吾輩は猫である、ただしゴジラが来たせいで飼い主に置いてかれて死にそうです   作:よよよーよ・だーだだ

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4、天井のない世界でこの先生きのこるには

 外の世界には、天井というものがなかった。

 

 家の中であれば、わたしは世界のすべてを把握していた。どこがいちばん暖かく、どこがいちばん安全で、どこへ行けば水があり、どこへ行けば餌があるか。それは、わたしが世界の主人であったからである。

 翻って外の世界では、わたしは何も知らない。どこに敵がいて、どこに餌があるのか。風がどちらから来て、その風が何を運んでくるのか。

 そして野良猫のジャックは、それらすべてを知っているようだった。鼻の使い方も、影の選び方も、家しか知らなかったわたしとはまるで違う。わたしは、自分が思っていたほど猫ではなかったのかもしれない、と少しだけ思った。

 

 ジャックがわたしを連れて行ったのは、明かりの消えた四角い建物であった。

 扉が半分だけ開いたまま止まっている。中は薄暗く、棚という棚が倒れ、床には色とりどりの袋や箱が散らばっていた。

 ジャックは言った。

 

「コンビニだ」

「こんびに? こんびに とはなんだ」

「人間が食い物を溜めとく巣箱だ。きっと置いていったんだろう」

 

 そういってジャックは床に落ちた何かを器用に前足で押さえ、牙で包みを破った。中から、ぬめりと赤みがかった肉の棒が出てくる。

 

「魚肉ソーセージだ。食えるぞ。塩っ辛いがな」

 

 わたしも見よう見まねで、近くに落ちていた一本に取りかかった。

 包みは思いのほか手強かったけれど、空腹は上品な作法をすっかり忘れさせてくれる。わたしは牙と爪でそれを引き裂き、ひとくち含んだ。

 ……たしかに、しょっぱい。

 人間用の魚肉ソーセージは、猫にとってあまりにも濃い味であった。舌が塩の味でびりびりと痺れるほどで、さとみがくれていたあの淡白なキャットフードの粒とはまるで違う。猫の口には合わないと思うが、それでも腹が減っていたからわたしは夢中でそれを平らげた。

 魚肉ソーセージを食べ終え、わたしはぽつりとつぶやいた。

 

「……喉が渇いた」

 

 塩辛いものを食べれば水が欲しくなる。当たり前のことだが、その時のわたしにはわからなかった。食べれば食べるほど、わたしは渇いた。

 何か飲み物はと探したそのとき、わたしの嗅覚があるものを捉えた。

 それは嗅いだことのない匂いであった。匂いを辿ると、床の上に液体状の何かがつやつやと光りながら広がっている。どうやら倒れた容器からこぼれ出た液体らしい。

 液体の色は毒々しいほどに鮮やかで、その匂いはこれまで嗅いだどんな餌とも違っていた。濃く、むせるようで、嗅いでいると頭の芯がくらくらと痺れてくる。何の匂いなのかわたしには見当もつかなかったが、わけもわからず惹きつけられた。

 わたしは迷わなかった。

 考えるよりも先にわたしの足がその光る水たまりへ向かっていた。これほど猫を強く誘ってくるものが、悪いものであるはずがない。わたしは口を近づけ、舌を伸ばし……

 

「やめとけ」

 

 低い声が、わたしの足を止めた。ジャックが、いつのまにかわたしの前に片足を割り込ませている。

 

「なぜだ」

 

 わたしは、未練がましく光る水を見ながら問い質した。この液体はこんなにも蠱惑的にわたしを招いているではないか。

 ジャックは言った。

 

「そのジュースには、砂糖ってもんが入ってる。人間どもは、それを甘い甘いと言ってありがたがって飲む」

 

 砂糖、というものに聞き覚えがあった。さとみがたまに呑む、黒くて苦い水に入れているものである。

 そしてこれはジュースというのか。人間が飲めるのなら猫だって飲んでもよいはずだ。わたしはそう反論するのだが、ジャックは首を横に振るのだった。

 

