無職転生×異伝   作:からし明太子

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第六話 山を下りる亀の子

 

 

 山道を下りる足は、思ったよりも軽かった。

 

 いや、荷物は重い。

 

 背中の布袋には替えの服、干し肉、水袋、手入れ用の布、それからわずかな銭が入っている。腰には木刀。懐には、玄斎から渡された大亀流の木札。

 

 大人の旅人ならどうということもない荷物かもしれない。

 

 だが、今のレンはまだ子供だ。

 

 背にかかる重みは確かにあった。

 

 それでも足は止まらない。

 

 道場を出てから、何度も振り返りそうになった。

 

 山奥の古びた道場。

 

 玄斎の低い声。

 

 ガイたち弟子の視線。

 

 庭に立てられた杭と、鈴の音。

 

 何度も転んだ土の匂い。

 

 それらが背中の向こうへ遠ざかっていく。

 

 寂しさがないわけではなかった。

 

 だが、それ以上に胸が騒いでいた。

 

 外へ出る。

 

 道場の中ではなく、六面世界の中へ。

 

 そこには魔物がいる。

 

 剣士がいる。

 

 魔術師がいる。

 

 何をしてくるか分からない相手がいる。

 

 道場の稽古では、玄斎は打ってくる前に殺しはしなかった。

 

 ガイたちも、どれだけ腹を立てていても木刀を止めた。

 

 だが外では違う。

 

 相手は止めない。

 

 こちらが子供でも、見習いでも、未熟でも関係ない。

 

 斬れるなら斬ってくる。

 

 噛めるなら噛んでくる。

 

 奪えるなら奪ってくる。

 

 それを思うと、腹の奥が冷えた。

 

 怖い。

 

 けれど、足は止まらない。

 

 レンは山道の途中で一度立ち止まり、足裏で土を確かめた。

 

 膝を固めない。

 

 腰を浮かせない。

 

 肩を落とす。

 

 呼吸を通す。

 

 立つ。

 

 ただ、それだけ。

 

 そこから一歩出る。

 

 歩く。

 

 道場で何度も繰り返した動きだった。

 

 ただ歩くだけでも、身体の癖は出る。

 

 焦れば足が先へ行く。

 

 疲れれば肩が上がる。

 

 荷物を嫌えば背が丸くなる。

 

 急げば呼吸が乱れる。

 

 玄斎なら、どれも見逃さない。

 

 今はその目がない。

 

 だからこそ、自分で見るしかない。

 

 自分の身体を。

 

 自分の足を。

 

 自分の呼吸を。

 

 レンは道場で教えられたことを一つずつ思い出しながら、山を下りていった。

 

 ◇

 

 山を抜けた先に、小さな村があった。

 

 石造りの家が十数軒。

 

 畑。

 

 井戸。

 

 木の柵。

 

 山奥の道場とは違う、人の暮らしの匂いがする場所だった。

 

 畑仕事をしていた老人が、山から下りてきたレンを見て目を細める。

 

「坊主、一人か」

 

「はい」

 

「親は」

 

「いません」

 

 老人はレンの腰の木刀を見た。

 

「剣士か」

 

「見習いです」

 

「見習いが一人旅とは、物騒だな」

 

「……そうですね」

 

 レンもそう思う。

 

 だが、玄斎が行けと言った。

 

 そして自分も行くと決めた。

 

 ならば、物騒でも進むしかない。

 

「水を分けてもらえますか」

 

「井戸ならそこだ。勝手に汲め」

 

「ありがとうございます」

 

 レンは頭を下げ、井戸へ向かった。

 

 桶を落とし、水を汲む。

 

 道場で何度もやらされた水汲みと同じだ。

 

 腕だけで引かない。

 

 背中と腰で受ける。

 

 足裏で地面を掴む。

 

 桶の重さを身体に通す。

 

 ただ水を汲むだけなのに、玄斎の声が浮かぶ。

 

 レンは苦笑した。

 

 どこにいても稽古がついてくる。

 

 水を飲むと、冷たさが喉を通った。

 

 うまい。

 

 山を下り続けた身体に染みる。

 

 その時、村の入り口の方から慌ただしい声が聞こえた。

 

