吾輩は猫である、ただしゴジラが来たせいで飼い主に置いてかれて死にそうです 作:よよよーよ・だーだだ
わたしたちは地下駐車場の水たまりを蹴り、倒れた車の腹の下をくぐり、柱の陰を抜けた。背後では、まだ卵の割れる音がしている。
ぱき。
ぬち。
ぱき。
たいへん聞きたくない音である。聞きたくない音というものはどうして耳に残るのだろう。聞きたい音、たとえば皿に餌が落ちる音やさとみが冷蔵庫を開ける音はいつも足りないのに。
前を行くジャックが叫んだ。
「走れ、鈴つき!」
「鈴つきと呼ぶな!」
ソーセキは意外にも先を走っていた。丸い体を低くし、非常灯の赤い光の下をすり抜けていく。普段あれほど怠惰に眠ってばかりいるくせに、逃げ道だけは妙に知っている。
「こっちだ」
「本当にこっちなのだろうな」
「たぶん」
「たぶんで命を扱うな」
「物語はいつも、たぶんで進むものだよ」
「今は物語ではない!」
階段が見え、わたしたちは駆け上がった。下から生ぬるい匂いが追ってくる。あの卵の匂い。まだ生まれていない、いや、もう生まれかけているものの匂いだ。
わたしの肉球は滑り、足は痛み、首の鈴は何度も鳴りそうになった。鳴らないように首を固めると走りにくい。走りやすくすると鳴る。さとみはなぜ、こんな道具をわたしの首につけたのか。愛情というものは時にとても迷惑である。
やっと上の通路に出ると空気が変わった。
埃。段ボール。消毒液。人間の汗。古い食べ物。
その中に、猫の匂いがあった。
たくさんの猫の匂いである。
恐怖の匂い。怒りの匂い。濡れた毛の匂い。子猫の匂い。カストルとポルクスの偉そうな匂い。そして、その奥に、あの甘く手入れされた長い毛の匂い。
モモコの匂いだ。ジャックが言った。
「上に逃げたな」
「なぜ上なのだ」
「猫だからだ。猫は怖くなったら高いところへ行く」
「それは正しい」
わたしは認めた。
猫は高いところへ行く。高いところはよい。万物を見下ろせるし、逃げ道も見える。下にいる愚かなものたちを眺めるのにも向いている。
だが、今は違う。下にいたのは愚かなものではなかった。
卵である。
怪物の卵である。
しかも、今にも孵りそうな卵である。『高いところへ行けば安全』という決まりごとは、どうやら今だけ嘘になっている。
わたしたちは猫たちの匂いを辿って走った。従業員用の細い階段を上がり、半開きの扉を抜け、暗い廊下から表の明るい場所へ出る。
そこは、広い食べ物の匂いのする場所だった。
丸い机がいくつもあり、椅子が倒れ、床には乾いた米粒や割れた透明な器が散らばっている。店の奥からは、古い油と焦げた肉の香ばしい残り香がした。大きな窓の外には上がったばかりの雨に濡れた灰色の街が見える。
「ここは何だ」
わたしが訊くと、ジャックが短く答えた。
「レストランだな」
「れすとらん?」
「人間がそこらに座って、飯を食う場所だ」
「飯を食うためだけに、これほど広い場所を作ったのか」
「人間だからな」
飯なら皿に入れて、猫の前に置けばいい。それだけのことに、なぜ机や椅子や店や窓が必要なのか。やはり人間は、狩りの才能を失った代わりに無駄な巣を作る才能だけを伸ばした生き物である。
そして、その一番高い場所に、モモコがいた。
窓際の長いカウンターの上で、白っぽい長毛を整え、焦げたような顔で、青い目だけを光らせている。
その下に、猫たちが集まっていた。椅子の陰。テーブルの下。返却台の裏。閉まった店のカウンターの奥。子猫を抱えた三毛。片耳の古参。首輪の跡が残る灰色の猫。年寄り。みな身を低くしていた。
カストルとポルクスは、止まった黒い階段の前にいた。右耳の先が白い黒猫と、左前足の先だけが白い黒猫。どちらがカストルでどちらがポルクスだったか、わたしはまだ時々わからなくなる。本人たちも、モモコがいなければわからないのではないか。
