翌朝、レンは身体中の痛みで目を覚ました。
板張りの床に敷かれた薄い布団の上で、しばらく動けなかった。
背中が痛い。
肩が痛い。
腰が痛い。
腕も足も、昨日まで自分のものだったとは思えないほど重い。
玄斎に叩きつけられた回数を、レンは途中から数えていなかった。
最初は十回までは覚えていた。
その後は、立つ、倒れる、立つ、倒れるを繰り返すうちに、何度目なのか分からなくなった。
気絶しなかったのが不思議なくらいだった。
いや、もしかすると途中で何度か意識が飛んでいたのかもしれない。
それでも、木刀だけは離さなかった。
レンは指を動かす。
掌には昨日の木刀の感触が残っている。
枝とは違う。
竹刀とも違う。
重く、硬く、冷たい。
人を打つための重さ。
人を殺すこともできる重さ。
その感触を思い出しただけで、胸の奥が少し熱くなった。
ここでなら学べる。
前世で動けなかった自分を変える剣を。
そう思った瞬間、障子の向こうから低い声が飛んできた。
「起きておるな」
レンはびくりとした。
玄斎の声だった。
「はい」
「なら出てこい」
「……今ですか」
「寝ていたければ寝ていろ。飯は抜く」
レンは痛む身体を無理やり起こした。
布団から出るだけで、全身が軋む。
顔をしかめながら戸を開けると、外はまだ薄暗かった。
朝日が山の端からわずかに顔を出したばかり。
道場の庭には、白い朝靄が漂っている。
木の葉から落ちる露の音。
遠くで鳴く鳥の声。
前世の街とはまるで違う、静かな朝だった。
玄斎は庭に立っていた。
片腕の老人。
背は高くない。
筋肉で膨れ上がっているわけでもない。
ただ立っている。
それだけなのに、妙な重さがあった。
山に立つ木のようだった。
いや、木ではない。
岩だ。
雨が降っても、風が吹いても、動かない岩。
レンは思わず背筋を伸ばした。
玄斎はレンを一瞥する。
「遅い」
「すみません」
「謝る暇があるなら立て」
「立ってます」
そう答えた瞬間、玄斎の目が細くなった。
「それは、足の裏を地面につけているだけだ」
「……」
「立っているとは言わん」
レンは言い返せなかった。
玄斎の言葉の意味が分からなかったからだ。
足は地面についている。
背筋も伸ばしている。
ふらついてはいるが、倒れてはいない。
それなのに、立っていないと言われる。
玄斎は片腕を軽く上げた。
「構えろ」
レンは近くに置かれていた木刀を手に取った。
正眼。
前世から染みついた構え。
左足を引き、右足を前へ。
剣先を相手の喉元に向ける。
両手で柄を握る。
自然に身体がその形を取った。
その瞬間、玄斎が歩いた。
一歩。
ただ、それだけだった。
次の瞬間、レンの身体は横へ崩れた。
「え」
何が起きたのか分からないまま、レンは庭の土に転がった。
玄斎がレンの肩に軽く触れただけ。
押された感覚すらほとんどなかった。
なのに、足が抜けたように崩れた。
「今ので分かったか」
玄斎が見下ろす。
「お前は立っておらん」
レンは土を払いながら起き上がる。
「もう一回」
「構えろ」
レンは構えた。
今度は力を入れた。
足を強く踏む。
腰を落とす。
倒されないよう、全身を固める。
玄斎が近づく。
片腕が伸びる。
レンは踏ん張った。
倒れない。
倒れない。
そう思った次の瞬間、今度は前のめりに崩れた。
額が土にぶつかる。
「ぐっ……!」
「踏ん張るな」
玄斎の声が落ちる。
「踏ん張れば、次に動けぬ」
「でも、踏ん張らないと倒れます」
「倒れぬために踏ん張るから、倒される」
レンは顔を上げた。
意味が分からない。
だが、玄斎は説明を急がなかった。
「立て」
レンは立った。
倒された。
また立った。
また倒された。
玄斎は木刀を振らない。
拳で殴りもしない。
ただ肩に触れる。
胸に触れる。
腰に触れる。
時には膝を軽く払う。
それだけでレンは崩れる。
立っているつもりだった。
構えているつもりだった。
だが、玄斎に触れられるたび、自分の身体がどれほど脆く、どれほど偏っているのか思い知らされた。
足の裏のどこに体重が乗っているのか。
