フィリップ・ボレアス・グレイラットは、怒鳴らなかった。
屋敷へ戻った後、応接室に集められたレンたちの前で、彼は静かに椅子へ腰を下ろしていた。
その静けさが、逆に重かった。
エリスは腕を組み、顔を背けている。
ルーデウスは腫れた頬を押さえたまま、視線を落としている。
レンは木刀を腰に戻し、部屋の端に立っていた。
ギレーヌは壁際で腕を組んでいる。
いつも通り無表情に見えるが、彼女がわずかに苛立っていることは、レンにも分かった。
フィリップはまず、ルーデウスを見た。
「ルーデウス」
「はい」
「今回の件について、君から説明してくれるかな」
ルーデウスは一度、唇を結んだ。
そして、頭を下げる。
「エリス様に授業を受け入れてもらうため、信頼を得るきっかけが必要だと考えました。そこで、危険のない範囲で誘拐を装い、僕が助けるという形を提案しました」
エリスの眉が動く。
怒りを飲み込んでいる顔だった。
フィリップは表情を変えない。
「続けて」
「本来は、雇った者たちに短剣を持たせない手筈でした。人数も少なく、ギレーヌさんがすぐ近くで監視する予定だったと聞いています」
「実際は違った」
「はい。人数も違い、武器も本物でした。僕の想定が甘かったです」
ルーデウスは深く頭を下げた。
「エリス様を危険に晒しました。申し訳ありません」
エリスは黙っていた。
拳だけが、ぎゅっと握られている。
次にフィリップはギレーヌを見る。
「ギレーヌ」
「はい」
「君の判断は?」
「私の監視が甘かったのは事実です」
ギレーヌは短く答えた。
「ただし、手筈そのものが途中で変えられていました。雇った者のうち数名が、別の者と入れ替わっていた可能性があります」
「裏があると?」
「はい」
部屋の空気が変わった。
レンは静かに息を吸う。
ただの失敗ではない。
誰かが、仕組まれた荒療治に本物の刃を混ぜた。
エリスを狙ったのか。
ルーデウスを狙ったのか。
ボレアス家への嫌がらせか。
そこまでは分からない。
だが、単なる事故では片づかない。
フィリップはしばらく考え込んだ。
穏やかな顔のまま、目だけが鋭い。
この人もまた、剣とは違う場所で戦う人間なのだと、レンは思った。
フィリップの視線がレンに向く。
「レン」
「はい」
「君は命令に反して、二人を追ったそうだね」
「はい」
「なぜかな」
「おかしいと思ったからです」
「ギレーヌに止められても?」
「はい」
「自分の判断が間違っている可能性は考えなかった?」
「考えました」
「それでも行った」
「はい」
レンは真っ直ぐ答えた。
「行かなかった時に何か起きたら、後悔すると思いました」
フィリップはしばらく黙っていた。
怒られる。
そう思った。
命令違反は事実だ。
結果的に助けになったとしても、勝手に動いたことに変わりはない。
だが、フィリップは怒鳴らなかった。
「君は、危険だね」
静かな言葉だった。
レンは目を伏せずに聞いた。
「はい」
「命令より自分の判断を優先する子供は、扱いにくい」
「はい」
「だが、今回に限れば、その判断に救われた」
フィリップは小さく息を吐いた。
「ありがとう。エリスとルーデウスを助けてくれた」
レンは頭を下げた。
「俺一人では無理でした。ルーデウスの魔術がなければ、エリス様を人質から外せませんでした」
ルーデウスがわずかにこちらを見る。
フィリップも、その言葉に少し目を細めた。
「それでも、君が動いたことは事実だ」
「はい」
「その上で、罰も必要だ」
「はい」
エリスが反応した。
「ちょっと待ちなさいよ! レンは助けに来たのよ!」
「エリス」
フィリップの声は穏やかだった。
「助けたことと、命令を破ったことは別だ」
「でも!」
「君も、怒るべき相手と感謝すべき相手を混同してはいけない」
エリスは言葉に詰まった。
悔しそうに唇を噛む。
フィリップはレンへ戻る。
「罰といっても、屋敷から追い出すつもりはない。しばらくの間、君はギレーヌの指示なしに屋敷の外へ出ないこと。そして、通常の稽古に加えて、護衛としての立ち回りを学ぶこと」
「それは罰ですか」
「罰であり、訓練だ」
フィリップは微笑んだ。
「君には必要だろう?」
レンは一拍置いて、頭を下げた。
「はい」
ギレーヌが横から言う。
「厳しくやる」
「お願いします」
