ルーデウス・グレイラットがボレアス家へ来てから、屋敷の朝はさらに騒がしくなった。
以前は、エリスがレンの部屋へ突撃してくるだけだった。
今は違う。
エリスがレンの部屋へ突撃し、レンがそれを受け流し、二人が庭へ向かおうとしたところで、ルーデウスが教材を抱えて待っている。
「おはようございます、エリス様。今日の午前は読み書きからです」
「嫌よ。先に剣!」
「昨日、先に剣をやって、その後に字が全部斜めになりました」
「字なんて斜めでも読めればいいでしょ!」
「読めなかったので問題です」
「じゃあ、レンからやらせなさい!」
「俺?」
急に巻き込まれたレンは、木刀を持ったまま首を傾げる。
エリスは当然のように胸を張った。
「レンが先に勉強してる間に、私は身体を温めるわ!」
「それ、エリスが逃げてるだけだよね」
「作戦よ!」
「逃げる作戦?」
「うるさい!」
拳が飛んできた。
レンは首を引いて避ける。
それを見て、ルーデウスが苦笑した。
「朝から元気ですね」
「元気じゃないわ。勉強の話をされたから腹が立ってるの!」
「それを元気と言うんだと思います」
ルーデウスの返しは柔らかい。
だが、妙に逃げ道を塞ぐ。
エリスが怒鳴っても、殴ろうとしても、完全には怯まない。
そこが面白かった。
エリスは強い相手には噛みつく。
だが、ルーデウスの強さは剣ではない。
魔術。
言葉。
相手を見て、先回りする頭。
それはレンがこれまであまり触れてこなかった強さだった。
ギレーヌは廊下の端から三人を見ていた。
「エリス様。午前は授業です」
「ギレーヌまで……」
「約束です」
「分かってるわよ!」
エリスは乱暴に言い、足音を響かせて授業部屋へ向かった。
レンとルーデウスは顔を見合わせる。
「大変だね」
レンが言うと、ルーデウスは小さく笑った。
「ええ。でも、分かりやすい人です」
「分かりやすいかな」
「はい。嫌なものは嫌。悔しいものは悔しい。強くなれると思えば食いつく。そこを間違えなければ、ちゃんと聞いてくれます」
「聞いてる時はね」
「そこが一番難しいです」
ルーデウスはそう言って、教材を抱え直した。
その仕草は子供らしい。
だが、言葉の選び方はやはり子供らしくない。
レンはその違和感を胸の奥に置いたまま、授業部屋へ向かった。
◇
授業は、最初から戦いだった。
机に座ったエリスは、剣を持っていないのに、まるで敵を睨むように板を睨んでいた。
ルーデウスが板に文字を書く。
「今日は手紙の読み方です」
「手紙?」
「はい。貴族には必要です。誰かから届いた手紙を読めないと困ります」
「読める人に読ませればいいじゃない」
「その人が嘘をついたら?」
エリスの眉が動く。
「嘘?」
「たとえば、手紙には『今日の午後、庭で会いましょう』と書いてあるのに、読んだ人が『町の外へ一人で来い』と言ったら?」
「殴る!」
「嘘だと分かれば殴れます。でも読めなければ、嘘かどうか分かりません」
「……なるほど」
エリスは少しだけ前のめりになった。
ルーデウスはすぐに続ける。
「だから、字が読めると騙されにくくなります」
「じゃあ読むわ!」
単純だった。
だが、効果はあった。
エリスは渋々ながら文字を追い始める。
隣ではギレーヌも座っていた。
彼女もまた、読み書きと算術を学んでいる。
剣王級の剣士が、真剣な顔で板の文字を見つめている姿は、不思議な迫力があった。
エリスが唸る。
「この文字、昨日も見たわ!」
「はい。昨日の肉串の計算にも出ました」
「肉串なら分かるのに、手紙だと腹が立つわね!」
「では、肉串屋からの手紙ということにしましょう」
「そんな手紙あるの?」
「作ればあります」
ルーデウスはさらさらと文章を書き換える。
肉串屋から、エリス様へ。
昨日の肉串代について。
