無職転生×異伝   作:からし明太子

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第八話 ボレアス家の庭

 

 

 ボレアス家の屋敷は、レンが想像していたものよりもずっと大きかった。

 

 ロアの町そのものが、山奥の道場や道中の村とは比べものにならないほど広かった。

 

 だが、その町の中でも、ボレアス家の屋敷は別格だった。

 

 高い塀。

 

 整えられた門。

 

 門番。

 

 広い前庭。

 

 庭木は綺麗に刈られ、道は石で敷かれ、建物は何棟も連なっている。

 

 レンは門をくぐった瞬間、思わず足を止めそうになった。

 

 金持ちの家、という言葉では足りない。

 

 権力を持つ者の家。

 

 そう感じた。

 

 前世の記憶を合わせても、こんな場所に入ったことはない。

 

 山奥の道場では、床を磨き、薪を割り、井戸の水を汲み、朝靄の中で木刀を振っていた。

 

 それが今は、貴族の屋敷の中を歩いている。

 

 場違いだった。

 

 だが、逃げるほどではない。

 

 レンは背筋を伸ばしすぎないように気をつけた。

 

 緊張すれば肩が上がる。

 

 肩が上がれば、動きが死ぬ。

 

 玄斎に何度も叩かれた癖だ。

 

 足裏で石畳を感じる。

 

 山道の土とは違う。

 

 硬い。

 

 滑りやすい。

 

 足音も響く。

 

 ここで走れば、道場の庭とは違う動きになる。

 

 そんなことを考えていると、前を歩くエリスが振り返った。

 

「何ぼーっとしてるのよ!」

 

「広いなと思って」

 

「普通でしょ!」

 

「普通じゃないと思う」

 

「そう!」

 

 エリスは本気で分かっていない顔をした。

 

 彼女にとって、この屋敷は日常なのだ。

 

 レンにとっての道場や山道と同じように、彼女にとってはこの広い庭も、高い塀も、護衛も、使用人も、当たり前のものなのだろう。

 

 ギレーヌはその隣で何も言わずに歩いていた。

 

 静かな足取りだった。

 

 筋肉質な身体なのに、足音が重くない。

 

 石畳を踏んでいるのに、余計な音がしない。

 

 ただ歩いているだけで、レンには分かった。

 

 この人は強い。

 

 身体の使い方がまるで違う。

 

 玄斎のように岩のような強さではない。

 

 宗一郎のように掴みどころのない強さでもない。

 

 ギレーヌは獣に近かった。

 

 静かに歩いているが、いつでも跳べる。

 

 いつでも斬れる。

 

 そういう身体だった。

 

 エリスが不意に言った。

 

「ねえ、レン!」

 

「何?」

 

「あんた、ほんとに家ないの!」

 

「ない」

 

「親は!」

 

「いない」

 

「ふうん」

 

 エリスはそれ以上、同情するようなことを言わなかった。

 

 かわいそうとも言わない。

 

 それは逆にありがたかった。

 

 孤児であることは事実だ。

 

 だが、それだけで見られるのはあまり好きではない。

 

「じゃあ、あんたは何で剣をやってるの?」

 

 エリスが尋ねる。

 

「強くなりたいから」

 

「それだけ?」

 

「それだけじゃないけど、今はそれでいい」

 

「何よ、それ!」

 

「説明すると長い」

 

「短くしなさいよ!」

 

 横暴な言い方だった。

 

 だが、不思議と嫌な感じはしなかった。

 

 エリスはただ、自分が知りたいことを知りたいと言っているだけだ。

 

 隠さない。

 

 飾らない。

 

 その分、乱暴だが分かりやすい。

 

 レンは少し考えた。

 

「怖くても、動けるようになりたい」

 

 エリスは眉を寄せた。

 

「怖いの?」

 

「怖いよ」

 

「剣を持ってるのに?」

 

「剣を持ってても怖いものは怖い」

 

「変なの!」

 

「そうかな」

 

「私は怖くても殴るわ!」

 

「見れば分かる」

 

「何よそれ!」

 

 エリスが拳を握る。

 

 レンは半歩だけ身を引いた。

 

 ギレーヌが静かに言う。

 

