無職転生×異伝   作:からし明太子

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第二話 大亀流道場

 

 翌朝、レンは身体中の痛みで目を覚ました。

 

 板張りの床に敷かれた薄い布団の上で、しばらく動けなかった。

 

 背中が痛い。

 

 肩が痛い。

 

 腰が痛い。

 

 腕も足も、昨日まで自分のものだったとは思えないほど重い。

 

 玄斎に叩きつけられた回数を、レンは途中から数えていなかった。

 

 最初は十回までは覚えていた。

 

 その後は、立つ、倒れる、立つ、倒れるを繰り返すうちに、何度目なのか分からなくなった。

 

 気絶しなかったのが不思議なくらいだった。

 

 いや、もしかすると途中で何度か意識が飛んでいたのかもしれない。

 

 それでも、木刀だけは離さなかった。

 

 レンは指を動かす。

 

 掌には昨日の木刀の感触が残っている。

 

 枝とは違う。

 

 竹刀とも違う。

 

 重く、硬く、冷たい。

 

 人を打つための重さ。

 

 人を殺すこともできる重さ。

 

 その感触を思い出しただけで、胸の奥が少し熱くなった。

 

 ここでなら学べる。

 

 前世で動けなかった自分を変える剣を。

 

 そう思った瞬間、障子の向こうから低い声が飛んできた。

 

「起きておるな」

 

 レンはびくりとした。

 

 玄斎の声だった。

 

「はい」

 

「なら出てこい」

 

「……今ですか」

 

「寝ていたければ寝ていろ。飯は抜く」

 

 レンは痛む身体を無理やり起こした。

 

 布団から出るだけで、全身が軋む。

 

 顔をしかめながら戸を開けると、外はまだ薄暗かった。

 

 朝日が山の端からわずかに顔を出したばかり。

 

 道場の庭には、白い朝靄が漂っている。

 

 木の葉から落ちる露の音。

 

 遠くで鳴く鳥の声。

 

 前世の街とはまるで違う、静かな朝だった。

 

 玄斎は庭に立っていた。

 

 片腕の老人。

 

 背は高くない。

 

 筋肉で膨れ上がっているわけでもない。

 

 ただ立っている。

 

 それだけなのに、妙な重さがあった。

 

 山に立つ木のようだった。

 

 いや、木ではない。

 

 岩だ。

 

 雨が降っても、風が吹いても、動かない岩。

 

 レンは思わず背筋を伸ばした。

 

 玄斎はレンを一瞥する。

 

「遅い」

 

「すみません」

 

「謝る暇があるなら立て」

 

「立ってます」

 

 そう答えた瞬間、玄斎の目が細くなった。

 

「それは、足の裏を地面につけているだけだ」

 

「……」

 

「立っているとは言わん」

 

 レンは言い返せなかった。

 

 玄斎の言葉の意味が分からなかったからだ。

 

 足は地面についている。

 

 背筋も伸ばしている。

 

 ふらついてはいるが、倒れてはいない。

 

 それなのに、立っていないと言われる。

 

 玄斎は片腕を軽く上げた。

 

「構えろ」

 

 レンは近くに置かれていた木刀を手に取った。

 

 正眼。

 

 前世から染みついた構え。

 

 左足を引き、右足を前へ。

 

 剣先を相手の喉元に向ける。

 

 両手で柄を握る。

 

 自然に身体がその形を取った。

 

 その瞬間、玄斎が歩いた。

 

 一歩。

 

 ただ、それだけだった。

 

 次の瞬間、レンの身体は横へ崩れた。

 

「え」

 

 何が起きたのか分からないまま、レンは庭の土に転がった。

 

 玄斎がレンの肩に軽く触れただけ。

 

 押された感覚すらほとんどなかった。

 

 なのに、足が抜けたように崩れた。

 

「今ので分かったか」

 

 玄斎が見下ろす。

 

「お前は立っておらん」

 

 レンは土を払いながら起き上がる。

 

「もう一回」

 

「構えろ」

 

 レンは構えた。

 

 今度は力を入れた。

 

 足を強く踏む。

 

 腰を落とす。

 

 倒されないよう、全身を固める。

 

 玄斎が近づく。

 

 片腕が伸びる。

 

 レンは踏ん張った。

 

 倒れない。

 