レンが即答すると、エリスが嫌そうな顔をした。
「レン、分かってるの? ギレーヌの厳しいは、本当に厳しいわよ」
「知ってる」
「知らないわよ。これからもっと痛いわよ」
「なら、必要だと思う」
「変なの」
エリスはそう言ったが、どこか安心したようにも見えた。
◇
その時、応接室の扉が勢いよく開いた。
「エリスは無事か!」
雷のような大声だった。
レンは反射的に木刀へ手を伸ばしかけた。
だが、ギレーヌが動かない。
フィリップも驚いていない。
入ってきたのは、大柄な老人だった。
老人と言っても、枯れた印象はまるでない。
太い首。
厚い胸板。
燃えるような気配。
白髪混じりの髪と髭。
立っているだけで部屋が狭く感じる。
エリスがびくりと肩を跳ねさせた。
「お祖父様……」
老人はエリスを見るなり、大股で近づいた。
そして、がしりと両肩を掴む。
「怪我はないか!」
「な、ないわよ」
「首に傷があるではないか!」
「かすっただけよ!」
「許さん! 誰だ! 誰がやった! 全員吊るせ!」
声が大きい。
屋敷の壁が揺れるのではないかと思うほどだった。
レンは思わず目を瞬かせた。
これが、ボレアス家の当主。
サウロス・ボレアス・グレイラット。
噂には少し聞いていた。
フィットア領の大物。
豪放な人物。
エリスの祖父。
だが、実物は想像以上だった。
エリスの気性の強さは、この老人の血なのかもしれない。
フィリップが静かに言う。
「父上。落ち着いてください」
「落ち着いておる!」
まったく落ち着いていない声だった。
「エリスを傷つけた者を捕らえたのだな!」
「はい。すでに尋問に回しています」
「ならばよし!」
サウロスは鼻息荒く頷き、次にルーデウスを見た。
「お前が新しい家庭教師か!」
「は、はい。ルーデウス・グレイラットです」
「エリスを危険に晒したと聞いたぞ!」
「申し訳ありません」
ルーデウスは深く頭を下げた。
サウロスの目がぎらりと光る。
だが、エリスが間に入った。
「お祖父様」
「何だ、エリス!」
「ルーデウスはむかつくわ。騙したし、最低だし、まだ許してないわ」
「ならば追い出すか!」
「でも助けたの」
サウロスが止まった。
エリスは悔しそうに続ける。
「だから、まだ先生でいい」
ルーデウスが目を見開いた。
サウロスはしばらくエリスを見ていた。
やがて、豪快に笑い出す。
「がはははは! そうか! エリスがそう言うならよし!」
「よしなの?」
「ただし、次にエリスを危険に晒したらただでは済まさん!」
「はい」
ルーデウスはもう一度頭を下げた。
次にサウロスの視線がレンへ向いた。
その圧が真正面から来る。
レンは背筋を伸ばした。
「お前がレンか!」
「はい。レン・クロガネです」
「エリスを助けたそうだな!」
「ルーデウスとギレーヌさんがいたからです」
「謙遜するな!」
声が大きい。
それだけで怒られているような気分になる。
サウロスはレンの肩を力強く叩いた。
重い。
木剣で打たれたわけでもないのに、身体が揺れた。
「小さいのに根性がある! 気に入った!」
「ありがとうございます」
「エリスの稽古相手をしているそうだな!」
「はい」
「もっと鍛えてやれ! こやつは強くなるぞ!」
「お祖父様、私はもう強いわ!」
「そうだ! だがもっと強くなれ!」
「当然よ!」
二人の声が重なり、部屋がさらに騒がしくなる。
レンは少しだけ、エリスの未来を見た気がした。
この祖父がいて、今のエリスがいる。
納得できすぎるほどだった。
◇
その日の午後から、レンへの罰という名の訓練が始まった。
場所は庭ではなく、屋敷の裏手にある狭い通路だった。
右は壁。
左は倉庫。
前後に逃げ道はあるが、横への余裕は少ない。
ギレーヌは木剣を持ち、レンの前に立つ。
エリスとルーデウスも見学していた。
サウロスまで来ようとしたが、フィリップに止められたらしい。
「今日から、お前には護衛の動きを教える」
ギレーヌが言った。
「剣士として相手を倒すのと、誰かを守るのは違う」
「はい」
「相手を見すぎれば、守る対象を見失う。守る対象を見すぎれば、敵に斬られる」
「はい」
「昨日のお前は、両方を見ようとして、両方が甘くなった」
胸に刺さる。
だが、その通りだ。