「だが猫には毒だ。美味くはねぇし、飲めば決まって腹を下す。今のおまえの痩せ細った体で腹を下したら、それでおしまいだ」

 

 試しにくんくんと、ほんの少しだけジュースとやらに鼻先を近づけてみる。匂いは、くらくらするほど強い。

 ……味だけ見てみよう。わたしはその液体に、ほんの舌先をそっと触れさせてみた。

 

「……味がしない」

 

 「砂糖」とやらの正体は、わたしの舌の上では何の像も結ばなかった。匂いはあんなにも激しく誘うのに、いざ舐めてみればそこにはぼんやりとした水の感触があるだけである。

 なんと奇妙なことであろうか。猫には砂糖の味がわからない。あれほど鼻を狂わせる匂いの、その先にあるものをわたしたち猫は永遠に知ることができないのだ。

 

「言ったろう、美味くはねぇって。だったらやめとけ」

 

 それがなぜ毒なのか、ジャックも詳しい理屈を知っているわけではなかろう。

 ただ、この砂糖とやらを飲んだ仲間が腹を下して動けなくなるのを、いやというほど見てきたのだろう。野良の知恵とは、愚かで哀れな先駆の犠牲の上に積もっていくものらしかった。

 

「……そうか」

 

 わたしは、しぶしぶ顔を引いた。

 水は、まだお預けであった。

 

 

 渇きを抱えたままコンビニを出て歩きだすと、路地の角を曲がったところで低い唸り声がした。

 見れば、犬である。

 痩せてあばらの浮いた、大きな犬だった。首にはちぎれた縄の切れ端がみっともなくぶら下がっている。落ちくぼんだ目がまっすぐにわたしたちを見つめていて、わたしは犬と目が合った。

 

 ……犬という生き物について、わたしはかねてよりひとつの確固たる見解を持っている。家で暮らしていた頃よりわたしは窓辺から何度も犬を観察してきた。

 犬は人間に首を縄で繋がれて歩く獣である。人間が止まれば止まり、歩けば歩き、まるで自分の足がどこへ向かうかを自分で決める気がないかのようであった。人間が小さな声で何か言うと、犬は尻を地面につけて見上げる。骨きれ一つ放ってやればしっぽをちぎれんばかりに振り、地面に這いつくばってそれを拾いながら媚び諂う。

 あるときなど、自分の尾を敵と勘違いしてくるくると回り続けている間抜けを見たことがある。あれを見て以来わたしは犬という種族にいかなる敬意も払わぬことに決めている。

 猫はちがう。わたしは誰にも繋がれない。命じられて座ったりはしない。骨きれのために誇りを売ったりは断じてしない。犬は人間に魂を預けた哀れな下僕であり、猫は己の主人である。

 犬とは、誇りというものを生まれつき持たない生き物である。これが、犬というものについてのわたしの結論であった。

 

 だからわたしは足を止めたけれど、怖くはなかった。

 なにしろ犬である。しかもこの犬ときたら、その仕えるべき人間にすら置いていかれたらしい。縄の切れ端をぶら下げたまま、行き場をなくして路地をうろついている。主人を失った下僕など下僕ですらない。いっそう惨めで哀れな負け犬である。

 わたしは、痩せた背をせいいっぱい高く見せてやった。誇り高い猫が犬ごときに道を譲る道理はこの世のどこにもない。

 そんな中、ジャックの声が、低く、鋭くなった。

 

「……おい、逃げよう」

「なぜだ。あれはただの犬、人間の下僕ではないか」

 

 わたしはいっそ憐れむような気持ちであったのだが、ジャックは真剣な面持ちで言うのだった。

 

「下僕だったのは、飯をもらえていたうちの話だ」

「何を言って……」

 

 その言葉の意味をわたしが優雅に取り違えている間に、犬が地を蹴った。

 その時になって、ようやくわたしは思い違いに気づいた。

 わたしの知っている犬は、腹を満たされた犬であった。人間に餌をもらい、繋がれ、飼いならされてはじめて「従順な下僕」を演じていられたのだ。犬は誇りを持たなかったのではない。誇りを売る代わりに飯を買っていたのである。

