吾輩は猫である、ただしゴジラが来たせいで飼い主に置いてかれて死にそうです 作:よよよーよ・だーだだ
わたしたち猫は元来、孤独を好む生き物である。
群れて媚びるのは犬の仕事だ。わたしのような高貴な猫は誰に断ることもなく日の当たる場所を渡り歩き、好きな時に眠り、好きな時に起きたいと望んでいる。
つまり、さとみのいない家はわたしにとって完璧であった。
朝になっても、鬱陶しい人間が部屋を歩き回る音はしなかった。小さな箱が暗いうちから鳴くこともなく、苦い水の匂いも立たない。「そこどいて」も「コード噛まないで」も言われない。わたしは一日じゅう誰のものでもない――いや、元よりすべてわたしのものである――家の中を悠々歩き回ることができた。
皿のキャットフードは気が向いたときに食べ、飽きたら離れた。水を飲み、毛づくろいをし、また眠った。これが本来あるべき猫の暮らしである、とわたしは思った。人間という大きな生き物は、たまにいなくなるくらいがちょうどよいのだろう。
日の通り道が、何度か部屋を横切った。
皿のキャットフードは、日に日に減っていった。最初は山のようだったのにやがて底が透けて見えるほどになり、わたしは少しずつ慎重に食べるようになった。
まあ、それでも構わないと思った。キャットフードはいずれ補充され、皿はいずれ満たされるものである。腹が減れば台所へ行き、皿に顔を寄せる。これまではそういうものであった。
ある朝、皿は空になっていた。
わたしは皿の縁を舐めた。粉の味がしただけだった。前足で皿を蹴ると、皿は乾いた音を立てて床を滑り、壁にあたって止まった。
キャットフードは補充されていなかった。
飲み水の器は埃の膜が張っていた。新しい水の匂いはなく、舐めるとぬるくて、自分の舌の味がした。それでも喉は乾くので、仕方なくわたしは飲んだ。
わたしが用を足す砂の箱も、誰も替えなかった。
わたしは元来、自分の始末にうるさい猫である。汚れた場所をいつまでも放っておかれるのは我慢ならなかった。
けれど、いくら砂を掻いても新しい砂は降ってこない。
わたしは仕方なく、用を足すときに箱から少し離れた隅を選ぶようになった。それは、わたしの矜持にとって小さくない屈辱であった。
わたしは玄関の前に座って待つことにした。
外が暗くなり、廊下に足音が増える頃に扉は開くものである。わたしは待った。稀に足音が廊下を通り過ぎたが、どれもこの扉の前では止まらなかった。鍵の鳴る音もしなかった。
家の中は、さとみがいたころよりずっと静かだった。さとみが出てゆくときに消し忘れたテレビだけがときおり人間の声を漏らしていたが、わたしに餌を出すわけでも水を替えるわけでもないのでやがて気にしなくなった。
あんまり静かなので、わたしが歩くたび首のあたりでちりんと小さな音が鳴った。立ち止まると音もやむ。この家で意思をもって音を立てるものは、もうわたしひとりだった。
わたしには、決まりごとがあった。
朝には、さとみが起きる。皿は食べたいときに満たされる。夜には、ベッドにさとみが来て、わたしの頭をそっと触ってから眠る。そしてまた朝が来てさとみが出てゆくときに玄関の扉は開く。わたしにとって世界とは、そうやって回るものであった。
けれどあの朝からは、次の朝が来ても誰も帰ってこず、皿は満ちず、夜のベッドは冷たいままで扉は開かなかった。
決まりごとは、ひとつずつ嘘になっていった。
わたしはベッドに上がった。さとみの匂いが、いちばん濃く残っている場所である。鼻を押しつけて、息を吸い込む。匂いは前より薄くなっていた。きっと明日はもっと薄くなるだろう。
そこで、ようやくわたしは理解した。
「すぐ戻るからね」とさとみは言った。いつもの「お願い」と同じであの大きな生き物たち特有の信用ならない言葉であり、「すぐ」ではないにせよいずれは戻ってくるだろうとわたしは思っていた。
だが、ちがった。あれは嘘ですらなかったのだ。果たしてさとみは本当にすぐ戻るつもりだったのだろうか。今となってはわからない。
さとみは、わたしを捨てていったのだ。
その事実を前に、わたしはベッドの上で丸くなった。身じろぎをすると首のあたりで鈴がちりんと鳴り、暗い家の中でその音だけがやけに大きく聞こえた。
空腹とは、おそろしく正直なものだ。
誇りも矜持も、わたしが猫であるという事実すらも、腹が減れば後回しになってゆく。さとみが戻らないと理解したあと、わたしに残された仕事はただ一つ。生きること。それだけである。
