レンがこの世界で最初に覚えたのは、空腹だった。
腹が減る。
泣く。
誰かが抱き上げる。
温い乳を与えられる。
眠る。
また腹が減る。
赤子の身体というものは、前世の記憶を持つ者にとって、どうしようもなく不自由だった。
首は動かない。
手足は言うことを聞かない。
声を出そうとしても、意味のある言葉にはならない。
ただ泣くだけ。
ただ眠るだけ。
ただ生かされるだけ。
前世で十七年生き、竹刀を握り、自分の足で道場へ通っていた記憶があるからこそ、その無力さは余計に堪えた。
だが、赤子の身体でどうにかできることなど何もない。
レンはただ、この世界の音を聞いていた。
聞き慣れない言葉。
聞き慣れない祈り。
硬い靴音。
木の扉が軋む音。
石造りの建物に雨が当たる音。
日本ではない。
前世のどこでもない。
何日も、何十日も、何百日も過ごすうちに、レンは少しずつ理解していった。
自分は本当に死んだのだ。
そして、別の世界に生まれたのだ。
そこは、剣と魔術が存在する世界だった。
◇
レンが預けられたのは、小さな町の外れにある教会だった。
教会といっても、前世で見たような大きな建物ではない。
石造りの古い建物。
隙間風の入る寝室。
簡素な礼拝堂。
裏手には小さな畑と井戸があり、そのさらに奥に子供たちが遊ぶための土の庭があった。
そこが、レンの育った孤児院だった。
レンを産んだ母親は、出産の後に死んだらしい。
父親は分からない。
誰も詳しくは教えてくれなかった。
いや、教えるほどの情報がなかったのだろう。
孤児院には、レンと同じような子供が何人もいた。
親を亡くした子。
捨てられた子。
戦や魔物に家族を奪われた子。
名前だけを持ってきた子。
名前すらここで与えられた子。
レンは、その中の一人だった。
ただ一つ違ったのは、前世の記憶があること。
雨の中で死んだ記憶。
恐怖で足を止めた記憶。
そして、今度こそ足を止めないと誓った記憶。
それだけは、赤子の頃から胸の奥に残り続けていた。
三歳になる頃、レンはようやくこの世界の言葉をある程度理解できるようになった。
最初は音の塊だった言葉が、少しずつ意味を持ち始める。
飯。
水。
寝ろ。
走るな。
危ない。
祈り。
神。
魔術。
魔物。
剣士。
知らない単語が増えるたびに、レンはこの世界を知っていった。
この世界には、魔術がある。
魔物がいる。
剣士がいる。
貴族がいる。
冒険者がいる。
そして、強くなければ簡単に死ぬ。
その事実を知った時、レンの中に妙な納得が生まれた。
前世よりも、ずっと危ない世界だ。
だが、だからこそ分かりやすい。
ここでは、力がいる。
動けなければ死ぬ。
恐怖で足を止めれば、今度こそ何も守れない。
ある日、教会に旅の魔術師がやって来た。
灰色の外套を羽織った痩せた男で、腰には短い杖を下げていた。
彼は子供たちを喜ばせるために、小さな魔術を見せてくれた。
男が短く呪文を唱える。
すると、何もない空中に赤い火が生まれた。
子供たちが歓声を上げる。
火は小さな玉となり、くるくると空中を回った。
魔術師は得意げに笑い、その火球を消してみせた。
拍手が起きた。
レンも目を奪われていた。
綺麗だ、と思った。
だが、その次に浮かんだのは別の感情だった。
――あれが人に向けられたら、どうなる?
