無職転生×異伝   作:からし明太子

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第十五話 ボレアスの獅子

 

 

 フィリップ・ボレアス・グレイラットは、怒鳴らなかった。

 

 屋敷へ戻った後、応接室に集められたレンたちの前で、彼は静かに椅子へ腰を下ろしていた。

 

 その静けさが、逆に重かった。

 

 エリスは腕を組み、顔を背けている。

 

 ルーデウスは腫れた頬を押さえたまま、視線を落としている。

 

 レンは木刀を腰に戻し、部屋の端に立っていた。

 

 ギレーヌは壁際で腕を組んでいる。

 

 いつも通り無表情に見えるが、彼女がわずかに苛立っていることは、レンにも分かった。

 

 フィリップはまず、ルーデウスを見た。

 

「ルーデウス」

 

「はい」

 

「今回の件について、君から説明してくれるかな」

 

 ルーデウスは一度、唇を結んだ。

 

 そして、頭を下げる。

 

「エリス様に授業を受け入れてもらうため、信頼を得るきっかけが必要だと考えました。そこで、危険のない範囲で誘拐を装い、僕が助けるという形を提案しました」

 

 エリスの眉が動く。

 

 怒りを飲み込んでいる顔だった。

 

 フィリップは表情を変えない。

 

「続けて」

 

「本来は、雇った者たちに短剣を持たせない手筈でした。人数も少なく、ギレーヌさんがすぐ近くで監視する予定だったと聞いています」

 

「実際は違った」

 

「はい。人数も違い、武器も本物でした。僕の想定が甘かったです」

 

 ルーデウスは深く頭を下げた。

 

「エリス様を危険に晒しました。申し訳ありません」

 

 エリスは黙っていた。

 

 拳だけが、ぎゅっと握られている。

 

 次にフィリップはギレーヌを見る。

 

「ギレーヌ」

 

「はい」

 

「君の判断は?」

 

「私の監視が甘かったのは事実です」

 

 ギレーヌは短く答えた。

 

「ただし、手筈そのものが途中で変えられていました。雇った者のうち数名が、別の者と入れ替わっていた可能性があります」

 

「裏があると?」

 

「はい」

 

 部屋の空気が変わった。

 

 レンは静かに息を吸う。

 

 ただの失敗ではない。

 

 誰かが、仕組まれた荒療治に本物の刃を混ぜた。

 

 エリスを狙ったのか。

 

 ルーデウスを狙ったのか。

 

 ボレアス家への嫌がらせか。

 

 そこまでは分からない。

 

 だが、単なる事故では片づかない。

 

 フィリップはしばらく考え込んだ。

 

 穏やかな顔のまま、目だけが鋭い。

 

 この人もまた、剣とは違う場所で戦う人間なのだと、レンは思った。

 

 フィリップの視線がレンに向く。

 

「レン」

 

「はい」

 

「君は命令に反して、二人を追ったそうだね」

 

「はい」

 

「なぜかな」

 

「おかしいと思ったからです」

 

「ギレーヌに止められても?」

 

「はい」

 

「自分の判断が間違っている可能性は考えなかった?」

 

「考えました」

 

「それでも行った」

 

「はい」

 

 レンは真っ直ぐ答えた。

 

「行かなかった時に何か起きたら、後悔すると思いました」

 

 フィリップはしばらく黙っていた。

 

 怒られる。

 

 そう思った。

 

 命令違反は事実だ。

 

 結果的に助けになったとしても、勝手に動いたことに変わりはない。

 

 だが、フィリップは怒鳴らなかった。

 

「君は、危険だね」

 

 静かな言葉だった。

 

 レンは目を伏せずに聞いた。

 

「はい」

 

「命令より自分の判断を優先する子供は、扱いにくい」

 

「はい」

 

「だが、今回に限れば、その判断に救われた」

 

 フィリップは小さく息を吐いた。

 

「ありがとう。エリスとルーデウスを助けてくれた」

 

 レンは頭を下げた。

 

「俺一人では無理でした。ルーデウスの魔術がなければ、エリス様を人質から外せませんでした」

 

 ルーデウスがわずかにこちらを見る。

 

 フィリップも、その言葉に少し目を細めた。

 

「それでも、君が動いたことは事実だ」

 

「はい」

 

「その上で、罰も必要だ」

 

「はい」

 

 エリスが反応した。

 

「ちょっと待ちなさいよ! レンは助けに来たのよ!」

 

「エリス」

 

 フィリップの声は穏やかだった。

 

