山道を下りる足は、思ったよりも軽かった。
いや、荷物は重い。
背中の布袋には替えの服、干し肉、水袋、手入れ用の布、それからわずかな銭が入っている。腰には木刀。懐には、玄斎から渡された大亀流の木札。
大人の旅人ならどうということもない荷物かもしれない。
だが、今のレンはまだ子供だ。
背にかかる重みは確かにあった。
それでも足は止まらない。
道場を出てから、何度も振り返りそうになった。
山奥の古びた道場。
玄斎の低い声。
ガイたち弟子の視線。
庭に立てられた杭と、鈴の音。
何度も転んだ土の匂い。
それらが背中の向こうへ遠ざかっていく。
寂しさがないわけではなかった。
だが、それ以上に胸が騒いでいた。
外へ出る。
道場の中ではなく、六面世界の中へ。
そこには魔物がいる。
剣士がいる。
魔術師がいる。
何をしてくるか分からない相手がいる。
道場の稽古では、玄斎は打ってくる前に殺しはしなかった。
ガイたちも、どれだけ腹を立てていても木刀を止めた。
だが外では違う。
相手は止めない。
こちらが子供でも、見習いでも、未熟でも関係ない。
斬れるなら斬ってくる。
噛めるなら噛んでくる。
奪えるなら奪ってくる。
それを思うと、腹の奥が冷えた。
怖い。
けれど、足は止まらない。
レンは山道の途中で一度立ち止まり、足裏で土を確かめた。
膝を固めない。
腰を浮かせない。
肩を落とす。
呼吸を通す。
立つ。
ただ、それだけ。
そこから一歩出る。
歩く。
道場で何度も繰り返した動きだった。
ただ歩くだけでも、身体の癖は出る。
焦れば足が先へ行く。
疲れれば肩が上がる。
荷物を嫌えば背が丸くなる。
急げば呼吸が乱れる。
玄斎なら、どれも見逃さない。
今はその目がない。
だからこそ、自分で見るしかない。
自分の身体を。
自分の足を。
自分の呼吸を。
レンは道場で教えられたことを一つずつ思い出しながら、山を下りていった。
◇
山を抜けた先に、小さな村があった。
石造りの家が十数軒。
畑。
井戸。
木の柵。
山奥の道場とは違う、人の暮らしの匂いがする場所だった。
畑仕事をしていた老人が、山から下りてきたレンを見て目を細める。
「坊主、一人か」
「はい」
「親は」
「いません」
老人はレンの腰の木刀を見た。
「剣士か」
「見習いです」
「見習いが一人旅とは、物騒だな」
「……そうですね」
レンもそう思う。
だが、玄斎が行けと言った。
そして自分も行くと決めた。
ならば、物騒でも進むしかない。
「水を分けてもらえますか」
「井戸ならそこだ。勝手に汲め」
「ありがとうございます」
レンは頭を下げ、井戸へ向かった。
桶を落とし、水を汲む。
道場で何度もやらされた水汲みと同じだ。
腕だけで引かない。
背中と腰で受ける。
足裏で地面を掴む。
桶の重さを身体に通す。
ただ水を汲むだけなのに、玄斎の声が浮かぶ。
レンは苦笑した。
どこにいても稽古がついてくる。
水を飲むと、冷たさが喉を通った。
うまい。
山を下り続けた身体に染みる。
その時、村の入り口の方から慌ただしい声が聞こえた。
「戻ったぞ!」
「荷車だ!」
「誰か怪我してる!」
村人たちがそちらへ走っていく。
レンも水袋の口を閉め、自然と足を向けた。
村の入口に、荷車が一台止まっていた。
引いている馬は荒い息を吐き、脇腹に浅い傷がある。
荷車のそばには、中年の男と若い女、それから十歳ほどの少年がいた。三人とも旅装で、行商人らしい。
男の腕には布が巻かれている。
血が滲んでいた。
「何があった」
先ほどの老人が尋ねる。
行商人の男は顔をしかめて答えた。
「街道で野盗だ。いや、野盗ってほど大人数じゃない。三人だ。だが、武器を持ってた」
「荷は」
「少し取られた。だが全部じゃない。追ってくるかもしれん」
