紫電閃の稽古は、転ぶことから始まった。
朝も転ぶ。
昼も転ぶ。
夕方も転ぶ。
夜、誰も見ていない庭でこっそり稽古しても転ぶ。
レンは毎日のように土まみれになった。
膝には布が巻かれ、肘には擦り傷が絶えず、肩は何度も打ちつけて青くなった。
それでも玄斎は容赦しなかった。
「遅い」
転ぶ。
「浅い」
転ぶ。
「肩が出ている」
転ぶ。
「足で蹴るな」
転ぶ。
「剣が遅れている」
転ぶ。
「目が先に死んだ」
転ぶ。
何度やっても、玄斎の言葉は変わらない。
褒められることなど、ほとんどなかった。
紫電閃。
雷電型第二式。
両膝を曲げた半身から、重力に身を任せるように前方へ倒れ込み、その落下速度と脚力を合わせ、一直線に敵の間合いを食い破る斬撃。
言葉にすれば簡単だった。
だが実際には、とんでもなく難しい。
まず、倒れ込むことが怖い。
顔から地面に落ちる感覚は、何度やっても身体が嫌がる。
無意識に足が出る。
手が出る。
肩が固まる。
腰が引ける。
怖がった瞬間、速度は死ぬ。
速度が死ねば、ただの不格好な踏み込みになる。
逆に、怖がらずに倒れ込もうとすると、今度は本当に倒れる。
足が追いつかない。
刃が遅れる。
身体だけが前に流れ、剣が置き去りになる。
転ぶ。
転んでも剣先を前に向ける。
起きる。
また転ぶ。
その繰り返しだった。
◇
玄斎は庭に三本の杭を立てた。
一本目は、レンの立つ位置から一歩半ほど先。
二本目は、さらにその奥。
三本目は、そこからまた半歩ほど遠い。
それぞれの杭には、細い紐で小さな鈴が吊るされている。
風が吹けば、ちりん、と鳴る。
玄斎はその前に立ち、言った。
「一つ目の鈴を鳴らせ」
レンは木刀を握る。
半身。
膝を曲げる。
重心を前へ。
前に落ちる。
身体が滑る。
木刀を振る。
ちりん。
一つ目の鈴が鳴った。
「遅い」
玄斎は即座に言った。
「鳴りました」
「鳴らすだけなら子供でもできる」
「俺、子供です」
玄斎の木の棒が飛んできて、レンの額を軽く叩いた。
「口を動かすな。身体を動かせ」
「はい」
「次は二つ目だ」
二つ目の鈴は遠い。
ただ踏み込むだけでは届かない。
紫電閃の形を取らなければ、木刀の先が届かない距離だった。
レンは息を整える。
膝を曲げる。
身体を前へ預ける。
怖がるな。
倒れろ。
ただし、崩れるな。
重心を落とす。
足は後から来る。
刃は身体に遅れるな。
レンは前へ出た。
景色が流れる。
鈴が近づく。
木刀を振る。
空を切った。
鈴は鳴らない。
次の瞬間、足がもつれ、レンは地面に転がった。
玄斎が言う。
「遠くを斬ろうとしたな」
「届かせようとしました」
「だから届かん」
レンは土を払いながら起き上がる。
「届かせようとしたら駄目なんですか」
「手を伸ばして届かせるな。身体ごと入れ」
「身体ごと……」
「剣だけ遠くへやるな。剣と身体を離すな」
レンは二つ目の鈴を見る。
遠い。
だが、玄斎は何度も見せてくれた。
あの距離を、片腕の老人が一瞬で潰す。
老人の身体は、前へ倒れているようで崩れない。
踏み込んでいるようで、蹴っていない。
斬っているようで、剣だけを振っていない。
全身が一つの矢になっている。
レンは息を吸った。
もう一度。
構える。
前へ。
今度は、木刀を振ろうとしすぎた。
肩が先に出る。
身体がついてこない。
木刀が鈴の少し手前を通り、また転んだ。
「肩」
玄斎の声。
起きる。
もう一度。
今度は足で蹴った。
速く出たつもりだったが、地面を蹴った瞬間に身体が跳ね、刃筋が浮いた。
「足」
起きる。
もう一度。
怖くなって腰が引けた。
「腰」
起きる。
