吾輩は猫である、ただしゴジラが来たせいで飼い主に置いてかれて死にそうです   作:よよよーよ・だーだだ

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5、ここに住むぞ

 それからいくらか日が経っても、わたしはジャックのあとを歩いていた。

 

 正確に言えば、歩かされた。

 わたしとしてはもう少し優雅に進みたかった。猫というものは本来急かされて歩く生き物ではない。日の当たる場所を見つければそこで眠り、気が向けば伸びをし、飽きたら別の場所へ移る。そういう気まぐれこそが猫の高貴さである。

 だがジャックはせわしない。

 

「日の当たるところを歩くな」

「なぜだ」

「見える」

「誰に」

「上にいるやつ全部だ」

 

 上にいるやつ全部だ、とジャックは言う。しかし外の世界には上にいるやつが多すぎる。鳥。電線。折れた看板。割れた窓。煙。空。たまに遠くで動く、空より大きいかもしれない何か。

 家の中では、上にいるのはたいていわたしだった。冷蔵庫の上、棚の上、カーテンレールの近く。さとみが下から「サリー、降りてきなさい」と言うのを見下ろすのは悪くない時間であった。

 しかし外では違う。わたしが見下ろすのではない。見下ろされるのである。

 これはたいへん不愉快な発見であった。

 

 ジャックは壁際を歩いた。倒れた自転車の影、止まった車の下、ひび割れた塀の根元、割れた看板の裏。そういう狭くて汚くて、わたしなら普段なら前足を置くことさえ遠慮したいような場所を選んで進む。

 

「真ん中を歩けないのか」

「歩きたきゃ歩け」

「では歩く」

「犬に見つかっても知らねえぞ」

「……真ん中は、今日は遠慮してやる」

 

 わたしは寛大なのである。

 

 

 人間のいなくなった街には、人間の匂いだけが残っていた。

 汗。焦り。落とした食べ物。苦い水。布。紙。知らない靴の裏。

 そして、逃げた匂い。

 人間はよく物を落とす。さとみもよく落とした。黒い板、鍵、白い紙、食べかけのパン、わたしの尻尾の上に化粧の道具を落としたこともある。あの時はさとみの足首に深い教育を施してやった。

 外の人間たちも、いろいろなものを落として逃げたらしい。

 道には袋や箱が落ちていた。片方だけの靴もあった。風に吹かれて転がる紙もあった。

 だが、どれも食べられるとは限らない。わたしが目についた袋に顔を突っ込んで漁ろうとすると、ジャックが言った。

 

「嗅いでからにしろ」

「嗅いでいる」

「全部嗅ぐな。必要な匂いだけ拾え」

「匂いに必要も不要もあるのか」

「ある。飯。水。犬。火。血。人間。でかいの。まずそれだけ覚えろ」

「もっと優雅なものはないのか。日なたとか、柔らかい布とか」

「死なねえことに関係ない」

「ある。日なたは大事だ」

「死なねえ次にな」

 

 まったく、野良というものは情緒がない。

 

 しかし、悔しいことにジャックの言うことはたいてい当たっていた。

 油の匂いがする水は飲むな。

 虹色に光る水はきれいでも飲むな。

 誘われるような匂いがするものは人間用だから疑え。

 犬の匂いが新しい場所では足を止めるな。

 鳥の影が地面を横切ったら、まず身を伏せろ。

 覚えることが多い。

 わたしは猫である。猫は高貴な生き物である。試験勉強をするために生まれてきたわけではない。

 

 それなのに外の世界は、歩くたびに新しい問題を出してくる。

 この水は飲めるか。

 この隙間は通れるか。

 この匂いは古いか新しいか。

 この物音は逃げるべきか無視してよいか。

 この黒い鳥はただの鳥か、それともこちらを食う気のある鳥か。

 

 家の中ならば、問題はもっと単純だった。

 さとみの膝に乗るか乗らないか。

 出された餌をすぐ食べるか、少し焦らしてから食べるか。

 吐くなら絨毯の上か、洗濯物の上か。

 世界はあの頃の方がずっとわかりやすかった。

 

 

 昼のあいだ、わたしたちはいくつもの場所を渡った。

 割れた弁当屋の前では、床にこびりついた米粒を少しだけ食べた。乾いて硬く、それでいて口の中に入れればべたべたと歯にくっつき、猫の食べ物としてはたいへん不出来であった。さとみならこんなものを皿に入れたりはしない。もしも入れたら、わたしは三日は軽蔑の目で見ただろう。

