無職転生×異伝   作:からし明太子

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第四話 紫電閃

 

 

 紫電閃の稽古は、転ぶことから始まった。

 

 朝も転ぶ。

 

 昼も転ぶ。

 

 夕方も転ぶ。

 

 夜、誰も見ていない庭でこっそり稽古しても転ぶ。

 

 レンは毎日のように土まみれになった。

 

 膝には布が巻かれ、肘には擦り傷が絶えず、肩は何度も打ちつけて青くなった。

 

 それでも玄斎は容赦しなかった。

 

「遅い」

 

 転ぶ。

 

「浅い」

 

 転ぶ。

 

「肩が出ている」

 

 転ぶ。

 

「足で蹴るな」

 

 転ぶ。

 

「剣が遅れている」

 

 転ぶ。

 

「目が先に死んだ」

 

 転ぶ。

 

 何度やっても、玄斎の言葉は変わらない。

 

 褒められることなど、ほとんどなかった。

 

 紫電閃。

 

 雷電型第二式。

 

 両膝を曲げた半身から、重力に身を任せるように前方へ倒れ込み、その落下速度と脚力を合わせ、一直線に敵の間合いを食い破る斬撃。

 

 言葉にすれば簡単だった。

 

 だが実際には、とんでもなく難しい。

 

 まず、倒れ込むことが怖い。

 

 顔から地面に落ちる感覚は、何度やっても身体が嫌がる。

 

 無意識に足が出る。

 

 手が出る。

 

 肩が固まる。

 

 腰が引ける。

 

 怖がった瞬間、速度は死ぬ。

 

 速度が死ねば、ただの不格好な踏み込みになる。

 

 逆に、怖がらずに倒れ込もうとすると、今度は本当に倒れる。

 

 足が追いつかない。

 

 刃が遅れる。

 

 身体だけが前に流れ、剣が置き去りになる。

 

 転ぶ。

 

 転んでも剣先を前に向ける。

 

 起きる。

 

 また転ぶ。

 

 その繰り返しだった。

 

 ◇

 

 玄斎は庭に三本の杭を立てた。

 

 一本目は、レンの立つ位置から一歩半ほど先。

 

 二本目は、さらにその奥。

 

 三本目は、そこからまた半歩ほど遠い。

 

 それぞれの杭には、細い紐で小さな鈴が吊るされている。

 

 風が吹けば、ちりん、と鳴る。

 

 玄斎はその前に立ち、言った。

 

「一つ目の鈴を鳴らせ」

 

 レンは木刀を握る。

 

 半身。

 

 膝を曲げる。

 

 重心を前へ。

 

 前に落ちる。

 

 身体が滑る。

 

 木刀を振る。

 

 ちりん。

 

 一つ目の鈴が鳴った。

 

「遅い」

 

 玄斎は即座に言った。

 

「鳴りました」

 

「鳴らすだけなら子供でもできる」

 

「俺、子供です」

 

 玄斎の木の棒が飛んできて、レンの額を軽く叩いた。

 

「口を動かすな。身体を動かせ」

 

「はい」

 

「次は二つ目だ」

 

 二つ目の鈴は遠い。

 

 ただ踏み込むだけでは届かない。

 

 紫電閃の形を取らなければ、木刀の先が届かない距離だった。

 

 レンは息を整える。

 

 膝を曲げる。

 

 身体を前へ預ける。

 

 怖がるな。

 

 倒れろ。

 

 ただし、崩れるな。

 

 重心を落とす。

 

 足は後から来る。

 

 刃は身体に遅れるな。

 

 レンは前へ出た。

 

 景色が流れる。

 

 鈴が近づく。

 

 木刀を振る。

 

 空を切った。

 

 鈴は鳴らない。

 

 次の瞬間、足がもつれ、レンは地面に転がった。

 

 玄斎が言う。

 

「遠くを斬ろうとしたな」

 

「届かせようとしました」

 

「だから届かん」

 

 レンは土を払いながら起き上がる。

 

「届かせようとしたら駄目なんですか」

 

「手を伸ばして届かせるな。身体ごと入れ」

 

「身体ごと……」

 

「剣だけ遠くへやるな。剣と身体を離すな」

 

 レンは二つ目の鈴を見る。

 