レンはエリスを気にしすぎ、敵の一人を見落とした。
ルーデウスの視線がなければ、短剣を受けていた。
「今日は、エリス様を守りながら私から逃げろ」
「え?」
レンは思わず聞き返した。
ギレーヌは当然のように続ける。
「エリス様はそこにお立ちください」
指されたのは、通路の中央。
エリスは目を輝かせた。
「私は何をすればいいの?」
「動かないでください」
「嫌よ」
「動かないでください」
「……分かったわよ」
エリスは不満そうにしながら、指定された位置へ立った。
ギレーヌはレンを見る。
「私がお前を狙う。時にはエリス様も狙う。お前は自分が打たれず、エリス様にも触れさせるな」
「難しくないですか」
「難しいからやる」
それは玄斎もよく言う言葉だった。
レンは木刀を構えた。
通路は狭い。
大きな斬撃は使いにくい。
火柱のような振り下ろしは壁に当たる危険がある。
紅蓮旋など論外だ。
今のレンは習得していないが、仮に知っていても使う場所ではない。
雷電型の踏み込みも、深く入りすぎるとエリスとの位置関係が崩れる。
虚空型で外れれば、自分だけ助かってエリスが残る可能性がある。
水龍型で軌道を変えるなら、狭い空間でも使える。
土公型で武器を崩すのも有効。
ただし、相手はギレーヌ。
小手先では通じない。
「始める」
ギレーヌが言った瞬間、木剣が来た。
速い。
狙いはレンではない。
エリスの肩。
レンは一歩入る。
木刀を斜めに置き、軌道をずらす。
真正面から受ければ押し負ける。
ギレーヌの木剣は重い。
レンの腕に衝撃が走る。
だが、エリスには届かせない。
次の瞬間、ギレーヌの柄がレンの腹へ来る。
レンは横へ外れようとした。
だが、横へ外れればエリスが空く。
なら、下がる。
エリスごと下げる必要がある。
「エリス、半歩後ろ!」
「命令しないで!」
「後ろ!」
エリスは文句を言いながらも、半歩下がった。
その隙にレンは木刀を下から上げ、ギレーヌの柄を弾く。
弾いたつもりだった。
だが、ギレーヌの木剣はすでに別の角度から来ている。
レンの肩に触れた。
「死んだ」
短い言葉。
一本目は、あっけなく終わった。
エリスが唇を尖らせる。
「今の、私が下がるの遅かった?」
「両方です」
ギレーヌは即答した。
「レンの指示が遅い。エリス様の反応も遅い」
「む」
「守られる側も、ただ立っているだけでは足手まといになります」
エリスの目が変わった。
「じゃあ、私も稽古なのね」
「そうです」
「なら最初からそう言いなさいよ!」
ギレーヌは相手にしない。
「もう一度」
二本目。
今度はギレーヌがレンを狙った。
喉元。
木剣の突き。
レンは木刀で外へ払う。
そこへ、ギレーヌの足が動く。
レンの横を抜け、エリスへ向かう角度。
速い。
レンは追う。
雷電型第一式・落雷の踏み込み。
相手の間合いへ入り、壱・弐・参へ繋げる。
壱でギレーヌの手元を狙う。
弐で進路を塞ぐ。
参で肩口へ。
だが、ギレーヌは壱の時点で踏み込みを変えていた。
レンの木刀が空を切る。
エリスへ木剣が伸びる。
エリスは自分で半歩下がった。
昨日までなら突っ立っていたか、前へ出ていたかもしれない。
だが、今回は下がった。
木剣がエリスの鼻先をかすめる。
触れてはいない。
ギレーヌの目が少し動く。
その一瞬に、レンは木刀を返した。
水龍型第一式、逆鱗。
上から受けると見せて、握りを替え、ギレーヌの木剣の外側へ軌道を滑らせる。
ギレーヌの剣を完全には止められない。
だが、ほんの少しだけ逸らした。
エリスには届かない。
次の瞬間、ギレーヌの膝がレンの腹の寸前で止まった。
「そこまで」
レンは息を詰めた。
「今のは?」
「膝で終わっていた」
「はい」
「だが、エリス様には触れなかった」
レンは息を吐いた。
完敗だ。
だが、一つ守った。
エリスが少し得意げに言う。
「私も下がったわ」
「はい」
ギレーヌが頷く。
「今のはよかったです」
「でしょ!」
「ただし、下がった後に足が揃っています。次に動けません」
「褒めた後すぐそれ!?」
「褒めることと直すことは別です」
エリスは悔しそうに歯を食いしばった。
しかし、怒鳴りながらも足元を見ている。
成長している。
レンはそれを見て、少しだけ笑った。
「何笑ってるのよ」
「いや、エリスも見てるなと思って」
