ロアの町が見えた時、レンは思わず足を止めた。
山奥の大亀流道場とも、道中で立ち寄った村とも違う。
高い外壁。
人と馬車が行き交う門。
石畳の道。
遠くに見える大きな屋敷。
荷を積んだ商人。
武器を腰に下げた冒険者。
上等な服を着た者。
薄汚れた外套をまとった者。
フィットア領ロア。
行商人が言っていた通り、そこは大きな町だった。
レンは門の前で、背負った荷物を少し直した。
腰には木刀。
懐には、玄斎から渡された大亀流の木札。
銭は多くない。
宿を探し、仕事も探さなければならない。
だが、それ以上にレンの胸を騒がせていたのは、この町にいるであろう剣士たちの存在だった。
剣神流。
水神流。
北神流。
この世界には、この世界の剣がある。
大亀流道場で学んだ剣が、外でどれほど通じるのか。
それを知るために、レンは山を下りてきた。
門番は、子供の一人旅を見て眉をひそめた。
「坊主、一人か」
「はい」
「どこから来た」
「西の山の方からです」
「用件は」
「仕事を探しながら、剣の修行をしています」
門番の視線が、レンの腰の木刀に落ちる。
「剣の修行ねえ」
明らかに信用していない顔だった。
無理もない。
レンはまだ子供だ。
背も低い。
真剣ではなく木刀しか持っていない。
それでも、簡単な確認だけで町へは入れた。
ロアの町は騒がしかった。
馬車の車輪が石畳を鳴らす。
露店の商人が声を張る。
焼いた肉の匂い。
香辛料の匂い。
馬の匂い。
人の汗の匂い。
山の道場にはなかったものばかりだった。
レンは道の端を歩きながら、町を観察した。
大きな通りでは、貴族らしき馬車が通るたびに人々が自然と脇へ避ける。
商人は相手の服装を見て、声のかけ方を変えている。
冒険者らしき者たちは、すれ違う者の武器をちらりと見ていた。
腰の剣。
背中の槍。
短剣。
杖。
この町では、武器を持つことが珍しくない。
だが、だからこそ危うい。
レンは木刀の柄に指を添えた。
道場であれば、木刀を構えた瞬間に稽古が始まる。
だが町中では違う。
抜けば騒ぎになる。
振れば罪になる。
相手を傷つければ、理由があっても面倒になる。
外の戦いとは、ただ勝てばいいものではない。
玄斎の言葉が胸に残っている。
――技に使われるな。
レンの得意は雷電型だ。
大亀流五剣の中でも、最も身体に馴染んでいる。
そして今のレンが唯一、二式まで習得している型でもある。
だが、雷電型第二式・紫電閃は奥に置く。
あれは見せるための技ではない。
本当に相手を倒すと決めた時、あるいは命を繋ぐために必要な時だけ抜く、とっておきの一手だ。
レンはそう自分に言い聞かせながら、宿を探すために通りを歩いた。
その時だった。
前方から、騒がしい声が聞こえてきた。
「どけ!」
「そっちに行ったぞ!」
「捕まえろ!」
人混みがざわめき、道の真ん中が割れる。
レンは足を止めた。
その隙間から、小さな影が飛び出してきた。
赤い髪。
高そうな服。
年はレンとそう変わらない。
少女だった。
だが、ただの少女ではなかった。
目が強い。
怒っている。
全身から、噛みつきそうな勢いが出ている。
少女は後ろを振り返りながら走っていた。
その後を、二人の男が追っている。
「待て、このガキ!」
「大人しくしろ!」
男たちの声は荒い。
町中で子供を追うには、あまりにも乱暴だった。
少女は振り返りざま、露店に積まれていた果物を一つ掴み、男へ投げつけた。
それは見事に一人の顔面へ命中した。
「ぐあっ!」
「ふん!」
少女は勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
だが、前を見ていなかった。
その進路に、馬車から降りてきた女性がいる。
ぶつかる。
レンはそう判断した瞬間、足を出していた。
大きく踏み込む必要はない。
人の隙間へ入り、少女の腕を掴み、無理に止めるのではなく進行方向をわずかにずらす。
少女の身体がレンの横を流れ、女性のすぐ脇を通り抜けた。