膝がどちらへ向いているのか。
腰が浮いているのか。
肩に力が入っているのか。
木刀の重さに身体が引っ張られているのか。
何も分かっていなかった。
前世の剣道で、レンは構えを習った。
正眼。
中段。
足さばき。
姿勢。
しかしそれは、竹刀と防具と試合の中で磨かれたものだった。
今、玄斎が求めているものは違う。
倒されないための立ち方ではない。
倒されても、次に動ける立ち方。
斬るためだけではない。
斬られないためだけでもない。
生き残るための立ち方。
昼前には、レンの足は震えていた。
玄斎はようやく言った。
「今日はここまでだ」
レンはその場に座り込みそうになった。
だが、玄斎の視線が飛んでくる。
「座るな」
「え」
「勝手に膝を折るな。座る時も、立つ時も稽古だ」
レンは歯を食いしばった。
倒れるように座りたい。
だが、それを許されない。
膝を折る。
腰を落とす。
手をつきたくなるのを堪え、ゆっくり座る。
ただ座るだけなのに、足が悲鳴を上げた。
玄斎は言う。
「飯を食え」
◇
大亀流道場での生活は、レンが想像していたものとは違った。
剣を振る時間は少ない。
少なすぎるほどだった。
朝は庭の掃除から始まる。
箒を持ち、落ち葉を集める。
ただし、玄斎は箒の持ち方にも口を出した。
「肩で掃くな」
「腕だけで動かすな」
「足を止めるな」
「腰を浮かせるな」
水汲みも稽古だった。
井戸から水を汲み、桶を運ぶ。
最初、レンは両腕の力で桶を持ち上げた。
すぐに肩が痛くなった。
玄斎は言った。
「腕で持つな」
「じゃあ何で持つんですか」
「身体で持て」
意味が分からなかった。
だが、何度も運ぶうちに少しずつ分かってきた。
腕だけで桶を支えると疲れる。
肩が上がる。
背中が固まる。
足が遅くなる。
だが、肘をわずかに緩め、背中と腰で重さを受けると、少しだけ楽になる。
歩く時も同じだった。
足だけで歩くのではない。
腰から進む。
頭を揺らしすぎない。
足音を殺そうとして足を固めるのではなく、余計な力を抜く。
薪割りも稽古だった。
斧を力任せに振り下ろせば、刃が木に食い込んで止まる。
力を入れているのに割れない。
玄斎は一度だけ斧を持った。
片腕で。
軽く振り下ろす。
ぱかん、と薪が割れた。
レンは目を丸くする。
「なんで」
「力を通しただけだ」
「力を入れたんじゃなくて?」
「力むことと、力を通すことは違う」
そう言われても、すぐには分からない。
だが、その言葉はレンの中に残った。
力むことと、力を通すことは違う。
それは後に、何度も思い出す言葉になる。
◇
道場には、他にも何人か弟子がいた。
大人の男が二人。
十代半ばほどの少年が三人。
少女が一人。
皆、レンを見る目は厳しかった。
宗一郎が拾ってきた孤児。
玄斎が黒鉄の姓を与えた子供。
それだけで、彼らの興味と反感を買うには十分だった。
特に少年たちは、レンを快く思っていないようだった。
ある日の午後。
玄斎が奥へ引っ込んだ後、少年の一人がレンに近づいてきた。
年は十四くらい。
背はレンよりずっと高い。
手には木刀。
「お前、前世の剣がどうとか言ってたんだって?」
レンは庭の隅で、足運びの稽古をしていた。
「言ってない」
「宗一郎さんが言ってたぞ」
あの男、余計なことを。
レンは内心で舌打ちした。
少年は木刀を肩に担ぐ。
「玄斎様に名前をもらったからって、調子に乗るなよ」
「乗ってない」
「なら、ちょっと打ってこいよ」
少年はにやりと笑う。
「剣士なんだろ?」
レンは木刀を握った。
断るべきか。
いや、断れば余計に絡まれる。
それに、実際にどれほど通じるのか試したい気持ちもあった。
レンは構えた。
正眼。
少年はそれを見て鼻で笑う。
「変な構えだな」
レンは答えない。
相手を見る。
肩。
手元。
腰。
足。
前世で教わった通りに観察する。
少年が踏み込んだ。
速い。
前世で戦った同年代とは比べものにならない。
木刀が真っ直ぐ振り下ろされる。
レンは咄嗟に受けた。
重い。
腕が痺れる。