「当たり前よ!」
三本目。
ギレーヌはさらに速くなった。
レンは自分だけなら外れられる場面で、あえて外れなかった。
自分の後ろにはエリスがいる。
なら、そこは退けない。
木刀で受ける。
流す。
逸らす。
短く打つ。
火柱のような大きな破壊力は出せない。
狭い場所では、焔燃型の力をそのまま振るうより、肘を使って短く衝撃を通す方がいい。
ギレーヌの手元が一瞬落ちた。
そこへ土公型の理合で武器を狙う。
荒神。
木刀を回し、木剣の軌道を外へ弾く。
完全には弾けない。
だが、エリスからは逸れた。
その代わり、レンの脇腹へギレーヌの木剣が入った。
痛みが走る。
「死んだ」
ギレーヌが言う。
レンは片膝をついた。
息が苦しい。
だが、エリスは無傷だ。
ギレーヌは木剣を下ろす。
「今のは、お前が死んでエリス様が生きた」
「駄目ですか」
「状況による」
ギレーヌは淡々と答えた。
「護衛なら、それで正解の時もある。だが、毎回それを選べば、すぐ死ぬ。死んだ護衛は次を守れない」
レンは脇腹を押さえながら頷いた。
「はい」
「守るために死ぬ覚悟は必要だ。だが、死なずに守る技術はもっと必要だ」
その言葉は深く刺さった。
前世の雨の日、レンは身体を投げ出した。
子供は助かった。
自分は死んだ。
それは間違いではない。
だが、もし死なずに守る力があったなら。
もっと早く動けていたなら。
もっと正しく動けていたなら。
今のギレーヌの言葉は、レンの根に触れていた。
「もう一度お願いします」
レンは言った。
「今日はここまでだ」
ギレーヌは即答した。
「まだ動けます」
「動けるから駄目だ」
それも、玄斎と同じだった。
動けるうちに止める。
悪い癖をつけないために。
レンは悔しさを飲み込む。
「はい」
エリスが近づいてきた。
「レン」
「何?」
「今の、私は生きたのよね」
「うん」
「でも、あんた死んだのよね」
「そうだね」
「それ、むかつくわ」
レンは少し目を丸くした。
エリスは腕を組み、そっぽを向く。
「私を守って死ぬのは勝手だけど、私は嫌よ」
「勝手なんだ」
「勝手よ。でも嫌」
エリスらしい言い方だった。
ギレーヌが静かに言う。
「なら、エリス様も動けるようになることです」
「分かってるわよ」
「守られるだけではなく、共に生き残る」
エリスはその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
「共に生き残る……」
レンも同じ言葉を胸に置いた。
守る。
守られる。
それだけでは足りない。
共に生き残る。
それができれば、もっと先へ行ける。
◇
ルーデウスは、離れた場所でその訓練を見ていた。
頬の腫れは少し引いている。
だが、まだ痛そうだった。
彼は静かに近づいてくる。
「すごい訓練ですね」
「痛いよ」
「見ていて分かります」
「ルーデウスもやる?」
「遠慮しておきます」
即答だった。
エリスが睨む。
「何でよ。あんたも逃げる練習した方がいいわよ」
「僕の場合、近づかれる前に何とかしたいです」
「近づかれたら?」
「泣きます」
「情けないわね」
「なので、近づかれないように頑張ります」
ルーデウスは苦笑する。
だが、その目は真面目だった。
「でも、今日の訓練は魔術師にも必要かもしれません。守る対象がいる時、どう動くか。魔術を撃つ角度も変わりますから」
レンは頷いた。
「倉庫の時、ルーデウスが小さい魔術で手を外してくれたから動けた」
「レン君が木刀を捨ててくれたから、相手の視線が動きました」
「エリスが頭突きしたから倒せた」
「私が一番偉いわね」
エリスが胸を張る。
レンとルーデウスは顔を見合わせた。
「まあ、最後はそうかも」
「ですね」
「何よ、その言い方!」
エリスが怒る。
その怒り方は、昨日の倉庫でのものとは違う。
いつものエリスに戻りつつある。
ルーデウスは少しほっとしたように笑った。
レンも同じだった。
完全に元通りではない。
あの事件は、三人の間に傷と変化を残した。
だが、その傷の上に、次の関係が少しずつでき始めている。
◇
夜。
レンは部屋で木刀を拭いていた。
今日の訓練で、木刀にはまた傷が増えた。
ギレーヌの木剣を受けた跡。
荒神で回した時についた擦れ。
脇腹には痛みが残っている。