「エリス様」

 

「分かってるわよ。殴らないわよ!」

 

 そう言いながら、拳はまだ握られていた。

 

 本当に殴らないかどうかは怪しい。

 

 レンは内心で少し笑った。

 

 ◇

 

 屋敷の中へ通されると、そこもまた広かった。

 

 床は磨かれ、壁には絵が飾られている。

 

 使用人たちが素早く動き、エリスを見ると頭を下げる。

 

 そのたびに、エリスは当然のように通り過ぎた。

 

 レンは少しだけ居心地が悪かった。

 

 道場では、雑巾がけも水汲みも自分でやる。

 

 飯も自分で運ぶ。

 

 布団も自分で敷く。

 

 ここでは、そういうことを使用人がするらしい。

 

 これが貴族の家なのだと、レンは少しずつ理解していった。

 

 広い部屋に通された。

 

 そこには、身なりの良い男が座っていた。

 

 年齢は三十代くらいだろうか。

 

 穏やかな顔をしているが、目は油断なく動いている。

 

 エリスを見ると、男は小さく息を吐いた。

 

「エリス。また町で騒ぎを起こしたそうだね」

 

「騒ぎを起こしたのはあいつらよ!」

 

「君が護衛を振り切ったことも聞いている」

 

「だって遅いんだもの!」

 

「それは理由にならないよ」

 

 男の声は穏やかだった。

 

 だが、叱るところは叱っている。

 

 エリスは不満そうにそっぽを向いた。

 

 ギレーヌが一歩前に出る。

 

「フィリップ様。こちらが、町でエリス様を助けた少年です」

 

 フィリップ。

 

 この屋敷の主、あるいはそれに近い立場の者なのだろう。

 

 レンは前へ出て頭を下げた。

 

「レン・クロガネです」

 

「クロガネ?」

 

 フィリップはその名を繰り返した。

 

「この辺りでは聞かない名だね」

 

「山奥の道場で名乗ることになりました」

 

「道場?」

 

「はい。大亀流……の道場です」

 

「オオガメリュウ」

 

 フィリップは静かに口の中で繰り返した。

 

 やはり知らないらしい。

 

 ギレーヌも聞いたことがないと言っていた。

 

 大亀流は、この世界ではほとんど知られていない。

 

 少なくとも、ロアの町で名が通る流派ではない。

 

「君は一人で旅をしているのかな」

 

「はい」

 

「年はいくつだい」

 

「たぶん、エリス様と同じくらいです」

 

「たぶん?」

 

「正確には分かりません」

 

 フィリップの目が、ほんの少しだけ鋭くなった。

 

 孤児。

 

 身元不明。

 

 一人旅。

 

 木刀を持った子供。

 

 怪しまれて当然だった。

 

 レンはそれを感じ取りながら、余計なことは言わないようにした。

 

 嘘をつけば、あとで崩れる。

 

 分からないことは分からないと言うしかない。

 

 フィリップはしばらくレンを見ていた。

 

 その視線は剣士のものではない。

 

 だが、別の意味で油断できなかった。

 

 人を見る目。

 

 相手が何を考えているのか測る目。

 

 武ではない場所で戦ってきた人間の目だった。

 

「ギレーヌ」

 

「はい」

 

「この子の腕は?」

 

「歳を考えれば、かなり使えます」

 

 エリスが得意げに言う。

 

「でしょ! 変な動きをしたのよ!」

 

「ただし」

 

 ギレーヌはエリスを無視して続けた。

 

「未熟です。動きは速いですが、足がまだ浅い。力も足りません。剣士としては発展途上です」

 

「ふむ」

 

「ただ、見たことのない動きをします。剣神流ではありません。水神流でも北神流でもない」

 

 フィリップは興味を示したようだった。

 

「面白いね」

 

 レンは少し緊張した。

 

 面白い。

 

 その言葉が、良い意味か悪い意味か判断できない。

 

「君は仕事を探していると言ったね」

 

「はい」

 

「エリスを助けてくれた礼もある。数日はここに泊まるといい。その間、簡単な雑用か、庭での稽古相手くらいなら頼めるかもしれない」

 

 エリスがすぐに身を乗り出した。

 

