吾輩は猫である、ただしゴジラが来たせいで飼い主に置いてかれて死にそうです   作:よよよーよ・だーだだ

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3、外から猫がやってきた

 わたしの家に、見知らぬ猫が入り込んでいる。

 由々しき事態である。ここはわたしの家、わたしの縄張りであって、招かれざる薄汚れた猫が埃を撒き散らしてよい場所では断じてないはずだ。

 

 ……と、本来であれば、わたしはそう抗議するべきであった。けれど空っぽの腹と痩せた足では、わずかに毛を逆立てて見せるのが精一杯の矜持であった。

 その猫はわたしの威嚇など意にも介さず、ふんふんと部屋じゅうの匂いを嗅ぎまわっていた。やがてつまらなそうに鼻を鳴らす。

 

「……ふん、食い物はなさそうだな。シケた家だ」

 

 あまりに不遜な態度に、今度はわたしから言った。

 

「何だ、おまえは」

「俺か?」

 

 そいつは顔も上げずに答えた。

 

「ジャックだ。見ての通りの、野良(のら)さ」

 

 のら、というのが何のことかわたしは知らなかった。ジャックという名も妙な響きである。わたしたち猫には似つかわしくない埃と土にまみれていそうな、いかにも品のない名であった。

 

「のら? のらとはなんだ」

「人間の家を持たない猫のことだ」

「それはつまり人間に捨てられた宿無しということか」

 

 わたしの答えに、ジャックは笑った。

 猫が笑う時、人間のように声を立てたりはしない。ひげの根元が少し動き、目が細くなり相手を馬鹿にする匂いが空気に混じるのだ。

 わたしの姿を見下ろしたあと、皮肉を込めてジャックは笑った。

 

「家の中で干からびかけてるやつに言われたくねえな」

 

 その返答でわたしは思わず飛びかかってやろうかと思ったが、足に力が入らなかった。腹が空きすぎて怒りまで薄くなっている。

 ジャックはそれを見て、何も言わずにただ少しだけ鼻を鳴らした。

 

「人間は?」

「さとみのことか」

「知らねえよ。おまえに飯を出してたでかいやつだ」

「出かけた」

「いつ」

「……何日か前だ」

「戻らねえだろうな」

 

 あまりに簡単に言ったので、わたしは一瞬それが何を意味するのかわからなかった。

 戻らない? さとみが戻らない、ということか。

 

「なぜわかる」

「外がこうなってるからだ」

 

 ジャックは窓の方を見た。

 その時、遠くでまた腹の底を叩くような音がした。窓ガラスが細かく震え、棚の上でさとみの置いた小さな置物が倒れた。

 今度はジャックが訊ねた。

 

「ここには食えるものはねえのか」

「食料なら、とうに無くなった」

 

 だろうな、と応えながら、ジャックはわたしの突き出た背骨のあたりをちらりと見た。

 

「その様子じゃ、な。そのさとみってやつも逃げたんだろ」

「戻ると言っていた」

「人間は皆そう言うのさ」

「すぐ戻ると言った」

「じゃあ戻れなかったんだろ」

 

 ジャックは、それ以上優しい言い方を知らないようだった。

 わたしは反論しようとした。さとみは愚図だが、わたしの世話を忘れたことはほとんどない。わたしが鳴けばたいてい来たし、夜には必ず玄関の外からあの足音を連れて帰ってきた。だから戻る。戻るはずだ。

 そう言おうとした。

 

「でも……」

 

 でも、言葉は出なかった。

 理由は簡単である。さとみが戻らないのは、すでにわかっていた事実だからだ。一度は自分でも理解していたはずなのに、改めて言葉に出されると受け入れ難く認めたくないというのが本音であった。

 ジャックはエアコンの穴の方へ戻った。

 

「……まあ、待つなら待てばいい。皿の前で丸くなって、骨になればいいだろ」

「骨にはならない」

「なる。家の中で死ぬやつは、だいたいそうなるのさ」

 

 ……不愉快な猫だ。わたしは背中の毛を逆立てた。

 

「出ていけ」

「出ていくさ。ここには何もない。食い物のねえ家なんざ、家とは言わねえ」

 

 吐き捨てるようにそう言いながら、ジャックは入ってきたあの丸い穴へひょいと前足をかけた。

 その様子を見ながらわたしは訊ねた。

 

「そこから外へ出られるのか」

 

 ジャックは、片耳を動かして答える。

 

「出られる猫ならな」

「どういう意味だ」

「狭い。暗い。落ちたら路地だ。途中で戻りたくなっても、後ろ向きには戻れねえ」

「わたしも出る」

 

 言ってから、自分で少し驚いた。誇りでも決心でもない、あの腹の底から来る声である。

 ジャックがわたしに訊ねた。

 

「ついてくるのか。家から出たことのない猫が、外に出るのか」

「この家にはもう食料がない」

「外にもそう簡単にはねえぞ」

「なら、探す」

「狩れるのか」

「ゴキブリなら仕留めたことがある」

「立派なもんだ」

 

