吾輩は猫である、ただしゴジラが来たせいで飼い主に置いてかれて死にそうです   作:よよよーよ・だーだだ

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6、猫の王国

 現れたのは、猫の匂いである。

 ひとつではない。ふたつ。みっつ。もっと。

 わたしは顔を上げた。ジャックも食べるのをやめ、彼の耳が左右で別々の方向を向いて周囲を探っていた。

 

「……どうする」

「動くな」

 

 そう語るジャックの声は、低い声だった。警戒している。

 

 やがてペット用品店の奥の棚の上に、黄色い目が現れた。

 右の通路に、別の目。倒れたケージの影に、また別の目。

 レジ台の上。犬用ベッドの陰。爪とぎの棚の上。キャリーの積まれた山の向こう……暗がりの中から、猫たちがひとつ、またひとつと姿を現した。

 大きな猫。小さな猫。片耳の欠けた猫。毛の長い猫。痩せた猫。首輪の跡だけが残った猫。目つきの悪い白黒。尻尾の短い三毛。子猫、年寄り、黒い兄弟のような二匹。

 

 わたしたちは、いつのまにか囲まれていた。

 

 わたしは反射的に背を高くした。

 ここはわたしの新しい家になる予定の場所である。したがって、ここにいる猫たちはわたしに対して相応の敬意を払うべきである。そう思った。

 思ったが、数が多い。

 多すぎる。

 ジャックが小さく舌打ちした。

 

「先客か」

 

 その言葉に、わたしはたいへん不愉快な気持ちになった。

 先客。つまりこの場所はすでに誰かのものだったということか。

 

「……なんだなんだ、新顔かい?」

 

 その言葉に振り返ると、棚の上に猫がいた。

 それは大きな猫であった。

 いや、太っているとか大柄であるとかいう意味ではない。長い毛に覆われた、白っぽい体をした猫だった。顔のまわりと耳、足先、尻尾だけが焦げたように濃い色をしていて、ふさふさとした毛は雨にも泥にも汚されていない。目は薄い青色で、こちらを見下ろしているのにどこか遠いものでも眺めているようだ。

 美しい猫である。だからこそわたしはすぐに気に入らないと思った。

 棚の上の猫は言った。

 

「おまえたちは、誰の許しでそこの餌を食べてるんだい」

「許し?」

 

 わたしは、口の端についたキャットフードの粉を舐めてから言った。

 許し。奇妙な言葉である。猫が餌を食べるのに誰かの許しがいるなどと、わたしは今まで一度も考えたことがなかった。

 

「餌を食べるのに、誰の許しが要る」

 

 わたしとしては、きわめて当然のことを答えたつもりである。

 餌がある。猫がいる。猫は腹が減っている。ゆえに餌は食べられる。これは世界の摂理である。少なくとも、さとみの家ではそうだった。

 しかし棚の上の猫は、目を細めただけだった。

 

「ここでは、要るんだよ」

 

 静かな声だった。

 怒鳴らない。毛を逆立てもしない。牙も見せない。ただ、当然のことを告げるようにそう言う。その態度がかえって気に入らなかった。

 わたしは背を高くした。濡れた毛が少し情けない形で膨らむ。首の鈴が、ちり、と鳴り、それに目敏く気付いた他の猫が言った。

 

「こいつ、首輪をしているぜ」

 

 周りの猫たちは、いつのまにか増えていた。

 わたしはさとみの家から窓の外の猫の集会を見たことがある。塀の上でじっとしているやつ。車の下で丸くなっているやつ。こちらを見返してくる、礼儀知らずのやつ。たとえ群れようとも猫はそれぞれがひとつの国であり、ひとつの城であり、ひとつの法律であるべきだ。少なくともわたしはそう思っていた。

 だが、ここにいる猫たちは違った。

 一匹一匹は猫である。匂いも、目も、耳も、尻尾も猫である。けれど集まり方が猫らしくなかった。棚の上、通路の脇、ケージの影、レジ台の下。それぞれが勝手にいるようでいて、わたしたちの逃げ道だけをきれいに塞いでいる。