「稽古相手! それがいいわ!」

 

「エリス」

 

「何よ。私を助けたのよ? 強いなら稽古相手にちょうどいいじゃない!」

 

「君の稽古相手にするかどうかは、ギレーヌが判断する」

 

 エリスは不満そうにギレーヌを見る。

 

「いいでしょ?」

 

「まずは見てからです」

 

「じゃあ今すぐ見ましょう!」

 

「エリス様」

 

「庭に行くわよ!」

 

 言うなり、エリスは部屋を飛び出そうとした。

 

 フィリップが静かに言う。

 

「その前に、町で壊した露店への謝罪と弁償の話がある」

 

 エリスの足が止まった。

 

「……それは、後で」

 

「今だ」

 

「でも」

 

「今だ」

 

 穏やかな声だった。

 

 だが、逃げ場はなかった。

 

 エリスは悔しそうに唇を尖らせる。

 

 レンは少しだけ視線を逸らした。

 

 笑うと殴られそうだったからだ。

 

 ◇

 

 しばらくして、レンは屋敷の庭へ案内された。

 

 エリスはまだフィリップに叱られているらしい。

 

 先に庭へ出たのは、レンとギレーヌだった。

 

 庭は広かった。

 

 広すぎるほどだった。

 

 芝生があり、石畳があり、木があり、訓練用なのか開けた場所もある。

 

 道場の庭とは違う。

 

 あちらは土の庭だった。

 

 転べば土がつき、雨が降ればぬかるみ、冬は霜が降りる。

 

 ここは整えられている。

 

 踏み心地も違う。

 

 足場としては悪くないが、土のように足裏が沈まない。

 

 木刀を振る場所としては十分すぎる。

 

 ギレーヌは庭の中央に立った。

 

「構えろ」

 

 突然だった。

 

 レンは一瞬だけ目を瞬かせる。

 

「今ですか」

 

「今だ」

 

「エリス様は」

 

「まず私が見る」

 

 そう言われれば、断る理由はない。

 

 レンは荷物を置き、木刀を手に取った。

 

 ギレーヌは真剣を抜かなかった。

 

 近くに置かれていた訓練用の木剣を一本取る。

 

 ただ持っただけ。

 

 それだけで空気が変わった。

 

 レンは喉を鳴らしそうになった。

 

 怖い。

 

 野盗とも、町の男たちとも違う。

 

 目の前の相手は本物の剣士だ。

 

 いや、本物という言葉では足りない。

 

 遥か上にいる。

 

 踏み込めば斬られる。

 

 下がっても詰められる。

 

 そんな予感がした。

 

 レンは木刀を構えた。

 

 正眼ではない。

 

 大亀流で学んだ、変化できる立ち方。

 

 足裏で芝を感じる。

 

 膝を固めない。

 

 肩を落とす。

 

 呼吸を止めない。

 

 ギレーヌは剣を下げたままだった。

 

 構えらしい構えではない。

 

 だが、隙はない。

 

 隙がないどころか、どこを見ればいいのか分からない。

 

 肩か。

 

 腰か。

 

 足か。

 

 手元か。

 

 目か。

 

 全部が見える。

 

 なのに、どこから来るのか分からない。

 

「来い」

 

 ギレーヌが言った。

 

 レンは動かなかった。

 

 すぐには入れない。

 

 町の男たちのような大振りはない。

 

 野盗のような怒り任せの踏み込みもない。

 

 ギレーヌはただ立っている。

 

 それだけで、レンの足を止めている。

 

 なら、こちらから崩すしかない。

 

 レンは息を吐く。

 

 一歩、浅く入る。

 

 雷電型の一式ではなく、その手前。

 

 間合いを測るための探り。

 

 ギレーヌは動かない。

 

 レンはさらに半歩。

 

 その瞬間、ギレーヌの剣先がわずかに上がった。

 

 速い。

 

 振ったというより、そこに置かれた。

 

 レンの喉元に、木剣の先が来ていた。

 

 レンは反射的に身を引く。

 

 だが、その引きに合わせてギレーヌが一歩詰める。

 

 距離が消える。

 

 レンは木刀で払った。

 

 払ったはずだった。

 

