無職転生×異伝   作:からし明太子

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第三話 雷電型の亀の子

 

 大亀流道場に来てから、季節が一つ過ぎた。

 

 山の朝は早い。

 

 まだ空が白み始める前に、レンは目を覚ますようになっていた。

 

 最初の頃は、玄斎の声で叩き起こされていた。

 

 起きろ。

 

 遅い。

 

 飯を抜く。

 

 その三つで、どれだけ眠くても身体が跳ね起きるようになった。

 

 だが今では、玄斎に呼ばれる前に目が覚める。

 

 薄い布団から抜け出し、冷えた床板に足をつける。

 

 足裏で床を感じる。

 

 冷たい。

 

 硬い。

 

 わずかに湿っている。

 

 以前なら何も考えずに立ち上がっていた。

 

 だが今は違う。

 

 足の指を広げる。

 

 踵に乗りすぎない。

 

 つま先に逃げすぎない。

 

 膝を固めない。

 

 腰を浮かせない。

 

 背中を反らせすぎない。

 

 肩を落とす。

 

 首を伸ばす。

 

 呼吸を通す。

 

 ただ立つ。

 

 それだけで、稽古になる。

 

 玄斎は最初に言った。

 

 立つことからだ、と。

 

 その意味を、レンは少しだけ理解し始めていた。

 

 立てていなければ、歩けない。

 

 歩けなければ、踏み込めない。

 

 踏み込めなければ、斬れない。

 

 斬れなければ、守れない。

 

 つまり、剣は足の裏から始まっている。

 

 それを知った時、レンは前世の自分がいかに竹刀だけを見ていたか思い知った。

 

 面を打つ。

 

 小手を打つ。

 

 胴を打つ。

 

 もちろん、それらも大事だった。

 

 けれど今のレンが学んでいるのは、そのもっと手前にあるものだった。

 

 倒れない立ち方ではない。

 

 倒れても、次へ繋がる立ち方。

 

 斬るための構えではない。

 

 斬られず、崩されず、崩れても死なないための身体。

 

 大亀流は、剣術である前に身体操作だった。

 

 ◇

 

 朝の掃除を終えると、庭で足運びの稽古が始まる。

 

 道場の庭には、玄斎が木の棒で引いた線がいくつも残っていた。

 

 直線。

 

 斜線。

 

 円。

 

 渦のような曲線。

 

 その線の上を、レンは木刀を持たずに歩く。

 

 最初はただ歩くだけだった。

 

 次は腰を落として歩く。

 

 次は足音を消して歩く。

 

 次は目を閉じて歩く。

 

 次は玄斎が投げる小石を避けながら歩く。

 

 転べばやり直し。

 

 線を踏み外せばやり直し。

 

 足音が乱れればやり直し。

 

 肩が上がればやり直し。

 

「足で歩くな」

 

 玄斎は何度も言った。

 

「身体を運べ」

 

「足で歩いてるんじゃないんですか」

 

 ある朝、レンは思わずそう聞いた。

 

 玄斎は即座に木の棒でレンの脛を軽く叩いた。

 

「痛っ」

 

「足だけで歩くから、足を払われる」

 

「じゃあ、何で歩くんですか」

 

「重心だ」

 

「重心……」

 

「身体の重さがどこにあるかを知れ。重さが先へ行けば、足は後からついてくる」

 

 レンは眉を寄せた。

 

 言葉では分かる。

 

 だが、身体では分からない。

 

 試しに重心を前へ移そうとすると、ただ前のめりになる。

 

 慌てて足を出す。

 

 玄斎が棒で軽く肩を押す。

 

 レンは転ぶ。

 

「それは倒れているだけだ」

 

「難しい……」

 

「当然だ」

 

 玄斎は淡々と言う。

 

「簡単なら、誰も稽古などせん」

 

 その言葉に、レンは黙って立ち上がった。

 

 難しい。

 

 だからやる。

 

 前世で動けなかった自分を変えるには、簡単なことだけしていても仕方がない。

 

 レンはもう一度、線の上に足を置いた。

 

 足で歩くな。

 

 重心を運べ。

 

 その感覚を探し続ける。

 

 ◇

 

