
「次回は、買い物の計算を多めにしましょうか」
「肉串で?」
「肉串で」
「ならやるわ」
これでいいのだろうか。
レンは少し疑問に思ったが、エリスがやる気になっているならいいのかもしれない。
エリスは立ち上がる。
「じゃあ、次は庭!」
「まだやるんですか」
ルーデウスが驚く。
「当たり前でしょ。勉強したら剣を振らないと身体が鈍るわ」
「そういうものなんですね」
「そういうものよ」
エリスは断言した。
レンは少しだけ頷いた。
座りっぱなしの後に身体を動かしたくなる気持ちは分かる。
庭に出ると、ギレーヌが待っていた。
エリスは木剣を持つ。
レンも木刀を持つ。
ルーデウスは少し離れた場所で見学することになった。
エリスはルーデウスに向かって言う。
「よく見てなさい。これが剣よ」
「はい。勉強させてもらいます」
「本当に分かるの?」
「たぶん」
ルーデウスは穏やかに答えた。
エリスはふんと鼻を鳴らし、レンへ向き直る。
「今日は三本」
「いつも三本」
「今日は先生も見てるから、負けないわ」
「先生が見てるの関係ある?」
「ある!」
ギレーヌが開始を告げる。
エリスが踏み込む。
朝よりも勢いがある。
勉強で溜まった鬱憤を剣に乗せている。
レンは横へ外れる。
だが、エリスはそこで止まらない。
外れた先へ木剣を振る。
昨日より読みが早い。
レンは木刀で受けず、体を低くした。
エリスの剣が頭上を通る。
その下から、木刀を膝へ添える。
寸止め。
「一本。レン」
ギレーヌの声。
「今のずるい!」
「低くなっただけ」
「ずるい!」
エリスはいつも通り怒る。
ルーデウスは少し離れた場所で、真剣な目をしていた。
ただ眺めているだけではない。
レンの足。
エリスの踏み込み。
ギレーヌの判定。
すべてを見ている。
二本目。
エリスは低く構えた。
レンの真似ではない。
低く動かれるのを嫌って、最初から低さを意識したのだ。
勘がいい。
レンは木刀を正面に置き、浅く踏み込む。
エリスは受ける。
力で押す。
レンは押し合わない。
木刀を滑らせ、手元を狙う。
エリスは腕を引く。
だが、引いた瞬間に前へ蹴り込んできた。
木剣ではなく、肩からぶつかるような圧。
レンは半歩遅れた。
木剣の柄が胸に当たる。
「一本。エリス様」
エリスが勝ち誇る。
「取った!」
「今の、剣じゃなくて体当たりに近かった」
「当たったからいいのよ!」
レンは胸を押さえながら笑った。
確かに、当たったなら一本だ。
剣だけを見るな。
身体も見る。
そういう意味では、今のエリスは良かった。
三本目。
レンは少しだけ間合いを広く取った。
エリスは前へ出たがっている。
ルーデウスが見ているからか、いつもよりさらに気合が入っている。
なら、その前へ出る力を使う。
エリスが踏み込む。
レンは逃げない。
真正面に立つ。
エリスの目が少し光る。
受けると思ったのだろう。
木剣が振り下ろされる。
レンは木刀を合わせる。
当たる直前、握りを替える。
水龍型第一式、逆鱗。
受けると思わせた線をずらし、エリスの木剣の外側を滑る。
エリスの防御が空を受ける。
その肩口へ、木刀が止まった。
「一本。レン」
ギレーヌが言う。
エリスは悔しそうに叫んだ。
「また曲げた!」
「さっきは低くなった。今度は曲げた」
「説明しなくていい!」
レンは木刀を下ろした。
ルーデウスが近づいてくる。
「今の、面白いですね」
「逆鱗です」
「ミズチノカタ、でしたっけ?」
レンは少し目を細めた。
「よく覚えてますね」
「五つあるって聞いたので」
「はい。今のは水龍型の一式です」
「斬撃の軌道を変えたんですか」
「そうです。真っ直ぐ来ると思わせて、握りと身体で線をずらします」
ルーデウスは興味深そうに頷く。
「魔術で言うと、相手の防御の前提をずらす感じかな」
「魔術でもそういうのがありますか」
「あります。たとえば、水弾を真っ直ぐ撃つと見せて軌道を変えるとか、土で足場を崩してから別の方向へ撃つとか」
レンはその言葉に反応した。
魔術にも崩しがある。
当然といえば当然だ。
だが、剣とは違う形での崩し。
それは新鮮だった。
エリスが割り込む。
「何よ。魔術でもずるいことするの?」
「ずるいというか、戦術です」
「やっぱりずるいわ」
「エリスも今、体当たりした」
レンが言うと、エリスは胸を張った。
「あれは正面からだからいいのよ」
「基準が分からない」
ルーデウスが笑った。
その笑い方が、少しだけ前世のクラスメイトを思い出させた。
レンは胸の奥の違和感を、また押し込んだ。
まだ聞かない。
今はまだ。
◇
その日の夕方、レンは庭の端で一人、木刀を振っていた。
授業と稽古は終わった。
エリスはギレーヌに連れていかれ、礼儀作法の話を聞かされている。
ルーデウスもフィリップと何かを話している。
