無職転生×異伝   作:からし明太子

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第十八話 舞踏の稽古

 

 エリスの機嫌が悪かった。

 

 いや、エリスの機嫌が悪いこと自体は珍しくない。

 

 朝起きて勉強と聞けば機嫌が悪くなる。

 

 魔術がうまくいかなければ機嫌が悪くなる。

 

 三本勝負でレンに一本取られれば機嫌が悪くなる。

 

 ギレーヌに前へ出すぎだと言われれば機嫌が悪くなる。

 

 ルーデウスに字を直されても機嫌が悪くなる。

 

 つまり、日常である。

 

 だが、その日の機嫌の悪さは少し質が違った。

 

 怒鳴るでもない。

 

 木剣を振り回すでもない。

 

 ただ、朝から妙にむすっとしている。

 

 食事中も黙っている。

 

 授業中も板を睨んでいる。

 

 庭に出ても、いつものように「勝負よ!」とは言わなかった。

 

 レンは木刀を持ったまま、ルーデウスを見た。

 

 ルーデウスも困った顔をしている。

 

 ギレーヌは、理由を知っているらしく、何も言わない。

 

 やがてフィリップが庭へ現れた。

 

「エリス」

 

「何よ」

 

 返事が尖っている。

 

 フィリップは慣れた様子で微笑んだ。

 

「そろそろ、誕生日の準備を本格的に始める」

 

 エリスの眉がぴくりと動いた。

 

「……分かってるわよ」

 

「今年は客も多い。君も主役として、きちんと振る舞わなければならない」

 

「分かってるって言ってるでしょ」

 

「なら、舞踏の稽古も真面目にやりなさい」

 

 その瞬間、エリスの顔が歪んだ。

 

 レンはなるほどと思った。

 

 原因はそれか。

 

 舞踏。

 

 貴族の宴で踊る、あの踊り。

 

 剣でも魔術でもない。

 

 だが、貴族としては避けられないもの。

 

 エリスが苦手そうなものだった。

 

「嫌よ」

 

 エリスははっきり言った。

 

「剣の稽古ならやるわ。字も少しなら読む。計算も、肉串ならやる。魔術も、まあ、少しはやる。でも踊りは嫌」

 

 分かりやすい拒絶だった。

 

 フィリップは苦笑する。

 

「そうもいかない。君はボレアス家の令嬢だ」

 

「令嬢なら剣が強ければいいじゃない」

 

「よくない」

 

「何でよ」

 

「剣だけで貴族の場は乗り切れないからだ」

 

 エリスはむっとして黙った。

 

 ルーデウスが一歩前に出る。

 

「エリス様。舞踏も、見方を変えれば足運びの稽古です」

 

「足運び?」

 

 エリスの目がわずかに動いた。

 

 ルーデウスはすぐにそこを拾う。

 

「はい。相手との距離を測り、歩幅を合わせ、ぶつからずに動く。剣の間合いとは違いますが、身体を使うという点では近い部分があります」

 

「……本当に?」

 

「本当です」

 

 エリスは疑うようにルーデウスを見る。

 

 次にレンを見た。

 

「レン」

 

「何?」

 

「あんた、どう思う?」

 

 急に振られた。

 

 レンは少し考えた。

 

 舞踏など、前世でも今世でもほとんど知らない。

 

 剣道にも大亀流にも舞踏はない。

 

 だが、足運びという意味なら、ルーデウスの言うことは分かる。

 

「足を見られるなら、稽古になると思う」

 

「ほんとに?」

 

「たぶん」

 

「たぶんじゃなくて」

 

「相手に合わせて動くなら、連携にも使えると思う」

 

 エリスの表情が少し変わった。

 

 連携。

 

 その言葉は最近、彼女に効く。

 

 三人での訓練が始まってから、エリスは自分だけが前へ出ればいいわけではないと、少しずつ理解し始めている。

 

 相手を見る。

 

 味方を見る。

 

 距離を見る。

 

 舞踏もそれに近いと言われれば、完全には拒絶できない。

 

 エリスは唸った。

 

「……なら、少しだけやるわ」

 

 フィリップが微笑む。

 

「助かるよ」

 

「でも、変だったらやめるから」

 

「まずはやってから決めなさい」

 

 こうして、舞踏の稽古が始まることになった。

 

 ◇

 

 舞踏の先生は、屋敷に出入りしている礼儀作法の教師だった。

 

 背筋の伸びた女性で、声は穏やかだが、目が厳しい。

 