腹をすかせたわたしは食料を求めて、家じゅうを歩いて嗅ぎまわった。
わたしの鼻は飾りではない。やがて台所の下のいちばん奥の戸の向こうからあの匂いを嗅ぎ当てた。皿に盛られるのと同じ、キャットフードの匂いである。
それが隠されている戸棚の扉は前足では開かなかったが、隙間に体重をかけ、何度も押すうちに薄く開いた。体を滑り込ませ、強引にこじ開ける。
棚の奥を覗き込むと、見込んだ通りわたしの背丈ほどもある大きな袋があった。爪を立て、牙で食い破ると、中からキャットフードの粒がこぼれ出る。さとみがいれば叱られるだろうが、いないのだから仕方ない。わたしは溢れ出るキャットフードにかぶりついた。
やはり世界はわたしのために回っている。そう思った。
……それもほんの、少しの間だけだったが。
袋の粒も、皿のそれと同じく無限ではなかった。日の通り道が幾度も部屋を渡るうちに袋は薄くしぼみ、やがてひっくり返しても何も出てこなくなった。
次にわたしが狙ったのは、夜の床を走る黒くて素早い奴らである。
ゴキブリ、とさとみは呼んでいた。かつてわたしはこれを見事に仕留め、同居人に与える獲物としてさとみに献上してやったことがある。さとみは悲鳴を上げた。あのときのさとみの間抜けな顔をわたしは今でも思い出せる。
いま、わたしはそれを捕らえて食べている。旨くはないが、どうあれ立派な獲物である。前足で押さえ、バリバリと噛み砕く。命をつなぐというのはそういうことであるらしい。
飲み水の器は、とうに干上がっていた。
わたしは、いつもさとみが用を足していたあの白い大きな器を思い出した。あそこには、いつも水が溜まっている。扉はちょうど開いていて蓋も上がったままで、器の中を覗き込むと果たして底のほうに飲める水があった。
わたしは元来、自分の始末にうるさい猫である。
けれど、今やそんなことを言っている場合ではなかった。首を伸ばし、舌を伸ばし、わたしはその水を飲んだ。冷たくて変な味がしたが、それでも水は水である。
かくして数日、わたしは飢えと渇きをしのいだ。
黒い奴らを狩り、白い器の水を飲み、空腹をだましだまし眠って過ごした。
けれど、黒い奴らもいつまでもいるわけではなかった。狩れる数は日ごとに減り、白い器の水も少しずつ濁って減っていった。
家じゅうの黒い奴らを狩り尽くしたころ、わたしは空腹を抱えて台所をうろついた。
そしてひとつの『箱』の前で足を止めた。台所の隅に据えられた背の高い白い箱である。
冷蔵庫、とさとみは呼んでいた。
わたしは冷蔵庫のことをよく知っていた。さとみは一日に何度もその扉を開ける。すると中から、ひやりとした風と淡い光が漏れ出してくる。そうしてさとみが台所に立つ日には、決まって良い匂いの何かが冷蔵庫の中から出てくるのであった。
あの中には、食べ物がある。
それは、わたしにもわかっていた。
わたしは冷蔵庫の扉に前足をかけ、爪を立てて引いてみた。
……開かない。
扉はつるりとして、爪の一本もかかる場所がなかった。どれだけ引っ掻いても、わたしの爪はむなしく表面を滑るばかりである。
体ごとぶつかってもみた。肩で何度も押した。けれど冷蔵庫の扉は、わたしの体当たりなどそよとも感じていないふうであった。
それどころか扉の縁に鼻面をねじ込もうとすると、見えない力が扉と箱とをぴたりと吸い合わせているのがわかった。まるで扉のふちじゅうに目に見えない手がびっしりと並んで、内側へ内側へと引きしめているかのようであった。
わたしは、はたと気づいた。
この箱が開くのは、いつもさとみがあの不格好な前足で触れたときだけだったのだ。
あの狩りもできず、高い棚にも登れない、間抜けな人間の前足。あれだけが冷蔵庫を開けることができた。
なんということだろう。
わたしはこの家の主人であるはずなのに、その家の中でいちばん良い匂いのするものはわたしにはどうやっても開けられない箱の中にしまわれていたのだ。わたしには指一本かけられぬその箱を、あの愚図な同居人だけがこともなげに開けてみせていた。
この冷徹な箱の前では、わたしはただ開けてもらうのを待つだけの無力な生き物にすぎなかった。
……わたしは本当は、この家の主人などではなかったのかもしれない。そんな思考が頭をよぎったが、振り払った。