ぶつからずに済む。
だが、少女は止まらなかった。
いや、止められたことに腹を立てた。
「なにすんのよ!」
振り返った瞬間、拳が飛んできた。
速い。
子供の喧嘩の拳にしては、迷いがない。
レンは首を引いて避けた。
拳が頬の前を通り過ぎる。
当たれば痛いでは済まなかったかもしれない。
レンは少し驚いた。
助けた相手に殴られかけたことではない。
この少女の踏み込みに驚いた。
怖がらず、迷わず、前へ出る。
それは道場の弟子たちとも違う荒々しさだった。
「危なかったから」
レンが言うと、少女はさらに眉を吊り上げた。
「危ないのはあいつらよ!」
その言葉と同時に、追ってきた男たちが近づいてきた。
一人は果物をぶつけられ、鼻を押さえている。
もう一人は、少女へ手を伸ばした。
「今度こそ捕まえたぞ!」
少女はレンの腕を振りほどき、自分から男へ踏み込んだ。
逃げない。
殴りにいく。
少女の拳が男の腹に入る。
男は呻いた。
だが、体格差がありすぎた。
倒れない。
逆に男の手が、少女の肩を掴もうとする。
レンは木刀の柄に触れた。
事情は分からない。
少女は高そうな服を着ている。
貴族の娘かもしれない。
男たちが本当に悪人なのか、ただの使用人なのかも分からない。
だが、手つきが乱暴だ。
子供を保護する動きではない。
捕らえて、力で押さえ込む動きだった。
レンは一歩踏み出した。
「その子、嫌がってます」
男たちがレンを見る。
「なんだ、お前」
「関係ねえだろ」
「あります」
「は?」
「子供を二人がかりで追い回してるなら、関係あります」
少女がぎろりとレンを睨んだ。
「子供じゃないわよ!」
「そこ?」
「そこよ!」
怒鳴り返す声が強い。
この状況でも勢いが落ちない。
妙な少女だと思った。
だが、その間にも男の一人が腰へ手を伸ばした。
短剣。
抜こうとしている。
町中。
人目がある。
相手は子供。
それでも刃物を出そうとした。
なら、もう迷う必要はない。
レンは木刀を抜いた。
周囲がざわめく。
「やめとけ、坊主」
「衛兵を呼べ!」
「相手は大人だぞ!」
声が飛ぶ。
だが、衛兵が来るまで待てば、その間に少女が捕まる。
短剣の男が先に動いた。
子供相手と見て、完全に舐めている。
刃を見せつけるように振り上げ、脅し半分で踏み込んでくる。
レンは息を吐いた。
相手の肩。
肘。
足。
短剣の角度。
振り下ろす軌道は大きい。
予備動作も見える。
なら、十分だ。
レンは半歩だけ内側へ入った。
短剣の線から外れる。
大きく避けない。
逃げすぎれば次が遅れる。
短剣が空を切る。
その瞬間、木刀を一息で落とした。
袈裟ではなく、手首へ。
必要な場所へ、必要なだけ。
木刀が男の手首を打つ。
「がっ!」
短剣が石畳に落ちた。
レンは木刀を戻しすぎず、そのまま柄を男の鳩尾へ入れる。
男の身体がくの字に折れた。
息を吐けずに膝をつく。
一人。
もう一人は、少女へ掴みかかっていた。
少女は男の足を思い切り踏みつけた。
「ぐっ!」
男が顔を歪める。
少女はそのまま頭突きを入れようとする。
しかし、男は怒りに任せて腕を振った。
大きな平手が、少女の顔へ向かう。
レンは足を出した。
距離は少しある。
ここで必要なのは、相手を倒す一撃ではない。
間に入る一歩だ。
重心を落とし、前へ滑る。
深く入りすぎない。
少女と男の間に身体を差し込む。
男の平手が届く前に、レンの木刀が下から手首を打った。
平手の軌道が跳ねる。
男が驚きで目を見開く。
レンは続けた。
肘。
肩口。
短く、速く、続けて打つ。
大きく斬りつけるのではない。
動きを止めるための三手。
男の腕が痺れ、肩が落ちる。
「このっ!」
それでも男は倒れなかった。
体格差がある。
レンの木刀は真剣ではない。
痛みは与えられても、完全には止めきれない。
男が怒りに任せて、今度は拳を振り下ろそうとする。
レンは木刀を正面に戻した。
受けるな。
子供の腕で大人の拳を正面から止めれば、身体ごと潰される。
半歩横へ外れる。