 エリスの乱暴な態度にも怯まない。

 

 その点では、ある意味ギレーヌに近かった。

 

「まずは姿勢です」

 

「姿勢?」

 

「背筋を伸ばし、顎を引き、肩の力を抜きます」

 

「剣と同じじゃない」

 

「似ていますが、違います。威圧してはいけません」

 

「何でよ」

 

「舞踏は相手を倒すものではありません」

 

「つまらないわね」

 

 開始早々これである。

 

 ルーデウスは隣で苦笑していた。

 

 彼も参加することになった。

 

 相手役としてである。

 

 レンは見学のつもりだったが、エリスが「レンもやりなさい」と言い出したため、逃げられなくなった。

 

「何で俺まで」

 

「足運びの稽古になるって言ったでしょ」

 

「言ったけど」

 

「ならやるのよ」

 

 理屈としては通っているようで、何かがおかしい。

 

 だが、ギレーヌまで「見ておくといい」と言ったため、レンも並ぶことになった。

 

 ギレーヌは授業として見学するらしい。

 

 剣王が真剣に舞踏を観察する姿は、かなり異様だった。

 

 最初は歩く練習だった。

 

 音楽はまだない。

 

 決められた拍に合わせて、前へ、横へ、後ろへ。

 

 一歩。

 

 二歩。

 

 三歩。

 

 止まる。

 

 回る。

 

 エリスは最初から苦戦した。

 

 足に力が入りすぎる。

 

 踏み込みが強すぎる。

 

 相手を押しのけるように前へ出る。

 

 礼儀作法の教師が何度も言う。

 

「エリス様、踏み込まないでください」

 

「歩いてるだけよ!」

 

「踏み込んでいます」

 

「どこが!」

 

「床が鳴っています」

 

 確かに、エリスが足を出すたびに、床が強く鳴っている。

 

 剣なら勢いになる。

 

 だが、舞踏では強すぎる。

 

 ルーデウスが相手役として手を取ると、エリスは力任せに引っ張った。

 

「うわっ」

 

 ルーデウスがよろける。

 

「何でよろけるのよ」

 

「引っ張られたからです」

 

「しっかりしなさいよ」

 

「エリス様が強いんです」

 

「当然よ」

 

「褒めているようで、今は問題です」

 

 エリスは不満そうだった。

 

 次にレンが相手をすることになった。

 

 エリスが手を取る。

 

 力が強い。

 

 レンは肩を固めず、肘を緩め、引かれた力を足元へ逃がした。

 

 エリスが前へ出る。

 

 レンは下がる。

 

 剣とは違う。

 

 相手の力を外すのではなく、合わせる。

 

 押し返さない。

 

 逃げすぎない。

 

 距離を保つ。

 

 なるほど、これは難しい。

 

「何であんたはよろけないのよ」

 

 エリスが不満そうに言う。

 

「力を逃がしてるから」

 

「逃げるな」

 

「舞踏では逃がす方がいいと思う」

 

「むかつく」

 

 礼儀作法の教師が静かに頷いた。

 

「レン様は、力を受け流すのが上手ですね」

 

「剣の稽古で少し」

 

「ただし、相手を避けすぎです。舞踏では相手から外れすぎてもいけません」

 

「はい」

 

 レンは頷いた。

 

 そこは剣と違う。

 

 大亀流の虚空型なら、相手の認識や攻撃の線から外れることが重要になる。

 

 しかし舞踏では、相手から完全に外れてしまえば踊りが崩れる。

 

 外れすぎず、ぶつからず、合わせる。

 

 それは、三人での連携にも近かった。

 

 ルーデウスはすぐに要領を掴んでいた。

 

 彼は剣士ではない。

 

 だが、相手を見るのがうまい。

 

 エリスの力が強くなれば少し引き、足が遅れれば声をかけ、動きが乱れれば歩幅を変える。

 

 魔術と同じで、場を整えるのがうまい。

 

「エリス様、次は右です」

 

「分かってるわよ」

 

「今、左へ行きかけました」

 

「分かってたわよ!」

 

「では、右へ」

 

「うるさい!」

 

 怒鳴りながらも、エリスは右へ動いた。

 

 ◇

 

 数日間、舞踏の稽古は続いた。

 

 エリスは何度も怒った。

 

 何度も足を踏み外した。

 

 何度もルーデウスの足を踏んだ。

 

 レンの足も踏んだ。

 

 しかも、踏み方が強い。

 

「痛い」

 

「我慢しなさい」

 