 言い方は少しも立派だと思っていないようだった。馬鹿にされていることがわかり、怒りが込み上げてきた。

 そうやって腹が立つとほんの少しだけ力が戻り、そうしてわたしは痩せた体を引きずって穴に飛びついた。縁に肩がこすれて、首輪の鈴がちりんと鳴った。

 

 穴は、思っていたよりも狭かった。

 まずわたしのひげが壁に触れた。左右のひげが同時に押される場所はあまりよろしくない。猫にとってひげはただの飾りではない。そこを通れるか、戻れるか、逃げられるか、世界の幅を測るための大事な道具である。

 つまり、この穴はよくない。わたしは一度、後ろへ下がろうとした。

 

「おい」

 

 前の暗がりから、ジャックの声がした。

 

「ついてくるのかこないのか、どっちなんだ、鈴つき」

 

 心外な呼び名である。わたしは反論した。

 

「鈴つきと呼ぶな、宿無しめ。無礼だぞ」

「宿無しって、おまえも今からそうなるんだぜ。それとも宿有りに戻るか、何もない家だがな」

「…………。」

 

 返事のかわりに、わたしは穴をくぐり抜けた。

 刹那振り返ると、壁の穴の向こうにわたしの家の暗がりが見えた。窓辺も、ソファも、ベッドも、空の皿も、その向こうにある。さとみの匂いもまだ少しだけ残っているだろう。

 

 だが、あそこではもう生きてゆけない。

 わたしは前を向き、生まれて初めてさとみの手ではないものに導かれて家の外へ出た。

 

 

 生まれて初めて、わたしは自らの力で家の外に立っていた。

 

 まず、匂いに襲われた。

 焦げた匂い。湿った土の匂い。錆びた水の匂い。知らない無数の獣の匂い。窓ガラスの内側から眺めていた外の世界に、こんなにも多くの匂いがあったとは。わたしの鼻は一度にそのすべてを浴びて卒倒しそうになった。

 さらに空を見上げると、頭上が高かった。天井というものがどこにもない。世界にはこんなにも上があったのか。わたしは思わず身を低くした。

 そしてなにより、外の世界は静かだった。

 

「…………。」

 

 通りには人間がいなかった。一匹も、いや一人も、である。

 いつも見ている窓の外の世界と同じであるなら、道路を四角い箱が唸りを上げて走っているはずだった。自動車と呼ばれる、人間たちが中に座って運ばれていくあの速い箱である。

 それらが道のあちこちでただ黙って止まっていた。中に人はいない。扉を開け放したまま乗り捨てられたものもある。

 歩行する人間の気配もなかった。誰かを呼ぶ声もしない。

 

「なにがあったんだ」

 

 わたしの問いにジャックは答えた。

 

「でかいのがいる」

「テレビの中にいたやつか」

「テレビ?」

「四角い箱の中で動いていた」

「知らねえよ。外にいるんだ。空よりでかい。建物を踏む。熱い匂いがする。鳥が消えた。犬が狂った。人間はみんな逃げた」

 

 人間たちはいなくなっていた。ジャックの言うとおり、みんなどこかへ逃げてしまったらしい。さとみがキャリーにわたしを詰めるのを諦めたように。

 ジャックの言う『でかいの』。

 あの朝、わたしがあくびをして見過ごしたあの大きすぎる影。あれのせいだろうか。あれのせいで人間たちは車を捨て、家を捨て、わたしを捨てて逃げていったのだろうか。

 

「なあ」

 

 わたしは、前を行くジャックに訊ねた。

 

「その『でかいの』というのは、いったい何だ」

 

 ジャックは、足を止めなかった。振り返りもせず、こともなげに言う。

 

「ゴジラだ」

 

 ゴジラ。わたしはその名を口の中で繰り返した。聞いたことのない響きだった。ゴジラとはなんだ。

 ジャックは続けた。

 

「世の中をまるごとひっくり返しちまう、恐ろしい化け物さ。ビルを踏み潰し、海をひっくり返す。人間どもが束になって火を吐いたってびくともしねえんだ。で、当のゴジラはな、」

 

 そこでジャックは、初めてちらりとこちらを振り返った。

 

「俺たちのことなんざ、踏んづけてることにも気づいちゃいねえのさ」

 

 猫や人間を踏みつけたことさえ気づかないほど巨大な怪物。それは、ずいぶんと途方もなくおそろしい話に聞こえた。

 これまでのわたしは、窓辺のいちばん日の当たる場所も、夜のベッドも、すべて自分のものだと思って生きてきた。その世界ごと転覆させてしまうような存在が、外の世界にはいるのだという。これほど恐ろしいものは無いように思えた。

 

「……行くぞ」

 

 ジャックは、もう前を向いて歩きだしていた。

 わたしは鈴を鳴らして、そのあとを追った。




猫の名前は『シン・ゴジラ』から。蒲田君が川を遡上するシーンに出てくる看板に注目。
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