 大亀流五剣の稽古は、昼過ぎから行われることが多かった。

 

 玄斎はレンに、一つずつ型の入口を見せた。

 

 雷電型。

 

 焔燃型。

 

 虚空型。

 

 水龍型。

 

 土公型。

 

 五つの型は、まるで別の流派のように性質が違った。

 

 最初に手応えを感じたのは、やはり雷電型だった。

 

 重心を落とし、前へ滑る。

 

 足で蹴るのではなく、身体を運ぶ。

 

 相手が反応した後に、さらに壱、弐、参と攻撃を重ねる。

 

 雷電型一式。

 

 レンはこれを覚えるのが早かった。

 

 早い、といっても玄斎に何度も転がされながらだ。

 

 それでも、他の型よりは身体に合った。

 

 小柄な身体。

 

 軽い体重。

 

 倒れかけても剣先を向けようとする癖。

 

 それらが、雷電型の踏み込みと噛み合う瞬間があった。

 

 玄斎もそれを認めた。

 

「雷電だけは、目が違うな」

 

「目?」

 

「踏み込む時に、怖がっておらん」

 

 レンは一瞬、言葉に詰まった。

 

 怖がっていない。

 

 そう言われて、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 

 前世の最後。

 

 自分は怖がった。

 

 足を止めた。

 

 だが今、雷電型で前へ出る瞬間だけは、確かに恐怖よりも熱が勝つ。

 

 間合いを潰す。

 

 相手へ入る。

 

 逃げずに、前へ。

 

 それが、レンには合っていた。

 

 だが、玄斎はすぐに釘を刺す。

 

「だが、雷電に逃げるな」

 

「逃げる?」

 

「得意な型だけを振る者は、いずれ得意な型で死ぬ」

 

 レンは黙った。

 

「お前は雷電に向いている。だからこそ、雷電に頼るな」

 

 その意味を知るのは、もう少し後になる。

 

 その頃のレンはまだ、雷電型で前へ出る感覚が楽しくて仕方なかった。

 

 ◇

 

 焔燃型は、苦手だった。

 

 大亀流五剣ノ二、焔燃型。

 

 鉄をも寸断する破壊力を重視する型。

 

 玄斎はまず、第一式・火柱を見せた。

 

 片手で木刀を振り被り、空いた腕で持ち手側の肘裏を弾き上げる。

 

 次の瞬間、木刀が鞭のようにしなり、地面を叩いた。

 

 轟、と音がした。

 

 庭の土が割れる。

 

 レンは目を丸くした。

 

 ただの木刀だ。

 

 それなのに、斧を打ち込んだような跡が残っている。

 

「やってみろ」

 

 玄斎に言われ、レンは同じように木刀を振り被った。

 

 肘裏を弾く。

 

 木刀を振り下ろす。

 

 だが、音は軽かった。

 

 ぺしん。

 

 土の表面を叩いただけ。

 

 レンは顔をしかめる。

 

「もう一度」

 

 何度やっても同じだった。

 

 力を入れれば肩が詰まる。

 

 肘を弾けば木刀の軌道がぶれる。

 

 振り下ろす瞬間に身体が浮く。

 

 火柱のはずが、ただの不格好な振り下ろしになる。

 

 玄斎は言う。

 

「腕で打つな」

 

「腕の技じゃないんですか」

 

「違う」

 

「でも、肘を弾いてます」

 

「肘だけ見ているからできん」

 

 玄斎は再び火柱を見せた。

 

 今度はゆっくり。

 

 足裏。

 

 膝。

 

 腰。

 

 背中。

 

 肩。

 

 肘。

 

 手首。

 

 その全部が一つの流れになっている。

 

 肘を弾いているのではない。

 

 全身で作った力を、肘で解放しているのだ。

 

「焔燃型は力の型ではない」

 

 玄斎は言った。

 

「力を通す型だ」

 

 レンは木刀を握り直した。

 

 力を入れることと、力を通すことは違う。

 

 以前薪割りで言われた言葉と同じだ。

 

 だが、理解することとできることは別だった。

 

 その日、レンの火柱は最後まで土を軽く叩くだけで終わった。

 

 年上の弟子たちが、少し笑っていた。

 