 倒れない。

 

 そう思った次の瞬間、今度は前のめりに崩れた。

 

 額が土にぶつかる。

 

「ぐっ……!」

 

「踏ん張るな」

 

 玄斎の声が落ちる。

 

「踏ん張れば、次に動けぬ」

 

「でも、踏ん張らないと倒れます」

 

「倒れぬために踏ん張るから、倒される」

 

 レンは顔を上げた。

 

 意味が分からない。

 

 だが、玄斎は説明を急がなかった。

 

「立て」

 

 レンは立った。

 

 倒された。

 

 また立った。

 

 また倒された。

 

 玄斎は木刀を振らない。

 

 拳で殴りもしない。

 

 ただ肩に触れる。

 

 胸に触れる。

 

 腰に触れる。

 

 時には膝を軽く払う。

 

 それだけでレンは崩れる。

 

 立っているつもりだった。

 

 構えているつもりだった。

 

 だが、玄斎に触れられるたび、自分の身体がどれほど脆く、どれほど偏っているのか思い知らされた。

 

 足の裏のどこに体重が乗っているのか。

 

 膝がどちらへ向いているのか。

 

 腰が浮いているのか。

 

 肩に力が入っているのか。

 

 木刀の重さに身体が引っ張られているのか。

 

 何も分かっていなかった。

 

 前世の剣道で、レンは構えを習った。

 

 正眼。

 

 中段。

 

 足さばき。

 

 姿勢。

 

 しかしそれは、竹刀と防具と試合の中で磨かれたものだった。

 

 今、玄斎が求めているものは違う。

 

 倒されないための立ち方ではない。

 

 倒されても、次に動ける立ち方。

 

 斬るためだけではない。

 

 斬られないためだけでもない。

 

 生き残るための立ち方。

 

 昼前には、レンの足は震えていた。

 

 玄斎はようやく言った。

 

「今日はここまでだ」

 

 レンはその場に座り込みそうになった。

 

 だが、玄斎の視線が飛んでくる。

 

「座るな」

 

「え」

 

「勝手に膝を折るな。座る時も、立つ時も稽古だ」

 

 レンは歯を食いしばった。

 

 倒れるように座りたい。

 

 だが、それを許されない。

 

 膝を折る。

 

 腰を落とす。

 

 手をつきたくなるのを堪え、ゆっくり座る。

 

 ただ座るだけなのに、足が悲鳴を上げた。

 

 玄斎は言う。

 

「飯を食え」

 

 ◇

 

 大亀流道場での生活は、レンが想像していたものとは違った。

 

 剣を振る時間は少ない。

 

 少なすぎるほどだった。

 

 朝は庭の掃除から始まる。

 

 箒を持ち、落ち葉を集める。

 

 ただし、玄斎は箒の持ち方にも口を出した。

 

「肩で掃くな」

 

「腕だけで動かすな」

 

「足を止めるな」

 

「腰を浮かせるな」

 

 水汲みも稽古だった。

 

 井戸から水を汲み、桶を運ぶ。

 

 最初、レンは両腕の力で桶を持ち上げた。

 

 すぐに肩が痛くなった。

 

 玄斎は言った。

 

「腕で持つな」

 

「じゃあ何で持つんですか」

 

「身体で持て」

 

 意味が分からなかった。

 

 だが、何度も運ぶうちに少しずつ分かってきた。

 

 腕だけで桶を支えると疲れる。

 

 肩が上がる。

 

 背中が固まる。

 

 足が遅くなる。

 

 だが、肘をわずかに緩め、背中と腰で重さを受けると、少しだけ楽になる。

 

 歩く時も同じだった。

 

 足だけで歩くのではない。

 

 腰から進む。

 

 頭を揺らしすぎない。

 

 足音を殺そうとして足を固めるのではなく、余計な力を抜く。

 

 薪割りも稽古だった。

 

 斧を力任せに振り下ろせば、刃が木に食い込んで止まる。

 

 力を入れているのに割れない。

 

 玄斎は一度だけ斧を持った。

 

 片腕で。

 

 軽く振り下ろす。

 

 ぱかん、と薪が割れた。

 

 レンは目を丸くする。

 

「なんで」

 

「力を通しただけだ」

 

「力を入れたんじゃなくて?」

 

