大亀流道場に来てから、季節が一つ過ぎた。
山の朝は早い。
まだ空が白み始める前に、レンは目を覚ますようになっていた。
最初の頃は、玄斎の声で叩き起こされていた。
起きろ。
遅い。
飯を抜く。
その三つで、どれだけ眠くても身体が跳ね起きるようになった。
だが今では、玄斎に呼ばれる前に目が覚める。
薄い布団から抜け出し、冷えた床板に足をつける。
足裏で床を感じる。
冷たい。
硬い。
わずかに湿っている。
以前なら何も考えずに立ち上がっていた。
だが今は違う。
足の指を広げる。
踵に乗りすぎない。
つま先に逃げすぎない。
膝を固めない。
腰を浮かせない。
背中を反らせすぎない。
肩を落とす。
首を伸ばす。
呼吸を通す。
ただ立つ。
それだけで、稽古になる。
玄斎は最初に言った。
立つことからだ、と。
その意味を、レンは少しだけ理解し始めていた。
立てていなければ、歩けない。
歩けなければ、踏み込めない。
踏み込めなければ、斬れない。
斬れなければ、守れない。
つまり、剣は足の裏から始まっている。
それを知った時、レンは前世の自分がいかに竹刀だけを見ていたか思い知った。
面を打つ。
小手を打つ。
胴を打つ。
もちろん、それらも大事だった。
けれど今のレンが学んでいるのは、そのもっと手前にあるものだった。
倒れない立ち方ではない。
倒れても、次へ繋がる立ち方。
斬るための構えではない。
斬られず、崩されず、崩れても死なないための身体。
大亀流は、剣術である前に身体操作だった。
◇
朝の掃除を終えると、庭で足運びの稽古が始まる。
道場の庭には、玄斎が木の棒で引いた線がいくつも残っていた。
直線。
斜線。
円。
渦のような曲線。
その線の上を、レンは木刀を持たずに歩く。
最初はただ歩くだけだった。
次は腰を落として歩く。
次は足音を消して歩く。
次は目を閉じて歩く。
次は玄斎が投げる小石を避けながら歩く。
転べばやり直し。
線を踏み外せばやり直し。
足音が乱れればやり直し。
肩が上がればやり直し。
「足で歩くな」
玄斎は何度も言った。
「身体を運べ」
「足で歩いてるんじゃないんですか」
ある朝、レンは思わずそう聞いた。
玄斎は即座に木の棒でレンの脛を軽く叩いた。
「痛っ」
「足だけで歩くから、足を払われる」
「じゃあ、何で歩くんですか」
「重心だ」
「重心……」
「身体の重さがどこにあるかを知れ。重さが先へ行けば、足は後からついてくる」
レンは眉を寄せた。
言葉では分かる。
だが、身体では分からない。
試しに重心を前へ移そうとすると、ただ前のめりになる。
慌てて足を出す。
玄斎が棒で軽く肩を押す。
レンは転ぶ。
「それは倒れているだけだ」
「難しい……」
「当然だ」
玄斎は淡々と言う。
「簡単なら、誰も稽古などせん」
その言葉に、レンは黙って立ち上がった。
難しい。
だからやる。
前世で動けなかった自分を変えるには、簡単なことだけしていても仕方がない。
レンはもう一度、線の上に足を置いた。
足で歩くな。
重心を運べ。
その感覚を探し続ける。
◇
大亀流五剣の稽古は、昼過ぎから行われることが多かった。
玄斎はレンに、一つずつ型の入口を見せた。
雷電型。
焔燃型。
虚空型。
水龍型。
土公型。
五つの型は、まるで別の流派のように性質が違った。
最初に手応えを感じたのは、やはり雷電型だった。
重心を落とし、前へ滑る。
足で蹴るのではなく、身体を運ぶ。
相手が反応した後に、さらに壱、弐、参と攻撃を重ねる。
雷電型一式。
レンはこれを覚えるのが早かった。
早い、といっても玄斎に何度も転がされながらだ。
