無職転生×異伝   作:からし明太子

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第五話 五剣一式

 

 

 紫電閃が形になってから、レンは少し変わった。

 

 本人にそのつもりはなかった。

 

 浮かれているつもりもない。

 

 調子に乗っているつもりもない。

 

 だが、身体は正直だった。

 

 木刀を握る。

 

 相手を見る。

 

 間合いを測る。

 

 その時、真っ先に頭に浮かぶのは雷電型だった。

 

 前へ。

 

 速く。

 

 相手の反応より先に。

 

 相手が構える前に懐へ入る。

 

 相手が防御を選ぶ前に斬る。

 

 それは気持ちがよかった。

 

 紫電閃は危うい技だ。

 

 玄斎にも何度も言われている。

 

 読まれれば死ぬ。

 

 避けられれば死ぬ。

 

 止まれなければ死ぬ。

 

 それでも、あの一瞬の速さはレンの胸を掴んで離さなかった。

 

 前世で止まった足が、今は前へ出る。

 

 その実感がある。

 

 だからこそ、レンは無意識に紫電閃へ寄っていった。

 

 朝の足運びでも、前へ落ちる感覚を探す。

 

 薪割りでも、踏み込みの速さを試す。

 

 水汲みの帰り道でも、桶を置いたまま斜面で前へ滑る稽古をする。

 

 五剣の稽古中でさえ、焔燃型の火柱に紫電閃の踏み込みを混ぜようとし、虚空型の影縫を雷電の速さで誤魔化そうとした。

 

 玄斎は何も言わなかった。

 

 最初は。

 

 ただ、黙って見ていた。

 

 それが一番怖いことだと、レンはまだ知らなかった。

 

 ◇

 

 その日の稽古相手は、年上の弟子だった。

 

 名をガイと言う。

 

 十四歳。

 

 背はレンより頭二つ分以上高く、腕も太い。

 

 以前、レンに絡んできた少年でもある。

 

 あれ以来、ガイはレンを露骨に馬鹿にすることは減った。

 

 だが、快く思っていないのは変わらない。

 

 レンが玄斎から直々に紫電閃を教わっていることも、気に食わないらしかった。

 

 庭の中央で、二人は向かい合う。

 

 レンは木刀を構えた。

 

 ガイも木刀を構える。

 

 玄斎は縁側に座り、片腕を膝に置いていた。

 

「始めろ」

 

 短い声。

 

 その瞬間、レンの身体は沈んだ。

 

 ガイの肩が動く。

 

 いや、動こうとした。

 

 その前に、レンは前へ落ちる。

 

 大亀流雷電型第二式。

 

 紫電閃。

 

 景色が流れる。

 

 ガイの目が見開かれる。

 

 いける。

 

 そう思った。

 

 木刀がガイの胴へ向かう。

 

 だが、当たらなかった。

 

 ガイは後ろへ飛んだのではない。

 

 横へ逃げたのでもない。

 

 木刀を斜めに出し、レンの刃筋をわずかに逸らした。

 

 同時に、足を引く。

 

 レンの木刀はガイの脇をすり抜けた。

 

 次の瞬間、レンの身体は前へ流れる。

 

 止まれない。

 

 まずい、と思う前に、ガイの木刀がレンの背中へ打ち込まれた。

 

「ぐっ!」

 

 息が詰まる。

 

 レンは地面を転がった。

 

 木刀は離さなかった。

 

 剣先も死なせなかった。

 

 だが、負けは負けだった。

 

 ガイは荒い息を吐きながらも、にやりと笑う。

 

「速いだけじゃねえか」

 

 レンは唇を噛んだ。

 

 背中が痛い。

 

 だが、それ以上に言葉が痛かった。

 

 速いだけ。

 

 自分が一番言われたくない言葉だった。

 

「もう一回」

 

 レンは立ち上がる。

 

 玄斎は止めなかった。

 

 ガイも構える。

 

 再び、開始。

 

 今度はレンも考えた。

 

 真正面から紫電閃を出せば、また逸らされる。

 

 ならば、少し角度を変える。

 

 雷電型一式で間合いを詰め、途中から紫電閃へ移る。

 

 レンは足を動かす。

 

 ガイが構える。

 

 レンは一度、浅く入る。

 

 ガイの木刀が反応する。

 

 その瞬間、レンはさらに沈んだ。

 

 紫電閃。

 

