月日は、静かに流れた。
ボレアス家の庭に響く声は、少しずつ変わっていった。
最初は、エリスの怒声ばかりだった。
「もう一回!」
「今のはなし!」
「避けるな!」
「避けるでしょ」
「うるさい!」
そこに、ルーデウスの落ち着いた声が混じるようになった。
「エリス様、前に出すぎです」
「足元、変えます」
「レン君、右です」
「今のは僕の魔術が遅れました」
さらに、レンの声も増えた。
「左、抜ける」
「エリス、半歩下がって」
「ルーデウス、射線を空ける」
「ギレーヌさん、もう一本お願いします」
そのたびに、ギレーヌの短い指摘が落ちる。
「遅い」
「早い」
「見ろ」
「声を出せ」
「声に頼るな」
「今のはよい」
同じ庭。
同じ木剣。
同じ木刀。
同じ魔術。
けれど、三人は少しずつ変わっていた。
エリスは十二歳になった。
赤い髪は少し伸び、背も伸びた。
気性の激しさは相変わらずだったが、以前のようにただ真正面へ突っ込むだけではなくなった。
前へ出る。
だが、止まる。
外されたら、踏み直す。
仲間の位置を見る。
それでも熱くなれば忘れるが、忘れた後に戻ってくるのが早くなった。
ルーデウスは十歳を迎えようとしていた。
家庭教師としての彼は、すっかり屋敷に馴染んでいた。
エリスに怒鳴られ、殴られかけ、時に本当に殴られ、それでも授業を続ける。
魔術の腕は以前よりさらに磨かれ、訓練では攻撃よりも支援の精度が上がっていた。
小さな土の段差。
視線を奪う水弾。
足元を濡らすだけの魔術。
風で砂を流す一瞬。
倒すためではなく、味方を生かすための魔術。
ルーデウスはそれを覚え始めていた。
そして、レンは推定十三歳になっていた。
正確な誕生日は、今も知らない。
だが、身体は確実に成長していた。
エリスより一つ年上。
その差は小さい。
しかし、少年の身体にとって一年は大きい。
以前は形だけで精一杯だった火柱にも、少しずつ重さが乗り始めた。
荒神で護衛の木剣を弾くことも増えた。
逆鱗は、エリスの剛剣を受け流す中で鋭くなった。
影縫は、ただ相手から外れるだけでなく、味方の射線を開くためにも使えるようになった。
雷電型第一式は、速く入るためだけの技ではなく、相手の反応を引き出して壱・弐・参を置く技なのだと、身体で理解し始めていた。
ギレーヌには、まだ届かない。
まるで届かない。
だが、ほんの一瞬だけ目を動かすことはある。
ほんの一度だけ、袖をかすめたこともある。
それはレンにとって、小さくない手応えだった。
ボレアス家の日々は、騒がしく、厳しく、どこか穏やかだった。
朝は剣。
昼は授業。
夕方は連携。
夜は復習。
時にサウロスの大声が屋敷を揺らし、フィリップが静かに笑い、ギレーヌが淡々と打ち据え、エリスが怒鳴り、ルーデウスが苦笑し、レンが言い返す。
そんな日々が、当たり前のように続いていた。
続いているように見えた。
◇
ルーデウスの十歳の誕生日が近づくと、屋敷は少しだけ慌ただしくなった。
エリスの十歳の誕生日ほど大きな宴ではない。
ルーデウスは客人であり、家庭教師であり、グレイラット家の子でもある。
それでも、ボレアス家で三年を過ごした少年の節目を、何もなしに流すわけにはいかなかった。
フィリップは穏やかに準備を進めた。
サウロスは「盛大に祝え!」と叫んだが、フィリップにやんわり止められた。
ギレーヌは祝いの言葉を考えるのに苦戦していた。
レンは何を贈るべきか分からず、結局、ルーデウス用に木札を彫ることにした。
魔術師に木札。
贈り物として適切なのかは分からない。
だが、道場で玄斎から木札をもらった時、レンは嬉しかった。