 レンは悔しかった。

 

 だが、それ以上に痛感した。

 

 自分は雷電型に向いている。

 

 しかし、焔燃型ではまるで身体が使えていない。

 

 得意な型だけを振る者は、得意な型で死ぬ。

 

 玄斎の言葉が、少し重みを持った。

 

 ◇

 

 虚空型は、もっと分からなかった。

 

 大亀流五剣ノ三、虚空型。

 

 剣捌きよりも体捌き。

 

 相手の認識から外れ、死角へ入る型。

 

 第一式・影縫。

 

 玄斎が見せた時、レンは目を疑った。

 

 玄斎は目の前にいた。

 

 確かにいた。

 

 それなのに、次の瞬間にはレンの視界の端にいた。

 

 走っていない。

 

 跳んでもいない。

 

 消えたわけでもない。

 

 ただ、レンの意識が一瞬だけ玄斎を見失った。

 

「今、何を……」

 

「見えていたはずだ」

 

「見えてません」

 

「見えていた。だが、見ていなかった」

 

 玄斎は言った。

 

 意味が分からない。

 

 レンは何度も影縫を真似しようとした。

 

 身体を回す。

 

 脱力する。

 

 横へずれる。

 

 だが、ただ横に動くだけになる。

 

 玄斎には全部見えている。

 

 年上の弟子にも笑われる。

 

 何より、自分自身でも分かる。

 

 まったく消えていない。

 

「虚空型は、速さで消えるのではない」

 

 玄斎は言った。

 

「相手の目が追う場所から外れる」

 

「目が追う場所……」

 

「人は見たいものを見る。見ているつもりの場所しか見ておらん。そこから外れろ」

 

 レンは首を傾げた。

 

 難しい。

 

 雷電型は、まだ分かる。

 

 前へ出る。

 

 間合いを潰す。

 

 反応を置き去りにする。

 

 だが虚空型は、相手の意識を扱う。

 

 前世の剣道でも、相手の意識を誘導することはあった。

 

 フェイント。

 

 崩し。

 

 目線。

 

 だが玄斎の影縫は、そのさらに奥にある。

 

 レンには、まだ遠かった。

 

 ◇

 

 水龍型は、苛立たしかった。

 

 大亀流五剣ノ四、水龍型。

 

 水のように変幻自在な太刀筋。

 

 第一式・逆鱗。

 

 振り下ろしの瞬間、左右の握りを入れ替え、斬撃の軌道を変える。

 

 玄斎の逆鱗は、正面から来たと思えば斜めへずれ、防御の隙間を通り抜けるようだった。

 

 レンは真似した。

 

 握りを入れ替える。

 

 軌道を変える。

 

 だが、木刀が手の中で暴れた。

 

 手首が痛い。

 

 指が擦れる。

 

 力を抜くと木刀が飛びそうになる。

 

 力を入れると軌道が変わらない。

 

「手首でやるな」

 

 玄斎が言う。

 

「握りを替える技なのに?」

 

「握りだけ替えるから遅い」

 

「じゃあ、どこで」

 

「肩と腰だ」

 

 また肩と腰。

 

 また全身。

 

 レンは内心で呻いた。

 

 どの型も、結局は腕だけではない。

 

 雷電型も足だけではない。

 

 焔燃型も腕力だけではない。

 

 虚空型も横移動だけではない。

 

 水龍型も手首だけではない。

 

 剣を振るとは、身体全部を使うこと。

 

 頭では分かる。

 

 だが身体はついてこない。

 

 水龍型の稽古を終えた頃、レンの手の皮はまた剥けていた。

 

 玄斎はそれを見て言った。

 

「握りすぎだ」

 

「握らないと飛びます」

 

「飛ぶほど力が逃げている」

 

「……」

 

「握るのではない。刀を逃がさぬだけだ」

 

 言葉だけなら簡単そうに聞こえる。

 

 だが、実際はとんでもなく難しかった。

 

 レンは何度も木刀を落とした。

 

 そのたびに拾う。

 

 握る。

 

 落とす。

 

 拾う。

 

 また握る。

 

 気づけば日が暮れていた。

 

 ◇

 