それでも、他の型よりは身体に合った。
小柄な身体。
軽い体重。
倒れかけても剣先を向けようとする癖。
それらが、雷電型の踏み込みと噛み合う瞬間があった。
玄斎もそれを認めた。
「雷電だけは、目が違うな」
「目?」
「踏み込む時に、怖がっておらん」
レンは一瞬、言葉に詰まった。
怖がっていない。
そう言われて、胸の奥が少しだけ痛んだ。
前世の最後。
自分は怖がった。
足を止めた。
だが今、雷電型で前へ出る瞬間だけは、確かに恐怖よりも熱が勝つ。
間合いを潰す。
相手へ入る。
逃げずに、前へ。
それが、レンには合っていた。
だが、玄斎はすぐに釘を刺す。
「だが、雷電に逃げるな」
「逃げる?」
「得意な型だけを振る者は、いずれ得意な型で死ぬ」
レンは黙った。
「お前は雷電に向いている。だからこそ、雷電に頼るな」
その意味を知るのは、もう少し後になる。
その頃のレンはまだ、雷電型で前へ出る感覚が楽しくて仕方なかった。
◇
焔燃型は、苦手だった。
大亀流五剣ノ二、焔燃型。
鉄をも寸断する破壊力を重視する型。
玄斎はまず、第一式・火柱を見せた。
片手で木刀を振り被り、空いた腕で持ち手側の肘裏を弾き上げる。
次の瞬間、木刀が鞭のようにしなり、地面を叩いた。
轟、と音がした。
庭の土が割れる。
レンは目を丸くした。
ただの木刀だ。
それなのに、斧を打ち込んだような跡が残っている。
「やってみろ」
玄斎に言われ、レンは同じように木刀を振り被った。
肘裏を弾く。
木刀を振り下ろす。
だが、音は軽かった。
ぺしん。
土の表面を叩いただけ。
レンは顔をしかめる。
「もう一度」
何度やっても同じだった。
力を入れれば肩が詰まる。
肘を弾けば木刀の軌道がぶれる。
振り下ろす瞬間に身体が浮く。
火柱のはずが、ただの不格好な振り下ろしになる。
玄斎は言う。
「腕で打つな」
「腕の技じゃないんですか」
「違う」
「でも、肘を弾いてます」
「肘だけ見ているからできん」
玄斎は再び火柱を見せた。
今度はゆっくり。
足裏。
膝。
腰。
背中。
肩。
肘。
手首。
その全部が一つの流れになっている。
肘を弾いているのではない。
全身で作った力を、肘で解放しているのだ。
「焔燃型は力の型ではない」
玄斎は言った。
「力を通す型だ」
レンは木刀を握り直した。
力を入れることと、力を通すことは違う。
以前薪割りで言われた言葉と同じだ。
だが、理解することとできることは別だった。
その日、レンの火柱は最後まで土を軽く叩くだけで終わった。
年上の弟子たちが、少し笑っていた。
レンは悔しかった。
だが、それ以上に痛感した。
自分は雷電型に向いている。
しかし、焔燃型ではまるで身体が使えていない。
得意な型だけを振る者は、得意な型で死ぬ。
玄斎の言葉が、少し重みを持った。
◇
虚空型は、もっと分からなかった。
大亀流五剣ノ三、虚空型。
剣捌きよりも体捌き。
相手の認識から外れ、死角へ入る型。
第一式・影縫。
玄斎が見せた時、レンは目を疑った。
玄斎は目の前にいた。
確かにいた。
それなのに、次の瞬間にはレンの視界の端にいた。
走っていない。
跳んでもいない。
消えたわけでもない。
ただ、レンの意識が一瞬だけ玄斎を見失った。
「今、何を……」
「見えていたはずだ」
「見えてません」
「見えていた。だが、見ていなかった」
玄斎は言った。
意味が分からない。
レンは何度も影縫を真似しようとした。
身体を回す。
脱力する。
横へずれる。
だが、ただ横に動くだけになる。
玄斎には全部見えている。