庭には、珍しく静けさがあった。
レンは木刀を構える。
今日見た魔術を思い出す。
水弾。
土。
風。
炎。
詠唱なし。
起こりが見えない。
剣士なら、肩や腰や足を見る。
だが魔術師相手には、何を見る。
手か。
目か。
呼吸か。
魔力か。
自分にはまだ分からない。
なら、分かるようにならなければならない。
レンは浅く踏み込む。
木刀を振る。
相手が魔術師なら、間合いを詰める必要がある。
だが、一直線に詰めれば撃たれる。
横へ外れる。
死角へ入る。
足場を崩されることも考える。
剣士相手とは違う。
頭の中で、ルーデウスの水弾を思い描く。
飛んでくる。
速い。
避ける。
間合いを詰める。
だが次が来る。
どうする。
レンは動きながら考えた。
考えながら動く。
玄斎に言われた。
考えたものを、身体に沈めろ。
今はまだ、身体に沈む前の段階だ。
ぎこちない。
遅い。
だが、考えなければ始まらない。
「熱心ですね」
声がした。
振り返ると、ルーデウスが庭の入り口に立っていた。
レンは木刀を下ろす。
「ルーデウス先生」
「先生はやめてください。エリス様じゃないんですから」
「じゃあ、ルーデウス」
「はい。僕もレン君でいいですか」
「うん」
ルーデウスは庭へ入ってきた。
距離は自然。
近すぎず、遠すぎず。
やはり、人との間合いが上手い。
「魔術師相手の動きですか」
ルーデウスが尋ねる。
レンは少し驚いた。
「分かる?」
「僕の魔術を見てから、動きが少し変わっていたので」
「剣士じゃないのに、よく見てるね」
「臆病なので」
ルーデウスは笑った。
「相手が何をしてくるか、考えておかないと怖いんです」
その言葉に、レンは少しだけ胸を突かれた。
怖い。
ルーデウスも、そう言った。
しかも、軽くではなく、本当にそう思っているような声だった。
「怖くても、動けるならいいと思う」
レンが言うと、ルーデウスは一瞬だけ目を見開いた。
そして、ゆっくり頷いた。
「いい言葉ですね」
「俺の目標みたいなもの」
「そうですか」
二人の間に、少し沈黙が落ちた。
庭の風が通る。
レンは聞きたいことがあった。
ルーデウスにもあるようだった。
だが、どちらもすぐには口にしない。
ルーデウスが先に言った。
「クロガネって、珍しい響きですね」
レンの指が木刀の柄を軽く握った。
「道場でもらった姓」
「そうなんですか」
「ルーデウスは、グレイラットなんだよね」
「はい。アスラ王国の下級貴族の家です」
「そう」
また沈黙。
互いに、別の言葉を探っている。
日本。
転生。
前世。
そのどれかを口にすれば、何かが変わる。
だが、まだ早い。
レンはそう感じた。
ルーデウスも、同じように踏み込まない。
代わりに、彼は言った。
「今度、魔術相手の動きも一緒に考えてみませんか」
「いいの?」
「僕も、剣士に近づかれた時の対処を考えたいので」
「なら、お願いしたい」
「こちらこそ」
ルーデウスは手を差し出した。
握手。
この世界でも普通にある挨拶なのかもしれない。
だが、レンには前世の記憶がよぎる。
彼は少しだけ迷ってから、その手を握った。
子供の手。
だが、妙に落ち着いた手だった。
ルーデウスも、ほんの少しだけレンの手を見る。
剣で固くなり始めた掌。
豆の潰れた跡。
その手から、何かを感じ取ったようだった。
「よろしく、レン君」
「よろしく、ルーデウス」
二人は手を離した。
その瞬間、屋敷の方からエリスの声が響いた。
「レン! ルーデウス! 何してるのよ!」
静けさは一瞬で壊れた。
レンとルーデウスは同時にそちらを見る。
エリスが走ってくる。
その後ろから、ギレーヌの声。
「エリス様、廊下は走らないでください」
「庭だからいいでしょ!」
「屋敷から庭へ出るまで走っています」
「細かい!」
ルーデウスが苦笑した。
「賑やかですね」
「毎日こうだよ」
「大変そうです」
「慣れる」
「慣れるんですか」
「たぶん」
エリスが二人の前に立つ。
「何話してたの?」
「魔術と剣の話」
レンが答える。
「私も混ぜなさい!」
「もちろんです」
ルーデウスが笑う。
「エリス様には、まず明日の授業で肉串の計算を」
「それはそれ! 今は剣と魔術!」
「忙しいですね」
「当然よ!」
エリスは胸を張る。
レンは木刀を握り直した。
ルーデウスは魔術師。
エリスは剣士。
ギレーヌは壁。
そして自分は、大亀流の見習い。
ボレアス家の庭に、また新しい風が入ってきた。
ルーデウス・グレイラット。
彼が何者なのか、レンにはまだ分からない。
だが、彼との出会いが、自分の剣に新しい問いを投げ込んだことだけは確かだった。
剣で、魔術にどう届くのか。
恐怖より先に動くためには、何を見なければならないのか。
また一つ、知らない強さと向き合い始めていた。