ボレアス家の屋敷は、レンが想像していたものよりもずっと大きかった。
ロアの町そのものが、山奥の道場や道中の村とは比べものにならないほど広かった。
だが、その町の中でも、ボレアス家の屋敷は別格だった。
高い塀。
整えられた門。
門番。
広い前庭。
庭木は綺麗に刈られ、道は石で敷かれ、建物は何棟も連なっている。
レンは門をくぐった瞬間、思わず足を止めそうになった。
金持ちの家、という言葉では足りない。
権力を持つ者の家。
そう感じた。
前世の記憶を合わせても、こんな場所に入ったことはない。
山奥の道場では、床を磨き、薪を割り、井戸の水を汲み、朝靄の中で木刀を振っていた。
それが今は、貴族の屋敷の中を歩いている。
場違いだった。
だが、逃げるほどではない。
レンは背筋を伸ばしすぎないように気をつけた。
緊張すれば肩が上がる。
肩が上がれば、動きが死ぬ。
玄斎に何度も叩かれた癖だ。
足裏で石畳を感じる。
山道の土とは違う。
硬い。
滑りやすい。
足音も響く。
ここで走れば、道場の庭とは違う動きになる。
そんなことを考えていると、前を歩くエリスが振り返った。
「何ぼーっとしてるのよ!」
「広いなと思って」
「普通でしょ!」
「普通じゃないと思う」
「そう!」
エリスは本気で分かっていない顔をした。
彼女にとって、この屋敷は日常なのだ。
レンにとっての道場や山道と同じように、彼女にとってはこの広い庭も、高い塀も、護衛も、使用人も、当たり前のものなのだろう。
ギレーヌはその隣で何も言わずに歩いていた。
静かな足取りだった。
筋肉質な身体なのに、足音が重くない。
石畳を踏んでいるのに、余計な音がしない。
ただ歩いているだけで、レンには分かった。
この人は強い。
身体の使い方がまるで違う。
玄斎のように岩のような強さではない。
宗一郎のように掴みどころのない強さでもない。
ギレーヌは獣に近かった。
静かに歩いているが、いつでも跳べる。
いつでも斬れる。
そういう身体だった。
エリスが不意に言った。
「ねえ、レン!」
「何?」
「あんた、ほんとに家ないの!」
「ない」
「親は!」
「いない」
「ふうん」
エリスはそれ以上、同情するようなことを言わなかった。
かわいそうとも言わない。
それは逆にありがたかった。
孤児であることは事実だ。
だが、それだけで見られるのはあまり好きではない。
「じゃあ、あんたは何で剣をやってるの?」
エリスが尋ねる。
「強くなりたいから」
「それだけ?」
「それだけじゃないけど、今はそれでいい」
「何よ、それ!」
「説明すると長い」
「短くしなさいよ!」
横暴な言い方だった。
だが、不思議と嫌な感じはしなかった。
エリスはただ、自分が知りたいことを知りたいと言っているだけだ。
隠さない。
飾らない。
その分、乱暴だが分かりやすい。
レンは少し考えた。
「怖くても、動けるようになりたい」
エリスは眉を寄せた。
「怖いの?」
「怖いよ」
「剣を持ってるのに?」
「剣を持ってても怖いものは怖い」
「変なの!」
「そうかな」
「私は怖くても殴るわ!」
「見れば分かる」
「何よそれ!」
エリスが拳を握る。
レンは半歩だけ身を引いた。
ギレーヌが静かに言う。
「エリス様」
「分かってるわよ。殴らないわよ!」
そう言いながら、拳はまだ握られていた。
本当に殴らないかどうかは怪しい。
レンは内心で少し笑った。
◇
屋敷の中へ通されると、そこもまた広かった。
床は磨かれ、壁には絵が飾られている。
使用人たちが素早く動き、エリスを見ると頭を下げる。
そのたびに、エリスは当然のように通り過ぎた。
レンは少しだけ居心地が悪かった。