年上の弟子にも笑われる。
何より、自分自身でも分かる。
まったく消えていない。
「虚空型は、速さで消えるのではない」
玄斎は言った。
「相手の目が追う場所から外れる」
「目が追う場所……」
「人は見たいものを見る。見ているつもりの場所しか見ておらん。そこから外れろ」
レンは首を傾げた。
難しい。
雷電型は、まだ分かる。
前へ出る。
間合いを潰す。
反応を置き去りにする。
だが虚空型は、相手の意識を扱う。
前世の剣道でも、相手の意識を誘導することはあった。
フェイント。
崩し。
目線。
だが玄斎の影縫は、そのさらに奥にある。
レンには、まだ遠かった。
◇
水龍型は、苛立たしかった。
大亀流五剣ノ四、水龍型。
水のように変幻自在な太刀筋。
第一式・逆鱗。
振り下ろしの瞬間、左右の握りを入れ替え、斬撃の軌道を変える。
玄斎の逆鱗は、正面から来たと思えば斜めへずれ、防御の隙間を通り抜けるようだった。
レンは真似した。
握りを入れ替える。
軌道を変える。
だが、木刀が手の中で暴れた。
手首が痛い。
指が擦れる。
力を抜くと木刀が飛びそうになる。
力を入れると軌道が変わらない。
「手首でやるな」
玄斎が言う。
「握りを替える技なのに?」
「握りだけ替えるから遅い」
「じゃあ、どこで」
「肩と腰だ」
また肩と腰。
また全身。
レンは内心で呻いた。
どの型も、結局は腕だけではない。
雷電型も足だけではない。
焔燃型も腕力だけではない。
虚空型も横移動だけではない。
水龍型も手首だけではない。
剣を振るとは、身体全部を使うこと。
頭では分かる。
だが身体はついてこない。
水龍型の稽古を終えた頃、レンの手の皮はまた剥けていた。
玄斎はそれを見て言った。
「握りすぎだ」
「握らないと飛びます」
「飛ぶほど力が逃げている」
「……」
「握るのではない。刀を逃がさぬだけだ」
言葉だけなら簡単そうに聞こえる。
だが、実際はとんでもなく難しかった。
レンは何度も木刀を落とした。
そのたびに拾う。
握る。
落とす。
拾う。
また握る。
気づけば日が暮れていた。
◇
土公型は怖かった。
大亀流五剣ノ五、土公型。
焔燃型に似ているが、武器破壊と体勢崩しを重視する型。
第一式・荒神。
特殊な上段構えから、敵の武器を狙う。
刃と刃がぶつかる瞬間、刀を回転させ、激突速度を上げ、相手の武器を弾き飛ばす。
玄斎は古い木刀を二本用意した。
一本をレンに持たせ、もう一本を自分で持つ。
「受けろ」
「はい」
玄斎が振り下ろす。
レンは受けた。
次の瞬間、手の中の木刀が跳ねた。
腕が痺れる。
木刀が庭の端まで飛んだ。
レンは呆然とした。
自分の手の中から、武器が消えた。
もし実戦なら。
この瞬間、自分は死んでいる。
「拾え」
玄斎が言う。
レンは木刀を拾う。
もう一度。
また弾かれる。
拾う。
弾かれる。
拾う。
弾かれる。
十回も繰り返す頃には、手首が痺れて感覚がなくなっていた。
荒神は、武器を壊す技。
しかし、それ以上に相手の心を折る技だとレンは思った。
武器を弾かれる。
手元から剣が消える。
それだけで、身体が一瞬固まる。
その一瞬で斬られる。
土公型は派手ではない。
だが、怖い。
雷電型の速さとは違う怖さだった。
玄斎は言った。
「土公は武器を見る型ではない」
「武器破壊なのに?」
「武器の先にある勝ち筋を見る」
「勝ち筋……」
「敵は何で勝とうとしているか。それを折る」
レンは、弾き飛ばされた木刀を見た。
自分は剣で勝とうとしている。
だから剣を弾かれると止まる。
なら、剣を失っても止まらない自分にならなければならない。