「助けたことと、命令を破ったことは別だ」

 

「でも!」

 

「君も、怒るべき相手と感謝すべき相手を混同してはいけない」

 

 エリスは言葉に詰まった。

 

 悔しそうに唇を噛む。

 

 フィリップはレンへ戻る。

 

「罰といっても、屋敷から追い出すつもりはない。しばらくの間、君はギレーヌの指示なしに屋敷の外へ出ないこと。そして、通常の稽古に加えて、護衛としての立ち回りを学ぶこと」

 

「それは罰ですか」

 

「罰であり、訓練だ」

 

 フィリップは微笑んだ。

 

「君には必要だろう?」

 

 レンは一拍置いて、頭を下げた。

 

「はい」

 

 ギレーヌが横から言う。

 

「厳しくやる」

 

「お願いします」

 

 レンが即答すると、エリスが嫌そうな顔をした。

 

「レン、分かってるの? ギレーヌの厳しいは、本当に厳しいわよ」

 

「知ってる」

 

「知らないわよ。これからもっと痛いわよ」

 

「なら、必要だと思う」

 

「変なの」

 

 エリスはそう言ったが、どこか安心したようにも見えた。

 

 ◇

 

 その時、応接室の扉が勢いよく開いた。

 

「エリスは無事か!」

 

 雷のような大声だった。

 

 レンは反射的に木刀へ手を伸ばしかけた。

 

 だが、ギレーヌが動かない。

 

 フィリップも驚いていない。

 

 入ってきたのは、大柄な老人だった。

 

 老人と言っても、枯れた印象はまるでない。

 

 太い首。

 

 厚い胸板。

 

 燃えるような気配。

 

 白髪混じりの髪と髭。

 

 立っているだけで部屋が狭く感じる。

 

 エリスがびくりと肩を跳ねさせた。

 

「お祖父様……」

 

 老人はエリスを見るなり、大股で近づいた。

 

 そして、がしりと両肩を掴む。

 

「怪我はないか!」

 

「な、ないわよ」

 

「首に傷があるではないか!」

 

「かすっただけよ!」

 

「許さん! 誰だ! 誰がやった! 全員吊るせ!」

 

 声が大きい。

 

 屋敷の壁が揺れるのではないかと思うほどだった。

 

 レンは思わず目を瞬かせた。

 

 これが、ボレアス家の当主。

 

 サウロス・ボレアス・グレイラット。

 

 噂には少し聞いていた。

 

 フィットア領の大物。

 

 豪放な人物。

 

 エリスの祖父。

 

 だが、実物は想像以上だった。

 

 エリスの気性の強さは、この老人の血なのかもしれない。

 

 フィリップが静かに言う。

 

「父上。落ち着いてください」

 

「落ち着いておる!」

 

 まったく落ち着いていない声だった。

 

「エリスを傷つけた者を捕らえたのだな!」

 

「はい。すでに尋問に回しています」

 

「ならばよし!」

 

 サウロスは鼻息荒く頷き、次にルーデウスを見た。

 

「お前が新しい家庭教師か!」

 

「は、はい。ルーデウス・グレイラットです」

 

「エリスを危険に晒したと聞いたぞ!」

 

「申し訳ありません」

 

 ルーデウスは深く頭を下げた。

 

 サウロスの目がぎらりと光る。

 

 だが、エリスが間に入った。

 

「お祖父様」

 

「何だ、エリス!」

 

「ルーデウスはむかつくわ。騙したし、最低だし、まだ許してないわ」

 

「ならば追い出すか!」

 

「でも助けたの」

 

 サウロスが止まった。

 

 エリスは悔しそうに続ける。

 

「だから、まだ先生でいい」

 

 ルーデウスが目を見開いた。

 

 サウロスはしばらくエリスを見ていた。

 

 やがて、豪快に笑い出す。

 

「がはははは! そうか! エリスがそう言うならよし!」

 

「よしなの?」

 

「ただし、次にエリスを危険に晒したらただでは済まさん!」

 

「はい」

 

 ルーデウスはもう一度頭を下げた。

 

 次にサウロスの視線がレンへ向いた。

 

 その圧が真正面から来る。

 

 レンは背筋を伸ばした。

 

「お前がレンか!」

 

「はい。レン・クロガネです」

 

「エリスを助けたそうだな!」

 

「ルーデウスとギレーヌさんがいたからです」

 

「謙遜するな!」

 

 声が大きい。

 

 それだけで怒られているような気分になる。

 