 だが、ガイは読んでいた。

 

 今度は受けず、半歩だけ下がる。

 

 レンの木刀が空を切る。

 

 また身体が流れる。

 

 ガイの木刀が、今度はレンの肩を打った。

 

 痛みで膝が落ちる。

 

「二度目だ」

 

 ガイが言う。

 

 レンは歯を食いしばった。

 

 立つ。

 

 もう一回。

 

 三度目。

 

 今度は紫電閃を見せずに、雷電型一式の壱、弐、参で攻める。

 

 だが、焦っていた。

 

 壱が浅い。

 

 弐が遅れる。

 

 参の前に、ガイの木刀がレンの手元を打つ。

 

 木刀が跳ねた。

 

 落とさなかった。

 

 だが、握りが崩れる。

 

 その隙に、ガイの木刀が喉元に止まった。

 

 レンは動けなかった。

 

 ガイが息を吐く。

 

「三度目」

 

 その声には、勝ち誇りが混じっていた。

 

 レンの胸の奥が熱くなる。

 

 悔しい。

 

 ただ悔しい。

 

 紫電閃なら勝てると思っていたわけではない。

 

 だが、どこかで思っていたのだ。

 

 これがあれば、少しくらい上の相手にも届くのではないかと。

 

 その甘さを、三度続けて叩き潰された。

 

 玄斎がようやく立ち上がった。

 

「そこまでだ」

 

 ガイは木刀を下げる。

 

 レンは動けずにいた。

 

 玄斎は庭へ降り、レンの前に立つ。

 

「何が悪かった」

 

 レンは答えようとした。

 

 踏み込みが浅かった。

 

 止まり方が悪かった。

 

 角度が読まれた。

 

 気配が出た。

 

 いくつも思い浮かぶ。

 

 だが玄斎は、それらを待たずに言った。

 

「雷電しか見えておらん」

 

 レンは顔を上げた。

 

「……はい」

 

「一度目、受け流された後に虚空で外れれば背は打たれなかった」

 

 玄斎の声は淡々としている。

 

「二度目、下がられた瞬間に水龍で軌道を変えれば、空は切らなかった」

 

「はい」

 

「三度目、手元を狙われる前に土公で相手の木刀を押さえれば、喉を取られなかった」

 

 レンは何も言えなかった。

 

 全部、言われてみればその通りだった。

 

 だが、戦っている最中には出てこなかった。

 

 頭の中にあったのは雷電だけ。

 

 速く入ること。

 

 相手より先に斬ること。

 

 それだけだった。

 

 玄斎はさらに言う。

 

「お前は紫電閃を覚えたのではない」

 

 レンの肩がぴくりと動く。

 

「紫電閃に覚えられたのだ」

 

「……紫電閃に」

 

「技に使われている」

 

 その言葉は、木刀で打たれるより重かった。

 

 技を使っているつもりだった。

 

 けれど実際は、技に振り回されていた。

 

 紫電閃の速さに惹かれ、その快感に足を引っ張られていた。

 

 玄斎は低く言う。

 

「五剣一式をやり直す」

 

「はい」

 

「今日から三日、雷電型は禁止だ」

 

 レンは思わず顔を上げた。

 

「え」

 

「返事」

 

「……はい」

 

 雷電型禁止。

 

 その言葉は、レンにとって予想以上に重かった。

 

 自分がどれほど雷電に頼っていたか、その瞬間に分かった。

 

 ◇

 

 雷電型を禁じられた稽古は、苦しかった。

 

 まず焔燃型。

 

 火柱。

 

 レンは木刀を振り被り、肘裏を弾く。

 

 だが、どうしても軽い。

 

 以前よりはましになっている。

 

 しかし、玄斎の火柱とは違う。

 

 玄斎の一撃は地面に重さが通る。

 

 レンの一撃は、表面を叩いているだけ。

 

「力を出そうとするな」

 

 玄斎が言う。

 

「力を通せ」

 

「通してるつもりです」

 

「つもりで割れる薪はない」

 

 玄斎は庭の隅に置いた太い薪を示した。

 

「割れ」

 

 レンは木刀ではなく、薪割り用の斧を持たされた。

 

 斧を振り上げる。

 

 火柱と同じ理屈。

 

 足裏から膝、腰、背中、肩、肘、手首へ。

 

 力を通す。

 

 そう思うが、身体はすぐに力む。

 

