無職転生×異伝   作:からし明太子

15 / 22
第十四話 仕組まれた荒療治

 

 

 その朝、屋敷の空気はいつもと少しだけ違っていた。

 

 廊下を歩く使用人の足音。

 

 庭を掃く箒の音。

 

 食堂から漂う焼きたてのパンの匂い。

 

 何もかも、いつも通りに見える。

 

 だが、レンは妙な引っかかりを覚えていた。

 

 ギレーヌの口数が少ない。

 

 フィリップの姿が朝食の席にない。

 

 ルーデウスが、いつもより少しだけ目を伏せる時間が長い。

 

 そして何より、エリスだけが何も気づいていない。

 

「今日は外で授業?」

 

 食堂で、エリスが目を輝かせた。

 

 勉強と聞けば露骨に嫌な顔をする彼女だが、「外」という言葉がつくだけで反応が変わる。

 

 ルーデウスはいつもの柔らかい笑みを浮かべた。

 

「はい。屋敷の外れにある古い倉庫を使うそうです」

 

「倉庫で何をするのよ」

 

「実地訓練、ですね」

 

「剣?」

 

「剣ではありません」

 

「じゃあつまらないわ」

 

「でも、座学だけよりは面白いと思いますよ」

 

 ルーデウスの声は落ち着いていた。

 

 けれど、レンには分かった。

 

 落ち着きすぎている。

 

 普段のルーデウスは、エリスに振り回されながらも、少し肩の力が抜けている。

 

 今は違う。

 

 言葉は柔らかい。

 

 表情も穏やか。

 

 だが、胸の奥で何かを固めているように見えた。

 

 レンは食事の手を止めた。

 

「ルーデウス」

 

「はい?」

 

「何かある?」

 

 小声で問う。

 

 ルーデウスは一瞬だけ目を動かした。

 

 その反応は速かった。

 

 速すぎた。

 

「授業の準備です」

 

「本当に?」

 

「ええ」

 

 嘘ではないのだろう。

 

 だが、全部ではない。

 

 レンはそう感じた。

 

 ルーデウスは、こういう時にすぐ嘘をつかない。

 

 言える範囲の本当だけを言う。

 

 そのあたりの器用さは、剣士とは別種の強さだった。

 

 エリスは二人のやり取りに気づき、眉を吊り上げる。

 

「何よ。また二人でこそこそ話して」

 

「こそこそはしてない」

 

「してたわ」

 

「小声だっただけ」

 

「それをこそこそって言うのよ!」

 

 いつものように怒鳴るエリス。

 

 その声を聞くと、少しだけ安心する。

 

 だが、胸の奥の引っかかりは消えなかった。

 

 ◇

 

 昼前。

 

 エリスとルーデウスは、屋敷の外れへ向かうことになった。

 

 レンも当然のように木刀を手に取る。

 

 だが、庭の出口でギレーヌに止められた。

 

「レン。お前は残れ」

 

「俺は行かなくていいんですか」

 

「今日はエリス様とルーデウスの授業だ」

 

「でも、外へ出るなら護衛は」

 

「私が見ている」

 

 そう言ったギレーヌは、しかし動く気配がなかった。

 

 見ている。

 

 ついていく、ではない。

 

 レンは目を細めた。

 

 やはり、おかしい。

 

 ギレーヌがエリスを危険に晒すはずがない。

 

 それなのに、今日だけは距離を置こうとしている。

 

 エリスは不満そうに振り返った。

 

「レンは来ないの?」

 

「今日は授業の邪魔になりますから」

 

 ルーデウスが答えた。

 

「何よ。つまらないわね」

 

「その分、僕が頑張ります」

 

「頼りないわ」

 

「努力します」

 

「努力だけじゃ駄目なのよ」

 

 そう言いながら、エリスは歩き出す。

 

 ルーデウスがその隣へ並ぶ。

 

 二人の背中が屋敷の外れへ遠ざかっていく。

 

 レンはその場に立ったまま、ギレーヌを見た。

 

「ギレーヌさん」

 

「何だ」

 

「本当に、俺は残るべきですか」

 

 ギレーヌの目が、わずかに細くなる。

 

「命令は残れ、だ」

 

 命令。

 

 その言葉で、レンはほとんど確信した。

 