 サウロスはレンの肩を力強く叩いた。

 

 重い。

 

 木剣で打たれたわけでもないのに、身体が揺れた。

 

「小さいのに根性がある! 気に入った!」

 

「ありがとうございます」

 

「エリスの稽古相手をしているそうだな!」

 

「はい」

 

「もっと鍛えてやれ! こやつは強くなるぞ!」

 

「お祖父様、私はもう強いわ!」

 

「そうだ! だがもっと強くなれ!」

 

「当然よ!」

 

 二人の声が重なり、部屋がさらに騒がしくなる。

 

 レンは少しだけ、エリスの未来を見た気がした。

 

 この祖父がいて、今のエリスがいる。

 

 納得できすぎるほどだった。

 

 ◇

 

 その日の午後から、レンへの罰という名の訓練が始まった。

 

 場所は庭ではなく、屋敷の裏手にある狭い通路だった。

 

 右は壁。

 

 左は倉庫。

 

 前後に逃げ道はあるが、横への余裕は少ない。

 

 ギレーヌは木剣を持ち、レンの前に立つ。

 

 エリスとルーデウスも見学していた。

 

 サウロスまで来ようとしたが、フィリップに止められたらしい。

 

「今日から、お前には護衛の動きを教える」

 

 ギレーヌが言った。

 

「剣士として相手を倒すのと、誰かを守るのは違う」

 

「はい」

 

「相手を見すぎれば、守る対象を見失う。守る対象を見すぎれば、敵に斬られる」

 

「はい」

 

「昨日のお前は、両方を見ようとして、両方が甘くなった」

 

 胸に刺さる。

 

 だが、その通りだ。

 

 レンはエリスを気にしすぎ、敵の一人を見落とした。

 

 ルーデウスの視線がなければ、短剣を受けていた。

 

「今日は、エリス様を守りながら私から逃げろ」

 

「え?」

 

 レンは思わず聞き返した。

 

 ギレーヌは当然のように続ける。

 

「エリス様はそこにお立ちください」

 

 指されたのは、通路の中央。

 

 エリスは目を輝かせた。

 

「私は何をすればいいの?」

 

「動かないでください」

 

「嫌よ」

 

「動かないでください」

 

「……分かったわよ」

 

 エリスは不満そうにしながら、指定された位置へ立った。

 

 ギレーヌはレンを見る。

 

「私がお前を狙う。時にはエリス様も狙う。お前は自分が打たれず、エリス様にも触れさせるな」

 

「難しくないですか」

 

「難しいからやる」

 

 それは玄斎もよく言う言葉だった。

 

 レンは木刀を構えた。

 

 通路は狭い。

 

 大きな斬撃は使いにくい。

 

 火柱のような振り下ろしは壁に当たる危険がある。

 

 紅蓮旋など論外だ。

 

 今のレンは習得していないが、仮に知っていても使う場所ではない。

 

 雷電型の踏み込みも、深く入りすぎるとエリスとの位置関係が崩れる。

 

 虚空型で外れれば、自分だけ助かってエリスが残る可能性がある。

 

 水龍型で軌道を変えるなら、狭い空間でも使える。

 

 土公型で武器を崩すのも有効。

 

 ただし、相手はギレーヌ。

 

 小手先では通じない。

 

「始める」

 

 ギレーヌが言った瞬間、木剣が来た。

 

 速い。

 

 狙いはレンではない。

 

 エリスの肩。

 

 レンは一歩入る。

 

 木刀を斜めに置き、軌道をずらす。

 

 真正面から受ければ押し負ける。

 

 ギレーヌの木剣は重い。

 

 レンの腕に衝撃が走る。

 

 だが、エリスには届かせない。

 

 次の瞬間、ギレーヌの柄がレンの腹へ来る。

 

 レンは横へ外れようとした。

 

 だが、横へ外れればエリスが空く。

 

 なら、下がる。

 

 エリスごと下げる必要がある。

 

「エリス、半歩後ろ!」

 

「命令しないで!」

 

「後ろ!」

 

 エリスは文句を言いながらも、半歩下がった。

 

 その隙にレンは木刀を下から上げ、ギレーヌの柄を弾く。

 

 弾いたつもりだった。

 

 だが、ギレーヌの木剣はすでに別の角度から来ている。

 

 レンの肩に触れた。

 

「死んだ」

 

 短い言葉。

 

 一本目は、あっけなく終わった。

 

 エリスが唇を尖らせる。

 

「今の、私が下がるの遅かった?」

 

「両方です」

 