 しかし、木刀は空を打つ。

 

 ギレーヌの木剣は、もう別の角度から来ていた。

 

 肩を打たれる。

 

 鈍い痛み。

 

「ぐっ」

 

「遅い」

 

 短い評価。

 

 レンは歯を食いしばる。

 

 もう一度。

 

 今度はただ下がらない。

 

 ギレーヌの次の一撃を見て、外へずれる。

 

 虚空型・一式、影縫。

 

 相手の目が追う場所から外れる。

 

 そう意識した。

 

 だが、ギレーヌの目は外れなかった。

 

 レンのずれた先に、すでに木剣があった。

 

 脇腹を打たれる。

 

 息が詰まる。

 

「見せすぎだ」

 

 ギレーヌが言う。

 

「ずれる前に、ずれると分かる」

 

「……はい」

 

 レンは距離を取った。

 

 痛みがある。

 

 だが、まだ動ける。

 

 次は水龍型。

 

 真っ直ぐ振ると見せて、軌道を変える。

 

 レンは木刀を振り下ろした。

 

 ギレーヌの木剣が受けに来る。

 

 その瞬間、握りを替え、軌道をずらす。

 

 逆鱗。

 

 だが、ギレーヌは驚かなかった。

 

 受けの角度をほんの少し変えただけで、木刀の変化を殺した。

 

 次の瞬間、レンの手元に衝撃が走る。

 

 木刀が跳ね上げられた。

 

 土公型の荒神でもない。

 

 ただの受け流し。

 

 それだけで、レンの手元が崩れる。

 

 ギレーヌの木剣が額の前で止まった。

 

「変わった技だ」

 

 ギレーヌは言った。

 

「だが、軽い」

 

 レンは荒く息を吐いた。

 

 軽い。

 

 玄斎にも言われた。

 

 ガイにも力で押された。

 

 そして今、ギレーヌにも言われる。

 

 分かっている。

 

 身体が小さい。

 

 筋力が足りない。

 

 だが、それだけではない。

 

 力の通り道がまだ細い。

 

 技が形だけで、芯まで届いていない。

 

「もう一度、お願いします」

 

 レンは言った。

 

 ギレーヌは少しだけ目を細めた。

 

「まだやるのか」

 

「はい」

 

「勝てないぞ」

 

「知っています」

 

「なら、なぜやる」

 

 レンは木刀を握り直した。

 

「どこで死ぬか、知りたいので」

 

 ギレーヌはしばらく黙った。

 

 そして、わずかに口元を動かした。

 

「いい答えだ」

 

 次の瞬間、ギレーヌの圧が少し変わった。

 

 強くなったのではない。

 

 少しだけ、真面目になった。

 

 それだけで、レンの肌が粟立つ。

 

 来る。

 

 そう思った時には、もう来ていた。

 

 木剣が上から落ちる。

 

 速い。

 

 重い。

 

 避ける余裕はない。

 

 レンは受けない。

 

 真正面から受ければ腕ごと潰れる。

 

 木刀を斜めに出し、力を流す。

 

 土公型で学んだ、相手の勝ち筋を見る感覚。

 

 ギレーヌの一撃は、力だけではない。

 

 真っ直ぐ押し潰す剣。

 

 なら、正面を外す。

 

 木刀と木剣が触れた瞬間、レンは身体ごと斜めに逃がした。

 

 衝撃が腕を抜け、肩に響く。

 

 完全には流せない。

 

 それでも、直撃は避けた。

 

 ギレーヌの目がわずかに動く。

 

 その一瞬に、レンは前へ入った。

 

 木刀を短く返す。

 

 狙いは胴ではない。

 

 手首。

 

 相手の剣を握る場所。

 

 大きく斬るのではなく、虚を突いて打つ。

 

 木刀の先がギレーヌの手元へ走る。

 

 当たる。

 

 そう思った瞬間、ギレーヌの手首が消えた。

 

 いや、違う。

 

 引かれた。

 

 同時に、木剣の柄がレンの胸に入る。

 

「かはっ」

 

 息が抜けた。

 

 膝が落ちる。

 

 レンは倒れかけながらも、木刀の先だけはギレーヌへ向けた。

 