 遠い。

 

 だが、玄斎は何度も見せてくれた。

 

 あの距離を、片腕の老人が一瞬で潰す。

 

 老人の身体は、前へ倒れているようで崩れない。

 

 踏み込んでいるようで、蹴っていない。

 

 斬っているようで、剣だけを振っていない。

 

 全身が一つの矢になっている。

 

 レンは息を吸った。

 

 もう一度。

 

 構える。

 

 前へ。

 

 今度は、木刀を振ろうとしすぎた。

 

 肩が先に出る。

 

 身体がついてこない。

 

 木刀が鈴の少し手前を通り、また転んだ。

 

「肩」

 

 玄斎の声。

 

 起きる。

 

 もう一度。

 

 今度は足で蹴った。

 

 速く出たつもりだったが、地面を蹴った瞬間に身体が跳ね、刃筋が浮いた。

 

「足」

 

 起きる。

 

 もう一度。

 

 怖くなって腰が引けた。

 

「腰」

 

 起きる。

 

 もう一度。

 

 鈴を見すぎて、目が先に狙いを教えた。

 

「目」

 

 起きる。

 

 もう一度。

 

 呼吸が止まり、身体が固まった。

 

「息」

 

 起きる。

 

 もう一度。

 

 何度も繰り返す。

 

 やがてレンは、何が悪いのか分からなくなった。

 

 肩も意識した。

 

 足も意識した。

 

 腰も意識した。

 

 目も意識した。

 

 呼吸も意識した。

 

 なのに届かない。

 

 考えれば考えるほど身体がばらばらになる。

 

 木刀は遠くへ行きたがる。

 

 足は勝手に蹴りたがる。

 

 肩は力む。

 

 腰は引ける。

 

 目は鈴を追う。

 

 全部が違う方向へ動く。

 

 夕方になる頃には、レンは膝をついたまま荒く息をしていた。

 

 玄斎は淡々と言う。

 

「今日は終わりだ」

 

「まだ、できます」

 

「できておらん」

 

「だから、やります」

 

「今日は終わりだ」

 

 強い声ではなかった。

 

 だが、逆らえない声だった。

 

 レンは木刀を握ったまま、唇を噛む。

 

 悔しかった。

 

 二つ目の鈴に届かない。

 

 届く気がしたのに。

 

 あと少しのところで、身体が崩れる。

 

 玄斎は背を向けながら言った。

 

「焦る者ほど、足から死ぬ」

 

「……はい」

 

「足が死ねば、剣も死ぬ」

 

 レンは鈴を見た。

 

 二つ目の鈴は、風に揺れているだけだった。

 

 ちりん。

 

 自分が鳴らせなかった音が、山の風で鳴った。

 

 その音が、やけに悔しかった。

 

 ◇

 

 その夜、レンは眠れなかった。

 

 布団の中で目を閉じても、二つ目の鈴が浮かぶ。

 

 届かない距離。

 

 流れる景色。

 

 崩れる身体。

 

 玄斎の声。

 

 肩。

 

 足。

 

 腰。

 

 目。

 

 息。

 

 全部を直そうとすると、全部が駄目になる。

 

 レンは布団から起き上がった。

 

 外に出る。

 

 道場の庭には、月が落ちていた。

 

 三本の杭。

 

 三つの鈴。

 

 昼間と同じように、そこにある。

 

 レンは木刀を取った。

 

 勝手な稽古をすれば、玄斎に怒られるかもしれない。

 

 だが、眠れない。

 

 眠れないなら、立つしかない。

 

 レンは一つ目の鈴の前に立った。

 

 構える。

 

 膝を曲げる。

 

 前へ。

 

 ちりん。

 

 一つ目は鳴る。

 

 だが二つ目は鳴らない。

 

 何度やっても同じだった。

 

 やがて、また転んだ。

 

 土が頬につく。

 

 レンは倒れたまま、夜空を見上げた。

 

 月が丸い。

 

 静かだった。

 

 昼間のように、誰かが見ているわけではない。

 

 弟子たちの視線もない。

 

 玄斎の声もない。

 

 ただ、自分の呼吸だけがある。

 

 レンはそのまま、前世のことを思い出した。

 

 雨の日。

 