そんな題材になった瞬間、エリスの集中力が少し戻った。
レンは横で計算をしながら、その様子を見ていた。
ルーデウスは教え方がうまい。
ただ正しいことを言うだけではない。
相手が何に反応するかを見て、そこへ言葉を置く。
剣で言えば、相手の構えを見て打つ場所を変えるようなものだ。
これも戦い方の一つなのだろう。
授業の途中、ルーデウスがレンの紙を見た。
「レン君は、計算がかなり早いですね」
「前に少し覚えたから」
「道場で?」
「うん」
嘘ではない。
道場でも最低限は学んだ。
ただ、それだけではない。
前世の知識がある。
九九も、簡単な算術も、文字を覚える感覚も、完全にゼロからではない。
ルーデウスはそれを見抜いているのか、時々こちらを見る目が鋭くなる。
だが、踏み込んではこない。
レンも踏み込まない。
互いに、まだ言わない。
そう決めているような距離があった。
エリスが机を叩いた。
「また二人で変な顔してる!」
「してない」
レンが答える。
「してましたね」
ルーデウスが余計なことを言った。
「ほら!」
エリスが勝ち誇る。
レンはルーデウスを見る。
「何で認めるの」
「嘘はいけません」
「そういう時だけ正直」
「先生ですから」
「先生なら、エリスを止めてくれ」
「それはギレーヌさんの仕事です」
ギレーヌは無言でエリスを見た。
エリスは不満そうに席へ戻る。
授業は騒がしい。
だが、少しずつ進んでいた。
◇
午後は庭での稽古だった。
これが三人にとって、一番自然な時間になりつつあった。
ギレーヌが見る。
エリスが木剣を振る。
レンが木刀で応じる。
ルーデウスは少し離れた場所で見学し、時々魔術を使う。
最初は、剣と魔術の距離を知るためだった。
ルーデウスは水弾を小さく作り、的へ撃つ。
レンはその動きを見る。
手。
目。
呼吸。
魔力の流れはまだ分からない。
だが、ルーデウスにも完全な無動作ではないことは分かってきた。
撃つ前に、ほんの少し視線が定まる。
指先の向きが変わる。
体の中心が狙いへ向く。
剣士の踏み込みほど分かりやすくはない。
だが、何もないわけではない。
「もう一度、お願いします」
レンが言うと、ルーデウスは頷いた。
「では、少し遅めに」
水弾が生まれる。
レンはそれを見て、横へ外れる。
水弾は的へ当たり、弾けた。
「今のなら避けられる?」
エリスが聞く。
「撃つ場所が分かっていて、遅くしてもらえれば」
「実戦じゃ駄目じゃない!」
「だから稽古してる」
「じゃあ、次は私が避けるわ!」
エリスが前へ出ようとする。
ギレーヌが止めた。
「エリス様はまだ駄目です」
「何でよ!」
「避ける前に突っ込むからです」
「避けながら突っ込むわよ!」
「水弾に突っ込むのは避けるとは言いません」
エリスは唇を尖らせた。
レンは少し笑いそうになる。
だが、エリスの考え自体は間違っていない部分もある。
魔術師相手に、ただ避け続けても勝てない。
どこかで間合いを詰めなければならない。
問題は、いつ、どうやって詰めるかだ。
ルーデウスも同じことを考えているようだった。
「剣士に近づかれると、魔術師は困ります」
彼は言った。
「だから、足を止める。視界を塞ぐ。地面を崩す。距離を取る。色々考えます」
「地面を崩す?」
レンが聞く。
ルーデウスは頷き、庭の土の一部をわずかに盛り上げた。
大きな魔術ではない。
足元に拳一つ分の段差が生まれる。
「走っている時にこれをやられると、危ないです」
レンはそこを見た。
確かに危ない。
踏み込みの瞬間に足場が変われば、身体が浮く。
雷電型は特に、重心移動が命だ。
足場を崩されれば、速さそのものが死ぬ。
レンはその場で何度か歩いた。
段差を見ながら、足を置く。
見えていれば避けられる。
だが、見えなければ。
走っていれば。