 振り下ろす。

 

 刃は薪に食い込んで止まった。

 

 割れない。

 

「もう一度」

 

 斧を抜く。

 

 振る。

 

 止まる。

 

 もう一度。

 

 止まる。

 

 手が痛くなってくる。

 

 腕が重くなる。

 

 汗が額を伝う。

 

 雷電なら、前へ出ればいい。

 

 重心を落とせば、少なくとも身体は動く。

 

 だが焔燃は違う。

 

 全身の力を一つの道に通さなければならない。

 

 力を入れれば入れるほど、力が詰まる。

 

 力を抜けば、斧が軽くなる。

 

 加減が分からない。

 

 玄斎は何も言わず見ていた。

 

 レンは息を整える。

 

 斧を振り上げる。

 

 腕ではない。

 

 肩でもない。

 

 足裏で地面を感じる。

 

 膝を緩める。

 

 腰を動かす。

 

 背中を通す。

 

 肘を弾く。

 

 斧が落ちる。

 

 ぱきん。

 

 薪が、わずかに割れた。

 

 完全には割れていない。

 

 だが、亀裂が入った。

 

 玄斎は言う。

 

「今のだ」

 

 レンは薪を見る。

 

「これが、火柱ですか」

 

「入口だ」

 

 入口。

 

 また入口。

 

 紫電閃も入口。

 

 火柱も入口。

 

 自分は何一つ、奥へは進んでいない。

 

 その事実に、レンは少し笑ってしまった。

 

 先は長い。

 

 だが、不思議と嫌ではなかった。

 

 ◇

 

 次は虚空型だった。

 

 影縫。

 

 レンはこれが苦手だった。

 

 相手の認識から外れる。

 

 目が追う場所からずれる。

 

 言葉では分かる。

 

 しかし身体はどうしても「速く横へ動く」になってしまう。

 

 雷電型を禁じられているせいで、速さで誤魔化すこともできない。

 

 玄斎は庭に一本の竹竿を立て、その先に布を結んだ。

 

 布は風に揺れている。

 

「布を見るな」

 

「はい」

 

「布が揺れる理由を見ろ」

 

 レンは眉を寄せる。

 

 布ではなく、布が揺れる理由。

 

 風。

 

 風の通り道。

 

 木々の揺れ。

 

 庭の空気の流れ。

 

 玄斎は言う。

 

「人の目も同じだ。目そのものを見るな。なぜそこを見るかを見ろ」

 

「なぜ、そこを見るか……」

 

「人は動いたものを見る。光ったものを見る。怖いものを見る。狙いたいものを見る」

 

 玄斎がレンの前に立つ。

 

「なら、見られるものを置いておけ」

 

 そう言った瞬間、玄斎の肩がわずかに動いた。

 

 レンの視線が、そこへ吸われる。

 

 次の瞬間、玄斎の身体は逆側へずれていた。

 

 目の前にいたはずなのに、見失った。

 

「今のは」

 

「お前に見せた」

 

「肩を?」

 

「そうだ。お前は肩を見た。だから儂を見失った」

 

 レンは息を呑む。

 

 虚空型は、単に消える技ではない。

 

 相手に見せるものを置き、見てほしい場所へ意識を誘導し、その隙に本体が外れる。

 

 速さではない。

 

 認識の隙。

 

 レンは何度も試した。

 

 肩を動かす。

 

 視線をずらす。

 

 木刀をわずかに上げる。

 

 相手の目を誘う。

 

 そして身体をずらす。

 

 最初は全部わざとらしかった。

 

 ガイにもすぐ見抜かれた。

 

「バレバレだぞ」

 

 そう言われ、腹に木刀を入れられる。

 

 痛い。

 

 悔しい。

 

 だが、雷電は禁止。

 

 前へ逃げることはできない。

 

 レンは何度も影縫を繰り返した。

 

 やがて一度だけ、ガイの視線が木刀の先へ流れた。

 

 その瞬間、レンは半歩だけ外れた。

 

 木刀がガイの脇をかすめる。

 

 当たりはしなかった。

 

 だが、ガイの目が一瞬だけ迷った。

 

 レンはそれを見逃さなかった。

 

 これだ。

 

 虚空型の入口。

 

 相手の目から外れる感覚。

 

 雷電のような快感はない。

 

 だが、相手の意識が自分を見失う一瞬には、別の怖さがあった。

 

 ◇

 