力の差がある。
だが、受けられないほどではない。
レンは横へ流れようとした。
しかし足が遅れた。
少年の蹴りが、レンの脛を軽く払う。
身体が崩れる。
木刀が肩に当たった。
痛みが走る。
「ほら、どうした」
少年が笑う。
レンは歯を食いしばって立つ。
今度はこちらから踏み込んだ。
前世の面打ち。
真っ直ぐ、最短で。
だが、少年は半歩下がるだけで避けた。
レンの木刀は空を切る。
次の瞬間、腹に木刀の柄が入った。
「がっ……!」
膝が折れそうになる。
しかし倒れない。
レンは倒れかけた身体を利用して、下から木刀を振り上げた。
少年の目が僅かに開く。
木刀は少年の腕をかすめた。
当たった。
完全ではない。
かすっただけ。
だが、当てた。
少年の顔から笑みが消える。
「この……!」
少年が本気で踏み込もうとした瞬間。
「そこまでだ」
玄斎の声が響いた。
道場全体が凍ったように静かになる。
少年は慌てて木刀を下げた。
「玄斎様、これは」
「言い訳は聞かん」
玄斎はレンを見る。
「お前もだ」
「はい」
「今のは剣ではない」
レンは唇を噛んだ。
自分でも分かっていた。
最後の一撃は、技ではない。
倒れかけた身体を無理やり使っただけ。
前世の剣道でもない。
大亀流でもない。
ただ、食い下がっただけだった。
だが玄斎は続けた。
「だが、目は悪くなかった」
レンは顔を上げた。
「倒れかけても相手を見ていた。それだけはよい」
少年が悔しそうに顔を歪める。
玄斎は少年にも言った。
「お前は相手を子供と見た。だから腕をかすめられた」
「……はい」
「相手が何であれ、倒れるまでは敵だ」
玄斎の言葉は、レンにも突き刺さった。
倒れるまでは敵。
いや、倒れても死んでいなければ敵。
それは、昨日レンが玄斎に言った言葉と同じだった。
死んでいない。
だから負けていない。
玄斎はレンへ向き直る。
「明日から、素振りを許す」
レンの胸が跳ねた。
「本当ですか」
「ただし、お前の剣道の素振りではない」
玄斎は道場の奥から一本の木刀を取った。
片腕で軽く構える。
それは、レンの知るどの構えとも違っていた。
低い。
しかし沈みすぎていない。
上体は力んでいない。
木刀はすぐにでも振れる位置にありながら、無理に構えている感じがない。
静かだった。
だが、次の瞬間にはどこへでも飛び出しそうだった。
「大亀流は、五つの型を持つ」
玄斎の声が道場に響く。
「雷電型」
玄斎の足が、音もなく前へ滑った。
「焔燃型」
木刀が重く振り下ろされる。
「虚空型」
身体がふっと視界からずれる。
「水龍型」
刃筋が途中で変わる。
「土公型」
木刀が相手の武器を叩き折るような軌道を描く。
レンは息を忘れて見ていた。
五つの動き。
どれも違う。
速さ。
重さ。
消え方。
変化。
破壊。
だが、すべて同じ根から生えているように見えた。
玄斎は木刀を下ろす。
「五剣」
「五剣……」
「お前には、まず一式を教える」
レンは木刀を握る手に力を込めた。
ようやく剣を教わる。
そう思った。
だが玄斎は釘を刺すように言う。
「喜ぶな」
「……はい」
「型を覚えることと、型を使えることは違う」
レンは頷いた。
その意味はまだ分からない。
だが、分からないなりに、今の演武を見れば理解できた。
玄斎の動きは、自分の素振りとは根本から違う。
腕で振っているのではない。
足だけで動いているのでもない。
全身が一つの流れになっていた。
そして、その流れの中に木刀がある。
木刀を振るのではない。
身体の動きの先に、刃がある。
レンは初めて、自分が剣を腕で振っていたのだと気づいた。
◇
翌日から、レンの稽古はさらに厳しくなった。
まずは雷電型一式。
雷電型。
大亀流五剣ノ一。
電光石火の速さを信条とする型。
玄斎はそう説明した。
レンは胸を高鳴らせた。
速さ。
踏み込み。
間合いを潰す技。
小柄な自分にも合うかもしれない。
だが、稽古は想像とはまるで違った。
「走るな」
玄斎が言う。
「速く動こうとするな」
「雷電型なのに?」
