その朝、屋敷の空気はいつもと少しだけ違っていた。
廊下を歩く使用人の足音。
庭を掃く箒の音。
食堂から漂う焼きたてのパンの匂い。
何もかも、いつも通りに見える。
だが、レンは妙な引っかかりを覚えていた。
ギレーヌの口数が少ない。
フィリップの姿が朝食の席にない。
ルーデウスが、いつもより少しだけ目を伏せる時間が長い。
そして何より、エリスだけが何も気づいていない。
「今日は外で授業?」
食堂で、エリスが目を輝かせた。
勉強と聞けば露骨に嫌な顔をする彼女だが、「外」という言葉がつくだけで反応が変わる。
ルーデウスはいつもの柔らかい笑みを浮かべた。
「はい。屋敷の外れにある古い倉庫を使うそうです」
「倉庫で何をするのよ」
「実地訓練、ですね」
「剣?」
「剣ではありません」
「じゃあつまらないわ」
「でも、座学だけよりは面白いと思いますよ」
ルーデウスの声は落ち着いていた。
けれど、レンには分かった。
落ち着きすぎている。
普段のルーデウスは、エリスに振り回されながらも、少し肩の力が抜けている。
今は違う。
言葉は柔らかい。
表情も穏やか。
だが、胸の奥で何かを固めているように見えた。
レンは食事の手を止めた。
「ルーデウス」
「はい?」
「何かある?」
小声で問う。
ルーデウスは一瞬だけ目を動かした。
その反応は速かった。
速すぎた。
「授業の準備です」
「本当に?」
「ええ」
嘘ではないのだろう。
だが、全部ではない。
レンはそう感じた。
ルーデウスは、こういう時にすぐ嘘をつかない。
言える範囲の本当だけを言う。
そのあたりの器用さは、剣士とは別種の強さだった。
エリスは二人のやり取りに気づき、眉を吊り上げる。
「何よ。また二人でこそこそ話して」
「こそこそはしてない」
「してたわ」
「小声だっただけ」
「それをこそこそって言うのよ!」
いつものように怒鳴るエリス。
その声を聞くと、少しだけ安心する。
だが、胸の奥の引っかかりは消えなかった。
◇
昼前。
エリスとルーデウスは、屋敷の外れへ向かうことになった。
レンも当然のように木刀を手に取る。
だが、庭の出口でギレーヌに止められた。
「レン。お前は残れ」
「俺は行かなくていいんですか」
「今日はエリス様とルーデウスの授業だ」
「でも、外へ出るなら護衛は」
「私が見ている」
そう言ったギレーヌは、しかし動く気配がなかった。
見ている。
ついていく、ではない。
レンは目を細めた。
やはり、おかしい。
ギレーヌがエリスを危険に晒すはずがない。
それなのに、今日だけは距離を置こうとしている。
エリスは不満そうに振り返った。
「レンは来ないの?」
「今日は授業の邪魔になりますから」
ルーデウスが答えた。
「何よ。つまらないわね」
「その分、僕が頑張ります」
「頼りないわ」
「努力します」
「努力だけじゃ駄目なのよ」
そう言いながら、エリスは歩き出す。
ルーデウスがその隣へ並ぶ。
二人の背中が屋敷の外れへ遠ざかっていく。
レンはその場に立ったまま、ギレーヌを見た。
「ギレーヌさん」
「何だ」
「本当に、俺は残るべきですか」
ギレーヌの目が、わずかに細くなる。
「命令は残れ、だ」
命令。
その言葉で、レンはほとんど確信した。
これは普通の授業ではない。
そして自分は、意図的に外されている。
レンがいれば、予定が狂う。
そういうことなのだ。
ギレーヌは低く言う。
「余計なことはするな」
その声には、剣士としての圧があった。
逆らえば止める。
そう言われている。
今のレンでは、ギレーヌを突破できない。
真正面から逆らえば、一歩も進めずに地面へ転がされるだろう。
だから、レンは静かに頭を下げた。
「分かりました」
ギレーヌはそれ以上何も言わなかった。
レンは背を向ける。
屋敷へ戻るふりをする。
角を曲がる。
ギレーヌの視線が切れる。