 

 そして人間は、その取り引きを反故にして逃げた。

 飢えがこの犬から人間の匂いを剥ぎ取り、間抜けな下僕をただの一匹の飢えた獣へと戻していた。

 縄はもう何も繋いではいなかった。わたしの首の鈴がもう何の役にも立たないのと同じように。

 

「逃げろ!」

 

 ジャックの声で、わたしは弾かれたように駆けだした。

 誇りも、見解も、確固たる結論も、すべてを後ろへ置き去りにしてただ足が動いた。背後で犬の爪が地面を掻く音が迫る。荒い息が首筋にかかる。

 目の前に高い塀があった。

 

「あそこへ登れば……!」

 

 わたしはいつものように跳んだ。家の中でいちばん高い棚へ跳び上がるあの調子で。

 届かなかった。

 痩せ衰えた後ろ足は思ったほどの力を生まなかった。わたしの体は塀の半ばで爪を立てそこね、無様に地面へ落ちた。肩から固い地面に叩きつけられ、息が止まった。

 犬の顎がすぐそこにあった。

 その鼻先へ、横から黒い影が突っ込んだ。ジャックである。彼は犬の鼻面を思いきり引っ掻くと短く叫んだ。

 

「こっちだ、走れ!」

 

 わたしは痛む体を引きずり、なりふりかまわずジャックのあとを追った。

 そして細い隙間に二匹で転がり込む。犬の太い体は、そこには入れない。塀の向こうで犬がしばらく吠えていたが、やがて諦めて去っていった。

 ……助かった。

 けれど、無事ではなかった。

 

「痛い……」

 

 足がひどく痛んだ。家では軽やかに駆け回っていたわたし自慢のしなやかな脚が、歩きすぎて筋肉痛を発している。

 元々、家の中のなめらかな床しか知らなかった足である。外の割れて尖った地面は、わたしの足にはあまりに固すぎた。

 寝転んで足を労わっていると、ジャックが言った。

 

「おい、寝転がるな。置いてくぞ」

「待て」

 

 そしてジャックが本当に立ち去ろうとするので、わたしは痛む足を引きずりながら無理やり立ち上がった。

 ……まったく。ジャックのあとを追いながら、わたしは嘆息した。わたしの体は、外の世界のためにはできていなかったのだ。

 

 

 それでも、生きるためには食わねばならなかった。

 隙間からそっと顔を出すと、少し先の草むらで小さな影が動いた。小さな鳥である。

 隣でジャックが囁いた。

 

「ゴキブリなら狩ったことがあると言ったな。なら、あの鳥を狩ってみろ」

 

 なにを小癪な、と思いかけてふと思い返す。

 わたしも『狩り』そのものは知らないわけではなかった。少なくとも家のなかに迷い込んだ虫をわたしは幾度も仕留めている。

 けれど、考えてみればわたしがこれまで狩ったものは、すべて前足で押さえのきくあの黒い奴ばかりであった。鳥のように羽があり空へ逃げるもの。自分の体ほどもある、生きて温かいもの。そういう獲物を、わたしは生まれてこのかた一度も狩ったことがなかったのである。

 ……本当に狩れるだろうか。一抹の不安が頭をよぎった。

 

 いや、それでも、本能は知っているはずだ。

 だってわたしは猫なのだから。

 

 足の痛みをこらえ、腹を地につけ、わたしは鳥ににじり寄った。一歩、また一歩、鳥はまだ気づいていない。あと少し。あと、ほんの少しで――

 

 ちりん。

 

 その音で鳥はぱっと飛び立ち、空の高みへ消えてしまった。

 ……呆然としながら、鈴だ、と気づいた。

 さとみがわたしの首につけた、首輪の鈴である。さとみはこの鈴の音でわたしの居場所を知った。わたしが歩けば鳴り、わたしが甘えれば鳴った。わたしの居場所を把握しておきたがること、それはわたしが人間に注目され崇拝されている証であった。