 そして何より、このわたしが威嚇しても誰も応じない。これはたいへん不気味であった。

 

「宿無し」

 

 わたしは小さく言った。

 

「なんだ」

「この連中は、何をしている」

「囲んでる」

「それは見ればわかる」

「じゃあ聞くな」

 

 ジャックは低く身を伏せていた。逃げるためではない、いつでも動ける姿勢である。彼の耳は忙しく動き、目は棚の上の猫ではなくまわりの通路と出口を見ている。

 逃げ道を探しているのだ。

 わたしは少しだけ不安になった。ジャックが逃げ道を探す時は、たいてい本当に逃げた方がいい時である。

 棚の上の猫が、ゆっくりと前足をそろえた。

 

「名前を聞こうか」

「先に自分から名乗るのが礼儀ではないのか」

 

 わたしが言うと、まわりの猫たちの何匹かがひげをぴくりと動かした。笑ったのかもしれないし、呆れたのかもしれない。

 棚の上の猫は少しも表情を変えなかった。

 

「モモコだよ」

 

 短くそう言った。

 モモコ。妙にやわらかい名前である。さとみが聞いたら「かわいい名前だねえ」などと言いそうだが、わたしはそういう名前の猫をあまり信用しない。かわいい名前の猫ほど、たいてい自分がかわいいことを知っている。

 モモコはわたしたちを見下ろしながら言った。

 

「私はこのショッピングモールを預かっている」

「預かっている?」

「そう。餌場も、水場も、寝床も、通り道も、全部ね」

 

 わたしは鼻を鳴らした。

 

「ここはもとより人間の巣箱だろう。おまえが作ったわけではあるまい」

「人間はいなくなった」

「だから何だ」

「残ったものを守っているのは、私たちだ」

 

 モモコが静かに言ったその声に、まわりの猫たちが少しだけ身じろぎした。モモコの言葉に合わせて、場の空気が形を変えるようであった。

 気に入らない。

 とても気に入らない。

 さとみの家で何かを決めるのは、常にわたしであった。窓辺を使うのも、ソファの背を使うのも、ベッドの真ん中を使うのも、わたしの自由だった。さとみは時々「そこはわたしの場所よ」と言ったが、そういう時はわたしが少し目を細めてやれば黙った。

 だが、このモモコという猫は、わたしが目を細めても黙りそうにない。

 モモコが言った。

 

「二匹を、前へ」

 

 すると、左右から黒い猫が二匹進み出た。

 よく似ている。片方は右耳の先が白く、もう片方は左前足の先だけが白い。それ以外はほとんど同じ黒猫だった。兄弟なのかもしれない。どちらも、やたらと偉そうな歩き方をする。

 右耳の白い方が言った。

 

「モモコの前に出ろ」

 

 左前足の白い方が続けた。

 

「裁判を始めよう」

 

 裁判。

 聞き慣れない言葉であるが、たいへん気に入らない響きだった。猫が猫を裁くなど、いったい何様のつもりなのか。猫とは裁かれる生き物ではないし、裁く生き物でもない。ただ高いところに座り、下々を眺め、気が向けば毛づくろいをする生き物である。

 

「断る」

 

 わたしが言ったその瞬間、まわりの猫たちが一歩だけ距離を詰めた。

 たった一歩であるけれど、その一歩には牙の一撃よりも重い意味があった。飛びかかるわけではない。唸るわけでもない。ただ、逃げ道が少し狭くなった。

 ジャックが小さく舌打ちした。

 

「行くぞ」

「なぜだ」

「今は噛みつく時じゃねえ」

「わたしは裁かれるようなことをしていない」

「袋に顔突っ込んだ口で言うな」

「キャットフードは猫に食べられるためにある」

「それをここで言うな」

 