 これは普通の授業ではない。

 

 そして自分は、意図的に外されている。

 

 レンがいれば、予定が狂う。

 

 そういうことなのだ。

 

 ギレーヌは低く言う。

 

「余計なことはするな」

 

 その声には、剣士としての圧があった。

 

 逆らえば止める。

 

 そう言われている。

 

 今のレンでは、ギレーヌを突破できない。

 

 真正面から逆らえば、一歩も進めずに地面へ転がされるだろう。

 

 だから、レンは静かに頭を下げた。

 

「分かりました」

 

 ギレーヌはそれ以上何も言わなかった。

 

 レンは背を向ける。

 

 屋敷へ戻るふりをする。

 

 角を曲がる。

 

 ギレーヌの視線が切れる。

 

 その瞬間、レンは足音を殺した。

 

 急がない。

 

 急げば気配が立つ。

 

 肩を揺らさない。

 

 腰を浮かせない。

 

 視線を先へ飛ばしすぎない。

 

 大亀流で叩き込まれた、身体を消すための歩き。

 

 完全ではない。

 

 玄斎ならすぐに見抜くだろう。

 

 宗一郎なら、鼻で笑うかもしれない。

 

 それでも、屋敷の使用人や並の護衛の目を外すには足りた。

 

 レンは裏口へ回り、外へ出た。

 

 ◇

 

 エリスとルーデウスの姿は、屋敷の外れへ続く道の向こうに見えた。

 

 レンは距離を取って追う。

 

 近づきすぎれば気づかれる。

 

 遠すぎれば、何かあった時に間に合わない。

 

 そのぎりぎりを選ぶ。

 

 塀の影。

 

 庭木の裏。

 

 古い石倉の角。

 

 身を隠せる場所を繋ぐ。

 

 前方では、エリスが不満そうに歩いていた。

 

「まだ着かないの?」

 

「もう少しです」

 

「倉庫で授業って、本当に意味あるの?」

 

「あると思います」

 

「思う、じゃなくてあるって言いなさいよ」

 

「あります」

 

「最初からそう言いなさい」

 

 いつもの調子だった。

 

 ルーデウスも、いつものように返している。

 

 けれど、彼の肩にはやはり硬さがある。

 

 レンは木刀の柄に触れた。

 

 何が起きる。

 

 誰が仕組んでいる。

 

 どこまでが予定だ。

 

 分からない。

 

 だが、危険の匂いがする。

 

 やがて、二人は古い倉庫の前に着いた。

 

 使われていない建物らしく、壁は少し汚れ、扉の金具も錆びている。

 

 周囲に人影はない。

 

 風が通る。

 

 静かすぎる。

 

 エリスは腕を組み、倉庫を見上げた。

 

「ここ?」

 

「はい」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

 ルーデウスが扉へ手をかける。

 

 レンは息を止めた。

 

 扉が開く。

 

 中は暗い。

 

 エリスが先に入る。

 

 ルーデウスも続く。

 

 次の瞬間、倉庫の中で足音が跳ねた。

 

 男の声。

 

 エリスの怒声。

 

「何よ、あんたたち!」

 

 続いて、鈍い音。

 

 誰かが暴れた音。

 

 ルーデウスの声も聞こえる。

 

「エリス様、落ち着いて!」

 

 レンは駆け出した。

 

 だが、倉庫へ向かう直前、右の物陰から男が飛び出した。

 

 棍棒。

 

 頭を狙った一撃。

 

 待ち伏せだ。

 

 レンは身を沈める。

 

 棍棒が頭上をかすめる。

 

 木刀を抜く。

 

 相手は大人。

 

 力は上。

 

 だが、動きは粗い。

 

 レンは男の懐へ入りすぎず、腕の外側へ出た。

 

 木刀を一息で落とす。

 

 手首。

 

 男が呻く。

 

 棍棒が揺れる。

 

 レンは続ける。

 

 肘。

 

 肩。

 

 短く、速く、打つ。

 

 大きく振れば壁に当たる。

 

 この狭い場所では、長い斬撃よりも短い打ち込みが生きる。

 

 男が下がる。

 

 レンはその足元へ木刀の先を入れた。

 

 膝裏。

 

 引っかける。

 

 崩す。

 

 男の体勢が前へ落ちる。

 

