吾輩は猫である、ただしゴジラが来たせいで飼い主に置いてかれて死にそうです   作:よよよーよ・だーだだ

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8、Gフォース襲来

 日が過ぎて、夕方が来た。

 わたしたちはまた入口で見張りをしていた。

 

 雨は止んでいた。空は濡れた灰色で、ショッピングモール前の広い道には壊れた車が何台も斜めに止まっている。人間の街は使われなくなった爪とぎのように裂け、曲がり、ところどころ焦げていた。

 ふいに、ジャックの耳が動いた。

 

「来る」

 

 わたしは外を見た。

 

「犬か」

「違う」

「鳥か」

「違う」

「でかいのか」

「違う。もっと面倒くさい奴だ」

 

 眠りこけていたソーセキが目を開けた。

 

「人間だね」

 

 わたしの首の毛が、自然に逆立った。

 ショッピングモールに突如現れた人間たち。わたしの知っているさとみではない。さとみの匂いではない。外の道の向こうから複数の足音が近づいていた。

 ざっ。

 ざっ。

 ざっ。

 人間の足音は猫の足音とは違って、重く遠慮がない。地面に自分の存在を叩きつけながら進んでくる。

 やがて、灰色と黒の服を着た人間たちが見えた。

 頭には硬そうな殻をかぶり、顔の一部を透明な板で覆っている。背中には大きな荷物。前足には黒く長い道具。腰にはいくつもの小さな箱。人間はなぜ、どこへ行くにもあれほど物をぶら下げるのか。自分だけでは何もできない証拠である。

 だが、今日現れた人間たちは、あの朝のさとみのように慌ててはいなかった。列を作り、互いに合図をし、入口の前で止まる。

 一人が手を上げて、別の一人が黒い道具を構える。さらに別の一人が、光る板を見て何かを言い合う。

 その様子を眺めながら、ソーセキが小さく呟いた。

 

「Gフォースだ」

 

 何だ、それは。わたしが訊ねるとソーセキは答えた。

 

「人間たちの、ゴジラのような怪獣に噛みつくための群れだ」

「怪獣とは何だ」

「ゴジラみたいにでかくて街を壊すものをそう呼ぶんだ」

「では、『でかいの』でよいではないか」

「人間は名前を増やすのが好きだからね」

「それで人間がゴジラに噛みつくのか」

「道具でね」

 

 たいへん無謀な群れである。

 そのGフォースの人間たちは入口から中を覗き込み、その一人の光がこちらをかすめた。

 白い光が目に刺さり、わたしは思わず低く唸った。鈴が鳴りそうになり、慌てて首を止めた。実に面倒な首である。

 ジャックが低く言った。

 

「奥へ知らせろ」

「誰が」

「俺が行く」

「なぜおまえが」

「おまえが鈴を鳴らしたら餌が遠くなるんだろ。なら俺が行く」

 

 そう言うやいなや、ジャックは広告板の陰からするりと出た。影から影へ、売り場の棚の下へ、止まった黒い階段の横へ。汚い毛玉のくせにこういう時だけ風のように動く。

 ずるい。わたしも本当はああ動けるはずである。ただ今は床が濡れていて、首には鈴があり、少し疲れていて、ついでに状況が悪いだけだ。

 人間の一人が声を上げた。

 

「猫がいるな」

 

 わたしの耳が立った。

 その人間は入口の内側を照らしていて、照らす光の先にわたしとソーセキがいた。わたしは身構えたが、ソーセキは逃げなかった。座ったまま人間を見ている。

 隣でわたしは小声で言った。

 

「逃げよう、作家」

 

 ソーセキは言った。

 

「人間だ」

「それは知っている」

「久しぶりに見た」

「感傷に浸るな。捕まるぞ」

 

 ソーセキは少しだけ首を傾げた。

 

「……でもあれは、猫を捕まえるために来た顔ではないね」

「顔でわかるのか」

「人間は嘘をつく。けれど急いでいる時は、足の方が正直だ」

 

 意味はわからないが、たしかにソーセキの言っているとおりであった。

 

「……。…………。」

「…………。…………。……。」

 

