そんな時、「彼女」はどう動くのか……という回でもあります。
「準備はいいですね? 紫姫」
「滞りなく」
答えて頭を垂れるのは、冷たい顔立ちをした美女だった。
長いまつ毛に、酷薄そうな目。
紫のヴェールで頭を覆い、色のドレスを身に纏っている。
「準備はいいですね? 紫星」
「まかせい」
ベビーカーに乗せられた赤ん坊が、しわがれた声で答えた。
顔の半分を占めた一つ目を、ニイと歪めて笑っている。
「これより、我々の計画は、プランBに入ります」
二人に頷きかけるのは、オールバックの長身の男だ。
皺一つないスーツを着込み、締めているのは紫色のネクタイ。
エージェント以外の誰が見たって、立派な大人だと思うだろう。
彼が地獄の人喰い鬼……紫鬼だなんて、夢にも思わないだろう。
結城光哉は、彼らの脇で、窓の外を見つめていた。
どんな子供でも幸せに、笑って暮らせるような世界。
光哉はずっと、待ち望んでいた。
紫鬼(おとうさん)は、約束してくれたんだ。
「創り変えましょう。……地上を、“楽園(ユートピア)”に」
その声が冷ややかに静寂へと溶けていくと同時に、
暗雲の垂れ込めるとある洋館の奥深くでは、静謐な魔力が漣のように広がっていた。
「……行ったのね、紫鬼」
桜ヶ島郊外、かつて切り取られたように空間から遮断されていたはずの洋館。
そのホールに佇む桃色のツインテールの女性――桃鬼は、
遠い眼差しで地上を覆う妖気を感じ取っていた。
額から伸びる一本の角が、微かに哀しげな光を帯びる。
彼女の脳裏に浮かぶのは、先程までここにいた、真っ直ぐな目をしたエージェント達の姿だ。
「自分達の出自を知ってもなお……あの子達は私を殺さなかった。私を守ろうとしてくれた」
桃鬼は自身の胸にそっと手を当てた。
かつて人間だった頃、大切な人間を守るために秘術を使い、鬼という道を選んだ。
子供達を食糧としか見ない他の鬼達に抗い、
命懸けで拉致した子供達に自らの力を分け与えて超能力者へと育て上げた。
人間からも鬼からも忌み嫌われ、居場所を失った自分に、麻麻は言ったのだ。
『眠らない方がいいわ!』と。
「紫鬼……貴方が目指す“楽園”は、子供達の涙の上に成り立つ偽りの箱庭よ。
親の愛情に飢えたあの子や、
鬼の毒に侵された者達を従えて……そんなものが本当の救いになるはずがないわ」
桃鬼は静かに振り返り、ホールの中心にある古びた魔導陣へと歩み寄った。
彼女の手から、温かくも力強い桃色の光が溢れ出し、
崩れかけていた結界を再び強固に補強していく。
「あの子達……織美亜、狼王、麻麻、そして阿藍。
私から力を受け継いだ仲間達が、きっと貴方の野望を打ち砕く」
テレポートで旅立っていった四人の背中を思い出しながら、
桃鬼の唇に、小さくとも決して折れない慈愛の笑みが浮かんだ。
「だから私は、ここで祈り続けるわ。
貴方達に与えた力が、誰かを傷つけるための刃ではなく、
未来を護るための光であり続けますように……」
洋館は再び深い結界の霧に包まれ、気配を完全に消し去った。
鬼と人間、どちらの理にも縛られない「慈悲の鬼」は、
希望を預けた子供達の未来を信じ、静かにその場に留まり続けるのだった。
「人間のゲームというのも、なかなか、面白いものですね」
紫鬼は、呟いた。
彼の目の前には将棋盤が置かれ、ずらりと駒が並べられている。
「個々の駒の戦闘能力は、我々が勝っている。
だが、敵は数で勝っている。足並みを揃えられては、破れない。
故に、こちらの存在に気づかれないよう、密かに駒組みを進めてきた」
彼は盤上の駒を掴み上げ、動かしていく。
「そして、この局面」
紫鬼は腕を組み、眼鏡の奥の目をじいと細めた。
「ここから、どうやって敵陣を壊すか、ですが……。
定石は、戦力の分断。浮き駒は、簡単に穫れる」
並んだ駒を動かしながら。
紫鬼は呟いた。
「……その指し手、相変わらず冷酷ね。紫鬼」
同時刻。
桜ヶ島郊外の洋館で、桃鬼は一人、静かに天を見上げていた。
紫鬼が盤上で張り巡らせているであろう悪意の気配が、結界の隙間を縫って微かに肌を刺す。
分断、孤立、そして切り崩し――人間の心に入り込み、
互いを疑わせる彼の狡猾な一手一手が、桃鬼には手に取るように分かっていた。
「あの子達を『浮き駒』なんて呼ばせない。
互いを信じ、手を取り合う絆がある限り……貴方の思い通りにはさせないわ」
桃鬼は細くしなやかな指先を胸の前で組み、祈るように目を閉じる。
かつて自分が子供達に分け与えた力――世間では超能力と呼ばれるそれは、元を正せば鬼の力。
ともすれば孤独と破滅へと繋がる危うい刃だ。
けれど、あの四人は違った。
阿藍の背中を支えた織美亜、狼王、麻麻の温もり。
自分達の命を奪いに来たはずの存在を『眠らないで』と必死に引き留めた麻麻の叫び。
あの子達は既に、単なる力以上の「何か」を育んでいた。
「紫鬼、貴方は人間を弱く脆い存在だと思っているでしょうけれど……
大切な誰かを守ろうとする子供達の力は、貴方の盤上の計算を必ず超えてみせる」
洋館を包む桃色の光が、一層強く揺らめく。
自分は決して前線に出て戦う事はできない。
人間からも鬼からも忌み嫌われた異端の存在。
けれど、あの子達が自分を信じてくれたように、自分もあの子達の未来を信じ抜く。
「どうか届いて……。分断の毒に、決して負けないで……!」
盤上で繰り広げられる暗黒の詰みに抗うように、
桃鬼の慈愛の祈りが、静かに夜の闇へと溶けていった。
フロアを歩いていくと、人混みができているのに気がついた。
何かイベントでもあるらしく、即席の壇が設置されている。
「それでは、桜ヶ島電波塔完成を記念しまして、
紫苑ホールディンググループCEO・紫苑社長に、ご挨拶をいただきたいと思います!」
壇上に進みでてきた紫鬼を見て、阿藍達はハッとした。
相変わらずのスーツ姿で、集まった人々に手を振っている。
「皆様、素敵な眺めを楽しんでおられますでしょうか?