 だが、食べた。

 植木鉢の下からは虫が出てきた。わたしが前足を出すより先に、ジャックが捕まえた。千切って半分をわたしの前に置く。

 

「食え」

「また施しか」

「嫌なら食うな」

「嫌とは言っていない。もらってやると言っている」

 

 虫はまずかったが、食べた。

 途中、わたしは何度か休もうとした。そのたびにジャックが言った。

 

「そこは犬が通る」

「ここは」

「上から見える」

「ではここは」

「人間の匂いが新しい」

「注文が多いな」

「死にたくねえだけだ」

 

 死にたくない。その言葉は、たいへん身も蓋もなかった。

 猫とは本来、もっと美しい理由で動くものだ。気が向いたから。眠いから。腹が減ったから。撫でられてもよい気分だから。そこに箱があるから。そういう高尚な理由で動くべきである。

 だが外では、死にたくない、何をするにも最後にはそこへ戻る。

 死にたくない。まったく、品のない世界だ。

 

 

 日が傾きかけた頃、わたしたちは壊れた室外機と呼ばれる箱の陰に潜り込んだ。

 室外機は、わたしの家にもあった。夏には外でうなり、冬にも外でうなっていた。人間は箱を働かせるのが好きである。白い箱、黒い箱、四角い箱、音の鳴る箱、風を吐く箱。人間は箱なしでは生きられないのかもしれない。

 もっとも、わたしも家という箱の中で危うく死ぬところだったので、あまり大きな声では言うまい。

 

 わたしは足の裏を舐めた。肉球がひりひりする。さとみがよく「サリーの肉球はぷにぷにでかわいいねえ」などと言って指で押していた、あの自慢の肉球である。外の硬い地面はわたしの肉球の繊細さを少しも尊重しない。

 

「おい、宿無し」

 

 わたしはジャックに訊ねた。

 

「なんだ」

「これからどこへ行くのだ」

「さあな」

「さあな、とは何だ」

「さあなは、さあなだ」

 

 ジャックはそう答えながら前足を舐めている。わたしと違って、汚れた前足を舐めるのに何のためらいもない顔である。不潔だ。野良とは恐ろしい。

 嫌悪感はさておき、わたしは続けて訊ねた。

 

「行く当てはあるのか」

「ない」

「ない?」

 

 わたしは耳を立てた。

 「では、どこへ向かって歩いているのだ」と訊ねると、ジャックは「飯がありそうな方」と答える。

 

「では、そのあとは」

「水がありそうな方」

「そのあとは」

「危なくなさそうな方」

「そのあとは」

「寝られそうな方」

「そのあとは」

「寝て起きたらまた同じだ。飯がありそうな方へ向かう」

「…………」

 

 わたしはしばらく黙った。

 どうやらジャックは、道というものをわかっていないらしい。道というのはどこかへ向かうためにあるものだ。さとみも毎朝玄関から出ていった。どこへ行っていたのかは知らないが、夜には戻ってきた。つまり道には行き先があり、帰る場所がある。

 だがジャックの行く道には、帰る場所がない。

 

「それは、いつまで続くのだ」

「死ぬまでだろ」

 

 あまりにもあっさり言うので、わたしは聞き間違えたのかと思った。

 

「死ぬまで?」

「そうだ」

「毎日、飯を探して」

「そうだ」

「水を探して」

「そうだ」

「寝る場所を探して」

「そうだ」

「犬から逃げて」

「運が悪けりゃな」

「鳥にも見られて」

「鈴つきは特にな」

「鈴つきと呼ぶな」

 

 わたしは反射的に言い返したが、勢いはなかった。

 死ぬまで。その言葉は、口に入れた古い米粒のようにいつまでも喉の奥に残った。

 家にいた頃、明日は今日とだいたい同じであった。朝になればさとみが壊れて出てゆき、夜になれば直って帰ってくる。皿は満ち、水は替わり、トイレは知らぬ間に清められ、ベッドにはさとみの腹のあたりという暖かい土地ができる。

 退屈ではあった。

 しかし、退屈とは贅沢だったらしい。

 

「……冗談ではない!」

 

 わたしは声を荒げて言った。

 