道場では、雑巾がけも水汲みも自分でやる。
飯も自分で運ぶ。
布団も自分で敷く。
ここでは、そういうことを使用人がするらしい。
これが貴族の家なのだと、レンは少しずつ理解していった。
広い部屋に通された。
そこには、身なりの良い男が座っていた。
年齢は三十代くらいだろうか。
穏やかな顔をしているが、目は油断なく動いている。
エリスを見ると、男は小さく息を吐いた。
「エリス。また町で騒ぎを起こしたそうだね」
「騒ぎを起こしたのはあいつらよ!」
「君が護衛を振り切ったことも聞いている」
「だって遅いんだもの!」
「それは理由にならないよ」
男の声は穏やかだった。
だが、叱るところは叱っている。
エリスは不満そうにそっぽを向いた。
ギレーヌが一歩前に出る。
「フィリップ様。こちらが、町でエリス様を助けた少年です」
フィリップ。
この屋敷の主、あるいはそれに近い立場の者なのだろう。
レンは前へ出て頭を下げた。
「レン・クロガネです」
「クロガネ?」
フィリップはその名を繰り返した。
「この辺りでは聞かない名だね」
「山奥の道場で名乗ることになりました」
「道場?」
「はい。大亀流……の道場です」
「オオガメリュウ」
フィリップは静かに口の中で繰り返した。
やはり知らないらしい。
ギレーヌも聞いたことがないと言っていた。
大亀流は、この世界ではほとんど知られていない。
少なくとも、ロアの町で名が通る流派ではない。
「君は一人で旅をしているのかな」
「はい」
「年はいくつだい」
「たぶん、エリス様と同じくらいです」
「たぶん?」
「正確には分かりません」
フィリップの目が、ほんの少しだけ鋭くなった。
孤児。
身元不明。
一人旅。
木刀を持った子供。
怪しまれて当然だった。
レンはそれを感じ取りながら、余計なことは言わないようにした。
嘘をつけば、あとで崩れる。
分からないことは分からないと言うしかない。
フィリップはしばらくレンを見ていた。
その視線は剣士のものではない。
だが、別の意味で油断できなかった。
人を見る目。
相手が何を考えているのか測る目。
武ではない場所で戦ってきた人間の目だった。
「ギレーヌ」
「はい」
「この子の腕は?」
「歳を考えれば、かなり使えます」
エリスが得意げに言う。
「でしょ! 変な動きをしたのよ!」
「ただし」
ギレーヌはエリスを無視して続けた。
「未熟です。動きは速いですが、足がまだ浅い。力も足りません。剣士としては発展途上です」
「ふむ」
「ただ、見たことのない動きをします。剣神流ではありません。水神流でも北神流でもない」
フィリップは興味を示したようだった。
「面白いね」
レンは少し緊張した。
面白い。
その言葉が、良い意味か悪い意味か判断できない。
「君は仕事を探していると言ったね」
「はい」
「エリスを助けてくれた礼もある。数日はここに泊まるといい。その間、簡単な雑用か、庭での稽古相手くらいなら頼めるかもしれない」
エリスがすぐに身を乗り出した。
「稽古相手! それがいいわ!」
「エリス」
「何よ。私を助けたのよ? 強いなら稽古相手にちょうどいいじゃない!」
「君の稽古相手にするかどうかは、ギレーヌが判断する」
エリスは不満そうにギレーヌを見る。
「いいでしょ?」
「まずは見てからです」
「じゃあ今すぐ見ましょう!」
「エリス様」
「庭に行くわよ!」
言うなり、エリスは部屋を飛び出そうとした。
フィリップが静かに言う。
「その前に、町で壊した露店への謝罪と弁償の話がある」
エリスの足が止まった。
「……それは、後で」
「今だ」
「でも」
「今だ」
穏やかな声だった。