「戻ったぞ!」

 

「荷車だ!」

 

「誰か怪我してる!」

 

 村人たちがそちらへ走っていく。

 

 レンも水袋の口を閉め、自然と足を向けた。

 

 村の入口に、荷車が一台止まっていた。

 

 引いている馬は荒い息を吐き、脇腹に浅い傷がある。

 

 荷車のそばには、中年の男と若い女、それから十歳ほどの少年がいた。三人とも旅装で、行商人らしい。

 

 男の腕には布が巻かれている。

 

 血が滲んでいた。

 

「何があった」

 

 先ほどの老人が尋ねる。

 

 行商人の男は顔をしかめて答えた。

 

「街道で野盗だ。いや、野盗ってほど大人数じゃない。三人だ。だが、武器を持ってた」

 

「荷は」

 

「少し取られた。だが全部じゃない。追ってくるかもしれん」

 

 村人たちがざわつく。

 

「追ってくるって……」

 

「ここまで来るのか」

 

「柵を閉めろ」

 

「子供を家へ入れろ」

 

 空気が一気に硬くなった。

 

 レンは荷車の轍を見た。

 

 泥のついた車輪の跡。

 

 馬の蹄。

 

 それとは別に、荒い足跡がいくつかある。

 

 三人。

 

 行商人の言葉どおりなら、相手は三人。

 

 武器持ち。

 

 人間相手。

 

 魔物とは違う。

 

 魔物は牙や爪で来る。

 

 人間は考える。

 

 騙す。

 

 脅す。

 

 逃げるふりもする。

 

 玄斎の言葉が浮かぶ。

 

 外に出れば、道場の稽古とは違う。

 

 相手は待たない。

 

 レンは木刀の柄に触れた。

 

 老人がそれに気づいた。

 

「坊主、余計なことを考えるな」

 

「でも」

 

「相手は大人だ。木刀を持った子供がどうこうできるもんじゃない」

 

 もっともな言葉だった。

 

 レンはまだ子供だ。

 

 背も低い。

 

 腕も細い。

 

 真剣ではなく木刀しか持っていない。

 

 それでも、足は退かなかった。

 

 前世の雨の日。

 

 あの時も、相手は大人だった。

 

 刃物を持っていた。

 

 怖かった。

 

 だから足が止まった。

 

 今はどうだ。

 

 怖い。

 

 やはり怖い。

 

 だが、止まるつもりはない。

 

「村の人だけで守れるんですか」

 

 レンが尋ねると、老人は口を閉じた。

 

 村人たちは鍬や棒を持っている。

 

 だが、戦い慣れている者はいない。

 

 行商人の男も怪我をしている。

 

 相手が本当に追ってくれば、誰かが傷つく。

 

 老人は苦い顔をした。

 

「……柵の内側に入れ。外に出るな」

 

「はい」

 

 レンはそう答えた。

 

 外には出ない。

 

 だが、内側で何もしないとは言っていない。

 

 ◇

 

 夕方近く。

 

 野盗たちは本当に来た。

 

 村の東側。

 

 柵の外に、三人の男が現れた。

 

 一人は短剣。

 

 一人は錆びた片手剣。

 

 一人は斧を持っている。

 

 服装はばらばらで、鎧らしい鎧もない。

 

 だが、目つきは悪い。

 

 こちらを見下すような、慣れた目だった。

 

「おーい」

 

 片手剣の男が笑う。

 

「さっきの荷車、ここに逃げ込んだよな?」

 

 村人たちは柵の内側で鍬や棒を構えている。

 

 だが、腰が引けていた。

 

 斧の男が柵を斧で軽く叩いた。

 

「なあ、揉めたくないんだよ。荷を置いてくれりゃ帰る。そこの商人も出せ。痛い目見たくないだろ?」

 

 行商人の少年が母親の後ろに隠れる。

 

 その姿を見て、レンの胸の奥が熱くなった。

 

 雨の日の男の子と重なる。

 

 小さな身体。

 

 怯えた目。

 

 自分より大きな暴力に、何もできず立ち尽くす姿。

 

 レンは呼吸を整えた。

 

 怒りで前へ出るな。

 

 怖さで固まるな。

 

