無職転生×異伝   作:からし明太子

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第二十話 同じ日でいい

 

 月日は、静かに流れた。

 

 ボレアス家の庭に響く声は、少しずつ変わっていった。

 

 最初は、エリスの怒声ばかりだった。

 

「もう一回!」

 

「今のはなし!」

 

「避けるな!」

 

「避けるでしょ」

 

「うるさい!」

 

 そこに、ルーデウスの落ち着いた声が混じるようになった。

 

「エリス様、前に出すぎです」

 

「足元、変えます」

 

「レン君、右です」

 

「今のは僕の魔術が遅れました」

 

 さらに、レンの声も増えた。

 

「左、抜ける」

 

「エリス、半歩下がって」

 

「ルーデウス、射線を空ける」

 

「ギレーヌさん、もう一本お願いします」

 

 そのたびに、ギレーヌの短い指摘が落ちる。

 

「遅い」

 

「早い」

 

「見ろ」

 

「声を出せ」

 

「声に頼るな」

 

「今のはよい」

 

 同じ庭。

 

 同じ木剣。

 

 同じ木刀。

 

 同じ魔術。

 

 けれど、三人は少しずつ変わっていた。

 

 エリスは十二歳になった。

 

 赤い髪は少し伸び、背も伸びた。

 

 気性の激しさは相変わらずだったが、以前のようにただ真正面へ突っ込むだけではなくなった。

 

 前へ出る。

 

 だが、止まる。

 

 外されたら、踏み直す。

 

 仲間の位置を見る。

 

 それでも熱くなれば忘れるが、忘れた後に戻ってくるのが早くなった。

 

 ルーデウスは十歳を迎えようとしていた。

 

 家庭教師としての彼は、すっかり屋敷に馴染んでいた。

 

 エリスに怒鳴られ、殴られかけ、時に本当に殴られ、それでも授業を続ける。

 

 魔術の腕は以前よりさらに磨かれ、訓練では攻撃よりも支援の精度が上がっていた。

 

 小さな土の段差。

 

 視線を奪う水弾。

 

 足元を濡らすだけの魔術。

 

 風で砂を流す一瞬。

 

 倒すためではなく、味方を生かすための魔術。

 

 ルーデウスはそれを覚え始めていた。

 

 そして、レンは推定十三歳になっていた。

 

 正確な誕生日は、今も知らない。

 

 だが、身体は確実に成長していた。

 

 エリスより一つ年上。

 

 その差は小さい。

 

 しかし、少年の身体にとって一年は大きい。

 

 以前は形だけで精一杯だった火柱にも、少しずつ重さが乗り始めた。

 

 荒神で護衛の木剣を弾くことも増えた。

 

 逆鱗は、エリスの剛剣を受け流す中で鋭くなった。

 

 影縫は、ただ相手から外れるだけでなく、味方の射線を開くためにも使えるようになった。

 

 雷電型第一式は、速く入るためだけの技ではなく、相手の反応を引き出して壱・弐・参を置く技なのだと、身体で理解し始めていた。

 

 ギレーヌには、まだ届かない。

 

 まるで届かない。

 

 だが、ほんの一瞬だけ目を動かすことはある。

 

 ほんの一度だけ、袖をかすめたこともある。

 

 それはレンにとって、小さくない手応えだった。

 

 ボレアス家の日々は、騒がしく、厳しく、どこか穏やかだった。

 

 朝は剣。

 

 昼は授業。

 

 夕方は連携。

 

 夜は復習。

 

 時にサウロスの大声が屋敷を揺らし、フィリップが静かに笑い、ギレーヌが淡々と打ち据え、エリスが怒鳴り、ルーデウスが苦笑し、レンが言い返す。

 

 そんな日々が、当たり前のように続いていた。

 

 続いているように見えた。

 

 ◇

 

 ルーデウスの十歳の誕生日が近づくと、屋敷は少しだけ慌ただしくなった。

 

 エリスの十歳の誕生日ほど大きな宴ではない。

 

 ルーデウスは客人であり、家庭教師であり、グレイラット家の子でもある。

 