村人たちがざわつく。
「追ってくるって……」
「ここまで来るのか」
「柵を閉めろ」
「子供を家へ入れろ」
空気が一気に硬くなった。
レンは荷車の轍を見た。
泥のついた車輪の跡。
馬の蹄。
それとは別に、荒い足跡がいくつかある。
三人。
行商人の言葉どおりなら、相手は三人。
武器持ち。
人間相手。
魔物とは違う。
魔物は牙や爪で来る。
人間は考える。
騙す。
脅す。
逃げるふりもする。
玄斎の言葉が浮かぶ。
外に出れば、道場の稽古とは違う。
相手は待たない。
レンは木刀の柄に触れた。
老人がそれに気づいた。
「坊主、余計なことを考えるな」
「でも」
「相手は大人だ。木刀を持った子供がどうこうできるもんじゃない」
もっともな言葉だった。
レンはまだ子供だ。
背も低い。
腕も細い。
真剣ではなく木刀しか持っていない。
それでも、足は退かなかった。
前世の雨の日。
あの時も、相手は大人だった。
刃物を持っていた。
怖かった。
だから足が止まった。
今はどうだ。
怖い。
やはり怖い。
だが、止まるつもりはない。
「村の人だけで守れるんですか」
レンが尋ねると、老人は口を閉じた。
村人たちは鍬や棒を持っている。
だが、戦い慣れている者はいない。
行商人の男も怪我をしている。
相手が本当に追ってくれば、誰かが傷つく。
老人は苦い顔をした。
「……柵の内側に入れ。外に出るな」
「はい」
レンはそう答えた。
外には出ない。
だが、内側で何もしないとは言っていない。
◇
夕方近く。
野盗たちは本当に来た。
村の東側。
柵の外に、三人の男が現れた。
一人は短剣。
一人は錆びた片手剣。
一人は斧を持っている。
服装はばらばらで、鎧らしい鎧もない。
だが、目つきは悪い。
こちらを見下すような、慣れた目だった。
「おーい」
片手剣の男が笑う。
「さっきの荷車、ここに逃げ込んだよな?」
村人たちは柵の内側で鍬や棒を構えている。
だが、腰が引けていた。
斧の男が柵を斧で軽く叩いた。
「なあ、揉めたくないんだよ。荷を置いてくれりゃ帰る。そこの商人も出せ。痛い目見たくないだろ?」
行商人の少年が母親の後ろに隠れる。
その姿を見て、レンの胸の奥が熱くなった。
雨の日の男の子と重なる。
小さな身体。
怯えた目。
自分より大きな暴力に、何もできず立ち尽くす姿。
レンは呼吸を整えた。
怒りで前へ出るな。
怖さで固まるな。
相手を見る。
片手剣。
短剣。
斧。
三人。
距離。
柵。
村人の位置。
子供の位置。
足場は土。
夕方で視界はやや暗い。
紫電閃の間合いではない。
柵が邪魔だ。
それに、ここで大きく前へ出れば、残り二人に横を取られる。
まずは誘う。
レンは村人たちの後ろから前へ出た。
老人が目を剥く。
「坊主!」
野盗たちもレンを見た。
一瞬の沈黙。
次いで、短剣の男が吹き出した。
「なんだ、子供かよ」
「木刀持ってるぞ」
「剣士ごっこか?」
三人が笑う。
レンは何も言わず、柵の前に立った。
木刀を抜く。
構える。
前世の剣道の正眼ではない。
大亀流の稽古で身につけた、肩に余計な力を入れない自然体。
すぐ前へも出られる。
横へも外れられる。
下がることもできる。
ただ、立つ。
片手剣の男が笑いながら柵をまたいだ。
「おいおい、やる気か?」
村人がざわつく。
老人が止めようとする。
レンは手で制した。
相手は油断している。
子供だと思っている。
木刀だと思っている。
それは好都合だった。
片手剣の男が近づく。
剣をだらりと下げている。
構えにもなっていない。
だが、腕はいつでも振れる位置にある。
油断しているようで、最低限の間合いは見ている。
レンは相手の足を見る。
前足に体重が乗っている。