 相手を見る。

 

 片手剣。

 

 短剣。

 

 斧。

 

 三人。

 

 距離。

 

 柵。

 

 村人の位置。

 

 子供の位置。

 

 足場は土。

 

 夕方で視界はやや暗い。

 

 紫電閃の間合いではない。

 

 柵が邪魔だ。

 

 それに、ここで大きく前へ出れば、残り二人に横を取られる。

 

 まずは誘う。

 

 レンは村人たちの後ろから前へ出た。

 

 老人が目を剥く。

 

「坊主!」

 

 野盗たちもレンを見た。

 

 一瞬の沈黙。

 

 次いで、短剣の男が吹き出した。

 

「なんだ、子供かよ」

 

「木刀持ってるぞ」

 

「剣士ごっこか?」

 

 三人が笑う。

 

 レンは何も言わず、柵の前に立った。

 

 木刀を抜く。

 

 構える。

 

 前世の剣道の正眼ではない。

 

 大亀流の稽古で身につけた、肩に余計な力を入れない自然体。

 

 すぐ前へも出られる。

 

 横へも外れられる。

 

 下がることもできる。

 

 ただ、立つ。

 

 片手剣の男が笑いながら柵をまたいだ。

 

「おいおい、やる気か?」

 

 村人がざわつく。

 

 老人が止めようとする。

 

 レンは手で制した。

 

 相手は油断している。

 

 子供だと思っている。

 

 木刀だと思っている。

 

 それは好都合だった。

 

 片手剣の男が近づく。

 

 剣をだらりと下げている。

 

 構えにもなっていない。

 

 だが、腕はいつでも振れる位置にある。

 

 油断しているようで、最低限の間合いは見ている。

 

 レンは相手の足を見る。

 

 前足に体重が乗っている。

 

 右肩が少し前。

 

 剣を振るなら上からではなく、横。

 

 子供相手に脅すつもりの雑な横薙ぎ。

 

 男が口を開く。

 

「痛い目見る前にどきな」

 

 その直後、予想どおり剣が横へ動いた。

 

 速くはない。

 

 だが、真剣だ。

 

 当たれば木刀とは違う。

 

 肉が裂ける。

 

 レンは踏み込まなかった。

 

 半歩だけ下がる。

 

 剣先が鼻先を通る。

 

 風が頬を撫でた。

 

 怖い。

 

 だが、目は逸らさない。

 

 剣が通り過ぎた瞬間、男の脇が開く。

 

 レンは木刀を袈裟に振り下ろした。

 

 大きく振りかぶらない。

 

 一息で落とす。

 

 木刀が男の右手首を打った。

 

「がっ!」

 

 男の剣が落ちる。

 

 村人たちが息を呑む。

 

 レンは止まらない。

 

 手首を打った流れのまま、木刀を返す。

 

 今度は膝。

 

 男の前足を払うように打つ。

 

 男の体勢が崩れる。

 

 最後に木刀の柄で鳩尾を突いた。

 

 男が膝をつき、息を吐けずに倒れる。

 

 時間にすれば、一呼吸にも満たなかった。

 

 名前のある技ではない。

 

 ただ避け、打ち、崩しただけ。

 

 だが、相手は倒れた。

 

 短剣の男の顔から笑みが消える。

 

「てめえ……!」

 

 短剣の男が柵を越えた。

 

 動きが速い。

 

 片手剣の男より身軽だ。

 

 低く走り、レンの懐へ入ろうとしてくる。

 

 短剣は厄介だ。

 

 間合いが近い。

 

 一度入られると木刀では取り回しにくい。

 

 紫電閃で先に潰すか。

 

 そう思った瞬間、玄斎の声が胸に響いた。

 

 技に使われるな。

 

 レンは踏みとどまる。

 

 相手が入ってくる。

 

 なら、入らせてからずらす。

 

 短剣の男が突いてきた。

 

 右手。

 

 喉ではない。

 

 腹。

 

 子供相手だから、殺すより痛めつけるつもりか。

 

 レンは身体を右へ開いた。

 

 虚空型というほど大げさではない。

 

 ただ、突きの線から外れる。

 

 短剣が服をかすめた。

 

 近い。

 

