誕生日会の翌朝、エリスはいつもより少しだけ遅く起きた。
広間での挨拶。
客たちの視線。
舞踏。
サウロスの大声。
フィリップの穏やかな笑み。
ルーデウスの手。
レンの頷き。
それらがまだ身体の中に残っているようで、寝台から起き上がった瞬間、エリスはむず痒いような顔をした。
昨日の自分は、逃げなかった。
止まらなかった。
踊った。
それは認めてもいい。
だが、だからといって調子に乗っていると思われるのは癪だった。
だからエリスは、いつも通りにすることにした。
つまり、レンの部屋へ行く。
扉の前で一応立ち止まり、拳を上げる。
最近は、いきなり開けると怒られることを覚えた。
「入るわよ」
「どうぞ」
中から返事があった。
エリスは扉を開ける。
レンはすでに起きていた。
床に座り、木刀を膝に置いている。
朝の光が窓から入り、木刀の傷を薄く照らしていた。
「今日は剣よ」
エリスは開口一番そう言った。
レンは少しだけ目を瞬かせる。
「昨日の今日で?」
「昨日踊ったからよ」
「理由になってる?」
「なってるわ。踊りで足を使ったんだから、剣で確かめるの」
「それなら分かる気もする」
「でしょ!」
エリスは満足そうに胸を張った。
レンは木刀を持って立ち上がる。
部屋を出ると、廊下の先にルーデウスがいた。
教材を抱えている。
「おはようございます」
「おはよう。今日は先に剣よ」
「授業は?」
「後」
「昨日の疲れは?」
「ないわ」
「本当に?」
「ないったらない!」
ルーデウスは苦笑した。
その顔を見て、エリスは少しだけ得意げになる。
昨日の舞踏で、ルーデウスに支えられた。
それは事実だ。
だが、支えられっぱなしだったと思われるのは嫌だった。
だから今日は、剣で見せる。
自分は昨日よりも強くなっている。
そう証明したかった。
◇
庭では、ギレーヌが待っていた。
朝の空気は澄んでいた。
昨日の宴の熱が嘘のように、庭は静かだった。
使用人たちは片付けに追われているが、訓練場だけはいつも通り空けられている。
エリスは木剣を握る。
レンも木刀を構えた。
ギレーヌが二人を見る。
「三本」
「分かってるわ」
「今日は、昨日の足を思い出して動け」
その言葉に、エリスはむっとした。
「舞踏のこと?」
「そうです」
「剣と踊りは違うわ」
「違います。だが、足は同じ身体についています」
反論できなかった。
エリスは唇を尖らせる。
レンは軽く息を整えた。
昨日の舞踏で、エリスは確かに変わった。
力任せに踏み込むだけではなく、相手に合わせることを少し覚えた。
それが今日の剣にどう出るのか。
レンも気になっていた。
「始め」
ギレーヌの声。
エリスが踏み込む。
速い。
だが、昨日までとは少し違った。
ただ一直線に飛び込んでくるのではない。
一歩目の後に、二歩目の余白がある。
踏み込んだ足で床を踏み潰すのではなく、次に動くための幅を残している。
レンは横へ外れようとした。
いつものように、エリスの正面から消える。
しかし、エリスは追いすぎなかった。
剣だけを振り回さず、足を踏み直す。
一、二、三。
舞踏の拍に似た間。
木剣がレンの逃げる先へ置かれた。
レンは目を細める。
受ければ押される。
下がれば追われる。
なら、受け流す。
木刀を斜めに置き、エリスの木剣の外側を滑らせる。
水龍型第一式、逆鱗。
受けると見せて線を変え、エリスの防御と力の向きをずらす。
だが、エリスはそこで前のめりにならなかった。
力が流された瞬間、半歩止まる。
それから、肩を使って木剣を戻す。
速くはない。
だが、以前より崩れない。
レンは木刀を返して手首を狙った。
エリスは腕を引く。
そのまま距離が開く。
一本にはならない。
ギレーヌがわずかに頷いた。
「続けろ」
二人はまた動いた。
エリスの剣はまだ荒い。
力が入りすぎる。
怒りや悔しさが乗ると、すぐ踏み込みが大きくなる。
だが、昨日よりも止まれる。
止まれるから、次がある。
レンはそこに驚いた。
外して終わりではない。
崩して終わりでもない。
エリスが次の一歩を持っている。
それは厄介だった。
一本目は、レンが取った。