飲まず食わずで過ごしているうちに、日に日にわたしの体は軽くなっていた。
背を舐めれば骨の形がよくわかり、首輪の鈴は前よりゆるく鳴った。ちりん、という音が、痩せた首の上で間延びして聞こえた。
……このままここにいてはいけない。
そう思ったのは誇りでも知恵でもなく、もっと奥の、腹の底のほうから来る声によるものであった。外へ出て行かねばならない。ここには食べ物が何もない。
わたしは玄関へ向かった。あの扉は開くものである。いつもの朝も、あの朝も、さとみはあそこから外に出かけていった。
わたしは扉を引っ掻いた。体で押した。にゃあと鳴いてもみた。しかし扉は開かなかった。
次に窓へ回った。窓の外、透明な窓ガラスの向こうには外の世界、灰色の空、倒れたものの影が見えた。
けれど、いくら前足で叩いてもガラスは硬く、冷たく、びくともしなかった。どの窓も同じだ。わたしには届かず開け方もわからない鍵というものが、わたしを内側に閉じ込めていた。
そこでわたしは悟った。
ここはわたしの家である。窓辺も、ソファも、ベッドも、すべてわたしのものである……そう思っていたが、ちがった。
この家は、わたしのものではなかった。この家の正体は、わたしを内側に閉じ込めてゆっくりと干からびさせる大きな箱だったのだ。
砦だと思っていたものは実のところ檻であった。このままだとわたしは飢え死にしてしまう。
そう悟ったその時である。
家が、下から唸った。
最初はわたしの腹が鳴ったのかと思ったが、違った。床が低く震え、窓がびりびりと鳴り、壁の中で何かがきしむ。棚の上に残っていた小さなものが転がり落ち、台所の奥で皿が一枚、かたりと鳴った。
揺れは一気に襲ってきた。
地震だ。
咄嗟にわたしはテーブルの下に潜り込み、腹を床につけて身を守った。これは怯えたのではない。家が勝手に揺れるので、仕方なく床を押さえつけようとしたのである。
下から突き上げるような揺れの中で、居間のテレビがざらざらと白く乱れた。これまでずっとテレビは避難だの警戒区域だのわたしにはわからない人間たちの言葉を一方的に吐き出し続けていたが、わたしにはどうでもよいことだった。テレビは餌を出さないし水も替えない。
だがその声が、急に途切れた。
それと同時に部屋の明かりが一度だけまたたき、ぷつりと消えた。
続いて、何かの鳴き声が聞こえた。
そう遠くないが、猫ではない。犬でもない。無論人間でもない。あまりに大きくて、声というより空気そのものが裂けたような咆哮だ。
あるいは地面が揺れているのではなく、今外で吼えた何かが地面ごと家を踏みつけたのではないか、そんな気さえした。
やがて揺れはおさまった。
気が付くとテレビは消え、冷蔵庫の低いうなりも止まり、家は前よりも暗くなって、この家で音を立てるのは本当にわたしだけになっていた。
そして、その静けさの中に、ひとつだけ知らないものが混じっていた。
風の匂いだ。
締め切られているはずのこの家に、外からの匂いが流れ込んでいた。焦げた匂い。雨の前の土の匂い。知らない獣の匂い。さとみが最後に扉を開けたあの朝、ほんの一瞬だけ嗅いだあの匂いである。
わたしは痩せた体を引きずってそちらへ向かった。
匂いは、壁の高いところに据えられている白い箱のあたりから流れてきていた。
エアコン、とさとみは呼んでいた。あの白い箱は夏には冷たい風を吐き、冬には生ぬるい風を吐く。その白い箱の脇には壁を貫いて細い管が外へと伸びており、平時ならば管のまわりは灰色の粘土のようなもので塞がれている。
けれど今はその粘土が割れて床に落ち、壁に猫一匹がどうにか通れるくらいの丸い穴がぽっかりと口を開けていた。あるいは、家を下から唸らせたあの揺れのせいかもしれない。
穴の向こうを覗き込むと、その先は外の世界であった。
わたしがその下に立つと、穴の向こうから外の風だけでなく獣の体温のような匂いもした。
わたしが身構えると、穴の縁に影が差し込んできた。何かが外からその細い穴へ体をねじ込もうとしている。
やがて前足が突き出てくる。痩せた肩が穴の縁にこすれる。そして、ずるりと、それは内側へ落ちてきた。
現れたのは、薄汚れた一匹の猫であった。
床に降り立つと、そいつは身震いをして埃を払い、わたしの嗅いだことのない匂いを部屋じゅうに撒き散らしながら言った。
「なんだ、他の猫がいたのか」
わたしの知らない匂い。わたしの家ではないどこかから来た、外の猫であった。