 ギレーヌはそれを見て、木剣を止める。

 

「そこまでだ」

 

 レンは膝をついたまま、荒く息をした。

 

 勝負にもならなかった。

 

 分かっていた。

 

 だが、実際にやると差が大きすぎる。

 

 玄斎とはまた違う絶望感だった。

 

 玄斎はすべてを崩してくる。

 

 ギレーヌは、こちらが動いた瞬間に斬ってくる。

 

 剣速。

 

 力。

 

 間合い。

 

 判断。

 

 どれも違う。

 

 大亀流の技が通じないわけではない。

 

 だが、今のレンでは届かない。

 

 技の形だけでは、上位の剣士には通らない。

 

 ギレーヌは木剣を下ろした。

 

「悪くない」

 

 レンは顔を上げた。

 

「本当ですか」

 

「歳を考えれば、だ」

 

「はい」

 

「変わった動きをする。特に踏み込みと、崩れた後の粘りは面白い」

 

「ありがとうございます」

 

「だが、剣が軽い。動きの前に意志が出る。技を変える時、身体の中で切れ目がある」

 

 レンは一つずつ胸に刻んだ。

 

 ギレーヌの言葉は、玄斎とは違う角度から自分を斬ってくる。

 

 だからこそ貴重だった。

 

「エリス様の稽古相手には早いですか」

 

 レンが尋ねると、ギレーヌは少しだけ考えた。

 

「正面から打ち合えば、危ない」

 

「俺がですか」

 

「両方だ」

 

 その言葉に、レンは少し驚いた。

 

「エリス様は力が強い。感情で踏み込む。お前は速いが、まだ身体が軽い。噛み合えば、どちらかが怪我をする」

 

「はい」

 

「だが、短い稽古なら意味はある」

 

 その時、庭の向こうから声が響いた。

 

「なら、やるわ!」

 

 エリスだった。

 

 どうやら話を終えて出てきたらしい。

 

 怒られた後なのに、まったくしおれていない。

 

 むしろ、目が輝いている。

 

「ギレーヌ! 今、いいって言ったわよね!」

 

「短い稽古なら、と言いました」

 

「同じでしょ!」

 

「違います」

 

 エリスは聞いていなかった。

 

 訓練用の木剣を手に取り、レンの前に立つ。

 

「さあ、やるわよ!」

 

 レンはまだ胸を押さえていた。

 

「今?」

 

「今!」

 

「俺、さっきギレーヌさんに打たれたばかりなんだけど」

 

「だから何よ!」

 

「痛い」

 

「我慢しなさい!」

 

 無茶苦茶だった。

 

 だが、エリスの目は本気だった。

 

 強い相手を見つけた。

 

 知らない動きを見た。

 

 だから戦ってみたい。

 

 その感情だけで動いている。

 

 レンは、少しだけ笑ってしまった。

 

「何笑ってるのよ!」

 

「いや、元気だなと思って」

 

「馬鹿にした?」

 

「してない」

 

「した顔だったわ!」

 

「じゃあ、少しだけ」

 

「やっぱり馬鹿にしてるじゃない!」

 

 エリスが木剣を振り上げた。

 

 ギレーヌが静かに言う。

 

「寸止め。顔と急所は禁止。三本まで」

 

「分かってるわよ!」

 

「レン」

 

「はい」

 

「速さだけで逃げるな」

 

「はい」

 

 レンは木刀を構えた。

 

 エリスも構える。

 

 構えは荒い。

 

 だが、力がある。

 

 前へ出る気が強い。

 

 迷いがない。

 

 エリスが踏み込んだ。

 

 速い。

 

 いや、速いというより、強い。

 

 地面を蹴る力が真っ直ぐこちらへ来る。

 

 木剣が上から振り下ろされる。

 

 レンは横へ外れる。

 

 大きく避けすぎない。

 

 エリスの木剣が空を切る。

 

 普通なら、ここで隙ができる。

 

 だがエリスは止まらなかった。

 

 空振りした勢いのまま身体を回し、横薙ぎへ繋げてきた。

 

 荒い。

 

 だが、反応が早い。

 

 レンは木刀で受けず、足を引いてかわす。

 

「逃げるな!」

 