 怖い。

 

 だが、近いならこちらも届く。

 

 レンは木刀の長さを捨てた。

 

 柄に近い部分で男の手首を押さえ、肩から身体をぶつける。

 

 軽い身体だ。

 

 正面から押せば負ける。

 

 だから、相手の突きの勢いを少しだけ外へ逃がす。

 

 男の身体が前に流れた。

 

 レンはその足元へ木刀を入れる。

 

 土公型の荒神ではない。

 

 だが、勝ち筋を折る考え方は同じ。

 

 短剣の男は足を取られ、前へ転ぶ。

 

 レンは木刀を逆手気味に持ち替え、男の後頭部ではなく、肩口を打った。

 

 骨に響く音。

 

 短剣が落ちる。

 

 男がうめいた。

 

 二人目。

 

 残るは斧の男。

 

 斧の男は柵の外で顔を歪めていた。

 

 仲間二人が、子供に倒された。

 

 怒りと焦り。

 

 その両方が見える。

 

「ガキが!」

 

 斧の男が柵を蹴破るように入ってくる。

 

 大きい。

 

 力もある。

 

 振り回す斧は危険だ。

 

 木刀でまともに受ければ折れるか、腕が痺れる。

 

 荒神で武器を弾くには、まだレンの力も技も足りない。

 

 紫電閃で懐に入るか。

 

 距離はある。

 

 間合いも合う。

 

 だが、男は怒っているようでいて、斧を身体の前に置いていた。

 

 入ってくる相手を叩き潰す構え。

 

 紫電閃を読んでいるわけではない。

 

 だが、突進してくる相手を迎え撃つ形になっている。

 

 真正面から入れば、斧が落ちる。

 

 レンは呼吸を吐いた。

 

 前へ出たい。

 

 でも、真っ直ぐではない。

 

 斧の男が踏み込む。

 

 斧が振り上がる。

 

 レンはその瞬間、左足を半歩引いた。

 

 斧が落ちる。

 

 土が弾けた。

 

 重い。

 

 まともに受ければ終わる。

 

 だが、振り下ろした直後、男の斧は地面に食い込んだ。

 

 腕に力が入りすぎている。

 

 抜くまで一瞬遅れる。

 

 レンはそこへ入った。

 

 雷電型一式。

 

 紫電閃ではない。

 

 短い踏み込み。

 

 壱。

 

 男の手首を打つ。

 

 弐。

 

 肘を打つ。

 

 参。

 

 胴へ袈裟に入れる。

 

 斧の男が呻く。

 

 だが倒れない。

 

 身体が大きい。

 

 肉も厚い。

 

 木刀では浅い。

 

 男が左手を伸ばし、レンの襟を掴もうとする。

 

 レンは水龍型の逆鱗を思い出す。

 

 真っ直ぐ振ると見せて、握りを替える。

 

 男の手が木刀を掴もうとした瞬間、木刀の軌道を変えた。

 

 男の指先をすり抜け、手首の内側を打つ。

 

「ぐっ!」

 

 男の手が止まる。

 

 レンはそこで初めて、重心を落とした。

 

 斧の男の脇が開いている。

 

 呼吸は乱れている。

 

 視線は木刀に寄っている。

 

 今なら入れる。

 

 半身。

 

 膝を曲げる。

 

 身体を前へ預ける。

 

 大亀流雷電型第二式。

 

 紫電閃。

 

 レンの身体が男の懐へ滑り込んだ。

 

 木刀が斜めに走る。

 

 狙いは首ではない。

 

 顎下。

 

 打ち抜けば意識が飛ぶ。

 

 木刀が男の顎をかすめ上げるように入った。

 

 男の巨体が後ろへ揺れる。

 

 レンは止まる。

 

 止まれ。

 

 前へ流れるな。

 

 足を残せ。

 

 膝が震える。

 

 だが、倒れない。

 

 そこへ、最後の一撃。

 

 木刀を振り上げず、短く落とす。

 

 頭頂ではなく、鎖骨。

 

 男の身体が崩れた。

 

 斧が地面に落ちる。

 

 村の入口に、沈黙が広がった。

 

 レンは荒く息を吐いた。

 

 手が震えている。

 