この電波塔は桜ヶ島ニュータウン構想のために、
紫苑ホールディングが市に全面出資して建設してきたものになります。
無事に竣工を迎える事ができ、私もホッとしています」
紫鬼が喋り始める。
落ち着いた声音、理知的な口調で、大人達がパチパチと拍手している。
紫鬼の脇に、結城光哉が控えていた。
中学校の制服を着て、ネクタイを締めて。
紫鬼に付き添うように立って、ぼんやりと宙に目を向けている。
敵意はもうないが、最早彼は、阿藍達にとって処分対象でしかなかった。
「この電波塔の完成をもって、
桜ヶ島ニュータウン構想が、新たなステージに入った事を宣言いたします。
本日を境にして、桜ヶ島の街は生まれ変わります。楽園のような街に。
楽しみにしていてください」
紫鬼はスピーチを終えると、壇を降り、退場していく。
「……怯える事はない。君らを始末する必要はもうない」
通り過ぎざま、ぼそりと呟いた。
「計画は、次の段階に移った。最早君らが邪魔できる段階ではない。
大人しくしていたまえ。そうすれば、少しは長生きができるはずだよ」
(……クソが)
「うちの子に、もう関わらないでくれ。それじゃあ、さよなら」
言い置き、紫鬼は歩き去っていく。
光哉も従い、去っていく。
視線を落とし、誰とも目を合わせないようにして。
「殺す以外に、選択肢は無い」
翌日。
「何よ、これ……」
有栖と弟の章吾は、家の前の道路に立ち尽くしていた。
立ち尽くした二人の前を、大人達がぞろぞろと歩いていく。
歌を斉唱しながら大勢の大人達が一様に歩いていくさまは、異様な光景だった。
「まって、いかないでえ! どこいくの! ママ! パパ!」
道路の向こうから、泣き声が響いた。
幼稚園児くらいの女の子が、両親らしき男女に縋るようにして泣いている。
親は子供の事なんて見えていないように、無視して歩いていくだけだ。
有栖と章吾は唾を飲む。
「……あいつらは、どこにいるのかしら」
『ふうむ……』
右手に持ったペットボトルの中で、黒鬼が唸った。
『かなり広範に、術をかけられちゃってるようだねえ……』
「超能力じゃなくて」
「……術だと?」
『街に住む大人を、丸ごとかあ……。全盛期のボクでも、ここまでは……。
ああ、でもそうか、そういう手はあるね……なるほど、それで、あいつらのおかげか……」
ブツブツと呟いて、勝手に納得している。
章吾は苛立ち、有栖は困惑する。
「おい、黒鬼! 何か分かってるなら、言え!」
『ああ、ごめんごめん。何、簡単な事だよ』
黒鬼はペットボトルの中で、くるりと回った。
『紫君の仕業だよ』
「……何?」
章吾は眉を顰めた。
『正曜には、紫君の片腕の、紫姫君と紫星君、それからあの三人の仕業だろうね。
紫姫君は、紫君に心酔してる女鬼だよ。性格キツくてニガテなんだ。
紫星君は凄く古くから生きてる鬼だよ。黒鬼の座を競い合った仲でボクの事、嫌っててね……』
「おい、どういう事だっ! これ全部、紫鬼の仕業だってのか!?」
章吾は道ゆく大人達の行列を示して怒鳴った。
「奴は、何をしやがったんだよ!」
『昔、ボクがキミ達にした事と同じさ』
「……そう。これは」
『洗脳さ』
次回、紫鬼の術で洗脳された大人から、子供が逃げ回る!?
そして……エージェントもまた、危機的状況にどう動くのでしょうか。