そのカストルだかポルクスだかわからない両者が、わたしたちを見るなり叫んだ。
「鈴!」
「また鳴らしたな!」
わたしは足を止めなかった。
「それどころではない」
自分でも少し驚くほど低い声が出て、カストルとポルクスが目を丸くした。わたしが彼らの言葉を退けたことに心から驚いた顔である。この期に及んで鈴の心配をしているとは、たいへん見上げた忠誠心だ。見上げたくはないが。
「決まりを破ったぞ!」
「モモコの前で!」
「だから、それどころではないと言っている!」
わたしが牙を見せると周りの猫たちがざわめいた。わたしがカストルとポルクスに牙を見せたからではない。最下層のわたしが、モモコの決まりごとを鼻先で押しのけたからだ。
モモコが、ゆっくりと尻尾を動かした。
「ずいぶん騒がしい帰り方だね」
その声は静かだった。静かすぎて、腹が立った。
地下には卵があって今にも孵る。人間はこの場所を壊すと言っている。なのにモモコはまだカウンターの上で、優雅な女王の体裁を保っていた。
わたしは言った。
「逃げるべきだ」
レストランが静かになった。
猫たちの目が、いくつもこちらを向く。カストルとポルクスも黙った。ジャックがわたしの横で舌打ちした。ソーセキは息を整えながら、わたしの後ろに立っていた。
わたしは言葉を並べた。
「この場所は危険だ。地下に卵がある。でかい卵だ。今にも割れそうだった。人間たちはそれを知っている。だからここを壊すつもりだ。ソーセキが聞いた。地下反応。残存個体。退避。爆撃。そう言っていた」
自分でも、うまく説明できているのかはわからなかった。そもそも猫は会議に向いていない。猫は必要な時に噛み、必要な時に逃げ、必要な時に寝る生き物である。説明や会議など人間が好む面倒な作業だ。
そのときソーセキが口を開いた。
「
猫たちが、いっせいにソーセキを見た。
「かいじゅう?」
「何だ、それは。食えるのか」
「食えないと思う」
カストルとポルクスに訊ねられ、ソーセキは答えた。
「人間がそう呼ぶんだ。街より大きく、家を踏み、火や水や尻尾で人間の作ったものを壊すもの。人間たちの物語では、そういうものを怪獣と呼ぶ」
「物語の話をするんじゃない、役立たずめ」
「物語の話じゃない、現実の話だよ」
カストルに口を挟まれてもソーセキは続けた。
「地下にあったのは、怪獣の卵だ。多分、外のでかい奴の子供だ」
猫たちはざわめいたが、そのざわめきには恐怖よりも困惑が多かった。
無理もない。猫は卵を知っている。鳥の卵なら知っている猫もいるだろう。人間が食べる卵の匂いを知っている猫もいる。
だが、家より大きなものが卵から出てくるなど誰が信じるだろう。わたしだって、この目で見ていなければ信じなかったはずだ。
ソーセキの言葉を継いで、わたしは続けた。
「ここはもう、家ではない。餌場でもない。王国でもない。あのでかい奴の巣だ」
猫たちのあいだでざわめきが広がった。
「でかい奴の卵?」
「地下?」
「そんな匂い、ここまでは来ていない」
「人間がいなくなれば戻れるんじゃないのか」
「さっきも人間が来ただけだろう」
「ここは高い。地下とは違う」
「外の方が危ない……」
猫たちの声があちこちから上がり、わたしは耳を伏せたくなった。
なぜわからないのだ。
地下にある危険は、地下だけに礼儀正しく留まってはくれない。卵は孵る。人間は火を落とす。床は割れるかもしれない。天井は落ちるかもしれない。
だが、猫たちは床が今まだ床であることを信じていた。天井が今まだ天井であることを信じていたし、餌場が昨日まで餌場だったなら明日もまた餌場であると信じていた。
わたしはそれを責めきれなかった。