 エリスが叫ぶ。

 

「避けてるだけ」

 

「同じよ!」

 

「違うと思う」

 

 言い返した瞬間、エリスがさらに踏み込んできた。

 

 会話中でも止まらない。

 

 レンは少し焦った。

 

 エリスの剣は、型としては粗い。

 

 だが、勢いが死なない。

 

 殴るように斬る。

 

 噛みつくように踏み込む。

 

 理屈より先に身体が来る。

 

 レンは木刀を短く上げ、エリスの木剣の軌道をそらした。

 

 正面から受けない。

 

 斜めに当てる。

 

 力を逃がす。

 

 そのまま手首を打とうとした。

 

 だが、エリスは腕を引いた。

 

 反応がいい。

 

 代わりに膝を狙う。

 

 エリスは跳ねるように下がった。

 

 そして、悔しそうに笑った。

 

「あんた、やっぱり変な剣ね!」

 

「エリスも変だよ」

 

「私は普通よ!」

 

「普通は助けた相手に殴りかからない」

 

「うるさい!」

 

 エリスがまた来る。

 

 今度は低い。

 

 真正面から突っ込んでくる。

 

 レンはその勢いを利用し、半歩横へ外れながら木刀を肩口へ置いた。

 

 寸止め。

 

 一本。

 

 エリスの木剣はレンの脇を通り過ぎている。

 

 ギレーヌが言った。

 

「一本。レン」

 

 エリスの目が丸くなる。

 

 次に、顔が真っ赤になった。

 

「今のなし!」

 

「ありです」

 

 ギレーヌが即答した。

 

「でも!」

 

「突っ込みすぎです」

 

「もう一本!」

 

 エリスはすぐに構え直した。

 

 レンも構え直す。

 

 胸の痛みはまだ残っている。

 

 だが、不思議と楽しかった。

 

 エリスは強い。

 

 粗い。

 

 危なっかしい。

 

 だが、怖がらない。

 

 相手へ向かう力がある。

 

 道場の弟子たちとも、野盗とも違う。

 

 剣神流の稽古を受けているのだろう。

 

 単純な踏み込みの圧が強い。

 

 二本目。

 

 エリスは先ほどより慎重だった。

 

 すぐには飛び込まない。

 

 木剣を構え、レンを見る。

 

 学んでいる。

 

 たった一本取られただけで、もう突っ込みを抑えようとしている。

 

 レンは少し感心した。

 

 だが、我慢は長く続かなかった。

 

 エリスの眉がぴくりと動く。

 

 次の瞬間、やはり前へ来た。

 

 今度は上段からではなく、斜め。

 

 レンは受け流そうとした。

 

 だが、重い。

 

 想像より重かった。

 

 木刀が押される。

 

 踏ん張るな。

 

 踏ん張れば次に動けない。

 

 レンは力を逃がそうとした。

 

 しかし、足場が芝でわずかに滑る。

 

 一瞬、身体が遅れた。

 

 エリスの木剣がレンの肩をかすめる。

 

「一本!」

 

 エリスが叫んだ。

 

 ギレーヌが頷く。

 

「一本。エリス様」

 

「見た!? 今の見た!?」

 

「見ていました」

 

 エリスは勝ち誇った顔でレンを見る。

 

「どう? 私の方が強いでしょ!」

 

「今のは俺の足が滑った」

 

「言い訳?」

 

「半分」

 

「残りは?」

 

「エリスの剣が重かった」

 

 エリスは一瞬だけ黙った。

 

 そして、なぜか満足そうに胸を張った。

 

「当然よ!」

 

 三本目。

 

 レンは足場を確認した。

 

 芝は道場の土と違う。

 

 石畳とも違う。

 

 滑る。

 

 沈まない。

 

 踏み込みすぎると、足が遅れる。

 

 エリスは今ので勢いづいている。

 

 必ず前に来る。

 

 だが、同じように外れればまた重さで押される。

 

 なら、外れるだけでは駄目だ。

 

 崩す。

 

 エリスが踏み込んだ。

 

 やはり真っ直ぐ。

 

 木剣が斜めに落ちる。

 

 レンは半歩外れる。

 