 ジャックはわたしの横をすり抜けるようにして歩き出した。わたしは納得していなかったが、まわりの猫たちの目があまりにも多かったので仕方なくそのあとに続いた。

 これは敗北ではない。戦略的転進である。

 

 

 わたしたちは、ペット用品店の前の広い通路へ連れていかれた。

 そこは吹き抜けになっていて、上の階の手すりからも何匹かの猫がこちらを見下ろしていた。床には人間の残した案内板が倒れていて、近くには止まった黒い階段があり、雨の音が遠く屋根を叩いている。

 モモコは、ペットシーツの大きな袋が積まれた山の上へ移った。

 わたしは見上げる形になった。

 それがまた、たいへん気に入らなかった。

 モモコの左右には、さきほどの黒猫二匹が座った。右耳の白い方が顎を上げ、

 

「カストル」

 

 と名乗った。

 続いて、左前足の白い方が口を開く。

 

「ポルクス」

 

 名乗ったらしい。

 どちらがどちらでも、わたしには大差ない。二匹ともモモコの傍にいることで自分まで偉くなったと思っている顔をしている。そういう顔はわたしは嫌いである。

 カストルが一歩前へ出た。

 

「新入り二匹、素性を調べる」

 

 わたしは気高く名乗った。

 

「素性なら、わたしはサリーだ。名のある猫である」

「名だけでは足りない」

 

 ポルクスが言った。

 

「匂いだ」

 

 匂い。

 その言葉と同時に、まわりの猫たちが順番に近づいてきた。たいへん無礼なことに彼らはわたしのまわりを回り、鼻を近づけ、首輪を嗅ぎ、濡れた背を嗅ぎ、足の裏を嗅ぎ、尻尾の付け根にまで鼻を近づけようとした。

 

「なんと無礼な!」

 

 わたしは思わず叫んだ。尻の匂いを嗅ぐのは猫の儀礼であるが、これは根掘り葉掘り身元を探られている。

 だが周囲の猫たちは、わたしの怒りなど意に介さなかった。わたしのような高貴な猫への敬意が足りない。ここの教育はどうなっているのだ。

 

「……人間の家の匂い」

 

 一匹が言った。

 

「女の人間。洗剤。布団。プラスチックの皿」

「首輪つき」

 

 別の猫が言った。

 

「鈴つき」

「雨」

「犬に追われた匂い」

「血。ネズミ。泥水」

「餌袋を破った匂い」

 

 これまでのことを報告されている。

 わたしという存在が、わたしの許可なく分析されている。これほど失礼なことがあるだろうか。

 次に彼らはジャックを嗅いだ。

 

「野良」

「古い傷」

「いくつもの縄張り」

「錆びた鉄」

「血」

「犬」

「こいつは噛む」

「腹を空かせてる」

 

 ジャックは平然としていた。鼻先を近づけられても怒らない。ただ、近づきすぎた一匹にだけ低く唸り、するとその猫はすぐに引き下がった。さすがに、そこは少しだけ見直した。

 カストルが前へ出た。

 

「罪状」

 

 ポルクスが続ける。

 

「一つ。許しなくショッピングモールに入ったこと」

「一つ。許しなく餌場に入ったこと」

「一つ。備蓄袋を破ったこと」

「一つ。餌を床に散らかしたこと」

「一つ。外の雨と犬の匂いを持ち込んだこと」

「一つ。鈴を鳴らしたこと」

 

 最後の言葉で、カストルとポルクスの視線がわたしの首元に集まった。まわりの猫たちも見る。

 わたしは首を少し引いた。

 

「これは、さとみがつけたものだ」

 

 そう言ってしまってから、自分に少しだけ腹が立った。なぜ、わたしは弁明のようなことをしているのか。わたしは誰にも弁明などしない猫である。

 モモコが言った。

 

「音のする猫は、餌場に近づけない。犬にも、鳥にも、人間にも、ここを知らせるからね」

「わたしの鈴は、そんな低俗な目的のために鳴っているのではない」

「じゃあ何のために鳴ってるんだい」

 