 三日目は、水龍型と土公型だった。

 

 水龍型第一式、逆鱗。

 

 振り下ろしの瞬間に握りを入れ替え、軌道を変える。

 

 レンは相変わらず手首でやろうとして、玄斎に叩かれた。

 

「手で曲げるな」

 

「はい」

 

「曲げようとするな」

 

「曲げないんですか」

 

「相手に、真っ直ぐ来ると思わせろ」

 

 玄斎はゆっくり木刀を振る。

 

 最初の軌道は真っ直ぐだった。

 

 受けるならそこ。

 

 避けるならそこ。

 

 そう思わせる。

 

 だが、当たる直前に握りが替わり、刃筋がずれる。

 

 防御の隙間を通る。

 

「水龍は変化の型ではない」

 

「違うんですか」

 

「相手に誤った防御を選ばせる型だ」

 

 レンはその言葉にぞくりとした。

 

 ただ軌道を変えるだけなら、自分の技で終わる。

 

 だが相手に誤った防御を選ばせるなら、それは相手を使う技になる。

 

 雷電は相手の反応を置き去りにする。

 

 水龍は相手の反応そのものを間違わせる。

 

 レンは何度も逆鱗を振った。

 

 真っ直ぐ見せる。

 

 途中で替える。

 

 だが、替えることを意識すると最初から不自然になる。

 

 逆に自然に振れば、軌道が変わらない。

 

 何度も失敗した。

 

 それでも、一度だけガイの木刀が空を受けた。

 

 レンの木刀はその下を通り、ガイの胴の前で止まる。

 

 ガイが目を見開いた。

 

 レンも驚いていた。

 

 玄斎は短く言った。

 

「今のを忘れるな」

 

「はい」

 

 その一言で十分だった。

 

 次は土公型。

 

 荒神。

 

 レンはこれが怖かった。

 

 自分がやる側になっても、怖い。

 

 相手の武器を狙う。

 

 刃と刃が触れる瞬間、木刀を回転させ、相手の武器を弾く。

 

 だが、力任せに叩けば自分の手が痺れる。

 

 角度を間違えれば、逆に弾かれる。

 

 レンはガイと向かい合った。

 

 ガイは先ほど逆鱗で一本取られかけたことを気にしているのか、少し荒く踏み込んできた。

 

 木刀が振り下ろされる。

 

 レンは受けるのではなく、相手の木刀の腹を見る。

 

 どこに力が乗っているか。

 

 どこが勝ち筋か。

 

 玄斎の言葉を思い出す。

 

 土公は武器を見る型ではない。

 

 武器の先にある勝ち筋を見る。

 

 ガイは力で押し潰そうとしている。

 

 なら、そこを折る。

 

 レンは荒神の構えから木刀を合わせた。

 

 刃と刃が触れる瞬間、手首だけでなく肘と肩を使い、木刀を小さく回す。

 

 がん、と音がした。

 

 ガイの木刀は弾き飛ばされなかった。

 

 しかし、軌道が大きく外れた。

 

 ガイの体勢が崩れる。

 

 レンは反射的に雷電で踏み込もうとした。

 

 だが、禁じられている。

 

 足が止まる。

 

 代わりに、火柱の踏み込みで木刀を振り下ろした。

 

 寸止め。

 

 ガイの肩の上で、木刀が止まる。

 

 庭が静かになった。

 

 ガイは歯を食いしばっている。

 

 レンも息を切らしていた。

 

 勝った。

 

 雷電を使わずに。

 

 紫電閃を使わずに。

 

 玄斎はしばらく黙っていた。

 

 そして言った。

 

「よし」

 

 ただ一言。

 

 それだけだった。

 

 だが、レンには十分すぎた。

 

 ◇

 

 三日の雷電禁止が終わった夜、レンは縁側に座って足を投げ出していた。

 

 身体中が痛い。

 

 紫電閃の稽古とは違う疲れだった。

 

 腕が重い。

 

 腰が痛い。

 

 手首が腫れている。

 

 それでも、不思議と心は静かだった。

 

 雷電型を禁じられた三日間。

 

 最初は苦しかった。

 

 前へ出たいのに出られない。

 

 速さで届かせたいのに、それを許されない。

 

 だが、そのおかげで見えたものがある。

 

 焔燃の重さ。

 

 虚空の外し。

 

 水龍の惑わせ。

 

 土公の折り。

 