 それでも、ボレアス家で三年を過ごした少年の節目を、何もなしに流すわけにはいかなかった。

 

 フィリップは穏やかに準備を進めた。

 

 サウロスは「盛大に祝え!」と叫んだが、フィリップにやんわり止められた。

 

 ギレーヌは祝いの言葉を考えるのに苦戦していた。

 

 レンは何を贈るべきか分からず、結局、ルーデウス用に木札を彫ることにした。

 

 魔術師に木札。

 

 贈り物として適切なのかは分からない。

 

 だが、道場で玄斎から木札をもらった時、レンは嬉しかった。

 

 なら、自分にできるものを渡せばいい。

 

 小さな木札に、三つの線を彫った。

 

 前に立つ剣。

 

 斜めに入る木刀。

 

 後ろから伸びる魔術の線。

 

 三人の距離を、簡単な模様にしたものだった。

 

 ルーデウスなら、意味を分かってくれると思った。

 

 一方、エリスは数日前から妙に落ち着かなかった。

 

 落ち着かないと言っても、普段から落ち着いているわけではない。

 

 だが、今回は違った。

 

 剣の稽古中に、時々考え込む。

 

 授業中に、ルーデウスの誕生日の話題が出ると、すぐに目を逸らす。

 

 そしてレンを見る。

 

 見て、すぐに逸らす。

 

 レンは気づいていた。

 

 だが、何も言わなかった。

 

 エリスが何かを考えている時、下手に聞けば怒る。

 

 それに、彼女が本当に言いたいことなら、いずれ自分から言う。

 

 そういうところがある。

 

 その日の午後、レンは庭の端で一人、木刀を振っていた。

 

 ルーデウスはフィリップに呼ばれていて、エリスは姿を見せていなかった。

 

 ギレーヌも屋敷の中だ。

 

 珍しく、庭は静かだった。

 

 レンは木刀を構える。

 

 雷電型第一式・落雷。

 

 半身。

 

 沈む。

 

 相手の間合いへ入る。

 

 壱。

 

 弐。

 

 参。

 

 続けて、影縫。

 

 身体を脱力させ、線から外れる。

 

 そこから逆鱗。

 

 握りを替え、斬撃の軌道を変える。

 

 荒神。

 

 武器を狙い、接触の瞬間に回転を加える。

 

 最後に火柱。

 

 肘を弾き上げ、鞭のように落とす。

 

 以前より、少しだけ重さが乗る。

 

 だが、まだ足りない。

 

 身体の芯が追いつかない。

 

 ギレーヌなら、今の火柱を踏み込みの内側で潰すだろう。

 

 玄斎なら、振り下ろす前に杖で膝を打つかもしれない。

 

 レンは息を吐いた。

 

「まだ軽いな」

 

 自分で呟く。

 

 その時、背後から声がした。

 

「何が?」

 

 エリスだった。

 

 いつの間にか庭の入口に立っている。

 

 赤い髪が風に揺れていた。

 

「火柱」

 

 レンは木刀を下ろした。

 

「少し重くなったと思ったけど、まだ軽い」

 

「十分痛そうだけど」

 

「ギレーヌさんには届かない」

 

「ギレーヌに届くのはまだ先でしょ」

 

「うん」

 

「でも、前より重いわ」

 

 レンは少し驚いた。

 

「分かる?」

 

「分かるわよ。何年一緒に稽古してると思ってるの」

 

 エリスは当然のように言った。

 

 そう言われて、レンは少しだけ時間の長さを感じた。

 

 何年。

 

 初めてロアの町で会った時、エリスは追われている赤髪の少女だった。

 

 礼より先に技を見せろと言った。

 

 木剣を持てば突っ込んできた。

 

 今も突っ込む。

 

 だが、あの頃とは違う。

 

「そっか」

 

「何よ」

 

「いや。長くいるなと思って」

 

「そうね」

 

 エリスは少しだけ視線を逸らした。

 

 それから、いつもより小さな声で言う。

 

「もうすぐ、ルーデウスの誕生日でしょ」

 

「うん」

 

「十歳」

 