 わたしにはわからない何事かを言い合いながら、Gフォースの人間はわたしたちに関心をなくしたかのように先を急いだ。

 彼らはショッピングモールの中に入ってきた。

 ざっ。

 ざっ。

 ざっ。

 重い足音が、床を震わせる。泥が残って知らない匂いが広がる。

 火薬。汗。金属。雨。薬。恐怖。そして、でかいのの匂い。この人間たちはそれを連れてきたわけではないが、その匂いの中を通ってきたのだとわかった。

 わたしは低く身を伏せた。

 

 ショッピングモールの奥から、猫たちの気配がざわめいた。

 カストルとポルクスの声がする。モモコの低い声もした。

 

「静かに」

 

 と言っているようだった。

 静かに。それはわたしも賛成である。

 

 だが、人間たちは静かではなかった。彼らは短い言葉を交わしながら進む。

 光を壁に当てて床を見る。天井を見る。店の奥を見る。時々、手元の光る板を確認する。

 突然ソーセキが呟いた。

 

「地下反応……残存個体……退避……爆撃」

「おい作家。おまえ、何を言っている」

 

 不審なことを言う猫である。わたしが訊ねると、ソーセキは耳を澄ませながら答えた。

 

「人間たちの会話を聞いている。あまりよくない言葉だね」

「おまえ、人間の言葉がわかるのか。よくない言葉とはなんだ。もっと役に立つように言え」

 

 ソーセキは、珍しくまばたきを忘れていた。

 

「この場所は、もうすぐ壊されるかもしれない」

 

 この場所が壊される? その言葉に、わたしはソーセキを見た。どうして、そして誰にだ。

 その時、人間の一人がこちらに一歩近づいてきた。

 若い人間だった。声が他の人間より少し柔らかい。彼は黒い道具を下げて片方の前足をゆっくり伸ばし、

 

「おいで」

 

 と言った。

 わたしはその言葉を知っている。さとみも言っていた。キャリーを前に置いて、床に伏せて、震える指を伸ばして。

 おいで。その言葉の後にキャリーがあり、扉に隔てられ、わたしは家に置き去りにされた。そのことを思い出したわたしは、背を丸めて唸りながら牙を見せた。

 わたしの威嚇に若い人間は動きを止め、声を張り上げて奥の仲間に言った。

 

「……、………………。」

 

 別の人間が何か怒ったように返す。

 

「………………。」

「………………………………。」

「…………………………。…………………………。」

 

 ……何と言っているのか、わたしには詳しくはわからない。

 人間の言葉がわかるらしいソーセキに訊ねると、ソーセキは猫の言葉に翻訳した。

 

「若い方は『猫が可哀想』だと言っているが、相手は『猫なんて放っておけ』と言っている。でもあまり時間がないらしい」

 

 可哀想? なにが可哀想なのだ。人間風情に哀れまれる筋合いはない。それに時間がないとは何の話だ。

 若い人間と仲間はそれからもしばらく話していたが、やがて結論が出たようだった。

 若い人間は、黒い道具を背中の方へずらした。代わりに、両方の前足を広げる。敵意はない、とでも言いたいらしい。

 それがまず間違っている。人間という生き物は、前足を広げれば相手が安心すると思っている節があって、さとみも時々そうしていた。だが猫にとって、大きな生き物が前足を広げるというのは捕まえる準備に他ならない。

 

「…………。……、…………」

 

 若い人間が何か言った。

 ソーセキが耳を動かす。

 

「出ていけ、というよりは、外へ逃げろ、だね」

「同じではないか」

「人間にとっては違うらしい」

「人間の違いなど、猫には関係ない」

 

 わたしは低く唸った。

 若い人間は、わたしから少し離れたところで膝をついた。そして、入口の外を指さした。

 外。濡れた道。壊れた車。焦げた建物。犬の匂い。でかいのの匂い。空。

 冗談ではない。

 せっかく屋根と餌と、たいへん不満ながらも寝る場所を見つけたというのに、なぜまたあそこへ戻らなければならないのか。人間は、猫が雨に濡れると毛がどれほど不愉快になるかを知らないのだろうか。知らないのだろう。人間だから。

 

 若い人間は、さらに奥の猫たちにも気づいたらしい。

 光がペット用品店の棚をなぞった。暗がりに隠れていた猫たちの目が、いくつも光る。子猫が小さく鳴いた。片耳の猫が低く唸った。カストルとポルクスが、モモコの前へ出た。

 

「……、猫が多い」

 