剣だけではない。
この世界には、前世に存在しなかった力がある。
刃物を持った男にすら足が止まった自分が、魔術や魔物を前にして動けるのか。
そう考えた瞬間、レンは怖くなった。
けれど、その恐怖は前世の最後に感じたものとは違った。
足を止める恐怖ではない。
動かなければならないと、背中を押す恐怖だった。
その日の夕方。
レンは孤児院の裏庭で、一本の木の枝を拾った。
細く、やや曲がった枝。
竹刀には程遠い。
木刀にもならない。
だが、両手で握るにはちょうどよかった。
左足を引く。
右足を前へ。
背筋を伸ばす。
顎を引く。
枝の先を、目の前の見えない相手へ向ける。
正眼。
前世で何度も取った構えだった。
久しぶりに構えた瞬間、胸の奥が少し震えた。
懐かしさ。
悔しさ。
恐怖。
その全部が混ざっていた。
レンは枝を振った。
一回。
二回。
三回。
すぐに肩が痛くなった。
幼い身体は思ったように動かない。
踏み込めば足がもつれる。
腕を振れば枝に身体が引っ張られる。
腰が浮く。
膝が固まる。
前世なら当たり前にできた素振りが、今の身体では笑えるほど不格好だった。
それでもレンは振った。
次の日も。
その次の日も。
雨の日は軒下で。
寒い日は息を白くしながら。
誰かに笑われても。
枝を奪われても。
手の皮が剥けても。
レンは枝を振り続けた。
孤児院の子供たちは、最初こそ面白がって真似をした。
だが、すぐに飽きた。
ただ枝を振るだけ。
ただ立って、踏み込んで、戻るだけ。
遊びとしては地味すぎた。
そのうち、年上の子供たちはレンをからかうようになった。
「またやってるぞ」
「剣士ごっこだ」
「枝なんか振ってどうするんだよ」
レンは無視した。
無視できるうちは、無視した。
だがある日、年上の少年がレンの枝を取り上げた。
「これがそんなに大事なのか?」
少年は笑って、枝を高く掲げた。
レンは手を伸ばす。
「返せ」
「やだね」
「返せ」
「剣士様なら取ってみろよ」
周りの子供たちが笑う。
レンは少年を見上げた。
前世の記憶があるとはいえ、身体はまだ小さい。
力で勝てる相手ではない。
それでも、レンは飛びかかった。
少年の腕にしがみつく。
振り払われる。
地面に転がる。
腹を蹴られる。
息が詰まる。
それでもレンは、また立った。
もう一度飛びかかる。
今度は肩を掴む。
殴られる。
唇が切れる。
また転がる。
それでも、目は枝から離さない。
少年の笑いが消えた。
「なんだよ、こいつ……」
気味悪がるような声だった。
レンは泥だらけのまま、少年の足首へしがみついた。
「返せ」
声は掠れていた。
「返せ」
少年は舌打ちして、枝を放り投げた。
「気持ち悪いんだよ!」
枝が地面に落ちる。
レンはすぐに手を伸ばした。
泥のついた枝を拾い、両手で握る。
少年はもう近づいてこなかった。
周囲の子供たちも、少し距離を取っていた。
レンは口元の血を拭い、ふらつきながら立った。
そして、構えた。
正眼。
腕は震えている。
足も震えている。
だが、枝の先だけは前を向いていた。
その日から、レンは少しだけ孤児院の中で浮いた存在になった。
食事の席で隣に座る子が減った。
話しかけてくる子も減った。
それでも構わなかった。
レンには、枝を振る理由があった。
自分がなぜ転生したのかは分からない。
誰がこの世界へ送ったのかも分からない。
だが、次が与えられたのなら。
今度こそ、恐怖で足を止めない。
そのために、今の自分にできることは枝を振ることだけだった。
◇
五歳になった頃、レンの素振りは少しだけ形になっていた。
もちろん、前世の自分には遠く及ばない。
身体はまだ小さい。