だが、逃げ場はなかった。
エリスは悔しそうに唇を尖らせる。
レンは少しだけ視線を逸らした。
笑うと殴られそうだったからだ。
◇
しばらくして、レンは屋敷の庭へ案内された。
エリスはまだフィリップに叱られているらしい。
先に庭へ出たのは、レンとギレーヌだった。
庭は広かった。
広すぎるほどだった。
芝生があり、石畳があり、木があり、訓練用なのか開けた場所もある。
道場の庭とは違う。
あちらは土の庭だった。
転べば土がつき、雨が降ればぬかるみ、冬は霜が降りる。
ここは整えられている。
踏み心地も違う。
足場としては悪くないが、土のように足裏が沈まない。
木刀を振る場所としては十分すぎる。
ギレーヌは庭の中央に立った。
「構えろ」
突然だった。
レンは一瞬だけ目を瞬かせる。
「今ですか」
「今だ」
「エリス様は」
「まず私が見る」
そう言われれば、断る理由はない。
レンは荷物を置き、木刀を手に取った。
ギレーヌは真剣を抜かなかった。
近くに置かれていた訓練用の木剣を一本取る。
ただ持っただけ。
それだけで空気が変わった。
レンは喉を鳴らしそうになった。
怖い。
野盗とも、町の男たちとも違う。
目の前の相手は本物の剣士だ。
いや、本物という言葉では足りない。
遥か上にいる。
踏み込めば斬られる。
下がっても詰められる。
そんな予感がした。
レンは木刀を構えた。
正眼ではない。
大亀流で学んだ、変化できる立ち方。
足裏で芝を感じる。
膝を固めない。
肩を落とす。
呼吸を止めない。
ギレーヌは剣を下げたままだった。
構えらしい構えではない。
だが、隙はない。
隙がないどころか、どこを見ればいいのか分からない。
肩か。
腰か。
足か。
手元か。
目か。
全部が見える。
なのに、どこから来るのか分からない。
「来い」
ギレーヌが言った。
レンは動かなかった。
すぐには入れない。
町の男たちのような大振りはない。
野盗のような怒り任せの踏み込みもない。
ギレーヌはただ立っている。
それだけで、レンの足を止めている。
なら、こちらから崩すしかない。
レンは息を吐く。
一歩、浅く入る。
雷電型の一式ではなく、その手前。
間合いを測るための探り。
ギレーヌは動かない。
レンはさらに半歩。
その瞬間、ギレーヌの剣先がわずかに上がった。
速い。
振ったというより、そこに置かれた。
レンの喉元に、木剣の先が来ていた。
レンは反射的に身を引く。
だが、その引きに合わせてギレーヌが一歩詰める。
距離が消える。
レンは木刀で払った。
払ったはずだった。
しかし、木刀は空を打つ。
ギレーヌの木剣は、もう別の角度から来ていた。
肩を打たれる。
鈍い痛み。
「ぐっ」
「遅い」
短い評価。
レンは歯を食いしばる。
もう一度。
今度はただ下がらない。
ギレーヌの次の一撃を見て、外へずれる。
虚空型・一式、影縫。
相手の目が追う場所から外れる。
そう意識した。
だが、ギレーヌの目は外れなかった。
レンのずれた先に、すでに木剣があった。
脇腹を打たれる。
息が詰まる。
「見せすぎだ」
ギレーヌが言う。
「ずれる前に、ずれると分かる」
「……はい」
レンは距離を取った。
痛みがある。
だが、まだ動ける。
次は水龍型。
真っ直ぐ振ると見せて、軌道を変える。
レンは木刀を振り下ろした。
ギレーヌの木剣が受けに来る。
その瞬間、握りを替え、軌道をずらす。
逆鱗。
だが、ギレーヌは驚かなかった。
受けの角度をほんの少し変えただけで、木刀の変化を殺した。
次の瞬間、レンの手元に衝撃が走る。
木刀が跳ね上げられた。
土公型の荒神でもない。
ただの受け流し。