 同時に、木刀の先をエリスの木剣の腹へ当てた。

 

 受けるのではない。

 

 軌道を少しだけずらす。

 

 エリスの剣が流れる。

 

 彼女の体勢が前へ傾く。

 

 レンはそこへ入りすぎず、足元へ木刀を下ろした。

 

 脛の寸前で止める。

 

 ギレーヌが言った。

 

「一本。レン」

 

 エリスは勢い余って数歩進み、振り返った。

 

「また!?」

 

「二対一だね」

 

 レンが言うと、エリスは悔しそうに歯を食いしばった。

 

「もう一回!」

 

「三本までって言われた」

 

「もう一回!」

 

「エリス様」

 

 ギレーヌの声で、エリスは止まった。

 

 止まったが、納得はしていない顔だった。

 

「次は勝つわ!」

 

「うん」

 

「絶対よ!」

 

「分かった」

 

「あと、さっきの足の動き、教えなさい!」

 

「勝手に教えていいものじゃない」

 

「なんでよ!」

 

「流派の技だから」

 

「けち!」

 

「けちじゃない」

 

 エリスは唇を尖らせた。

 

 だが、怒りきってはいない。

 

 悔しさと興味が混ざった顔だった。

 

 ギレーヌは二人を見比べ、静かに言った。

 

「相性は悪くない」

 

 レンは首を傾げる。

 

「そうですか」

 

「エリス様は前に出すぎる。お前は外しすぎる。互いに学ぶものがある」

 

 エリスが言う。

 

「私は外す必要なんてないわ。全部叩き斬ればいいもの!」

 

「その考えだから一本目と三本目を取られました」

 

「ぐっ」

 

 ギレーヌの一言に、エリスは黙った。

 

 レンは少しだけ笑いそうになったが、こらえた。

 

 絶対に見つかる。

 

 エリスはそういう目をしている。

 

 ギレーヌはレンへ向き直る。

 

「しばらく屋敷にいるなら、エリス様の相手をすることになる」

 

「はい」

 

「ただし、勝ち負けにこだわりすぎるな。エリス様も、お前も怪我をする」

 

「分かりました」

 

「エリス様」

 

「何よ!」

 

「レンは客人です。勝手に襲いかからないように」

 

「襲いかからないわよ!」

 

 レンとギレーヌは同時にエリスを見た。

 

 エリスは顔を赤くした。

 

「何よ! 今度からちゃんと声をかけるわよ!」

 

「そこなんだ」

 

「文句ある!?」

 

「ない」

 

 レンは首を振った。

 

 この屋敷での生活は、どうやら静かにはならなそうだった。

 

 ◇

 

 その夜、レンは屋敷の一室を与えられた。

 

 広い部屋だった。

 

 少なくとも、道場で寝ていた部屋よりずっと広い。

 

 寝台も柔らかい。

 

 布も綺麗だ。

 

 だが、レンはなかなか落ち着かなかった。

 

 柔らかすぎる寝台は、逆に身体が沈む。

 

 床板の硬さや薄い布団に慣れていたせいで、落ち着かない。

 

 結局、レンは寝台の上ではなく、床に座って木刀の手入れを始めた。

 

 町での騒ぎ。

 

 エリスとの出会い。

 

 ギレーヌとの手合わせ。

 

 エリスとの三本勝負。

 

 一日で起きたことが多すぎた。

 

 ギレーヌの剣は、重かった。

 

 速さだけではない。

 

 構えも、目も、間合いも、すべてが違った。

 

 自分の五剣は、まだ形だけだ。

 

 玄斎の言葉を何度も思い出す。

 

 未熟。

 

 軽い。

 

 遅い。

 

 実戦なら死んでいる。

 

 ギレーヌも同じように見抜いた。

 

 足が浅い。

 

 技の前に気配が出る。

 

 剣が軽い。

 

 切り替えに切れ目がある。

 

 悔しい。

 

 だが、それ以上に嬉しかった。

 

 外に出たからこそ、違う強さに触れられた。

 

 道場にいては分からなかったものが、ロアにはある。

 

 エリスもそうだ。

 

 乱暴で、短気で、礼儀も危うい。

 

 だが、あの前へ出る力は本物だった。

 

