エリスの機嫌が悪かった。
いや、エリスの機嫌が悪いこと自体は珍しくない。
朝起きて勉強と聞けば機嫌が悪くなる。
魔術がうまくいかなければ機嫌が悪くなる。
三本勝負でレンに一本取られれば機嫌が悪くなる。
ギレーヌに前へ出すぎだと言われれば機嫌が悪くなる。
ルーデウスに字を直されても機嫌が悪くなる。
つまり、日常である。
だが、その日の機嫌の悪さは少し質が違った。
怒鳴るでもない。
木剣を振り回すでもない。
ただ、朝から妙にむすっとしている。
食事中も黙っている。
授業中も板を睨んでいる。
庭に出ても、いつものように「勝負よ!」とは言わなかった。
レンは木刀を持ったまま、ルーデウスを見た。
ルーデウスも困った顔をしている。
ギレーヌは、理由を知っているらしく、何も言わない。
やがてフィリップが庭へ現れた。
「エリス」
「何よ」
返事が尖っている。
フィリップは慣れた様子で微笑んだ。
「そろそろ、誕生日の準備を本格的に始める」
エリスの眉がぴくりと動いた。
「……分かってるわよ」
「今年は客も多い。君も主役として、きちんと振る舞わなければならない」
「分かってるって言ってるでしょ」
「なら、舞踏の稽古も真面目にやりなさい」
その瞬間、エリスの顔が歪んだ。
レンはなるほどと思った。
原因はそれか。
舞踏。
貴族の宴で踊る、あの踊り。
剣でも魔術でもない。
だが、貴族としては避けられないもの。
エリスが苦手そうなものだった。
「嫌よ」
エリスははっきり言った。
「剣の稽古ならやるわ。字も少しなら読む。計算も、肉串ならやる。魔術も、まあ、少しはやる。でも踊りは嫌」
分かりやすい拒絶だった。
フィリップは苦笑する。
「そうもいかない。君はボレアス家の令嬢だ」
「令嬢なら剣が強ければいいじゃない」
「よくない」
「何でよ」
「剣だけで貴族の場は乗り切れないからだ」
エリスはむっとして黙った。
ルーデウスが一歩前に出る。
「エリス様。舞踏も、見方を変えれば足運びの稽古です」
「足運び?」
エリスの目がわずかに動いた。
ルーデウスはすぐにそこを拾う。
「はい。相手との距離を測り、歩幅を合わせ、ぶつからずに動く。剣の間合いとは違いますが、身体を使うという点では近い部分があります」
「……本当に?」
「本当です」
エリスは疑うようにルーデウスを見る。
次にレンを見た。
「レン」
「何?」
「あんた、どう思う?」
急に振られた。
レンは少し考えた。
舞踏など、前世でも今世でもほとんど知らない。
剣道にも大亀流にも舞踏はない。
だが、足運びという意味なら、ルーデウスの言うことは分かる。
「足を見られるなら、稽古になると思う」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて」
「相手に合わせて動くなら、連携にも使えると思う」
エリスの表情が少し変わった。
連携。
その言葉は最近、彼女に効く。
三人での訓練が始まってから、エリスは自分だけが前へ出ればいいわけではないと、少しずつ理解し始めている。
相手を見る。
味方を見る。
距離を見る。
舞踏もそれに近いと言われれば、完全には拒絶できない。
エリスは唸った。
「……なら、少しだけやるわ」
フィリップが微笑む。
「助かるよ」
「でも、変だったらやめるから」
「まずはやってから決めなさい」
こうして、舞踏の稽古が始まることになった。
◇
舞踏の先生は、屋敷に出入りしている礼儀作法の教師だった。
背筋の伸びた女性で、声は穏やかだが、目が厳しい。
エリスの乱暴な態度にも怯まない。
その点では、ある意味ギレーヌに近かった。
「まずは姿勢です」
「姿勢?」
「背筋を伸ばし、顎を引き、肩の力を抜きます」
「剣と同じじゃない」
「似ていますが、違います。威圧してはいけません」
「何でよ」
「舞踏は相手を倒すものではありません」
「つまらないわね」
開始早々これである。
ルーデウスは隣で苦笑していた。
彼も参加することになった。
相手役としてである。
レンは見学のつもりだったが、エリスが「レンもやりなさい」と言い出したため、逃げられなくなった。
「何で俺まで」
「足運びの稽古になるって言ったでしょ」