「力むことと、力を通すことは違う」

 

 そう言われても、すぐには分からない。

 

 だが、その言葉はレンの中に残った。

 

 力むことと、力を通すことは違う。

 

 それは後に、何度も思い出す言葉になる。

 

 ◇

 

 道場には、他にも何人か弟子がいた。

 

 大人の男が二人。

 

 十代半ばほどの少年が三人。

 

 少女が一人。

 

 皆、レンを見る目は厳しかった。

 

 宗一郎が拾ってきた孤児。

 

 玄斎が黒鉄の姓を与えた子供。

 

 それだけで、彼らの興味と反感を買うには十分だった。

 

 特に少年たちは、レンを快く思っていないようだった。

 

 ある日の午後。

 

 玄斎が奥へ引っ込んだ後、少年の一人がレンに近づいてきた。

 

 年は十四くらい。

 

 背はレンよりずっと高い。

 

 手には木刀。

 

「お前、前世の剣がどうとか言ってたんだって?」

 

 レンは庭の隅で、足運びの稽古をしていた。

 

「言ってない」

 

「宗一郎さんが言ってたぞ」

 

 あの男、余計なことを。

 

 レンは内心で舌打ちした。

 

 少年は木刀を肩に担ぐ。

 

「玄斎様に名前をもらったからって、調子に乗るなよ」

 

「乗ってない」

 

「なら、ちょっと打ってこいよ」

 

 少年はにやりと笑う。

 

「剣士なんだろ?」

 

 レンは木刀を握った。

 

 断るべきか。

 

 いや、断れば余計に絡まれる。

 

 それに、実際にどれほど通じるのか試したい気持ちもあった。

 

 レンは構えた。

 

 正眼。

 

 少年はそれを見て鼻で笑う。

 

「変な構えだな」

 

 レンは答えない。

 

 相手を見る。

 

 肩。

 

 手元。

 

 腰。

 

 足。

 

 前世で教わった通りに観察する。

 

 少年が踏み込んだ。

 

 速い。

 

 前世で戦った同年代とは比べものにならない。

 

 木刀が真っ直ぐ振り下ろされる。

 

 レンは咄嗟に受けた。

 

 重い。

 

 腕が痺れる。

 

 力の差がある。

 

 だが、受けられないほどではない。

 

 レンは横へ流れようとした。

 

 しかし足が遅れた。

 

 少年の蹴りが、レンの脛を軽く払う。

 

 身体が崩れる。

 

 木刀が肩に当たった。

 

 痛みが走る。

 

「ほら、どうした」

 

 少年が笑う。

 

 レンは歯を食いしばって立つ。

 

 今度はこちらから踏み込んだ。

 

 前世の面打ち。

 

 真っ直ぐ、最短で。

 

 だが、少年は半歩下がるだけで避けた。

 

 レンの木刀は空を切る。

 

 次の瞬間、腹に木刀の柄が入った。

 

「がっ……!」

 

 膝が折れそうになる。

 

 しかし倒れない。

 

 レンは倒れかけた身体を利用して、下から木刀を振り上げた。

 

 少年の目が僅かに開く。

 

 木刀は少年の腕をかすめた。

 

 当たった。

 

 完全ではない。

 

 かすっただけ。

 

 だが、当てた。

 

 少年の顔から笑みが消える。

 

「この……!」

 

 少年が本気で踏み込もうとした瞬間。

 

「そこまでだ」

 

 玄斎の声が響いた。

 

 道場全体が凍ったように静かになる。

 

 少年は慌てて木刀を下げた。

 

「玄斎様、これは」

 

「言い訳は聞かん」

 

 玄斎はレンを見る。

 

「お前もだ」

 

「はい」

 

「今のは剣ではない」

 

 レンは唇を噛んだ。

 

 自分でも分かっていた。

 

 最後の一撃は、技ではない。

 

 倒れかけた身体を無理やり使っただけ。

 

 前世の剣道でもない。

 

 大亀流でもない。

 

 ただ、食い下がっただけだった。

 

 だが玄斎は続けた。

 

「だが、目は悪くなかった」

 

 レンは顔を上げた。

 

「倒れかけても相手を見ていた。それだけはよい」

 

 少年が悔しそうに顔を歪める。

 

 玄斎は少年にも言った。

 

