紫電閃が形になってから、レンは少し変わった。
本人にそのつもりはなかった。
浮かれているつもりもない。
調子に乗っているつもりもない。
だが、身体は正直だった。
木刀を握る。
相手を見る。
間合いを測る。
その時、真っ先に頭に浮かぶのは雷電型だった。
前へ。
速く。
相手の反応より先に。
相手が構える前に懐へ入る。
相手が防御を選ぶ前に斬る。
それは気持ちがよかった。
紫電閃は危うい技だ。
玄斎にも何度も言われている。
読まれれば死ぬ。
避けられれば死ぬ。
止まれなければ死ぬ。
それでも、あの一瞬の速さはレンの胸を掴んで離さなかった。
前世で止まった足が、今は前へ出る。
その実感がある。
だからこそ、レンは無意識に紫電閃へ寄っていった。
朝の足運びでも、前へ落ちる感覚を探す。
薪割りでも、踏み込みの速さを試す。
水汲みの帰り道でも、桶を置いたまま斜面で前へ滑る稽古をする。
五剣の稽古中でさえ、焔燃型の火柱に紫電閃の踏み込みを混ぜようとし、虚空型の影縫を雷電の速さで誤魔化そうとした。
玄斎は何も言わなかった。
最初は。
ただ、黙って見ていた。
それが一番怖いことだと、レンはまだ知らなかった。
◇
その日の稽古相手は、年上の弟子だった。
名をガイと言う。
十四歳。
背はレンより頭二つ分以上高く、腕も太い。
以前、レンに絡んできた少年でもある。
あれ以来、ガイはレンを露骨に馬鹿にすることは減った。
だが、快く思っていないのは変わらない。
レンが玄斎から直々に紫電閃を教わっていることも、気に食わないらしかった。
庭の中央で、二人は向かい合う。
レンは木刀を構えた。
ガイも木刀を構える。
玄斎は縁側に座り、片腕を膝に置いていた。
「始めろ」
短い声。
その瞬間、レンの身体は沈んだ。
ガイの肩が動く。
いや、動こうとした。
その前に、レンは前へ落ちる。
大亀流雷電型第二式。
紫電閃。
景色が流れる。
ガイの目が見開かれる。
いける。
そう思った。
木刀がガイの胴へ向かう。
だが、当たらなかった。
ガイは後ろへ飛んだのではない。
横へ逃げたのでもない。
木刀を斜めに出し、レンの刃筋をわずかに逸らした。
同時に、足を引く。
レンの木刀はガイの脇をすり抜けた。
次の瞬間、レンの身体は前へ流れる。
止まれない。
まずい、と思う前に、ガイの木刀がレンの背中へ打ち込まれた。
「ぐっ!」
息が詰まる。
レンは地面を転がった。
木刀は離さなかった。
剣先も死なせなかった。
だが、負けは負けだった。
ガイは荒い息を吐きながらも、にやりと笑う。
「速いだけじゃねえか」
レンは唇を噛んだ。
背中が痛い。
だが、それ以上に言葉が痛かった。
速いだけ。
自分が一番言われたくない言葉だった。
「もう一回」
レンは立ち上がる。
玄斎は止めなかった。
ガイも構える。
再び、開始。
今度はレンも考えた。
真正面から紫電閃を出せば、また逸らされる。
ならば、少し角度を変える。
雷電型一式で間合いを詰め、途中から紫電閃へ移る。
レンは足を動かす。
ガイが構える。
レンは一度、浅く入る。
ガイの木刀が反応する。
その瞬間、レンはさらに沈んだ。
紫電閃。
だが、ガイは読んでいた。
今度は受けず、半歩だけ下がる。
レンの木刀が空を切る。
また身体が流れる。
ガイの木刀が、今度はレンの肩を打った。
痛みで膝が落ちる。
「二度目だ」
ガイが言う。
レンは歯を食いしばった。
立つ。
もう一回。
三度目。
今度は紫電閃を見せずに、雷電型一式の壱、弐、参で攻める。
だが、焦っていた。
壱が浅い。
弐が遅れる。
参の前に、ガイの木刀がレンの手元を打つ。
木刀が跳ねた。
落とさなかった。
だが、握りが崩れる。
その隙に、ガイの木刀が喉元に止まった。
レンは動けなかった。