 通り魔。

 

 包丁。

 

 動けなかった足。

 

 自分は、あの時も考えていた。

 

 動かないと。

 

 助けないと。

 

 踏み込まないと。

 

 そう考えている間に、足が止まった。

 

 考えたから、止まったのかもしれない。

 

 怖かったから。

 

 失敗したら刺されると思ったから。

 

 間に合わなかったらどうしようと思ったから。

 

 どう動けばいいか分からなかったから。

 

 全部を考えて、全部が止まった。

 

 レンはゆっくり起き上がった。

 

 木刀を拾う。

 

 今度は、何も考えないようにした。

 

 肩を意識しない。

 

 足を意識しない。

 

 腰を意識しない。

 

 目を鈴に縛られない。

 

 ただ、前へ。

 

 怖くなる前に。

 

 身体が迷う前に。

 

 レンは息を吐いた。

 

 半身。

 

 膝を曲げる。

 

 重心が前へ傾く。

 

 倒れる。

 

 いや、落ちる。

 

 足が勝手に出る。

 

 木刀が遅れない。

 

 身体と一緒に刃が走る。

 

 景色が流れた。

 

 ちりん。

 

 二つ目の鈴が鳴った。

 

 レンは止まれなかった。

 

 そのまま勢い余って転がり、庭の端で土に突っ込んだ。

 

 痛い。

 

 だが、鳴った。

 

 今、鳴った。

 

 レンは顔を上げる。

 

 二つ目の鈴が、まだ小さく揺れていた。

 

 ちりん。

 

 胸が熱くなる。

 

 届いた。

 

 初めて、届いた。

 

 その時、縁側から声がした。

 

「今の感覚を忘れるな」

 

 レンは飛び起きた。

 

「玄斎様」

 

 玄斎が縁側に座っていた。

 

 いつからいたのか分からない。

 

 夜の闇の中、老人は静かにレンを見ていた。

 

「見てたんですか」

 

「見ておらねば、夜に庭を荒らす馬鹿弟子を叱れん」

 

「すみません」

 

「謝るな」

 

 玄斎は庭へ降りた。

 

「今のは、少しだけ紫電閃だった」

 

 レンの胸が跳ねる。

 

「本当ですか」

 

「少しだけだ」

 

「少しでも、できたんですか」

 

「浮かれるな。止まれておらん。斬った後に死ぬ」

 

 レンの喜びが半分ほど萎んだ。

 

 しかし、完全には消えない。

 

 玄斎は二つ目の鈴を見る。

 

「だが、今の一歩は悪くなかった」

 

「何が違ったんですか」

 

「考えすぎておらんかった」

 

 レンは黙る。

 

「頭で身体を動かそうとすれば、身体は遅れる。だが、考えぬだけなら獣と同じだ」

 

「じゃあ、どうすれば」

 

「考えたものを、身体に沈めろ」

 

「沈める……」

 

「稽古とはそういうものだ。考えて、失敗し、また考えて、また失敗し、最後には考えるより先に身体が正しく動くようにする」

 

 玄斎はレンを見る。

 

「今の一歩は偶然だ」

 

「……はい」

 

「だが、偶然を百回繰り返せば、少しだけ技に近づく」

 

 レンは木刀を握り直した。

 

「もう一回」

 

「寝ろ」

 

「でも」

 

「寝ろ」

 

「……はい」

 

 玄斎は背を向けた。

 

 レンはもう一度だけ二つ目の鈴を見た。

 

 まだ揺れている。

 

 たった一度。

 

 たった一度だけ、届いた。

 

 それだけで、明日も転べる気がした。

 

 ◇

 

 翌日から、稽古はさらに厳しくなった。

 

 二つ目の鈴に一度届いたことで、玄斎は容赦を増した。

 

 一つ目、二つ目、三つ目。

 

 三つの鈴を順に鳴らす。

 

 ただし、無理に遠くを狙えば即座に棒が飛ぶ。

 

 鈴を鳴らしても、体勢が崩れていれば失敗。

 

 斬撃の後に剣先が死んでいれば失敗。

 

 踏み込みの前に肩が動けば失敗。

 

 目で鈴を追いすぎれば失敗。

 

 息が止まれば失敗。

 