「お前は相手を子供と見た。だから腕をかすめられた」

 

「……はい」

 

「相手が何であれ、倒れるまでは敵だ」

 

 玄斎の言葉は、レンにも突き刺さった。

 

 倒れるまでは敵。

 

 いや、倒れても死んでいなければ敵。

 

 それは、昨日レンが玄斎に言った言葉と同じだった。

 

 死んでいない。

 

 だから負けていない。

 

 玄斎はレンへ向き直る。

 

「明日から、素振りを許す」

 

 レンの胸が跳ねた。

 

「本当ですか」

 

「ただし、お前の剣道の素振りではない」

 

 玄斎は道場の奥から一本の木刀を取った。

 

 片腕で軽く構える。

 

 それは、レンの知るどの構えとも違っていた。

 

 低い。

 

 しかし沈みすぎていない。

 

 上体は力んでいない。

 

 木刀はすぐにでも振れる位置にありながら、無理に構えている感じがない。

 

 静かだった。

 

 だが、次の瞬間にはどこへでも飛び出しそうだった。

 

「大亀流は、五つの型を持つ」

 

 玄斎の声が道場に響く。

 

「雷電型」

 

 玄斎の足が、音もなく前へ滑った。

 

「焔燃型」

 

 木刀が重く振り下ろされる。

 

「虚空型」

 

 身体がふっと視界からずれる。

 

「水龍型」

 

 刃筋が途中で変わる。

 

「土公型」

 

 木刀が相手の武器を叩き折るような軌道を描く。

 

 レンは息を忘れて見ていた。

 

 五つの動き。

 

 どれも違う。

 

 速さ。

 

 重さ。

 

 消え方。

 

 変化。

 

 破壊。

 

 だが、すべて同じ根から生えているように見えた。

 

 玄斎は木刀を下ろす。

 

「五剣」

 

「五剣……」

 

「お前には、まず一式を教える」

 

 レンは木刀を握る手に力を込めた。

 

 ようやく剣を教わる。

 

 そう思った。

 

 だが玄斎は釘を刺すように言う。

 

「喜ぶな」

 

「……はい」

 

「型を覚えることと、型を使えることは違う」

 

 レンは頷いた。

 

 その意味はまだ分からない。

 

 だが、分からないなりに、今の演武を見れば理解できた。

 

 玄斎の動きは、自分の素振りとは根本から違う。

 

 腕で振っているのではない。

 

 足だけで動いているのでもない。

 

 全身が一つの流れになっていた。

 

 そして、その流れの中に木刀がある。

 

 木刀を振るのではない。

 

 身体の動きの先に、刃がある。

 

 レンは初めて、自分が剣を腕で振っていたのだと気づいた。

 

 ◇

 

 翌日から、レンの稽古はさらに厳しくなった。

 

 まずは雷電型一式。

 

 雷電型。

 

 大亀流五剣ノ一。

 

 電光石火の速さを信条とする型。

 

 玄斎はそう説明した。

 

 レンは胸を高鳴らせた。

 

 速さ。

 

 踏み込み。

 

 間合いを潰す技。

 

 小柄な自分にも合うかもしれない。

 

 だが、稽古は想像とはまるで違った。

 

「走るな」

 

 玄斎が言う。

 

「速く動こうとするな」

 

「雷電型なのに?」

 

「速く動こうとする者ほど、遅い」

 

 レンはまた意味が分からなかった。

 

 雷電型なのに、速く動くなと言われる。

 

 だが、玄斎の言う通りにしなければ倒される。

 

 雷電型一式は、奇妙な構えから始まった。

 

 正面から構えるのではない。

 

 重心をわずかにずらし、相手の間合いの外にいるようでいて、いつでも内側へ滑り込める状態を作る。

 

 大事なのは、踏み込む前に身体を固めないこと。

 

 足で蹴るのではなく、重心を落とすこと。

 

 落ちる力を前へ変えること。

 

 玄斎は繰り返し言った。

 

「蹴るな」

 

「落ちろ」

 

「足で行くな」

 

「身体を運べ」

 

「剣を出すな」

 

「剣がついてくるようにしろ」

 

 レンは何度も失敗した。

 

 足で蹴ってしまう。

 

 肩に力が入る。

 

 木刀を先に振ろうとする。

 