それだけで、レンの手元が崩れる。
ギレーヌの木剣が額の前で止まった。
「変わった技だ」
ギレーヌは言った。
「だが、軽い」
レンは荒く息を吐いた。
軽い。
玄斎にも言われた。
ガイにも力で押された。
そして今、ギレーヌにも言われる。
分かっている。
身体が小さい。
筋力が足りない。
だが、それだけではない。
力の通り道がまだ細い。
技が形だけで、芯まで届いていない。
「もう一度、お願いします」
レンは言った。
ギレーヌは少しだけ目を細めた。
「まだやるのか」
「はい」
「勝てないぞ」
「知っています」
「なら、なぜやる」
レンは木刀を握り直した。
「どこで死ぬか、知りたいので」
ギレーヌはしばらく黙った。
そして、わずかに口元を動かした。
「いい答えだ」
次の瞬間、ギレーヌの圧が少し変わった。
強くなったのではない。
少しだけ、真面目になった。
それだけで、レンの肌が粟立つ。
来る。
そう思った時には、もう来ていた。
木剣が上から落ちる。
速い。
重い。
避ける余裕はない。
レンは受けない。
真正面から受ければ腕ごと潰れる。
木刀を斜めに出し、力を流す。
土公型で学んだ、相手の勝ち筋を見る感覚。
ギレーヌの一撃は、力だけではない。
真っ直ぐ押し潰す剣。
なら、正面を外す。
木刀と木剣が触れた瞬間、レンは身体ごと斜めに逃がした。
衝撃が腕を抜け、肩に響く。
完全には流せない。
それでも、直撃は避けた。
ギレーヌの目がわずかに動く。
その一瞬に、レンは前へ入った。
木刀を短く返す。
狙いは胴ではない。
手首。
相手の剣を握る場所。
大きく斬るのではなく、虚を突いて打つ。
木刀の先がギレーヌの手元へ走る。
当たる。
そう思った瞬間、ギレーヌの手首が消えた。
いや、違う。
引かれた。
同時に、木剣の柄がレンの胸に入る。
「かはっ」
息が抜けた。
膝が落ちる。
レンは倒れかけながらも、木刀の先だけはギレーヌへ向けた。
ギレーヌはそれを見て、木剣を止める。
「そこまでだ」
レンは膝をついたまま、荒く息をした。
勝負にもならなかった。
分かっていた。
だが、実際にやると差が大きすぎる。
玄斎とはまた違う絶望感だった。
玄斎はすべてを崩してくる。
ギレーヌは、こちらが動いた瞬間に斬ってくる。
剣速。
力。
間合い。
判断。
どれも違う。
大亀流の技が通じないわけではない。
だが、今のレンでは届かない。
技の形だけでは、上位の剣士には通らない。
ギレーヌは木剣を下ろした。
「悪くない」
レンは顔を上げた。
「本当ですか」
「歳を考えれば、だ」
「はい」
「変わった動きをする。特に踏み込みと、崩れた後の粘りは面白い」
「ありがとうございます」
「だが、剣が軽い。動きの前に意志が出る。技を変える時、身体の中で切れ目がある」
レンは一つずつ胸に刻んだ。
ギレーヌの言葉は、玄斎とは違う角度から自分を斬ってくる。
だからこそ貴重だった。
「エリス様の稽古相手には早いですか」
レンが尋ねると、ギレーヌは少しだけ考えた。
「正面から打ち合えば、危ない」
「俺がですか」
「両方だ」
その言葉に、レンは少し驚いた。
「エリス様は力が強い。感情で踏み込む。お前は速いが、まだ身体が軽い。噛み合えば、どちらかが怪我をする」
「はい」
「だが、短い稽古なら意味はある」
その時、庭の向こうから声が響いた。
「なら、やるわ!」
エリスだった。
どうやら話を終えて出てきたらしい。
怒られた後なのに、まったくしおれていない。
むしろ、目が輝いている。
「ギレーヌ! 今、いいって言ったわよね!」
「短い稽古なら、と言いました」
「同じでしょ!」
「違います」