右肩が少し前。
剣を振るなら上からではなく、横。
子供相手に脅すつもりの雑な横薙ぎ。
男が口を開く。
「痛い目見る前にどきな」
その直後、予想どおり剣が横へ動いた。
速くはない。
だが、真剣だ。
当たれば木刀とは違う。
肉が裂ける。
レンは踏み込まなかった。
半歩だけ下がる。
剣先が鼻先を通る。
風が頬を撫でた。
怖い。
だが、目は逸らさない。
剣が通り過ぎた瞬間、男の脇が開く。
レンは木刀を袈裟に振り下ろした。
大きく振りかぶらない。
一息で落とす。
木刀が男の右手首を打った。
「がっ!」
男の剣が落ちる。
村人たちが息を呑む。
レンは止まらない。
手首を打った流れのまま、木刀を返す。
今度は膝。
男の前足を払うように打つ。
男の体勢が崩れる。
最後に木刀の柄で鳩尾を突いた。
男が膝をつき、息を吐けずに倒れる。
時間にすれば、一呼吸にも満たなかった。
名前のある技ではない。
ただ避け、打ち、崩しただけ。
だが、相手は倒れた。
短剣の男の顔から笑みが消える。
「てめえ……!」
短剣の男が柵を越えた。
動きが速い。
片手剣の男より身軽だ。
低く走り、レンの懐へ入ろうとしてくる。
短剣は厄介だ。
間合いが近い。
一度入られると木刀では取り回しにくい。
紫電閃で先に潰すか。
そう思った瞬間、玄斎の声が胸に響いた。
技に使われるな。
レンは踏みとどまる。
相手が入ってくる。
なら、入らせてからずらす。
短剣の男が突いてきた。
右手。
喉ではない。
腹。
子供相手だから、殺すより痛めつけるつもりか。
レンは身体を右へ開いた。
虚空型というほど大げさではない。
ただ、突きの線から外れる。
短剣が服をかすめた。
近い。
怖い。
だが、近いならこちらも届く。
レンは木刀の長さを捨てた。
柄に近い部分で男の手首を押さえ、肩から身体をぶつける。
軽い身体だ。
正面から押せば負ける。
だから、相手の突きの勢いを少しだけ外へ逃がす。
男の身体が前に流れた。
レンはその足元へ木刀を入れる。
土公型の荒神ではない。
だが、勝ち筋を折る考え方は同じ。
短剣の男は足を取られ、前へ転ぶ。
レンは木刀を逆手気味に持ち替え、男の後頭部ではなく、肩口を打った。
骨に響く音。
短剣が落ちる。
男がうめいた。
二人目。
残るは斧の男。
斧の男は柵の外で顔を歪めていた。
仲間二人が、子供に倒された。
怒りと焦り。
その両方が見える。
「ガキが!」
斧の男が柵を蹴破るように入ってくる。
大きい。
力もある。
振り回す斧は危険だ。
木刀でまともに受ければ折れるか、腕が痺れる。
荒神で武器を弾くには、まだレンの力も技も足りない。
紫電閃で懐に入るか。
距離はある。
間合いも合う。
だが、男は怒っているようでいて、斧を身体の前に置いていた。
入ってくる相手を叩き潰す構え。
紫電閃を読んでいるわけではない。
だが、突進してくる相手を迎え撃つ形になっている。
真正面から入れば、斧が落ちる。
レンは呼吸を吐いた。
前へ出たい。
でも、真っ直ぐではない。
斧の男が踏み込む。
斧が振り上がる。
レンはその瞬間、左足を半歩引いた。
斧が落ちる。
土が弾けた。
重い。
まともに受ければ終わる。
だが、振り下ろした直後、男の斧は地面に食い込んだ。
腕に力が入りすぎている。
抜くまで一瞬遅れる。
レンはそこへ入った。
雷電型一式。
紫電閃ではない。
短い踏み込み。
壱。
男の手首を打つ。
弐。
肘を打つ。
参。
胴へ袈裟に入れる。
斧の男が呻く。
だが倒れない。
身体が大きい。
肉も厚い。
木刀では浅い。
男が左手を伸ばし、レンの襟を掴もうとする。
レンは水龍型の逆鱗を思い出す。
真っ直ぐ振ると見せて、握りを替える。
男の手が木刀を掴もうとした瞬間、木刀の軌道を変えた。