 どれも雷電とは違う。

 

 だが、雷電を殺すものではない。

 

 むしろ、雷電を生かすものだ。

 

 雷電で入る。

 

 だが、入った後に焔燃がなければ砕けない。

 

 虚空がなければ外れない。

 

 水龍がなければ防御を抜けない。

 

 土公がなければ相手の勝ち筋を折れない。

 

 五剣は、別々の技ではない。

 

 五つの身体の使い方。

 

 五つの考え方。

 

 五つの生き残り方。

 

 レンは自分の掌を見つめた。

 

 豆が潰れ、皮が厚くなり始めている。

 

 孤児院で枝を握っていた頃の手とは、少しだけ違う。

 

 玄斎が隣に来た。

 

 いつものように、気配なく。

 

 レンはもう驚かなかった。

 

 いや、少しは驚いたが、顔には出さなかった。

 

「分かったか」

 

 玄斎が言う。

 

「少しだけ」

 

「何がだ」

 

「雷電だけじゃ駄目だってことです」

 

「それだけか」

 

 レンは少し考える。

 

 そして答えた。

 

「雷電を使うためにも、雷電以外がいる」

 

 玄斎は黙った。

 

 その沈黙が、否定ではないことは分かった。

 

 レンは続ける。

 

「紫電閃は前へ出る技です。でも、前へ出た後に何もなければ死ぬ。外された時に虚空がいる。受けられた時に水龍がいる。押し負けるなら焔燃がいる。相手の武器や構えを折るなら土公がいる」

 

 玄斎は短く鼻を鳴らした。

 

「言葉だけなら、少しは分かったようだな」

 

「身体ではまだ全然です」

 

「当然だ」

 

 レンは苦笑した。

 

 玄斎は庭を見る。

 

「明日から、五剣一式を続けてやる」

 

「続けて?」

 

「雷電、焔燃、虚空、水龍、土公。一つずつではない。流れの中で繋げる」

 

 レンは息を呑んだ。

 

「できるでしょうか」

 

「できん」

 

 即答だった。

 

「え」

 

「できんからやる」

 

 玄斎は当然のように言った。

 

「型は、覚えるだけでは死ぬ。実戦では一つの技が終わるまで待ってくれる敵などおらん」

 

「はい」

 

「一つが崩れたら次へ繋げろ。次が潰れたらその次へ逃がせ。五剣は、途切れたら死ぬ」

 

 レンは頷いた。

 

 五剣を繋ぐ。

 

 今の自分には難しすぎる。

 

 だが、胸が熱くなった。

 

 それは紫電閃を初めて見た時と似ていた。

 

 新しい扉の前に立っている感覚。

 

 玄斎は続ける。

 

「五剣一式を通せるようになれば、武者修行に出す」

 

 レンは顔を上げた。

 

「外へ、ですか」

 

「道場の中だけでは、武は育たん」

 

 外。

 

 山の外。

 

 道場の外。

 

 この世界へ。

 

 魔術があり、魔物がいて、剣士がいる世界へ。

 

 レンの胸が高鳴る。

 

 怖くないわけではない。

 

 むしろ怖い。

 

 だが、足は止まらない。

 

 玄斎はレンを見る。

 

「浮かれるな」

 

「はい」

 

「外に出れば、道場の稽古とは違う。相手は待たん。手加減もせん。お前が子供だろうが、未熟だろうが、斬れるなら斬ってくる」

 

「はい」

 

「それでも行くか」

 

 レンは少しも迷わなかった。

 

「行きます」

 

「なぜだ」

 

「強くなるためです」

 

「それだけか」

 

 玄斎の問いは、いつも同じだった。

 

 だがレンの答えは、少しずつ変わっていた。

 

 レンは夜の庭を見る。

 

 紫電閃で鳴らした鈴。

 

 薪を割った場所。

 

 ガイと打ち合った場所。

 

 何度も転んだ土。

 

 そのすべてが、今の自分を作っている。

 

「自分の剣が、外でどれくらい通じるのか知りたい」

 

 レンは言った。

 

「それと」

 

「それと?」

 

「怖くても、知らない相手の前で足が止まらないか試したい」

 

 玄斎は静かに目を細めた。

 

「よかろう」

 

 短い言葉。

 

 それで、レンの武者修行が決まった。

 

 ◇

 

 翌日から、五剣一式を繋ぐ稽古が始まった。

 