 これは、わたしにも少しわかった。

 人間の声には、驚きと焦りの匂いが混じっていた。若い人間は仲間に向かって早口で何か言った。別の人間が苛立った声を返す。ソーセキが小さく訳す。

 

「若い方は、できるだけ外へ逃がしたいと言っている。相手は、時間がないと言っている。爆撃まで、あまり時間がないらしい」

「またその言葉だ。ばくげきとは何だ」

「空から人間が火を落とすことだと思う」

「なぜそんなことをする」

「ここを壊すためだろうね」

 

 ソーセキは、まるで明日の天気でも言うように言った。

 わたしは彼を見た。

 

「おまえは今、たいへん恐ろしいことを言った自覚があるのか」

「あるよ」

「ある顔ではない」

「作家は恐怖も観察する」

「今は観察するな。逃げ方を考えろ」

 

 その時、若い人間が手を叩いた。

 ぱん。音がショッピングモールに響いた。

 猫たちが一斉に身を低くした。わたしの鈴が、ちり、と鳴りかける。わたしは首を固めた。たいへん疲れる。こんなものを首につけて生きるとは、過去のわたしはなんと優雅で、なんと愚かだったのだろう。

 ぱん。ぱん。

 若い人間は、入口の外へ猫たちを外へ出そうとしているらしい。手を叩き、声を出し、光を奥へ向ける。別の人間が自動扉の近くに回り、開いた隙間を広げようとしている。

 つまり、ここから猫たちを追い出そうとしている。

 

 猫たちは、外へは行かなかった。

 当然である。外には雨の名残があり、犬がいて、空があり、でかいのがいる。猫は危険な方へ素直に走るほど愚かではない。少なくとも、猫自身はそう思っている。

 最初に動いたのは、子猫を抱えた三毛だった。入口とは逆の方向、ショッピングモールの奥へ走る。それを見た別の猫が続く。片耳の古参が棚の下へ滑り込み、首輪跡の灰色の猫が看板の影の方へ跳んだ。猫たちが、蜘蛛の子を散らすように次々と通路へ逃げてゆく。

 カストルが叫んだ。

 

「奥へ!」

 

 ポルクスも叫んだ。

 

「餌場を守れ!」

 

 どちらなのだ。奥へ逃げるのか、餌場を守るのか。彼ら自身もわかっていない顔である。

 モモコだけは、高い場所にいた。ペットシーツの山の上で、青い目を細くして人間たちを見ている。尻尾の先だけが、ゆっくり左右に動いていた。

 

「騒ぐんじゃない」

 

 モモコの声が通り、猫たちは一瞬だけ動きを止めた。

 すごいと思ったが、同時にたいへん気に入らないと思った。

 あの猫の命令は、餌や雨よりも強い。少なくともこのショッピングモールの中では。

 だが次の瞬間、人間の光がモモコの顔を照らした。モモコの青い目が白く光る。

 

「……ふん」

 

 モモコは牙を見せなかった。ただ、ひどく静かに背を高くした。長い毛が膨らみ、ふさふさの尻尾が持ち上がる。その姿は美しく、愚かで、危なかった。

 モモコが言った。

 

「おまえたち人間が捨てた場所だ。今さら何のつもりで戻ってきたんだい」

 

 もちろん、人間には通じない。

 若い人間は、モモコを捕まえようとしたのではない。たぶん、近づいて逃がそうとしただけである。だが、大きな人間が一歩踏み出すだけで、猫には十分すぎる。

 カストルとポルクスが同時に飛び退いた。

 古参たちが奥へ走る。

 子猫が悲鳴のような声で鳴く。

 棚の上から袋が落ち、床にぶつかって破れた。キャットフードの粒が散らばる。こんな時でも、わたしの腹はそれに反応した。腹とは実に下品な器官である。

 

「走れ」

 

 ジャックの声がした。いつのまにかこちらに戻っていた。彼はわたしの横を駆け抜けながら、短く言った。

 

「奥は混む。横だ」

「横?」

「従業員用の扉だ。作家!」

 

 ソーセキは、すでに動いていた。

 意外であった。普段あれほど動かない猫が、こういう時だけ妙に正しい方向へ走っている。丸い体を低くし、広告板の裏から通路脇へ、倒れた案内板の影へ、そこから銀色の扉へ向かう。

 扉には人間の文字が書いてあった。わたしには読めない。

 