「うん」

 

「あんたは……たぶん十三」

 

「たぶんね」

 

「まだ誕生日は知らないの?」

 

「知らない」

 

「調べても?」

 

「孤児院でも分からなかった。道場に来た時も、たぶんこのくらいだろうって言われただけ」

 

「ふうん」

 

 エリスは地面を見た。

 

 靴の先で芝を軽く蹴る。

 

 何かを言いたそうにしている。

 

 レンは待った。

 

 しばらくして、エリスは顔を上げた。

 

「じゃあ、今日でもいいじゃない」

 

「今日?」

 

「違う。ルーデウスの誕生日の日」

 

 エリスは早口になった。

 

「どうせ分からないんでしょ。だったら、その日でいいじゃない。ルーデウスの誕生日だけど、ついでよ。ついで」

 

「ついで」

 

「そうよ。ついで。別に深い意味はないわ」

 

 深い意味がないと言うには、声が少し強すぎた。

 

 レンは何となく察した。

 

 エリスは、自分の誕生日を知らないことを気にしていたのだ。

 

 あの時聞いてから、ずっと。

 

 何でもないふりをして、内心ではずっと。

 

 レンは少しだけ胸が温かくなるのを感じた。

 

「エリス」

 

「何よ」

 

「ありがとう」

 

 エリスは固まった。

 

 次の瞬間、顔が赤くなる。

 

「まだ何もしてないでしょ!」

 

「でも、考えてくれたんだと思って」

 

「考えてない!」

 

「そう?」

 

「考えてないわよ! 思いついただけ!」

 

「そっか」

 

「その顔やめなさい!」

 

「どんな顔?」

 

「分かってる顔!」

 

 レンは少し笑った。

 

 エリスはさらに怒った。

 

 だが、その怒りはいつもの怒りとは少し違っていた。

 

 照れ隠し。

 

 それが分かるくらいには、レンも彼女のことを見てきた。

 

 エリスは木剣を抜いた。

 

「勝負!」

 

「急だね」

 

「うるさい! 今の顔、むかつくから一本取る!」

 

「結局そうなるんだ」

 

「構えなさい!」

 

 レンは木刀を構えた。

 

 エリスが踏み込んでくる。

 

 強く、速く、真っ直ぐに。

 

 だが、以前のようにただ荒いだけではない。

 

 踏み込んだ後に止まれる。

 

 止まった後に、次がある。

 

 レンはそれを見て、自然と笑った。

 

 いい剣だと思った。

 

 エリスはそれを見て怒った。

 

「笑うな!」

 

 木剣が降る。

 

 レンは受け流す。

 

 庭に、いつもの音が響いた。

 

 ◇

 

 ルーデウスの誕生日当日。

 

 屋敷は朝からどこか明るかった。

 

 大宴会ではない。

 

 だが、使用人たちは少しだけ華やかな飾りを用意し、厨房からはいつもより甘い匂いがした。

 

 サウロスは朝から大声で「めでたい!」と叫び、ルーデウスの肩を叩いて彼をよろけさせた。

 

 フィリップは穏やかに祝いの言葉を述べた。

 

 ギレーヌは少しぎこちないが、しっかりと文字で書いた短い祝いの札を渡した。

 

 ルーデウスはそれを見て、本当に嬉しそうに笑った。

 

「ギレーヌさん、ありがとうございます」

 

「字は、間違っているか」

 

「いえ。ちゃんと読めます」

 

「そうか」

 

 ギレーヌは短く答えた。

 

 だが、尻尾がわずかに揺れていた。

 

 嬉しいのだろう。

 

 エリスはそれを見て、少し笑った。

 

「ギレーヌ、嬉しそう」

 

「嬉しくありません」

 

「嘘よ。尻尾が動いてるわ」

 

「……」

 

 ギレーヌは尻尾を止めようとしたが、少しだけ遅かった。

 

 レンはルーデウスに、自分で彫った木札を渡した。

 

 小さな木札。

 

 三つの線。

 

 ルーデウスはそれを手に取り、すぐに意味を理解したようだった。

 