エリスの踏み直しを読んだ上で、影縫でさらに半歩外れ、肩口へ木刀を添えた。
二本目は、エリスが取った。
レンが荒神の理合で木剣の軌道をずらそうとした瞬間、エリスは力で押し返さず、逆に一度引いた。
引いて、次の一歩で突き込む。
木剣の柄がレンの胸に当たった。
「一本。エリス様」
ギレーヌが言う。
エリスは息を切らしながら笑った。
「見た!?」
「見た」
レンは胸を押さえる。
「今の、昨日の足?」
「知らないわよ。身体が勝手に動いたの」
本人は認めない。
だが、確かに舞踏の稽古が生きていた。
ルーデウスが横から言う。
「やはり、舞踏も無駄ではありませんでしたね」
エリスは即座に振り向いた。
「うるさい!」
「褒めているんですが」
「先生面しないで!」
「先生ですから」
「むかつく!」
いつものやり取りだった。
だが、エリスの顔は少し嬉しそうでもあった。
三本目は、引き分けに近かった。
レンの木刀がエリスの肩口へ届く寸前、エリスの木剣もレンの腹へ入っていた。
ギレーヌは少し考えた後、言った。
「相打ち」
「勝ちじゃないの!?」
「相打ちです」
「むう……」
エリスは不満そうだったが、完全な負けではないので機嫌は悪くない。
レンは息を整えながら、木刀を下ろした。
「強くなったね」
自然にそう言った。
エリスは一瞬だけ固まった。
それから顔を赤くして怒る。
「当たり前でしょ!」
「うん」
「何よ、その普通の返事!」
「いや、本当にそう思ったから」
「……ふん」
エリスはそっぽを向いた。
だが、その耳は赤かった。
◇
その日の授業は、昨日の誕生日会を題材にしたものだった。
ルーデウスは板に「招待客」「贈り物」「礼状」と書いた。
エリスは嫌そうな顔をする。
「また手紙?」
「はい。昨日来てくださった方々へ礼状を書く必要があります」
「父様が書けばいいじゃない」
「エリス様の誕生日ですから」
「面倒」
「礼状を書ければ、相手に借りを作らずに済みます」
その言い方に、エリスの目が少し動いた。
「借り?」
「贈り物をもらって何もしないと、相手に失礼です。逆に、きちんと礼を返せば、こちらが侮られにくくなります」
「つまり、負けないため?」
「大きく言えば」
「なら書くわ」
ルーデウスはすぐに紙を用意した。
このあたりの誘導は本当にうまい。
エリスは礼状を書く。
字はまだ荒い。
だが、以前より読める。
ギレーヌも隣で手紙の練習をしている。
レンも自分の紙に文字を書いていた。
誕生日会。
贈り物。
礼。
その流れの中で、エリスがふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、ルーデウス」
「はい?」
「あんた、何歳なの?」
ルーデウスは少し意外そうに瞬きした。
「僕ですか? 七歳です」
「七歳」
エリスは少し考える。
「小さいわね」
「エリス様よりは小さいですね」
「私は十歳よ。昨日で十歳」
「はい。おめでとうございます」
「それは昨日聞いたわ」
「では改めて」
「何度も言わなくていいのよ」
エリスはそう言いながらも、少し満更でもなさそうだった。
それから、彼女の視線がレンへ向いた。
「じゃあ、レンは?」
「俺?」
レンは筆を止める。
「そうよ。あんた、私より上よね」
「たぶん」
「たぶんって何よ」
「正確には知らない」
エリスの眉が動いた。
「知らない?」
「うん。たぶん、十一くらいだと思う」
「十一……」
エリスは少しだけ目を細めた。
自分より一つ上。
年上。
それは何となく分かっていた。
レンはエリスより少し落ち着いている。
もちろん、言い返す時は子供っぽいし、飯や珍しい武器の話になると目が輝く。
だが、時々ひどく静かな目をする。
自分より一つ上と言われれば、納得できた。
だが、エリスが気になったのはそこではなかった。
「誕生日は?」
何気なく聞いた。
昨日、自分の誕生日会があったから。
ルーデウスの年齢を聞いたから。
その流れで、ただ聞いただけだった。
レンは少しだけ手を止めた。
本当に少しだけ。
普段のエリスなら気づかなかったかもしれない。
だが、最近のエリスは相手の足や肩を見るようになっている。