「どこへ行くのだ」

 

 わたしは走りながら訊いた。

 

「裏側だよ」

 

 ソーセキが答えた。

 

「人間の巣箱には、必ず裏側がある。客が見る場所と、客でない者が通る場所だ」

「わたしたちは客ではないのか」

「今は違うと思う」

 

 たいへん失礼である。

 背後で、人間たちの声が大きくなった。手を叩く音。光。猫の鳴き声。モモコの命令。カストルとポルクスの情けない叫び。餌袋の破れる音。

 ショッピングモールが、一斉に毛を逆立てたようだった。

 ジャックが銀色の扉の下に体を滑り込ませた。扉は少し歪んでいて、床との間に隙間があった。ソーセキが続く。わたしも入ろうとした。

 その時、首の鈴が扉の端に当たった。

 ちりん。

 鳴った。

 わたしは固まった。

 遠くで、カストルの声がした。

 

「鈴!」

 

 この状況でよく聞いているものである。実に腹立たしい忠誠心だ。

 人間の光がこちらへ動いた。

 

「猫がそっちへ行った!」

 

 若い人間の声。ジャックが扉の向こうから低く唸った。

 

「早くしろ、鈴つき!」

「鈴つきと呼ぶな!」

 

 わたしは腹を床につけ、ひげを押し曲げ、肩をねじ込み、無理やり隙間を抜けた。尻尾の先が引っかかったが、力ずくで引き抜く。たいへん不格好だったが、誰にも見えていない。見えていないことにする。

 

 

 扉の向こうは暗くて、表のショッピングモールとは違う匂いがした。

 埃。油。古い水。段ボール。機械。人間の汗。古い食べ物。消毒液。そして、もっと下から上がってくる、重く湿った匂い。

 ソーセキが鼻をひくつかせた。

 

「地下へ続いている」

「なぜ地下へ行く」

 

 わたしは言った。

 

「上へ行くべきではないのか。猫は高いところへ行くものだ」

 

 ジャックは暗がりの奥を見た。

 

「上は猫だらけだ。人間も来る。下の方がまだ空いてる」

「下は嫌だ」

「俺も嫌だ」

「ではなぜ行く」

「他に道がねえからだ」

 

 ジャックの判断は、いつも身も蓋もない。

 背後で扉が揺れた。人間が近づいている。表側の光が隙間から差し込んだ。わたしは反射的に奥へ進んだ。

 通路は狭く、両側には人間の箱や袋が積まれている。床は冷たい。ところどころ水が溜まり、わたしの足裏を濡らす。天井は低く、管が走り、どこかで水がぽたりと落ちている。

 ソーセキは先頭を歩いていた。

 

「おまえ、道を知っているのか」

「昔、少しだけ迷い込んだことがある」

「その時はどうなった」

「迷った」

「役に立たない情報だな」

「だが、迷った経験は物語になる」

「今は物語になるな。道になれ」

 

 ソーセキは少し考えた。

 

「こっちだと思う」

「思う?」

「断言は危険だ。作家は可能性を残す」

 

 わたしはジャックを見た。こいつを先頭にして本当に大丈夫なのか。

 言外の懸念を察して、ジャックは答えた。

 

「俺よりはこの建物にくわしい」

「つまり、大丈夫ではないということだな」

「そうとも言う」

 

 背後で、また人間の声がした。遠いが、近づいているようにも聞こえる。

 わたしたちは走った。広告の裏。灰色の廊下。倒れた台車。半開きの扉。非常灯の赤い光。人間が残した白い布。床に散らばった小さな金属。どれもわたしの知らないものばかりだった。

 やがて、下へ続く階段が現れた。

 暗い階段である。空気が重く冷たいはずなのにどこか生ぬるくて、下から甘く腐った匂いが上がってくる。

 わたしは足を止めた。

 

「この匂いは何だ」

「…………。」

 

 ソーセキは答えなかった。

 隣を見るとジャックの背中の毛が逆立っている。彼がこんな表情をする時は、たいてい犬のような悪いものがいる。

 

「戻るか」

 

 わたしは小さく言った。

 その時、後ろの通路の向こうで光が揺れた。人間だ。戻れない。

 ジャックが階段を一段下りた。

 

「行くぞ」

「下は嫌だと言った」

「俺も嫌だな」

「だったらやめてはどうか」

「でも行くんだよ」

 