筋力もない。
踏み込みも浅い。
だが、毎日続けたことで、枝に振られることは減った。
足の置き方も少しずつ安定してきた。
何より、転び方が上手くなった。
足を滑らせても、すぐに手をつく。
倒れても枝を離さない。
地面に転がっても、枝の先を相手へ向ける。
それが正しい剣なのかどうかは分からない。
だが、レンにとっては大事なことだった。
倒れても、終わりではない。
死んでいなければ、まだ動ける。
その日も、レンは孤児院の裏庭で枝を振っていた。
朝の仕事を終え、昼食までの少しの時間。
他の子供たちは井戸の近くで遊んでいる。
レンは庭の隅に立ち、枝を構えた。
息を吸う。
吐く。
一歩踏み込む。
枝を振る。
戻る。
また構える。
何度も繰り返す。
その時だった。
「妙な剣だな」
聞き慣れない声だった。
レンは枝を下ろさず、声の方を見た。
孤児院の塀にもたれ、一人の男が立っていた。
黒い髪を後ろで雑に結んでいる。
年齢はよく分からない。
二十代にも、三十代にも見える。
口元には軽い笑み。
だらしなく着崩した衣服は、この世界のものとは少し違っていた。
前世で見た和服に似ている。
腰には刀らしきもの。
長い布に包まれているが、形で分かる。
この男は剣を持っている。
レンの背筋に、ぞわりとしたものが走った。
怖い、とは違う。
危ない。
本能がそう告げていた。
男は塀から背を離し、ゆっくりと近づいてくる。
歩き方に力みがない。
足音も小さい。
それなのに、気づいた時には距離が詰まっていた。
レンは無意識に枝を握り直した。
男は楽しそうに笑う。
「おいおい、そんなもんで斬る気か?」
「斬れない」
「分かってるのか」
「枝だから」
「じゃあ何をしてる」
「稽古」
「何の」
レンは少し迷った。
この世界で、その言葉が通じるかどうか分からない。
だが、嘘をつく理由もなかった。
「剣道」
男の笑みが、ぴたりと止まった。
「……何だって?」
「剣道」
「誰に聞いた、その言葉」
「誰にも」
男の目が細くなる。
さっきまでの軽薄さが少し消えた。
「日本を知ってるのか」
レンは答えなかった。
心臓が強く鳴る。
日本。
この世界に来てから、初めて聞いた前世の国の名だった。
なぜ、この男がそれを知っているのか。
この男も転生者なのか。
それとも、過去に日本から来た者を知っているのか。
分からない。
だから黙った。
男はしばらくレンを見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「なるほどな」
「何が」
「いや。面白い小僧だと思ってな」
「俺は面白くない」
「そこじゃねえよ」
男はしゃがみ、レンと目線を合わせた。
近くで見ると、男の目は不思議だった。
笑っているようで、笑っていない。
ふざけているようで、こちらの全部を見ている。
「名は?」
「レン」
「姓は?」
「ない」
「親は?」
「いない」
「孤児か」
「そうだよ」
男は孤児院の建物を一瞥した。
それから、レンの手元の枝を見る。
「毎日振ってるのか、それ」
「うん」
「誰に教わった」
「前に」
「前?」
レンは口を閉じた。
前世、と言いかけて止めた。
男はそれ以上追及しなかった。
ただ、レンの周りをゆっくり歩きながら、身体を眺める。
足。
腰。
肩。
手。
枝の握り。
視線。
その見方が、孤児院の大人たちとは違っていた。
単に珍しいものを見る目ではない。
技を見る目だった。
やがて男は笑った。
「下手だな」
レンは眉をひそめる。
「うるさい」
「足が浮いてる。腰が高い。肩に力が入りすぎ。枝の先ばっか意識して、身体が死んでる」
「……」
「しかも剣道の癖が抜けてねえ」