 三つ目の鈴は遠かった。

 

 紫電閃の間合い。

 

 そこに届かなければ、第二式とは呼べない。

 

 レンは毎日、三つ目の鈴を睨んだ。

 

 最初はまったく届かなかった。

 

 二つ目を鳴らした後、勢いが死ぬ。

 

 それ以上前へ出ようとすれば、ただ転ぶ。

 

 何度も挑み、何度も失敗した。

 

 だが、失敗の質は少しずつ変わった。

 

 最初は顔から落ちていた。

 

 次は膝で受けられるようになった。

 

 次は木刀を離さなくなった。

 

 次は倒れながらも剣先が残るようになった。

 

 次は倒れずに、片膝だけで止まれるようになった。

 

 次は、二つ目の鈴を鳴らした後、あと半歩だけ前へ滑れるようになった。

 

 紫電閃は、形だけなら何度も失敗した。

 

 だがその失敗の中で、レンの身体は少しずつ覚えていった。

 

 落ちる角度。

 

 足を出すタイミング。

 

 肩の抜き方。

 

 木刀が身体から離れない感覚。

 

 斬撃の直前に息を詰めないこと。

 

 斬った後、次に動けるだけの足を残すこと。

 

 玄斎はほとんど褒めなかった。

 

 だが、一度だけこう言った。

 

「転び方が変わったな」

 

 レンはそれを褒め言葉として受け取った。

 

 ◇

 

 五剣の稽古も続いていた。

 

 紫電閃にばかり意識を向けると、玄斎はすぐに他の型をやらせた。

 

 焔燃型・火柱。

 

 レンは相変わらず苦手だった。

 

 だが、紫電閃の稽古で身体と剣を離さない感覚を覚え始めたことで、少しだけ木刀に力が通るようになった。

 

 以前は土の表面を叩くだけだった音が、鈍く重くなった。

 

 玄斎は言う。

 

「まだ軽い」

 

 だが、以前のように即座に否定はしなかった。

 

 虚空型・影縫。

 

 これも難しい。

 

 だが、紫電閃で前へ落ちる感覚を覚えたことで、横へ重心をずらす時の身体の遅れが少し減った。

 

 消えるには程遠い。

 

 だが、年上の弟子が一瞬だけ目を迷わせることがあった。

 

 水龍型・逆鱗。

 

 手首で誤魔化す癖は残っていた。

 

 それでも、木刀を身体から離さない感覚を使うと、握り替えの瞬間に軌道が少しだけ滑らかになった。

 

 土公型・荒神。

 

 相手の武器を弾くにはまだ力も技も足りない。

 

 しかし、刃と刃が触れる瞬間にどちらへ力が流れるか、少しだけ感じ取れるようになった。

 

 紫電閃ばかりではない。

 

 五剣は別々ではなく、どこかで繋がっている。

 

 レンはそれに気づき始めた。

 

 雷電で学んだ重心は、焔燃にも虚空にも水龍にも土公にも関わる。

 

 焔燃で学ぶ力の通し方は、紫電閃の斬撃を重くする。

 

 虚空で学ぶ認識の外し方は、雷電の踏み込みを読ませにくくする。

 

 水龍で学ぶ軌道変化は、紫電閃の後の追撃に繋がる。

 

 土公で学ぶ勝ち筋の折り方は、ただ速く斬るだけではない戦い方を教えてくれる。

 

 大亀流は、五つで一つなのだ。

 

 玄斎が何度も言った意味が、ほんの少しだけ分かってきた。

 

 ◇

 

 ある日の午後。

 

 道場の上の山道で、薪を運んでいた弟子が一人、足を滑らせた。

 

 大きな怪我はなかったが、足首を捻って歩けないという。

 

 玄斎はレンを呼んだ。

 

「荷を持て」

 

「はい」

 

「下の沢まで降りる。水桶も持ってこい」

 

 修行の一環だと思った。

 

 レンは薪の束を背負い、水桶を手に持って山道へ出た。

 

 山道は狭い。

 

 片側は斜面。

 

 もう片側は木々が生い茂っている。

 

 足場は悪く、濡れた落ち葉が積もっていた。

 

 普通に歩くだけでも滑りやすい。

 

 玄斎は先を歩く。

 