 負けてもすぐ次を求める。

 

 悔しさを隠さない。

 

 強さを見れば食いつく。

 

 レンは木刀を布で拭きながら、小さく息を吐いた。

 

「変なやつ」

 

 そう呟いた瞬間、扉の外から声がした。

 

「誰が変なのよ!」

 

 レンは肩を跳ねさせた。

 

 扉が勢いよく開く。

 

 そこにエリスが立っていた。

 

 寝間着に近い服装だが、目は昼間と変わらずぎらぎらしている。

 

「何してるの」

 

「木刀の手入れ」

 

「寝ないの?」

 

「これが終わったら」

 

「ふうん」

 

 エリスは勝手に部屋へ入ってきた。

 

「入っていいって言ってない」

 

「私の家よ!」

 

「そうだけど」

 

 理屈としてはおかしい気もするが、エリスは気にしていない。

 

 彼女はレンの向かいに座り、木刀をじっと見た。

 

「それ、真剣じゃないのね」

 

「まだ持たせてもらえない」

 

「なんで?」

 

「早いって」

 

「誰に?」

 

「師匠」

 

「ふうん」

 

 エリスは不満そうだった。

 

「私は早く真剣を使いたいわ!」

 

「危ないよ」

 

「危なくなきゃ剣じゃないでしょ!」

 

「それはそうだけど」

 

 言い返しにくい。

 

 剣は危ない。

 

 木刀ですら、人を倒せる。

 

 真剣ならなおさらだ。

 

 エリスはレンを見た。

 

「あんたの師匠って強いの?」

 

「強い」

 

「ギレーヌより?」

 

 レンは少し考えた。

 

 玄斎とギレーヌ。

 

 まったく違う強さだ。

 

 簡単に比べられない。

 

「分からない」

 

「何よそれ!」

 

「どっちも強すぎて、俺にはまだ分からない」

 

「ふうん」

 

 エリスは少し不満そうだったが、納得もしたようだった。

 

「じゃあ、あんたはその師匠みたいになりたいの?」

 

「それも違う」

 

「違うの?」

 

「俺は俺の剣を作れって言われてる」

 

 エリスは黙った。

 

 珍しく、すぐに噛みついてこなかった。

 

「自分の剣……」

 

「エリスは?」

 

「私は強くなる!」

 

「うん」

 

「誰よりも強くなる!」

 

「うん」

 

「ギレーヌよりも、父様よりも、みんなよりもよ!」

 

 その言葉は子供っぽかった。

 

 だが、嘘ではなかった。

 

 エリスは本気でそう思っている。

 

 本気で、誰よりも強くなろうとしている。

 

 レンは木刀を拭く手を止めた。

 

「じゃあ、俺も負けないようにする」

 

 エリスの目が光った。

 

「言ったわね!」

 

「言った」

 

「明日もやるわよ!」

 

「ギレーヌさんがいいって言ったら」

 

「言わせるわ!」

 

「どうやって」

 

「頼む!」

 

「それは普通だね」

 

「何よ、普通で悪い?」

 

「悪くない」

 

 エリスは満足そうに立ち上がった。

 

 部屋を出る前に、振り返る。

 

「レン」

 

「何?」

 

「今日の一本、次は取らせないから」

 

「俺も取られるつもりはない」

 

「ふん!」

 

 エリスは笑った。

 

 怒っているようで、楽しそうな笑みだった。

 

「おやすみ!」

 

「おやすみ」

 

 扉が閉まる。

 

 部屋に静けさが戻った。

 

 レンはしばらく扉を見ていた。

 

 それから、小さく笑う。

 

 本当に変なやつだ。

 

 だが、嫌いではない。

 

 レンは木刀を置き、床に座ったまま背筋を伸ばした。

 

 足裏は床についていない。

 

 それでも、身体の中心を意識する。

 

 呼吸を通す。

 

 今日のギレーヌの剣を思い出す。

 

 エリスの踏み込みを思い出す。

 

 自分の足が浮いた瞬間を思い出す。

 

 そして、ゆっくり目を閉じた。

 

 フィットア領ロア。

 

 ボレアス家。

 

 ここには、道場とは違う強さがある。

 

 

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