 しかし、倒れながらも男はレンの服を掴んだ。

 

 力が強い。

 

 子供の腕では、引き剥がせない。

 

 レンは引かなかった。

 

 近づく。

 

 柄頭を男の顎へ突き上げた。

 

 鈍い音。

 

 男の手が緩む。

 

 レンは身体を抜き、倉庫の扉へ走った。

 

 扉を押す。

 

 開かない。

 

 内側から押さえられている。

 

 中ではまだ暴れている音がする。

 

 エリスの怒声。

 

 男たちの怒鳴り声。

 

 何かが倒れる音。

 

 レンは扉を壊そうと木刀を構えかけた。

 

 だが、すぐにやめる。

 

 分厚い。

 

 時間がかかる。

 

 音も大きい。

 

 別の入口を探す。

 

 壁の上部に小窓があった。

 

 子供なら通れる大きさ。

 

 高いが、届かないほどではない。

 

 レンは壁の凹凸に足をかけ、身軽に上った。

 

 小窓から中を見る。

 

 倉庫の中には男が四人。

 

 エリスとルーデウスは捕らえられかけていた。

 

 エリスは腕を押さえられながらも、相手に噛みつこうとしている。

 

 ルーデウスは口を塞がれ、手を押さえられていた。

 

 縄が見える。

 

 短剣も見える。

 

 予定された荒療治にしては、物騒すぎる。

 

 レンは一瞬で配置を見る。

 

 エリスを押さえる男が一人。

 

 ルーデウスを押さえる男が一人。

 

 扉を押さえる男が一人。

 

 木箱の陰にもう一人。

 

 外で一人。

 

 合計五人。

 

 仕組まれたものだとしても、どこかで狂っている。

 

 レンは近くにあった小石を掴み、小窓から投げ込んだ。

 

 木箱に当たる。

 

 乾いた音。

 

 男の一人が振り向いた。

 

「誰だ!」

 

 その一瞬に、レンは小窓から飛び込んだ。

 

 着地。

 

 膝を殺す。

 

 音は出た。

 

 だが、止まらない。

 

 最も近い男が短剣を抜く。

 

 レンは木刀を低く構え、踏み込んだ。

 

 雷電型第一式。

 

 奇妙な半身から、相手の反応を引き出し、その上で三段を打つ。

 

 壱。

 

 短剣の手首を打つ。

 

 弐。

 

 肘を打つ。

 

 参。

 

 肩口へ木刀を落とす。

 

 男の腕が痺れ、短剣が床に落ちた。

 

 そのまま倒しきりたい。

 

 だが、エリスがいる。

 

 ルーデウスがいる。

 

 一人にかかりきりになる暇はない。

 

 次の男が棍棒を振る。

 

 大振り。

 

 倉庫の中では邪魔になる動き。

 

 レンは正面から受けず、相手の視界の外へ滑った。

 

 虚空型第一式、影縫。

 

 脱力した身体を回し、相手の目が追う場所から外れる。

 

 棍棒が空を打った。

 

 レンは男の背を取る。

 

 首を打てば終わる。

 

 だが、殺す場面ではない。

 

 木刀を低く走らせ、膝裏を打つ。

 

 男が崩れる。

 

 柄で鳩尾を突く。

 

 二人目が膝をついた。

 

「レン!」

 

 エリスの声。

 

 彼女は縄をかけられかけていた。

 

 だが、まだ暴れている。

 

 押さえた男の手に噛みつき、足を踏み、頭突きを狙う。

 

 ルーデウスは床へ押さえ込まれながら、こちらを見た。

 

 その目が、わずかに横へ動く。

 

 右。

 

 レンは反射的にそちらを見る。

 

 木箱の陰から、隠れていた男が飛び出した。

 

 短剣。

 

 レンの脇腹へ向かってくる。

 

 見落としていた。

 

 ルーデウスの目がなければ、刺されていた。

 

 レンは身をひねる。

 

 刃が服を裂いた。

 

 浅く皮膚をかすめる。

 

 熱い痛み。

 

 だが、止まらない。

 

 距離が近い。

 

 木刀を大きく振れない。

 

 レンは木刀を短く持ち、相手の短剣へ当てた。

 

 刃と木刀が触れる。

 