 ギレーヌは即答した。

 

「レンの指示が遅い。エリス様の反応も遅い」

 

「む」

 

「守られる側も、ただ立っているだけでは足手まといになります」

 

 エリスの目が変わった。

 

「じゃあ、私も稽古なのね」

 

「そうです」

 

「なら最初からそう言いなさいよ!」

 

 ギレーヌは相手にしない。

 

「もう一度」

 

 二本目。

 

 今度はギレーヌがレンを狙った。

 

 喉元。

 

 木剣の突き。

 

 レンは木刀で外へ払う。

 

 そこへ、ギレーヌの足が動く。

 

 レンの横を抜け、エリスへ向かう角度。

 

 速い。

 

 レンは追う。

 

 雷電型第一式・落雷の踏み込み。

 

 相手の間合いへ入り、壱・弐・参へ繋げる。

 

 壱でギレーヌの手元を狙う。

 

 弐で進路を塞ぐ。

 

 参で肩口へ。

 

 だが、ギレーヌは壱の時点で踏み込みを変えていた。

 

 レンの木刀が空を切る。

 

 エリスへ木剣が伸びる。

 

 エリスは自分で半歩下がった。

 

 昨日までなら突っ立っていたか、前へ出ていたかもしれない。

 

 だが、今回は下がった。

 

 木剣がエリスの鼻先をかすめる。

 

 触れてはいない。

 

 ギレーヌの目が少し動く。

 

 その一瞬に、レンは木刀を返した。

 

 水龍型第一式、逆鱗。

 

 上から受けると見せて、握りを替え、ギレーヌの木剣の外側へ軌道を滑らせる。

 

 ギレーヌの剣を完全には止められない。

 

 だが、ほんの少しだけ逸らした。

 

 エリスには届かない。

 

 次の瞬間、ギレーヌの膝がレンの腹の寸前で止まった。

 

「そこまで」

 

 レンは息を詰めた。

 

「今のは?」

 

「膝で終わっていた」

 

「はい」

 

「だが、エリス様には触れなかった」

 

 レンは息を吐いた。

 

 完敗だ。

 

 だが、一つ守った。

 

 エリスが少し得意げに言う。

 

「私も下がったわ」

 

「はい」

 

 ギレーヌが頷く。

 

「今のはよかったです」

 

「でしょ!」

 

「ただし、下がった後に足が揃っています。次に動けません」

 

「褒めた後すぐそれ!?」

 

「褒めることと直すことは別です」

 

 エリスは悔しそうに歯を食いしばった。

 

 しかし、怒鳴りながらも足元を見ている。

 

 成長している。

 

 レンはそれを見て、少しだけ笑った。

 

「何笑ってるのよ」

 

「いや、エリスも見てるなと思って」

 

「当たり前よ!」

 

 三本目。

 

 ギレーヌはさらに速くなった。

 

 レンは自分だけなら外れられる場面で、あえて外れなかった。

 

 自分の後ろにはエリスがいる。

 

 なら、そこは退けない。

 

 木刀で受ける。

 

 流す。

 

 逸らす。

 

 短く打つ。

 

 火柱のような大きな破壊力は出せない。

 

 狭い場所では、焔燃型の力をそのまま振るうより、肘を使って短く衝撃を通す方がいい。

 

 ギレーヌの手元が一瞬落ちた。

 

 そこへ土公型の理合で武器を狙う。

 

 荒神。

 

 木刀を回し、木剣の軌道を外へ弾く。

 

 完全には弾けない。

 

 だが、エリスからは逸れた。

 

 その代わり、レンの脇腹へギレーヌの木剣が入った。

 

 痛みが走る。

 

「死んだ」

 

 ギレーヌが言う。

 

 レンは片膝をついた。

 

 息が苦しい。

 

 だが、エリスは無傷だ。

 

 ギレーヌは木剣を下ろす。

 

「今のは、お前が死んでエリス様が生きた」

 

「駄目ですか」

 

「状況による」

 

 ギレーヌは淡々と答えた。

 

「護衛なら、それで正解の時もある。だが、毎回それを選べば、すぐ死ぬ。死んだ護衛は次を守れない」

 

 レンは脇腹を押さえながら頷いた。

 

「はい」

 

「守るために死ぬ覚悟は必要だ。だが、死なずに守る技術はもっと必要だ」

 

 その言葉は深く刺さった。

 

 前世の雨の日、レンは身体を投げ出した。

 

 子供は助かった。

 

 自分は死んだ。

 