「言ったけど」
「ならやるのよ」
理屈としては通っているようで、何かがおかしい。
だが、ギレーヌまで「見ておくといい」と言ったため、レンも並ぶことになった。
ギレーヌは授業として見学するらしい。
剣王が真剣に舞踏を観察する姿は、かなり異様だった。
最初は歩く練習だった。
音楽はまだない。
決められた拍に合わせて、前へ、横へ、後ろへ。
一歩。
二歩。
三歩。
止まる。
回る。
エリスは最初から苦戦した。
足に力が入りすぎる。
踏み込みが強すぎる。
相手を押しのけるように前へ出る。
礼儀作法の教師が何度も言う。
「エリス様、踏み込まないでください」
「歩いてるだけよ!」
「踏み込んでいます」
「どこが!」
「床が鳴っています」
確かに、エリスが足を出すたびに、床が強く鳴っている。
剣なら勢いになる。
だが、舞踏では強すぎる。
ルーデウスが相手役として手を取ると、エリスは力任せに引っ張った。
「うわっ」
ルーデウスがよろける。
「何でよろけるのよ」
「引っ張られたからです」
「しっかりしなさいよ」
「エリス様が強いんです」
「当然よ」
「褒めているようで、今は問題です」
エリスは不満そうだった。
次にレンが相手をすることになった。
エリスが手を取る。
力が強い。
レンは肩を固めず、肘を緩め、引かれた力を足元へ逃がした。
エリスが前へ出る。
レンは下がる。
剣とは違う。
相手の力を外すのではなく、合わせる。
押し返さない。
逃げすぎない。
距離を保つ。
なるほど、これは難しい。
「何であんたはよろけないのよ」
エリスが不満そうに言う。
「力を逃がしてるから」
「逃げるな」
「舞踏では逃がす方がいいと思う」
「むかつく」
礼儀作法の教師が静かに頷いた。
「レン様は、力を受け流すのが上手ですね」
「剣の稽古で少し」
「ただし、相手を避けすぎです。舞踏では相手から外れすぎてもいけません」
「はい」
レンは頷いた。
そこは剣と違う。
大亀流の虚空型なら、相手の認識や攻撃の線から外れることが重要になる。
しかし舞踏では、相手から完全に外れてしまえば踊りが崩れる。
外れすぎず、ぶつからず、合わせる。
それは、三人での連携にも近かった。
ルーデウスはすぐに要領を掴んでいた。
彼は剣士ではない。
だが、相手を見るのがうまい。
エリスの力が強くなれば少し引き、足が遅れれば声をかけ、動きが乱れれば歩幅を変える。
魔術と同じで、場を整えるのがうまい。
「エリス様、次は右です」
「分かってるわよ」
「今、左へ行きかけました」
「分かってたわよ!」
「では、右へ」
「うるさい!」
怒鳴りながらも、エリスは右へ動いた。
◇
数日間、舞踏の稽古は続いた。
エリスは何度も怒った。
何度も足を踏み外した。
何度もルーデウスの足を踏んだ。
レンの足も踏んだ。
しかも、踏み方が強い。
「痛い」
「我慢しなさい」
「踏まれてるの俺なんだけど」
「鍛えれば痛くなくなるわ」
「足の甲は鍛えにくいと思う」
ルーデウスはもっと踏まれていた。
彼はそのたびに涙目になりながらも、根気よく教えた。
「エリス様、拍を数えましょう。一、二、三。一、二、三」
「数えると足が変になる!」
「数えないともっと変になります」
「何ですって!」
「事実です」
最近のルーデウスは、エリス相手に少しだけ遠慮がなくなってきた。
そのたびにエリスは怒る。
だが、本気で拒絶はしない。
怒りながら続ける。
それが、今の二人の距離だった。
レンはその横で、自分の動きも直されていた。
「レン様。前に出過ぎないください」
「出ていますか?」
「歩幅がそうなっています」
「はい」
「相手を崩そうとしないでください」
「無意識です」
「舞踏では、相手を支えます」
相手を支える。
その言葉は新鮮だった。
剣なら、相手を崩す。
相手の軸を奪う。
勝ち筋を折る。
だが、舞踏では逆だ。
相手の軸を保つ。
相手が動きやすい場所を作る。
自分も崩れず、相手も崩さない。
それは護衛の訓練とも違う。
共に動くための身体操作。
レンはその感覚を少しずつ掴み始めた。
ある日、エリスが大きく足を間違えた。
ルーデウスがよろける。