「速く動こうとする者ほど、遅い」
レンはまた意味が分からなかった。
雷電型なのに、速く動くなと言われる。
だが、玄斎の言う通りにしなければ倒される。
雷電型一式は、奇妙な構えから始まった。
正面から構えるのではない。
重心をわずかにずらし、相手の間合いの外にいるようでいて、いつでも内側へ滑り込める状態を作る。
大事なのは、踏み込む前に身体を固めないこと。
足で蹴るのではなく、重心を落とすこと。
落ちる力を前へ変えること。
玄斎は繰り返し言った。
「蹴るな」
「落ちろ」
「足で行くな」
「身体を運べ」
「剣を出すな」
「剣がついてくるようにしろ」
レンは何度も失敗した。
足で蹴ってしまう。
肩に力が入る。
木刀を先に振ろうとする。
踏み込みの瞬間、目が狙いを見すぎる。
そのたびに玄斎の木刀が飛んでくる。
額。
肩。
膝。
脇腹。
痛みで身体が覚えていく。
だが、不思議なことに、雷電型の稽古だけは楽しかった。
身体が小さいことが、不利に感じなかった。
むしろ、軽い身体が前へ落ちる感覚と噛み合う。
一瞬、地面が消えるような感覚。
足で進むのではなく、身体が先に滑る感覚。
ほんのわずかだが、それを掴める瞬間があった。
玄斎もそれに気づいていた。
夕方。
何度目かの踏み込みの後、玄斎は低く言った。
「雷電に向いているな」
レンは息を切らしながら顔を上げる。
「本当ですか」
「浮かれるな」
「はい」
「向いていることと、使えることは違う」
それでも、レンの胸は熱くなった。
向いている。
初めてそう言われた。
前世では天才ではなかった。
努力して、並より少し上。
その程度だった。
だが、この世界で。
大亀流で。
自分には向いているものがあるかもしれない。
玄斎は続ける。
「お前は軽い。反応も悪くない。倒れかけても目が死なぬ」
「はい」
「だが、速さに逃げるな」
レンは黙って聞いた。
「速さは強い」
玄斎の声は静かだった。
「だが、速さに頼る者は、速さを読まれた瞬間に死ぬ」
レンは昨日の少年との手合わせを思い出した。
自分の面打ちは半歩下がられただけで空を切った。
速く打ったつもりだった。
だが、来る場所が分かっていれば避けられる。
玄斎は木刀を地面に立てる。
「雷電型は、ただ速く斬る型ではない」
「じゃあ、何なんですか」
「相手の反応を置き去りにする型だ」
レンはその言葉を胸の中で繰り返した。
相手の反応を置き去りにする。
ただ足が速いだけではない。
ただ剣速があるだけでもない。
相手が反応しようとした瞬間には、もう間合いの内側にいる。
相手が防ごうとした時には、もう次の一撃が来ている。
それが雷電型。
レンは木刀を握り直した。
「もう一回、お願いします」
玄斎は眉を上げる。
「足は震えているぞ」
「まだ立てます」
「腕も上がっておらん」
「まだ握れます」
「倒れるぞ」
「死んでません」
玄斎はしばらくレンを見ていた。
そして、わずかに笑った。
「なら、来い」
レンは構えた。
奇妙な半身。
重心をわずかにずらす。
肩の力を抜く。
足で蹴らない。
落ちる。
前へ。
木刀が振られる。
玄斎の木刀が、それを軽く受けた。
次の瞬間、レンはまた庭に転がっていた。
けれど今度は、すぐに起きた。
土を払い、木刀を拾う。
構える。
倒される。
また立つ。
何度も。
何度も。
空が赤く染まり、山の影が長く伸びるまで、レンは雷電型一式を繰り返した。
身体は痛い。
息も苦しい。
足の裏は焼けるようだった。
だが、胸の奥には確かな熱があった。
剣道ではない。
まだ大亀流とも言えない。
けれど、レンはその日初めて、新しい剣の入口に触れた。
前世で動かなかった足。
雨の中で止まった足。
その足が、今は前へ出ようとしている。
玄斎は道場の縁側から、倒れても立ち上がるレンを見ていた。
そして誰にも聞こえないほど小さく呟く。
「雷電の亀の子か」
レンには聞こえなかった。
ただ、木刀を握り、もう一度構える。
立つ。
崩れる。
また立つ。
その繰り返しの中で、レン・クロガネの大亀流は、ようやく始まった。