もう一度。
鈴を見すぎて、目が先に狙いを教えた。
「目」
起きる。
もう一度。
呼吸が止まり、身体が固まった。
「息」
起きる。
もう一度。
何度も繰り返す。
やがてレンは、何が悪いのか分からなくなった。
肩も意識した。
足も意識した。
腰も意識した。
目も意識した。
呼吸も意識した。
なのに届かない。
考えれば考えるほど身体がばらばらになる。
木刀は遠くへ行きたがる。
足は勝手に蹴りたがる。
肩は力む。
腰は引ける。
目は鈴を追う。
全部が違う方向へ動く。
夕方になる頃には、レンは膝をついたまま荒く息をしていた。
玄斎は淡々と言う。
「今日は終わりだ」
「まだ、できます」
「できておらん」
「だから、やります」
「今日は終わりだ」
強い声ではなかった。
だが、逆らえない声だった。
レンは木刀を握ったまま、唇を噛む。
悔しかった。
二つ目の鈴に届かない。
届く気がしたのに。
あと少しのところで、身体が崩れる。
玄斎は背を向けながら言った。
「焦る者ほど、足から死ぬ」
「……はい」
「足が死ねば、剣も死ぬ」
レンは鈴を見た。
二つ目の鈴は、風に揺れているだけだった。
ちりん。
自分が鳴らせなかった音が、山の風で鳴った。
その音が、やけに悔しかった。
◇
その夜、レンは眠れなかった。
布団の中で目を閉じても、二つ目の鈴が浮かぶ。
届かない距離。
流れる景色。
崩れる身体。
玄斎の声。
肩。
足。
腰。
目。
息。
全部を直そうとすると、全部が駄目になる。
レンは布団から起き上がった。
外に出る。
道場の庭には、月が落ちていた。
三本の杭。
三つの鈴。
昼間と同じように、そこにある。
レンは木刀を取った。
勝手な稽古をすれば、玄斎に怒られるかもしれない。
だが、眠れない。
眠れないなら、立つしかない。
レンは一つ目の鈴の前に立った。
構える。
膝を曲げる。
前へ。
ちりん。
一つ目は鳴る。
だが二つ目は鳴らない。
何度やっても同じだった。
やがて、また転んだ。
土が頬につく。
レンは倒れたまま、夜空を見上げた。
月が丸い。
静かだった。
昼間のように、誰かが見ているわけではない。
弟子たちの視線もない。
玄斎の声もない。
ただ、自分の呼吸だけがある。
レンはそのまま、前世のことを思い出した。
雨の日。
通り魔。
包丁。
動けなかった足。
自分は、あの時も考えていた。
動かないと。
助けないと。
踏み込まないと。
そう考えている間に、足が止まった。
考えたから、止まったのかもしれない。
怖かったから。
失敗したら刺されると思ったから。
間に合わなかったらどうしようと思ったから。
どう動けばいいか分からなかったから。
全部を考えて、全部が止まった。
レンはゆっくり起き上がった。
木刀を拾う。
今度は、何も考えないようにした。
肩を意識しない。
足を意識しない。
腰を意識しない。
目を鈴に縛られない。
ただ、前へ。
怖くなる前に。
身体が迷う前に。
レンは息を吐いた。
半身。
膝を曲げる。
重心が前へ傾く。
倒れる。
いや、落ちる。
足が勝手に出る。
木刀が遅れない。
身体と一緒に刃が走る。
景色が流れた。
ちりん。
二つ目の鈴が鳴った。
レンは止まれなかった。
そのまま勢い余って転がり、庭の端で土に突っ込んだ。
痛い。
だが、鳴った。
今、鳴った。
レンは顔を上げる。
二つ目の鈴が、まだ小さく揺れていた。
ちりん。
胸が熱くなる。
届いた。
初めて、届いた。
その時、縁側から声がした。
「今の感覚を忘れるな」
レンは飛び起きた。
「玄斎様」
玄斎が縁側に座っていた。
いつからいたのか分からない。