その小さな止まり方に、気づいた。
「知らない」
レンは静かに言った。
「知らないって……誕生日を?」
「うん」
「何でよ?」
「俺は孤児だよ」
部屋の空気が、ほんの少しだけ静かになった。
ルーデウスも筆を止めた。
ギレーヌも顔を上げる。
レンは何でもないことのように続けた。
「両親は、物心つく頃からいない。だから、正確な誕生日は知らない」
その声は平らだった。
悲しそうでもない。
怒っているわけでもない。
本当に、ただ事実を言っているだけの声。
だからこそ、エリスは言葉に詰まった。
昨日の誕生日会が頭に浮かぶ。
広間。
たくさんの客。
贈り物。
サウロスの大声。
フィリップの笑み。
自分を祝う人たち。
面倒だった。
緊張した。
嫌な視線もあった。
それでも、自分の誕生日を知っている人がいて、祝う場があった。
レンには、それがない。
いつ生まれたのかも知らない。
誰が親なのかも、もういない。
エリスは胸の奥が妙にざわつくのを感じた。
何か言わなければと思った。
だが、何を言えばいいのか分からない。
可哀想。
そんな言葉は違う気がした。
慰めるのも違う。
レンがそれを望んでいるようには見えない。
だからエリスは、いつものように言うしかなかった。
「……ふ、ふうん」
少し声が裏返った。
慌てて咳払いする。
「別に、聞いただけよ」
「うん」
「変な顔しないでよ」
「してない」
「してるわよ」
そう言ったエリスの方が、変な顔をしていた。
レンはそれに気づいた。
だが、何も言わなかった。
ルーデウスも、何も言わなかった。
彼はただ、少しだけ目を伏せた。
孤児。
両親がいない。
誕生日を知らない。
この世界では、珍しすぎる話ではないのかもしれない。
けれど、身近な誰かの口から聞くと重さが違った。
授業はそのまま続いた。
だが、エリスはしばらく筆の進みが遅くなった。
ルーデウスは気づいていたが、注意しなかった。
ギレーヌも何も言わなかった。
レンは普通に文字を書き続けている。
その普通さが、エリスには少しだけ引っかかった。
◇
午後の稽古で、エリスはいつもより荒かった。
いや、本人は普通にしているつもりだった。
だが、剣に出ていた。
踏み込みが強い。
間合いが近い。
レンを見すぎている。
相手を倒したいというより、何かを振り払おうとしているような剣だった。
ギレーヌはすぐに見抜いた。
「エリス様。乱れています」
「乱れてないわ」
「乱れています」
「乱れてない!」
ギレーヌの木剣が飛んだ。
エリスの木剣が弾かれる。
次の瞬間、ギレーヌの木剣が肩に触れた。
「死んだ」
「もう一回!」
「その前に、なぜ乱れたか考えてください」
「乱れてないって言ってるでしょ!」
「では、レン」
ギレーヌがレンを見る。
「はい」
「今のエリス様をどう見た」
レンは少し困った。
本人の前で言えば怒る。
だが、ギレーヌに聞かれたら答えるしかない。
「俺を見すぎてました」
「何よ、それ」
エリスが睨む。
レンは続ける。
「俺を倒すというより、俺に何か言いたいみたいな剣でした」
エリスの顔が赤くなった。
「そんなわけないでしょ!」
「じゃあ違うかも」
「違うわよ!」
だが、否定の声が少し大きすぎた。
ルーデウスが横で苦笑する。
エリスはそれにも噛みつきかけたが、ギレーヌが先に言った。
「剣に余計な感情を乗せるなとは言いません」
エリスが黙る。
「怒りも悔しさも、剣を強くすることはあります。だが、見たいものを見ず、考えたいことから逃げるために振れば、剣は乱れます」
その言葉に、エリスは俯いた。
珍しく、すぐには言い返さなかった。
レンは木刀を下ろした。
自分のことでエリスが乱れている。
それは何となく分かった。
だが、何を言えばいいのか分からない。
孤児であること。
誕生日を知らないこと。
レンにとって、それはずっと前からある事実だった。
寂しくないわけではない。
だが、泣き続けるほどのものでもない。
孤児院で育ち、道場に拾われ、玄斎や宗一郎に出会った。
それで今の自分がある。
ただ、エリスにとっては違うのだろう。
昨日、盛大に誕生日を祝われたばかりだから、余計に。