わたしも、さとみが毎朝起きて世話をしてくれると信じていた。皿が満ちると信じていたし、水が澄むと信じていた。家が、ずっと快適な家であると信じていた。信じていたものが嘘になる時、猫はすぐにはそれを受け入れられない。
そんな猫たちを眺めながら、モモコが小さく笑った。
「……面白い話だね」
「面白くない」
わたしは真剣に言うのだが、モモコは鼻で笑っている。
「地下に怪獣の卵。人間はここを壊す。だから、みんな外へ逃げろ、ときたか」
モモコはゆっくりと首を傾げた。長い毛が肩に流れる。
「そして、この場所を空にしろ、と」
わたしは耳を立てた。
「何を言っている」
「このショッピングモールを捨てろと言っているんだろう」
「ショッピングモールどころではない」
「そうかい?」
モモコの青い目が細くなった。
「あんたたちは地下へ行った。人間の言葉を聞いたという。だが、おまえたちが見て聞いたと言うものは、ここにいる他の誰も見ていない。証拠はない。あるのは、鈴を鳴らして人間を呼び寄せた新入りの言葉だけだ」
カストルとポルクスが、ここぞとばかりに頷いた。
「鈴を鳴らした!」
「人間を連れてきた!」
「黙れ」
わたしに一蹴されて二匹は本当に黙った。少しだけ気分がよかった。
だが、モモコは黙らなかった。
「あんたは、この場所が欲しいんじゃないのかい」
「は?」
「最初に来た時からそういう顔をしていたよ。屋根がある。餌がある。水がある。ここは自分にふさわしい、とね」
わたしは言葉に詰まった。それは少しだけ本当だったからだ。
ほんの少しだけである。猫の真実とはたいてい小さくて迷惑な場所に隠れている。
モモコは続けた。
「今度は危険だ何だと言って、人間を使って私たちを追い出すつもりかい。ずいぶん狡賢くなったものだね、鈴つき」
「鈴つきと呼ぶな」
反射で言い返したが、声に力が入らなかった。モモコは間違っている。間違っているが、完全にでたらめではない。
わたしはこの場所を見た時、たしかに新しい家にふさわしいと思った。わたしが治めるにふさわしいとさえ思った。もしあのまま誰もいなければ、きっとそうしていただろう。
だから腹が立った。モモコにではない。少しだけ、過去のわたしにだ。
ソーセキが前へ出た。
「モモコ」
彼の声は、いつもより静かだった。
「本当だよ。地下にある。卵だ。もう割れかけている。人間たちは、それを消すために来たんだ」
モモコはソーセキを見た。
「ソーセキ、あんたは昔から、大げさな話が好きだったね」
「そうだね」
「今度の大作は、王国滅亡と怪獣の物語かい」
「物語だったらどれだけよかったか」
そのときレストランの奥で、子猫が鳴いた。その声は小さかった。あまりに小さくて、かえってよく聞こえた。
モモコは一瞬だけそちらを見たが、すぐに顔を戻した。
「人間はいずれ出ていく。いつもそうだ。音を立てて、光を振り回して、飽きればいなくなる。そうしたら戻ればいい。餌場を整え、順番を戻し、見張りを立てる」
「何も元には戻らないぞ」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
さとみの足音。空になった皿。埃の浮いた水。匂いの薄れたベッド。元に戻らないものを、わたしは知っている。だから言えたし、言いたくなかった。
モモコはわたしを見下ろした。
「戻るよ」
その声は、やさしいくらいだった。
「戻さなければならない。ここには決まりがある。順番がある。餌場がある。水場がある。外に出れば犬がいる。雨が降る。人間がいる。あのでかいものもいる。ここを離れてどうするんだい」
猫たちは、少しずつ頷いた。
「そうだ」
「外は危ない」
「ここにはまだ餌がある」
「人間が消えれば大丈夫だ」
「なによりモモコがいる……」