 わたしはまったく納得しなかったが、納得と生存は別の問題である。

 ソーセキが階段を下り始めた。ジャックが続く。わたしは最後に、背後の光を一度だけ見た。

 ……わたしは、また箱の中から逃げている。そう思ったら少しだけ腹が立った。

 だから、わたしは階段を自分の足で下りた。首の鈴が、暗い地下に小さく鳴った。

 

 

 階段を下りきると、そこは広い場所だった。

 天井が低くて柱が多い。床が濡れており、空気も重い。

 

 そこには人間の鉄の箱が、いくつも並んでいた。車である。

 ただし、外で見たものより、さらにひどい有様だった。横倒しになっているもの。鼻先を壁にめり込ませているもの。腹を裂かれたように中身をこぼしているもの。人間はこんなものに乗って走っていたらしいが、今ではどれも大きな死んだ虫のように見えた。

 地下は雨の匂いがしなかったが、代わりに別の匂いがした。

 古い水。

 油。

 金属。

 焦げたゴム。

 かび。

 人間の残した食べ物。

 そして、その下に、もっと濃く、もっと生ぬるい匂いがある。

 わたしは鼻にしわを寄せた。

 

「なんだ、この匂いは」

 

 ジャックは答えなかった。

 彼は前へ進まず、低く身を伏せていた。尻尾が床に近い。耳は後ろに倒れ、目だけが暗がりの奥を見ている。

 その顔を見て、わたしはたいへん嫌な気持ちになった。ジャックが黙る時は、たいてい悪い。ジャックが悪態をつかない時は、もっと悪い。

 わたしはソーセキを見た。

 

「作家、おまえはこの場所を知っているのだろう。何か言え」

 

 ソーセキは、階段の下で立ち止まっていた。

 いつものようにぼんやりしてはいなかった。目を開き、鼻をひくひく動かし、耳を少しずつ動かしている。その姿は、見張りの時よりよほど見張りらしかった。

 

「地下にある駐車場だね」

「それは見ればわかる」

「人間が自動車を眠らせておく場所だ」

「自動車は死んでいるように見えるが」

「今はね」

「今でなくても、あまり生きているようには見えない」

 

 わたしが言うと、ソーセキは返事をしなかった。

 彼は奥を見ていた。地下駐車場のさらに奥。壊れた車の向こう。非常灯の赤い光が届くか届かないかという場所。

 

 そこに、何かがあった。

 

 ……最初、わたしはそれを白い石だと思った。

 大きな石である。丸く、濡れていて、床にいくつも転がっている。

 だが、石は匂わない。石は温かくない。石は呼吸しない。翻ってそれは匂うし、ほのかな温もりがあって、呼吸していた。

 思わずわたしが一歩下がった途端、首の鈴が、ちり、と小さく鳴った。その音が地下に響いた瞬間、ジャックが振り向いて牙を見せた。

 

「鳴らすな」

「わざとではない」

「わざとじゃなくても鳴るから困るんだよ」

 

 たいへん正しいことを言われたので、わたしは言い返せなかった。

 ソーセキが低く言った。

 

「近づかない方がいい」

「何なのだ、あれは」

 

 わたしは訊いたが、ソーセキはすぐには答えなかった。

 彼は、床に並ぶ白いものを見ていた。ひとつ、ふたつ、みっつ。いや、そんな数ではない。車の陰にもある。柱の裏にもある。搬入口へ続く広い通路にもある。床の水に半分浸かったものもあれば、ぬるぬるした膜に包まれて壁際に寄りかかっているものもある。

 無数、と言ってよかった。

 

 猫の目には、暗がりの中でもそれらが見えた。

 白く、灰色で、ところどころ青黒く、薄い膜の下で何かが動いている。

 ソーセキが呟いた。

 

「卵だ……!」

 

 卵。わたしはその言葉を知っている。

 いつも休日の朝にさとみが食べていた。白くて丸く、割ると黄色いものが出てくる。さとみはそれを火にかけて、時々焦がした。人間は卵すらまともに扱えない。

 だが、目の前のこれは違う。さとみの皿に乗る大きさではないし、猫が転がして遊べる大きさでもない。

 これは、車の腹より少し小さく、猫よりずっと大きい。つまり、食べ物としてはまったく不適切な大きさであった。

 