 その瞬間、手首を回す。

 

 土公型第一式、荒神。

 

 相手の武器を狙い、接触の瞬間に回転を加えて軌道を崩す。

 

 刀同士ではない。

 

 木刀と短剣。

 

 それでも理合は通じた。

 

 短剣が外へ弾かれ、男の手首が捻れる。

 

「ぐっ!」

 

 短剣が床へ落ちる。

 

 レンは踏み込み、男の脛を打つ。

 

 倒れた男を越え、エリスへ向かう。

 

 だが、そこで男がエリスの首元へ短剣を当てた。

 

「動くな!」

 

 レンは止まった。

 

 エリスの首に、刃がある。

 

 ほんの少し動くだけで血が出る距離。

 

 男は焦っている。

 

 手が震えている。

 

 焦った人間は危ない。

 

 力加減を間違える。

 

 エリスは歯を食いしばっている。

 

 怖いはずだ。

 

 だが、目は死んでいない。

 

 ルーデウスはまだ押さえられている。

 

 口も塞がれている。

 

 魔術を使おうとしているが、体勢が悪い。

 

 レンは息を殺した。

 

 距離は三歩弱。

 

 男の短剣はエリスの首。

 

 こちらの木刀は届かない。

 

 踏み込むより、男の刃が動く方が早い。

 

 ならどうする。

 

 真正面からの速さでは駄目だ。

 

 必要なのは、短剣を首から離すこと。

 

 男が叫ぶ。

 

「木刀を捨てろ!」

 

 レンはゆっくり木刀を下げた。

 

 エリスが目を見開く。

 

「レン、何して――」

 

「黙れ!」

 

 男の短剣がわずかにエリスの肌へ触れる。

 

 赤い線が浮かんだ。

 

 レンの腹の奥が冷える。

 

 木刀を床へ落とす。

 

 乾いた音。

 

 男の視線が一瞬、木刀へ落ちた。

 

 その瞬間、ルーデウスが動いた。

 

 彼の指先の近くで、小さな土の粒が弾ける。

 

 大きな魔術ではない。

 

 押さえていた男の手元を跳ね上げるだけの小さな魔術。

 

 だが、それで十分だった。

 

 ルーデウスの口が空く。

 

 詠唱はほとんどない。

 

 水が生まれた。

 

 小さな水弾が、エリスを押さえる男の顔面へ飛ぶ。

 

 男が反射的に目を閉じる。

 

 短剣が首から離れた。

 

 レンは床を蹴った。

 

 木刀はない。

 

 だが、身体はある。

 

 つま先から膝、腰、肩へ。

 

 大亀流で何度も叩き込まれた、力を通す感覚。

 

 掌底。

 

 男の肋へ叩き込む。

 

 鈍い音。

 

 男の身体が折れた。

 

 エリスの腕が自由になる。

 

「このっ!」

 

 エリスは遠慮しなかった。

 

 頭突き。

 

 男の鼻へまともに入る。

 

 男が倒れる。

 

 レンは床の木刀を拾う。

 

 ルーデウスも、押さえていた男を魔術で弾き飛ばし、転がるように距離を取っていた。

 

 残る男たちは、もう完全に動揺している。

 

 その時、倉庫の扉が外から破られた。

 

 ギレーヌだった。

 

 木剣を手に、獣のような目で倉庫の中を一望する。

 

 男たちの顔から血の気が引いた。

 

 終わりだった。

 

 ギレーヌが踏み込む。

 

 一人の手首を斬り落とす。

 

 そのままの勢いで、もう一人の足を切断する。

 

 逃げようとした男は、外で待っていた護衛に取り押さえられた。

 

 倉庫の中に、荒い息と、倒れた木箱の音だけが残った。

 

 ◇

 

 エリスは縄を振り払うようにして立ち上がった。

 

 頬は赤く、目には涙が浮かんでいる。

 

 だが、泣いてはいない。

 

 怒りの方が強かった。

 

「何なのよ、これ!」

 

 誰もすぐには答えなかった。

 

 ルーデウスは床に手をついたまま、顔を上げられない。

 

 ギレーヌは倒れた男たちの武器を確認している。

 

 レンは木刀を握ったまま、エリスの横に立った。

 

 エリスはルーデウスを睨む。

 