ギレーヌは木剣を下ろした。
「今日はここまで」
「まだできるわ」
「できるから駄目です」
いつもの言葉。
エリスは唇を噛んだが、今回は反論しなかった。
◇
その夜、エリスは自分の部屋で落ち着かなかった。
机の上には、昨日もらった贈り物の一部が置かれている。
髪飾り。
布。
小物。
菓子。
親族や客から贈られたもの。
エリスはそれらを見て、何だか腹が立った。
別に贈り物が嫌なわけではない。
祝われるのが嫌だったわけでもない。
昨日は、少しだけ嬉しかった。
踊れたことも、褒められたことも、悪くなかった。
だが、レンの言葉が頭から離れない。
知らない。
俺は孤児だよ。
両親は、物心つく頃からいない。
あの言い方。
何でもないことのように言った顔。
それが余計に気になった。
もし自分が誕生日を知らなかったら。
誰にも祝われなかったら。
サウロスの大声も、フィリップの笑みもなかったら。
想像しようとして、うまくできなかった。
エリスには家族がいる。
面倒なことも多い。
貴族としての立場も、嫌な視線もある。
でも、自分がいつ生まれたのかを知っている人がいる。
それが当たり前ではない。
今日、初めてそう思った。
「……別に、気にしてないわよ」
誰もいない部屋で、エリスは小さく呟いた。
気にしていない。
聞いただけ。
レンが孤児なのは前から分かっていた。
誕生日を知らないからって、自分が何かする必要はない。
そう思おうとした。
だが、机の上の贈り物を見ると、胸の奥がむずむずする。
しばらくして、エリスは立ち上がった。
部屋を出る。
廊下を歩く。
足音を抑えるつもりはなかったが、舞踏の稽古のせいか、以前より少し静かになっている。
向かった先は、フィリップの部屋だった。
扉の前で一度立ち止まる。
何を言うのか。
自分でも分からない。
ただ、聞きたいことがあった。
「父様」
扉の向こうから返事がある。
「入りなさい」
フィリップは机で書類を読んでいた。
エリスを見ると、少し驚いたように眉を上げる。
「珍しいね。こんな時間に」
「聞きたいことがあるの」
「何かな」
エリスは少し迷った。
それから、ぶっきらぼうに言う。
「誕生日が分からない人って、いるの?」
フィリップはすぐには答えなかった。
だが、質問の意味は察したようだった。
「レンのことかい?」
「別に、そうとは言ってないわ」
「そうか」
フィリップは穏やかに頷いた。
「いるよ。孤児や、戦乱で家族を失った者、記録が残っていない者。珍しいことではない」
「……そう」
「だが、珍しくないからといって、軽い話ではない」
エリスは黙った。
フィリップは続ける。
「誕生日は、その人が生まれた日だ。けれど、同時に誰かが覚えてくれている日でもある。知らないということは、覚えている人がいないということでもある」
エリスの胸がちくりとした。
「じゃあ、どうすればいいのよ」
思わず口に出た。
フィリップは少しだけ微笑む。
「何かしてあげたいのかい?」
「違うわよ!」
即答。
声が大きい。
フィリップは笑わなかった。
「そうか」
「別に、気にしてないわ。ただ、聞いただけ」
「分かっているよ」
「分かってない顔してる」
「そうかな」
フィリップは少し考えた後、静かに言った。
「誰かの誕生日を知らないなら、別の日を選んで祝うこともできる」
「別の日?」
「その人にとって大切な日。出会った日。何かを始めた日。あるいは、近くにある誰かの誕生日に合わせてもいい」
エリスは眉を寄せる。
「それでいいの?」
「本人が嫌がらなければね」
「ふうん」
エリスは視線を逸らした。
何かを思いついたわけではない。
まだ、はっきりとは。
だが、胸の奥のむずむずが少し形を持ち始めた。
フィリップはそれ以上何も言わなかった。
エリスが考える時間を残すように、静かに書類へ目を戻す。
エリスは扉へ向かった。
「父様」
「何だい?」
「今の話、誰にも言わないで」
「もちろん」
「ルーデウスにも、レンにもよ」
「分かっている」
エリスは頷き、部屋を出た。
廊下に出ると、夜の空気が少し冷たかった。
彼女は小さく息を吐く。