男の指先をすり抜け、手首の内側を打つ。
「ぐっ!」
男の手が止まる。
レンはそこで初めて、重心を落とした。
斧の男の脇が開いている。
呼吸は乱れている。
視線は木刀に寄っている。
今なら入れる。
半身。
膝を曲げる。
身体を前へ預ける。
大亀流雷電型第二式。
紫電閃。
レンの身体が男の懐へ滑り込んだ。
木刀が斜めに走る。
狙いは首ではない。
顎下。
打ち抜けば意識が飛ぶ。
木刀が男の顎をかすめ上げるように入った。
男の巨体が後ろへ揺れる。
レンは止まる。
止まれ。
前へ流れるな。
足を残せ。
膝が震える。
だが、倒れない。
そこへ、最後の一撃。
木刀を振り上げず、短く落とす。
頭頂ではなく、鎖骨。
男の身体が崩れた。
斧が地面に落ちる。
村の入口に、沈黙が広がった。
レンは荒く息を吐いた。
手が震えている。
足も震えている。
さっきまで動いていた身体が、今になって怖さを思い出したようだった。
相手は人間だった。
魔物ではない。
自分に向かって剣を振り、短剣を突き、斧を落としてきた。
当たれば死んでいた。
そう思うと、腹の奥が冷える。
それでも、足は止まらなかった。
村人たちが遅れて声を上げる。
「倒した……」
「三人とも」
「坊主が……?」
老人が駆け寄ってきた。
「怪我は」
「かすっただけです」
レンは服の腹の辺りを見た。
短剣がかすめた場所に、小さな裂け目がある。
血はほとんど出ていない。
だが、一歩間違えれば刺さっていた。
レンはそこを指で押さえた。
痛みは小さい。
だが、その小さな痛みが妙に現実だった。
行商人の男が頭を下げる。
「助かった。ありがとう」
「いえ」
レンは首を振った。
「村の人たちもいたので」
「いや、君がいなければ危なかった」
そう言われても、素直には喜べなかった。
玄斎なら何と言うだろう。
一人目の後、周囲を見ていない。
二人目の短剣をかすらせている。
三人目で紫電閃に入るのが遅い。
斧に対して距離が甘い。
最後に足が震えている。
いくつでも駄目出しが浮かぶ。
けれど、それでも。
生きている。
守れた。
少なくとも、今この場で誰かが斬られることはなかった。
レンは木刀を鞘代わりの紐に戻した。
手はまだ少し震えている。
その震えを隠すように、拳を握った。
◇
野盗たちは縛られ、村の倉に放り込まれた。
後で近くの町の衛兵に引き渡すらしい。
奪われた荷も、一部は野盗たちが近くの林に隠していた。
村人たちが回収に向かい、日が落ちる頃には少しだけ落ち着きを取り戻した。
その夜、レンは村に泊めてもらうことになった。
行商人の家族と同じ納屋だったが、屋根があるだけで十分だった。
夕食には、薄い粥と焼いた芋、それから少しだけ肉が出た。
道場の飯より豪華に思えた。
レンが黙々と食べていると、行商人の少年が近づいてきた。
昼間、母親の後ろに隠れていた子だ。
「ねえ」
「何?」
「君、ほんとに僕とそんなに歳変わらないの?」
「たぶん」
「なんであんなに戦えるの?」
レンは少し考えた。
道場で転んだから。
玄斎に叩きつけられたから。
雷電型を習ったから。
五剣一式を通したから。
いくつも答えはある。
だが、どれも少し違う気がした。
「立つ練習をしたから」
「立つ?」
「うん」
少年は意味が分からないという顔をした。
レンも少し笑った。
自分も最初はそうだった。
立っているのに、立っていないと言われた。
ただ立つだけで稽古になるなんて、意味が分からなかった。
今でも全部分かっているわけではない。
それでも、今日の戦いで少し分かった。
怖い時ほど、立つことが崩れる。
怒った時ほど、足が勝手に出る。
焦った時ほど、肩が上がる。
そこで立てるかどうか。