なら、自分にできるものを渡せばいい。
小さな木札に、三つの線を彫った。
前に立つ剣。
斜めに入る木刀。
後ろから伸びる魔術の線。
三人の距離を、簡単な模様にしたものだった。
ルーデウスなら、意味を分かってくれると思った。
一方、エリスは数日前から妙に落ち着かなかった。
落ち着かないと言っても、普段から落ち着いているわけではない。
だが、今回は違った。
剣の稽古中に、時々考え込む。
授業中に、ルーデウスの誕生日の話題が出ると、すぐに目を逸らす。
そしてレンを見る。
見て、すぐに逸らす。
レンは気づいていた。
だが、何も言わなかった。
エリスが何かを考えている時、下手に聞けば怒る。
それに、彼女が本当に言いたいことなら、いずれ自分から言う。
そういうところがある。
その日の午後、レンは庭の端で一人、木刀を振っていた。
ルーデウスはフィリップに呼ばれていて、エリスは姿を見せていなかった。
ギレーヌも屋敷の中だ。
珍しく、庭は静かだった。
レンは木刀を構える。
雷電型第一式・落雷。
半身。
沈む。
相手の間合いへ入る。
壱。
弐。
参。
続けて、影縫。
身体を脱力させ、線から外れる。
そこから逆鱗。
握りを替え、斬撃の軌道を変える。
荒神。
武器を狙い、接触の瞬間に回転を加える。
最後に火柱。
肘を弾き上げ、鞭のように落とす。
以前より、少しだけ重さが乗る。
だが、まだ足りない。
身体の芯が追いつかない。
ギレーヌなら、今の火柱を踏み込みの内側で潰すだろう。
玄斎なら、振り下ろす前に杖で膝を打つかもしれない。
レンは息を吐いた。
「まだ軽いな」
自分で呟く。
その時、背後から声がした。
「何が?」
エリスだった。
いつの間にか庭の入口に立っている。
赤い髪が風に揺れていた。
「火柱」
レンは木刀を下ろした。
「少し重くなったと思ったけど、まだ軽い」
「十分痛そうだけど」
「ギレーヌさんには届かない」
「ギレーヌに届くのはまだ先でしょ」
「うん」
「でも、前より重いわ」
レンは少し驚いた。
「分かる?」
「分かるわよ。何年一緒に稽古してると思ってるの」
エリスは当然のように言った。
そう言われて、レンは少しだけ時間の長さを感じた。
何年。
初めてロアの町で会った時、エリスは追われている赤髪の少女だった。
礼より先に技を見せろと言った。
木剣を持てば突っ込んできた。
今も突っ込む。
だが、あの頃とは違う。
「そっか」
「何よ」
「いや。長くいるなと思って」
「そうね」
エリスは少しだけ視線を逸らした。
それから、いつもより小さな声で言う。
「もうすぐ、ルーデウスの誕生日でしょ」
「うん」
「十歳」
「うん」
「あんたは……たぶん十三」
「たぶんね」
「まだ誕生日は知らないの?」
「知らない」
「調べても?」
「孤児院でも分からなかった。道場に来た時も、たぶんこのくらいだろうって言われただけ」
「ふうん」
エリスは地面を見た。
靴の先で芝を軽く蹴る。
何かを言いたそうにしている。
レンは待った。
しばらくして、エリスは顔を上げた。
「じゃあ、今日でもいいじゃない」
「今日?」
「違う。ルーデウスの誕生日の日」
エリスは早口になった。
「どうせ分からないんでしょ。だったら、その日でいいじゃない。ルーデウスの誕生日だけど、ついでよ。ついで」
「ついで」
「そうよ。ついで。別に深い意味はないわ」
深い意味がないと言うには、声が少し強すぎた。
レンは何となく察した。
エリスは、自分の誕生日を知らないことを気にしていたのだ。
あの時聞いてから、ずっと。
何でもないふりをして、内心ではずっと。