別の日を選ぶ。
誰かの誕生日に合わせる。
その言葉が、頭の中に残った。
◇
それからの日々は、少しずつ流れていった。
誕生日会が終わっても、ボレアス家の日常は続く。
朝は剣。
昼は授業。
夕方は連携。
夜は復習。
エリスは読み書きを続けた。
礼状も何枚か書いた。
字は荒かったが、最後まで投げなかった。
ルーデウスは家庭教師として、ますます屋敷に馴染んでいった。
ギレーヌは文字を読む速度が少しずつ上がった。
レンは大亀流の五剣一式を、日々の稽古の中で磨き続けた。
雷電型第一式は、ただ速く入る技ではない。
相手の反応を引き出し、その反応の上に壱・弐・参を置く技だと、少しずつ身体で理解し始めた。
影縫は、逃げるためだけではない。
ルーデウスの魔術の射線を開けるため。
エリスの踏み込みと重ならないため。
味方と敵の間で、自分の位置を変えるためにも使える。
逆鱗は、エリスの剛剣を受け流す中で磨かれた。
真っ直ぐ受ければ押し負ける。
だから、線を変える。
受けると見せて外す。
外すと見せて戻す。
荒神は、ギレーヌにはまだ通じない。
だが、護衛相手なら木剣の軌道をずらせることが増えた。
火柱はまだ重い。
身体が追いつかない。
ギレーヌにも言われる。
「形は悪くない。だが、身体がまだ足りない」
「はい」
「今は無理に振るな。壊すより、通すことを覚えろ」
「はい」
焦りはある。
だが、焦っても身体はすぐには育たない。
だから、今できることを磨く。
足。
腰。
呼吸。
視線。
間合い。
味方との距離。
それらを毎日少しずつ身体に沈める。
月日が、ゆっくり流れ始めた。
◇
ある日の夕方。
連携稽古が終わった後、三人は庭に座っていた。
エリスは汗を拭きながら、水を飲んでいる。
ルーデウスは今日の反省を紙に書いている。
レンは木刀を膝に置き、空を見上げていた。
雲が薄く伸びている。
何の変哲もない空。
だが、その奥に、ほんのわずか違和感があった。
言葉にできない。
気のせいと言われれば、それまでのもの。
胸の奥が、かすかにざわつく。
レンは眉を寄せた。
「どうしました?」
ルーデウスが気づく。
「いや」
「空ですか?」
「少し、変な感じがしただけ」
ルーデウスも空を見る。
彼はしばらく黙っていた。
やがて、首を傾げる。
「魔力の流れ……というほどではないですね。でも、少し変な感じはします」
「ルーデウスも?」
「気のせいかもしれません」
エリスが二人を見た。
「何よ。空がどうかしたの?」
「分からない」
レンは正直に答えた。
「何かが近い気がした」
「敵?」
「違うと思う」
「じゃあ何よ」
「分からない」
エリスは眉を寄せた。
「分からないことばかりね」
「うん」
「なら、分かった時に殴ればいいわ」
「何を?」
「分からない何かを」
乱暴な結論だった。
だが、エリスらしい。
ルーデウスは苦笑する。
「殴れるものだといいですね」
「殴れないなら斬るわ」
「斬れないものだったら?」
「その時考える」
レンは小さく笑った。
だが、胸のざわつきは消えなかった。
空は静かだった。
静かすぎるほどに。
ギレーヌも少し離れた場所で空を見ていた。
彼女も何かを感じたのかもしれない。
だが、何も言わなかった。
その日、何かが起きたわけではない。
魔物が現れたわけでもない。
屋敷が騒がしくなったわけでもない。
ただ、フィットア領の空が、ほんの一瞬だけ遠く感じられた。
レンは木刀を握る。
エリスは水を飲み干し、立ち上がる。
「明日もやるわよ」
「うん」
レンは頷いた。
ルーデウスも紙を畳む。
「明日は座学もあります」
「それは余計」
「必要です」
「分かってるわよ」
いつもの会話。
いつもの夕方。
いつもの庭。
だが、その日からレンは時々、空を見るようになった。
何かが近づいている。
そんな気がした。
けれど、それが何なのか、まだ誰にも分からない。
エリスが知らない誕生日を気にし始めたことも。
ルーデウスの十歳の誕生日が、やがて大きな節目になることも。
そして、穏やかな日常の先に、フィットア領そのものを呑み込む災厄が待っていることも。
この時の三人は、まだ知らなかった。