夜の闇の中、老人は静かにレンを見ていた。
「見てたんですか」
「見ておらねば、夜に庭を荒らす馬鹿弟子を叱れん」
「すみません」
「謝るな」
玄斎は庭へ降りた。
「今のは、少しだけ紫電閃だった」
レンの胸が跳ねる。
「本当ですか」
「少しだけだ」
「少しでも、できたんですか」
「浮かれるな。止まれておらん。斬った後に死ぬ」
レンの喜びが半分ほど萎んだ。
しかし、完全には消えない。
玄斎は二つ目の鈴を見る。
「だが、今の一歩は悪くなかった」
「何が違ったんですか」
「考えすぎておらんかった」
レンは黙る。
「頭で身体を動かそうとすれば、身体は遅れる。だが、考えぬだけなら獣と同じだ」
「じゃあ、どうすれば」
「考えたものを、身体に沈めろ」
「沈める……」
「稽古とはそういうものだ。考えて、失敗し、また考えて、また失敗し、最後には考えるより先に身体が正しく動くようにする」
玄斎はレンを見る。
「今の一歩は偶然だ」
「……はい」
「だが、偶然を百回繰り返せば、少しだけ技に近づく」
レンは木刀を握り直した。
「もう一回」
「寝ろ」
「でも」
「寝ろ」
「……はい」
玄斎は背を向けた。
レンはもう一度だけ二つ目の鈴を見た。
まだ揺れている。
たった一度。
たった一度だけ、届いた。
それだけで、明日も転べる気がした。
◇
翌日から、稽古はさらに厳しくなった。
二つ目の鈴に一度届いたことで、玄斎は容赦を増した。
一つ目、二つ目、三つ目。
三つの鈴を順に鳴らす。
ただし、無理に遠くを狙えば即座に棒が飛ぶ。
鈴を鳴らしても、体勢が崩れていれば失敗。
斬撃の後に剣先が死んでいれば失敗。
踏み込みの前に肩が動けば失敗。
目で鈴を追いすぎれば失敗。
息が止まれば失敗。
三つ目の鈴は遠かった。
紫電閃の間合い。
そこに届かなければ、第二式とは呼べない。
レンは毎日、三つ目の鈴を睨んだ。
最初はまったく届かなかった。
二つ目を鳴らした後、勢いが死ぬ。
それ以上前へ出ようとすれば、ただ転ぶ。
何度も挑み、何度も失敗した。
だが、失敗の質は少しずつ変わった。
最初は顔から落ちていた。
次は膝で受けられるようになった。
次は木刀を離さなくなった。
次は倒れながらも剣先が残るようになった。
次は倒れずに、片膝だけで止まれるようになった。
次は、二つ目の鈴を鳴らした後、あと半歩だけ前へ滑れるようになった。
紫電閃は、形だけなら何度も失敗した。
だがその失敗の中で、レンの身体は少しずつ覚えていった。
落ちる角度。
足を出すタイミング。
肩の抜き方。
木刀が身体から離れない感覚。
斬撃の直前に息を詰めないこと。
斬った後、次に動けるだけの足を残すこと。
玄斎はほとんど褒めなかった。
だが、一度だけこう言った。
「転び方が変わったな」
レンはそれを褒め言葉として受け取った。
◇
五剣の稽古も続いていた。
紫電閃にばかり意識を向けると、玄斎はすぐに他の型をやらせた。
焔燃型・火柱。
レンは相変わらず苦手だった。
だが、紫電閃の稽古で身体と剣を離さない感覚を覚え始めたことで、少しだけ木刀に力が通るようになった。
以前は土の表面を叩くだけだった音が、鈍く重くなった。
玄斎は言う。
「まだ軽い」
だが、以前のように即座に否定はしなかった。
虚空型・影縫。
これも難しい。
だが、紫電閃で前へ落ちる感覚を覚えたことで、横へ重心をずらす時の身体の遅れが少し減った。
消えるには程遠い。
だが、年上の弟子が一瞬だけ目を迷わせることがあった。
水龍型・逆鱗。
手首で誤魔化す癖は残っていた。
それでも、木刀を身体から離さない感覚を使うと、握り替えの瞬間に軌道が少しだけ滑らかになった。