レンは息を呑んだ。
この男は、本当に分かっている。
前世の自分がしていたものを。
今の自分がなぞっているだけのものを。
「でも」
男は続ける。
「倒れ方は悪くねえ」
「倒れ方?」
「転んでも枝を離さねえ。目も逸らさねえ。身体が崩れても、先だけは相手に向けようとしてる」
男はにやりと笑った。
「虫けらみてえだな」
「褒めてる?」
「半分な」
「残りは?」
「馬鹿にしてる」
レンは男を睨んだ。
男は楽しそうに肩を揺らす。
「来い、小僧」
「どこに」
「道場だ」
「道場?」
「お前みたいなのを、ここで枝振らせておくのは勿体ねえ」
レンは警戒した。
知らない男にいきなりついていくほど、幼くはない。
見た目は五歳でも、中身には前世の記憶がある。
「なんで俺を連れていく」
「剣を学びたいんだろ」
「……」
「違うのか?」
レンは枝を握る手に力を込めた。
「学びたい」
「なら来い」
「強くなれるのか」
「お前次第だ」
「誰かを守れるくらいに?」
男は、そこで少し黙った。
軽い笑みが薄くなる。
「守れるかどうかは知らねえ」
「……」
「剣を覚えたからって、守れるとは限らねえ。強くなったからって、間に合うとも限らねえ。世の中、そう都合よくできちゃいねえ」
男の声は、妙に現実的だった。
「でもな」
男はレンの目を見る。
「何もできずに終わるのが嫌なら、握るもんが必要だ」
レンの胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
雨の記憶が蘇る。
包丁。
血。
泣いていた子供。
動けなかった足。
何もできなかった悔しさ。
「俺は……」
レンは小さく息を吸った。
「もう、止まりたくない」
男は黙って聞いていた。
「怖くても、動けるようになりたい」
「そうか」
「だから、剣を学びたい」
男は、満足そうに笑った。
「決まりだな」
「名前は?」
「あ?」
「おじさんの名前」
「おじさんじゃねえ」
男は本気で不満そうな顔をした。
それから、腰の刀を軽く叩く。
「久世宗一郎」
「クゼ、ソウイチロウ」
「そうだ」
「変な名前」
「お前に言われたくねえよ」
宗一郎はそう言って、レンの頭を乱暴に撫でた。
◇
孤児院を出る話は、思ったより早くまとまった。
いや、まとまったというより、宗一郎が勝手にまとめた。
教会の責任者である老女と何やら話し込み、いくつかの書類らしきものを出し、最後には酒瓶まで出した。
レンはその様子を遠くから見ていたが、何がどうなっているのかはよく分からなかった。
ただ翌朝には、レンは孤児院を出ることになっていた。
遠縁の者が引き取る。
そういう話になっているらしい。
本当にそんな遠縁がいるのかは知らない。
おそらく、宗一郎の方便だろう。
出発の朝。
レンは小さな布袋を一つ背負った。
中に入っているのは、替えの服が一枚と、硬い黒パンが少し。
そして、いつも振っていた木の枝。
宗一郎はそれを見て呆れた。
「そんなもん持っていくのか」
「いる」
「道場に行きゃ木刀くらいある」
「これはこれでいる」
「強情なガキだな」
「悪い?」
「いや」
宗一郎は笑う。
「剣士はそれくらいでいい」
孤児院の門を出る時、レンは一度だけ振り返った。
窓から、何人かの子供がこちらを見ていた。
手を振る子はいない。
けれど、誰も笑ってはいなかった。
レンは軽く頭を下げ、前を向いた。
寂しさがないわけではない。
ここは、レンがこの世界で初めて生きた場所だ。
空腹もあった。
寒さもあった。
孤独もあった。
だが、生き延びた場所でもある。
それでも、足は止まらなかった。
道の先で、宗一郎が待っている。