「猫というものは、日の当たる場所で眠り、清潔な水を飲み、ほどよく満たされた皿を前に、食べるか食べないかを選ぶ生き物である。このように、朝から晩まで汚い地面を歩き、虫を分け合い、犬に怯え、油の浮いた水たまりを避けて暮らすものではない」

 

 わたしの持論を、ジャックは一笑に付した。

 

「それは猫じゃなくて居候だ」

「わたしは居候などではない」

「まだ言うか」

「事実である」

「皿が空になって死にかけてたやつが」

「あれは、少し手違いがあっただけだ」

「そうか、世界が手違いを起こしたんだな」

「そうだ、たいへん迷惑な手違いだ」

 

 憤慨するわたしをジャックは鼻で笑った。

 失礼な猫である。

 

「…………」

 

 しかし、わたしはそれ以上言い返せなかった。

 皿は空になり、水は濁り、トイレは汚れ、冷蔵庫は開かず、扉も窓もわたしを外へ出さなかった。完璧な世界であったはずのわたしの家は、さとみという人間一人がいなくなっただけであっという間にただの死を待つだけの箱になった。

 その事実は、何度考えても気に入らない。

 気に入らないが、事実であった。

 

 

 空を見上げたちょうどその時、鼻の先に冷たいものが落ちた。

 わたしは顔を上げた。

 

 ぽつり。

 

 次は耳に当たった。

 

 ぽつり。ぽつり。ぽつ、ぽつ。

 

「なんだ」

 

 わたしは言った。

 

「誰が上から水を落としている」

「おまえ、雨も知らねえのか」

 

 ジャックが空を見た。

 雨。雨なら知っている。雨とは、窓の向こうで降るものである。

 外を降る雨は硝子を伝い、屋根を叩き、さとみが「あー、洗濯物が」と言って変な声を出すものである。雨の日、わたしは窓辺で丸くなり、暗い空を眺めながら眠る。

 そういう雨の日のさとみは部屋に長くいることが多く、膝の上も比較的空いている。つまり雨とはわたしにとって悪くないものであった。

 

 だが、外にいるときに降る雨は別物である。

 

 雨はわたしに直接当たった。背中に当たり、耳に入り、ひげに絡み、首輪の鈴を冷たく濡らした。毛の間へ水がしみ込み、痩せた体から熱を奪っていく。

 たいへん無礼である。わたしは空を睨んで文句を言った。

 

「やめろ」

 

 当然、雨はやめなかった。

 それどころか、雨粒はどんどん増えていった。地面の匂いが一斉に立ち上がる。土、鉄、油、犬、焦げたもの、古い人間の足跡。世界がぐちゃぐちゃに混ぜられて、鼻の中へ押し込まれてくる。

 わたしはくしゃみをした。

 

「濡れるぞ」

 

 ジャックが言った。

 

「もう濡れている」

「もっと濡れる。体が冷えて動けなくなる」

「では、どうする」

「屋根を探す」

「屋根はどこにある」

「探すんだよ」

 

 また探す。飯を探し、水を探し、寝床を探し、今度は屋根を探す。野良というものは、探してばかりである。

 ジャックは雨の中へ駆けだした。

 

 わたしは一瞬、その場に立ち尽くした。

 足は痛い。毛は重い。腹は満ちていない。空は水を落としてきて、行く当てはない。このような暮らしが死ぬまで続くなど、まったく冗談ではない。

 だが、ジャックの背中はもう小さくなっている。

 置いていかれる、それは嫌だった。

 

 わたしは濡れた鈴をちりんと鳴らして、雨の中を走りだした。

 

 

 雨というものは、たいへんしつこい。

 

 わたしが「やめろ」と命じたにもかかわらず、雨はやまなかった。むしろ勢いを増し、わたしの背中を叩き、耳を濡らし、ひげの先からぽたぽたと水を垂らした。空というものは礼儀を知らないようだ。家の天井であれば、少なくとも水など落としてこなかったというのに。

 

「空というのはなんと不躾なのだ」

「文句言ってる場合か。急がないと風邪を引いて死ぬぞ」

 

 ジャックは雨の中を低く走っていた。

 わたしもそのあとを追う。追う、というより、置いていかれまいと必死で足を動かした。濡れた地面は滑り、傷んだ肉球に砂が貼りつき、首の鈴は水を含んでいつもより鈍く鳴った。

 ちりん、ではない。ちゃりちゃり、と情けない音である。

 これはいけない。わたしの鈴は本来もっと澄んだ音を出すものである。雨ごときに濁らされるとは不本意であった。

 