その瞬間、レンは足音を殺した。
急がない。
急げば気配が立つ。
肩を揺らさない。
腰を浮かせない。
視線を先へ飛ばしすぎない。
大亀流で叩き込まれた、身体を消すための歩き。
完全ではない。
玄斎ならすぐに見抜くだろう。
宗一郎なら、鼻で笑うかもしれない。
それでも、屋敷の使用人や並の護衛の目を外すには足りた。
レンは裏口へ回り、外へ出た。
◇
エリスとルーデウスの姿は、屋敷の外れへ続く道の向こうに見えた。
レンは距離を取って追う。
近づきすぎれば気づかれる。
遠すぎれば、何かあった時に間に合わない。
そのぎりぎりを選ぶ。
塀の影。
庭木の裏。
古い石倉の角。
身を隠せる場所を繋ぐ。
前方では、エリスが不満そうに歩いていた。
「まだ着かないの?」
「もう少しです」
「倉庫で授業って、本当に意味あるの?」
「あると思います」
「思う、じゃなくてあるって言いなさいよ」
「あります」
「最初からそう言いなさい」
いつもの調子だった。
ルーデウスも、いつものように返している。
けれど、彼の肩にはやはり硬さがある。
レンは木刀の柄に触れた。
何が起きる。
誰が仕組んでいる。
どこまでが予定だ。
分からない。
だが、危険の匂いがする。
やがて、二人は古い倉庫の前に着いた。
使われていない建物らしく、壁は少し汚れ、扉の金具も錆びている。
周囲に人影はない。
風が通る。
静かすぎる。
エリスは腕を組み、倉庫を見上げた。
「ここ?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
ルーデウスが扉へ手をかける。
レンは息を止めた。
扉が開く。
中は暗い。
エリスが先に入る。
ルーデウスも続く。
次の瞬間、倉庫の中で足音が跳ねた。
男の声。
エリスの怒声。
「何よ、あんたたち!」
続いて、鈍い音。
誰かが暴れた音。
ルーデウスの声も聞こえる。
「エリス様、落ち着いて!」
レンは駆け出した。
だが、倉庫へ向かう直前、右の物陰から男が飛び出した。
棍棒。
頭を狙った一撃。
待ち伏せだ。
レンは身を沈める。
棍棒が頭上をかすめる。
木刀を抜く。
相手は大人。
力は上。
だが、動きは粗い。
レンは男の懐へ入りすぎず、腕の外側へ出た。
木刀を一息で落とす。
手首。
男が呻く。
棍棒が揺れる。
レンは続ける。
肘。
肩。
短く、速く、打つ。
大きく振れば壁に当たる。
この狭い場所では、長い斬撃よりも短い打ち込みが生きる。
男が下がる。
レンはその足元へ木刀の先を入れた。
膝裏。
引っかける。
崩す。
男の体勢が前へ落ちる。
しかし、倒れながらも男はレンの服を掴んだ。
力が強い。
子供の腕では、引き剥がせない。
レンは引かなかった。
近づく。
柄頭を男の顎へ突き上げた。
鈍い音。
男の手が緩む。
レンは身体を抜き、倉庫の扉へ走った。
扉を押す。
開かない。
内側から押さえられている。
中ではまだ暴れている音がする。
エリスの怒声。
男たちの怒鳴り声。
何かが倒れる音。
レンは扉を壊そうと木刀を構えかけた。
だが、すぐにやめる。
分厚い。
時間がかかる。
音も大きい。
別の入口を探す。
壁の上部に小窓があった。
子供なら通れる大きさ。
高いが、届かないほどではない。
レンは壁の凹凸に足をかけ、身軽に上った。
小窓から中を見る。
倉庫の中には男が四人。
エリスとルーデウスは捕らえられかけていた。
エリスは腕を押さえられながらも、相手に噛みつこうとしている。
ルーデウスは口を塞がれ、手を押さえられていた。
縄が見える。
短剣も見える。
予定された荒療治にしては、物騒すぎる。
レンは一瞬で配置を見る。
エリスを押さえる男が一人。
ルーデウスを押さえる男が一人。
扉を押さえる男が一人。
木箱の陰にもう一人。
外で一人。
合計五人。
仕組まれたものだとしても、どこかで狂っている。