ガイが息を吐く。
「三度目」
その声には、勝ち誇りが混じっていた。
レンの胸の奥が熱くなる。
悔しい。
ただ悔しい。
紫電閃なら勝てると思っていたわけではない。
だが、どこかで思っていたのだ。
これがあれば、少しくらい上の相手にも届くのではないかと。
その甘さを、三度続けて叩き潰された。
玄斎がようやく立ち上がった。
「そこまでだ」
ガイは木刀を下げる。
レンは動けずにいた。
玄斎は庭へ降り、レンの前に立つ。
「何が悪かった」
レンは答えようとした。
踏み込みが浅かった。
止まり方が悪かった。
角度が読まれた。
気配が出た。
いくつも思い浮かぶ。
だが玄斎は、それらを待たずに言った。
「雷電しか見えておらん」
レンは顔を上げた。
「……はい」
「一度目、受け流された後に虚空で外れれば背は打たれなかった」
玄斎の声は淡々としている。
「二度目、下がられた瞬間に水龍で軌道を変えれば、空は切らなかった」
「はい」
「三度目、手元を狙われる前に土公で相手の木刀を押さえれば、喉を取られなかった」
レンは何も言えなかった。
全部、言われてみればその通りだった。
だが、戦っている最中には出てこなかった。
頭の中にあったのは雷電だけ。
速く入ること。
相手より先に斬ること。
それだけだった。
玄斎はさらに言う。
「お前は紫電閃を覚えたのではない」
レンの肩がぴくりと動く。
「紫電閃に覚えられたのだ」
「……紫電閃に」
「技に使われている」
その言葉は、木刀で打たれるより重かった。
技を使っているつもりだった。
けれど実際は、技に振り回されていた。
紫電閃の速さに惹かれ、その快感に足を引っ張られていた。
玄斎は低く言う。
「五剣一式をやり直す」
「はい」
「今日から三日、雷電型は禁止だ」
レンは思わず顔を上げた。
「え」
「返事」
「……はい」
雷電型禁止。
その言葉は、レンにとって予想以上に重かった。
自分がどれほど雷電に頼っていたか、その瞬間に分かった。
◇
雷電型を禁じられた稽古は、苦しかった。
まず焔燃型。
火柱。
レンは木刀を振り被り、肘裏を弾く。
だが、どうしても軽い。
以前よりはましになっている。
しかし、玄斎の火柱とは違う。
玄斎の一撃は地面に重さが通る。
レンの一撃は、表面を叩いているだけ。
「力を出そうとするな」
玄斎が言う。
「力を通せ」
「通してるつもりです」
「つもりで割れる薪はない」
玄斎は庭の隅に置いた太い薪を示した。
「割れ」
レンは木刀ではなく、薪割り用の斧を持たされた。
斧を振り上げる。
火柱と同じ理屈。
足裏から膝、腰、背中、肩、肘、手首へ。
力を通す。
そう思うが、身体はすぐに力む。
振り下ろす。
刃は薪に食い込んで止まった。
割れない。
「もう一度」
斧を抜く。
振る。
止まる。
もう一度。
止まる。
手が痛くなってくる。
腕が重くなる。
汗が額を伝う。
雷電なら、前へ出ればいい。
重心を落とせば、少なくとも身体は動く。
だが焔燃は違う。
全身の力を一つの道に通さなければならない。
力を入れれば入れるほど、力が詰まる。
力を抜けば、斧が軽くなる。
加減が分からない。
玄斎は何も言わず見ていた。
レンは息を整える。
斧を振り上げる。
腕ではない。
肩でもない。
足裏で地面を感じる。
膝を緩める。
腰を動かす。
背中を通す。
肘を弾く。
斧が落ちる。
ぱきん。
薪が、わずかに割れた。
完全には割れていない。
だが、亀裂が入った。
玄斎は言う。
「今のだ」
レンは薪を見る。
「これが、火柱ですか」
「入口だ」
入口。
また入口。
紫電閃も入口。
火柱も入口。
自分は何一つ、奥へは進んでいない。
その事実に、レンは少し笑ってしまった。
先は長い。
だが、不思議と嫌ではなかった。
◇