「ルーデウス。あんた、知ってたの?」

 

 ルーデウスは答えない。

 

 その沈黙が、答えだった。

 

 エリスの顔が歪む。

 

「知ってたのね」

 

「……全部ではありません」

 

「何を知ってたの!」

 

 倉庫の中に、エリスの声が響いた。

 

 ルーデウスは拳を握る。

 

「エリス様に、僕を信用してもらうための……荒療治の予定でした」

 

「荒療治?」

 

「危険はないはずでした。短剣も、本物の暴力も、ここまでの人数も、予定には――」

 

「そんなの知らないわよ!」

 

 エリスの拳が飛んだ。

 

 ルーデウスは避けなかった。

 

 頬を打たれ、床に倒れる。

 

 乾いた音が倉庫に残った。

 

「最低!」

 

 エリスは叫んだ。

 

「私を騙したのね!」

 

「……すみません」

 

「謝ればいいってものじゃない!」

 

「はい」

 

「怖かったのよ!」

 

 その声は、怒鳴り声なのに震えていた。

 

「本当に、怖かったのよ……!」

 

 ルーデウスは何も言えなかった。

 

 レンも言えなかった。

 

 エリスは強い。

 

 前へ出る。

 

 怖がらずに殴る。

 

 だが、怖くないわけではない。

 

 武器を持った大人に押さえつけられ、首に刃を当てられたのだ。

 

 怖いに決まっている。

 

 エリスは拳を握ったまま、ルーデウスを睨み続けた。

 

「でも」

 

 彼女は歯を食いしばる。

 

「助けた」

 

 ルーデウスが顔を上げる。

 

「え?」

 

「レンも、あんたも、助けた」

 

 悔しそうな声だった。

 

「だから、今はそれで終わりにしてあげる」

 

「エリス様……」

 

「でも許してない!」

 

「はい」

 

「次に同じことしたら、もっと殴る!」

 

「今のもかなり……」

 

「もっとよ!」

 

 ルーデウスは頬を押さえながら、苦笑とも泣きそうともつかない顔をした。

 

 ギレーヌが戻ってくる。

 

 その目は厳しかった。

 

「本来の手筈と違う」

 

 ルーデウスが顔を強張らせる。

 

「やはり……」

 

「短剣は持たせないはずだった。人数も違う。外の見張りも聞いていない」

 

 レンは木刀を握り直した。

 

 仕組まれた荒療治。

 

 だが、どこかで本物の危険が混じった。

 

 それが偶然なのか、誰かの悪意なのかは分からない。

 

 ただ一つ言えるのは、少し遅ければ本当に危なかったということだ。

 

 ギレーヌはレンを見た。

 

「命令を破ったな」

 

「はい」

 

「なぜ来た」

 

「おかしいと思ったからです」

 

「私に止められたはずだ」

 

「はい」

 

「それでも来た」

 

「はい」

 

 ギレーヌの目が鋭くなる。

 

 レンは逃げなかった。

 

「来なかったら、後悔すると思いました」

 

 倉庫の中が静かになる。

 

 ギレーヌはしばらくレンを見ていた。

 

 やがて、低く言う。

 

「判断は悪くない」

 

 レンは少しだけ目を開いた。

 

「だが、命令違反は命令違反だ。後で来い」

 

「はい」

 

「外の見張りは倒したか」

 

「はい」

 

「中で隠れていた一人を見落としたな」

 

「はい」

 

「ルーデウスが見ていなければ刺されていた」

 

「はい」

 

「エリス様を人質に取られた時、木刀を捨てた判断はよかった。だが、その前に人質に取らせるな」

 

 胸に刺さる言葉だった。

 

 その通りだ。

 

 木刀を捨てた判断は間違いではない。

 

 だが、そもそもそこまで追い込まれたのが遅い。

 

 レンは深く頭を下げる。

 

「次は、もっと早く動きます」

 

「早いだけでは足りない」

 

「はい」

 

「見るんだ」

 

「はい」

 

 ギレーヌの言葉は短い。

 

 だが、重い。

 

 レンはそれを胸に刻んだ。

 

 ルーデウスも立ち上がった。

 

「僕も、甘かったです」

 

 彼の顔には、はっきりと後悔があった。

 