レンは少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
「エリス」
「何よ」
「ありがとう」
エリスは固まった。
次の瞬間、顔が赤くなる。
「まだ何もしてないでしょ!」
「でも、考えてくれたんだと思って」
「考えてない!」
「そう?」
「考えてないわよ! 思いついただけ!」
「そっか」
「その顔やめなさい!」
「どんな顔?」
「分かってる顔!」
レンは少し笑った。
エリスはさらに怒った。
だが、その怒りはいつもの怒りとは少し違っていた。
照れ隠し。
それが分かるくらいには、レンも彼女のことを見てきた。
エリスは木剣を抜いた。
「勝負!」
「急だね」
「うるさい! 今の顔、むかつくから一本取る!」
「結局そうなるんだ」
「構えなさい!」
レンは木刀を構えた。
エリスが踏み込んでくる。
強く、速く、真っ直ぐに。
だが、以前のようにただ荒いだけではない。
踏み込んだ後に止まれる。
止まった後に、次がある。
レンはそれを見て、自然と笑った。
いい剣だと思った。
エリスはそれを見て怒った。
「笑うな!」
木剣が降る。
レンは受け流す。
庭に、いつもの音が響いた。
◇
ルーデウスの誕生日当日。
屋敷は朝からどこか明るかった。
大宴会ではない。
だが、使用人たちは少しだけ華やかな飾りを用意し、厨房からはいつもより甘い匂いがした。
サウロスは朝から大声で「めでたい!」と叫び、ルーデウスの肩を叩いて彼をよろけさせた。
フィリップは穏やかに祝いの言葉を述べた。
ギレーヌは少しぎこちないが、しっかりと文字で書いた短い祝いの札を渡した。
ルーデウスはそれを見て、本当に嬉しそうに笑った。
「ギレーヌさん、ありがとうございます」
「字は、間違っているか」
「いえ。ちゃんと読めます」
「そうか」
ギレーヌは短く答えた。
だが、尻尾がわずかに揺れていた。
嬉しいのだろう。
エリスはそれを見て、少し笑った。
「ギレーヌ、嬉しそう」
「嬉しくありません」
「嘘よ。尻尾が動いてるわ」
「……」
ギレーヌは尻尾を止めようとしたが、少しだけ遅かった。
レンはルーデウスに、自分で彫った木札を渡した。
小さな木札。
三つの線。
ルーデウスはそれを手に取り、すぐに意味を理解したようだった。
「これ、僕たちの位置ですか?」
「うん。前にエリス、斜めに俺、後ろにルーデウス」
「なるほど」
ルーデウスは木札を指でなぞる。
「いいですね。これ、僕はかなり好きです」
「よかった」
「ありがとうございます。大事にします」
レンは少し照れくさくなり、視線を逸らした。
ルーデウスは笑っている。
家庭教師として来た少年は、今ではただの先生ではなくなっていた。
仲間。
そう呼ぶには少し照れくさい。
だが、それに近い存在になっていた。
そして、エリスの番になった。
エリスはいつもより少し硬い顔をしていた。
手には包みが二つある。
一つは細長い箱。
もう一つは、細長い布包みだった。
ルーデウスは少し首を傾げる。
「エリス様?」
「まず、ルーデウス」
エリスは箱を突き出した。
「誕生日でしょ。受け取りなさい」
「ありがとうございます」
「中身は後で見なさい」
「はい」
「変な顔したら殴るわよ」
「まだ見ていないのに?」
「見た後よ」
「気をつけます」
ルーデウスは苦笑しながら箱を受け取った。
エリスはそこで一度、深く息を吸った。
そして、もう一つの包みをレンへ向けた。
「それで、これはあんた」
レンは目を瞬かせた。
「俺?」
「そうよ」
「今日はルーデウスの誕生日だけど」
「分かってるわよ」
エリスは顔を赤くしながら、早口で言う。