レンは近くにあった小石を掴み、小窓から投げ込んだ。
木箱に当たる。
乾いた音。
男の一人が振り向いた。
「誰だ!」
その一瞬に、レンは小窓から飛び込んだ。
着地。
膝を殺す。
音は出た。
だが、止まらない。
最も近い男が短剣を抜く。
レンは木刀を低く構え、踏み込んだ。
雷電型第一式。
奇妙な半身から、相手の反応を引き出し、その上で三段を打つ。
壱。
短剣の手首を打つ。
弐。
肘を打つ。
参。
肩口へ木刀を落とす。
男の腕が痺れ、短剣が床に落ちた。
そのまま倒しきりたい。
だが、エリスがいる。
ルーデウスがいる。
一人にかかりきりになる暇はない。
次の男が棍棒を振る。
大振り。
倉庫の中では邪魔になる動き。
レンは正面から受けず、相手の視界の外へ滑った。
虚空型第一式、影縫。
脱力した身体を回し、相手の目が追う場所から外れる。
棍棒が空を打った。
レンは男の背を取る。
首を打てば終わる。
だが、殺す場面ではない。
木刀を低く走らせ、膝裏を打つ。
男が崩れる。
柄で鳩尾を突く。
二人目が膝をついた。
「レン!」
エリスの声。
彼女は縄をかけられかけていた。
だが、まだ暴れている。
押さえた男の手に噛みつき、足を踏み、頭突きを狙う。
ルーデウスは床へ押さえ込まれながら、こちらを見た。
その目が、わずかに横へ動く。
右。
レンは反射的にそちらを見る。
木箱の陰から、隠れていた男が飛び出した。
短剣。
レンの脇腹へ向かってくる。
見落としていた。
ルーデウスの目がなければ、刺されていた。
レンは身をひねる。
刃が服を裂いた。
浅く皮膚をかすめる。
熱い痛み。
だが、止まらない。
距離が近い。
木刀を大きく振れない。
レンは木刀を短く持ち、相手の短剣へ当てた。
刃と木刀が触れる。
その瞬間、手首を回す。
土公型第一式、荒神。
相手の武器を狙い、接触の瞬間に回転を加えて軌道を崩す。
刀同士ではない。
木刀と短剣。
それでも理合は通じた。
短剣が外へ弾かれ、男の手首が捻れる。
「ぐっ!」
短剣が床へ落ちる。
レンは踏み込み、男の脛を打つ。
倒れた男を越え、エリスへ向かう。
だが、そこで男がエリスの首元へ短剣を当てた。
「動くな!」
レンは止まった。
エリスの首に、刃がある。
ほんの少し動くだけで血が出る距離。
男は焦っている。
手が震えている。
焦った人間は危ない。
力加減を間違える。
エリスは歯を食いしばっている。
怖いはずだ。
だが、目は死んでいない。
ルーデウスはまだ押さえられている。
口も塞がれている。
魔術を使おうとしているが、体勢が悪い。
レンは息を殺した。
距離は三歩弱。
男の短剣はエリスの首。
こちらの木刀は届かない。
踏み込むより、男の刃が動く方が早い。
ならどうする。
真正面からの速さでは駄目だ。
必要なのは、短剣を首から離すこと。
男が叫ぶ。
「木刀を捨てろ!」
レンはゆっくり木刀を下げた。
エリスが目を見開く。
「レン、何して――」
「黙れ!」
男の短剣がわずかにエリスの肌へ触れる。
赤い線が浮かんだ。
レンの腹の奥が冷える。
木刀を床へ落とす。
乾いた音。
男の視線が一瞬、木刀へ落ちた。
その瞬間、ルーデウスが動いた。
彼の指先の近くで、小さな土の粒が弾ける。
大きな魔術ではない。
押さえていた男の手元を跳ね上げるだけの小さな魔術。
だが、それで十分だった。
ルーデウスの口が空く。
詠唱はほとんどない。
水が生まれた。
小さな水弾が、エリスを押さえる男の顔面へ飛ぶ。
男が反射的に目を閉じる。
短剣が首から離れた。
レンは床を蹴った。
木刀はない。
だが、身体はある。
つま先から膝、腰、肩へ。
大亀流で何度も叩き込まれた、力を通す感覚。
掌底。
男の肋へ叩き込む。
鈍い音。
男の身体が折れた。
エリスの腕が自由になる。
「このっ!」
エリスは遠慮しなかった。
頭突き。
男の鼻へまともに入る。