エリスは聞いていなかった。
訓練用の木剣を手に取り、レンの前に立つ。
「さあ、やるわよ!」
レンはまだ胸を押さえていた。
「今?」
「今!」
「俺、さっきギレーヌさんに打たれたばかりなんだけど」
「だから何よ!」
「痛い」
「我慢しなさい!」
無茶苦茶だった。
だが、エリスの目は本気だった。
強い相手を見つけた。
知らない動きを見た。
だから戦ってみたい。
その感情だけで動いている。
レンは、少しだけ笑ってしまった。
「何笑ってるのよ!」
「いや、元気だなと思って」
「馬鹿にした?」
「してない」
「した顔だったわ!」
「じゃあ、少しだけ」
「やっぱり馬鹿にしてるじゃない!」
エリスが木剣を振り上げた。
ギレーヌが静かに言う。
「寸止め。顔と急所は禁止。三本まで」
「分かってるわよ!」
「レン」
「はい」
「速さだけで逃げるな」
「はい」
レンは木刀を構えた。
エリスも構える。
構えは荒い。
だが、力がある。
前へ出る気が強い。
迷いがない。
エリスが踏み込んだ。
速い。
いや、速いというより、強い。
地面を蹴る力が真っ直ぐこちらへ来る。
木剣が上から振り下ろされる。
レンは横へ外れる。
大きく避けすぎない。
エリスの木剣が空を切る。
普通なら、ここで隙ができる。
だがエリスは止まらなかった。
空振りした勢いのまま身体を回し、横薙ぎへ繋げてきた。
荒い。
だが、反応が早い。
レンは木刀で受けず、足を引いてかわす。
「逃げるな!」
エリスが叫ぶ。
「避けてるだけ」
「同じよ!」
「違うと思う」
言い返した瞬間、エリスがさらに踏み込んできた。
会話中でも止まらない。
レンは少し焦った。
エリスの剣は、型としては粗い。
だが、勢いが死なない。
殴るように斬る。
噛みつくように踏み込む。
理屈より先に身体が来る。
レンは木刀を短く上げ、エリスの木剣の軌道をそらした。
正面から受けない。
斜めに当てる。
力を逃がす。
そのまま手首を打とうとした。
だが、エリスは腕を引いた。
反応がいい。
代わりに膝を狙う。
エリスは跳ねるように下がった。
そして、悔しそうに笑った。
「あんた、やっぱり変な剣ね!」
「エリスも変だよ」
「私は普通よ!」
「普通は助けた相手に殴りかからない」
「うるさい!」
エリスがまた来る。
今度は低い。
真正面から突っ込んでくる。
レンはその勢いを利用し、半歩横へ外れながら木刀を肩口へ置いた。
寸止め。
一本。
エリスの木剣はレンの脇を通り過ぎている。
ギレーヌが言った。
「一本。レン」
エリスの目が丸くなる。
次に、顔が真っ赤になった。
「今のなし!」
「ありです」
ギレーヌが即答した。
「でも!」
「突っ込みすぎです」
「もう一本!」
エリスはすぐに構え直した。
レンも構え直す。
胸の痛みはまだ残っている。
だが、不思議と楽しかった。
エリスは強い。
粗い。
危なっかしい。
だが、怖がらない。
相手へ向かう力がある。
道場の弟子たちとも、野盗とも違う。
剣神流の稽古を受けているのだろう。
単純な踏み込みの圧が強い。
二本目。
エリスは先ほどより慎重だった。
すぐには飛び込まない。
木剣を構え、レンを見る。
学んでいる。
たった一本取られただけで、もう突っ込みを抑えようとしている。
レンは少し感心した。
だが、我慢は長く続かなかった。
エリスの眉がぴくりと動く。
次の瞬間、やはり前へ来た。
今度は上段からではなく、斜め。
レンは受け流そうとした。
だが、重い。
想像より重かった。
木刀が押される。
踏ん張るな。
踏ん張れば次に動けない。
レンは力を逃がそうとした。
しかし、足場が芝でわずかに滑る。