「あんた、誕生日知らないんでしょ。だったら今日でいいじゃない。ルーデウスのついでよ。ついで。今日から、あんたも十三歳ってことでいいでしょ」
部屋が少し静かになった。
フィリップは穏やかに見守っている。
ギレーヌは何も言わない。
ルーデウスは少し驚いた顔をした後、柔らかく笑った。
レンは、包みを見た。
布に包まれた細長いもの。
木刀ではない。
訓練用の剣でもない。
鞘がある。
鍔がある。
そして、布越しでも分かる重さがあった。
レンは一瞬、手を伸ばせなかった。
「……エリス」
「何よ」
「これ、剣?」
「見れば分かるでしょ」
「いや、そうじゃなくて」
レンは包みを見つめたまま言った。
「これは本物……?」
エリスは少しだけ胸を張った。
「そうよ」
部屋の空気が、わずかに変わった。
ルーデウスも目を丸くする。
ギレーヌは何も言わない。
フィリップは穏やかな顔で見守っている。
レンは、もう一度包みを見た。
本物。
真剣。
刃を潰した訓練剣ではない。
人を斬れる剣。
命を奪える刃。
レンの喉の奥が、少しだけ冷えた。
雨の日の記憶が、胸の奥をかすめる。
本物の刃。
動けなかった足。
伸びてくる切っ先。
あの時、自分は剣を持っていなかった。
ただ、恐怖で身体が固まっていた。
今、目の前にあるのは、その恐怖と同じものだった。
だが、同時に違うものでもあった。
これは、奪うために向けられた刃ではない。
エリスが、自分のために用意した剣だ。
レンは手を伸ばしかけ、止めた。
「受け取れない」
エリスの目が見開かれた。
「……何でよ」
「高すぎる」
「値段の話なんてしてないわ」
「それだけじゃない」
レンは静かに言った。
「これは、本物の剣だ。俺が軽く受け取っていいものじゃない」
エリスの眉が吊り上がる。
「軽くなんて渡してないわよ!」
その声は、いつもの怒鳴り声だった。
だが、少しだけ違った。
傷ついたような響きがあった。
「私が父様に頼んだのよ。ギレーヌにも見てもらったわ。鍛冶師にも、あんたの体格に合わせてもらった。安物じゃない。ちゃんとした業物よ」
「だからだよ」
「だから何よ!」
「そんな大事なもの、簡単には受け取れない」
エリスは唇を噛んだ。
そして、包みをレンの胸へ押しつけるように突き出した。
「簡単じゃないわよ」
レンは息を呑んだ。
エリスは顔を赤くしていた。
怒っている。
照れている。
けれど、逃げていない。
「だって、あんた、誕生日知らないって言ったじゃない」
「……うん」
「だから、今日でいいって言ったのよ」
「うん」
「それで、何を渡せばいいか考えたのよ」
「うん」
「菓子とか、服とか、そんなのじゃ違うって思ったのよ。あんたには剣でしょ」
レンは何も言えなかった。
「でも、ただの剣じゃ嫌だったのよ」
エリスの声が少し小さくなる。
「木刀なら、あんたはもう持ってる。訓練用の剣なら、屋敷にもある。だから、本物にしたの」
「エリス」
「本物の剣を持てるくらい、あんたは強くなるんでしょ」
レンは、包みを見た。
「私も強くなる。ルーデウスも強くなる。あんただけ木刀のままでいいわけないでしょ」
乱暴な言い方だった。
けれど、その言葉の奥にあるものは、乱暴ではなかった。
信頼だった。
期待だった。
そして、祈りに近いものだった。
フィリップが静かに口を開いた。
「レン。その剣は、エリスが自分で選びたいと言ったものだ」
レンは顔を上げる。
フィリップの声は穏やかだった。
「もちろん、実際には鍛冶師とギレーヌに見てもらった。まだ君の身体は成長途中だからね。長すぎず、重すぎず、それでも本物として恥ずかしくないものを用意した」