 土公型は怖かった。

 

 大亀流五剣ノ五、土公型。

 

 焔燃型に似ているが、武器破壊と体勢崩しを重視する型。

 

 第一式・荒神。

 

 特殊な上段構えから、敵の武器を狙う。

 

 刃と刃がぶつかる瞬間、刀を回転させ、激突速度を上げ、相手の武器を弾き飛ばす。

 

 玄斎は古い木刀を二本用意した。

 

 一本をレンに持たせ、もう一本を自分で持つ。

 

「受けろ」

 

「はい」

 

 玄斎が振り下ろす。

 

 レンは受けた。

 

 次の瞬間、手の中の木刀が跳ねた。

 

 腕が痺れる。

 

 木刀が庭の端まで飛んだ。

 

 レンは呆然とした。

 

 自分の手の中から、武器が消えた。

 

 もし実戦なら。

 

 この瞬間、自分は死んでいる。

 

「拾え」

 

 玄斎が言う。

 

 レンは木刀を拾う。

 

 もう一度。

 

 また弾かれる。

 

 拾う。

 

 弾かれる。

 

 拾う。

 

 弾かれる。

 

 十回も繰り返す頃には、手首が痺れて感覚がなくなっていた。

 

 荒神は、武器を壊す技。

 

 しかし、それ以上に相手の心を折る技だとレンは思った。

 

 武器を弾かれる。

 

 手元から剣が消える。

 

 それだけで、身体が一瞬固まる。

 

 その一瞬で斬られる。

 

 土公型は派手ではない。

 

 だが、怖い。

 

 雷電型の速さとは違う怖さだった。

 

 玄斎は言った。

 

「土公は武器を見る型ではない」

 

「武器破壊なのに?」

 

「武器の先にある勝ち筋を見る」

 

「勝ち筋……」

 

「敵は何で勝とうとしているか。それを折る」

 

 レンは、弾き飛ばされた木刀を見た。

 

 自分は剣で勝とうとしている。

 

 だから剣を弾かれると止まる。

 

 なら、剣を失っても止まらない自分にならなければならない。

 

 前世の雨の日。

 

 自分には竹刀も何もなかった。

 

 それでも動かなければならなかった。

 

 レンは、もう一度木刀を拾った。

 

 ◇

 

 五剣の稽古が進むほど、レンは自分の偏りを知った。

 

 雷電型は楽しい。

 

 身体が前へ行きたがる。

 

 踏み込む瞬間、胸が熱くなる。

 

 紫電のように相手の間合いへ入り込む感覚を求めてしまう。

 

 だが、焔燃型では力が通らない。

 

 虚空型では認識から外れられない。

 

 水龍型では軌道を変えられない。

 

 土公型では相手の勝ち筋を見切れない。

 

 つまり、今の自分は雷電型に逃げている。

 

 玄斎の言った通りだった。

 

 ある日の夕方、レンは庭で一人、木刀を振っていた。

 

 雷電型一式。

 

 構え。

 

 重心を落とす。

 

 前へ滑る。

 

 壱。

 

 弐。

 

 参。

 

 まだ遅い。

 

 まだ硬い。

 

 だが、最初よりは形になっている。

 

 繰り返すうちに、レンは気づいた。

 

 一式の踏み込みには、もっと先がある。

 

 今の自分は、相手の反応を追っている。

 

 だが、本当に雷電型が目指すのは、反応される前に入ること。

 

 いや、違う。

 

 反応した瞬間には、もう遅いところへ入ること。

 

 なら、もっと速く。

 

 もっと深く。

 

 足で蹴るのではなく。

 

 重心を落とす。

 

 身体を前へ倒す。

 

 倒れる力を利用する。

 

 レンは構えた。

 

 半身。

 

 膝を曲げる。

 

 身体を前へ預ける。

 

 足で蹴るな。

 

 落ちろ。

 

 玄斎の声を思い出す。

 

 レンは前へ倒れ込んだ。

 

 その瞬間、身体が滑った。

 

 思ったよりも速く。

 

 思ったよりも深く。

 

 視界が一気に流れた。

 

 木刀を振る。

 

 だが、身体がついてこなかった。

 

