無職転生×異伝   作:からし明太子

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第十九話 知らない誕生日

 

 

 誕生日会の翌朝、エリスはいつもより少しだけ遅く起きた。

 

 広間での挨拶。

 

 客たちの視線。

 

 舞踏。

 

 サウロスの大声。

 

 フィリップの穏やかな笑み。

 

 ルーデウスの手。

 

 レンの頷き。

 

 それらがまだ身体の中に残っているようで、寝台から起き上がった瞬間、エリスはむず痒いような顔をした。

 

 昨日の自分は、逃げなかった。

 

 止まらなかった。

 

 踊った。

 

 それは認めてもいい。

 

 だが、だからといって調子に乗っていると思われるのは癪だった。

 

 だからエリスは、いつも通りにすることにした。

 

 つまり、レンの部屋へ行く。

 

 扉の前で一応立ち止まり、拳を上げる。

 

 最近は、いきなり開けると怒られることを覚えた。

 

「入るわよ」

 

「どうぞ」

 

 中から返事があった。

 

 エリスは扉を開ける。

 

 レンはすでに起きていた。

 

 床に座り、木刀を膝に置いている。

 

 朝の光が窓から入り、木刀の傷を薄く照らしていた。

 

「今日は剣よ」

 

 エリスは開口一番そう言った。

 

 レンは少しだけ目を瞬かせる。

 

「昨日の今日で?」

 

「昨日踊ったからよ」

 

「理由になってる?」

 

「なってるわ。踊りで足を使ったんだから、剣で確かめるの」

 

「それなら分かる気もする」

 

「でしょ!」

 

 エリスは満足そうに胸を張った。

 

 レンは木刀を持って立ち上がる。

 

 部屋を出ると、廊下の先にルーデウスがいた。

 

 教材を抱えている。

 

「おはようございます」

 

「おはよう。今日は先に剣よ」

 

「授業は?」

 

「後」

 

「昨日の疲れは?」

 

「ないわ」

 

「本当に?」

 

「ないったらない!」

 

 ルーデウスは苦笑した。

 

 その顔を見て、エリスは少しだけ得意げになる。

 

 昨日の舞踏で、ルーデウスに支えられた。

 

 それは事実だ。

 

 だが、支えられっぱなしだったと思われるのは嫌だった。

 

 だから今日は、剣で見せる。

 

 自分は昨日よりも強くなっている。

 

 そう証明したかった。

 

 ◇

 

 庭では、ギレーヌが待っていた。

 

 朝の空気は澄んでいた。

 

 昨日の宴の熱が嘘のように、庭は静かだった。

 

 使用人たちは片付けに追われているが、訓練場だけはいつも通り空けられている。

 

 エリスは木剣を握る。

 

 レンも木刀を構えた。

 

 ギレーヌが二人を見る。

 

「三本」

 

「分かってるわ」

 

「今日は、昨日の足を思い出して動け」

 

 その言葉に、エリスはむっとした。

 

「舞踏のこと?」

 

「そうです」

 

「剣と踊りは違うわ」

 

「違います。だが、足は同じ身体についています」

 

 反論できなかった。

 

 エリスは唇を尖らせる。

 

 レンは軽く息を整えた。

 

 昨日の舞踏で、エリスは確かに変わった。

 

 力任せに踏み込むだけではなく、相手に合わせることを少し覚えた。

 

 それが今日の剣にどう出るのか。

 

 レンも気になっていた。

 

「始め」

 

 ギレーヌの声。

 

 エリスが踏み込む。

 

 速い。

 

 だが、昨日までとは少し違った。

 

 ただ一直線に飛び込んでくるのではない。

 

 一歩目の後に、二歩目の余白がある。

 

 踏み込んだ足で床を踏み潰すのではなく、次に動くための幅を残している。

 

 レンは横へ外れようとした。

 

 いつものように、エリスの正面から消える。

 

 しかし、エリスは追いすぎなかった。

 

 剣だけを振り回さず、足を踏み直す。

 

 一、二、三。

 

 舞踏の拍に似た間。

 

 木剣がレンの逃げる先へ置かれた。

 

 レンは目を細める。

 

 受ければ押される。

 

 下がれば追われる。

 

 なら、受け流す。

 

 木刀を斜めに置き、エリスの木剣の外側を滑らせる。

 

 水龍型第一式、逆鱗。

 