 それは地獄だった。

 

 まず雷電型一式で入る。

 

 壱。

 

 弐。

 

 参。

 

 そこから焔燃型・火柱へ。

 

 だが、雷電の速度のまま火柱へ入ろうとすると、力が通らない。

 

 身体が前へ流れ、火柱が軽くなる。

 

 玄斎の木刀が飛ぶ。

 

「雷電を引きずるな」

 

 やり直し。

 

 雷電。

 

 火柱。

 

 今度は火柱を意識しすぎ、雷電が遅くなる。

 

「切り替えが遅い」

 

 やり直し。

 

 雷電。

 

 火柱。

 

 虚空型・影縫へ。

 

 火柱の力みが残り、身体が消えない。

 

「重い」

 

 やり直し。

 

 雷電。

 

 火柱。

 

 影縫。

 

 水龍型・逆鱗へ。

 

 握り替えで木刀が遅れる。

 

「手でやるな」

 

 やり直し。

 

 雷電。

 

 火柱。

 

 影縫。

 

 逆鱗。

 

 土公型・荒神へ。

 

 最後には足が死に、木刀を弾くどころか自分の体勢が崩れる。

 

「終わる前に死んでおる」

 

 やり直し。

 

 五剣を繋ぐとは、五つの技を順番に出すことではなかった。

 

 雷電の身体から、焔燃の身体へ。

 

 焔燃の身体から、虚空の身体へ。

 

 虚空から水龍へ。

 

 水龍から土公へ。

 

 そのたびに、力の通り道が変わる。

 

 重心の置き方が変わる。

 

 呼吸の使い方が変わる。

 

 目の置き方が変わる。

 

 同じ木刀を握っていても、身体の中身を変えなければならない。

 

 レンは何度も失敗した。

 

 しかし、何度も繰り返すうちに、ほんの少しだけ繋がる瞬間が生まれた。

 

 雷電で入った勢いを、火柱の重さへ変える。

 

 火柱で生まれた相手の意識の硬直を、影縫で外す。

 

 影縫で外した位置から、逆鱗で防御の隙間を通す。

 

 逆鱗を受けようとした相手の武器を、荒神で折る。

 

 もちろん、実戦で使えるようなものではない。

 

 相手が玄斎なら、一手目で転がされる。

 

 ガイ相手にも、途中で止められる。

 

 それでもレンは、五剣が一本の線になる感覚を初めて知った。

 

 ◇

 

 七日目の夕方。

 

 レンは庭の中央に立った。

 

 玄斎が見ている。

 

 弟子たちも見ている。

 

 ガイも腕を組んで立っていた。

 

 武者修行へ出る前の、最後の確認。

 

 五剣一式。

 

 通せなければ、出立は延期。

 

 玄斎は短く言った。

 

「始めろ」

 

 レンは木刀を構える。

 

 息を吸う。

 

 吐く。

 

 足裏で地面を感じる。

 

 膝を固めない。

 

 腰を浮かせない。

 

 肩を落とす。

 

 呼吸を通す。

 

 まず、立つ。

 

 そこから。

 

 雷電型一式。

 

 重心を落とし、前へ滑る。

 

 壱。

 

 弐。

 

 参。

 

 速さに溺れない。

 

 前へ出た勢いを、斬撃の重さへ変える。

 

 焔燃型第一式、火柱。

 

 片手で振り被り、肘裏を弾く。

 

 足裏から膝、腰、背中、肩、肘、手首。

 

 力を通す。

 

 木刀が空を打ち、重い音が鳴る。

 

 力みを残さない。

 

 身体を緩める。

 

 相手の目が追う場所から外れる。

 

 虚空型第一式、影縫。

 

 肩を見せる。

 

 木刀を見せる。

 

 視線を誘い、半歩ずれる。

 

 速く消えるのではない。

 

 相手の認識から外れる。

 

 そこから、刃筋を真っ直ぐ見せる。

 

 水龍型第一式、逆鱗。

 

 振り下ろし。

 

 左右の握りを入れ替える。

 

 軌道を変える。

 

 手首だけではない。

 

 肩と腰ごと、流れを変える。

 

 最後に、受けようとする武器を狙う。

 

 土公型第一式、荒神。

 

 木刀を合わせる。

 

 触れる瞬間に小さく回す。

 

 相手の勝ち筋を折る。

 

 最後の一撃で、レンの足が少し揺れた。

 