土公型・荒神。
相手の武器を弾くにはまだ力も技も足りない。
しかし、刃と刃が触れる瞬間にどちらへ力が流れるか、少しだけ感じ取れるようになった。
紫電閃ばかりではない。
五剣は別々ではなく、どこかで繋がっている。
レンはそれに気づき始めた。
雷電で学んだ重心は、焔燃にも虚空にも水龍にも土公にも関わる。
焔燃で学ぶ力の通し方は、紫電閃の斬撃を重くする。
虚空で学ぶ認識の外し方は、雷電の踏み込みを読ませにくくする。
水龍で学ぶ軌道変化は、紫電閃の後の追撃に繋がる。
土公で学ぶ勝ち筋の折り方は、ただ速く斬るだけではない戦い方を教えてくれる。
大亀流は、五つで一つなのだ。
玄斎が何度も言った意味が、ほんの少しだけ分かってきた。
◇
ある日の午後。
道場の上の山道で、薪を運んでいた弟子が一人、足を滑らせた。
大きな怪我はなかったが、足首を捻って歩けないという。
玄斎はレンを呼んだ。
「荷を持て」
「はい」
「下の沢まで降りる。水桶も持ってこい」
修行の一環だと思った。
レンは薪の束を背負い、水桶を手に持って山道へ出た。
山道は狭い。
片側は斜面。
もう片側は木々が生い茂っている。
足場は悪く、濡れた落ち葉が積もっていた。
普通に歩くだけでも滑りやすい。
玄斎は先を歩く。
片腕の老人なのに、足取りに乱れがない。
レンはその後ろをついていく。
足裏で地面を感じる。
落ち葉の下の石。
ぬかるみ。
浮いた根。
滑る場所。
踏める場所。
山道も稽古だった。
道場の庭よりも、ずっと生きた稽古。
しばらく歩いた時だった。
木々の奥で、がさりと音がした。
レンは足を止める。
玄斎も止まっていた。
「何かいる」
レンが呟く。
次の瞬間、茂みから大きな影が飛び出した。
狼に似ている。
だが、前世の狼よりも二回りは大きい。
額には短い角のようなものがあり、口からは涎が垂れていた。
魔物。
レンは初めて、野生の魔物を目の前で見た。
孤児院で話には聞いていた。
この世界には魔物がいる。
山や森には、獣とは違うものが出る。
だが、話で聞くのと目の前にいるのとでは違う。
体臭。
唸り声。
牙。
地面を掻く爪。
殺意ではない。
もっと単純な飢え。
レンの背筋が冷えた。
怖い。
身体が一瞬固まりかける。
雨の日の記憶が胸を刺す。
玄斎の声が低く響いた。
「見るな」
「え」
「怯えを見るな。相手を見ろ」
レンは息を呑んだ。
怖さではなく、相手を見る。
目。
肩。
前足。
腰。
尻尾。
呼吸。
魔物が低く唸る。
前足に力が入る。
飛びかかる。
レンは木刀を抜こうとした。
だが、背負った薪が重い。
水桶が邪魔だ。
玄斎は動かない。
助ける気がないのか。
いや、違う。
見ている。
レンがどう動くかを。
魔物が跳んだ。
前世の雨の日なら、ここで足が止まった。
だが今は違う。
レンは水桶を横へ投げた。
魔物の視線が一瞬そちらへ流れる。
その隙に薪の束を肩から落とす。
木刀を抜く。
だが、間に合わない。
魔物はもう目の前にいる。
距離が足りない。
普通に振れば、牙が先に届く。
レンの身体が勝手に沈んだ。
半身。
膝を曲げる。
重心を前へ。
怖がる前に。
迷う前に。
倒れろ。
前へ。
大亀流雷電型第二式。
紫電閃。
レンの身体が、魔物の懐へ滑り込んだ。
景色が流れる。
牙が頭上をかすめる。
木刀が走る。
狙ったのは、首ではない。
前足。
着地の瞬間に体重が乗る場所。
木刀が魔物の前足を打った。
鈍い音。
魔物の体勢が崩れる。
その巨体がレンの横を転がり、斜面へぶつかった。
レンも止まれなかった。
足がもつれる。
膝をつく。