 それは間違いではない。

 

 だが、もし死なずに守る力があったなら。

 

 もっと早く動けていたなら。

 

 もっと正しく動けていたなら。

 

 今のギレーヌの言葉は、レンの根に触れていた。

 

「もう一度お願いします」

 

 レンは言った。

 

「今日はここまでだ」

 

 ギレーヌは即答した。

 

「まだ動けます」

 

「動けるから駄目だ」

 

 それも、玄斎と同じだった。

 

 動けるうちに止める。

 

 悪い癖をつけないために。

 

 レンは悔しさを飲み込む。

 

「はい」

 

 エリスが近づいてきた。

 

「レン」

 

「何?」

 

「今の、私は生きたのよね」

 

「うん」

 

「でも、あんた死んだのよね」

 

「そうだね」

 

「それ、むかつくわ」

 

 レンは少し目を丸くした。

 

 エリスは腕を組み、そっぽを向く。

 

「私を守って死ぬのは勝手だけど、私は嫌よ」

 

「勝手なんだ」

 

「勝手よ。でも嫌」

 

 エリスらしい言い方だった。

 

 ギレーヌが静かに言う。

 

「なら、エリス様も動けるようになることです」

 

「分かってるわよ」

 

「守られるだけではなく、共に生き残る」

 

 エリスはその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。

 

「共に生き残る……」

 

 レンも同じ言葉を胸に置いた。

 

 守る。

 

 守られる。

 

 それだけでは足りない。

 

 共に生き残る。

 

 それができれば、もっと先へ行ける。

 

 ◇

 

 ルーデウスは、離れた場所でその訓練を見ていた。

 

 頬の腫れは少し引いている。

 

 だが、まだ痛そうだった。

 

 彼は静かに近づいてくる。

 

「すごい訓練ですね」

 

「痛いよ」

 

「見ていて分かります」

 

「ルーデウスもやる?」

 

「遠慮しておきます」

 

 即答だった。

 

 エリスが睨む。

 

「何でよ。あんたも逃げる練習した方がいいわよ」

 

「僕の場合、近づかれる前に何とかしたいです」

 

「近づかれたら?」

 

「泣きます」

 

「情けないわね」

 

「なので、近づかれないように頑張ります」

 

 ルーデウスは苦笑する。

 

 だが、その目は真面目だった。

 

「でも、今日の訓練は魔術師にも必要かもしれません。守る対象がいる時、どう動くか。魔術を撃つ角度も変わりますから」

 

 レンは頷いた。

 

「倉庫の時、ルーデウスが小さい魔術で手を外してくれたから動けた」

 

「レン君が木刀を捨ててくれたから、相手の視線が動きました」

 

「エリスが頭突きしたから倒せた」

 

「私が一番偉いわね」

 

 エリスが胸を張る。

 

 レンとルーデウスは顔を見合わせた。

 

「まあ、最後はそうかも」

 

「ですね」

 

「何よ、その言い方!」

 

 エリスが怒る。

 

 その怒り方は、昨日の倉庫でのものとは違う。

 

 いつものエリスに戻りつつある。

 

 ルーデウスは少しほっとしたように笑った。

 

 レンも同じだった。

 

 完全に元通りではない。

 

 あの事件は、三人の間に傷と変化を残した。

 

 だが、その傷の上に、次の関係が少しずつでき始めている。

 

 ◇

 

 夜。

 

 レンは部屋で木刀を拭いていた。

 

 今日の訓練で、木刀にはまた傷が増えた。

 

 ギレーヌの木剣を受けた跡。

 

 荒神で回した時についた擦れ。

 

 脇腹には痛みが残っている。

 

 だが、それ以上に頭の中が忙しかった。

 

 守るために死ぬ覚悟は必要。

 

 だが、死なずに守る技術はもっと必要。

 

 ギレーヌの言葉が何度も回る。

 

 前世の自分は、死んで守った。

 

 それしかできなかった。

 

 今度は違う。

 

 今度こそ、死なずに守る。

 

 怖くても動く。

 

 動いた上で、生き残る。

 

 そのためには、もっと見なければならない。

 

 敵。

 

 味方。

 

 足場。

 

 武器。

 

 呼吸。

 

 逃げ道。

 

 そして、自分が死なない道。

 

 扉の外で足音がした。

 

 今日は二つ。

 

 エリスの荒い足音と、ルーデウスの控えめな足音。

 

「入るわよ」

 

 エリスの声。

 

「どうぞ」

 

 扉が開く。

 