「踏まれてるの俺なんだけど」

 

「鍛えれば痛くなくなるわ」

 

「足の甲は鍛えにくいと思う」

 

 ルーデウスはもっと踏まれていた。

 

 彼はそのたびに涙目になりながらも、根気よく教えた。

 

「エリス様、拍を数えましょう。一、二、三。一、二、三」

 

「数えると足が変になる!」

 

「数えないともっと変になります」

 

「何ですって!」

 

「事実です」

 

 最近のルーデウスは、エリス相手に少しだけ遠慮がなくなってきた。

 

 そのたびにエリスは怒る。

 

 だが、本気で拒絶はしない。

 

 怒りながら続ける。

 

 それが、今の二人の距離だった。

 

 レンはその横で、自分の動きも直されていた。

 

「レン様。前に出過ぎないください」

 

「出ていますか?」

 

「歩幅がそうなっています」

 

「はい」

 

「相手を崩そうとしないでください」

 

「無意識です」

 

「舞踏では、相手を支えます」

 

 相手を支える。

 

 その言葉は新鮮だった。

 

 剣なら、相手を崩す。

 

 相手の軸を奪う。

 

 勝ち筋を折る。

 

 だが、舞踏では逆だ。

 

 相手の軸を保つ。

 

 相手が動きやすい場所を作る。

 

 自分も崩れず、相手も崩さない。

 

 それは護衛の訓練とも違う。

 

 共に動くための身体操作。

 

 レンはその感覚を少しずつ掴み始めた。

 

 ある日、エリスが大きく足を間違えた。

 

 ルーデウスがよろける。

 

 エリスも勢いで前へ出すぎる。

 

 ぶつかる。

 

 レンは反射的に横から手を出した。

 

 エリスの肘を支え、ルーデウスの肩を押さえ、二人の体勢を立て直す。

 

 大きな動きではない。

 

 剣の技でもない。

 

 ただ、崩れる前に支えただけ。

 

 礼儀作法の教師が目を細めた。

 

「今のはよろしいです」

 

 レンは少し驚いた。

 

「よかったですか」

 

「はい。相手を倒さず、押さえ込みもせず、流れを戻しました」

 

 エリスはむっとした顔でレンを見る。

 

「助けなくても立てたわ」

 

「そう?」

 

「立てた!」

 

 ルーデウスは苦笑した。

 

「僕は助かりました」

 

「ルーデウスはもっと鍛えなさい」

 

「舞踏で鍛える部位ではない気がします」

 

「全部鍛えればいいのよ」

 

 エリスらしい結論だった。

 

 ◇

 

 舞踏の稽古が進むにつれ、エリスは少しずつ変わった。

 

 最初は力任せだった。

 

 相手の手を掴む。

 

 引っ張る。

 

 踏み込む。

 

 曲がる時も、剣のように体を振り回す。

 

 だが、何度も失敗するうちに、相手を見始めた。

 

 ルーデウスの足。

 

 レンの肩。

 

 自分の歩幅。

 

 拍。

 

 音。

 

 少しずつ、少しずつ、目が増えていく。

 

 それは剣にも表れた。

 

 庭での三本勝負。

 

 エリスは以前より、レンの足を見るようになった。

 

 前へ出るだけでなく、出た後に止まる。

 

 外された時に踏み直す。

 

 ルーデウスの魔術の線を塞がない。

 

 もちろん、熱くなれば忘れる。

 

 忘れて突っ込み、ギレーヌに打たれる。

 

 だが、戻るのが早くなった。

 

「舞踏、役に立ってるね」

 

 レンが言うと、エリスは即座に睨んだ。

 

「役に立ってないわよ」

 

「でも、足が前より合ってる」

 

「剣の稽古のおかげよ」

 

「舞踏もしてるからじゃない?」

 

「違うわ」

 

「そう?」

 

「違う」

 

 頑固だった。

 

 だが、その日の夕方、エリスは一人で廊下を歩いていた。

 

 一、二、三。

 

 一、二、三。

 

 小さく拍を数えながら。

 

 レンはそれを見たが、何も言わなかった。

 

 言えば怒る。

 

 ただ、少しだけ笑った。

 

 ◇

 

 誕生日の準備は、屋敷全体を忙しくしていった。

 

 使用人たちは廊下を磨き、客室を整え、食器を確認し、庭の飾りを準備する。

 

 フィリップは招待客の確認に追われていた。

 

 サウロスは何度も「盛大にやれ!」と叫び、そのたびに周囲が慌ただしくなる。

 