ギレーヌが続けた。
「片刃の剣だ」
レンの目がわずかに動く。
「片刃……」
「お前が使う木刀の動きに合わせた。両刃の剣より、刀に近い。反りは浅いが、斬る線はお前の技に合う」
ギレーヌは包みを見た。
「名刀だ。今のお前には過ぎた剣かもしれない」
レンは頷いた。
「だが、過ぎた剣を持つことで、そこへ追いつこうとする者もいる」
ギレーヌの声は淡々としていた。
「剣に使われるな。剣に怯えるな。剣を飾りにするな。持つなら、責任ごと持て」
レンの指が震えた。
怖い。
真剣が怖い。
前世の記憶があるから。
本物の刃を前にして、足が止まった自分を知っているから。
けれど、それでも。
怖くても、動く。
レンはゆっくりと手を伸ばした。
包みを受け取る。
重い。
木刀とは違う。
訓練剣とも違う。
手の中に、命の重さがある。
レンは深く頭を下げた。
「……ありがとう、エリス」
エリスは顔を逸らした。
「別に」
「大事にする」
「当たり前でしょ」
「ちゃんと、追いつく」
その言葉に、エリスは少しだけこちらを見た。
「そうしなさい」
レンは包みを抱えたまま、もう一度頭を下げた。
今日、彼は誕生日をもらった。
そして、剣をもらった。
ただの贈り物ではない。
これから先、自分が何を背負うのかを問う、本物の刃を。
ルーデウスが静かに言った。
「おめでとうございます、レン君」
レンは少しだけ戸惑い、それから小さく頷いた。
「ありがとう。ルーデウスも、おめでとう」
「ありがとうございます」
そのやり取りを見て、フィリップが静かに微笑んだ。
「では、今日は二人を祝う日だね」
「父様!」
エリスが慌てる。
「ついでって言ったでしょ!」
「そうだったね。では、ついでに祝おう」
「言い方!」
サウロスが豪快に笑った。
「がははは! よいではないか! めでたいことは多い方がよい!」
大声が部屋を揺らす。
「ルーデウス! 十歳、めでたい! レン! 十三歳、めでたい! エリス! よくやった!」
「お祖父様、声が大きい!」
「めでたいのだから仕方あるまい!」
いつもの騒がしさ。
だが、その中心で、レンは片刃の剣を抱えていた。
重い。
冷たい。
けれど、不思議と温かい。
そんな重さだった。
◇
その日の午後、ギレーヌの監督のもと、レンは初めてその剣を抜いた。
庭の訓練場。
エリスとルーデウスも見ている。
フィリップも少し離れた場所に立っていた。
サウロスは来ようとしたが、騒がしくなるからと止められたらしい。
レンは鞘を持った。
黒に近い深い赫色の鞘。
装飾は控えめだが、安物ではないと分かる。
柄は両手で握れる長さがあり、レンの手に合わせて少し細く調整されている。
鍔は小さめで、刃を守るための必要な大きさだけ。
反りは浅い。
だが、真っ直ぐな剣ではない。
片刃。
刀に似ている。
前世で見た日本刀ほどの反りはない。
だが、刃筋の考え方は木刀で学んできた大亀流に近かった。
レンはゆっくりと鯉口を切る。
わずかな音。
鞘から刃が覗く。
光が走った。
息が止まった。
真剣。
本物の刃。
薄く、鋭く、冷たい光。
それは美しかった。
そして、怖かった。
レンの胸の奥に、雨の日の感覚が蘇る。
刃物を前にした時の、あの冷え。
足がすくむ感覚。
身体が固まり、息が詰まる。
だが、今は逃げなかった。
鞘から、ゆっくり抜く。
刀身が姿を現す。
片刃の業物。
刃文に似た淡い光が、波のように揺れている。
刀のようで、完全な刀ではない。
この世界の鍛冶師が、大亀流の動きとレンの体格を聞いて作り上げた、片刃の剣。
ギレーヌが言った。
「構えろ」