 受けると見せて線を変え、エリスの防御と力の向きをずらす。

 

 だが、エリスはそこで前のめりにならなかった。

 

 力が流された瞬間、半歩止まる。

 

 それから、肩を使って木剣を戻す。

 

 速くはない。

 

 だが、以前より崩れない。

 

 レンは木刀を返して手首を狙った。

 

 エリスは腕を引く。

 

 そのまま距離が開く。

 

 一本にはならない。

 

 ギレーヌがわずかに頷いた。

 

「続けろ」

 

 二人はまた動いた。

 

 エリスの剣はまだ荒い。

 

 力が入りすぎる。

 

 怒りや悔しさが乗ると、すぐ踏み込みが大きくなる。

 

 だが、昨日よりも止まれる。

 

 止まれるから、次がある。

 

 レンはそこに驚いた。

 

 外して終わりではない。

 

 崩して終わりでもない。

 

 エリスが次の一歩を持っている。

 

 それは厄介だった。

 

 一本目は、レンが取った。

 

 エリスの踏み直しを読んだ上で、影縫でさらに半歩外れ、肩口へ木刀を添えた。

 

 二本目は、エリスが取った。

 

 レンが荒神の理合で木剣の軌道をずらそうとした瞬間、エリスは力で押し返さず、逆に一度引いた。

 

 引いて、次の一歩で突き込む。

 

 木剣の柄がレンの胸に当たった。

 

「一本。エリス様」

 

 ギレーヌが言う。

 

 エリスは息を切らしながら笑った。

 

「見た!?」

 

「見た」

 

 レンは胸を押さえる。

 

「今の、昨日の足?」

 

「知らないわよ。身体が勝手に動いたの」

 

 本人は認めない。

 

 だが、確かに舞踏の稽古が生きていた。

 

 ルーデウスが横から言う。

 

「やはり、舞踏も無駄ではありませんでしたね」

 

 エリスは即座に振り向いた。

 

「うるさい!」

 

「褒めているんですが」

 

「先生面しないで!」

 

「先生ですから」

 

「むかつく!」

 

 いつものやり取りだった。

 

 だが、エリスの顔は少し嬉しそうでもあった。

 

 三本目は、引き分けに近かった。

 

 レンの木刀がエリスの肩口へ届く寸前、エリスの木剣もレンの腹へ入っていた。

 

 ギレーヌは少し考えた後、言った。

 

「相打ち」

 

「勝ちじゃないの!?」

 

「相打ちです」

 

「むう……」

 

 エリスは不満そうだったが、完全な負けではないので機嫌は悪くない。

 

 レンは息を整えながら、木刀を下ろした。

 

「強くなったね」

 

 自然にそう言った。

 

 エリスは一瞬だけ固まった。

 

 それから顔を赤くして怒る。

 

「当たり前でしょ!」

 

「うん」

 

「何よ、その普通の返事!」

 

「いや、本当にそう思ったから」

 

「……ふん」

 

 エリスはそっぽを向いた。

 

 だが、その耳は赤かった。

 

 ◇

 

 その日の授業は、昨日の誕生日会を題材にしたものだった。

 

 ルーデウスは板に「招待客」「贈り物」「礼状」と書いた。

 

 エリスは嫌そうな顔をする。

 

「また手紙?」

 

「はい。昨日来てくださった方々へ礼状を書く必要があります」

 

「父様が書けばいいじゃない」

 

「エリス様の誕生日ですから」

 

「面倒」

 

「礼状を書ければ、相手に借りを作らずに済みます」

 

 その言い方に、エリスの目が少し動いた。

 

「借り?」

 

「贈り物をもらって何もしないと、相手に失礼です。逆に、きちんと礼を返せば、こちらが侮られにくくなります」

 

「つまり、負けないため?」

 

「大きく言えば」

 

「なら書くわ」

 

 ルーデウスはすぐに紙を用意した。

 

 このあたりの誘導は本当にうまい。

 

 エリスは礼状を書く。

 

 字はまだ荒い。

 

 だが、以前より読める。

 

 ギレーヌも隣で手紙の練習をしている。

 

 レンも自分の紙に文字を書いていた。

 

 誕生日会。

 

 贈り物。

 

 礼。

 

 その流れの中で、エリスがふと思い出したように顔を上げた。

 

「そういえば、ルーデウス」

 

「はい?」

 