 エリスはその騒ぎの中心にいながら、どこか落ち着かなかった。

 

 彼女は強い。

 

 乱暴で、堂々としていて、怖いもの知らずに見える。

 

 だが、貴族たちが集まる場は別らしい。

 

 ある日の夜、エリスはレンの部屋へ来た。

 

 扉を叩くようになっただけ、ずいぶん成長である。

 

「入るわよ」

 

「どうぞ」

 

 エリスは入ってくるなり、床に座った。

 

 いつもの勢いは少し弱い。

 

「どうしたの」

 

「別に」

 

「別にって顔じゃない」

 

「うるさいわね」

 

 エリスは膝を抱えた。

 

 しばらく黙る。

 

 レンも木刀を拭きながら待った。

 

 やがて、エリスが小さく言った。

 

「誕生日、面倒」

 

「人がたくさん来るんだっけ」

 

「そう。知らない貴族とか、父様の知り合いとか、お祖父様の客とか」

 

「大変そう」

 

「大変なのよ」

 

 エリスは珍しく素直に言った。

 

「剣ならいいのに。相手が来たら斬ればいいもの」

 

「舞踏会で斬ったら駄目だと思う」

 

「分かってるわよ」

 

「分かってるならいいけど」

 

「でも、みんな見てくるのよ。変な目で」

 

 エリスの声が少し低くなる。

 

「私が失敗するのを待ってるみたいに」

 

 レンは手を止めた。

 

 エリスは強い。

 

 だが、周囲の目に何も感じないわけではない。

 

 乱暴な令嬢。

 

 扱いにくい娘。

 

 ボレアスの狂犬。

 

 そういう言葉が、彼女の耳に入ったこともあるのだろう。

 

 怒鳴り返せる相手ばかりではない。

 

 殴れない場所もある。

 

 それが彼女には苦手なのだ。

 

「失敗したら?」

 

 レンが聞くと、エリスは顔を上げた。

 

「は?」

 

「失敗したら、どうする?」

 

「……むかつく」

 

「うん」

 

「恥ずかしい」

 

「うん」

 

「殴りたくなる」

 

「殴らない方がいい」

 

「分かってるわよ」

 

 レンは少し考えた。

 

「剣でも失敗するよね」

 

「するわね」

 

「俺もする。ギレーヌさんには毎回打たれる」

 

「それはそうね」

 

「でも、次に直す」

 

 エリスは黙った。

 

「舞踏も同じじゃないかな。失敗したら、次の一歩を直す。そこで止まらなければいい」

 

「簡単に言うわね」

 

「簡単じゃないよ」

 

 レンは木刀を置いた。

 

「俺も、止まるのが怖い」

 

 エリスがこちらを見る。

 

「足が止まるのが怖い。前に、動けなかったことがあるから」

 

 それは、前世のことだった。

 

 雨の夜。

 

 本物の刃。

 

 足がすくみ、動けなかった自分。

 

 詳しくは話さない。

 

 まだ話せない。

 

 だが、その感覚だけは本当だった。

 

 エリスはじっとレンを見ていた。

 

 いつものように茶化さなかった。

 

「でも、今は動いてるじゃない」

 

「動けるようになりたいから」

 

「なら、私も同じね」

 

「同じ?」

 

「止まりたくないから、やる」

 

 エリスは立ち上がった。

 

 目の奥に、いつもの火が戻っている。

 

「失敗したら、次の一歩を直すのね」

 

「うん」

 

「なら、明日も舞踏やるわ」

 

「うん」

 

「でも、剣もやるわ」

 

「それはそうだと思った」

 

「当たり前よ」

 

 エリスは扉へ向かう。

 

 出る直前、少しだけ振り返った。

 

「レン」

 

「何?」

 

「誕生日、見てなさい」

 

「うん」

 

「失敗しないとは言わないわ。でも、止まらない」

 

 レンは頷いた。

 

「見てる」

 

「よし」

 

 エリスは満足したように出ていった。

 

 扉が閉まる。

 

 レンはしばらく、閉じた扉を見ていた。

 

 止まらない。

 

 それはエリスの言葉であり、レン自身の言葉でもあった。

 

 ◇

 

 誕生日当日。

 

 屋敷は朝から騒がしかった。

 

 使用人たちは走り回り、料理人たちは忙しく動き、庭も広間も美しく整えられていた。

 

 招待客が次々と到着する。

 

 貴族。

 

 商人。

 

 騎士。

 

 フィリップの関係者。

 