 エリスとルーデウスが入ってきた。

 

 エリスはいつものように床へ座り、ルーデウスは少し遠慮がちに椅子へ座る。

 

「何してるの」

 

「木刀の手入れ」

 

「毎日ね」

 

「毎日使うから」

 

「私の木剣も手入れした方がいい?」

 

「した方がいいと思う」

 

「じゃあ明日やるわ」

 

 エリスはそう言って、レンの木刀を見た。

 

 そこに増えた傷に気づいたのか、少しだけ黙る。

 

「今日、痛かった?」

 

「痛かった」

 

「ギレーヌ容赦ないものね」

 

「必要だから」

 

「分かってるわよ」

 

 エリスは膝を抱えた。

 

 ルーデウスが静かに言う。

 

「今日の訓練を見て、少し考えました」

 

「何を?」

 

 レンが聞く。

 

「僕たちは、それぞれできることが違います」

 

「当たり前じゃない」

 

 エリスが言う。

 

「私は斬る。レンは変な動きで斬る。ルーデウスは魔術」

 

「変な動きは余計だ」

 

「変なのは事実でしょ」

 

「まあ」

 

 ルーデウスは少し笑った後、続ける。

 

「でも、倉庫では一人では足りませんでした。レン君が来て、僕が魔術で隙を作って、エリス様が暴れて、ギレーヌさんが来て終わった」

 

「私が暴れて、って何よ」

 

「正確には、エリス様が勇敢に抵抗して、です」

 

「最初からそう言いなさい」

 

「はい」

 

 ルーデウスは素直に頷いた。

 

「だから、これからは三人での動きも考えた方がいいかもしれません」

 

「三人で?」

 

「はい。エリス様が前に出る。レン君が横から崩す。僕が魔術で足場や視界を変える」

 

 レンは少し考えた。

 

 エリスの正面突破。

 

 レンの大亀流による崩しと間合い操作。

 

 ルーデウスの魔術。

 

 確かに、三つが噛み合えば強い。

 

 ただし、噛み合わなければ邪魔になる。

 

 エリスが前に出すぎれば、魔術の射線に入る。

 

 レンが外れすぎれば、エリスが孤立する。

 

 ルーデウスが距離を取りすぎれば、近接に対応できない。

 

 難しい。

 

 だからこそ、やる意味がある。

 

「面白そう」

 

 レンが言うと、エリスの目が輝いた。

 

「やるわ!」

 

「まだ説明の途中ですが」

 

「やるって決めたらやるのよ!」

 

「ギレーヌさんに相談してから」

 

 レンが言うと、エリスは不満そうにしながらも頷いた。

 

「明日言うわ」

 

「エリスが言うと、稽古じゃなくて暴れたいだけに聞こえる」

 

「じゃあレンが言いなさい」

 

「ルーデウスが考えたんだから、ルーデウスが」

 

 二人の視線がルーデウスへ向く。

 

 ルーデウスは苦笑した。

 

「分かりました。僕が言います」

 

「よし!」

 

 エリスは満足そうに頷いた。

 

 そして、唐突に立ち上がる。

 

「じゃあ、明日に備えて寝るわ!」

 

「珍しいね」

 

「強くなるには寝るのも大事ってギレーヌが言ってたのよ」

 

「それは正しい」

 

「でしょ!」

 

 エリスは胸を張り、部屋を出ていった。

 

 ルーデウスも立ち上がる。

 

 扉の前で、彼はレンを振り返った。

 

「レン君」

 

「何?」

 

「昨日は、本当にありがとうございました」

 

「それはもう聞いた」

 

「何度でも言います」

 

 ルーデウスの声は静かだった。

 

「僕一人では、危なかった」

 

「俺一人でも危なかった」

 

「ですね」

 

 二人は少しだけ笑った。

 

 ルーデウスは扉を開ける。

 

「おやすみなさい」

 

「おやすみ」

 

 扉が閉まる。

 

 部屋に静けさが戻る。

 

 レンは木刀を膝に置き、目を閉じた。

 

 守る。

 

 共に生き残る。

 

 三人で動く。

 

 大亀流の剣は、また新しい形を求められている。

 

 山奥の道場では、一人で立つことを学んだ。

 

 ボレアス家では、誰かと並び、誰かを守り、誰かの力を借りることを学んでいる。

 

 それは、レンにとって初めての感覚だった。

 

 前世で一人、恐怖に足を止めた少年は。

 

 この世界で、少しずつ誰かと共に戦うことを覚え始めていた。

 

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