 片腕の老人なのに、足取りに乱れがない。

 

 レンはその後ろをついていく。

 

 足裏で地面を感じる。

 

 落ち葉の下の石。

 

 ぬかるみ。

 

 浮いた根。

 

 滑る場所。

 

 踏める場所。

 

 山道も稽古だった。

 

 道場の庭よりも、ずっと生きた稽古。

 

 しばらく歩いた時だった。

 

 木々の奥で、がさりと音がした。

 

 レンは足を止める。

 

 玄斎も止まっていた。

 

「何かいる」

 

 レンが呟く。

 

 次の瞬間、茂みから大きな影が飛び出した。

 

 狼に似ている。

 

 だが、前世の狼よりも二回りは大きい。

 

 額には短い角のようなものがあり、口からは涎が垂れていた。

 

 魔物。

 

 レンは初めて、野生の魔物を目の前で見た。

 

 孤児院で話には聞いていた。

 

 この世界には魔物がいる。

 

 山や森には、獣とは違うものが出る。

 

 だが、話で聞くのと目の前にいるのとでは違う。

 

 体臭。

 

 唸り声。

 

 牙。

 

 地面を掻く爪。

 

 殺意ではない。

 

 もっと単純な飢え。

 

 レンの背筋が冷えた。

 

 怖い。

 

 身体が一瞬固まりかける。

 

 雨の日の記憶が胸を刺す。

 

 玄斎の声が低く響いた。

 

「見るな」

 

「え」

 

「怯えを見るな。相手を見ろ」

 

 レンは息を呑んだ。

 

 怖さではなく、相手を見る。

 

 目。

 

 肩。

 

 前足。

 

 腰。

 

 尻尾。

 

 呼吸。

 

 魔物が低く唸る。

 

 前足に力が入る。

 

 飛びかかる。

 

 レンは木刀を抜こうとした。

 

 だが、背負った薪が重い。

 

 水桶が邪魔だ。

 

 玄斎は動かない。

 

 助ける気がないのか。

 

 いや、違う。

 

 見ている。

 

 レンがどう動くかを。

 

 魔物が跳んだ。

 

 前世の雨の日なら、ここで足が止まった。

 

 だが今は違う。

 

 レンは水桶を横へ投げた。

 

 魔物の視線が一瞬そちらへ流れる。

 

 その隙に薪の束を肩から落とす。

 

 木刀を抜く。

 

 だが、間に合わない。

 

 魔物はもう目の前にいる。

 

 距離が足りない。

 

 普通に振れば、牙が先に届く。

 

 レンの身体が勝手に沈んだ。

 

 半身。

 

 膝を曲げる。

 

 重心を前へ。

 

 怖がる前に。

 

 迷う前に。

 

 倒れろ。

 

 前へ。

 

 大亀流雷電型第二式。

 

 紫電閃。

 

 レンの身体が、魔物の懐へ滑り込んだ。

 

 景色が流れる。

 

 牙が頭上をかすめる。

 

 木刀が走る。

 

 狙ったのは、首ではない。

 

 前足。

 

 着地の瞬間に体重が乗る場所。

 

 木刀が魔物の前足を打った。

 

 鈍い音。

 

 魔物の体勢が崩れる。

 

 その巨体がレンの横を転がり、斜面へぶつかった。

 

 レンも止まれなかった。

 

 足がもつれる。

 

 膝をつく。

 

 肩から地面へ転がりそうになる。

 

 だが、木刀は離さない。

 

 剣先は魔物へ向けたまま。

 

 魔物は起き上がろうとする。

 

 レンは息を切らしながら立つ。

 

 もう一度来る。

 

 そう思った。

 

 だが、次に動いたのは玄斎だった。

 

 老人はゆっくりと歩き、片腕で拾った薪を一本持つ。

 

 魔物が振り向く。

 

 玄斎の身体がふっと沈む。

 

 次の瞬間、薪が魔物の眉間に入った。

 

 乾いた音がした。

 

 魔物はその場に崩れた。

 

 レンは呆然とした。

 

 薪で。

 

 ただの薪で、魔物が沈んだ。

 

 玄斎は振り返る。

 

「今のが、お前の紫電閃だ」

 

 レンは荒い息のまま答える。

 