エリスも勢いで前へ出すぎる。
ぶつかる。
レンは反射的に横から手を出した。
エリスの肘を支え、ルーデウスの肩を押さえ、二人の体勢を立て直す。
大きな動きではない。
剣の技でもない。
ただ、崩れる前に支えただけ。
礼儀作法の教師が目を細めた。
「今のはよろしいです」
レンは少し驚いた。
「よかったですか」
「はい。相手を倒さず、押さえ込みもせず、流れを戻しました」
エリスはむっとした顔でレンを見る。
「助けなくても立てたわ」
「そう?」
「立てた!」
ルーデウスは苦笑した。
「僕は助かりました」
「ルーデウスはもっと鍛えなさい」
「舞踏で鍛える部位ではない気がします」
「全部鍛えればいいのよ」
エリスらしい結論だった。
◇
舞踏の稽古が進むにつれ、エリスは少しずつ変わった。
最初は力任せだった。
相手の手を掴む。
引っ張る。
踏み込む。
曲がる時も、剣のように体を振り回す。
だが、何度も失敗するうちに、相手を見始めた。
ルーデウスの足。
レンの肩。
自分の歩幅。
拍。
音。
少しずつ、少しずつ、目が増えていく。
それは剣にも表れた。
庭での三本勝負。
エリスは以前より、レンの足を見るようになった。
前へ出るだけでなく、出た後に止まる。
外された時に踏み直す。
ルーデウスの魔術の線を塞がない。
もちろん、熱くなれば忘れる。
忘れて突っ込み、ギレーヌに打たれる。
だが、戻るのが早くなった。
「舞踏、役に立ってるね」
レンが言うと、エリスは即座に睨んだ。
「役に立ってないわよ」
「でも、足が前より合ってる」
「剣の稽古のおかげよ」
「舞踏もしてるからじゃない?」
「違うわ」
「そう?」
「違う」
頑固だった。
だが、その日の夕方、エリスは一人で廊下を歩いていた。
一、二、三。
一、二、三。
小さく拍を数えながら。
レンはそれを見たが、何も言わなかった。
言えば怒る。
ただ、少しだけ笑った。
◇
誕生日の準備は、屋敷全体を忙しくしていった。
使用人たちは廊下を磨き、客室を整え、食器を確認し、庭の飾りを準備する。
フィリップは招待客の確認に追われていた。
サウロスは何度も「盛大にやれ!」と叫び、そのたびに周囲が慌ただしくなる。
エリスはその騒ぎの中心にいながら、どこか落ち着かなかった。
彼女は強い。
乱暴で、堂々としていて、怖いもの知らずに見える。
だが、貴族たちが集まる場は別らしい。
ある日の夜、エリスはレンの部屋へ来た。
扉を叩くようになっただけ、ずいぶん成長である。
「入るわよ」
「どうぞ」
エリスは入ってくるなり、床に座った。
いつもの勢いは少し弱い。
「どうしたの」
「別に」
「別にって顔じゃない」
「うるさいわね」
エリスは膝を抱えた。
しばらく黙る。
レンも木刀を拭きながら待った。
やがて、エリスが小さく言った。
「誕生日、面倒」
「人がたくさん来るんだっけ」
「そう。知らない貴族とか、父様の知り合いとか、お祖父様の客とか」
「大変そう」
「大変なのよ」
エリスは珍しく素直に言った。
「剣ならいいのに。相手が来たら斬ればいいもの」
「舞踏会で斬ったら駄目だと思う」
「分かってるわよ」
「分かってるならいいけど」
「でも、みんな見てくるのよ。変な目で」
エリスの声が少し低くなる。
「私が失敗するのを待ってるみたいに」
レンは手を止めた。
エリスは強い。
だが、周囲の目に何も感じないわけではない。
乱暴な令嬢。
扱いにくい娘。
ボレアスの狂犬。
そういう言葉が、彼女の耳に入ったこともあるのだろう。
怒鳴り返せる相手ばかりではない。
殴れない場所もある。
それが彼女には苦手なのだ。
「失敗したら?」
レンが聞くと、エリスは顔を上げた。
「は?」
「失敗したら、どうする?」
「……むかつく」
「うん」
「恥ずかしい」
「うん」
「殴りたくなる」
「殴らない方がいい」
「分かってるわよ」
レンは少し考えた。
「剣でも失敗するよね」
「するわね」
「俺もする。ギレーヌさんには毎回打たれる」
「それはそうね」
「でも、次に直す」
エリスは黙った。
「舞踏も同じじゃないかな。失敗したら、次の一歩を直す。そこで止まらなければいい」
「簡単に言うわね」
「簡単じゃないよ」