肩から地面へ転がりそうになる。
だが、木刀は離さない。
剣先は魔物へ向けたまま。
魔物は起き上がろうとする。
レンは息を切らしながら立つ。
もう一度来る。
そう思った。
だが、次に動いたのは玄斎だった。
老人はゆっくりと歩き、片腕で拾った薪を一本持つ。
魔物が振り向く。
玄斎の身体がふっと沈む。
次の瞬間、薪が魔物の眉間に入った。
乾いた音がした。
魔物はその場に崩れた。
レンは呆然とした。
薪で。
ただの薪で、魔物が沈んだ。
玄斎は振り返る。
「今のが、お前の紫電閃だ」
レンは荒い息のまま答える。
「できて、ましたか」
「半分だ」
「半分……」
「入るまではよい。斬撃は軽い。止まり方は最悪。相手が一匹でなければ、次で死んでいた」
厳しい評価だった。
だが、レンは笑ってしまった。
半分。
それでも、半分はできた。
魔物を前に、足が止まらなかった。
怖かった。
確かに怖かった。
だが、止まらなかった。
身体は前へ出た。
レンは木刀を握りしめる。
胸の奥が熱かった。
玄斎は倒れた魔物を見る。
「紫電閃は、逃げの技ではない」
「はい」
「だが、死に急ぐ技でもない」
「はい」
「今のお前は、前へ出られるようになっただけだ」
玄斎の目がレンを射抜く。
「次は、前へ出た後に生き残れ」
レンは深く頷いた。
「はい」
◇
その日以降、レンの稽古は少し変わった。
紫電閃を放った後の稽古が増えた。
踏み込む。
斬る。
止まる。
すぐに次の構えへ移る。
避けられた場合。
受けられた場合。
斬り損ねた場合。
足場が悪い場合。
相手が複数いる場合。
紫電閃は当たれば強い。
だが外せば死ぬ。
ならば、外しても死なない身体を作る。
玄斎はそう言った。
レンは何度も転び、何度も立った。
そして少しずつ、紫電閃はレンの身体に刻まれていった。
完全ではない。
達人にはまだ読まれる。
発動前の気配も濃い。
足場が悪ければ崩れる。
斬撃も軽い。
だが、それでも雷電型第二式は、レンの中に根を張り始めていた。
前へ出る技。
恐怖よりも先に、足を動かす技。
倒れる力を刃へ変える技。
レン・クロガネは、まだ幼い。
大亀流の全てには遠く及ばない。
五剣の本質など、まだ入口にも立っていない。
けれど一つだけ。
彼は、足を止めなかった。
山道で魔物を前にした時、前世で止まった足は、今度は前へ出た。
その事実だけは、確かにレンの中に残った。
夜。
道場の庭で、レンは三つ目の鈴の前に立つ。
半身。
膝を曲げる。
重心を前へ。
呼吸を吐く。
落ちる。
身体が走る。
木刀が空を裂く。
ちりん。
三つ目の鈴が鳴った。
レンは今度、転ばなかった。
片膝をついた。
剣先は前を向いていた。
息は荒い。
足は震えている。
だが、倒れてはいない。
縁側で見ていた玄斎が、短く言った。
「まだ遅い」
レンは笑った。
「はい」
「まだ軽い」
「はい」
「まだ読まれる」
「はい」
「だが」
玄斎は少しだけ間を置いた。
「形にはなった」
レンは顔を上げる。
月明かりの下で、三つ目の鈴が小さく揺れている。
ちりん。
その音は、今までで一番澄んで聞こえた。
レンは木刀を握り直し、深く息を吐いた。
紫電閃。
まだ未熟。
まだ危うい。
まだ本物には遠い。
けれど、確かに自分の技になり始めている。
レンは立ち上がる。
足裏で地面を感じる。
肩を落とす。
膝を固めない。
腰を浮かせない。
呼吸を通す。
そして、もう一度構えた。
大亀流雷電型第二式。
紫電閃。
前へ。
恐怖よりも先へ。
レン・クロガネの刃は、まだ細く、未熟で、危うい。
だがその刃は、確かに六面世界の中で光り始めていた。