 足がもつれる。

 

 肩が遅れる。

 

 木刀の先だけが流れ、身体が前に投げ出される。

 

「うわっ」

 

 レンは庭に顔から突っ込んだ。

 

 土が口に入る。

 

 痛い。

 

 鼻も打った。

 

 だが、今の感覚。

 

 ほんの一瞬だけ、身体が落ちて進んだ。

 

 走ったのではない。

 

 跳んだのでもない。

 

 倒れる力を前へ変えた。

 

 レンは土を吐き出しながら、立ち上がった。

 

 もう一度。

 

 構える。

 

 膝を曲げる。

 

 前へ倒れる。

 

 今度は足を早く出しすぎた。

 

 速度が死ぬ。

 

 失敗。

 

 もう一度。

 

 今度は肩に力が入る。

 

 木刀が遅れる。

 

 失敗。

 

 もう一度。

 

 今度は転ぶ。

 

 もう一度。

 

 また転ぶ。

 

 何度も転んでいるうちに、庭の土が服にこびりついた。

 

 手の皮が剥ける。

 

 膝を擦る。

 

 それでもレンは止めなかった。

 

 何かがある。

 

 雷電型一式の先に。

 

 ただの踏み込みではない何かが。

 

 その時、道場の縁側から声がした。

 

「何をしておる」

 

 玄斎だった。

 

 レンはびくりとして振り返る。

 

 玄斎はいつから見ていたのか、縁側に腰を下ろしていた。

 

「稽古です」

 

「転ぶ稽古か」

 

「違います」

 

「なら何だ」

 

 レンは少し迷ってから答えた。

 

「雷電型の、一式の先です」

 

 玄斎の目が細くなった。

 

「ほう」

 

「重心を落として、前へ行くのは分かりました。でも、もっと落とせば、もっと速く行ける気がして」

 

「それで顔から落ちたか」

 

「……はい」

 

 玄斎はしばらく黙っていた。

 

 怒られると思った。

 

 勝手に型を変えるな、と言われると思った。

 

 だが玄斎は、ゆっくり立ち上がった。

 

「見ていろ」

 

 玄斎は庭に降りた。

 

 片腕で木刀を持つ。

 

 両膝をわずかに曲げる。

 

 半身。

 

 重心が、ほんの少し前へ傾く。

 

 空気が張り詰めた。

 

 次の瞬間。

 

 玄斎の身体が、前へ落ちた。

 

 いや、落ちたと思った時には、もうレンの横を通り過ぎていた。

 

 遅れて、風が頬を撫でる。

 

 玄斎は数歩先で止まっていた。

 

 木刀の先が、仮想の敵を斬り抜いた形で止まっている。

 

 レンは息を忘れた。

 

 今のは、雷電型一式とは違う。

 

 もっと速い。

 

 もっと危うい。

 

 倒れ込む力と脚力を合わせ、一直線に間合いを潰す技。

 

 玄斎は振り返る。

 

「雷電型第二式」

 

 レンの心臓が鳴った。

 

「紫電閃」

 

 その名を聞いた瞬間、レンの中で何かが燃えた。

 

 紫電閃。

 

 雷電型第二式。

 

 自分が今、無意識に辿ろうとしたもの。

 

 しかし玄斎のそれは、レンの転倒とは比べものにならなかった。

 

 倒れ込んでいるのに、崩れていない。

 

 不安定なのに、刃筋が死んでいない。

 

 危ういからこそ速い。

 

 速いからこそ、外せば死ぬ。

 

 玄斎は言う。

 

「本来なら、まだ早い」

 

 レンは黙って聞く。

 

「紫電閃は、ただ速い技ではない。一定の間合いが必要で、発動前後の隙も大きい。読まれれば死ぬ。避けられても死ぬ。足場が悪ければ転ぶ」

 

 玄斎はレンを見た。

 

「今のお前が使えば、十度に九度は自滅する」

 

「一度は?」

 

「相手も驚いて死ぬかもしれん」

 

 レンは思わず笑いそうになった。

 

 玄斎の口調は真面目だった。

 

 だが、どこか試すような響きがあった。

 

「教えてください」

 

 レンは頭を下げた。

 