「できて、ましたか」

 

「半分だ」

 

「半分……」

 

「入るまではよい。斬撃は軽い。止まり方は最悪。相手が一匹でなければ、次で死んでいた」

 

 厳しい評価だった。

 

 だが、レンは笑ってしまった。

 

 半分。

 

 それでも、半分はできた。

 

 魔物を前に、足が止まらなかった。

 

 怖かった。

 

 確かに怖かった。

 

 だが、止まらなかった。

 

 身体は前へ出た。

 

 レンは木刀を握りしめる。

 

 胸の奥が熱かった。

 

 玄斎は倒れた魔物を見る。

 

「紫電閃は、逃げの技ではない」

 

「はい」

 

「だが、死に急ぐ技でもない」

 

「はい」

 

「今のお前は、前へ出られるようになっただけだ」

 

 玄斎の目がレンを射抜く。

 

「次は、前へ出た後に生き残れ」

 

 レンは深く頷いた。

 

「はい」

 

 ◇

 

 その日以降、レンの稽古は少し変わった。

 

 紫電閃を放った後の稽古が増えた。

 

 踏み込む。

 

 斬る。

 

 止まる。

 

 すぐに次の構えへ移る。

 

 避けられた場合。

 

 受けられた場合。

 

 斬り損ねた場合。

 

 足場が悪い場合。

 

 相手が複数いる場合。

 

 紫電閃は当たれば強い。

 

 だが外せば死ぬ。

 

 ならば、外しても死なない身体を作る。

 

 玄斎はそう言った。

 

 レンは何度も転び、何度も立った。

 

 そして少しずつ、紫電閃はレンの身体に刻まれていった。

 

 完全ではない。

 

 達人にはまだ読まれる。

 

 発動前の気配も濃い。

 

 足場が悪ければ崩れる。

 

 斬撃も軽い。

 

 だが、それでも雷電型第二式は、レンの中に根を張り始めていた。

 

 前へ出る技。

 

 恐怖よりも先に、足を動かす技。

 

 倒れる力を刃へ変える技。

 

 レン・クロガネは、まだ幼い。

 

 大亀流の全てには遠く及ばない。

 

 五剣の本質など、まだ入口にも立っていない。

 

 けれど一つだけ。

 

 彼は、足を止めなかった。

 

 山道で魔物を前にした時、前世で止まった足は、今度は前へ出た。

 

 その事実だけは、確かにレンの中に残った。

 

 夜。

 

 道場の庭で、レンは三つ目の鈴の前に立つ。

 

 半身。

 

 膝を曲げる。

 

 重心を前へ。

 

 呼吸を吐く。

 

 落ちる。

 

 身体が走る。

 

 木刀が空を裂く。

 

 ちりん。

 

 三つ目の鈴が鳴った。

 

 レンは今度、転ばなかった。

 

 片膝をついた。

 

 剣先は前を向いていた。

 

 息は荒い。

 

 足は震えている。

 

 だが、倒れてはいない。

 

 縁側で見ていた玄斎が、短く言った。

 

「まだ遅い」

 

 レンは笑った。

 

「はい」

 

「まだ軽い」

 

「はい」

 

「まだ読まれる」

 

「はい」

 

「だが」

 

 玄斎は少しだけ間を置いた。

 

「形にはなった」

 

 レンは顔を上げる。

 

 月明かりの下で、三つ目の鈴が小さく揺れている。

 

 ちりん。

 

 その音は、今までで一番澄んで聞こえた。

 

 レンは木刀を握り直し、深く息を吐いた。

 

 紫電閃。

 

 まだ未熟。

 

 まだ危うい。

 

 まだ本物には遠い。

 

 けれど、確かに自分の技になり始めている。

 

 レンは立ち上がる。

 

 足裏で地面を感じる。

 

 肩を落とす。

 

 膝を固めない。

 

 腰を浮かせない。

 

 呼吸を通す。

 

 そして、もう一度構えた。

 

 大亀流雷電型第二式。

 

 紫電閃。

 

 前へ。

 

 恐怖よりも先へ。

 

 レン・クロガネの刃は、まだ細く、未熟で、危うい。

 

 だがその刃は、確かに六面世界の中で光り始めていた。

 

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