一瞬、身体が遅れた。
エリスの木剣がレンの肩をかすめる。
「一本!」
エリスが叫んだ。
ギレーヌが頷く。
「一本。エリス様」
「見た!? 今の見た!?」
「見ていました」
エリスは勝ち誇った顔でレンを見る。
「どう? 私の方が強いでしょ!」
「今のは俺の足が滑った」
「言い訳?」
「半分」
「残りは?」
「エリスの剣が重かった」
エリスは一瞬だけ黙った。
そして、なぜか満足そうに胸を張った。
「当然よ!」
三本目。
レンは足場を確認した。
芝は道場の土と違う。
石畳とも違う。
滑る。
沈まない。
踏み込みすぎると、足が遅れる。
エリスは今ので勢いづいている。
必ず前に来る。
だが、同じように外れればまた重さで押される。
なら、外れるだけでは駄目だ。
崩す。
エリスが踏み込んだ。
やはり真っ直ぐ。
木剣が斜めに落ちる。
レンは半歩外れる。
同時に、木刀の先をエリスの木剣の腹へ当てた。
受けるのではない。
軌道を少しだけずらす。
エリスの剣が流れる。
彼女の体勢が前へ傾く。
レンはそこへ入りすぎず、足元へ木刀を下ろした。
脛の寸前で止める。
ギレーヌが言った。
「一本。レン」
エリスは勢い余って数歩進み、振り返った。
「また!?」
「二対一だね」
レンが言うと、エリスは悔しそうに歯を食いしばった。
「もう一回!」
「三本までって言われた」
「もう一回!」
「エリス様」
ギレーヌの声で、エリスは止まった。
止まったが、納得はしていない顔だった。
「次は勝つわ!」
「うん」
「絶対よ!」
「分かった」
「あと、さっきの足の動き、教えなさい!」
「勝手に教えていいものじゃない」
「なんでよ!」
「流派の技だから」
「けち!」
「けちじゃない」
エリスは唇を尖らせた。
だが、怒りきってはいない。
悔しさと興味が混ざった顔だった。
ギレーヌは二人を見比べ、静かに言った。
「相性は悪くない」
レンは首を傾げる。
「そうですか」
「エリス様は前に出すぎる。お前は外しすぎる。互いに学ぶものがある」
エリスが言う。
「私は外す必要なんてないわ。全部叩き斬ればいいもの!」
「その考えだから一本目と三本目を取られました」
「ぐっ」
ギレーヌの一言に、エリスは黙った。
レンは少しだけ笑いそうになったが、こらえた。
絶対に見つかる。
エリスはそういう目をしている。
ギレーヌはレンへ向き直る。
「しばらく屋敷にいるなら、エリス様の相手をすることになる」
「はい」
「ただし、勝ち負けにこだわりすぎるな。エリス様も、お前も怪我をする」
「分かりました」
「エリス様」
「何よ!」
「レンは客人です。勝手に襲いかからないように」
「襲いかからないわよ!」
レンとギレーヌは同時にエリスを見た。
エリスは顔を赤くした。
「何よ! 今度からちゃんと声をかけるわよ!」
「そこなんだ」
「文句ある!?」
「ない」
レンは首を振った。
この屋敷での生活は、どうやら静かにはならなそうだった。
◇
その夜、レンは屋敷の一室を与えられた。
広い部屋だった。
少なくとも、道場で寝ていた部屋よりずっと広い。
寝台も柔らかい。
布も綺麗だ。
だが、レンはなかなか落ち着かなかった。
柔らかすぎる寝台は、逆に身体が沈む。
床板の硬さや薄い布団に慣れていたせいで、落ち着かない。
結局、レンは寝台の上ではなく、床に座って木刀の手入れを始めた。
町での騒ぎ。
エリスとの出会い。
ギレーヌとの手合わせ。
エリスとの三本勝負。
一日で起きたことが多すぎた。
ギレーヌの剣は、重かった。
速さだけではない。
構えも、目も、間合いも、すべてが違った。
自分の五剣は、まだ形だけだ。