レンは木刀を置いた。
「俺も、止まるのが怖い」
エリスがこちらを見る。
「足が止まるのが怖い。前に、動けなかったことがあるから」
それは、前世のことだった。
雨の夜。
本物の刃。
足がすくみ、動けなかった自分。
詳しくは話さない。
まだ話せない。
だが、その感覚だけは本当だった。
エリスはじっとレンを見ていた。
いつものように茶化さなかった。
「でも、今は動いてるじゃない」
「動けるようになりたいから」
「なら、私も同じね」
「同じ?」
「止まりたくないから、やる」
エリスは立ち上がった。
目の奥に、いつもの火が戻っている。
「失敗したら、次の一歩を直すのね」
「うん」
「なら、明日も舞踏やるわ」
「うん」
「でも、剣もやるわ」
「それはそうだと思った」
「当たり前よ」
エリスは扉へ向かう。
出る直前、少しだけ振り返った。
「レン」
「何?」
「誕生日、見てなさい」
「うん」
「失敗しないとは言わないわ。でも、止まらない」
レンは頷いた。
「見てる」
「よし」
エリスは満足したように出ていった。
扉が閉まる。
レンはしばらく、閉じた扉を見ていた。
止まらない。
それはエリスの言葉であり、レン自身の言葉でもあった。
◇
誕生日当日。
屋敷は朝から騒がしかった。
使用人たちは走り回り、料理人たちは忙しく動き、庭も広間も美しく整えられていた。
招待客が次々と到着する。
貴族。
商人。
騎士。
フィリップの関係者。
サウロスの知人。
華やかな服。
香水の匂い。
笑い声。
探るような視線。
レンは部屋の端で、それらを見ていた。
今日は木刀を腰に差していない。
正式な場で武器を持つわけにはいかないと言われたからだ。
代わりに、控えの部屋に置いてある。
手元に木刀がないだけで、少し落ち着かない。
だが、足はある。
目もある。
呼吸もある。
見ることはできる。
ルーデウスは礼服を着て、少し緊張していた。
だが、それを隠すのは上手い。
レンの隣に立ち、小声で言う。
「すごい人数ですね」
「うん」
「エリス様、大丈夫でしょうか」
「大丈夫かは分からないけど、止まらないとは言ってた」
「それは頼もしいですね」
やがて、広間の奥からエリスが現れた。
赤い髪を整え、華やかな衣装を着ている。
普段の木剣を振り回す姿とは違う。
だが、目の強さは同じだった。
周囲の視線が集まる。
囁き声。
品定めするような目。
エリスの肩がわずかに強張る。
レンには分かった。
緊張している。
怒っているのではない。
怖がっている。
けれど、止まってはいない。
エリスは一歩進む。
一、二、三。
歩幅は少し硬い。
だが、崩れない。
サウロスが豪快に祝辞を述べ、広間が笑いと拍手に包まれた。
それから、舞踏の時間が来た。
最初の相手はルーデウスだった。
流れなら通り、ここはルーデウスがエリスを支える場面だ。
レンは端で見ていた。
自分が出る場面ではない。
ルーデウスが前に出る。
エリスがその手を取る。
いつもの彼女なら、力任せに握る。
だが、今日は違った。
強く握りすぎない。
肩を上げすぎない。
顎を引く。
音楽が始まる。
一歩。
二歩。
三歩。
エリスの足が少し乱れた。
周囲の視線が動く。
レンの胸が少し詰まる。
だが、ルーデウスがすぐに歩幅を合わせた。
エリスは止まらない。
次の一歩を直す。
もう一度。
一、二、三。
今度は合う。
ルーデウスが小さく何かを言った。
エリスが一瞬むっとした顔をした。
だが、足は止まらない。
回る。
進む。
下がる。
また進む。
剣のように鋭くはない。
礼儀作法の教師が見れば、まだ粗いのだろう。
だが、エリスは踊っていた。
逃げずに。
止まらずに。
周囲の目の中で、ちゃんと立っていた。
曲が終わる。
拍手が起きた。
エリスは息を吐く。
ルーデウスは深く礼をした。
エリスも少し遅れて礼をする。
サウロスが大声で笑った。
「見たか! 我が孫は見事であろう!」
広間がさらに騒がしくなる。
エリスは顔を赤くしていた。
怒っているようにも、照れているようにも見える。
視線がレンと合った。
レンは小さく頷いた。
止まらなかった。
エリスは一瞬だけ胸を張った。