次は虚空型だった。
影縫。
レンはこれが苦手だった。
相手の認識から外れる。
目が追う場所からずれる。
言葉では分かる。
しかし身体はどうしても「速く横へ動く」になってしまう。
雷電型を禁じられているせいで、速さで誤魔化すこともできない。
玄斎は庭に一本の竹竿を立て、その先に布を結んだ。
布は風に揺れている。
「布を見るな」
「はい」
「布が揺れる理由を見ろ」
レンは眉を寄せる。
布ではなく、布が揺れる理由。
風。
風の通り道。
木々の揺れ。
庭の空気の流れ。
玄斎は言う。
「人の目も同じだ。目そのものを見るな。なぜそこを見るかを見ろ」
「なぜ、そこを見るか……」
「人は動いたものを見る。光ったものを見る。怖いものを見る。狙いたいものを見る」
玄斎がレンの前に立つ。
「なら、見られるものを置いておけ」
そう言った瞬間、玄斎の肩がわずかに動いた。
レンの視線が、そこへ吸われる。
次の瞬間、玄斎の身体は逆側へずれていた。
目の前にいたはずなのに、見失った。
「今のは」
「お前に見せた」
「肩を?」
「そうだ。お前は肩を見た。だから儂を見失った」
レンは息を呑む。
虚空型は、単に消える技ではない。
相手に見せるものを置き、見てほしい場所へ意識を誘導し、その隙に本体が外れる。
速さではない。
認識の隙。
レンは何度も試した。
肩を動かす。
視線をずらす。
木刀をわずかに上げる。
相手の目を誘う。
そして身体をずらす。
最初は全部わざとらしかった。
ガイにもすぐ見抜かれた。
「バレバレだぞ」
そう言われ、腹に木刀を入れられる。
痛い。
悔しい。
だが、雷電は禁止。
前へ逃げることはできない。
レンは何度も影縫を繰り返した。
やがて一度だけ、ガイの視線が木刀の先へ流れた。
その瞬間、レンは半歩だけ外れた。
木刀がガイの脇をかすめる。
当たりはしなかった。
だが、ガイの目が一瞬だけ迷った。
レンはそれを見逃さなかった。
これだ。
虚空型の入口。
相手の目から外れる感覚。
雷電のような快感はない。
だが、相手の意識が自分を見失う一瞬には、別の怖さがあった。
◇
三日目は、水龍型と土公型だった。
水龍型第一式、逆鱗。
振り下ろしの瞬間に握りを入れ替え、軌道を変える。
レンは相変わらず手首でやろうとして、玄斎に叩かれた。
「手で曲げるな」
「はい」
「曲げようとするな」
「曲げないんですか」
「相手に、真っ直ぐ来ると思わせろ」
玄斎はゆっくり木刀を振る。
最初の軌道は真っ直ぐだった。
受けるならそこ。
避けるならそこ。
そう思わせる。
だが、当たる直前に握りが替わり、刃筋がずれる。
防御の隙間を通る。
「水龍は変化の型ではない」
「違うんですか」
「相手に誤った防御を選ばせる型だ」
レンはその言葉にぞくりとした。
ただ軌道を変えるだけなら、自分の技で終わる。
だが相手に誤った防御を選ばせるなら、それは相手を使う技になる。
雷電は相手の反応を置き去りにする。
水龍は相手の反応そのものを間違わせる。
レンは何度も逆鱗を振った。
真っ直ぐ見せる。
途中で替える。
だが、替えることを意識すると最初から不自然になる。
逆に自然に振れば、軌道が変わらない。
何度も失敗した。
それでも、一度だけガイの木刀が空を受けた。
レンの木刀はその下を通り、ガイの胴の前で止まる。
ガイが目を見開いた。
レンも驚いていた。
玄斎は短く言った。
「今のを忘れるな」
「はい」
その一言で十分だった。
次は土公型。
荒神。
レンはこれが怖かった。
自分がやる側になっても、怖い。
相手の武器を狙う。
刃と刃が触れる瞬間、木刀を回転させ、相手の武器を弾く。
だが、力任せに叩けば自分の手が痺れる。
角度を間違えれば、逆に弾かれる。
レンはガイと向かい合った。