その最後の声を聞いた時、モモコの尻尾がほんの少しだけ揺れた。満足したのか、怯えたのか、わたしにはわからなかった。
ジャックがわたしの横で低く言った。
「……もういいだろ」
わたしは彼を見た。
「何がだ」
「こいつらは逃げねえ」
「まだわからない」
「本当はわかってるのさ。わかりたくねえだけだ」
ジャックの声には、怒りも哀れみもなかった。
ただ、事実があった。
「こんな奴ら、放っておいて逃げようぜ」
レストランの空気が、少し冷えた。
こんな奴ら、という言葉で何匹かの猫がジャックを睨んだ。カストルとポルクスが怒ったように毛を膨らませる。モモコは笑わなかった。
「しかし……」
わたしは、すぐには答えられなかった。ジャックは正しい。正しいことを言う猫はたいてい優しくない。
地下では怪物の卵が割れかけている。人間は火を落とすかもしれない。ここで言い争っている間に状況はどんどん悪くなってゆく。猫は、自分の足で逃げるしかない。こんなわからず屋どもなど見捨てて、自分たちだけでも逃げるべきだ。
だが、テーブルの下には子猫がいた。
怪我をした猫もいた。
ソーセキがいた。
モモコさえいた。
わたしはモモコが嫌いだ。その腰巾着のカストルとポルクスはもっと嫌いだ。この王国の決まりごとも、裁判も、餌の順番も、入口近くの寝床を押し付けられたことも、全部まとめて気に入らない。
それでも、他の猫に「勝手に死ねばいい」と言えるほどわたしはまだ野良にはなれていなかった。
「もう一度だけ言う」
わたしは言った。
ジャックが目を細め、わたしはモモコを見上げた。
「モモコ。王国を守りたいなら、生きていなければならない。餌場を守りたいなら、腹が動いていなければならない。順番を戻したいなら、明日がなければならない。このままここにいればその明日がなくなる」
モモコの青い目が、わずかに揺れた。
それはほんの一瞬で、すぐに彼女はいつもの顔に戻った。高い場所にいる猫の顔。下にいるものを裁く顔だ。
「新入りが、ずいぶん偉そうにほざくじゃないか」
「偉いからな」
わたしは言った。
これは、昔ならただの当然だったが、今は少しだけ虚勢だった。
それでも言った。
「だが今は、わたしが偉いかどうかなどどうでもいい。とにかく逃げるんだ」
沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、モモコではなかった。
遠くから、金属を踏む重い音がした。
ざっ。
ざっ。
ざっ。
人間の足音である。
レストランの猫たちが一斉に身を低くした。テーブルの下で子猫が小さく鳴く。カストルとポルクスは、どちらへ威張ればよいのかわからない顔で、あたりを見回した。
わたしは首を動かさないようにしたかったが、もう遅かった。
ちりん。
鈴が鳴った。
ほんの小さな音だったが、今のわたしには雷よりも大きく聞こえた。
ジャックが舌打ちした。
「ほら来た」
「わたしのせいではない」
「今のはどう考えてもおまえのせいだ」
「首が鳴っただけだ。わたしではない」
「おまえの首の鈴だろうが」
たいへん不利な指摘だったので、わたしは黙った。
足音は近づいてくる。それだけではない。白い光が、止まった黒い階段の下から揺れた。人間の声もする。
「……猫の鈴だ。こっちだ……!」
わたしには言葉のすべてはわからなかったが、「猫」と「鈴」は少しわかった。少しわかっただけで十分すぎるほど腹立たしかった。
ソーセキが低く言った。
「追ってきたね」
「言われなくてもわかる」
「鈴の音は、人間には道しるべになるんだよ」
「今それを説明されても困る」
やがて、灰色と黒の人間たちが現れた。
さっきのGフォースである。硬い殻を頭にかぶり、透明な板を顔につけ、前足には黒く長い道具を持っている。泥と火薬と金属と汗の匂いが、食べ物の古い匂いの中に流れ込んできた。