「遅えぞ、小僧」
「荷物が重い」
「捨てろ」
「嫌だ」
「じゃあ文句言うな」
宗一郎はそう言って歩き出した。
レンは小さな足でその後を追う。
町を抜ける。
畑を抜ける。
森へ入る。
道は少しずつ細くなり、やがて山道になった。
宗一郎は容赦がなかった。
歩幅が大きい。
足が速い。
休憩も少ない。
レンは必死についていく。
途中で何度も転びそうになった。
石に躓く。
木の根に足を取られる。
ぬかるみに滑る。
そのたびに、手をつき、枝を抱え、立ち上がる。
宗一郎は振り返らない。
だが、完全には置いていかない。
レンが本当に倒れそうになる頃に、ふと足を止める。
水袋を放る。
干し肉を投げる。
それから、また歩き出す。
一日目の夜。
焚き火の前で、レンは足の裏を見た。
皮が赤くなっている。
豆もできていた。
痛い。
かなり痛い。
宗一郎は酒を飲みながら、それを見て笑った。
「もう帰るか?」
「帰らない」
「泣いて頼めば、孤児院に戻してやるぞ」
「頼まない」
「強情だな」
「さっきも言った」
「そうだったな」
宗一郎は酒瓶を傾けた。
焚き火がぱちりと鳴る。
森の夜は暗い。
前世の夜とは違う。
街灯もない。
車の音もない。
あるのは虫の声と、遠くから聞こえる獣の鳴き声だけ。
レンは膝を抱えながら、焚き火を見つめた。
「宗一郎」
「あ?」
「道場って、どんなところ」
「古くさいところだ」
「強くなれる?」
「お前次第だって言ったろ」
「師匠はいる?」
「いる」
「強い?」
宗一郎は酒瓶を口元で止めた。
少し考えるように視線を上げる。
それから、嫌そうに言った。
「強いな」
「宗一郎より?」
「さあな」
「どっちが強いの」
「小僧」
「何」
「そういうことを聞く奴は、大体ろくな目に遭わねえ」
「なんで」
「本人たちの前で聞きたくなるからだ」
レンはよく分からず首を傾げた。
宗一郎は笑う。
「ま、会えば分かる」
翌日も歩いた。
その翌日も歩いた。
足は痛み、肩は荷物で重くなった。
それでもレンは歩いた。
不思議なことに、苦しいのに嫌ではなかった。
孤児院の裏庭で一人枝を振っていた時とは違う。
今、自分はどこかへ向かっている。
剣を学べる場所へ。
前へ進んでいる。
それだけで、痛みの中にも熱があった。
三日目の昼過ぎ。
山道の先に、古びた木造の建物が見えた。
この世界でよく見る石の建物ではない。
木の柱。
長い軒。
入口に並べられた履物。
風に揺れる古い札。
どこか前世の道場を思わせる造り。
レンは思わず足を止めた。
胸が強く鳴る。
懐かしい。
だが、前世の道場とは違う。
もっと古く。
もっと静かで。
もっと重い。
建物の正面には、一枚の額が掲げられていた。
そこに書かれていた文字を見た瞬間、レンは息を呑んだ。
この世界の文字ではない。
前世で見慣れた文字。
漢字。
力強く、古びた筆跡で、こう記されていた。
――大亀流。
宗一郎はレンの背を軽く押した。
「着いたぞ」
レンは額を見上げたまま、動けなかった。
日本。
剣道。
和装の男。
そして、漢字で書かれた流派の名。
この世界に、自分の前世と繋がる何かがある。
そう感じた。
道場の奥から、低い声が響く。
「宗一郎」
その声だけで、空気が変わった。
レンは反射的に背筋を伸ばした。
道場の奥に、一人の老人が座っていた。
白髪。
深い皺。
片腕。
だが、その姿に弱さはない。
ただ座っているだけで、山のように見えた。
宗一郎は軽い調子で手を上げる。
「連れてきたぞ、玄斎」
老人は目を細めた。
「頼んでおらん」
「俺も育てるとは言ってねえ」
「拾った者が責任を持て」
「俺に子育てができる顔か?」