ガイは先ほど逆鱗で一本取られかけたことを気にしているのか、少し荒く踏み込んできた。
木刀が振り下ろされる。
レンは受けるのではなく、相手の木刀の腹を見る。
どこに力が乗っているか。
どこが勝ち筋か。
玄斎の言葉を思い出す。
土公は武器を見る型ではない。
武器の先にある勝ち筋を見る。
ガイは力で押し潰そうとしている。
なら、そこを折る。
レンは荒神の構えから木刀を合わせた。
刃と刃が触れる瞬間、手首だけでなく肘と肩を使い、木刀を小さく回す。
がん、と音がした。
ガイの木刀は弾き飛ばされなかった。
しかし、軌道が大きく外れた。
ガイの体勢が崩れる。
レンは反射的に雷電で踏み込もうとした。
だが、禁じられている。
足が止まる。
代わりに、火柱の踏み込みで木刀を振り下ろした。
寸止め。
ガイの肩の上で、木刀が止まる。
庭が静かになった。
ガイは歯を食いしばっている。
レンも息を切らしていた。
勝った。
雷電を使わずに。
紫電閃を使わずに。
玄斎はしばらく黙っていた。
そして言った。
「よし」
ただ一言。
それだけだった。
だが、レンには十分すぎた。
◇
三日の雷電禁止が終わった夜、レンは縁側に座って足を投げ出していた。
身体中が痛い。
紫電閃の稽古とは違う疲れだった。
腕が重い。
腰が痛い。
手首が腫れている。
それでも、不思議と心は静かだった。
雷電型を禁じられた三日間。
最初は苦しかった。
前へ出たいのに出られない。
速さで届かせたいのに、それを許されない。
だが、そのおかげで見えたものがある。
焔燃の重さ。
虚空の外し。
水龍の惑わせ。
土公の折り。
どれも雷電とは違う。
だが、雷電を殺すものではない。
むしろ、雷電を生かすものだ。
雷電で入る。
だが、入った後に焔燃がなければ砕けない。
虚空がなければ外れない。
水龍がなければ防御を抜けない。
土公がなければ相手の勝ち筋を折れない。
五剣は、別々の技ではない。
五つの身体の使い方。
五つの考え方。
五つの生き残り方。
レンは自分の掌を見つめた。
豆が潰れ、皮が厚くなり始めている。
孤児院で枝を握っていた頃の手とは、少しだけ違う。
玄斎が隣に来た。
いつものように、気配なく。
レンはもう驚かなかった。
いや、少しは驚いたが、顔には出さなかった。
「分かったか」
玄斎が言う。
「少しだけ」
「何がだ」
「雷電だけじゃ駄目だってことです」
「それだけか」
レンは少し考える。
そして答えた。
「雷電を使うためにも、雷電以外がいる」
玄斎は黙った。
その沈黙が、否定ではないことは分かった。
レンは続ける。
「紫電閃は前へ出る技です。でも、前へ出た後に何もなければ死ぬ。外された時に虚空がいる。受けられた時に水龍がいる。押し負けるなら焔燃がいる。相手の武器や構えを折るなら土公がいる」
玄斎は短く鼻を鳴らした。
「言葉だけなら、少しは分かったようだな」
「身体ではまだ全然です」
「当然だ」
レンは苦笑した。
玄斎は庭を見る。
「明日から、五剣一式を続けてやる」
「続けて?」
「雷電、焔燃、虚空、水龍、土公。一つずつではない。流れの中で繋げる」
レンは息を呑んだ。
「できるでしょうか」
「できん」
即答だった。
「え」
「できんからやる」
玄斎は当然のように言った。
「型は、覚えるだけでは死ぬ。実戦では一つの技が終わるまで待ってくれる敵などおらん」
「はい」
「一つが崩れたら次へ繋げろ。次が潰れたらその次へ逃がせ。五剣は、途切れたら死ぬ」
レンは頷いた。
五剣を繋ぐ。
今の自分には難しすぎる。
だが、胸が熱くなった。
それは紫電閃を初めて見た時と似ていた。
新しい扉の前に立っている感覚。
玄斎は続ける。
「五剣一式を通せるようになれば、武者修行に出す」
レンは顔を上げた。
「外へ、ですか」