「卵? 何の」

 

 わたしのつぶやきに、ジャックが低く唸った。

 

「聞くまでもねえだろ」

 

 地下の奥で、音がした。

 ぬち。

 湿った音だった。わたしの耳が勝手に後ろへ倒れた。わたしはそれを見た。

 見てしまった。

 ぬち。

 ぬち。

 ぱき。

 一番近くの卵に、細い亀裂が入っていた。

 膜の向こうで、何かが動いている。魚でも虫でもない。鳥でもない。犬でもない。もちろん猫でもない。細長いものが丸まって、内側から白い殻を押している。

 そのたびに、脈を打つように卵の表面が膨らむ。ソーセキが言った。

 

「今にも孵りそうだ」

「孵るな」

 

 わたしは言った。当然の命令であるが、卵はわたしの命令を聞かなかった。

 ぱき。

 亀裂が広がる。

 生ぬるい液体が、殻の割れ目から床へ垂れた。水たまりに落ち、油の膜を押し広げる。その匂いが鼻に入った瞬間、わたしは吐きそうになった。

 生き物の匂い。

 血の匂い。

 熱の匂い。

 肉の匂い。

 そして、でかいのと同じ匂い。

 ただし、ずっと小さい。小さいが数が多い。

 これはたいへんまずいと直感的に理解した。

 

「戻るぞ」

「戻る?」

 

 ジャックに言われ、わたしは背後を見た。

 階段の上からは、人間たちの声が遠く聞こえていた。光もちらついている。上へ戻れば人間がいる。モモコがいる。カストルとポルクスがいる。混乱した猫たちがいる。

 そして下には卵がある。世界というものは、なぜいつもわたしたち猫に対して選択肢を間違って用意するのだろう。

 

「どこへ戻るのだ」

「どこでもいい。ここ以外だ」

 

 ジャックがそう言った時、地下のさらに奥で別の卵が揺れた。

 ひとつではない。

 ふたつ。

 みっつ。

 もっと。

 白い塊たちが、ゆっくりと動き始めていた。床に溜まった水が、小さく波を立てる。赤い非常灯の下で、卵の膜がぬらぬらと光る。

 ソーセキが呟いた。

 

「地下反応。残存個体。退避。爆撃」

「今それを繰り返してどうする」

「人間たちは、これを知っていたんだ」

 

 ソーセキは卵を見たまま言った。

 

「だから猫を外へ出そうとした。ここはもう、ただのショッピングモールではない」

「では何だ」

 

 ソーセキはいつものように少し考えたが、今度は芝居がかった顔をせず大作だの構想だのと言わなかった。

 ただ、低い声で言った。

 

「……怪獣の巣だ」

 

 その言葉が地下の湿った空気に落ちた。

 人間の巣であり猫の王国となった場所。その足下に、もっと大きな何かの巣があった。

 不意にわたしはモモコのことを思い出した。餌場を守り、順番を決め、高い場所に座り、ここは自分のものだという顔をしていたあの美しい毛並みを誇る猫。

 だが、その足元ではこんなものが育っていた。モモコは知らなかったのだろうか。あるいは、知りたくなかったのだろうか。

 ……などと、そんなことを考えている場合ではなかった。

 

 ぱき。

 一番近い卵の亀裂から、黒い爪のようなものが出た。

 

 小さいが猫のそれより長い爪が、床を引っかきぬるりと動く。

 わたしは全身の毛を逆立てた。

 

「走れ!」

 

 ジャックが叫んだ。

 その声で、わたしの体は考えるより先に動いた。卵の並ぶ奥へ進むのではない、もと来た方へと引き返す。

 ジャックは左へ跳んだ。倒れた車と柱の間に細い隙間がある。そこへ体を滑り込ませる。

 ソーセキが続いた。普段は寝てばかりいるくせに、こういう時は意外と素早い。作家は逃げる構想だけは練っていたのかもしれない。

 わたしも続いたが、足元の水に肉球が滑った。

 首の鈴が鳴る。

 

 ちりん、ちりん、ちりん……

 

 地下でその音はあまりにも澄んで聞こえ、卵の中のものたちが一斉に動いた気がした。

好きなキャラクター

  • サリー
  • ジャック
  • モモコ
  • ソーセキ
  • カストルとポルクス
  • さとみ
  • Gフォース隊員
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