 だが倒れなかった。

 

 剣先は前を向いている。

 

 呼吸は荒い。

 

 汗が顎から落ちる。

 

 庭に沈黙が落ちた。

 

 レンは動かない。

 

 玄斎を見る。

 

 玄斎はしばらく黙っていた。

 

 やがて、短く言った。

 

「未熟」

 

 レンは頷く。

 

「はい」

 

「軽い」

 

「はい」

 

「遅い」

 

「はい」

 

「繋ぎも粗い」

 

「はい」

 

「実戦なら三度死んでいる」

 

「はい」

 

 玄斎はそこで少しだけ間を置いた。

 

「だが、通った」

 

 レンは息を止めた。

 

「明朝、発て」

 

 その言葉が、庭に落ちた。

 

 レンの胸が熱くなる。

 

 武者修行。

 

 道場の外へ。

 

 六面世界へ。

 

 自分の剣を試す旅へ。

 

 ガイが小さく舌打ちした。

 

 だが、その顔には以前のような嘲りはなかった。

 

 悔しさと、少しの認める気配があった。

 

 レンは木刀を下ろし、深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

 玄斎は背を向ける。

 

「礼は帰ってから言え」

 

「はい」

 

「死んだら聞けん」

 

 それだけ言って、玄斎は道場の奥へ戻っていった。

 

 ◇

 

 夜。

 

 レンは荷物をまとめた。

 

 替えの服。

 

 干し肉。

 

 水袋。

 

 小さな銭袋。

 

 手入れ用の布。

 

 そして、木刀。

 

 真剣はまだ持たされなかった。

 

 玄斎は言った。

 

 今のお前に真剣は早い。

 

 木刀で生きて帰ってこい。

 

 それが、最初の修行だと。

 

 レンは布袋の奥から、古い木の枝を取り出した。

 

 孤児院で振っていた枝だった。

 

 何度も折れかけ、もう剣としては使えない。

 

 それでも捨てられなかった。

 

 前世で止まった足を、もう一度動かそうとした最初の一本。

 

 レンはそれをしばらく見つめ、道場の隅に置いた。

 

 持っていく必要はない。

 

 もう枝ではない。

 

 今は木刀がある。

 

 大亀流がある。

 

 だが、忘れないために置いていく。

 

 自分がどこから始まったのかを。

 

 翌朝。

 

 山の空は薄く白んでいた。

 

 玄斎は道場の前に立っていた。

 

 弟子たちも数人、見送りに出ている。

 

 ガイもいた。

 

 レンは荷物を背負い、木刀を腰に差す。

 

 玄斎の前に立つ。

 

「行ってきます」

 

「行ってこい」

 

 短いやり取りだった。

 

 玄斎は片腕で、一本の小さな札を差し出した。

 

 木札だった。

 

 そこには、古い文字で大亀流と刻まれている。

 

「これは」

 

「大亀流の名を出す時だけ見せろ」

 

「はい」

 

「軽々しく名乗るな」

 

「はい」

 

「だが、逃げるな」

 

 レンは顔を上げた。

 

 玄斎は静かに言う。

 

「お前はまだ弱い。だが、大亀流を背負って外へ出る。ならば、己の未熟を隠すな。負ける時は負けろ。だが、目を逸らすな」

 

 レンは深く頷いた。

 

「はい」

 

「そして、生きて帰れ」

 

 その言葉だけ、少し重かった。

 

 レンは胸の奥で受け止める。

 

「必ず」

 

 玄斎はそれ以上何も言わなかった。

 

 レンは道場に向かって頭を下げる。

 

 大亀流。

 

 山奥の古びた道場。

 

 何度も転び、何度も叩きつけられ、何度も立った場所。

 

 ここから、自分は外へ出る。

 

 怖くないわけではない。

 

 だが、足は前を向いている。

 

 レンは山道へ一歩踏み出した。

 

 足裏で土を感じる。

 

 膝を固めない。

 

 腰を浮かせない。

 

 肩を落とす。

 

 呼吸を通す。

 

 立つ。

 

 歩く。

 

 前へ。

 

 前世で止まった足が、今は山を下りていく。

 

 レン・クロガネ。

 

 大亀流の亀の子。

 

 雷電型に才を持ち、五剣一式をようやく通したばかりの未熟な少年。

 

 彼の初めての武者修行は、こうして始まった。

 

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