だが、それ以上に頭の中が忙しかった。
守るために死ぬ覚悟は必要。
だが、死なずに守る技術はもっと必要。
ギレーヌの言葉が何度も回る。
前世の自分は、死んで守った。
それしかできなかった。
今度は違う。
今度こそ、死なずに守る。
怖くても動く。
動いた上で、生き残る。
そのためには、もっと見なければならない。
敵。
味方。
足場。
武器。
呼吸。
逃げ道。
そして、自分が死なない道。
扉の外で足音がした。
今日は二つ。
エリスの荒い足音と、ルーデウスの控えめな足音。
「入るわよ」
エリスの声。
「どうぞ」
扉が開く。
エリスとルーデウスが入ってきた。
エリスはいつものように床へ座り、ルーデウスは少し遠慮がちに椅子へ座る。
「何してるの」
「木刀の手入れ」
「毎日ね」
「毎日使うから」
「私の木剣も手入れした方がいい?」
「した方がいいと思う」
「じゃあ明日やるわ」
エリスはそう言って、レンの木刀を見た。
そこに増えた傷に気づいたのか、少しだけ黙る。
「今日、痛かった?」
「痛かった」
「ギレーヌ容赦ないものね」
「必要だから」
「分かってるわよ」
エリスは膝を抱えた。
ルーデウスが静かに言う。
「今日の訓練を見て、少し考えました」
「何を?」
レンが聞く。
「僕たちは、それぞれできることが違います」
「当たり前じゃない」
エリスが言う。
「私は斬る。レンは変な動きで斬る。ルーデウスは魔術」
「変な動きは余計だ」
「変なのは事実でしょ」
「まあ」
ルーデウスは少し笑った後、続ける。
「でも、倉庫では一人では足りませんでした。レン君が来て、僕が魔術で隙を作って、エリス様が暴れて、ギレーヌさんが来て終わった」
「私が暴れて、って何よ」
「正確には、エリス様が勇敢に抵抗して、です」
「最初からそう言いなさい」
「はい」
ルーデウスは素直に頷いた。
「だから、これからは三人での動きも考えた方がいいかもしれません」
「三人で?」
「はい。エリス様が前に出る。レン君が横から崩す。僕が魔術で足場や視界を変える」
レンは少し考えた。
エリスの正面突破。
レンの大亀流による崩しと間合い操作。
ルーデウスの魔術。
確かに、三つが噛み合えば強い。
ただし、噛み合わなければ邪魔になる。
エリスが前に出すぎれば、魔術の射線に入る。
レンが外れすぎれば、エリスが孤立する。
ルーデウスが距離を取りすぎれば、近接に対応できない。
難しい。
だからこそ、やる意味がある。
「面白そう」
レンが言うと、エリスの目が輝いた。
「やるわ!」
「まだ説明の途中ですが」
「やるって決めたらやるのよ!」
「ギレーヌさんに相談してから」
レンが言うと、エリスは不満そうにしながらも頷いた。
「明日言うわ」
「エリスが言うと、稽古じゃなくて暴れたいだけに聞こえる」
「じゃあレンが言いなさい」
「ルーデウスが考えたんだから、ルーデウスが」
二人の視線がルーデウスへ向く。
ルーデウスは苦笑した。
「分かりました。僕が言います」
「よし!」
エリスは満足そうに頷いた。
そして、唐突に立ち上がる。
「じゃあ、明日に備えて寝るわ!」
「珍しいね」
「強くなるには寝るのも大事ってギレーヌが言ってたのよ」
「それは正しい」
「でしょ!」
エリスは胸を張り、部屋を出ていった。
ルーデウスも立ち上がる。
扉の前で、彼はレンを振り返った。
「レン君」
「何?」
「昨日は、本当にありがとうございました」
「それはもう聞いた」
「何度でも言います」
ルーデウスの声は静かだった。
「僕一人では、危なかった」
「俺一人でも危なかった」
「ですね」
二人は少しだけ笑った。
ルーデウスは扉を開ける。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
扉が閉まる。
部屋に静けさが戻る。
レンは木刀を膝に置き、目を閉じた。
守る。
共に生き残る。
三人で動く。
大亀流の剣は、また新しい形を求められている。
山奥の道場では、一人で立つことを学んだ。
ボレアス家では、誰かと並び、誰かを守り、誰かの力を借りることを学んでいる。
それは、レンにとって初めての感覚だった。
前世で一人、恐怖に足を止めた少年は。
この世界で、少しずつ誰かと共に戦うことを覚え始めていた。