魔術で急に出されたら。
「厄介だね」
「はい。剣士の人は速いので、こっちも必死です」
ルーデウスは苦笑した。
エリスは腕を組む。
「なら、そんなの出される前に斬ればいいのよ」
「それができれば一番です」
「できるようになるわ」
「期待しています」
「何よ、その余裕」
「余裕ではなく、期待です」
ルーデウスの言葉に、エリスはむっとしたが、少しだけ満足そうでもあった。
稽古は続く。
エリスとレンの三本勝負。
ルーデウスの魔術を見てからの回避練習。
ギレーヌの剣を受ける、というより、受けようとして崩される時間。
そのすべてが、少しずつ互いに影響し始めていた。
エリスは、以前より相手の足を見るようになった。
レンは、剣だけでなく魔術の起こりを探すようになった。
ルーデウスは、剣士がどの距離で危険になるのかを学んでいた。
三人はそれぞれ違う。
エリスは前へ出る。
レンは外し、崩し、繋ぐ。
ルーデウスは距離を取り、組み立てる。
違うからこそ、噛み合う。
違うからこそ、ぶつかる。
そのたびに、ギレーヌが短く指摘する。
「エリス様、足が先に出ています」
「レン、考えすぎて手が遅れた」
「ルーデウス、撃った後に立ち止まりすぎだ」
三人が同時に返事をする。
「はい!」
「はい」
「はい」
エリスだけ声が大きい。
レンとルーデウスは少しだけ顔を見合わせた。
エリスがすぐに睨む。
「何笑ってるのよ」
「笑ってない」
「笑いましたね」
ルーデウスがまた余計なことを言う。
「やっぱり!」
エリスが木剣を振り上げる。
レンは半歩下がり、ルーデウスはさりげなくギレーヌの後ろへ移動した。
「隠れないで!」
「戦略的撤退です」
「逃げてるだけじゃない!」
庭に声が響く。
ボレアス家の使用人たちは、もう驚かなくなっていた。
◇
日々は、少しずつ流れた。
原作の流れで言えば、ここからエリスとルーデウスの距離は縮まっていく。
ただし、この世界にはレンがいる。
レンがいるから、エリスは剣の稽古へ余計に熱を入れた。
ルーデウスは、エリスを授業へ引き戻すために、さらに言葉を工夫した。
ギレーヌは、三人を見ながら剣と文字の両方を学んでいった。
レンは、自分が本来この屋敷にいなかった異物なのだと、時々思う。
ルーデウスとエリス。
本来なら、この二人の間で築かれていくはずの時間。
そこに自分が混ざっている。
それが何を変えるのか。
良いことなのか、悪いことなのか。
分からない。
だが、レンはエリスの前に立った。
ルーデウスと魔術について話した。
ギレーヌに打たれ、エリスに打たれ、時には二人を相手にした。
もう、関わってしまった。
なら、半端に離れることはできない。
大亀流の木札は、懐にある。
軽々しく名乗るな。
だが、逃げるな。
玄斎の声が、時々胸に響く。
◇
ある日の夕方。
授業と稽古が終わり、エリスが礼儀作法のために連れていかれた後、レンとルーデウスは庭に残っていた。
ルーデウスは小さな水球を作り、指先で回している。
レンはそれを見ていた。
「どうやってるの」
「感覚です」
「感覚」
「水を作る、形を保つ、動かす。そういうイメージを魔力に乗せる感じです」
「剣とは全然違うね」
「でも、似ているところもあります」
「どこが?」
「考えすぎると遅れるところです」
レンは少し笑った。
「それは分かる」
「レン君も言われますか?」
「よく言われる。考えたものを身体に沈めろって」
「いい言葉ですね」
ルーデウスは水球を消した。
そして、少しだけ声を落とす。
「レン君は、時々変わった言い方をしますよね」
レンは黙った。
「剣の話だけじゃなくて。計算も早いし、ものの見方が大人っぽい」
「ルーデウスも」
レンが返すと、ルーデウスは苦笑した。
「そう見えますか」
「見える」
「……お互い様ですね」