 その鈴がいま、わたしから獲物を奪っていく。

 

 わたしはもう一度別の獲物――今度はトカゲであった――に挑んだが、結果は同じだった。

 にじり寄り、間合いを詰め、あと一歩――そのたびに、ちりんと鈴が鳴り獲物は逃げた。人間に崇拝された証である鈴は、外の世界ではわたしの居場所を狩るべき獲物へご丁寧に教えてやるのである。

 三匹目に取り掛かろうとしたところで、見かねた様子でジャックが言った。

 

「もういい、わかった。もうやめろ、疲れるだけだ」

 

 結局わたしは一匹も狩れなかった。

 

 

 日が傾く頃、わたしはすっかり打ちのめされてうずくまっていた。

 そこへジャックが戻ってきた。口に何かをくわえている。見ると灰色の小さな獣、野生のネズミであった。

 ジャックは自分で仕留めたそれをわたしの前にぽとりと落とした。

 

「やる」

 

 わたしはその灰色の塊を見下ろした。そして、ふいにあることを思い出した。

 ……かつて家の中ではわたしは狩りの名手であった。家のなかに迷い込んだ黒い虫を鮮やかに仕留めては、わたしはそれを誇らしくさとみの足もとへ運んでやった。狩りのできない人間であるさとみのために、自慢の獲物を与えてやったのである。

 さとみは悲鳴をあげたが、あれはわたしという存在の優位を何より雄弁に語る瞬間であった。与える者。それがかつてのわたしであったのだ。

 それが、どうだ。

 いまや、わたしは与えられている。地を這う獣を自分では一匹も狩ることもできず、家も持たないような他の猫から施されて食べようとしている。捧げる側から捧げられる側へ、あの朝わたしの世界がひっくり返ったように、与える者と与えられる者もすっかり入れ替わってしまったらしい。

 その惨めな現実に、わたしは目をそらした。

 

「……いらない」

 

 最後の意地であった。わたしはあの人間に飼われ、人間に獲物を捧げてやった猫である。他の猫から施しを受けてそれを食べるような猫では――

 

「そうかい」

 

 ジャックは素っ気なく言った。

 

「なら、俺が喰っちまうぞ。腐らせるのはもったいねえからな」

「あ、待て」

 

 そう言ってネズミにかぶりつこうとするのを見て、わたしは思わず唾を呑んで制止する。

 なんだ、とこちらを見るジャックにわたしは答える。

 

「喰わないとは言っていない。くれるというならもらってやろう」

「……そうかい」

 

 ジャックはそう言って、少し離れた場所で自分の分のネズミに取りかかった。

 ……ネズミである。わたしは目の前のネズミを見た。それから自分の痩せて骨の浮いた前足を見た。腹はとうにちぎれそうなほど空いていた。誇りは腹を満たさない。

 わたしは顔を近づけた。血と土の匂いがする。美味くはなさそうだ。

 

 だけど、もう我慢できない。

 生まれて初めて野生のネズミに牙を立てた。

 

 ……血と土の味がした。けれどその下にたしかに命の味があった。あたたかく、生々しく、否定しようのない生きていたものの味である。

 わたしは夢中でそれを食べた。かつてさとみのくれたあの淡白な粒のことは、もう思い出さなかった。

 食べ終えると、また喉が渇いた。その様子を見ていたジャックが、顎で路地のほうをしゃくった。

 

「水ならあるぞ」

 

 その先に、水たまりがあった。雨の名残か、地面のくぼみに溜まった濁った水である。さっきのジュースとやらとは違う、土と埃の匂いのする水だった。

 

 わたしは顔を寄せた。

 ひと舐めして、思った。

 

 ……不味い。

 臭いのとおり、泥と埃の味がする。家で飲んでいた水とは比べものにならない不味さだ。こんなものは本来わたしの飲むべき水ではなかった。

 けれど、わたしは夢中で飲んだ。飢えと渇きが、誇りなどよりずっと強かったからである。

 不味い水が、灼けた喉をゆっくりと下りてゆく。

 

 それは、生きている、という味がした。

 

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