先頭にいたのは、あの若い人間だった。
若い人間はわたしたちを見つけると、目を大きくした。レストランのあちこちに隠れている猫たちを見て、さらに目を大きくする。
「まだこんなにいる……」
その声には、焦りがあった。別の人間が何かを怒鳴った。
「…………! …………!」
若い人間が言い返す。
「…………、猫が……!」
「…………!」
人間たちの言葉は、ほとんどわからない。
だが、彼らが急いでいることは匂いでわかった。恐怖が汗に混じっていた。あの人間たちは猫を食べに来たわけでも、猫を撫でに来たわけでもない。
ソーセキが耳を立てた。
「時間がない、と言っている。退避。爆撃。地下の反応が増えた、とも」
「増えた?」
「たぶん、卵が割れ始めたんだ」
若い人間はモモコを見上げた。それからこちらを、テーブルの下の子猫を、返却台の裏の猫たちを見た。
それから彼は黒い道具を背中に回し、両方の前足を広げた。またそれである。大きな生き物が前足を広げるのは捕まえる準備にしか見えないと、なぜ人間は理解しないのだろう。
若い人間は手を叩いた。
ぱん。
大きな音で、猫たちがびくりと動く。
ぱん。ぱん。
若い人間は、入口の方、外へ続く方を指さしている。別の人間も大きな声を出し、光を床に走らせた。彼らは猫たちを外へ向かわせようとしているらしい。
人間の考えは、おそらくこうだ。ここは危ない。外へ逃げろ。早く。
だが猫たちに伝わったのは、こうである。人間が来て、わたしたち猫を外へ追い出そうとしている。
つまり、猫の敵である。
「動くんじゃない!」
モモコが叫び、その声で何匹かの猫が止まった。
やはりモモコの声は強い。このショッピングモールの中では時々恐怖よりも強い。
だが、若い人間の手がまた鳴った。
ぱん。
今度は、子猫が悲鳴を上げた。三毛が子猫をくわえて、テーブルの下から飛び出す。別の猫が厨房の方へ走る。片耳の古参が返却台の裏へ潜り込む。
「戻りな!」
モモコが言った。
「外へは行くんじゃない!」
「だから違う!」
わたしは思わず叫んだ。
「外へ行けと言っているのだ。人間はたぶん、今だけは、そのつもりなのだ!」
カストルとポルクスが叫んだ。
「人間の味方をするのか!」
「鈴つきが人間を連れてきた!」
「おまえたちは本当に鈴の話が好きだな! それどころではないと言ってい……」
わたしが牙をむいた、その瞬間だった。
下から、音がした。
ぱきん。
卵が割れる音に似ていた。
いや、似ていたのではない。卵の割れる音そのものだ。
ただし、地下で聞いた時よりも近い。
レストランの床が、かすかに震えた。
人間たちも気づき、黒い道具を構える。光が止まった黒い階段の方へ向く。
ジャックが低く言った。
「……来る」
空気が変わった。
地下の生ぬるい匂いが、階段の下から上がってくる。血の匂い。ぬめった匂い。卵の中身の匂い。生き物の匂い。
そして、細い足音。
しゅーしゅー、かちかち。
猫でも犬でもない。鳥でもない。人間でもない。それは、止まった黒い階段の陰から現れた。
最初に見えたのは、長い爪である。次に細い前足、そしてさらに濡れた頭が現れる。
爬虫類だ。
わたしはそう思った。
さとみの家のテレビに出てきた、水槽で飼われるトカゲに似た生き物。本来はトカゲやヘビの類を指す言葉であり、わたしたち猫からすると小さいものが多いが、目の前のこいつは水槽にも入っていないし小さくもない。
それは二足歩行をしており、猫より大きかった。犬よりも細く、犬よりも低く、犬よりも嫌らしい形をしていて、大きさは人間の背丈にも等しい。体はぬめった鱗のようなもので覆われ、背中には三列の尖った背鰭が並んでいる。細長い尾が床を叩き、口は横に裂けて鋭い牙がぎざぎざと並んでいた。