そして、すぐにそっぽを向いた。
◇
その後、何人かの相手と舞踏をこなしたエリスは、ようやく広間の端へ戻ってきた。
疲れた顔をしている。
だが、目は死んでいない。
レンが近づくと、エリスは先に言った。
「どうだった?」
「止まらなかった」
レンが答えると、エリスは少しだけ目を丸くした。
それから、満足そうに笑う。
「当然よ」
「最初、少し足が乱れた」
「そこは言わなくていいのよ!」
「でも直した」
「……そこは言っていいわ」
エリスは胸を張った。
ルーデウスも横に来る。
「エリス様、よかったですよ」
「当たり前よ。あんたの足に合わせてあげたんだから」
「合わせてもらっていたんですね」
「そうよ」
ルーデウスは苦笑した。
だが、その顔は嬉しそうだった。
ギレーヌも少し離れた場所から見ていた。
彼女は短く言った。
「よかったです」
エリスはそれを聞いて、今度こそ本当に嬉しそうな顔をした。
「ギレーヌがそう言うなら、本当に良かったのね」
「はい」
その時、サウロスが遠くから叫んだ。
「エリス! 次はこちらへ来い!」
「もう!」
エリスは文句を言いながらも、走り出しそうになり、途中で止まった。
そして歩いた。
一、二、三。
きちんと、ではない。
少し雑だ。
だが、以前のように床を踏み鳴らして突撃する歩き方ではなかった。
レンはそれを見て、少し笑った。
舞踏も、無駄ではなかった。
◇
宴が終わる頃には、夜も深くなっていた。
招待客が帰り、広間の灯りが少しずつ落とされる。
エリスは疲れ果てていた。
だが、どこか満足そうでもあった。
庭に出ると、夜風が涼しかった。
レン、エリス、ルーデウスの三人は、少しだけ広間を抜け出していた。
ギレーヌは離れた場所で見守っている。
エリスは夜空を見上げる。
「疲れた」
「お疲れ様です」
ルーデウスが言う。
「本当に疲れたわ。剣の方が楽」
「でも、できた」
レンが言うと、エリスは頷いた。
「できたわ」
珍しく、素直だった。
「止まらなかった」
「うん」
「次はもっと上手くやるわ」
「次もあるんだ」
「あるでしょ。貴族って面倒ね」
「そうですね」
ルーデウスが苦笑する。
エリスは二人を見た。
「でも、今日のは……少しだけ、悪くなかったわ」
それは彼女にしては最大級の褒め言葉だった。
ルーデウスは柔らかく笑う。
「それは良かったです」
「先生面しないで」
「先生ですから」
「むかつく」
いつものやり取り。
だが、そこには以前よりも近い距離があった。
エリスがレンを見る。
「レン」
「何?」
「あんたとも踊ればよかったわね」
「俺と?」
「足運びの稽古になるでしょ」
「たぶん、俺は外れすぎて怒られる」
「じゃあ直しなさい」
「次があれば」
「次はやるわ」
エリスは当然のように言った。
レンは少しだけ頷く。
「分かった」
ルーデウスが横で笑っている。
「その時は、僕が見ていますね」
「変なこと言ったら殴るわよ」
「何も言いません」
「ならよし」
三人は夜風の中で、しばらく黙っていた。
宴の熱が遠ざかり、庭には静けさが戻っている。
けれど、今日の一日は確かに残っていた。
エリスが人前で止まらなかったこと。
ルーデウスが彼女を支えたこと。
レンがそれを見届けたこと。
剣でも魔術でもない。
だが、これもまた一つの成長だった。
レンは夜空を見上げる。
舞踏の足運び。
連携の距離。
恐怖の中で止まらない心。
すべてが少しずつ繋がっていく。
大亀流の技そのものではない。
だが、剣を振る自分の中に、確かに沈んでいく。
考えたものを、身体に沈めろ。
玄斎の声が、遠く胸に響いた。
エリスが大きく伸びをする。
「明日は剣よ」
「今日の翌日なのに?」
「踊ったら、剣も振らないと気持ち悪いわ」
「分かるような、分からないような」
「分かりなさいよ」
ルーデウスが笑う。
「では、明日は軽めにしましょう」
「本気でやるわよ」
「軽めとは」
「本気で軽め」
「難しいですね」
レンは笑った。
この日々が、もう少し続く。
そう思えた。
誕生日の夜。
エリスは止まらなかった。
ルーデウスは支えた。
レンは見届けた。
そして、三人はまた明日も強くなるのだと、当たり前のように信じていた。