 足も震えている。

 

 さっきまで動いていた身体が、今になって怖さを思い出したようだった。

 

 相手は人間だった。

 

 魔物ではない。

 

 自分に向かって剣を振り、短剣を突き、斧を落としてきた。

 

 当たれば死んでいた。

 

 そう思うと、腹の奥が冷える。

 

 それでも、足は止まらなかった。

 

 村人たちが遅れて声を上げる。

 

「倒した……」

 

「三人とも」

 

「坊主が……?」

 

 老人が駆け寄ってきた。

 

「怪我は」

 

「かすっただけです」

 

 レンは服の腹の辺りを見た。

 

 短剣がかすめた場所に、小さな裂け目がある。

 

 血はほとんど出ていない。

 

 だが、一歩間違えれば刺さっていた。

 

 レンはそこを指で押さえた。

 

 痛みは小さい。

 

 だが、その小さな痛みが妙に現実だった。

 

 行商人の男が頭を下げる。

 

「助かった。ありがとう」

 

「いえ」

 

 レンは首を振った。

 

「村の人たちもいたので」

 

「いや、君がいなければ危なかった」

 

 そう言われても、素直には喜べなかった。

 

 玄斎なら何と言うだろう。

 

 一人目の後、周囲を見ていない。

 

 二人目の短剣をかすらせている。

 

 三人目で紫電閃に入るのが遅い。

 

 斧に対して距離が甘い。

 

 最後に足が震えている。

 

 いくつでも駄目出しが浮かぶ。

 

 けれど、それでも。

 

 生きている。

 

 守れた。

 

 少なくとも、今この場で誰かが斬られることはなかった。

 

 レンは木刀を鞘代わりの紐に戻した。

 

 手はまだ少し震えている。

 

 その震えを隠すように、拳を握った。

 

 ◇

 

 野盗たちは縛られ、村の倉に放り込まれた。

 

 後で近くの町の衛兵に引き渡すらしい。

 

 奪われた荷も、一部は野盗たちが近くの林に隠していた。

 

 村人たちが回収に向かい、日が落ちる頃には少しだけ落ち着きを取り戻した。

 

 その夜、レンは村に泊めてもらうことになった。

 

 行商人の家族と同じ納屋だったが、屋根があるだけで十分だった。

 

 夕食には、薄い粥と焼いた芋、それから少しだけ肉が出た。

 

 道場の飯より豪華に思えた。

 

 レンが黙々と食べていると、行商人の少年が近づいてきた。

 

 昼間、母親の後ろに隠れていた子だ。

 

「ねえ」

 

「何?」

 

「君、ほんとに僕とそんなに歳変わらないの?」

 

「たぶん」

 

「なんであんなに戦えるの?」

 

 レンは少し考えた。

 

 道場で転んだから。

 

 玄斎に叩きつけられたから。

 

 雷電型を習ったから。

 

 五剣一式を通したから。

 

 いくつも答えはある。

 

 だが、どれも少し違う気がした。

 

「立つ練習をしたから」

 

「立つ?」

 

「うん」

 

 少年は意味が分からないという顔をした。

 

 レンも少し笑った。

 

 自分も最初はそうだった。

 

 立っているのに、立っていないと言われた。

 

 ただ立つだけで稽古になるなんて、意味が分からなかった。

 

 今でも全部分かっているわけではない。

 

 それでも、今日の戦いで少し分かった。

 

 怖い時ほど、立つことが崩れる。

 

 怒った時ほど、足が勝手に出る。

 

 焦った時ほど、肩が上がる。

 

 そこで立てるかどうか。

 

 そこから動けるかどうか。

 

 それが、生きるか死ぬかを分ける。

 

「君は、怖くなかったの?」

 

 少年が尋ねる。

 

 レンはすぐに首を振った。

 

「怖かった」

 

「でも、逃げなかった」

 

「逃げたら、たぶんもっと怖いから」

 

「どういうこと?」

 

「分からない」

 

 レンは自分でも苦笑した。

 

 うまく説明できない。

 

 前世の雨の日。

 

 あの時、逃げたわけではない。

 

 最後には身体を投げ出した。

 

 けれど、最初の一瞬、足が止まった。

 