前世の雨の日。
自分には竹刀も何もなかった。
それでも動かなければならなかった。
レンは、もう一度木刀を拾った。
◇
五剣の稽古が進むほど、レンは自分の偏りを知った。
雷電型は楽しい。
身体が前へ行きたがる。
踏み込む瞬間、胸が熱くなる。
紫電のように相手の間合いへ入り込む感覚を求めてしまう。
だが、焔燃型では力が通らない。
虚空型では認識から外れられない。
水龍型では軌道を変えられない。
土公型では相手の勝ち筋を見切れない。
つまり、今の自分は雷電型に逃げている。
玄斎の言った通りだった。
ある日の夕方、レンは庭で一人、木刀を振っていた。
雷電型一式。
構え。
重心を落とす。
前へ滑る。
壱。
弐。
参。
まだ遅い。
まだ硬い。
だが、最初よりは形になっている。
繰り返すうちに、レンは気づいた。
一式の踏み込みには、もっと先がある。
今の自分は、相手の反応を追っている。
だが、本当に雷電型が目指すのは、反応される前に入ること。
いや、違う。
反応した瞬間には、もう遅いところへ入ること。
なら、もっと速く。
もっと深く。
足で蹴るのではなく。
重心を落とす。
身体を前へ倒す。
倒れる力を利用する。
レンは構えた。
半身。
膝を曲げる。
身体を前へ預ける。
足で蹴るな。
落ちろ。
玄斎の声を思い出す。
レンは前へ倒れ込んだ。
その瞬間、身体が滑った。
思ったよりも速く。
思ったよりも深く。
視界が一気に流れた。
木刀を振る。
だが、身体がついてこなかった。
足がもつれる。
肩が遅れる。
木刀の先だけが流れ、身体が前に投げ出される。
「うわっ」
レンは庭に顔から突っ込んだ。
土が口に入る。
痛い。
鼻も打った。
だが、今の感覚。
ほんの一瞬だけ、身体が落ちて進んだ。
走ったのではない。
跳んだのでもない。
倒れる力を前へ変えた。
レンは土を吐き出しながら、立ち上がった。
もう一度。
構える。
膝を曲げる。
前へ倒れる。
今度は足を早く出しすぎた。
速度が死ぬ。
失敗。
もう一度。
今度は肩に力が入る。
木刀が遅れる。
失敗。
もう一度。
今度は転ぶ。
もう一度。
また転ぶ。
何度も転んでいるうちに、庭の土が服にこびりついた。
手の皮が剥ける。
膝を擦る。
それでもレンは止めなかった。
何かがある。
雷電型一式の先に。
ただの踏み込みではない何かが。
その時、道場の縁側から声がした。
「何をしておる」
玄斎だった。
レンはびくりとして振り返る。
玄斎はいつから見ていたのか、縁側に腰を下ろしていた。
「稽古です」
「転ぶ稽古か」
「違います」
「なら何だ」
レンは少し迷ってから答えた。
「雷電型の、一式の先です」
玄斎の目が細くなった。
「ほう」
「重心を落として、前へ行くのは分かりました。でも、もっと落とせば、もっと速く行ける気がして」
「それで顔から落ちたか」
「……はい」
玄斎はしばらく黙っていた。
怒られると思った。
勝手に型を変えるな、と言われると思った。
だが玄斎は、ゆっくり立ち上がった。
「見ていろ」
玄斎は庭に降りた。
片腕で木刀を持つ。
両膝をわずかに曲げる。
半身。
重心が、ほんの少し前へ傾く。
空気が張り詰めた。
次の瞬間。
玄斎の身体が、前へ落ちた。
いや、落ちたと思った時には、もうレンの横を通り過ぎていた。
遅れて、風が頬を撫でる。
玄斎は数歩先で止まっていた。
木刀の先が、仮想の敵を斬り抜いた形で止まっている。
レンは息を忘れた。
今のは、雷電型一式とは違う。
もっと速い。
もっと危うい。
倒れ込む力と脚力を合わせ、一直線に間合いを潰す技。