そこから動けるかどうか。
それが、生きるか死ぬかを分ける。
「君は、怖くなかったの?」
少年が尋ねる。
レンはすぐに首を振った。
「怖かった」
「でも、逃げなかった」
「逃げたら、たぶんもっと怖いから」
「どういうこと?」
「分からない」
レンは自分でも苦笑した。
うまく説明できない。
前世の雨の日。
あの時、逃げたわけではない。
最後には身体を投げ出した。
けれど、最初の一瞬、足が止まった。
その一瞬の後悔は、死んでも消えなかった。
だから今は、怖くても動く。
逃げるのが怖いのではない。
また止まる自分に戻るのが怖い。
少年は不思議そうにレンを見ていた。
「剣士って、変だね」
「俺はまだ見習い」
「見習いであれなら、剣士ってもっとすごいの?」
レンは玄斎の姿を思い出した。
片腕で魔物を薪で沈める老人。
ただ立っているだけで、山のように見える師。
普通の袈裟斬り一つで、避けられる気がしない剣士。
「うん」
レンは答えた。
「もっと、ずっとすごい」
少年は目を輝かせた。
レンは少しだけ恥ずかしくなり、粥を口に運んだ。
◇
翌朝、行商人の男がレンに礼を渡そうとした。
小さな銭袋だった。
レンは受け取るか迷った。
道場では、金のやり取りなどほとんどなかった。
だが、旅には金がいる。
食べるにも、泊まるにも、道具を直すにも必要だ。
玄斎も、外に出れば綺麗事だけでは歩けぬ、と言っていた。
レンは頭を下げて受け取った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。君はこれからどこへ?」
「フィットア領の方へ行こうと思っています」
「なら、ロアを目指すといい。大きな町だ。仕事もあるし、腕の立つ者も集まる」
「ロア……」
その名を、レンは胸の中で繰り返した。
フィットア領ロア。
大きな町。
腕の立つ者が集まる場所。
なら、行く価値はある。
行商人の男は続けた。
「ただ、貴族の町でもある。面倒ごとには気をつけなさい」
「はい」
「まあ、君なら多少の面倒は斬り抜けそうだが」
レンは苦笑した。
斬り抜ける。
その言葉は軽く聞こえるが、実際はそんな簡単ではない。
昨日も、少し間違えれば短剣が腹に入っていた。
斧を受ければ腕ごと持っていかれていた。
勝ったのではなく、生き残っただけ。
そう思っておくべきだ。
村を出る時、老人が声をかけてきた。
「坊主」
「はい」
「名前は」
「レン・クロガネです」
「クロガネ……聞かない名だな」
「大亀流に拾われた名前です」
「大亀流?」
老人は首を傾げた。
やはり、外では知られていないらしい。
大亀流道場は山奥にあり、六面世界の一般的な剣術とはかなり違う。
この世界で有名なのは、剣神流、水神流、北神流。
大亀流は異端。
知らない者の方が多い。
レンは懐の木札には触れなかった。
玄斎に言われている。
軽々しく名乗るな。
だが、逃げるな。
「世話になりました」
レンは頭を下げた。
村人たちも手を振ってくれた。
行商人の少年も、両手を大きく振っている。
レンは少し照れながら片手を上げ、街道へ向かった。
道は東へ続いている。
フィットア領。
ロア。
知らない土地。
知らない相手。
知らない戦い。
怖くないわけではない。
だが、足は止まらない。
レンは歩く。
足裏で地面を感じる。
膝を固めない。
腰を浮かせない。
肩を落とす。
呼吸を通す。
立つ。
歩く。
必要なら、斬る。
雷電型だけではない。
紫電閃だけではない。
五剣だけでもない。
相手を見て、距離を見て、足場を見て、呼吸を見て、その時に必要な一手を出す。
それが、外の戦いなのだと少しだけ分かった。
レン・クロガネ。
大亀流の亀の子。
彼の武者修行は、まだ始まったばかりだった。