爬虫類がこちらへと振り向いた。
「なんだ、あれは」
カストルが震えた声でつぶやき、ポルクスが答えた。
「知らない。おまえが知らないなら、ぼくが知るわけがないだろう」
その二匹の会話は、わたしが見る限り初めて正直に語り合っているように見えた。
ジャックが言った。
「逃げるぞ」
爬虫類が、口を開けた。爬虫類の鳴き声は、鳥のようでも虫のようでもなかった。金属を引っかいたような、濡れた喉が裂けるような音だ。
若い人間が叫んだ。
「…………!」
人間の持っている黒い道具が一斉に爬虫類へ向く。
次の瞬間、光と音が弾けた。
だだだだだだだっ。
わたしの耳が潰れそうになった。
わたしは床に伏せた。世界中が鳴っていた。黒い道具から火が出て、爬虫類の周りの床が跳ね、椅子が砕け、窓が震えた。
猫たちは一斉に散った。
テーブルの下へ。
厨房の奥へ。
返却台の裏へ。
倒れた椅子の山へ。
どこでもいい。音と光と爬虫類から遠い場所へ。
モモコが叫んだ。
「静かに! 動くんじゃない!」
だが、誰も聞かなかった。
いや、聞こえなかったのかもしれない。人間の黒い道具が吐く音が、あまりにも大きすぎた。
人間の攻撃でも、爬虫類は倒れなかった。
床を低く走った。速い。あまりに速い。犬のように一直線ではない。猫のようにしなやかでもない。体をくねらせ、尾で椅子を弾き、床に爪を立て、光の隙間を縫うように進む。
若い人間の横にいた別の人間が叫ぶ間もなく飛び倒され、爬虫類がその人間の肩に噛みついた。
人間の匂いが変わった。汗。恐怖。血の匂い。わたしはそれらを嗅いでしまった。
人間も血を流す。そんな当たり前のことを、わたしはその時初めて本当に知った気がした。
若い人間が叫んで黒い道具を構える。別の人間が爬虫類を蹴ろうとする。爬虫類は尾を振り、その足を払った。椅子が跳び、割れた皿が舞い、古い米粒が床を滑る。
「こっちだ!」
ジャックが叫んだ。
わたしは走ろうとして、目の端に子猫が見えるのに気づいた。
テーブルの下で、三毛の口から落ちたのか、小さな毛玉がひとつ、床の上で固まっていた。爬虫類はまだ人間に向かっていたが、あの匂いならすぐに子猫にも気づくだろう。
わたしは一瞬止まり、ジャックが振り返った。
「鈴つき!」
「わかっている!」
わかっている。
逃げるべきだ。
自分の足で。
自分の命を持って。
だが、わたしの足は子猫の方へ向いていた。まったく、外の世界に出てからというもの、わたしの足は持ち主に相談せず勝手に動くことが増えた。たいへん困る。
わたしが一歩踏み出した時、別の影が子猫の前に滑り込んだ。
ソーセキだった。丸っこい作家は子猫の首の後ろをくわえ、驚くほど素早くテーブルの下へ引きずり込んだ。
「作家!」
わたしが叫ぶと、ソーセキは子猫をくわえたまま、こちらを見た。
その目は、いつものぼんやりした目ではなかった。
「脇役にも退場の順番がある」
「役に立つ言い方をしろ!」
「先に逃がす。君は先に逃げたまえ」
ソーセキはそう言って、子猫をくわえたまま厨房の奥へ消えた。
その時、爬虫類の目がこちらを見た。冷たくて、腹が減っている目だった。卵の中で動いていたものと同じ匂い。
わたしは全身の毛を逆立てた。
爬虫類が低く身を沈めたその姿は、猫が獲物に向かって跳ぶ前の形に似ていた。
似ているからこそ、最悪だった。
「走れ!」
ジャックが叫び、わたしは走った。
背後で、人間の黒い道具がまた火を吐いた。
レストランの窓が割れた。
モモコの声が聞こえた。
「戻りな! ここは私の――」
その先は、爬虫類の叫びと人間の火の音にかき消され、誰も振り返らなかった。
好きなキャラクター
-
サリー
-
ジャック
-
モモコ
-
ソーセキ
-
カストルとポルクス
-
さとみ
-
Gフォース隊員