 踏み込みの瞬間、目が狙いを見すぎる。

 

 そのたびに玄斎の木刀が飛んでくる。

 

 額。

 

 肩。

 

 膝。

 

 脇腹。

 

 痛みで身体が覚えていく。

 

 だが、不思議なことに、雷電型の稽古だけは楽しかった。

 

 身体が小さいことが、不利に感じなかった。

 

 むしろ、軽い身体が前へ落ちる感覚と噛み合う。

 

 一瞬、地面が消えるような感覚。

 

 足で進むのではなく、身体が先に滑る感覚。

 

 ほんのわずかだが、それを掴める瞬間があった。

 

 玄斎もそれに気づいていた。

 

 夕方。

 

 何度目かの踏み込みの後、玄斎は低く言った。

 

「雷電に向いているな」

 

 レンは息を切らしながら顔を上げる。

 

「本当ですか」

 

「浮かれるな」

 

「はい」

 

「向いていることと、使えることは違う」

 

 それでも、レンの胸は熱くなった。

 

 向いている。

 

 初めてそう言われた。

 

 前世では天才ではなかった。

 

 努力して、並より少し上。

 

 その程度だった。

 

 だが、この世界で。

 

 大亀流で。

 

 自分には向いているものがあるかもしれない。

 

 玄斎は続ける。

 

「お前は軽い。反応も悪くない。倒れかけても目が死なぬ」

 

「はい」

 

「だが、速さに逃げるな」

 

 レンは黙って聞いた。

 

「速さは強い」

 

 玄斎の声は静かだった。

 

「だが、速さに頼る者は、速さを読まれた瞬間に死ぬ」

 

 レンは昨日の少年との手合わせを思い出した。

 

 自分の面打ちは半歩下がられただけで空を切った。

 

 速く打ったつもりだった。

 

 だが、来る場所が分かっていれば避けられる。

 

 玄斎は木刀を地面に立てる。

 

「雷電型は、ただ速く斬る型ではない」

 

「じゃあ、何なんですか」

 

「相手の反応を置き去りにする型だ」

 

 レンはその言葉を胸の中で繰り返した。

 

 相手の反応を置き去りにする。

 

 ただ足が速いだけではない。

 

 ただ剣速があるだけでもない。

 

 相手が反応しようとした瞬間には、もう間合いの内側にいる。

 

 相手が防ごうとした時には、もう次の一撃が来ている。

 

 それが雷電型。

 

 レンは木刀を握り直した。

 

「もう一回、お願いします」

 

 玄斎は眉を上げる。

 

「足は震えているぞ」

 

「まだ立てます」

 

「腕も上がっておらん」

 

「まだ握れます」

 

「倒れるぞ」

 

「死んでません」

 

 玄斎はしばらくレンを見ていた。

 

 そして、わずかに笑った。

 

「なら、来い」

 

 レンは構えた。

 

 奇妙な半身。

 

 重心をわずかにずらす。

 

 肩の力を抜く。

 

 足で蹴らない。

 

 落ちる。

 

 前へ。

 

 木刀が振られる。

 

 玄斎の木刀が、それを軽く受けた。

 

 次の瞬間、レンはまた庭に転がっていた。

 

 けれど今度は、すぐに起きた。

 

 土を払い、木刀を拾う。

 

 構える。

 

 倒される。

 

 また立つ。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 空が赤く染まり、山の影が長く伸びるまで、レンは雷電型一式を繰り返した。

 

 身体は痛い。

 

 息も苦しい。

 

 足の裏は焼けるようだった。

 

 だが、胸の奥には確かな熱があった。

 

 剣道ではない。

 

 まだ大亀流とも言えない。

 

 けれど、レンはその日初めて、新しい剣の入口に触れた。

 

 前世で動かなかった足。

 

 雨の中で止まった足。

 

 その足が、今は前へ出ようとしている。

 

 玄斎は道場の縁側から、倒れても立ち上がるレンを見ていた。

 

 そして誰にも聞こえないほど小さく呟く。

 

「雷電の亀の子か」

 

 レンには聞こえなかった。

 

 ただ、木刀を握り、もう一度構える。

 

 立つ。

 

 崩れる。

 

 また立つ。

 

 その繰り返しの中で、レン・クロガネの大亀流は、ようやく始まった。

 

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