庭に風が吹いた。
言葉はそこで止まる。
日本。
前世。
転生。
そのどれも、まだ口には出ない。
だが、二人の間には、薄い紙一枚のような距離でそれが置かれていた。
破れば、向こうが見える。
でも、破れば戻れない。
レンは木刀を握る。
「今は、聞かない」
ルーデウスは少し目を見開いた。
それから、静かに頷いた。
「僕も、今は聞きません」
「うん」
「でも、いつか話すことになるかもしれませんね」
「その時は、その時」
「ですね」
二人はそれ以上、踏み込まなかった。
その距離が、今はちょうどよかった。
◇
その夜。
フィリップに呼ばれたのは、ルーデウスだけだった。
レンは廊下ですれ違った時、ルーデウスの表情が少し硬いことに気づいた。
「どうしたの」
「フィリップ様に呼ばれました」
「怒られる?」
「だとしたら、心当たりが多すぎて困りますね」
冗談めかして言ったが、目は笑っていなかった。
レンは少しだけ違和感を覚えた。
「何かあったら言って」
ルーデウスは一瞬だけ驚いた顔をした。
そして、微笑む。
「ありがとうございます。大丈夫です」
そう言って、彼はフィリップの部屋へ向かった。
レンはその背中を見送る。
何かが動いている。
そんな気がした。
だが、まだ分からない。
その夜、エリスはいつものようにレンの部屋へ来た。
扉の前で一応声をかけるようになったのは、少し成長だった。
「入るわよ」
「どうぞ」
エリスは部屋に入り、床に座る。
「ルーデウス、父様に呼ばれてたわね」
「うん」
「何かしたの?」
「分からない」
「ふうん」
エリスは少し不満そうだった。
ルーデウスが何かを隠していることに、彼女も気づいているのかもしれない。
ただ、それをうまく言葉にできないだけで。
「明日も授業よね」
「たぶん」
「逃げたら怒られるわよね」
「逃げるつもりだったの?」
「少し」
「少しならいいと思ってる?」
「駄目なのは分かってるわよ!」
エリスは怒鳴る。
だが、以前ほど本気で嫌がっているわけではない。
読み書きも、算術も、少しずつ意味を感じ始めている。
ルーデウスの教え方がうまいのだ。
レンはそう思った。
エリスは天井を見上げる。
「あいつ、変よね」
「ルーデウス?」
「うん。弱そうなのに、たまに強そう」
「分かる」
「何考えてるか分からない時がある」
「それも分かる」
「でも、嫌いじゃないわ」
エリスは小さく言った。
その声は、いつものように大きくなかった。
「勉強は嫌いだけど」
「そこは変わらないんだ」
「当たり前よ」
レンは少し笑った。
エリスはむっとしたが、今日は殴らなかった。
代わりに立ち上がる。
「明日、授業の後で三本勝負よ」
「うん」
「ルーデウスにも見せる」
「うん」
「それで、魔術も避ける」
「ギレーヌさんが許したら」
「許させるわ」
「どうやって」
「頼む」
「普通だね」
「普通で悪い!?」
「悪くない」
エリスはふんと鼻を鳴らし、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
レンは木刀を膝に置き、静かに目を閉じた。
ルーデウスが来た。
エリスが少しずつ変わっている。
三人の稽古が始まった。
だが、その裏で、何かが動こうとしている。
流れを知る者がいれば、ここから先に待つ出来事を思い出すだろう。
信頼を得るための荒療治。
貴族の屋敷の内側で仕組まれる、小さな事件。
だが、この世界にはレンがいる。
大亀流の木刀を持つ少年が、そこに混ざっている。
それが何を変えるのか。
まだ誰にも分からない。
レン・クロガネは目を開ける。
怖くても、動く。
だが、動くためには、まず気づかなければならない。
次の朝、屋敷の空気がいつもと違うことに、レンはまだ気づいていなかった。