「あんた、何歳なの?」

 

 ルーデウスは少し意外そうに瞬きした。

 

「僕ですか? 七歳です」

 

「七歳」

 

 エリスは少し考える。

 

「小さいわね」

 

「エリス様よりは小さいですね」

 

「私は十歳よ。昨日で十歳」

 

「はい。おめでとうございます」

 

「それは昨日聞いたわ」

 

「では改めて」

 

「何度も言わなくていいのよ」

 

 エリスはそう言いながらも、少し満更でもなさそうだった。

 

 それから、彼女の視線がレンへ向いた。

 

「じゃあ、レンは?」

 

「俺?」

 

 レンは筆を止める。

 

「そうよ。あんた、私より上よね」

 

「たぶん」

 

「たぶんって何よ」

 

「正確には知らない」

 

 エリスの眉が動いた。

 

「知らない?」

 

「うん。たぶん、十一くらいだと思う」

 

「十一……」

 

 エリスは少しだけ目を細めた。

 

 自分より一つ上。

 

 年上。

 

 それは何となく分かっていた。

 

 レンはエリスより少し落ち着いている。

 

 もちろん、言い返す時は子供っぽいし、飯や珍しい武器の話になると目が輝く。

 

 だが、時々ひどく静かな目をする。

 

 自分より一つ上と言われれば、納得できた。

 

 だが、エリスが気になったのはそこではなかった。

 

「誕生日は?」

 

 何気なく聞いた。

 

 昨日、自分の誕生日会があったから。

 

 ルーデウスの年齢を聞いたから。

 

 その流れで、ただ聞いただけだった。

 

 レンは少しだけ手を止めた。

 

 本当に少しだけ。

 

 普段のエリスなら気づかなかったかもしれない。

 

 だが、最近のエリスは相手の足や肩を見るようになっている。

 

 その小さな止まり方に、気づいた。

 

「知らない」

 

 レンは静かに言った。

 

「知らないって……誕生日を?」

 

「うん」

 

「何でよ?」

 

「俺は孤児だよ」

 

 部屋の空気が、ほんの少しだけ静かになった。

 

 ルーデウスも筆を止めた。

 

 ギレーヌも顔を上げる。

 

 レンは何でもないことのように続けた。

 

「両親は、物心つく頃からいない。だから、正確な誕生日は知らない」

 

 その声は平らだった。

 

 悲しそうでもない。

 

 怒っているわけでもない。

 

 本当に、ただ事実を言っているだけの声。

 

 だからこそ、エリスは言葉に詰まった。

 

 昨日の誕生日会が頭に浮かぶ。

 

 広間。

 

 たくさんの客。

 

 贈り物。

 

 サウロスの大声。

 

 フィリップの笑み。

 

 自分を祝う人たち。

 

 面倒だった。

 

 緊張した。

 

 嫌な視線もあった。

 

 それでも、自分の誕生日を知っている人がいて、祝う場があった。

 

 レンには、それがない。

 

 いつ生まれたのかも知らない。

 

 誰が親なのかも、もういない。

 

 エリスは胸の奥が妙にざわつくのを感じた。

 

 何か言わなければと思った。

 

 だが、何を言えばいいのか分からない。

 

 可哀想。

 

 そんな言葉は違う気がした。

 

 慰めるのも違う。

 

 レンがそれを望んでいるようには見えない。

 

 だからエリスは、いつものように言うしかなかった。

 

「……ふ、ふうん」

 

 少し声が裏返った。

 

 慌てて咳払いする。

 

「別に、聞いただけよ」

 

「うん」

 

「変な顔しないでよ」

 

「してない」

 

「してるわよ」

 

 そう言ったエリスの方が、変な顔をしていた。

 

 レンはそれに気づいた。

 

 だが、何も言わなかった。

 

 ルーデウスも、何も言わなかった。

 

 彼はただ、少しだけ目を伏せた。

 

 孤児。

 

 両親がいない。

 

 誕生日を知らない。

 

 この世界では、珍しすぎる話ではないのかもしれない。

 

 けれど、身近な誰かの口から聞くと重さが違った。

 

 授業はそのまま続いた。

 

 だが、エリスはしばらく筆の進みが遅くなった。

 

 ルーデウスは気づいていたが、注意しなかった。

 

 ギレーヌも何も言わなかった。

 

 レンは普通に文字を書き続けている。

 