「これ、僕たちの位置ですか?」

 

「うん。前にエリス、斜めに俺、後ろにルーデウス」

 

「なるほど」

 

 ルーデウスは木札を指でなぞる。

 

「いいですね。これ、僕はかなり好きです」

 

「よかった」

 

「ありがとうございます。大事にします」

 

 レンは少し照れくさくなり、視線を逸らした。

 

 ルーデウスは笑っている。

 

 家庭教師として来た少年は、今ではただの先生ではなくなっていた。

 

 仲間。

 

 そう呼ぶには少し照れくさい。

 

 だが、それに近い存在になっていた。

 

 そして、エリスの番になった。

 

 エリスはいつもより少し硬い顔をしていた。

 

 手には包みが二つある。

 

 一つは細長い箱。

 

 もう一つは、細長い布包みだった。

 

 ルーデウスは少し首を傾げる。

 

「エリス様?」

 

「まず、ルーデウス」

 

 エリスは箱を突き出した。

 

「誕生日でしょ。受け取りなさい」

 

「ありがとうございます」

 

「中身は後で見なさい」

 

「はい」

 

「変な顔したら殴るわよ」

 

「まだ見ていないのに?」

 

「見た後よ」

 

「気をつけます」

 

 ルーデウスは苦笑しながら箱を受け取った。

 

 エリスはそこで一度、深く息を吸った。

 

 そして、もう一つの包みをレンへ向けた。

 

「それで、これはあんた」

 

 レンは目を瞬かせた。

 

「俺?」

 

「そうよ」

 

「今日はルーデウスの誕生日だけど」

 

「分かってるわよ」

 

 エリスは顔を赤くしながら、早口で言う。

 

「あんた、誕生日知らないんでしょ。だったら今日でいいじゃない。ルーデウスのついでよ。ついで。今日から、あんたも十三歳ってことでいいでしょ」

 

 部屋が少し静かになった。

 

 フィリップは穏やかに見守っている。

 

 ギレーヌは何も言わない。

 

 ルーデウスは少し驚いた顔をした後、柔らかく笑った。

 

 レンは、包みを見た。

 

 布に包まれた細長いもの。

 

 木刀ではない。

 

 訓練用の剣でもない。

 

 鞘がある。

 

 鍔がある。

 

 そして、布越しでも分かる重さがあった。

 

 レンは一瞬、手を伸ばせなかった。

 

「……エリス」

 

「何よ」

 

「これ、剣?」

 

「見れば分かるでしょ」

 

「いや、そうじゃなくて」

 

 レンは包みを見つめたまま言った。

 

「これは本物……?」

 

 エリスは少しだけ胸を張った。

 

「そうよ」

 

 部屋の空気が、わずかに変わった。

 

 ルーデウスも目を丸くする。

 

 ギレーヌは何も言わない。

 

 フィリップは穏やかな顔で見守っている。

 

 レンは、もう一度包みを見た。

 

 本物。

 

 真剣。

 

 刃を潰した訓練剣ではない。

 

 人を斬れる剣。

 

 命を奪える刃。

 

 レンの喉の奥が、少しだけ冷えた。

 

 雨の日の記憶が、胸の奥をかすめる。

 

 本物の刃。

 

 動けなかった足。

 

 伸びてくる切っ先。

 

 あの時、自分は剣を持っていなかった。

 

 ただ、恐怖で身体が固まっていた。

 

 今、目の前にあるのは、その恐怖と同じものだった。

 

 だが、同時に違うものでもあった。

 

 これは、奪うために向けられた刃ではない。

 

 エリスが、自分のために用意した剣だ。

 

 レンは手を伸ばしかけ、止めた。

 

「受け取れない」

 

 エリスの目が見開かれた。

 

「……何でよ」

 

「高すぎる」

 

「値段の話なんてしてないわ」

 

「それだけじゃない」

 

 レンは静かに言った。

 

「これは、本物の剣だ。俺が軽く受け取っていいものじゃない」

 

 エリスの眉が吊り上がる。

 

「軽くなんて渡してないわよ!」

 

 その声は、いつもの怒鳴り声だった。

 