拳が空を打つ。
男の重心が前へ流れる。
そこへ、木刀の先を膝裏へ入れた。
強く斬るのではない。
引っかける。
崩す。
男の膝が折れる。
前のめりになったところへ、レンは木刀の柄を肩甲骨の下へ押し込んだ。
男が地面に手をつく。
その首筋に、木刀の先を添えた。
「動かないでください」
声は震えていなかった。
少なくとも、自分ではそう思った。
周囲が静まり返る。
少女も、口を開けてレンを見ていた。
短剣を落とした男が起き上がろうとする。
レンはそちらへ視線だけを向けた。
木刀を首筋から離すわけにはいかない。
だが、相手が短剣を拾うなら、次は足を使うしかない。
そう判断した時、通りの向こうから怒声が響いた。
「そこまでだ!」
衛兵たちが走ってきた。
男たちの顔色が変わる。
逃げようとしたが、野次馬たちが道を塞いでいた。
二人はすぐに取り押さえられた。
衛兵の一人が少女を見て、顔を引きつらせる。
「エリス様……またですか」
少女は胸を張った。
「またじゃないわよ! あいつらが変なこと言ってきたの!」
「護衛を振り切って町中を走られては困ります」
「だって遅いんだもの!」
エリス。
それが少女の名らしい。
様付けで呼ばれている。
高そうな服。
衛兵の態度。
やはり、ただの町娘ではない。
レンは木刀を下ろし、男たちが完全に取り押さえられたことを確認してから、ゆっくり息を吐いた。
手首を打つ。
肘を打つ。
肩を落とす。
膝を崩す。
普通の打ち込みと、型の入口だけで足りた。
戦いとは、覚えた技を見せる場ではない。
必要な一手を出す場だ。
レンはそう思った。
その時、エリスがずんずんと近づいてきた。
「あんた!」
「何?」
「今の何よ!」
「今の?」
「最初の動き! すっと入ってきたやつ!」
「大亀流の歩法」
「歩法?」
「踏み込みの稽古でやる」
「ただの踏み込みじゃないでしょ!」
「まあ、普通ではないと思う」
エリスは眉を寄せた。
「もう一回やりなさい」
「ここで?」
「今すぐ!」
「嫌だ」
「なんでよ!」
「人が多いし、危ない」
「じゃあ場所を変えればいいじゃない!」
助けた礼より先に技を見たがる。
レンは呆れかけた。
だが、エリスの目を見て少し納得した。
怒っている。
悔しがっている。
知らない動きを見たことに、我慢できない顔だ。
この少女は、強さに反応している。
エリスはレンをじろじろ見る。
「あんた、何者?」
「レン・クロガネ」
「名前じゃなくて!」
「大亀流の見習い」
「オオガメリュウ?」
「大亀流」
「知らないわ!」
「山奥の流派だから」
「ふうん」
エリスは腕を組んだ。
そして、勝手に何かを決めた顔をした。
「あんた、うちに来なさい!」
「は?」
「泊まるところ、ないんでしょ?」
「まだ探してないだけ」
「じゃあ、ないのと同じよ!」
「同じじゃない」
「うちに来ればいいわ。その代わり、さっきの動きを見せなさい!」
あまりにも一方的だった。
レンは返事に困る。
衛兵たちも困った顔をしていた。
「エリス様、それはさすがに……」
「何よ。こいつ、私を助けたのよ? 礼くらいするのは当然でしょ!」
「礼と称して手合わせを求めるのは違うと思いますが」
「じゃあ、礼をしてから手合わせすればいいじゃない!」
衛兵が頭を抱える。
その時、通りの奥から別の一団が現れた。
明らかに衛兵とは違う。
身なりの良い護衛たち。
その先頭に、一人の女性が歩いている。
褐色の肌。
筋肉質な身体。
腰に差した剣。
獣のような鋭い目。
その姿を見た瞬間、レンの背筋が粟立った。
強い。
見ただけで分かる。
玄斎とは違う。
宗一郎とも違う。
だが、間違いなく強者だった。
女性の視線がエリスへ向く。
「エリス様」
低い声。
エリスの肩がぴくりと動いた。
「ギレーヌ……」
「また護衛を振り切りましたね」
「振り切ってないわ。あいつらが遅いのよ!」
「それを振り切ったと言います」
ギレーヌと呼ばれた女性は、次にレンを見た。