 その普通さが、エリスには少しだけ引っかかった。

 

 ◇

 

 午後の稽古で、エリスはいつもより荒かった。

 

 いや、本人は普通にしているつもりだった。

 

 だが、剣に出ていた。

 

 踏み込みが強い。

 

 間合いが近い。

 

 レンを見すぎている。

 

 相手を倒したいというより、何かを振り払おうとしているような剣だった。

 

 ギレーヌはすぐに見抜いた。

 

「エリス様。乱れています」

 

「乱れてないわ」

 

「乱れています」

 

「乱れてない!」

 

 ギレーヌの木剣が飛んだ。

 

 エリスの木剣が弾かれる。

 

 次の瞬間、ギレーヌの木剣が肩に触れた。

 

「死んだ」

 

「もう一回!」

 

「その前に、なぜ乱れたか考えてください」

 

「乱れてないって言ってるでしょ!」

 

「では、レン」

 

 ギレーヌがレンを見る。

 

「はい」

 

「今のエリス様をどう見た」

 

 レンは少し困った。

 

 本人の前で言えば怒る。

 

 だが、ギレーヌに聞かれたら答えるしかない。

 

「俺を見すぎてました」

 

「何よ、それ」

 

 エリスが睨む。

 

 レンは続ける。

 

「俺を倒すというより、俺に何か言いたいみたいな剣でした」

 

 エリスの顔が赤くなった。

 

「そんなわけないでしょ!」

 

「じゃあ違うかも」

 

「違うわよ!」

 

 だが、否定の声が少し大きすぎた。

 

 ルーデウスが横で苦笑する。

 

 エリスはそれにも噛みつきかけたが、ギレーヌが先に言った。

 

「剣に余計な感情を乗せるなとは言いません」

 

 エリスが黙る。

 

「怒りも悔しさも、剣を強くすることはあります。だが、見たいものを見ず、考えたいことから逃げるために振れば、剣は乱れます」

 

 その言葉に、エリスは俯いた。

 

 珍しく、すぐには言い返さなかった。

 

 レンは木刀を下ろした。

 

 自分のことでエリスが乱れている。

 

 それは何となく分かった。

 

 だが、何を言えばいいのか分からない。

 

 孤児であること。

 

 誕生日を知らないこと。

 

 レンにとって、それはずっと前からある事実だった。

 

 寂しくないわけではない。

 

 だが、泣き続けるほどのものでもない。

 

 孤児院で育ち、道場に拾われ、玄斎や宗一郎に出会った。

 

 それで今の自分がある。

 

 ただ、エリスにとっては違うのだろう。

 

 昨日、盛大に誕生日を祝われたばかりだから、余計に。

 

 ギレーヌは木剣を下ろした。

 

「今日はここまで」

 

「まだできるわ」

 

「できるから駄目です」

 

 いつもの言葉。

 

 エリスは唇を噛んだが、今回は反論しなかった。

 

 ◇

 

 その夜、エリスは自分の部屋で落ち着かなかった。

 

 机の上には、昨日もらった贈り物の一部が置かれている。

 

 髪飾り。

 

 布。

 

 小物。

 

 菓子。

 

 親族や客から贈られたもの。

 

 エリスはそれらを見て、何だか腹が立った。

 

 別に贈り物が嫌なわけではない。

 

 祝われるのが嫌だったわけでもない。

 

 昨日は、少しだけ嬉しかった。

 

 踊れたことも、褒められたことも、悪くなかった。

 

 だが、レンの言葉が頭から離れない。

 

 知らない。

 

 俺は孤児だよ。

 

 両親は、物心つく頃からいない。

 

 あの言い方。

 

 何でもないことのように言った顔。

 

 それが余計に気になった。

 

 もし自分が誕生日を知らなかったら。

 

 誰にも祝われなかったら。

 

 サウロスの大声も、フィリップの笑みもなかったら。

 

 想像しようとして、うまくできなかった。

 

 エリスには家族がいる。

 

 面倒なことも多い。

 

 貴族としての立場も、嫌な視線もある。

 

 でも、自分がいつ生まれたのかを知っている人がいる。

 

 それが当たり前ではない。

 

 今日、初めてそう思った。

 

「……別に、気にしてないわよ」

 

 誰もいない部屋で、エリスは小さく呟いた。

 

 気にしていない。

 

 聞いただけ。

 