「はい」
レンは構えた。
重い。
木刀よりも重い。
だが、ただ重いだけではない。
先が沈みすぎない。
芯がある。
刃がある。
刃筋を立てなければ、剣が嫌がるような感覚が手に返ってくる。
木刀なら誤魔化せた角度が、誤魔化せない。
斬るための道具なのだ。
レンは喉の奥の冷えを押さえ込み、呼吸を整えた。
足裏。
膝。
腰。
背中。
肩。
腕。
手だけで持たない。
身体で持つ。
「振れ」
ギレーヌの声。
レンはゆっくり剣を振った。
まずは素振り。
上段から。
斜め。
横。
突き。
大きく振るたび、刃の重さが身体を引っ張る。
木刀では誤魔化せた癖が、すぐに出る。
肩が上がる。
手首が遅れる。
踏み込みが浅くなる。
刃筋が乱れる。
ギレーヌが即座に言う。
「肩」
「はい」
「手首で持つな」
「はい」
「刃が寝ている」
「はい」
「足が遅い」
「はい」
いつもと同じ稽古。
だが、剣が変わるだけで、すべてが違った。
レンは雷電型第一式へ入ろうとして、すぐに止められた。
「まだ早い」
「はい」
「まず、普通に振れ。普通に止めろ。普通に戻せ」
「はい」
「技はその後だ」
レンは頷いた。
エリスは少し不満そうだった。
「技、見ないの?」
「今は駄目です」
ギレーヌが答える。
「真剣でいきなり技を使えば、身体を壊す。下手をすれば自分か周りを斬る」
「む」
「エリス様も同じです」
「分かってるわよ」
本当は分かっていなさそうな返事だった。
ルーデウスは剣を見ながら言う。
「木刀と全然違うんですね」
「うん」
レンは息を整える。
「刃があるだけで、手が変になる」
「怖いですか?」
ルーデウスの声は静かだった。
レンは少しだけ黙った。
それから答えた。
「怖い」
エリスがこちらを見る。
レンは真剣を下ろさず、続けた。
「本物の刃だから。怖い」
エリスは何も言わなかった。
ギレーヌも言わない。
レンは刃を見た。
「でも、目は逸らさない」
その言葉は、自分に言ったものだった。
前世でできなかったこと。
本物の刃を前にして、足を止めた自分。
今度は違う。
刃を怖いと思う。
その上で握る。
その上で立つ。
ギレーヌがわずかに頷いた。
「それでいい」
短い言葉だった。
だが、レンの胸に落ちた。
「怖くない者は、刃を軽く扱う。怖がりすぎる者は、刃に使われる。怖さを知って、それでも制御しろ」
「はい」
「もう一度」
レンは剣を振った。
今度は、先ほどより少しゆっくり。
刃筋を見る。
斬る線を感じる。
木刀よりも繊細に。
木刀よりも重く。
木刀よりも怖く。
だが、確かに手の中にある。
エリスが腕を組んで見ていた。
「どう?」
「難しい」
レンは正直に答えた。
「でも、いい剣だと思う」
「当然よ」
エリスは少し得意げだった。
「業物だって言ったでしょ」
「うん」
「ちゃんと使いなさいよ」
「ギレーヌさんが許した時だけ」
「そういう意味じゃなくて」
エリスは少し言葉を探した。
「……強くなりなさいよ」
レンは剣を握り直した。
「うん」
「その剣に負けたら許さないから」
「うん」
「私も強くなるから」
「知ってる」
「ならいいわ」
それだけ言って、エリスは木剣を構えた。
「ギレーヌ、私も稽古する!」
「今日は軽めです」
「本気で軽めね!」
「軽めです」
「分かってるわよ!」
分かっていない声だった。
ルーデウスが苦笑する。
レンも少し笑った。
手の中の片刃の剣が、夕日を受けて淡く光っている。
まだ名前はない。
まだ相棒と呼べるほど馴染んでいない。
だが、この剣は今日からレンのものだった。
エリスが、誕生日の分だと言ってくれたもの。