 だが、少しだけ違った。

 

 傷ついたような響きがあった。

 

「私が父様に頼んだのよ。ギレーヌにも見てもらったわ。鍛冶師にも、あんたの体格に合わせてもらった。安物じゃない。ちゃんとした業物よ」

 

「だからだよ」

 

「だから何よ!」

 

「そんな大事なもの、簡単には受け取れない」

 

 エリスは唇を噛んだ。

 

 そして、包みをレンの胸へ押しつけるように突き出した。

 

「簡単じゃないわよ」

 

 レンは息を呑んだ。

 

 エリスは顔を赤くしていた。

 

 怒っている。

 

 照れている。

 

 けれど、逃げていない。

 

「だって、あんた、誕生日知らないって言ったじゃない」

 

「……うん」

 

「だから、今日でいいって言ったのよ」

 

「うん」

 

「それで、何を渡せばいいか考えたのよ」

 

「うん」

 

「菓子とか、服とか、そんなのじゃ違うって思ったのよ。あんたには剣でしょ」

 

 レンは何も言えなかった。

 

「でも、ただの剣じゃ嫌だったのよ」

 

 エリスの声が少し小さくなる。

 

「木刀なら、あんたはもう持ってる。訓練用の剣なら、屋敷にもある。だから、本物にしたの」

 

「エリス」

 

「本物の剣を持てるくらい、あんたは強くなるんでしょ」

 

 レンは、包みを見た。

 

「私も強くなる。ルーデウスも強くなる。あんただけ木刀のままでいいわけないでしょ」

 

 乱暴な言い方だった。

 

 けれど、その言葉の奥にあるものは、乱暴ではなかった。

 

 信頼だった。

 

 期待だった。

 

 そして、祈りに近いものだった。

 

 フィリップが静かに口を開いた。

 

「レン。その剣は、エリスが自分で選びたいと言ったものだ」

 

 レンは顔を上げる。

 

 フィリップの声は穏やかだった。

 

「もちろん、実際には鍛冶師とギレーヌに見てもらった。まだ君の身体は成長途中だからね。長すぎず、重すぎず、それでも本物として恥ずかしくないものを用意した」

 

 ギレーヌが続けた。

 

「片刃の剣だ」

 

 レンの目がわずかに動く。

 

「片刃……」

 

「お前が使う木刀の動きに合わせた。両刃の剣より、刀に近い。反りは浅いが、斬る線はお前の技に合う」

 

 ギレーヌは包みを見た。

 

「名刀だ。今のお前には過ぎた剣かもしれない」

 

 レンは頷いた。

 

「だが、過ぎた剣を持つことで、そこへ追いつこうとする者もいる」

 

 ギレーヌの声は淡々としていた。

 

「剣に使われるな。剣に怯えるな。剣を飾りにするな。持つなら、責任ごと持て」

 

 レンの指が震えた。

 

 怖い。

 

 真剣が怖い。

 

 前世の記憶があるから。

 

 本物の刃を前にして、足が止まった自分を知っているから。

 

 けれど、それでも。

 

 怖くても、動く。

 

 レンはゆっくりと手を伸ばした。

 

 包みを受け取る。

 

 重い。

 

 木刀とは違う。

 

 訓練剣とも違う。

 

 手の中に、命の重さがある。

 

 レンは深く頭を下げた。

 

「……ありがとう、エリス」

 

 エリスは顔を逸らした。

 

「別に」

 

「大事にする」

 

「当たり前でしょ」

 

「ちゃんと、追いつく」

 

 その言葉に、エリスは少しだけこちらを見た。

 

「そうしなさい」

 

 レンは包みを抱えたまま、もう一度頭を下げた。

 

 今日、彼は誕生日をもらった。

 

 そして、剣をもらった。

 

 ただの贈り物ではない。

 

 これから先、自分が何を背負うのかを問う、本物の刃を。

 

 ルーデウスが静かに言った。

 

「おめでとうございます、レン君」

 

 レンは少しだけ戸惑い、それから小さく頷いた。

 

「ありがとう。ルーデウスも、おめでとう」

 