「信用を得るために、危険を演出する。そういうつもりでした。でも、予定外の危険が混じる可能性を考えきれていませんでした」

 

 エリスはそっぽを向く。

 

「知らないわよ」

 

「はい」

 

「でも、明日も授業は受けるわ」

 

 ルーデウスが目を見開いた。

 

 エリスは振り返らないまま言う。

 

「勉強は嫌い。騙されたのも許してない。でも、あんたは助けた。だから、先生は続けていいわ」

 

「……ありがとうございます」

 

「勘違いしないで。許してないから」

 

「はい」

 

「あと、次の授業は肉串の計算からよ」

 

「分かりました」

 

「それと、魔術も教えなさい」

 

「はい」

 

「レン」

 

「何?」

 

「明日は三本勝負」

 

「今日の後で?」

 

「今日の後だからよ」

 

 エリスは振り返った。

 

 目は赤い。

 

 けれど、折れてはいなかった。

 

「怖かったから、強くなるの」

 

 レンは少しだけ息を呑んだ。

 

 その言葉は、レンの胸の奥にあるものと似ていた。

 

 怖い。

 

 だから逃げるのではない。

 

 怖いから、次は動けるようにする。

 

 怖いから、強くなる。

 

 レンは静かに頷いた。

 

「うん」

 

「次は、縄なんかかけられる前に殴る」

 

「殴る前に、見るのも入れた方がいい」

 

「見る。見てから殴る」

 

「それならいいと思う」

 

 エリスはふんと鼻を鳴らした。

 

 それはいつものエリスに戻ろうとしている合図のようだった。

 

 ◇

 

 屋敷へ戻る道は、誰もあまり喋らなかった。

 

 エリスは前を歩く。

 

 ルーデウスはその後ろ。

 

 頬は腫れている。

 

 レンは周囲を見ながら歩いた。

 

 ギレーヌは最後尾にいる。

 

 今度は本当に護衛として。

 

 風が吹く。

 

 屋敷の塀が見える。

 

 いつもと同じはずの景色が、少し違って見えた。

 

 仕組まれた事件。

 

 予定外の刃。

 

 エリスの恐怖。

 

 ルーデウスの後悔。

 

 ギレーヌの叱責。

 

 そして、自分の見落とし。

 

 レンは木刀の柄に触れる。

 

 今日は動けた。

 

 足は止まらなかった。

 

 だが、それだけでは足りない。

 

 恐怖より先に動く。

 

 それは始まりでしかない。

 

 動いた先で、何を見るか。

 

 誰を守るか。

 

 どこを斬り、どこを斬らないか。

 

 そこまで選べなければ、本当の意味では守れない。

 

 前世の雨の日。

 

 あの時の自分は、足が止まった。

 

 今は止まらなかった。

 

 けれど、まだ遅い。

 

 まだ粗い。

 

 まだ足りない。

 

 レンは静かに息を吐いた。

 

 屋敷の門をくぐる直前、エリスが振り返った。

 

「レン」

 

「何?」

 

「来たの、怒られるんでしょ」

 

「たぶん」

 

「でも、来てよかったわ」

 

 短い言葉だった。

 

 それだけ言って、エリスはすぐ前を向く。

 

 顔は見えない。

 

 だが、その耳が少し赤かった。

 

 レンは小さく笑った。

 

「うん」

 

 ルーデウスも、腫れた頬を押さえながら言った。

 

「僕も、助かりました」

 

「ルーデウスはまずエリスに謝り続けた方がいい」

 

「そうします」

 

「当然よ!」

 

 エリスが前を向いたまま怒鳴る。

 

 その声に、少しだけいつもの調子が戻っていた。

 

 レンは空を見上げた。

 

 ボレアス家での時間は、ただの滞在ではなくなっていた。

 

 エリス。

 

 ルーデウス。

 

 ギレーヌ。

 

 彼らとの関わりの中で、自分の剣は少しずつ別の重さを持ち始めている。

 

 大亀流は、ただ相手を倒すためだけの剣ではない。

 

 守るために。

 

 見抜くために。

 

 恐怖の中で、それでも一歩を選ぶために。

 

 レン・クロガネは、腫れた頬のルーデウスと、怒りを抱えたエリスの背中を見ながら、次はもっと早く、もっと正しく動くと心に刻んだ。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。