 サウロスの知人。

 

 華やかな服。

 

 香水の匂い。

 

 笑い声。

 

 探るような視線。

 

 レンは部屋の端で、それらを見ていた。

 

 今日は木刀を腰に差していない。

 

 正式な場で武器を持つわけにはいかないと言われたからだ。

 

 代わりに、控えの部屋に置いてある。

 

 手元に木刀がないだけで、少し落ち着かない。

 

 だが、足はある。

 

 目もある。

 

 呼吸もある。

 

 見ることはできる。

 

 ルーデウスは礼服を着て、少し緊張していた。

 

 だが、それを隠すのは上手い。

 

 レンの隣に立ち、小声で言う。

 

「すごい人数ですね」

 

「うん」

 

「エリス様、大丈夫でしょうか」

 

「大丈夫かは分からないけど、止まらないとは言ってた」

 

「それは頼もしいですね」

 

 やがて、広間の奥からエリスが現れた。

 

 赤い髪を整え、華やかな衣装を着ている。

 

 普段の木剣を振り回す姿とは違う。

 

 だが、目の強さは同じだった。

 

 周囲の視線が集まる。

 

 囁き声。

 

 品定めするような目。

 

 エリスの肩がわずかに強張る。

 

 レンには分かった。

 

 緊張している。

 

 怒っているのではない。

 

 怖がっている。

 

 けれど、止まってはいない。

 

 エリスは一歩進む。

 

 一、二、三。

 

 歩幅は少し硬い。

 

 だが、崩れない。

 

 サウロスが豪快に祝辞を述べ、広間が笑いと拍手に包まれた。

 

 それから、舞踏の時間が来た。

 

 最初の相手はルーデウスだった。

 

 流れなら通り、ここはルーデウスがエリスを支える場面だ。

 

 レンは端で見ていた。

 

 自分が出る場面ではない。

 

 ルーデウスが前に出る。

 

 エリスがその手を取る。

 

 いつもの彼女なら、力任せに握る。

 

 だが、今日は違った。

 

 強く握りすぎない。

 

 肩を上げすぎない。

 

 顎を引く。

 

 音楽が始まる。

 

 一歩。

 

 二歩。

 

 三歩。

 

 エリスの足が少し乱れた。

 

 周囲の視線が動く。

 

 レンの胸が少し詰まる。

 

 だが、ルーデウスがすぐに歩幅を合わせた。

 

 エリスは止まらない。

 

 次の一歩を直す。

 

 もう一度。

 

 一、二、三。

 

 今度は合う。

 

 ルーデウスが小さく何かを言った。

 

 エリスが一瞬むっとした顔をした。

 

 だが、足は止まらない。

 

 回る。

 

 進む。

 

 下がる。

 

 また進む。

 

 剣のように鋭くはない。

 

 礼儀作法の教師が見れば、まだ粗いのだろう。

 

 だが、エリスは踊っていた。

 

 逃げずに。

 

 止まらずに。

 

 周囲の目の中で、ちゃんと立っていた。

 

 曲が終わる。

 

 拍手が起きた。

 

 エリスは息を吐く。

 

 ルーデウスは深く礼をした。

 

 エリスも少し遅れて礼をする。

 

 サウロスが大声で笑った。

 

「見たか! 我が孫は見事であろう!」

 

 広間がさらに騒がしくなる。

 

 エリスは顔を赤くしていた。

 

 怒っているようにも、照れているようにも見える。

 

 視線がレンと合った。

 

 レンは小さく頷いた。

 

 止まらなかった。

 

 エリスは一瞬だけ胸を張った。

 

 そして、すぐにそっぽを向いた。

 

 ◇

 

 その後、何人かの相手と舞踏をこなしたエリスは、ようやく広間の端へ戻ってきた。

 

 疲れた顔をしている。

 

 だが、目は死んでいない。

 

 レンが近づくと、エリスは先に言った。

 

「どうだった?」

 

「止まらなかった」

 

 レンが答えると、エリスは少しだけ目を丸くした。

 

 それから、満足そうに笑う。

 

「当然よ」

 

「最初、少し足が乱れた」

 

「そこは言わなくていいのよ!」

 

「でも直した」

 

「……そこは言っていいわ」

 

 エリスは胸を張った。

 

 ルーデウスも横に来る。

 

「エリス様、よかったですよ」

 

「当たり前よ。あんたの足に合わせてあげたんだから」

 

「合わせてもらっていたんですね」

 

「そうよ」

 