男が倒れる。
レンは床の木刀を拾う。
ルーデウスも、押さえていた男を魔術で弾き飛ばし、転がるように距離を取っていた。
残る男たちは、もう完全に動揺している。
その時、倉庫の扉が外から破られた。
ギレーヌだった。
木剣を手に、獣のような目で倉庫の中を一望する。
男たちの顔から血の気が引いた。
終わりだった。
ギレーヌが踏み込む。
一人の手首を斬り落とす。
そのままの勢いで、もう一人の足を切断する。
逃げようとした男は、外で待っていた護衛に取り押さえられた。
倉庫の中に、荒い息と、倒れた木箱の音だけが残った。
◇
エリスは縄を振り払うようにして立ち上がった。
頬は赤く、目には涙が浮かんでいる。
だが、泣いてはいない。
怒りの方が強かった。
「何なのよ、これ!」
誰もすぐには答えなかった。
ルーデウスは床に手をついたまま、顔を上げられない。
ギレーヌは倒れた男たちの武器を確認している。
レンは木刀を握ったまま、エリスの横に立った。
エリスはルーデウスを睨む。
「ルーデウス。あんた、知ってたの?」
ルーデウスは答えない。
その沈黙が、答えだった。
エリスの顔が歪む。
「知ってたのね」
「……全部ではありません」
「何を知ってたの!」
倉庫の中に、エリスの声が響いた。
ルーデウスは拳を握る。
「エリス様に、僕を信用してもらうための……荒療治の予定でした」
「荒療治?」
「危険はないはずでした。短剣も、本物の暴力も、ここまでの人数も、予定には――」
「そんなの知らないわよ!」
エリスの拳が飛んだ。
ルーデウスは避けなかった。
頬を打たれ、床に倒れる。
乾いた音が倉庫に残った。
「最低!」
エリスは叫んだ。
「私を騙したのね!」
「……すみません」
「謝ればいいってものじゃない!」
「はい」
「怖かったのよ!」
その声は、怒鳴り声なのに震えていた。
「本当に、怖かったのよ……!」
ルーデウスは何も言えなかった。
レンも言えなかった。
エリスは強い。
前へ出る。
怖がらずに殴る。
だが、怖くないわけではない。
武器を持った大人に押さえつけられ、首に刃を当てられたのだ。
怖いに決まっている。
エリスは拳を握ったまま、ルーデウスを睨み続けた。
「でも」
彼女は歯を食いしばる。
「助けた」
ルーデウスが顔を上げる。
「え?」
「レンも、あんたも、助けた」
悔しそうな声だった。
「だから、今はそれで終わりにしてあげる」
「エリス様……」
「でも許してない!」
「はい」
「次に同じことしたら、もっと殴る!」
「今のもかなり……」
「もっとよ!」
ルーデウスは頬を押さえながら、苦笑とも泣きそうともつかない顔をした。
ギレーヌが戻ってくる。
その目は厳しかった。
「本来の手筈と違う」
ルーデウスが顔を強張らせる。
「やはり……」
「短剣は持たせないはずだった。人数も違う。外の見張りも聞いていない」
レンは木刀を握り直した。
仕組まれた荒療治。
だが、どこかで本物の危険が混じった。
それが偶然なのか、誰かの悪意なのかは分からない。
ただ一つ言えるのは、少し遅ければ本当に危なかったということだ。
ギレーヌはレンを見た。
「命令を破ったな」
「はい」
「なぜ来た」
「おかしいと思ったからです」
「私に止められたはずだ」
「はい」
「それでも来た」
「はい」
ギレーヌの目が鋭くなる。
レンは逃げなかった。
「来なかったら、後悔すると思いました」
倉庫の中が静かになる。
ギレーヌはしばらくレンを見ていた。
やがて、低く言う。
「判断は悪くない」
レンは少しだけ目を開いた。
「だが、命令違反は命令違反だ。後で来い」
「はい」
「外の見張りは倒したか」
「はい」
「中で隠れていた一人を見落としたな」
「はい」
「ルーデウスが見ていなければ刺されていた」
「はい」
「エリス様を人質に取られた時、木刀を捨てた判断はよかった。だが、その前に人質に取らせるな」