玄斎は振り返る。
「雷電型第二式」
レンの心臓が鳴った。
「紫電閃」
その名を聞いた瞬間、レンの中で何かが燃えた。
紫電閃。
雷電型第二式。
自分が今、無意識に辿ろうとしたもの。
しかし玄斎のそれは、レンの転倒とは比べものにならなかった。
倒れ込んでいるのに、崩れていない。
不安定なのに、刃筋が死んでいない。
危ういからこそ速い。
速いからこそ、外せば死ぬ。
玄斎は言う。
「本来なら、まだ早い」
レンは黙って聞く。
「紫電閃は、ただ速い技ではない。一定の間合いが必要で、発動前後の隙も大きい。読まれれば死ぬ。避けられても死ぬ。足場が悪ければ転ぶ」
玄斎はレンを見た。
「今のお前が使えば、十度に九度は自滅する」
「一度は?」
「相手も驚いて死ぬかもしれん」
レンは思わず笑いそうになった。
玄斎の口調は真面目だった。
だが、どこか試すような響きがあった。
「教えてください」
レンは頭を下げた。
玄斎はすぐには答えない。
山の風が庭を抜ける。
しばらくして、玄斎は低く言った。
「なぜ学びたい」
「強くなりたいからです」
「それだけか」
レンは木刀を握りしめた。
雨の日の記憶が蘇る。
動けなかった足。
迫る包丁。
泣いていた子供。
自分が動いたのは、遅すぎた。
あの時、もっと早く前へ出られていれば。
恐怖よりも先に身体が動いていれば。
「前へ出たいからです」
レンは答えた。
「怖くても、足が止まる前に」
玄斎は黙ってレンを見ていた。
その目が、わずかに深くなる。
「よかろう」
レンは顔を上げた。
「ただし、覚えるだけだ。使えると思うな」
「はい」
「紫電閃は、雷電型の才がある者ほど溺れる」
「溺れる?」
「速さは気持ちがよい」
玄斎は静かに言った。
「一度でも格下を斬れれば、自分が強くなったと錯覚する。だが、達人は踏み込む前にお前を見る。発動の気配を読む。間合いを外す。外されたお前は、そのまま死ぬ」
レンは頷いた。
「それでも、学ぶか」
「はい」
「ならば、まず転べ」
「え?」
「紫電閃は、倒れ込む力を使う。ならば、倒れ方を知らねばならん」
そこから始まった稽古は、想像以上に地味で痛かった。
前へ倒れる。
手をつかずに膝で受ける。
肩を抜く。
顎を引く。
木刀を離さない。
倒れたまま刃先を前へ向ける。
起き上がる。
また倒れる。
何度も。
何度も。
レンは呻いた。
「これ、紫電閃の稽古ですか」
「そうだ」
「斬ってません」
「斬る前に死なぬ稽古だ」
玄斎の声は容赦ない。
「倒れ込む技を使う者が、倒れ方を知らずにどうする」
言われてみれば、その通りだった。
紫電閃は、前へ倒れる力を使う。
ならば、失敗すれば本当に倒れる。
倒れた瞬間に剣を離せば死ぬ。
目を逸らせば死ぬ。
相手を見失えば死ぬ。
だから、まず転ぶ。
転んでも剣先を殺さない。
レンが得意だと言われた、崩れてから死なない身体。
それが、紫電閃の入口だった。
何度も転び、膝が腫れ、肘を擦りむいた頃。
レンは、ほんの少しだけ分かった。
倒れることは、終わりではない。
倒れる力も、前へ進む力にできる。
崩れも、技になる。
その日から、レンは雷電型第二式・紫電閃の稽古を始めた。
もちろん、まだ使えない。
玄斎の言う通り、十度に九度は自滅する。
前へ倒れすぎる。
足が追いつかない。
木刀が遅れる。
肩が詰まる。
刃筋がぶれる。
止まれない。
転ぶ。
それでもレンは、紫電閃に惹かれた。
前へ出る技。
恐怖より先に、身体を投げ出す技。
だが、前世のようにただ身を投げるのではない。
倒れる力を制御し、刃へ変える技。