玄斎の言葉を何度も思い出す。
未熟。
軽い。
遅い。
実戦なら死んでいる。
ギレーヌも同じように見抜いた。
足が浅い。
技の前に気配が出る。
剣が軽い。
切り替えに切れ目がある。
悔しい。
だが、それ以上に嬉しかった。
外に出たからこそ、違う強さに触れられた。
道場にいては分からなかったものが、ロアにはある。
エリスもそうだ。
乱暴で、短気で、礼儀も危うい。
だが、あの前へ出る力は本物だった。
負けてもすぐ次を求める。
悔しさを隠さない。
強さを見れば食いつく。
レンは木刀を布で拭きながら、小さく息を吐いた。
「変なやつ」
そう呟いた瞬間、扉の外から声がした。
「誰が変なのよ!」
レンは肩を跳ねさせた。
扉が勢いよく開く。
そこにエリスが立っていた。
寝間着に近い服装だが、目は昼間と変わらずぎらぎらしている。
「何してるの」
「木刀の手入れ」
「寝ないの?」
「これが終わったら」
「ふうん」
エリスは勝手に部屋へ入ってきた。
「入っていいって言ってない」
「私の家よ!」
「そうだけど」
理屈としてはおかしい気もするが、エリスは気にしていない。
彼女はレンの向かいに座り、木刀をじっと見た。
「それ、真剣じゃないのね」
「まだ持たせてもらえない」
「なんで?」
「早いって」
「誰に?」
「師匠」
「ふうん」
エリスは不満そうだった。
「私は早く真剣を使いたいわ!」
「危ないよ」
「危なくなきゃ剣じゃないでしょ!」
「それはそうだけど」
言い返しにくい。
剣は危ない。
木刀ですら、人を倒せる。
真剣ならなおさらだ。
エリスはレンを見た。
「あんたの師匠って強いの?」
「強い」
「ギレーヌより?」
レンは少し考えた。
玄斎とギレーヌ。
まったく違う強さだ。
簡単に比べられない。
「分からない」
「何よそれ!」
「どっちも強すぎて、俺にはまだ分からない」
「ふうん」
エリスは少し不満そうだったが、納得もしたようだった。
「じゃあ、あんたはその師匠みたいになりたいの?」
「それも違う」
「違うの?」
「俺は俺の剣を作れって言われてる」
エリスは黙った。
珍しく、すぐに噛みついてこなかった。
「自分の剣……」
「エリスは?」
「私は強くなる!」
「うん」
「誰よりも強くなる!」
「うん」
「ギレーヌよりも、父様よりも、みんなよりもよ!」
その言葉は子供っぽかった。
だが、嘘ではなかった。
エリスは本気でそう思っている。
本気で、誰よりも強くなろうとしている。
レンは木刀を拭く手を止めた。
「じゃあ、俺も負けないようにする」
エリスの目が光った。
「言ったわね!」
「言った」
「明日もやるわよ!」
「ギレーヌさんがいいって言ったら」
「言わせるわ!」
「どうやって」
「頼む!」
「それは普通だね」
「何よ、普通で悪い?」
「悪くない」
エリスは満足そうに立ち上がった。
部屋を出る前に、振り返る。
「レン」
「何?」
「今日の一本、次は取らせないから」
「俺も取られるつもりはない」
「ふん!」
エリスは笑った。
怒っているようで、楽しそうな笑みだった。
「おやすみ!」
「おやすみ」
扉が閉まる。
部屋に静けさが戻った。
レンはしばらく扉を見ていた。
それから、小さく笑う。
本当に変なやつだ。
だが、嫌いではない。
レンは木刀を置き、床に座ったまま背筋を伸ばした。
足裏は床についていない。
それでも、身体の中心を意識する。
呼吸を通す。
今日のギレーヌの剣を思い出す。
エリスの踏み込みを思い出す。
自分の足が浮いた瞬間を思い出す。
そして、ゆっくり目を閉じた。
フィットア領ロア。
ボレアス家。
ここには、道場とは違う強さがある。