その目が、腰の木刀、足の置き方、肩、呼吸を一瞬でなぞる。
レンは動かなかった。
動くべきではないと身体が判断した。
不用意に構えれば、その瞬間に斬られる。
そう感じた。
「お前がエリス様を助けたのか」
「結果的には」
「名は」
「レン・クロガネです」
「流派は」
「大亀流です」
「聞かない流派だ」
「山奥の道場なので」
ギレーヌは無言でレンを見た。
軽んじている様子はない。
知らないものを知らないまま見ている。
それが、逆に怖かった。
エリスが横から割り込む。
「ギレーヌ、こいつ変な動きをしたのよ!」
「見ていました」
「見てたの?」
「はい」
レンは少し驚いた。
いつから見ていたのか。
気づかなかった。
ギレーヌはレンに言う。
「速い踏み込みだ」
「ありがとうございます」
「だが、まだ浅い」
レンは息を止めた。
「はい」
「一人目はよかった。二人目に入る時、少し足が浮いた」
「……はい」
「相手が剣士なら、その瞬間に斬られる」
胸に重く響いた。
玄斎と同じだ。
いや、言い方は違う。
だが見ている場所は似ている。
ただ勝ったかどうかではない。
どこで死ぬかを見ている。
レンは深く頭を下げた。
「覚えておきます」
ギレーヌの目がわずかに細くなる。
「素直だな」
「師匠にもよく言われるので」
「何を」
「今ので死んでいた、と」
ギレーヌは少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
エリスは不満そうに頬を膨らませた。
「ねえ、こいつを屋敷に連れていっていいでしょ!」
「なぜです」
「私を助けたから!」
「礼なら金を渡せば済みます」
「手合わせするの!」
「それは礼ではありません」
「じゃあ、礼もして手合わせもする!」
「エリス様」
ギレーヌはため息をついた。
だが、完全に否定はしなかった。
彼女はレンを見た。
「お前はどうしたい」
レンは少し迷った。
宿を探すつもりだった。
仕事も探さなければならない。
貴族の屋敷に関わるのは、面倒かもしれない。
だが、目の前にはギレーヌがいる。
この人の剣を見られるなら、それだけで価値がある。
そしてエリス。
乱暴で、短気で、礼より先に技を見たがる少女。
だが、あの踏み込みと目の強さは本物だった。
この町には、道場にはなかった剣がある。
レンはそう思った。
「迷惑でなければ」
レンは答えた。
「少しだけ、お世話になります」
「決まりね!」
エリスが勝ち誇ったように笑う。
ギレーヌはもう一度ため息をついた。
「旦那様に説明が必要ですね」
エリスは気にもしていない。
「ついてきなさい、レン!」
「分かった」
「あと、さっきの動き、絶対見せなさいよ!」
「場所を選ぶ」
「庭でやればいいわ。うちの庭、広いもの!」
貴族の庭。
レンには想像がつかなかった。
だが、エリスが言うなら本当に広いのだろう。
歩き出したエリスの後ろを、レンは少し距離を置いてついていく。
ギレーヌが隣を歩いた。
その存在感だけで、レンの肩に力が入りそうになる。
それを意識して抜いた。
ギレーヌが横目で見る。
「力を抜く癖はあるようだな」
「師匠に叩き込まれました」
「いい師だ」
「怖いですけど」
「怖い師は、大抵いい師だ」
そう言われると、少し納得できた。
エリスが振り返る。
「何を話してるのよ!」
「剣の話です」
「私も混ぜなさい!」
「屋敷に戻ってからです」
「もう!」
赤髪の少女が怒鳴る。
強い剣士が呆れる。
レンはその後ろを歩く。
ロアに来て、まだ半日も経っていない。
それなのに、貴族の少女と出会い、その護衛の剣士に動きを見られ、屋敷へ向かうことになった。
武者修行とは、もっと地道に進むものだと思っていた。
だが、外の世界は道場の予定通りには動かない。
相手は待たない。
出来事も待たない。
フィットア領ロア。
赤髪の少女、エリス。
獣のような剣士、ギレーヌ。
そして、まだ見ぬボレアス家。
レン・クロガネの武者修行は、思いもしない形で次の場所へ転がり始めていた。