今日という日を、レンにくれた証。
そして、いつか本当の意味で振るうために、追いつかなければならない刃だった。
◇
夕方、誕生日の小さな祝いの席が開かれた。
豪華すぎるものではない。
それでも、料理はいつもより多く、甘い菓子も並んでいた。
ルーデウスはサウロスに何度も背中を叩かれ、少し困っていた。
エリスはそれを見て笑い、フィリップは穏やかに酒を傾け、ギレーヌは静かに肉を食べていた。
レンも席に座っていた。
自分が祝われる側に混じっているのが、少し不思議だった。
エリスは相変わらず「ついで」と言い張った。
だが、サウロスが何度も「めでたい!」と叫ぶので、そのたびに顔を赤くして怒っていた。
「お祖父様! だから、レンはついでだって言ってるでしょ!」
「ついででもめでたい!」
「もう!」
フィリップは静かに笑う。
「エリス。自分で決めたのなら、最後まで祝ってあげなさい」
「決めてないわよ! 今日でいいって言っただけ!」
「それを決めたと言うんだよ」
「父様まで!」
ルーデウスが小声でレンに言った。
「幸せそうですね」
「誰が?」
「エリス様が」
レンはエリスを見る。
怒っている。
顔を赤くしている。
文句を言っている。
だが、確かにどこか嬉しそうだった。
「そうかも」
「レン君もですよ」
「俺も?」
「はい」
レンは少し戸惑った。
自分がどんな顔をしているのか、分からなかった。
だが、壁際には剣がある。
席に持ち込むのはどうかと思ったが、エリスが「近くに置いておきなさいよ」と言ったので、鞘に納めて壁際に立てかけてある。
その剣を見るたび、胸の奥が温かくなる。
同時に、少し冷える。
本物の刃。
命を奪えるもの。
けれど、逃げない。
「そうかも」
レンは小さく言った。
ルーデウスは柔らかく笑った。
「お互い、おめでとうございます」
「うん。おめでとう」
その時、窓の外で、ふと光が揺れた。
ほんの一瞬。
遠い空の奥で、何かが瞬いたような気がした。
レンは顔を上げた。
ルーデウスも同時に窓を見る。
ギレーヌの耳がぴくりと動いた。
エリスは気づかず、サウロスに怒鳴っている。
「どうしたの?」
ルーデウスが小声で聞いた。
「今、空が」
「僕も少し……魔力が揺れたような」
レンは窓の外を見た。
空は静かだった。
夕闇が広がり、星が少しずつ出始めている。
何もない。
何も起きていない。
だが、胸の奥に残っていたざわつきが、ほんの少し強くなった気がした。
レンは壁際の剣を見た。
今日、剣をもらった。
今日、誕生日をもらった。
今日という日が、自分の中に刻まれた。
その温かさの向こうで、何かが近づいている。
まだ見えない。
まだ届かない。
けれど、確かに。
レンは静かに息を吐いた。
エリスがこちらを見る。
「何よ、暗い顔して」
「何でもない」
「誕生日なんだから、変な顔しないでよ」
「うん」
「それと、明日はその剣で稽古よ」
「ギレーヌさんが許したらね」
「許させるわ」
「どうやって」
「頼む」
「普通だね」
「普通で悪い!?」
いつものやり取り。
ルーデウスが笑い、フィリップが微笑み、サウロスが大声で笑った。
その中で、レンはもう一度、剣を見た。
まだ名もない片刃の剣。
エリスがくれた誕生日。
ルーデウスと同じ日に刻まれた、新しい日付。
この日を、忘れないだろう。
たとえ、この先に何が待っていても。
この穏やかな屋敷が、いつか遠く離れることになっても。
この日の重さだけは、手の中に残る。
レン・クロガネは、そう思った。
そしてその夜、フィットア領の空は、何事もなかったかのように静まり返っていた。
静かすぎるほどに。