「道場の中だけでは、武は育たん」
外。
山の外。
道場の外。
この世界へ。
魔術があり、魔物がいて、剣士がいる世界へ。
レンの胸が高鳴る。
怖くないわけではない。
むしろ怖い。
だが、足は止まらない。
玄斎はレンを見る。
「浮かれるな」
「はい」
「外に出れば、道場の稽古とは違う。相手は待たん。手加減もせん。お前が子供だろうが、未熟だろうが、斬れるなら斬ってくる」
「はい」
「それでも行くか」
レンは少しも迷わなかった。
「行きます」
「なぜだ」
「強くなるためです」
「それだけか」
玄斎の問いは、いつも同じだった。
だがレンの答えは、少しずつ変わっていた。
レンは夜の庭を見る。
紫電閃で鳴らした鈴。
薪を割った場所。
ガイと打ち合った場所。
何度も転んだ土。
そのすべてが、今の自分を作っている。
「自分の剣が、外でどれくらい通じるのか知りたい」
レンは言った。
「それと」
「それと?」
「怖くても、知らない相手の前で足が止まらないか試したい」
玄斎は静かに目を細めた。
「よかろう」
短い言葉。
それで、レンの武者修行が決まった。
◇
翌日から、五剣一式を繋ぐ稽古が始まった。
それは地獄だった。
まず雷電型一式で入る。
壱。
弐。
参。
そこから焔燃型・火柱へ。
だが、雷電の速度のまま火柱へ入ろうとすると、力が通らない。
身体が前へ流れ、火柱が軽くなる。
玄斎の木刀が飛ぶ。
「雷電を引きずるな」
やり直し。
雷電。
火柱。
今度は火柱を意識しすぎ、雷電が遅くなる。
「切り替えが遅い」
やり直し。
雷電。
火柱。
虚空型・影縫へ。
火柱の力みが残り、身体が消えない。
「重い」
やり直し。
雷電。
火柱。
影縫。
水龍型・逆鱗へ。
握り替えで木刀が遅れる。
「手でやるな」
やり直し。
雷電。
火柱。
影縫。
逆鱗。
土公型・荒神へ。
最後には足が死に、木刀を弾くどころか自分の体勢が崩れる。
「終わる前に死んでおる」
やり直し。
五剣を繋ぐとは、五つの技を順番に出すことではなかった。
雷電の身体から、焔燃の身体へ。
焔燃の身体から、虚空の身体へ。
虚空から水龍へ。
水龍から土公へ。
そのたびに、力の通り道が変わる。
重心の置き方が変わる。
呼吸の使い方が変わる。
目の置き方が変わる。
同じ木刀を握っていても、身体の中身を変えなければならない。
レンは何度も失敗した。
しかし、何度も繰り返すうちに、ほんの少しだけ繋がる瞬間が生まれた。
雷電で入った勢いを、火柱の重さへ変える。
火柱で生まれた相手の意識の硬直を、影縫で外す。
影縫で外した位置から、逆鱗で防御の隙間を通す。
逆鱗を受けようとした相手の武器を、荒神で折る。
もちろん、実戦で使えるようなものではない。
相手が玄斎なら、一手目で転がされる。
ガイ相手にも、途中で止められる。
それでもレンは、五剣が一本の線になる感覚を初めて知った。
◇
七日目の夕方。
レンは庭の中央に立った。
玄斎が見ている。
弟子たちも見ている。
ガイも腕を組んで立っていた。
武者修行へ出る前の、最後の確認。
五剣一式。
通せなければ、出立は延期。
玄斎は短く言った。
「始めろ」
レンは木刀を構える。
息を吸う。
吐く。
足裏で地面を感じる。
膝を固めない。
腰を浮かせない。
肩を落とす。
呼吸を通す。
まず、立つ。
そこから。
雷電型一式。
重心を落とし、前へ滑る。
壱。
弐。
参。
速さに溺れない。
前へ出た勢いを、斬撃の重さへ変える。
焔燃型第一式、火柱。
片手で振り被り、肘裏を弾く。
足裏から膝、腰、背中、肩、肘、手首。
力を通す。
木刀が空を打ち、重い音が鳴る。
力みを残さない。
身体を緩める。
相手の目が追う場所から外れる。
虚空型第一式、影縫。
肩を見せる。
木刀を見せる。