 ルーデウスは苦笑した。

 

 だが、その顔は嬉しそうだった。

 

 ギレーヌも少し離れた場所から見ていた。

 

 彼女は短く言った。

 

「よかったです」

 

 エリスはそれを聞いて、今度こそ本当に嬉しそうな顔をした。

 

「ギレーヌがそう言うなら、本当に良かったのね」

 

「はい」

 

 その時、サウロスが遠くから叫んだ。

 

「エリス! 次はこちらへ来い!」

 

「もう!」

 

 エリスは文句を言いながらも、走り出しそうになり、途中で止まった。

 

 そして歩いた。

 

 一、二、三。

 

 きちんと、ではない。

 

 少し雑だ。

 

 だが、以前のように床を踏み鳴らして突撃する歩き方ではなかった。

 

 レンはそれを見て、少し笑った。

 

 舞踏も、無駄ではなかった。

 

 ◇

 

 宴が終わる頃には、夜も深くなっていた。

 

 招待客が帰り、広間の灯りが少しずつ落とされる。

 

 エリスは疲れ果てていた。

 

 だが、どこか満足そうでもあった。

 

 庭に出ると、夜風が涼しかった。

 

 レン、エリス、ルーデウスの三人は、少しだけ広間を抜け出していた。

 

 ギレーヌは離れた場所で見守っている。

 

 エリスは夜空を見上げる。

 

「疲れた」

 

「お疲れ様です」

 

 ルーデウスが言う。

 

「本当に疲れたわ。剣の方が楽」

 

「でも、できた」

 

 レンが言うと、エリスは頷いた。

 

「できたわ」

 

 珍しく、素直だった。

 

「止まらなかった」

 

「うん」

 

「次はもっと上手くやるわ」

 

「次もあるんだ」

 

「あるでしょ。貴族って面倒ね」

 

「そうですね」

 

 ルーデウスが苦笑する。

 

 エリスは二人を見た。

 

「でも、今日のは……少しだけ、悪くなかったわ」

 

 それは彼女にしては最大級の褒め言葉だった。

 

 ルーデウスは柔らかく笑う。

 

「それは良かったです」

 

「先生面しないで」

 

「先生ですから」

 

「むかつく」

 

 いつものやり取り。

 

 だが、そこには以前よりも近い距離があった。

 

 エリスがレンを見る。

 

「レン」

 

「何?」

 

「あんたとも踊ればよかったわね」

 

「俺と?」

 

「足運びの稽古になるでしょ」

 

「たぶん、俺は外れすぎて怒られる」

 

「じゃあ直しなさい」

 

「次があれば」

 

「次はやるわ」

 

 エリスは当然のように言った。

 

 レンは少しだけ頷く。

 

「分かった」

 

 ルーデウスが横で笑っている。

 

「その時は、僕が見ていますね」

 

「変なこと言ったら殴るわよ」

 

「何も言いません」

 

「ならよし」

 

 三人は夜風の中で、しばらく黙っていた。

 

 宴の熱が遠ざかり、庭には静けさが戻っている。

 

 けれど、今日の一日は確かに残っていた。

 

 エリスが人前で止まらなかったこと。

 

 ルーデウスが彼女を支えたこと。

 

 レンがそれを見届けたこと。

 

 剣でも魔術でもない。

 

 だが、これもまた一つの成長だった。

 

 レンは夜空を見上げる。

 

 舞踏の足運び。

 

 連携の距離。

 

 恐怖の中で止まらない心。

 

 すべてが少しずつ繋がっていく。

 

 大亀流の技そのものではない。

 

 だが、剣を振る自分の中に、確かに沈んでいく。

 

 考えたものを、身体に沈めろ。

 

 玄斎の声が、遠く胸に響いた。

 

 エリスが大きく伸びをする。

 

「明日は剣よ」

 

「今日の翌日なのに?」

 

「踊ったら、剣も振らないと気持ち悪いわ」

 

「分かるような、分からないような」

 

「分かりなさいよ」

 

 ルーデウスが笑う。

 

「では、明日は軽めにしましょう」

 

「本気でやるわよ」

 

「軽めとは」

 

「本気で軽め」

 

「難しいですね」

 

 レンは笑った。

 

 この日々が、もう少し続く。

 

 そう思えた。

 

 誕生日の夜。

 

 エリスは止まらなかった。

 

 ルーデウスは支えた。

 

 レンは見届けた。

 

 そして、三人はまた明日も強くなるのだと、当たり前のように信じていた。

 

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