「ありがとうございます」

 

 そのやり取りを見て、フィリップが静かに微笑んだ。

 

「では、今日は二人を祝う日だね」

 

「父様!」

 

 エリスが慌てる。

 

「ついでって言ったでしょ!」

 

「そうだったね。では、ついでに祝おう」

 

「言い方!」

 

 サウロスが豪快に笑った。

 

「がははは! よいではないか! めでたいことは多い方がよい!」

 

 大声が部屋を揺らす。

 

「ルーデウス! 十歳、めでたい! レン! 十三歳、めでたい! エリス! よくやった!」

 

「お祖父様、声が大きい!」

 

「めでたいのだから仕方あるまい!」

 

 いつもの騒がしさ。

 

 だが、その中心で、レンは片刃の剣を抱えていた。

 

 重い。

 

 冷たい。

 

 けれど、不思議と温かい。

 

 そんな重さだった。

 

 ◇

 

 その日の午後、ギレーヌの監督のもと、レンは初めてその剣を抜いた。

 

 庭の訓練場。

 

 エリスとルーデウスも見ている。

 

 フィリップも少し離れた場所に立っていた。

 

 サウロスは来ようとしたが、騒がしくなるからと止められたらしい。

 

 レンは鞘を持った。

 

 黒に近い深い赫色の鞘。

 

 装飾は控えめだが、安物ではないと分かる。

 

 柄は両手で握れる長さがあり、レンの手に合わせて少し細く調整されている。

 

 鍔は小さめで、刃を守るための必要な大きさだけ。

 

 反りは浅い。

 

 だが、真っ直ぐな剣ではない。

 

 片刃。

 

 刀に似ている。

 

 前世で見た日本刀ほどの反りはない。

 

 だが、刃筋の考え方は木刀で学んできた大亀流に近かった。

 

 レンはゆっくりと鯉口を切る。

 

 わずかな音。

 

 鞘から刃が覗く。

 

 光が走った。

 

 息が止まった。

 

 真剣。

 

 本物の刃。

 

 薄く、鋭く、冷たい光。

 

 それは美しかった。

 

 そして、怖かった。

 

 レンの胸の奥に、雨の日の感覚が蘇る。

 

 刃物を前にした時の、あの冷え。

 

 足がすくむ感覚。

 

 身体が固まり、息が詰まる。

 

 だが、今は逃げなかった。

 

 鞘から、ゆっくり抜く。

 

 刀身が姿を現す。

 

 片刃の業物。

 

 刃文に似た淡い光が、波のように揺れている。

 

 刀のようで、完全な刀ではない。

 

 この世界の鍛冶師が、大亀流の動きとレンの体格を聞いて作り上げた、片刃の剣。

 

 ギレーヌが言った。

 

「構えろ」

 

「はい」

 

 レンは構えた。

 

 重い。

 

 木刀よりも重い。

 

 だが、ただ重いだけではない。

 

 先が沈みすぎない。

 

 芯がある。

 

 刃がある。

 

 刃筋を立てなければ、剣が嫌がるような感覚が手に返ってくる。

 

 木刀なら誤魔化せた角度が、誤魔化せない。

 

 斬るための道具なのだ。

 

 レンは喉の奥の冷えを押さえ込み、呼吸を整えた。

 

 足裏。

 

 膝。

 

 腰。

 

 背中。

 

 肩。

 

 腕。

 

 手だけで持たない。

 

 身体で持つ。

 

「振れ」

 

 ギレーヌの声。

 

 レンはゆっくり剣を振った。

 

 まずは素振り。

 

 上段から。

 

 斜め。

 

 横。

 

 突き。

 

 大きく振るたび、刃の重さが身体を引っ張る。

 

 木刀では誤魔化せた癖が、すぐに出る。

 

 肩が上がる。

 

 手首が遅れる。

 

 踏み込みが浅くなる。

 

 刃筋が乱れる。

 

 ギレーヌが即座に言う。

 

「肩」

 

「はい」

 

「手首で持つな」

 

「はい」

 

「刃が寝ている」

 