 問われて、わたしは一瞬詰まった。

 さとみにわたしの居場所を知らせるため、そう答えることはできた。だが、ここにはさとみはいない。さとみは戻らなかった。鈴がどれだけ鳴っても、さとみは現れなかった。

 それでもわたしは言った。

 

「わたしのためだ」

「そう。なら、その音の責任も取りな」

 

 なんという言い草であろうか。

 わたしが口を開きかけた時、ジャックが先に言った。

 

「妙な話だ」

 

 すべての猫の視線が、ジャックへ向いた。ジャックはあくびをするような顔で続けた。

 

「俺たちは余所者なんだろ。だったら、おまえらの決まりなんざ知らねえ。知らねえ決まりを破った罪ってのは、何の罪だ?」

 

 ジャックの理屈に、カストルとポルクスは返事に困った顔でちらりとモモコを見た。こいつら、やはり自分では何も決められないらしい。

 モモコは静かにジャックを見た。

 

「知らなかったなら、今覚えな」

「へえ」

「この屋根の下に入ってここで食べた時点で、ここの決まりに触れている。ここで眠りたいなら、ここの裁きも受ける」

「ずいぶん都合のいい決まりだな」

「都合が悪いなら出ていけばいい」

 

 モモコは、外の方をちらりと見た。

 入口の向こうでは雨がまだ降っていた。灰色の水が床に流れ込み、風が濡れた匂いを運んでくる。

 

「外は自由だよ。雨も、犬も、飢えも、好きなだけある」

「…………。」

 

 ジャックは黙り、わたしは彼を見た。

 ……なぜ黙るのだ。今のは明らかに理不尽ではないか。言い返せ。噛みつけ。いつものように無礼で性格の悪い、だが妙に的を射た言葉を返せばいい。

 しかしジャックは、わたしにだけ聞こえる声で言った。

 

「勝てる時以外は噛みつくな」

 

 その言葉で、わたしはペット用品店を見た。棚に積まれた袋。缶。水。毛布。屋根。雨をしのげる床。それらは、たしかにここにあった。

 そしてわたしたちはまだ腹が減っていて、どうやらそれらはモモコたちの物であるようだった。

 モモコが立ち上がった。長い尻尾が、袋の山の上をゆっくり揺れる。

 

「ここには餌がある。水もある。眠る場所もある。外よりは暖かい。だから猫が集まる。猫が集まれば餌や水は減るし、寝床は足りなくなる」

 

 まわりの猫たちは静かに聞いている。

 おそらく何度も聞かされてきた言葉なのだろう。いや、何度も聞かされているからこそ彼らは黙るのかもしれない。

 モモコは続けた。

 

「好きな猫が好きなだけ食べれば、明日には何も残らない。明日何も残らなければ、弱い猫から死ぬ。子猫が死ぬ。年寄りが死ぬ。怪我をした猫が死ぬ。だから順番がいるんだよ」

 

 わたしは反論しようとしたが、言葉が出なかった。

 餌は無限ではない。それをわたしは知っている。

 皿の餌はなくなった。戸棚の袋もなくなった。食べられる黒い奴らもいなくなった。白い器の水も濁った。

 食べ物は、勝手には増えない。そんなことを、わたしはさとみがいなくなって初めて知った。

 モモコは言った。

 

「順番を決める者が必要だ。私はそれをしている」

「自分が一番いい場所で寝るためだろ」

 

 ジャックがぼそりと言った。

 まわりが少しざわめいたが、モモコは怒らなかった。

 

「そうだよ」

 

 あっさり認めた。

 

「一番上にいる者が、一番良い場所にいるべきだ。そうでなければ誰も順番に従わない。私が濡れた床で震えていたら、誰が私の言うことを聞くんだい?」

 

 それはたいへん嫌な理屈であった。嫌な理屈だが、猫としては少しわからないでもない。

 高い場所にいる猫は強い。よい寝床を持つ猫は強い。餌場のそばにいられる猫は強い。そして強い猫の言うことを他の猫は聞く。

 モモコは、猫のやり方で人間のようなことをしているのだ。それが、たいへん気持ち悪かった。

 カストルとポルクスは声を合わせて言った。

 