「儂にできるように見えるか」
二人はしばらく睨み合った。
レンはその場で黙っていた。
心臓がうるさい。
この老人は強い。
なぜそう感じるのかは分からない。
けれど、身体が勝手にそう理解していた。
宗一郎はレンの荷物を床に置いた。
「じゃあな、小僧」
「待って」
レンは振り返る。
だが宗一郎はもう背を向けていた。
「強くなれよ」
それだけ言って、彼は道場の外へ歩いていく。
追いかけようとしたレンの足元に、一本の木刀が転がった。
老人が片腕で投げたものだった。
「拾え」
低く、短い声。
レンは木刀を見る。
古い木刀だった。
無数の傷があり、柄には長年の手垢が染み込んでいる。
レンは、それを両手で拾った。
重い。
枝とは違う。
竹刀とも違う。
これは、人を打つための重さだ。
老人が立ち上がる。
片腕しかないはずなのに、隙がなかった。
ただ立つ。
それだけで、レンは息が詰まりそうになった。
「名は」
「レン」
「姓は」
「ない」
「ならば、今日から黒鉄を名乗れ」
「クロガネ……?」
「大亀流に拾われた者の名だ」
老人は木刀を手に取った。
いつの間にあったのか、レンには見えなかった。
「儂は黒鉄玄斎」
その名を聞いた瞬間、レンは無意識に木刀を握り直した。
黒鉄玄斎。
大亀流道場の主。
これから、自分に剣を教える者。
玄斎は静かに言った。
「レン・クロガネ」
「はい」
「お前の剣を、一度すべて捨てろ」
レンは息を止めた。
そして、首を横に振った。
「嫌です」
玄斎の眉が、僅かに動く。
「ほう」
「これは、俺の剣です」
「枝を振って覚えた剣か」
「前から覚えていた剣です」
「剣道か」
レンは目を見開いた。
玄斎は知っている。
宗一郎だけではない。
この老人も、その言葉を知っている。
玄斎はゆっくりと木刀を構えた。
「ならば、その剣ごと叩き折ってやる」
次の瞬間。
玄斎の姿が、視界から消えた。
いや、消えたように見えただけだった。
気づいた時には、レンの木刀は弾き上げられていた。
足が浮く。
背中から床に叩きつけられる。
息が詰まった。
何が起きたのか分からない。
玄斎はレンを見下ろしていた。
「立て」
レンは咳き込みながら、木刀に手を伸ばす。
足が震える。
腕も震える。
それでも、立つ。
木刀を構える。
玄斎は言った。
「遅い」
また床が迫った。
今度は肩から落ちた。
痛みで視界が白くなる。
「立て」
レンは立った。
打たれる。
倒れる。
また立つ。
打たれる。
倒れる。
何度も。
何度も。
木刀を握る手から力が抜ける。
膝が笑う。
息が喉に引っかかる。
それでもレンは、床に転がった木刀へ手を伸ばした。
玄斎の声が降ってくる。
「なぜ拾う」
レンは荒い息の中で答えた。
「まだ……負けてない」
「倒れている」
「死んでない」
玄斎は黙った。
道場に静寂が落ちる。
やがて、玄斎は僅かに口元を緩めた。
「なるほど」
その声は、先ほどより少しだけ柔らかかった。
「宗一郎が拾った理由は、それか」
レンには意味が分からなかった。
ただ、木刀だけは離さなかった。
玄斎は背を向ける。
「明日から稽古をつける」
レンは顔を上げた。
「剣を、ですか」
「違う」
玄斎は振り返った。
「まずは立つことからだ」
レンは床に膝をついたまま、正面の額を見上げた。
大亀流。
この世界にありながら、前世の匂いを残す異端の流派。
ここで、自分は剣を学ぶ。
枝ではない。
竹刀でもない。
恐怖で止まらないための剣を。
レンは痛む腕で木刀を握り直した。
神代蓮は死んだ。
けれど、レン・クロガネはここから始まる。
山奥の古びた道場で。
何度も床に叩きつけられながら。
それでも、立つところから。