「はい」

 

「足が遅い」

 

「はい」

 

 いつもと同じ稽古。

 

 だが、剣が変わるだけで、すべてが違った。

 

 レンは雷電型第一式へ入ろうとして、すぐに止められた。

 

「まだ早い」

 

「はい」

 

「まず、普通に振れ。普通に止めろ。普通に戻せ」

 

「はい」

 

「技はその後だ」

 

 レンは頷いた。

 

 エリスは少し不満そうだった。

 

「技、見ないの?」

 

「今は駄目です」

 

 ギレーヌが答える。

 

「真剣でいきなり技を使えば、身体を壊す。下手をすれば自分か周りを斬る」

 

「む」

 

「エリス様も同じです」

 

「分かってるわよ」

 

 本当は分かっていなさそうな返事だった。

 

 ルーデウスは剣を見ながら言う。

 

「木刀と全然違うんですね」

 

「うん」

 

 レンは息を整える。

 

「刃があるだけで、手が変になる」

 

「怖いですか?」

 

 ルーデウスの声は静かだった。

 

 レンは少しだけ黙った。

 

 それから答えた。

 

「怖い」

 

 エリスがこちらを見る。

 

 レンは真剣を下ろさず、続けた。

 

「本物の刃だから。怖い」

 

 エリスは何も言わなかった。

 

 ギレーヌも言わない。

 

 レンは刃を見た。

 

「でも、目は逸らさない」

 

 その言葉は、自分に言ったものだった。

 

 前世でできなかったこと。

 

 本物の刃を前にして、足を止めた自分。

 

 今度は違う。

 

 刃を怖いと思う。

 

 その上で握る。

 

 その上で立つ。

 

 ギレーヌがわずかに頷いた。

 

「それでいい」

 

 短い言葉だった。

 

 だが、レンの胸に落ちた。

 

「怖くない者は、刃を軽く扱う。怖がりすぎる者は、刃に使われる。怖さを知って、それでも制御しろ」

 

「はい」

 

「もう一度」

 

 レンは剣を振った。

 

 今度は、先ほどより少しゆっくり。

 

 刃筋を見る。

 

 斬る線を感じる。

 

 木刀よりも繊細に。

 

 木刀よりも重く。

 

 木刀よりも怖く。

 

 だが、確かに手の中にある。

 

 エリスが腕を組んで見ていた。

 

「どう?」

 

「難しい」

 

 レンは正直に答えた。

 

「でも、いい剣だと思う」

 

「当然よ」

 

 エリスは少し得意げだった。

 

「業物だって言ったでしょ」

 

「うん」

 

「ちゃんと使いなさいよ」

 

「ギレーヌさんが許した時だけ」

 

「そういう意味じゃなくて」

 

 エリスは少し言葉を探した。

 

「……強くなりなさいよ」

 

 レンは剣を握り直した。

 

「うん」

 

「その剣に負けたら許さないから」

 

「うん」

 

「私も強くなるから」

 

「知ってる」

 

「ならいいわ」

 

 それだけ言って、エリスは木剣を構えた。

 

「ギレーヌ、私も稽古する!」

 

「今日は軽めです」

 

「本気で軽めね!」

 

「軽めです」

 

「分かってるわよ!」

 

 分かっていない声だった。

 

 ルーデウスが苦笑する。

 

 レンも少し笑った。

 

 手の中の片刃の剣が、夕日を受けて淡く光っている。

 

 まだ名前はない。

 

 まだ相棒と呼べるほど馴染んでいない。

 

 だが、この剣は今日からレンのものだった。

 

 エリスが、誕生日の分だと言ってくれたもの。

 

 今日という日を、レンにくれた証。

 

 そして、いつか本当の意味で振るうために、追いつかなければならない刃だった。

 

 ◇

 

 夕方、誕生日の小さな祝いの席が開かれた。

 

 豪華すぎるものではない。

 

 それでも、料理はいつもより多く、甘い菓子も並んでいた。

 

 ルーデウスはサウロスに何度も背中を叩かれ、少し困っていた。

 