 レンが孤児なのは前から分かっていた。

 

 誕生日を知らないからって、自分が何かする必要はない。

 

 そう思おうとした。

 

 だが、机の上の贈り物を見ると、胸の奥がむずむずする。

 

 しばらくして、エリスは立ち上がった。

 

 部屋を出る。

 

 廊下を歩く。

 

 足音を抑えるつもりはなかったが、舞踏の稽古のせいか、以前より少し静かになっている。

 

 向かった先は、フィリップの部屋だった。

 

 扉の前で一度立ち止まる。

 

 何を言うのか。

 

 自分でも分からない。

 

 ただ、聞きたいことがあった。

 

「父様」

 

 扉の向こうから返事がある。

 

「入りなさい」

 

 フィリップは机で書類を読んでいた。

 

 エリスを見ると、少し驚いたように眉を上げる。

 

「珍しいね。こんな時間に」

 

「聞きたいことがあるの」

 

「何かな」

 

 エリスは少し迷った。

 

 それから、ぶっきらぼうに言う。

 

「誕生日が分からない人って、いるの?」

 

 フィリップはすぐには答えなかった。

 

 だが、質問の意味は察したようだった。

 

「レンのことかい?」

 

「別に、そうとは言ってないわ」

 

「そうか」

 

 フィリップは穏やかに頷いた。

 

「いるよ。孤児や、戦乱で家族を失った者、記録が残っていない者。珍しいことではない」

 

「……そう」

 

「だが、珍しくないからといって、軽い話ではない」

 

 エリスは黙った。

 

 フィリップは続ける。

 

「誕生日は、その人が生まれた日だ。けれど、同時に誰かが覚えてくれている日でもある。知らないということは、覚えている人がいないということでもある」

 

 エリスの胸がちくりとした。

 

「じゃあ、どうすればいいのよ」

 

 思わず口に出た。

 

 フィリップは少しだけ微笑む。

 

「何かしてあげたいのかい?」

 

「違うわよ!」

 

 即答。

 

 声が大きい。

 

 フィリップは笑わなかった。

 

「そうか」

 

「別に、気にしてないわ。ただ、聞いただけ」

 

「分かっているよ」

 

「分かってない顔してる」

 

「そうかな」

 

 フィリップは少し考えた後、静かに言った。

 

「誰かの誕生日を知らないなら、別の日を選んで祝うこともできる」

 

「別の日?」

 

「その人にとって大切な日。出会った日。何かを始めた日。あるいは、近くにある誰かの誕生日に合わせてもいい」

 

 エリスは眉を寄せる。

 

「それでいいの?」

 

「本人が嫌がらなければね」

 

「ふうん」

 

 エリスは視線を逸らした。

 

 何かを思いついたわけではない。

 

 まだ、はっきりとは。

 

 だが、胸の奥のむずむずが少し形を持ち始めた。

 

 フィリップはそれ以上何も言わなかった。

 

 エリスが考える時間を残すように、静かに書類へ目を戻す。

 

 エリスは扉へ向かった。

 

「父様」

 

「何だい?」

 

「今の話、誰にも言わないで」

 

「もちろん」

 

「ルーデウスにも、レンにもよ」

 

「分かっている」

 

 エリスは頷き、部屋を出た。

 

 廊下に出ると、夜の空気が少し冷たかった。

 

 彼女は小さく息を吐く。

 

 別の日を選ぶ。

 

 誰かの誕生日に合わせる。

 

 その言葉が、頭の中に残った。

 

 ◇

 

 それからの日々は、少しずつ流れていった。

 

 誕生日会が終わっても、ボレアス家の日常は続く。

 

 朝は剣。

 

 昼は授業。

 

 夕方は連携。

 

 夜は復習。

 

 エリスは読み書きを続けた。

 

 礼状も何枚か書いた。

 

 字は荒かったが、最後まで投げなかった。

 

 ルーデウスは家庭教師として、ますます屋敷に馴染んでいった。

 

 ギレーヌは文字を読む速度が少しずつ上がった。

 

 レンは大亀流の五剣一式を、日々の稽古の中で磨き続けた。

 

 雷電型第一式は、ただ速く入る技ではない。

 

 相手の反応を引き出し、その反応の上に壱・弐・参を置く技だと、少しずつ身体で理解し始めた。

 

 影縫は、逃げるためだけではない。

 