「判決」

 

 モモコがわたしとジャックを見ながら言った。

 

「追い出してもいい。外には雨がある。犬もいる。あんたたちがどうなろうとここの餌は減らない」

 

 わたしは黙った。ジャックも黙っている。

 

「でも、ここは餌場だ。餌場には、役に立つ猫も必要になる。外を歩いた猫。犬の匂いを知っている猫。雨の中から来た猫……音のする猫は、あまり役に立たないけれどね」

 

 音のする猫、と言ったときにモモコの目がわたしの首元で止まっていた。

 それからモモコはこう結論付けた。

 

「だから、生かしておく」

 

 生かしておく。なんと思い上がった言い回しだろう。まるで、わたしの生死をこの猫が決められるかのようではないか。

 わたしは怒りで毛を逆立てたが、同時に足は動かなかった。外では雨が降っている。わたしの肉球はまだ痛い。腹は完全には満ちていない。

 怒りは腹を満たさない。既に学んだことである。

 

「新入り二匹は、一番下に置く」

 

 モモコが言った。

 まわりの猫たちが、それを当然のように聞いている。

 

「餌は最後。水も最後。棚の上は使わない。毛布の山にも近づかない。ペットベッドは古参のもの。寝る場所は入口近くの広告板の裏。雨が吹き込むけど、屋根はある」

 

 入口近く、つまりいちばん外に近い場所である。犬や人間が入ってきたら最初に出会う場所であり、雨も風も入りやすい。

 なるほど。一番下とはそういう意味か。

 

「夜は見張り。何か来たら鳴いて報せるんだ。ただし、その鈴は鳴らさないこと。鳴らした分だけ、餌は遠くなると思え」

「この鈴は、わたしのものだ」

 

 わたしが反駁すると、モモコはかぶりを振って答えた。

 

「外せとは言ってないよ。鳴らすなと言ってる」

「猫に向かって無茶を言うな」

「なら、無茶を覚えな。ここにいたいならね」

「ふざけるな」

 

 わたしが牙を見せかけたその時、ジャックの尻尾がわたしの足に軽く触れた。

 ……やめろ。そういう合図だった。

 わたしはジャックを見た。彼はモモコを見ておらず、周りを見ている。どの猫が本気で噛むか、どの通路が空いているか、どの距離なら逃げられるか。そういうことを見ている顔だった。

 そして、たぶん今は逃げられないのだということも。

 

「…………」

 

 わたしは、ゆっくりとしっぽを下げた。

 これは屈服ではない。雨が降っていて足が痛いからであり、腹が減っていて今暴れても得るものがないからである。

 つまり、たいへん高度な判断である。

 だが、まわりの猫たちはそれを「従った」と受け取ったらしい。モモコがねっとりとした表情で言った。

 

「……いい子だね」

 

 モモコの両脇で、カストルとポルクスが満足そうに鼻を鳴らした。実に腹立たしいことだ。

 わたしは言い返した。

 

「おまえに言われる筋合いはない」

「あるよ」

 

 モモコは、そこで初めて少しだけ笑ったように見えた。

 

「あんた、昔は人間の家で女王様だったんだろう。自分の家でも無いものを自分のものだと思っていた、そうだろう?」

 

 なぜそれを。わたしが言葉にしようとするよりも先に、モモコはわたしを見下ろしながら答えた。

 

「匂いでわかる。何も知らないくせに、自分が主人だと思っていた奴の匂いがするんだ」

 

 その言葉は、牙より深く刺さった。

 わたしは言い返そうとした。あの家はわたしの家だった。わたしはさとみを住まわせてやっていた。窓辺も、ソファも、ベッドも、洗濯物の巣も、全部わたしのものだった。

 そう言おうとした。

 