 エリスはそれを見て笑い、フィリップは穏やかに酒を傾け、ギレーヌは静かに肉を食べていた。

 

 レンも席に座っていた。

 

 自分が祝われる側に混じっているのが、少し不思議だった。

 

 エリスは相変わらず「ついで」と言い張った。

 

 だが、サウロスが何度も「めでたい!」と叫ぶので、そのたびに顔を赤くして怒っていた。

 

「お祖父様! だから、レンはついでだって言ってるでしょ!」

 

「ついででもめでたい!」

 

「もう!」

 

 フィリップは静かに笑う。

 

「エリス。自分で決めたのなら、最後まで祝ってあげなさい」

 

「決めてないわよ! 今日でいいって言っただけ!」

 

「それを決めたと言うんだよ」

 

「父様まで!」

 

 ルーデウスが小声でレンに言った。

 

「幸せそうですね」

 

「誰が?」

 

「エリス様が」

 

 レンはエリスを見る。

 

 怒っている。

 

 顔を赤くしている。

 

 文句を言っている。

 

 だが、確かにどこか嬉しそうだった。

 

「そうかも」

 

「レン君もですよ」

 

「俺も?」

 

「はい」

 

 レンは少し戸惑った。

 

 自分がどんな顔をしているのか、分からなかった。

 

 だが、壁際には剣がある。

 

 席に持ち込むのはどうかと思ったが、エリスが「近くに置いておきなさいよ」と言ったので、鞘に納めて壁際に立てかけてある。

 

 その剣を見るたび、胸の奥が温かくなる。

 

 同時に、少し冷える。

 

 本物の刃。

 

 命を奪えるもの。

 

 けれど、逃げない。

 

「そうかも」

 

 レンは小さく言った。

 

 ルーデウスは柔らかく笑った。

 

「お互い、おめでとうございます」

 

「うん。おめでとう」

 

 その時、窓の外で、ふと光が揺れた。

 

 ほんの一瞬。

 

 遠い空の奥で、何かが瞬いたような気がした。

 

 レンは顔を上げた。

 

 ルーデウスも同時に窓を見る。

 

 ギレーヌの耳がぴくりと動いた。

 

 エリスは気づかず、サウロスに怒鳴っている。

 

「どうしたの?」

 

 ルーデウスが小声で聞いた。

 

「今、空が」

 

「僕も少し……魔力が揺れたような」

 

 レンは窓の外を見た。

 

 空は静かだった。

 

 夕闇が広がり、星が少しずつ出始めている。

 

 何もない。

 

 何も起きていない。

 

 だが、胸の奥に残っていたざわつきが、ほんの少し強くなった気がした。

 

 レンは壁際の剣を見た。

 

 今日、剣をもらった。

 

 今日、誕生日をもらった。

 

 今日という日が、自分の中に刻まれた。

 

 その温かさの向こうで、何かが近づいている。

 

 まだ見えない。

 

 まだ届かない。

 

 けれど、確かに。

 

 レンは静かに息を吐いた。

 

 エリスがこちらを見る。

 

「何よ、暗い顔して」

 

「何でもない」

 

「誕生日なんだから、変な顔しないでよ」

 

「うん」

 

「それと、明日はその剣で稽古よ」

 

「ギレーヌさんが許したらね」

 

「許させるわ」

 

「どうやって」

 

「頼む」

 

「普通だね」

 

「普通で悪い!?」

 

 いつものやり取り。

 

 ルーデウスが笑い、フィリップが微笑み、サウロスが大声で笑った。

 

 その中で、レンはもう一度、剣を見た。

 

 まだ名もない片刃の剣。

 

 エリスがくれた誕生日。

 

 ルーデウスと同じ日に刻まれた、新しい日付。

 

 この日を、忘れないだろう。

 

 たとえ、この先に何が待っていても。

 

 この穏やかな屋敷が、いつか遠く離れることになっても。

 

 この日の重さだけは、手の中に残る。

 

 レン・クロガネは、そう思った。

 

 そしてその夜、フィットア領の空は、何事もなかったかのように静まり返っていた。

 

 静かすぎるほどに。

 

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