レンにとって、それはただの剣技ではなかった。
自分の後悔を、形に変えるための技だった。
◇
夜。
稽古を終えたレンは、道場の縁側に座っていた。
膝には布が巻かれている。
肘にも擦り傷がある。
身体中が痛い。
だが、不思議と眠くはなかった。
月明かりが庭を照らしている。
昼間、何度も転がった場所に、レンの足跡と身体の跡が残っていた。
その隣に、玄斎が腰を下ろす。
無言で小さな湯呑みを差し出された。
中には薄い茶が入っていた。
レンは受け取る。
「ありがとうございます」
玄斎は何も言わない。
しばらく、二人は黙って庭を見ていた。
やがて玄斎が口を開く。
「宗一郎は、お前を虫けらと言っていた」
「俺にも言いました」
「褒め言葉だ」
「半分は馬鹿にしてるって言ってました」
「なら、残り半分を受け取れ」
レンは湯呑みを見つめた。
「虫けらって、どういう意味ですか」
「踏まれても、潰れきらぬものだ」
「……あまり格好よくないです」
「格好で生き残れるなら、誰も苦労せん」
玄斎は淡々と言う。
「お前は立つのが上手いわけではない」
「はい」
「剣が上手いわけでもない」
「はい」
「だが、崩れてから目を逸らさぬ」
レンは黙った。
「それは才だ」
才。
その言葉は、レンの胸に静かに落ちた。
前世で、自分は天才ではなかった。
剣道でも、特別な選手ではなかった。
ただ続けていただけ。
最後には恐怖で足を止めた。
そんな自分に、才があると言われた。
それは嬉しさよりも、重かった。
「才は使い方を誤れば死因になる」
玄斎は続ける。
「雷電型も同じだ。お前は雷電に向いている。紫電閃にも惹かれておる。だが、それに溺れれば早死にする」
「……はい」
「五剣を学べ」
玄斎の声が、夜の庭に静かに響く。
「雷電で入り、焔燃で砕き、虚空で外れ、水龍で惑わせ、土公で折る」
「五つ全部を、ですか」
「当たり前だ」
玄斎はレンを見た。
「大亀流は、速いだけの剣ではない」
レンは頷いた。
五剣。
雷電だけでは足りない。
前へ出るだけでは、きっといつか止められる。
それでも、レンは自分の中にある熱を否定できなかった。
紫電閃。
その名が、胸の奥で光っている。
前へ。
もっと速く。
恐怖よりも先に。
レンは湯呑みを両手で持ち、静かに言った。
「俺、覚えます」
「何をだ」す
「五剣も、紫電閃も」
玄斎は小さく鼻を鳴らす。
「欲張りだな」
「駄目ですか」
「駄目なら教えん」
それだけ言って、玄斎は立ち上がった。
道場の奥へ戻る背中を見送りながら、レンはもう一度庭を見た。
昼間、転び続けた場所。
そこに月明かりが落ちている。
レンは膝の痛みを感じながら、ゆっくりと立ち上がった。
足裏で床を感じる。
膝を固めない。
腰を浮かせない。
肩を落とす。
呼吸を通す。
立つ。
まだ完璧には程遠い。
だが、昨日よりは少しだけ分かる。
レンは庭に降り、木刀を取った。
雷電型一式の構え。
そこから、紫電閃の入口へ。
膝を曲げる。
重心を前へ。
倒れる。
まだ、速さにはならない。
身体が崩れる。
レンは転んだ。
土がつく。
膝が痛む。
だが、木刀は離さなかった。
剣先は、前を向いていた。
レンは笑った。
まだだ。
まだ、全然届かない。
けれど、足は前に出ている。
前世で止まった足が、今は前へ倒れようとしている。
それだけで十分だった。
レンは立ち上がる。
もう一度、構える。
大亀流雷電型。
その二式、紫電閃。
いつか必ず、この身体に刻み込む。
山奥の夜。
誰も見ていない庭で、レン・クロガネはまた転んだ。
そして、また立った。