 玄斎はすぐには答えない。

 

 山の風が庭を抜ける。

 

 しばらくして、玄斎は低く言った。

 

「なぜ学びたい」

 

「強くなりたいからです」

 

「それだけか」

 

 レンは木刀を握りしめた。

 

 雨の日の記憶が蘇る。

 

 動けなかった足。

 

 迫る包丁。

 

 泣いていた子供。

 

 自分が動いたのは、遅すぎた。

 

 あの時、もっと早く前へ出られていれば。

 

 恐怖よりも先に身体が動いていれば。

 

「前へ出たいからです」

 

 レンは答えた。

 

「怖くても、足が止まる前に」

 

 玄斎は黙ってレンを見ていた。

 

 その目が、わずかに深くなる。

 

「よかろう」

 

 レンは顔を上げた。

 

「ただし、覚えるだけだ。使えると思うな」

 

「はい」

 

「紫電閃は、雷電型の才がある者ほど溺れる」

 

「溺れる?」

 

「速さは気持ちがよい」

 

 玄斎は静かに言った。

 

「一度でも格下を斬れれば、自分が強くなったと錯覚する。だが、達人は踏み込む前にお前を見る。発動の気配を読む。間合いを外す。外されたお前は、そのまま死ぬ」

 

 レンは頷いた。

 

「それでも、学ぶか」

 

「はい」

 

「ならば、まず転べ」

 

「え?」

 

「紫電閃は、倒れ込む力を使う。ならば、倒れ方を知らねばならん」

 

 そこから始まった稽古は、想像以上に地味で痛かった。

 

 前へ倒れる。

 

 手をつかずに膝で受ける。

 

 肩を抜く。

 

 顎を引く。

 

 木刀を離さない。

 

 倒れたまま刃先を前へ向ける。

 

 起き上がる。

 

 また倒れる。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 レンは呻いた。

 

「これ、紫電閃の稽古ですか」

 

「そうだ」

 

「斬ってません」

 

「斬る前に死なぬ稽古だ」

 

 玄斎の声は容赦ない。

 

「倒れ込む技を使う者が、倒れ方を知らずにどうする」

 

 言われてみれば、その通りだった。

 

 紫電閃は、前へ倒れる力を使う。

 

 ならば、失敗すれば本当に倒れる。

 

 倒れた瞬間に剣を離せば死ぬ。

 

 目を逸らせば死ぬ。

 

 相手を見失えば死ぬ。

 

 だから、まず転ぶ。

 

 転んでも剣先を殺さない。

 

 レンが得意だと言われた、崩れてから死なない身体。

 

 それが、紫電閃の入口だった。

 

 何度も転び、膝が腫れ、肘を擦りむいた頃。

 

 レンは、ほんの少しだけ分かった。

 

 倒れることは、終わりではない。

 

 倒れる力も、前へ進む力にできる。

 

 崩れも、技になる。

 

 その日から、レンは雷電型第二式・紫電閃の稽古を始めた。

 

 もちろん、まだ使えない。

 

 玄斎の言う通り、十度に九度は自滅する。

 

 前へ倒れすぎる。

 

 足が追いつかない。

 

 木刀が遅れる。

 

 肩が詰まる。

 

 刃筋がぶれる。

 

 止まれない。

 

 転ぶ。

 

 それでもレンは、紫電閃に惹かれた。

 

 前へ出る技。

 

 恐怖より先に、身体を投げ出す技。

 

 だが、前世のようにただ身を投げるのではない。

 

 倒れる力を制御し、刃へ変える技。

 

 レンにとって、それはただの剣技ではなかった。

 

 自分の後悔を、形に変えるための技だった。

 

 ◇

 

 夜。

 

 稽古を終えたレンは、道場の縁側に座っていた。

 

 膝には布が巻かれている。

 

 肘にも擦り傷がある。

 

 身体中が痛い。

 

 だが、不思議と眠くはなかった。

 

 月明かりが庭を照らしている。

 

 昼間、何度も転がった場所に、レンの足跡と身体の跡が残っていた。

 

 その隣に、玄斎が腰を下ろす。

 

 無言で小さな湯呑みを差し出された。

 