 その一瞬の後悔は、死んでも消えなかった。

 

 だから今は、怖くても動く。

 

 逃げるのが怖いのではない。

 

 また止まる自分に戻るのが怖い。

 

 少年は不思議そうにレンを見ていた。

 

「剣士って、変だね」

 

「俺はまだ見習い」

 

「見習いであれなら、剣士ってもっとすごいの?」

 

 レンは玄斎の姿を思い出した。

 

 片腕で魔物を薪で沈める老人。

 

 ただ立っているだけで、山のように見える師。

 

 普通の袈裟斬り一つで、避けられる気がしない剣士。

 

「うん」

 

 レンは答えた。

 

「もっと、ずっとすごい」

 

 少年は目を輝かせた。

 

 レンは少しだけ恥ずかしくなり、粥を口に運んだ。

 

 ◇

 

 翌朝、行商人の男がレンに礼を渡そうとした。

 

 小さな銭袋だった。

 

 レンは受け取るか迷った。

 

 道場では、金のやり取りなどほとんどなかった。

 

 だが、旅には金がいる。

 

 食べるにも、泊まるにも、道具を直すにも必要だ。

 

 玄斎も、外に出れば綺麗事だけでは歩けぬ、と言っていた。

 

 レンは頭を下げて受け取った。

 

「ありがとうございます」

 

「こちらこそ。君はこれからどこへ?」

 

「フィットア領の方へ行こうと思っています」

 

「なら、ロアを目指すといい。大きな町だ。仕事もあるし、腕の立つ者も集まる」

 

「ロア……」

 

 その名を、レンは胸の中で繰り返した。

 

 フィットア領ロア。

 

 大きな町。

 

 腕の立つ者が集まる場所。

 

 なら、行く価値はある。

 

 行商人の男は続けた。

 

「ただ、貴族の町でもある。面倒ごとには気をつけなさい」

 

「はい」

 

「まあ、君なら多少の面倒は斬り抜けそうだが」

 

 レンは苦笑した。

 

 斬り抜ける。

 

 その言葉は軽く聞こえるが、実際はそんな簡単ではない。

 

 昨日も、少し間違えれば短剣が腹に入っていた。

 

 斧を受ければ腕ごと持っていかれていた。

 

 勝ったのではなく、生き残っただけ。

 

 そう思っておくべきだ。

 

 村を出る時、老人が声をかけてきた。

 

「坊主」

 

「はい」

 

「名前は」

 

「レン・クロガネです」

 

「クロガネ……聞かない名だな」

 

「大亀流に拾われた名前です」

 

「大亀流?」

 

 老人は首を傾げた。

 

 やはり、外では知られていないらしい。

 

 大亀流道場は山奥にあり、六面世界の一般的な剣術とはかなり違う。

 

 この世界で有名なのは、剣神流、水神流、北神流。

 

 大亀流は異端。

 

 知らない者の方が多い。

 

 レンは懐の木札には触れなかった。

 

 玄斎に言われている。

 

 軽々しく名乗るな。

 

 だが、逃げるな。

 

「世話になりました」

 

 レンは頭を下げた。

 

 村人たちも手を振ってくれた。

 

 行商人の少年も、両手を大きく振っている。

 

 レンは少し照れながら片手を上げ、街道へ向かった。

 

 道は東へ続いている。

 

 フィットア領。

 

 ロア。

 

 知らない土地。

 

 知らない相手。

 

 知らない戦い。

 

 怖くないわけではない。

 

 だが、足は止まらない。

 

 レンは歩く。

 

 足裏で地面を感じる。

 

 膝を固めない。

 

 腰を浮かせない。

 

 肩を落とす。

 

 呼吸を通す。

 

 立つ。

 

 歩く。

 

 必要なら、斬る。

 

 雷電型だけではない。

 

 紫電閃だけではない。

 

 五剣だけでもない。

 

 相手を見て、距離を見て、足場を見て、呼吸を見て、その時に必要な一手を出す。

 

 それが、外の戦いなのだと少しだけ分かった。

 

 レン・クロガネ。

 

 大亀流の亀の子。

 

 彼の武者修行は、まだ始まったばかりだった。

 

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