 だが、その家はわたしを閉じ込め、餌は尽きて水は濁り、冷蔵庫は開かなかった。さとみは戻らなかった。

 

「…………。」

 

 わたしは何も言えなかった。

 モモコは、わたしが黙ったのを見て、もう興味を失ったように毛づくろいを始めた。

 

「連れていきな」

 

 

 猫たちに連れていかれた場所は入口近くの広告板の裏であるが、そこはたいへんひどい場所であった。

 

 まず、床が冷たい。次に、風が入る。さらに、雨の匂いがする。そして何より、餌場が見えるのに遠い。

 これは明らかに猫が身を置く場所ではない。少なくともわたしのような品格ある猫を置く場所ではない。柔らかい布、日の当たる窓辺、さとみの脱ぎ捨てた上着、そういうものこそが本来わたしにふさわしいはずだ。

 だが、ここにあるのは濡れた傘と、潰れた紙袋と、人間が何かを売るために立てていたらしい大きな板だけであった。

 

 その広告板の裏に、先客がいた。

 丸い猫だった。太っているというより、全体に締まりがない。白と茶色の混じった毛はところどころ寝癖のように跳ね、片方の耳だけが妙に曲がっている。目は眠そうで顔はぼんやりしている。こちらを見ているのか、広告板に描かれた人間を見ているのか、どちらなのかよくわからない。

 その猫は、わたしたちを見るとゆっくり瞬きをした。

 

「おや、新しい登場人物だね」

 

 わたしは足を止めた。

 

「登場人物?」

「そう。物語には、時々そういうものが現れる。雨に濡れ、傷を負い、腹を空かせ、誇りだけはまだ捨てきれない者たちだ」

 

 妙な言い回しをする猫だ。わたしはジャックを見た。

 

「なんだ、こいつは」

「知らねえ」

「ここの猫ではないのか」

「見りゃわかるだろ。ここの猫だ」

「では、なぜこのようなことを言う」

「知らねえ」

 

 ジャックは、早くも面倒くさそうな顔をしていた。

 丸い猫は前足を揃えるでもなく、寝そべったまま胸を張った。寝そべったまま胸を張るというのはなかなか難しいことであるが、その猫はそれをやった。

 丸い猫はこう名乗った。

 

「ぼくはソーセキ。作家だ」

 

 作家。

 また聞き慣れない言葉が出てきた。裁判だの、判決だの、作家だの、ショッピングモールという場所は聞き慣れない言葉の巣である。猫というものはもっと単純でよい。食う。眠る。嫌なものに爪を立てる。それで十分である。

 

「作家とはなんだ」

 

 わたしが訊ねると、ソーセキは目を細めた。

 

「作品を作る者さ」

 

 作品。これもまたよくわからない言葉だった。だが、口に含んだ時の響きだけは少し偉そうである。そういう面倒くさい言葉を好む者は、たいてい自身も面倒くさい。

 わたしはさらに訊ねた。

 

「作品とは食べられるのか」

「食べられない」

「暖かいのか」

「暖かくはない」

「犬を追い払えるのか」

「追い払えない」

「では、なんの役に立つ」

「役に立つかどうかで測れないものが、この世にはあるんだよ」

「…………。」

 

 ソーセキは、たいへん満足そうにそう言った。

 わたしは少し黙った。役に立たないものを、役に立たないと言わせないための言葉。それが作家というものらしい。

 やがてわたしは言った。

 

「作品を作るのが作家と言うなら、おまえは何を作っているのだ」

 

 ソーセキは待っていましたとばかりに、首を持ち上げた。

 

「大作だ」

「大作」

「そう。大きな作品だ。小さな作品ではない」

「それは、どこにある」

「まだない」

「ない?」

「まだ形にはなっていない」

 

 わたしはソーセキの前足を見た。丸い。猫らしく爪はあるが、さとみがそうしていたように何かを書くにはいささか頼りない。

 次にまわりを見た。紙はない。いや、床に濡れた紙袋ならあるが、そこに何かが刻まれているわけではない。絵もない。文字もない。魚の骨すら並んでいない。

 わたしは訊ねた。

 