 中には薄い茶が入っていた。

 

 レンは受け取る。

 

「ありがとうございます」

 

 玄斎は何も言わない。

 

 しばらく、二人は黙って庭を見ていた。

 

 やがて玄斎が口を開く。

 

「宗一郎は、お前を虫けらと言っていた」

 

「俺にも言いました」

 

「褒め言葉だ」

 

「半分は馬鹿にしてるって言ってました」

 

「なら、残り半分を受け取れ」

 

 レンは湯呑みを見つめた。

 

「虫けらって、どういう意味ですか」

 

「踏まれても、潰れきらぬものだ」

 

「……あまり格好よくないです」

 

「格好で生き残れるなら、誰も苦労せん」

 

 玄斎は淡々と言う。

 

「お前は立つのが上手いわけではない」

 

「はい」

 

「剣が上手いわけでもない」

 

「はい」

 

「だが、崩れてから目を逸らさぬ」

 

 レンは黙った。

 

「それは才だ」

 

 才。

 

 その言葉は、レンの胸に静かに落ちた。

 

 前世で、自分は天才ではなかった。

 

 剣道でも、特別な選手ではなかった。

 

 ただ続けていただけ。

 

 最後には恐怖で足を止めた。

 

 そんな自分に、才があると言われた。

 

 それは嬉しさよりも、重かった。

 

「才は使い方を誤れば死因になる」

 

 玄斎は続ける。

 

「雷電型も同じだ。お前は雷電に向いている。紫電閃にも惹かれておる。だが、それに溺れれば早死にする」

 

「……はい」

 

「五剣を学べ」

 

 玄斎の声が、夜の庭に静かに響く。

 

「雷電で入り、焔燃で砕き、虚空で外れ、水龍で惑わせ、土公で折る」

 

「五つ全部を、ですか」

 

「当たり前だ」

 

 玄斎はレンを見た。

 

「大亀流は、速いだけの剣ではない」

 

 レンは頷いた。

 

 五剣。

 

 雷電だけでは足りない。

 

 前へ出るだけでは、きっといつか止められる。

 

 それでも、レンは自分の中にある熱を否定できなかった。

 

 紫電閃。

 

 その名が、胸の奥で光っている。

 

 前へ。

 

 もっと速く。

 

 恐怖よりも先に。

 

 レンは湯呑みを両手で持ち、静かに言った。

 

「俺、覚えます」

 

「何をだ」す

 

「五剣も、紫電閃も」

 

 玄斎は小さく鼻を鳴らす。

 

「欲張りだな」

 

「駄目ですか」

 

「駄目なら教えん」

 

 それだけ言って、玄斎は立ち上がった。

 

 道場の奥へ戻る背中を見送りながら、レンはもう一度庭を見た。

 

 昼間、転び続けた場所。

 

 そこに月明かりが落ちている。

 

 レンは膝の痛みを感じながら、ゆっくりと立ち上がった。

 

 足裏で床を感じる。

 

 膝を固めない。

 

 腰を浮かせない。

 

 肩を落とす。

 

 呼吸を通す。

 

 立つ。

 

 まだ完璧には程遠い。

 

 だが、昨日よりは少しだけ分かる。

 

 レンは庭に降り、木刀を取った。

 

 雷電型一式の構え。

 

 そこから、紫電閃の入口へ。

 

 膝を曲げる。

 

 重心を前へ。

 

 倒れる。

 

 まだ、速さにはならない。

 

 身体が崩れる。

 

 レンは転んだ。

 

 土がつく。

 

 膝が痛む。

 

 だが、木刀は離さなかった。

 

 剣先は、前を向いていた。

 

 レンは笑った。

 

 まだだ。

 

 まだ、全然届かない。

 

 けれど、足は前に出ている。

 

 前世で止まった足が、今は前へ倒れようとしている。

 

 それだけで十分だった。

 

 レンは立ち上がる。

 

 もう一度、構える。

 

 大亀流雷電型。

 

 その二式、紫電閃。

 

 いつか必ず、この身体に刻み込む。

 

 山奥の夜。

 

 誰も見ていない庭で、レン・クロガネはまた転んだ。

 

 そして、また立った。

 

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