視線を誘い、半歩ずれる。
速く消えるのではない。
相手の認識から外れる。
そこから、刃筋を真っ直ぐ見せる。
水龍型第一式、逆鱗。
振り下ろし。
左右の握りを入れ替える。
軌道を変える。
手首だけではない。
肩と腰ごと、流れを変える。
最後に、受けようとする武器を狙う。
土公型第一式、荒神。
木刀を合わせる。
触れる瞬間に小さく回す。
相手の勝ち筋を折る。
最後の一撃で、レンの足が少し揺れた。
だが倒れなかった。
剣先は前を向いている。
呼吸は荒い。
汗が顎から落ちる。
庭に沈黙が落ちた。
レンは動かない。
玄斎を見る。
玄斎はしばらく黙っていた。
やがて、短く言った。
「未熟」
レンは頷く。
「はい」
「軽い」
「はい」
「遅い」
「はい」
「繋ぎも粗い」
「はい」
「実戦なら三度死んでいる」
「はい」
玄斎はそこで少しだけ間を置いた。
「だが、通った」
レンは息を止めた。
「明朝、発て」
その言葉が、庭に落ちた。
レンの胸が熱くなる。
武者修行。
道場の外へ。
六面世界へ。
自分の剣を試す旅へ。
ガイが小さく舌打ちした。
だが、その顔には以前のような嘲りはなかった。
悔しさと、少しの認める気配があった。
レンは木刀を下ろし、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
玄斎は背を向ける。
「礼は帰ってから言え」
「はい」
「死んだら聞けん」
それだけ言って、玄斎は道場の奥へ戻っていった。
◇
夜。
レンは荷物をまとめた。
替えの服。
干し肉。
水袋。
小さな銭袋。
手入れ用の布。
そして、木刀。
真剣はまだ持たされなかった。
玄斎は言った。
今のお前に真剣は早い。
木刀で生きて帰ってこい。
それが、最初の修行だと。
レンは布袋の奥から、古い木の枝を取り出した。
孤児院で振っていた枝だった。
何度も折れかけ、もう剣としては使えない。
それでも捨てられなかった。
前世で止まった足を、もう一度動かそうとした最初の一本。
レンはそれをしばらく見つめ、道場の隅に置いた。
持っていく必要はない。
もう枝ではない。
今は木刀がある。
大亀流がある。
だが、忘れないために置いていく。
自分がどこから始まったのかを。
翌朝。
山の空は薄く白んでいた。
玄斎は道場の前に立っていた。
弟子たちも数人、見送りに出ている。
ガイもいた。
レンは荷物を背負い、木刀を腰に差す。
玄斎の前に立つ。
「行ってきます」
「行ってこい」
短いやり取りだった。
玄斎は片腕で、一本の小さな札を差し出した。
木札だった。
そこには、古い文字で大亀流と刻まれている。
「これは」
「大亀流の名を出す時だけ見せろ」
「はい」
「軽々しく名乗るな」
「はい」
「だが、逃げるな」
レンは顔を上げた。
玄斎は静かに言う。
「お前はまだ弱い。だが、大亀流を背負って外へ出る。ならば、己の未熟を隠すな。負ける時は負けろ。だが、目を逸らすな」
レンは深く頷いた。
「はい」
「そして、生きて帰れ」
その言葉だけ、少し重かった。
レンは胸の奥で受け止める。
「必ず」
玄斎はそれ以上何も言わなかった。
レンは道場に向かって頭を下げる。
大亀流。
山奥の古びた道場。
何度も転び、何度も叩きつけられ、何度も立った場所。
ここから、自分は外へ出る。
怖くないわけではない。
だが、足は前を向いている。
レンは山道へ一歩踏み出した。
足裏で土を感じる。
膝を固めない。
腰を浮かせない。
肩を落とす。
呼吸を通す。
立つ。
歩く。
前へ。
前世で止まった足が、今は山を下りていく。
レン・クロガネ。
大亀流の亀の子。
雷電型に才を持ち、五剣一式をようやく通したばかりの未熟な少年。
彼の初めての武者修行は、こうして始まった。