「おまえは、絵を描けるのか」

「描けない」

「文字を書けるのか」

「書けない」

「では、何を作っている」

「だから、大作だ」

「つまり何もしていないではないか」

 

 わたしの指摘にソーセキはなんら傷ついた様子もなく、むしろ憐れむようにわたしを見た。

 

「違うね」

「何が違う」

「構想を練っている」

 

 構想。これもまた怪しい言葉であった。

 

「それは何をすることだ」

「作品について考えることだ」

「ただ寝そべっているだけではないか」

「寝そべっているときに閃くアイデアもある」

「目を半分閉じている」

「物語の奥を見ているのさ」

「よだれが出ている」

「創作には湿り気も必要だ」

 

 わたしは、たいへん深く理解した。

 

 こいつは、役に立たない猫である。

 

 見張りにも向かない。獲物も捕らなさそうだし、餌場を守ることもできないだろう。荷物を運ぶことも、袋を破ることも、犬を追い払うこともおそらくできない。ただぼんやりしていて、ぼんやりしていることに名前をつけている。

 だから、ここにいるのだ。一番下の、寒く、湿っていて、餌場から遠い場所に。

 

「……なるほど。おまえがここにいる理由はよくわかった」

「わかってくれたか」

「ああ。役に立たないからだ」

「違う。普通の猫にはぼくのクリエイティビティがわからないからだ」

 

 ソーセキは平気な顔で言った。

 

「偉大なものは、たいてい最初は理解されない。ぼくの大作もそうだ」

「まだ何も作ってないのにか」

「何もないからこそ、無限なんだ」

 

 わたしは頭が痛くなってきた。

 外では犬が襲い、雨が降り、餌は足りず、モモコは高い場所で毛づくろいをしている。そんな世界で、この猫はないものについて誇っている。

 ある意味ではたいした猫かもしれないが、同じ場所に置かれるのは納得できなかった。

 

「おい、宿無し」

 

 わたしはジャックに言った。

 

「なんだ」

「これはおかしい」

「何が」

「わたしはモモコに一番下だと言われた。だが、この猫と同じ場所というのはおかしい」

「そうか」

「そうだ。こいつは何もしていない。ただ寝そべって、作品の構想などという見えないものについて考えているだけだ」

「そうだな」

「こんな役立たずとわたしが同じ扱いを受けるのは、明らかに不当である」

 

 ジャックは、しばらくわたしを見た。

 それから、たいへん嫌らしい顔で言った。

 

「同じくらい役立たずだと思われてるんだろ」

 

 わたしは口を開いて反論しようとした。

 わたしは役立たずではない。わたしは猫である。さとみの家の窓辺を支配し、ベッドの真ん中を占領し、黒くて素早いやつを仕留めたこともある。ネズミだって食べた。犬からも逃げた。ゴジラとやらのいる街を歩いてここまでたどり着いた。

 

 だが、このショッピングモールの中で何ができるかと聞かれると、すぐには答えられなかった。

 

 餌場は守れず袋を破った。

 見張りはまだできるか怪しい。

 鈴は鳴る。

 順番は知らない。

 高い棚も、今は使わせてもらえない。

 わたしは、少しだけ広告板の影に座り込んだ。

 

「……たいへん不愉快な指摘だ」

「当たってるときほど不愉快なんだよ」

 

 ジャックはそう言って、入口の方を見た。

 ソーセキはそんなわたしたちの会話を聞いていたのかいないのか、また目を半分閉じながらうっとりと言うのだった。

 

「……いいね。落ちぶれたヒロインと、口の悪い案内人。そこに、理解されない作家。実に物語が動き出しそうだ」

「動かなくていい」

「それもまた、物語だよ」

「うるさい黙れ」

 

 わたしは、この猫とは長い付き合いにならないことを願った。

 だが、願いというものは、たいてい猫の都合良くは叶わない。

 

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