胸に刺さる言葉だった。
その通りだ。
木刀を捨てた判断は間違いではない。
だが、そもそもそこまで追い込まれたのが遅い。
レンは深く頭を下げる。
「次は、もっと早く動きます」
「早いだけでは足りない」
「はい」
「見るんだ」
「はい」
ギレーヌの言葉は短い。
だが、重い。
レンはそれを胸に刻んだ。
ルーデウスも立ち上がった。
「僕も、甘かったです」
彼の顔には、はっきりと後悔があった。
「信用を得るために、危険を演出する。そういうつもりでした。でも、予定外の危険が混じる可能性を考えきれていませんでした」
エリスはそっぽを向く。
「知らないわよ」
「はい」
「でも、明日も授業は受けるわ」
ルーデウスが目を見開いた。
エリスは振り返らないまま言う。
「勉強は嫌い。騙されたのも許してない。でも、あんたは助けた。だから、先生は続けていいわ」
「……ありがとうございます」
「勘違いしないで。許してないから」
「はい」
「あと、次の授業は肉串の計算からよ」
「分かりました」
「それと、魔術も教えなさい」
「はい」
「レン」
「何?」
「明日は三本勝負」
「今日の後で?」
「今日の後だからよ」
エリスは振り返った。
目は赤い。
けれど、折れてはいなかった。
「怖かったから、強くなるの」
レンは少しだけ息を呑んだ。
その言葉は、レンの胸の奥にあるものと似ていた。
怖い。
だから逃げるのではない。
怖いから、次は動けるようにする。
怖いから、強くなる。
レンは静かに頷いた。
「うん」
「次は、縄なんかかけられる前に殴る」
「殴る前に、見るのも入れた方がいい」
「見る。見てから殴る」
「それならいいと思う」
エリスはふんと鼻を鳴らした。
それはいつものエリスに戻ろうとしている合図のようだった。
◇
屋敷へ戻る道は、誰もあまり喋らなかった。
エリスは前を歩く。
ルーデウスはその後ろ。
頬は腫れている。
レンは周囲を見ながら歩いた。
ギレーヌは最後尾にいる。
今度は本当に護衛として。
風が吹く。
屋敷の塀が見える。
いつもと同じはずの景色が、少し違って見えた。
仕組まれた事件。
予定外の刃。
エリスの恐怖。
ルーデウスの後悔。
ギレーヌの叱責。
そして、自分の見落とし。
レンは木刀の柄に触れる。
今日は動けた。
足は止まらなかった。
だが、それだけでは足りない。
恐怖より先に動く。
それは始まりでしかない。
動いた先で、何を見るか。
誰を守るか。
どこを斬り、どこを斬らないか。
そこまで選べなければ、本当の意味では守れない。
前世の雨の日。
あの時の自分は、足が止まった。
今は止まらなかった。
けれど、まだ遅い。
まだ粗い。
まだ足りない。
レンは静かに息を吐いた。
屋敷の門をくぐる直前、エリスが振り返った。
「レン」
「何?」
「来たの、怒られるんでしょ」
「たぶん」
「でも、来てよかったわ」
短い言葉だった。
それだけ言って、エリスはすぐ前を向く。
顔は見えない。
だが、その耳が少し赤かった。
レンは小さく笑った。
「うん」
ルーデウスも、腫れた頬を押さえながら言った。
「僕も、助かりました」
「ルーデウスはまずエリスに謝り続けた方がいい」
「そうします」
「当然よ!」
エリスが前を向いたまま怒鳴る。
その声に、少しだけいつもの調子が戻っていた。
レンは空を見上げた。
ボレアス家での時間は、ただの滞在ではなくなっていた。
エリス。
ルーデウス。
ギレーヌ。
彼らとの関わりの中で、自分の剣は少しずつ別の重さを持ち始めている。
大亀流は、ただ相手を倒すためだけの剣ではない。
守るために。
見抜くために。
恐怖の中で、それでも一歩を選ぶために。
レン・クロガネは、腫れた頬のルーデウスと、怒りを抱えたエリスの背中を見ながら、次はもっと早く、もっと正しく動くと心に刻んだ。