 ルーデウスの魔術の射線を開けるため。

 

 エリスの踏み込みと重ならないため。

 

 味方と敵の間で、自分の位置を変えるためにも使える。

 

 逆鱗は、エリスの剛剣を受け流す中で磨かれた。

 

 真っ直ぐ受ければ押し負ける。

 

 だから、線を変える。

 

 受けると見せて外す。

 

 外すと見せて戻す。

 

 荒神は、ギレーヌにはまだ通じない。

 

 だが、護衛相手なら木剣の軌道をずらせることが増えた。

 

 火柱はまだ重い。

 

 身体が追いつかない。

 

 ギレーヌにも言われる。

 

「形は悪くない。だが、身体がまだ足りない」

 

「はい」

 

「今は無理に振るな。壊すより、通すことを覚えろ」

 

「はい」

 

 焦りはある。

 

 だが、焦っても身体はすぐには育たない。

 

 だから、今できることを磨く。

 

 足。

 

 腰。

 

 呼吸。

 

 視線。

 

 間合い。

 

 味方との距離。

 

 それらを毎日少しずつ身体に沈める。

 

 月日が、ゆっくり流れ始めた。

 

 ◇

 

 ある日の夕方。

 

 連携稽古が終わった後、三人は庭に座っていた。

 

 エリスは汗を拭きながら、水を飲んでいる。

 

 ルーデウスは今日の反省を紙に書いている。

 

 レンは木刀を膝に置き、空を見上げていた。

 

 雲が薄く伸びている。

 

 何の変哲もない空。

 

 だが、その奥に、ほんのわずか違和感があった。

 

 言葉にできない。

 

 気のせいと言われれば、それまでのもの。

 

 胸の奥が、かすかにざわつく。

 

 レンは眉を寄せた。

 

「どうしました?」

 

 ルーデウスが気づく。

 

「いや」

 

「空ですか?」

 

「少し、変な感じがしただけ」

 

 ルーデウスも空を見る。

 

 彼はしばらく黙っていた。

 

 やがて、首を傾げる。

 

「魔力の流れ……というほどではないですね。でも、少し変な感じはします」

 

「ルーデウスも?」

 

「気のせいかもしれません」

 

 エリスが二人を見た。

 

「何よ。空がどうかしたの?」

 

「分からない」

 

 レンは正直に答えた。

 

「何かが近い気がした」

 

「敵?」

 

「違うと思う」

 

「じゃあ何よ」

 

「分からない」

 

 エリスは眉を寄せた。

 

「分からないことばかりね」

 

「うん」

 

「なら、分かった時に殴ればいいわ」

 

「何を?」

 

「分からない何かを」

 

 乱暴な結論だった。

 

 だが、エリスらしい。

 

 ルーデウスは苦笑する。

 

「殴れるものだといいですね」

 

「殴れないなら斬るわ」

 

「斬れないものだったら?」

 

「その時考える」

 

 レンは小さく笑った。

 

 だが、胸のざわつきは消えなかった。

 

 空は静かだった。

 

 静かすぎるほどに。

 

 ギレーヌも少し離れた場所で空を見ていた。

 

 彼女も何かを感じたのかもしれない。

 

 だが、何も言わなかった。

 

 その日、何かが起きたわけではない。

 

 魔物が現れたわけでもない。

 

 屋敷が騒がしくなったわけでもない。

 

 ただ、フィットア領の空が、ほんの一瞬だけ遠く感じられた。

 

 レンは木刀を握る。

 

 エリスは水を飲み干し、立ち上がる。

 

「明日もやるわよ」

 

「うん」

 

 レンは頷いた。

 

 ルーデウスも紙を畳む。

 

「明日は座学もあります」

 

「それは余計」

 

「必要です」

 

「分かってるわよ」

 

 いつもの会話。

 

 いつもの夕方。

 

 いつもの庭。

 

 だが、その日からレンは時々、空を見るようになった。

 

 何かが近づいている。

 

 そんな気がした。

 

 けれど、それが何なのか、まだ誰にも分からない。

 

 エリスが知らない誕生日を気にし始めたことも。

 

 ルーデウスの十歳の誕生日が、やがて大きな節目になることも。

 

 そして、穏やかな日常の先に、フィットア領そのものを呑み込む災厄が待っていることも。

 

 この時の三人は、まだ知らなかった。

 

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