「まだか」

 

 わたしは言った。

 

「何がだ」

「屋根だ」

「探してる」

「見つけてから走れ」

「おまえこそ探せ、濡れたくないんだろ」

「…………。」

 

 まったくその通りだったので、わたしは黙って走った。

 

 

 でかい建物が並ぶ道の先に、大きな建物が見えた。

 建物、というよりひとつの山である。けれどテレビの中で動いていたあの山とは違ってこれは動かない。

 角ばっていて壁があり、割れた大きな窓が並び、入口の上には人間の文字がいくつもついている。人間は何にでも文字をつける。人間は自分たちの鼻が鈍いから、文字で縄張りを示すのかもしれない。

 

 建物の入口の自動の扉は、半分だけ開いたまま止まっていた。

 自動と言うからには、本来なら勝手に開くものなのだろう。だが人間がいなくなると、そういうものはたいてい途中でやる気を失うということをわたしは野良の暮らしで知った。まったく、人間の道具は主人に似て根性がない。

 ジャックが隙間へ滑り込んだ。

 

「入るぞ」

「入る」

 

 わたしもあとに続いた。

 中へ入った瞬間、雨の音が遠くなった。

 屋根がある。

 その事実だけで、わたしは思わずその場に座り込みそうになった。背中に雨が当たらない。耳に水が入らない。空から無礼な水滴が落ちてこない。床は濡れているが、少なくとも上は閉じている。

 やはり天井とは偉大なものである。

 

 

 中は広かった。

 広すぎた。

 家のリビングがいくつも、いくつも、いくつもつながっているような場所だった。吹き抜けの高い空間があり、止まった黒い階段があり、丸い机と椅子が倒れ、床には紙袋や傘や靴や、よくわからない人間の持ち物が散らばっていた。

 天井からぶら下がった大きな灯りは消えていたが、割れたガラスの向こうから灰色の光が入ってくる。雨の音は屋根の上で低く鳴り、建物の奥にはそれとは別の、しんとした匂いが満ちていた。

 人間の巣箱だ。しかもとても大きい。

 

「ここは何だ」

 

 わたしが訊ねると、ジャックは鼻をひくつかせながら言った。

 

「ショッピングモールだな」

「しょっぴんぐもーる?」

「人間がいろんなものを集めておく巣箱だ」

「また人間の巣箱か」

「人間は巣箱を作るのが好きなんだよ」

 

 なるほど、とわたしは思った。

 人間は弱い。爪は丸いし、鼻は鈍いし、高いところにもろくに登れない。

 そのかわりやたらと箱を作る。家、コンビニ、車、冷蔵庫、キャリー、そしてショッピングモール。人間は巣箱を作り、その中にさらに箱を並べ、その箱の中に食べ物を入れる。なんとも回りくどい生き物である。

 だが、悪くない。

 少なくとも、いまのところ雨は当たらない。

 わたしは濡れた体を振った。水滴があちこちへ飛ぶ。ジャックが嫌そうに顔をしかめた。

 

「こっちに飛ばすな」

「外で雨に濡れたのだから同じだろう」

「おまえの水は腹立つんだよ」

 

 理不尽である。

 それからわたしたちは、ショッピングモールの奥へ進んだ。

 

 

 進むにつれて、匂いが増えた。

 古い油。紙。布。革。化粧品。洗剤。濡れた傘。人間の汗。菓子。魚。肉。野菜。腐りかけた果物。冷たい箱から漏れた水。いろんな匂いが重なりすぎて、わたしの鼻はまた仕事を放棄しそうになった。

 しかし、その中に、はっきりと知っている匂いがあった。

 

「キャットフードの匂いがする……」

 

 わたしは足を止めた。

 間違いない。あの粒の匂いである。皿に入っていた、家の戸棚に隠されていた、さとみが袋を開けるたびに部屋へ広がったあの匂い。

 

「おい宿無し」

「なんだ鈴つき」

 

 わたしは厳粛に言った。

 

「こっちだ」

「なんだ」

「わたしの食べ物の匂いがする」

「おまえのじゃねえだろ」

「匂いがそう言っている」

 

 わたしは懐かしいその匂いを追った。痛む足も、濡れた毛も、その時だけ少し忘れた。

 角を曲がると、そこにあった。

 

 店である。

 入口の上にはまた人間の文字があり、中には棚が並び、袋が並び、缶が並び、箱が並んでいる。犬や猫、鳥、あるいはネズミに似た丸まった小動物の絵が描かれている。砂の袋。毛布。首輪。玩具。爪とぎ。見覚えのあるものがいくつもある。

 ジャックは言った。

 

「ペット用品店だな」

 

 見上げながらわたしは、しばらく言葉を失った。

 ここは楽園か。

 いや、違う。楽園などという人間めいた言い方は気に入らない。ここはもっと正しく言えば、わたしのために人間が用意していた供物の倉である。

 棚にはキャットフードの袋が山のように積まれていた。皿に三倍などという小さな話ではない。袋。袋。袋。缶。缶。缶。小さな袋も、大きな袋も、魚の匂いのするものも、肉の匂いのするものもある。あるいはさとみも、ここでわたしのキャットフードを仕入れていたのかもしれない。

 わたしは思わず胸を張った。

 

「見たか、宿無し」

「何を」

「世界はまだわたしを見捨てていなかった」

「世界はおまえを知らねえよ」

「だがキャットフードの袋はここにある」

 

 ある。

 それが大事である。

 

「しかし、ここならたしかに腹いっぱい食えそうだ」

 

 ジャックはすでに棚の下に落ちていた袋を前足で押さえ、牙で破りにかかっていた。

 わたしも負けじと近くの袋に取りつく。ここしばらくの野良暮らしの困難の中で、わたしも少しは学んだのである。袋というものは牙で端を裂けば中身が出る。

 破れたところから、懐かしい粒がこぼれた。

 わたしはそれに顔を突っ込んだ。

 

 うまい。

 

 いや、家でさとみと暮らしていた頃ならこれをうまいとは思わなかったかもしれない。家にいた頃のわたしときたら同じ粒を前にして、今日は気分ではないとか、昨日と匂いが同じだとか、皿の位置が気に入らないとか、さまざまな理由で食べるのを遅らせた。

 今ならわかる。

 皿にあるキャットフードは、偉大である。

 床にこぼれた粒をわたしは夢中で食べた。泥水を飲み、虫を食べ、ネズミをかじったわたしの口に、乾いた粒は驚くほど上品に感じられた。

 

「……悪くない」

「顔、袋に突っ込んだまま言うな」

 

 ジャックも食べていた。口では何も言わないが、尻尾の先が少しだけ緩んでいる。つまりジャックも満足しているのである。野良は感情表現が下手だ。

 さらに奥には、低い柵の向こうに小さな部屋のようなものがいくつも並んでいた。かつて小動物か鳥か、あるいは別の猫がいた場所なのだろう。今はほとんど空だったが、どこかに散った砂、古い羽、乾いた牧草の匂いが残っている。

 

 その奥には、水もあった。

 倒れたペットボトル。破れた給水器。床に溜まった透明な水。泥の匂いがしない。油の匂いもしない。わたしは舌を伸ばして飲んだ。

 うまい。

 水とは、本来こうあるべきである。

 

「宿無し」

「今度は何だ」

「ここに住むぞ」

「は?」

「ここは雨が入らない。餌がある。水がある。寝る場所もある。砂もある。つまり、わたしの家である」

「気が早えな」

「早くない。むしろ当然の結論だ。ここは新しいわたしの家にふさわしい」

「おまえ、さっきまで死ぬまで探す野良の暮らしは嫌だとか言ってなかったか」

「だから見つけたのだ」

 

 わたしは濡れた胸の毛をできるかぎり整え、店の中を見回した。

 悪くない。家の窓辺ほどの日当たりはないが屋根がある。ベッドはないが、犬用の大きなクッションがいくつもある。犬用という点は大いに不満ではあるものの、わたしが使えばそれは猫用になる。棚の上にも登れて箱も多く、隠れる場所もある。しかも餌は山ほどある。人間がいなくなった今、この場所を治める者が必要だろう。

 つまりわたしである。

 わたしはこのショッピングモールという巨大な巣箱を、ひとまず仮の領土として認めてやることにした。さとみが戻ってきたら、ここも見せてやってもよい。あの愚図な人間はきっと感激し「サリー、すごいねえ」などと言うに違いない。

 

 そんなことを考えたちょうどそのとき、背中の毛がふと逆立ち、匂いがした。

 ジャックがつぶやく。

 

「……誰か来る」

 

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